逢いに行っても、いいですか? 1 午前七時。 身支度を整え、スーツをビシッと着こなしたとしあきは、家族に挨拶すると玄関を出て、駅へと歩き出す。 昨日までずっと振り続けていた雨も上がり、今朝は清々しい青空が広がっていた。 通勤路の途中には、双葉川堤防沿いに走っている舗装道路がある。 大通りへ通じる裏道のため、時間帯によっては二車線の割に車の通行量が多くなるのが欠点だが、 この時間はまだ比較的落ち着いている。 としあきは、近所の商店から買ったパンと牛乳を手にしながら、人通りのほとんどないこの道路を散歩 感覚で歩いていた。 双葉川は、少し水の色が濁ってはいるものの溢れてはおらず、相変わらず穏やかな流れだ。 何気なく河川敷を見下ろすと、背の高い草むらの一部が不自然に揺れている事に気付く。 なんとなく興味を惹かれて河川敷へ降りていくと、草を分けながら懸命に歩いている小さな影が 見つかった。 子供の実装石だろうか? どうやら随分と弱っているようで、その動きはふらふらと頼りない。 「どうした、お前?」 テチ? としあきに声をかけられ、仔実装は弱々しく振り返る。 泥や糞がこびりついた実装服、ボサボサで汚れ切った髪、張りのない肌、お世辞にもよろしいとは 言えない顔色、やつれた頬…そして、両手で大事に抱きかかえている、全身汚れた親指実装。 一匹だけだと思ったが、どうやら仔実装の姉妹だったようだ。 そのあまりにみすぼらしい姿に、一瞬声をかけたのを後悔する。 やがて、二匹がじっと手の中のパンを見つめている事に気付いた。 「お前達、何も食べてないのか?」 テチ…テチテチ… レチュ〜… 弱々しい鳴き声が返ってくる。 どうやら、自分を恐れたりはしていないようだし、意志の疎通もある程度出来そうだ。 実装石が人間の言語をある程度理解するという噂は、本当なんだと実感する。 としあきは、ハンカチで包んで二匹を橋桁の近くへ移動させると、食べていたパンを半分千切り取って 仔実装に差し出した。 テェ? 「食べていいよ、お腹空いてるんだろ?」 テェ…テチ、テチィ! レチュ? レチュレチュ? 本当にもらえるとは思ってなかったのだろうか、目の前に置かれたパンを見て驚いている。 目を剥いて両手を上げる仕草が、妙に可愛らしい。 欠片を取って姉仔実装の口元に近づけてやると、少しビクッとしてから齧り付いてくる。 テチュ〜ン♪ と満足そうな笑顔を浮かべる姉仔実装。 としあきは、途中で拾ったペットボトルの蓋を取ると、それを川の水で適当に洗い、飲みかけの牛乳を 注いでやった。 見ると、姉仔実装は自分が食べるより先に親指に食べさせようとしている。 としあきは、細かくしたパンの欠片を牛乳に浸して、「これを食べさせてご覧」と指示する。 パンを辛そうに食んでいた親指だったが、牛乳浸しの方を口に入れた途端、レチュ〜ン♪ と上機嫌になった。 としあきは、その様子に昔飼っていた子犬や自分の娘の姿を重ね合わせ、無意識に優しく微笑んだ。 出されたパンは、思ったよりも早く食べ尽くされてしまった。 まだ食べ足りない様子だったので、としあきは少し考えた後、残りも全部与えてやる事にした。 「まあ、これも何かの縁だからな。しっかり食べて元気になれよ」 テチ♪ テッチュー♪ レチレチ♪ 姉妹実装は、としあきに向かってきちんと頭を下げて礼をした。 野良の癖に、随分としっかり躾けられているようだ。 感心したとしあきは、指が汚れるのも構わずに、二匹の頭を撫でてやった。 そろそろ、時間がやばくなってきた。 としあきは、二匹に別れを告げると、駆け足で堤防を駆け上がる。 姉妹の実装石達は、後から与えられたパンに手を付けるより先に、としあきに向かって手を振り始めた。 ※ ※ ※ 滑り込みで始業に間に合ったとしあきは、自席に着くと、あの姉妹実装石の事を思い出した。 汚い身なりではあったが、とても賢くて礼儀を知っている良い仔達だった。 あまり実装石には詳しくないとしあきだったが、今まで抱いていたイメージとはかなり違うと思った。 