すっかり夜もふけた公園の片隅、公衆便所の個室の1つから、 実装石親仔のにぎやかな声が聞こえてくる。 『テッチュ〜ン、もっと優しく脱がして欲しいテチィ』 『寒いテチ、水浴び嫌テチ!』 『いもうとチャンたち、わがまま言っちゃ駄目テチ!』 『今日で水浴びは当分お休みデス。だから、みんな良い仔にするデス』 親実装は3匹の仔たちにそう告げる。 暦は12月に入り、寒さは1日ごとに厳しくなっている。 親実装はともかく、生後1ヶ月のか弱い仔実装たちの水浴びは そろそろ控えた方が無難だろう。 『テェエ……お水冷たいテチ……』 『後は自分で洗うデス』 親実装は、ようやく服を脱がし終えた末っ仔を和式便器の中に下ろすと、 次は水浴びを嫌がって逃げ回る次女に取り掛かることにした。 『嫌テチ!ワタシはきれいだから水浴びなんかしなくて平気テチ!』 『駄目デス。あ、コラ!』 次女は親実装の手から逃れようと、狭い個室内をチョロチョロと走り回る。 ところで、この親実装。 なかなかに用心深い性質で、同属から襲われる危険を避けるため、 他の野良実装が寝静まった夜遅くに水浴びをするようにしていた。 ただ、いくら用心したところで”間の悪い”ことはあるもので————— 『嫌テチィ〜』 『待つデ……デ、デデ、デェエエ!?』 脇を走り抜けて行く次女を捕まえようと体を捻った瞬間、 親実装は体勢が大きく崩し、思わず便器の前方のバーにつかまってしまう。 グイッ 『『『テ?』』』 『デ?』 ジャーッ 『ゴボ……』 『デギャアアアアアッ!?』 大きな音を立てて水が流れ、末っ仔はろくに悲鳴を上げる暇さえなく、 便器の奥へと消えて行った。 『いもうとちゃーん!』 『ワ、ワタシのせいじゃないテチィイイ!悪いのはママテチ!』 『デ、デェエエエ……』 これが事の発端であった。 翌朝。 『じゃあ、ママはご飯を探しに行くデス。 オマエたちは良い仔でお留守番するデス』 『ワタシも一緒に行きたいテチ』 『ワタシたちだけでお留守番怖いテチ!』 『デエエエ……』 やはり昨夜のことがショックだったのだろうか? 口減らしをするならコイツ、と思われていたお調子者の次女はまだしも、 賢いはずの長女までもがダダをこねて親実装を困らせる。 今日は食べられるゴミの日ではないが、公園での餌探しも馬鹿にはならない。、 媚びる相手をきちんと選べば、量は少なくても上等の餌を手に入れられるものだ。 このところの寒さで公園を訪れる人はめっきり減っていたが、 今日は久し振りに暖かく、風も穏やかで絶好の稼ぎ時だというのに…… そこで親実装は一計を案じた。 『言うこと聞かない仔は、トイレに流しちゃうデス!』 『『テェ!?』』 『どうするデス?』 『『テッチュ〜ン。ママ、いってらっしゃいテチィ〜〜』』 2匹の仔たちは今まで以上に親実装の言いつけを守り、 おかげで彼女はいつもより多くの時間を餌探しに費やすことが出来た。 にも関わらず、この日の餌探しの成果は惨憺たるものであった。 およそ1週間ぶりの暖かな日だったというのに、公園を訪れる人間がいなかったのだ。 いつも公園を近道に使っていた者でさえ、今日はわざわざ遠回りをしていた。 理由は単純である。 公衆便所が詰まり、逆流を起こしたのだ。 9時をわずかに回った頃に漂い始めた悪臭は、昼前には公園を覆いつくし、 遂には外にまで流れ出していた。 「チッ、誰だよ……こんなの流したのはよォ……」 近隣住民の苦情によって急遽駆り出された業者は、 高圧洗浄によって汚水マスに流されて来たもの、すなわち、 この騒ぎの原因となった詰まりの原因を見て、不快そうに舌打ちした。 