結局朝食は食べ損ねてしまったが、代わりにとても良い出会いをした気がした。 就業中、何度も「帰りにまた逢えるといいな」と考え続けていたとしあきは、昼休みになるとすぐに実装石に 詳しい同僚を訪ね、色々とアドバイスを貰うことにした。 「へえ、としあき実装石飼うの? 興味ないと思ってたのに、意外だねえ」 「飼うわけじゃないよ、うちはホラ、アレだから」 「ふぅん、でもお前人が好すぎるからなあ、いかにも愛護派って感じになりそうだな」 「愛護派? なんだそれ?」 「ああ、まあそれはいいけど。でもな、実装石に関わる気ならくれぐれも注意しろよ。実装石ってのはな…」 過去に何匹も実装石を育てて来た熟練の同僚は、昼休みのほぼ全部を費やして実装石のことを説明して くれた。 だが、基礎知識が皆無な上、二食も食いっぱくれて集中力を欠いたとしあきの頭には、そのアドバイスの 半分も入っていなかった。 ※ ※ ※ 午後九時を回った。 すっかり遅くなったが、としあきはまた今朝の場所へ行ってみる事にした。 途中で買って来た焼き鳥数本と牛乳を用意して、橋桁の下へ向かってみる。 姉妹は、橋を支える斜めの柱と堤防の間に出来た三角形の隙間に上手く潜り込み、身体を丸めてじっと していた。 必死で空腹に耐えているといった感じだろうか。 としあきの持つ焼き鳥の匂いに、ピクンと反応する。 「おーい、チビ達。おいで〜」 橋桁の隙間に手を伸ばし、姉妹を出そうとする。 姉妹はとしあきの影にビクビク震えて怯えていたが、差し出された手の匂いを嗅ぐと、やがて「テチュー♪」と 鳴いて飛び出してきた。 どうやら、ちゃんと覚えていたらしい。 としあきの前に出て来た二匹は、朝とは比べ物にならないほど綺麗な姿になっていた。 「おっ! どうしたんだ綺麗になったな!」 テチテチ、テチー レッチュレッチュ!! 姉仔実装が、川の方をしきりに指差し、親指が自分のスカートを得意げに広げてみせる。 暗くてはっきりとは判らないが、どうやら「あれから川で洗濯をしたのだ」と言いたいらしい。 触れてみると、まだ生乾きだし所々汚れがこびりついてはいるが、顔も髪も目立つ汚れはきちんと落として いるようで、かなりマシになっている。 昼間同僚が話していた「自分の服を綺麗にする事が出来る実装石は、野良でも相当賢い」という情報を 思い出す。 としあきは改めて感心すると、姉妹に差し入れを渡した。 串から引き抜かれ、発泡スチロールの皿にずらりと並べられた鶏肉を見て、姉妹が呆然とする。 朝使った蓋を見つけ、牛乳を注ぎ込みながら、としあきは「遠慮しないで食べていいんだよ」と声をかける。 姉妹は、しばし「本当にいいの?」といいたげな顔付きだったが、としあきの笑顔を見て安心したのか、 ペコリと頭を下げてそっと口を近づけた。 テッチュー!! テ、テ、テ、テッチャアー!! レチャー♪ レチュレチュ! レッチュー!! 姉妹が悲鳴を上げる。 あまりの美味さに思わず奇声が漏れたようだ。 濃厚な甘口たれと、じっくりと焼かれて豊潤な香りを漂わせる、としあきお勧めの焼き鳥店の品。 野良実装にはもったいなさすぎるほどの、素敵な味わい。 つくね、鳥モモ、鳥皮、やげん(ナンコツ)、そして胸肉。 牛乳は100円パックの安い奴だが、量はたっぷりある。 姉妹はすぐに夢中になって、一生懸命食事に取り組んでいる。 その様子を見て、としあきはなんだか久しぶりに暖かい気持ちを覚えた。 姉仔実装は、ナンコツを一度噛み砕いて柔らかくしてから、親指に与えている。 親指は、与えられた食事を溢さないようにと、集中しながらゆっくり食べている。 噛み切り難い鳥皮も、姉仔実装が丁寧に噛み裂いて与えてやっている。 二匹がとても仲良しである事、姉仔実装が親代わりになって懸命に親指の面倒を見ている事が、実に良く わかる。 としあきは何度も笑顔で頷きながら、二匹が怪我をしないように竹串を回収して袋に詰めた。 たっぷり三十分ほどの時間をかけて、姉妹は焼き鳥と牛乳を綺麗に食べ尽くした。 ご丁寧に、皿に残ったタレまで全部舐めとっている。 どうやら、相当気に行ってくれたようだ。 テチー、テチュー! レチュー!! 「ごちそうさまでした!」と言いたそうな顔で、としあきに頭を下げる姉妹。 「はい、お粗末様でした。また今度、何か持ってきてやるからな」 指先で小さな頭を撫でてやりながら、声をかける。 姉妹は、目を閉じてうっとりした表情を浮かべた。 それからさらに三十分程、としあきはすっかり打ち解けた二匹と戯れた。 親指を手の平に乗せてコロコロ転がしてやったり、姉仔実装を両手で抱いて高く持ち上げてやったり。 人差し指を目の前でちらつかせ、その後を追いかけさせたり。 ささやかではあったが、とても充実した時間が流れた。 としあきが帰ろうとする頃には、親指はワンワンと泣き出し、姉仔実装も必死で涙を堪えるほどになって いた。 テチュー、テチテチ、テッチ、テチー!! レチュー、レチュー!! 何かを必死で呼びかける姉妹。 としあきは、後ろ髪を引かれる気持ちを必死で振り切って、帰路に戻る事にする。 手を振ってやると、姉仔実装も小さな手をゆっくり振って見送ってくれていた。 ※ ※ ※ 翌朝、としあきはいつもより三十分ほど早く家を出ると、パンと牛乳を二つずつ買って河川敷へ向かった。 今日は、家で使っていないプラスチックの小皿も用意している。 昨日の場所に行ってみると、姉妹はまだクークー寝息を立てていた。 としあきは、小皿に牛乳を注ぎ、パンの欠片を浸して準備を整えると、姉妹の頬を指で優しく突いた。 テェ? レチュ? 「おはよう、おチビ達。ご飯持ってきたよ」 テェェェ…テチィ♪ レェ? レ、レチィ♪ 今度は、すぐとしあきだと理解したようだ。 まるで父親に甘える子供のような笑顔で、姉妹はとしあきの手の中に飛び込んできた。 親指などは、としあきの指に頬擦りしてうっとりしている。 どうやら、本当に気に入られてしまったようだ。 としあきは二匹を皿の傍に置いてやると、パンと牛乳を勧める。 飛び跳ねて喜ぶ親指と、少し申し訳なさそうに頭を下げる姉仔実装。 としあきは無言で首を横に振ると、自分の分のパンと牛乳を取り出して見せた。 テェ? 「みんなで一緒に食べようよ、ね?」 テェ…テチィ♪ レッチュー♪ 橋桁の隅に腰掛けて、としあきは姉妹と共に、川を眺めながら朝食を楽しんだ。 家の中で一番早く起きるとしあきは、ここしばらく家族と共に朝食を摂った事がない。 この実装石姉妹との朝食は、忘れかけていた懐かしい暖かさを思い起こさせた。 時間をかけて、ゆっくり丁寧に食べる姉妹と、それを優しい眼差しで眺めるとしあき。 たまに目が合うと、彼女達はとても嬉しそうに微笑む。 つられて緩んでいく頬の感覚に、少しだけ驚く。 二十センチにも満たないちっちゃな実装石姉妹に、いつの間にか不思議な感情を持ち始めている事を意識 する。 としあきは、昨日同僚が言っていた言葉の断片を、少しだけ思い出した。 『でもな、実装石に関わる気ならくれぐれも注意しろよ。 実装石ってのはな、関わる人間に色んな影響を与えるんだ。 関係がが深まれば深まるほど、その影響はでかくなる。 お前も、深入りしすぎるなよ。 中には人生すっかり変わっちまった奴もいるんだから』 こんな小さくて可愛らしい子達と、一日十数分関わっただけで人生が変わるのか? 大丈夫さ、そこまではいかないよ。 としあきは、鼻で笑った。 レチュ? レッレチュ? 親指が、不思議そうな顔で覗き込んで来た。 「ん? ああ、何でもないよ。気にしないでお食べ」 レチュウ♪ レチュレチュ♪ 声をかけてやると、親指は両手を上げて喜び、としあきの脇へ歩み寄ってきた。 としあきの腰の脇にぴとっと身を寄せ、甘えるように頬を寄せる。 さっき口にしていた牛乳の染みが少し付いてしまったが、としあきはなぜか悪い気がしなかった。 