昨夜の末っ仔の死体である。 10cmにも満たない生まれたての仔実装が何らかの事故——虐待も含めて——で 流されることはあるが、そのサイズならばまず詰まることはない。 だが、既に15cmを超えていた仔実装の身体は、便器に流すにはいささか大き過ぎたようだ。 親実装たちの今日の食事はこれまでにない程、粗末なものになった。 『テェエエ……全然足りないテチ』 『お腹空いたテチィ……』 『明日は御飯のゴミの日デス。きっと明日は大丈夫……デス』 翌早朝。 野良実装にとっては頼みの綱の食べられるゴミの日、 いわゆる燃えるゴミの日である。 『デッ!?』 いつも通りにゴミ収集所を訪れた実装石たちは我が目を疑った。 今日はこれまでと違い、あの厄介なネットが掛けられていない、 いや、正確には大量のゴミに対して、ネットがまるで用を成していないのだ。 その大量のゴミの正体は、衣類である。 昨日は小春日和ということもあり、洗濯物を干していた人は公園の近隣住民にも多かった。 そこへもって、あの悪臭騒ぎである。 多くの洗濯物に、とても落ちそうにもない強烈な悪臭が染み込み、 ゴミとして捨てられることになった。 しかし、悪臭に免疫のある実装石にとっては宝の山である。 『デッスゥ♪』『デデデデデ♪』『デスゥ♪』 鼻歌交じりに衣類をかき集める。 これで、枯葉を集めて作った粗末な寝床とおさらばできる。 古びたタオルですら貴重だったのに、真新しい柔らかなタオルまである。 人間はセーターと呼んでいただろうか?このフカフカとした暖かいものを。 人間たちからの素晴らしい贈り物を運び終わるまでに、 実装石たちは公園とゴミ収集所の間を何往復もしなければならなかった。 たっぷりと持ち帰った衣類は、暖かそうなものをダンボールハウスの中に敷き詰め、 水に強そうなものを屋根にかけ、それでもまだ使い切れないほどの量があった。 そして、使い切れなかった衣類は、それぞれのダンボールハウスの近くの植え込みにかけられた。 この騒動のそもそもの原因となった親実装たちも例外ではない。 親仔総出の作業で、柔らかな股引をダンボールハウスに敷き詰め、 屋根には厚手のフリースをかけ、余ったシャツや小さな黒い布キレを 手近なツツジの枝に無造作にかけた。 昨日の異臭騒ぎは、実装石たちに思いがけぬ幸運をもたらしたようだ。 昼頃になると、公園近隣の住民からまたしても苦情が出た。 苦情の対象はやはり今日も悪臭、原因は実装石たちがゴミ収集所から拾って来た衣類である。 実際の悪臭は大したものではないのだが、近隣住民の心情は穏やかではない。 何しろ、自分たちの洗濯物を台無しにした張本人が、それをこれ見よがしに利用しているのだ。 派手な黒い下着を植込みの上に晒された女性など、心中いかほどなものであっただろうか。 この日の親仔の夕食は久し振りに充実したものだった。 『こんなお腹一杯食べたの初めてテチ』 『やっぱりママは凄いテチィ〜』 『デッス〜ン♪ ちゃんとママの言うことを聞いていれば、またお腹一杯食べさせてあげるデス〜』 昼の疲れもあり、まだ夜もふけぬうちに仔たちはすっかり眠りについた。 その寝顔を嬉しそうに見つめる親実装。 身を寄せ合い、小さな寝息を立てている仔実装たちの姿は、 親実装ならずとも微笑ましい光景であろう。 仔たちの寝顔を見守りながら、いつしか親実装も眠りに落ちていた。 そして一夜が過ぎ…… ドスッ 横からの衝撃にダンボールハウスが大きく揺れた。 『な、なんデスッ!?』 