テェェ…… ふと見ると、姉仔実装も何か言いたげな顔付きでこちらを見つめている。 軽く手招きをしてやると、姉仔実装はパッと表情を明るくして、チョテチョテと駆け寄ってきた。 親指の脇に座り、頭をとしあきの腰にくっつけながら食事を続ける。 二匹の表情は、とても嬉しそうだった。 そろそろ、出社の時間だ。 時計を確認すると、としあきはそっと二匹を遠ざけた。 お別れが理解できるのか、途端に二匹の表情が曇る。 特に親指の方は、革靴の脇を両手で捕まえ、しきりに首を横に振っている。 としあきは、「また夜にご飯を差し入れてやるからな」と声をかける。 姉仔実装は涙を堪えながら、そっと親指を引き離しにかかった。 レチー、レチー!! レェェェン、レェェェン!! テチ、テチィ……テッチュウ♪ 親指を抱えながら、姉仔実装が手を振って見送ってくれる。 としあきも、手を振りながら堤防を駆け上って行った。 早く家を出たというのに、気がついたらまた遅刻ギリギリだ。 このままでは先が思いやられるな、と思いながら、としあきは駅まで全力疾走した。 ※ ※ ※ それから、としあきは毎日のように河川敷を訪ね、実装石姉妹に逢いに行った。 連日の残業で帰りはいつも遅かったが、姉妹は寝ないでとしあきの来訪を待ち続けるようになった。 差し入れも、焼き鳥だけでなくコンビニのおにぎりや惣菜、プリンやチョコレート、クッキーや金平糖などを 持ち込み、バリエーションを増やしてやった。 同僚から「親がいないならろくに食料調達もできないだろう」と教えられた事もあり、としあきは出来る限り 食料面の補佐を行う気になっていた。 姉妹は、おにぎりなら丁度一個、焼き鳥なら計4本食べれば満腹になるようで、としあきの懐もさほど痛む レベルではなかった。 プリンなどは全部は食べ切れないため、半分ほどとしあきが食べてから残りを譲ってやるようにしていた。 プリンの中央に穴が空くように食べ、そこに親指を入れてやった事があるが、喜びすぎてカップの中で パンコンしてしまったため、これは二度と出来なくなってしまったが。 姉妹は、水分補給だけは自力でなんとか出来るようだったが、労せずにいつでも水が飲めるようにして やらないと、いつ何の拍子で脱水症状を起こしてしまうかわからない。 また、川で転落してしまう危険もある。 そのため、としあきはペットボトルの口に取り付けられる実装石用吸い飲みと、ペットボトルを逆さまの状態 で支持できるスタンドを購入し、姉妹達に提供してやった。 自分達の住まいの奥の方に、安全に水分補給が出来る道具が取り付けられた事で、姉妹はとても喜んだ。 特に親指の喜びようは物凄く、手の上に乗せてやると、笑顔で何度もとしあきの指に頬擦りとキスを 繰り返した。 このように、栄養に富んだ生活環境を手に入れたため、姉妹は初めてとしあきと出会った時とは比べ物に ならないほど健康的になり、生気溢れる元気な体調と気力を取り戻した。 橋桁の三角形の隙間は、としあきの施しによって以前とは比較にならないほど利便性が高まった。 コンクリートと土がむき出しだった床には新聞紙とダンボール板が何重にも敷き詰められ、入り口の段差は 近くに落ちていた平たい石を組み合わせる事で解決した。 隙間の置くには新鮮な水の入った吸い飲み、手前には古タオルを折り返した布団。 使い古しのピンポン玉は、姉妹のオモチャとして提供される。 夜眠る時は、仔実装でも動かせるダンボール板の仕切りを立てる。 その他、ティッシュペーパーやお菓子類など。 決して高価なものではなかったが、としあきは出来る限りのものを揃えてやった。 新しいものが与えられるたびに、姉妹は両手を広げて喜び、としあきの周りをぴょんぴょん飛び跳ねた。 だが姉仔実装だけは、時折とても寂しそうな顔付きでとしあきを見つめてくる。 実装リンガルを持っていない…いや、正確にはその存在すら知らないとしあきには、その表情の意味がよく わからなかった。 その朝も、姉仔実装はパンを受け取りながら、とても切なそうな表情でとしあきを見上げていた。 「どうしたんだ? 何か具合でも悪いのか?」 フルフル テチ…テチィ 「ああ、ひょっとしてパン以外の物が欲しいのか? ごめんな、次はなんとかするよ」 テェェ… フルフル としあきの言葉に、首を横に振る姉仔実装。 今にも泣き出しそうなその顔を見て、真意が読めないとしあきは困惑した。 親指は、そんな二人の態度にまったく気付かない様子で、懸命に牛乳浸しパンを頬張っていた。 レッチュレッチュ♪ レッチュウ☆ 口元と前掛けを牛乳とパンくず、土で汚しながら、親指は元気に喜びの声を上げる。 ニンゲンさんありがとう、とでも言いたいのだろうか。 妹は普段と変わらない分、姉仔実装の態度が気になって仕方ない。 としあきは、姉仔実装を優しく抱き上げ、そっと顔を近づけた。 「元気出せよ。何かあったら必ず助けてやるからな。 俺もな、お前達と逢ってから生活に張りが出来たんだ。 わかるかな?」 テェェ…テチテチ、テチ 両手を振り、何かジェスチャーをしているようだが、その意味はわからない。 としあきはそれを「高い所に上げられて怖がっている」と解釈した。 「ごめんごめん、怖がらせるつもりはないんだ。降ろしてやるからな」 テ? テ、テチィ、テチィ!! 「おっ、そろそろ行かないと。 ——じゃあお前達、また夜に逢おうな。 今夜もおいしい物を持ってきてやるから、楽しみにしているんだぞぉ」 時計を一瞥すると、脇に置いた上着と荷物を取り上げる。 その動作が「どこかへ行ってしまう」事だと理解している姉妹は、いつも悲しげな声を上げてとしあきを引き 止めようとする。 だが今朝は、姉仔実装はまったく声を上げなかった。 レチィレチィ! レェェェン、レェェェン!! としあきとすっかり仲良くなった親指は、いつものように必死で泣き叫ぶ。 姉仔実装は、そんな親指を優しく抱き上げてじっとこちらを見ている。 としあきは、最後に何か声をかけようかと思ったが、なんとなく止めて堤防を駆け上がった。 ※ ※ ※ その日の夕方、午後4時頃。 河川敷に、ある男が降りてきた。 二十代半ば程の細身の青年で、そのラフな服装からフリーターのように見える。 デニムパンツのポケットに手を入れながら、だらだらと歩き回る。 足で草を払い、打ち捨てられたダンボールくずを蹴り、何も変化がない事を知ると、短く舌打ちする。 「腐ってんなー。何にもいねぇじゃねぇかよ。いつからここはこんなに寂しくなっちまったんだ?!」 青年は苛立ちながら、足許に転がっている小石を掴み、無意味に放り投げた。 カツンカツン、という音と共に、「テチャッ?!」という短い悲鳴が聞こえて来た。 青年の顔が、嬉しそうに歪む。 「ウホ、いやがった♪ しかも仔実装かよ!」 途端に小走りになり、声の聞こえてきた方向…橋桁の辺りへと向かう。 仔実装は、すぐに発見できた。 投げた小石がコンクリートにぶつかった音で、驚いたようだ。 洗濯でもしようとしていたのか、服を脱いで両手で抱えながら、その仔実装はブルブルと身を震わせていた。 その背後には、親指実装までいる。 久しぶりの獲物発見に、男…ひろあきは心の底から歓喜した。 「よぉ、逢えて嬉しいぜ」 テ、テェェェ……テチィ、テチィ!! レ、レェェェン、レェェェン!! 姉仔実装は親指を庇っているつもりのようだ。 前に立ち塞がり、必死でひろあきを威嚇しようとしている。 しかし、手の中に乗っかる程度の大きさしかない上に、威嚇の方法もろくに知らないようで全然迫力がない。 ひろあきは、素早く姉仔実装から服を奪い取ると、それを手の届かないギリギリの高さでちらつかせた。 テ、テチャア!! テチャア!! レチィィィ!! レチィィ!! 服を取り替えそうと、裸のままでぴょんぴょん飛び跳ねる姉仔実装。 そしてガード役を失い、ひろあきの視線から逃れようと丸まってしまう親指。 服に意識が向いている姉仔実装をそのままに、ひろあきは、空いている方の手で親指を掴み上げた。 レ? レレレ? 