ダンボールハウスを襲った突然の衝撃に、慌てて外へ飛び出した親実装が目にしたのは、 金属製のゴミバサミと丈夫そうな麻袋を手にした男の姿だった。 まだようやく日が昇り始めたばかりで、周囲は薄暗い。 こんな早い時間に人間が公園を訪れることなど滅多にないのだが…… 「ほらっ、出てけ!出てけ!」 ドスッドスッ 『やめてデス!オウチを壊さないでデス!』 リンガルを持たぬ人間に、実装石の言葉などわかろうはずもない。 もっとも、この場合、言葉がわかったところで男が親実装の願いを聞くことはなかった。 「とっとと出てかんと、一緒に捨てちまうぞ!」 ドスッドスッ 『やめてデスー』 『テェエエーン、ママー』 『テェエー!怖いテチィー』 親実装の抗議を無視して男がダンボールハウスを乱暴に蹴り続けると、 たまりかねて長女と次女も転がり出て来た。 『デシャアアアアアア!!』 背後から聞こえた大きな威嚇の声に親実装が振り向くと、 そこでもまた、ゴミバサミと袋を持った人間が、実装石の親仔を ダンボールハウスから追い立てている。 ここだけではない。 見渡すと、同じような光景が公園のいたる所で繰り広げられていた。 ブランコの向こうでは、抗議の声を上げてまとわりつく実装石を 人間が面倒くさそうに足で払いのけている。 たとえ人間は手加減したつもりでも、はるかに大きな身体と力とで 蹴り飛ばされた実装石は、地面に転げ、声も出せずに痙攣している。 『ママー!』『テチィー!』『テチャー!』 「ったく……」 甲高い声を上げて親にすがりつく仔実装たちを一瞥すると、 人間はダンボールハウスを踏み潰し、器用に足だけで小さく折りたたんだ。 公衆便所の正面の植込みにも、実装石の叫びを無視してダンボールハウスを 踏み潰している人間の姿がある。 『待ってデス!待ってデス!待ってデスウウウ!』 「やかましい!」 グシャリ 『チュベエ……』 ひしゃげたダンボールから、弱々しい断末魔と赤緑の体液がにじみ出す。 どうやら、仔実装がまだ中に残っていたらしい。 『テヂャアアア!』 『テェエエーン、テェエエーン』 『痛いテチィイイイ!』 砂場の奥の植込みでは、ダンボールハウスに籠城していた仔実装が ゴミバサミで乱暴につまみ出されている。 金属のツメでひどい怪我をした仔実装もいるようだが、まだマシな方だろう。 『服があっ!?可愛いワタチの服が……』 運悪く服をボロボロにされてしまった仔は、遅かれ早かれ、 髪もむしられて奴隷か食料になることだろう。 『オウチ返してテチ!ご飯返してテチ!』 潰したダンボールを運ぶ人間の足元に、甲高い抗議の声を上げながら 仔実装がチョロチョロとまとわりつく。 『オウチないと死んじゃうテチ!ご飯ないと死んじゃうテ……チ?』 「わ!?」 『チュブッ!』 行く先を遮ろうとした仔実装を避け損ね、踏み潰してしまった。 「畜生!汚ねえなあ!」 人間は、靴の裏にへばりついた仔実装の肉片を、地面に擦り付けて落とそうとする。 ちょうど犬の糞を踏んだときと同じように。 さて、ここまでに不幸な事故はあったにせよ、人間たちは実装石を意図的に殺してはいない。 これは駆除ではなく、あくまでも公園の清掃であり、その一環としてのダンボールハウス撤去である。 もちろん、普段の清掃は、公園の管理者と契約している業者が行うのだが、 今回は町内会の有志たちの手によるボランティア活動だ。 昨夜、この2日間の公園での騒ぎに、事態を重く見た彼らは緊急の会合を開いた。 今の公園の惨状を看過するわけには行かない。 