手の平の上に置かれた親指は、突然泣き止むと、ひろあきの顔をじっと見つめてきた。 そして何を思ったか、ひろあきの親指に抱きついてスリスリと頬擦りを始める。 挙句に、口を近づけてキスまでしようとする。 「何しやがんだ、この糞蟲がっ!」 レチャッ?! 咄嗟に親指を持ち替え、握り締める。 そして、徐々に圧迫を加えてやる。 レギャ……!! レチ?! レチ?! レチィィ?!?! プリプリプリ 潰さず殺さず、しかし親指が苦しむような絶妙の力加減で、胸部と腹部辺りを圧迫する。 突然身体を締められた親指は、瞬時にパンコンさせ舌をだらしなく伸ばした。 それを確認し、力を弱めてやる。 苦しさが収まったのか、手の中の親指は「なぜ? どうして?」と言いたげなせつない表情を向けてくる。 ——その瞬間、さっきよりもペースを速めて再び圧迫をかけてやる。 レ、レピャギャボボ!! ブリブリブリブリ… レゲ…レゲ…レ、レ…… 目玉と舌が飛び出してしまいそうな、凄まじい顔になる。 そんな無様極まりない親指を笑い飛ばすと、ひろあきは相変わらず無駄なジャンプを続ける姉仔実装に 声をかけた。 「おい、妹が死に掛けてるんだけど、いいのか?」 手の中でぐったりしている親指の姿を見せつける。 顔を真っ赤にして叫んでいた姉仔実装は、それを見た途端、みるみる青ざめていった。 テ、テチャアァァ!! 「お前、この親指よりも自分の服の方が大事なのか? ひでぇ姉ちゃんだな」 テ、テチャァァ!! 今度は、親指を持つ手の方に向かってピョンピョン飛び跳ねる。 ひろあきは、姉仔実装の注意が逸れた隙に実装服を遠くへ投げ捨てると、あえて親指を姉仔実装に返して やった。 瀕死ではあるが、まだ息はある。 テチャァァァ!! テェェェン、テェェェン!! 舌を出してぐったりしている親指を抱き締めながら、姉仔実装は全身を震わせて泣いた。 久しぶりに見る仔実装の情けない姿に、ひろあきは心が満たされていくような感覚を覚える。 「大丈夫だ、死んではいないよ。それより、悪かったな」 テ? いきなり謝ってきたひろあきに、姉仔実装は小首を傾げる。 「可愛い実装石を久しぶりに見たからさ、ついイタズラしちゃったよ。 そしたらいきなりウンチするからさ、ちょっと叱り過ぎちゃったんだ。 お詫びにおやつをあげるから、許してくれないかな」 テェ? …テチィ…… 驚いて目を剥く姉仔実装の前に、ひろあきはポケットから小さな瓶を取り出して見せた。 瓶のラベルには、「高級はちみつ」と記されている。 「これはな、とっても甘いんだ。ほら、少し舐めてごらん」 指先に少しだけ蜜をつけ、姉仔実装の口に近づけてやる。 恐る恐る舌を伸ばし、ちろっと舐める姉仔実装。 豊潤な香りと未知の甘さが、舌の上に広がる。 テ、テ、テ、テッチュ〜ン♪ あまりの美味さに、姉仔実装は思わず踊り出してしまう。 それを見て、ひろあきは口の端を歪めた。 「たっぷりやるからな。楽しんでくれよ」 テチュウ♪ そう言うと、ひろあきは突然姉仔実装をわし掴みにして、頭の上から蜂蜜を浴びせかけ始めた。 テ、テテ?! テ、テェェェ!? テチャア、テチャア!! ワンテンポ遅れて、抗議し始める姉仔実装。 そのマヌケな様子にゲラゲラ笑いながら、ひろあきは更に蜂蜜を絡めていく。 頭から胴体、長い髪のすべてが蜂蜜でコーティングされた姉仔実装は、そのまま地面の上に放り捨てられた。 テチャッ! 土や小石、葉の切れ端や細かなごみが、次々に付着していく。 姉仔実装は、あっという間に全身を真っ黒にしてしまった。 「おいおい、暴れるから手が滑っちまったじゃねぇか。 あらら、きったなくなったなあ。お前、自分の姿見てみろよ」 テ、テェェェ?! 「こうなったら、蜂蜜はその親指ちゃんに舐め取ってもらうしかないんじゃねぇの? って、ああごめん。 親指ちゃんはまだあっちでネンネしてたね〜♪」 テチャアァァァッッ!! 姉仔実装は、慌てて親指の許へ駆け寄ろうとする。 だが、蜂蜜の粘着力に足を取られるのか、思うように動けずすぐに転んでしまう。 ひろあきは、蜂蜜まみれになった手を親指になすりつけながら、薄笑いを浮かべて姉仔実装の醜態を 見つめた。 ——これはまた、いじり甲斐のある奴を見つけたな かつては野良実装で溢れ、虐待の限りを尽くせたこの河川敷。 ある時期を境に、なぜか突然実装石の数が減り始めてしまった。 近所のアパートに住むひろあきにとって、それはとても面白くない事だった。 そろそろ別なコミュニティが発足しているのではないかと思い、何度も足を運んでようやく見つけた 仔実装姉妹。 あまりにも貴重すぎて、とてもじゃないが簡単に殺したりできない。 実装石を精神的に追い詰めていく事に快感を覚えるタイプの虐待派ひろあきは、これからしばらくこの姉妹 を玩具代わりにしてやろうと企んだ。 他に実装石が居ないのであれば、仔実装同士といえどそう簡単には襲われまい。 活かさず殺さずを繰り返し、細かな上げ下げを繰り返していこうかな、などと、脳内で今後のプログラムが 組まれていく。 その間に、姉仔実装はさらに体中を真っ黒に染めて、本泣きしながら親指との距離を詰めていた。 テ、テェェェン、テェェェェン!! ひろあきは、姉妹がどこに住んでいるのかを調べるため、周囲を見て回った。 そして、橋桁の隙間に置かれたいくつかの生活用具に目を留める。 たっぷり水が詰められた、吸い飲み付きの逆さまペットボトル、小皿、タオルで作った布団、ピンポン玉、 明らかに人間が加工した跡のあるダンボール…… 何者かが、この姉妹に生活援助をしている事を悟る。 ——マジかよ。 じゃあこれ、念願だった「飼い実装虐待」が実践できるようなもんじゃん♪ ひろあきの心は躍った。 以前から、他人が大事に大事に育てている実装石を、ひたすら甚振ってみたいと願い続けていたのだ。 しかも、飼われている間に頭に乗り、人間をドレイのように扱うような豚蟲ではなく、賢くて可愛らしく、 愛される要素を備えている文句なしの飼い実装がいいのだ。 幸福な生活しか知らず、或いは人間からの愛情をたっぷり受けている個体に、まったく正反対の境遇を “飼い主の手の届かない所で”行ってやる。 公園に来ている飼い実装を誘拐しようと企んだ事も何度かあるが、実行に移すだけの度胸はなかった。 だが、この姉妹なら——やや条件から外れはするが、充分だ! ひろあきは、思わず踊り出したくなるような悦びに打ち震えた。 テェェン、テェェェン!! レ? レチャァァァ!! 気が付くと、姉妹が何やら騒いでいる。 意識を取り戻した親指が、泣きながら接近してくるバケモノ(汚れまくった姉仔実装)に怯えて泣いている ようだ。 まだ両者の距離はあるが、親指の怯え方は尋常じゃない。 ひろあきは親指を掴むと、姉仔実装からさらに離れた位置に置き直した。 テ、テェェェェッ?! レチ? レッチュウ♪ さっきされた事をもう忘れているのか、親指はひろあきに向かって助けてくれたお礼をする。 そして、自分の身体にまとわりついているネバネバに気付き、それをペロッと舐めた。 レッチュウ♪ 蜂蜜の甘味に魅了され、すぐに身体をペロペロ舐め始める親指。 もはや、迫り来る黒い姉の恐怖すら忘れてしまったようだ。 さすがは親指、とひろあきは心の底から感心する。 だが、この姉妹はまだこの蜂蜜攻めの真の恐怖に気付いてはいない。 ほくそ笑みながら、ひろあきは一旦この場を離れ、あえて姉妹を放置する事にした。 立ち上がる瞬間、足許に一匹の大きな蟻の姿を見つける。 それは、真っ直ぐに親指の許へと進んでいった。 テ、テ、テ、テッチャァァァァッッ!!! レ、レ、レ、レチャァァァァッッ!!! 十数分後、姉妹の悲鳴が橋桁周辺に響き渡ったが、既にひろあきの姿は河川敷のどこにもなかった。 ※ ※ ※ 午後7時半。 バイト先へ向かうため、荷物を抱えてアパートを出たひろあきは、再び河川敷へ降りていった。 どうやら、あれ以降誰かが来た様子はない。 橋桁の隙間の巣を覗き、タオル布団の様子とペットボトルの水量を見る。 どうやら、姉妹はまだ戻っていないようだ。 用意してきたLEDライトで周囲を照らしながら、姉妹の姿を捜す。 数分後、先程姉妹を放置してきた辺りで、真っ黒に染まった二つの塊を発見した。 それは、蟻にたかられた上に、さらに汚れにまみれた姉仔実装と親指だった。 夕方見た時よりも、さらに悲惨な状態になっている。 その位置から察すると、どうやらあの後、姉仔実装は親指を連れて自分の服を取りに行ったようだが、 その途中で蟻の軍団の襲撃を受けたらしい。 テヒ…テヒ…テヒ… レ…レ… さすがと言うか、姉妹は微妙ながらもまだ息があった。 蜂蜜がコーティングの役割を果たしたのか、蟻の顎によるダメージは意外に受けなかったらしい。 ひろあきは、素早くビニール手袋を装着すると、二匹を拾い上げて川辺へ向かう。 そしていきなり姉仔実装を水に突っ込み、乱雑に汚れとぬめりを取り始めた。 もちろん、彼女の呼吸確保なんか度外視である。 テボボボ…テボボボボ…… 大雑把に汚れを取り、腹を押して体内の空気を搾り出してやった後、一旦引き上げて少しだけ呼吸をさせて やり、またすぐに水の中へ戻す。 ゼエゼエと息を荒げている最中に水に戻されたせいか、姉仔実装は大量に水を飲んでしまったようだ。 だが、ひろあきは手加減はしない。 落ちる直前の状態を正しく見切り、救い上げ、呼吸のペースが戻り切らないうちにまた戻す。 これを、外観が比較的まともになるまで幾度も繰り返す。 姉仔実装はもはや完全にぐったりして、抵抗力を失っている。 身体も冷え切り、まるで死体のようになっているが、瞼をこじ開けると瞳孔がくるくる回っている。 これならば、まだ大丈夫な筈だ。 続けて、親指にも同じ処置を施す。 レピョピョピョピョ……レピョピョピョピョ…… 小さい身体が流れにさらわれないように、細心の注意で洗い、なおかつ大胆にいじめる。 長年の虐待経験で身に付いた、指先のテクニックが炸裂する。 レピョピョピョピョ……レピョピョピョピョ…… 姉仔実装の時にやったような、空気の搾り出しは危険なので回避する。 昔それをやっていて、うっかり偽石を潰してしまった事があるからだ。 多少不満ではあるが、せっかく見つけた逸材を死なせてしまうよりはマシだ。 そう自分に言い聞かせて、ひろあきはせいぜい「姉よりちょっと長めに水に浸ける」だけに留めた。 レピョョ……ピョピョ…… 漏れてくる泡が、ほとんどなくなってきた。 これ以上やるとやばいと判断し、際どいところで救い上げる。 そして、ずぶ濡れの親指を姉仔実装の脇に置いてやる。 テ、テチ? テェェ、テチィテチィ、テチィ!! レ……レチ…… テチャアァァ!! テチャアァァ!! 親指の冷たい身体を必死で抱き寄せ、「なんでこんな事をするの?」とでも言いたげな顔でひろあきを睨む。 そんな姉仔実装を無視して、ひろあきは彼女達の巣へ向かうと、奪ってきたタオルの布団で乱暴に水気を 拭き取った。 テ、テ、テ? テ……ブブブブ!! レブ……レブ…… その後、実装服とパンツを着せてやり、たっぷり水気を含んだタオルごと巣の中に押し戻す。 これで、この姉妹に援助している者がやって来ても、虐待されたとはすぐにはわかるまい。 親指はまだグロッキー状態だが、まあこれくらいなら問題ない。 援助者も、まさか死ぬ寸前まで水攻めを食らい続けたとは思わないだろう。 姉妹は、びしょびしょになったタオル布団に身を包み、ガタガタ震えながらひろあきを見つめている。 時計を確認すと、もうバイトに入っていなければならない時間になっていた。 「あ、やべ遅刻だ。——じゃあな、また遊びに来るから元気でな!」 テェ……テチャア!! テチャア!! レチィ……レェェェン、レェェェン… 被虐心を煽り立てる、ひ弱な泣き声に胸を高鳴らせながら、ひろあきは断腸の思いでその場を離れた。 そしてその晩、としあきはなぜか河川敷に姿を現さなかった。 (続く)