さりとて、本格的な駆除となれば煩わしい手続きが必要になる上に、 駆除した実装石の死骸を処理するのに掛かる費用が馬鹿にならない。 そこで出された結論が公園の一斉清掃であった。 もちろん、この時期にダンボールハウスを奪われ、冬へ向けての蓄えを失うことが 野良実装たちにとって何を意味するかは皆が知っている。 ある意味、それが狙いだと言ってもいいだろう。 しかし、それは自然の成り行きに任せる、ということで了解が為された。 会合に集まった人々の中には良識的な愛護派や、典型的な愛誤派もいたのだが、 一昨日の公衆便所の写真、そして洗濯カゴをぶちまけたかのような現在の公園の有様を 見せ付けられては、彼らも同意せざるを得なかった。 まあ、大多数の人々の、実装石憎しの感情に気圧されたというのもあるのだろうが。 『テェエエーン、オウチ返してテチー』 『テェエエーン、おふとん返しテチー』 しばし放心状態であった親実装だが、2匹の仔の泣き声にようやく我に返る。 『お願いデス、ニンゲンさん。オウチを返して下さいデス』 今まさにダンボールハウスを踏み潰そうとしていた男のズボンに取りすがり、 必死になって訴える。 「邪魔だって!何回言わせんだよっ!」 『デギャアアア!?』 蹴り飛ばされた。身体中がひどく痛む。 しかし、言葉の荒さとは裏腹に、男は手加減してくれていたようで どうにか動くことは出来そうだ。 「あっち行ってろ!いい加減にしないと……ただじゃ済まんぞ?」 男は滑り台を指差した。 見ると、既にそこには数組の親仔が逃れている。 『……デス』 納得したわけではないが男の指示に従い、2匹の仔を連れて歩き始める親実装。 実際、ダンボールハウスが設置されていなかった滑り台の下などは この騒ぎに巻き込まれずに済む安全地帯になっているのだが、 親実装にそこまでの考えはなかった。 人間の言う通りにしなければ、痛い目に遭う。 仔たちに何をされるかわからない。 それだけのことである。 混乱を逃れて逃げ込んだ滑り台の下からは、公園の様子が見渡せた。 ひどい有様だ。 公園中の実装石が大事な家を奪われ、食料を奪われ、パニックに陥っている。 動くのもままならない程の怪我をしているものも少なくないようだ。 最初の悲鳴から3時間ほど経って、ようやく公園の騒ぎは沈静化した。 ダンボールハウスは1つ残らず潰され、古着や雑貨が詰め込まれたゴミ袋と一緒に 公園の入り口脇に積み上げられている。 もしかしたら……返してくれるかもしれない…… そんな野良実装たちの淡い期待を嘲笑うかのように、回収のトラックがゴミの山を運び去った。 「はい、それでは、みなさん。お疲れ様でした。」 「お疲れ様でしたあ」 「お疲れ様でした」 「お疲れ様っしたァ!」 目的を果たした人間たちが公園を後にすると、何匹かの図々しい実装石たちが 責任を取ってワタシを飼えと追いかけて行くが、その末路は悲惨なものになるだろう。 公園の外に出れば、ましてや商店や民家の軒先に入り込めば、 実装石を始末することに人間は遠慮などしてくれない。 まとまった数となれば、正規の手順で処理する必要がある死骸とて、 1匹や2匹ぐらいならばコッソリと燃えるゴミに混ぜて始末してしまえるものだ。 もっとも、公園に残った普通の実装石たちとて、これで安心と言うわけではない。 新しいダンボールや餌を探すために、先ほどの図々しい実装石たち同様、 結局は公園から出なければならないのだ。 空は曇り始めている。この分だと夜には雨になるだろう。 せめて雨風をしのげる物を手に入れなければ…… 親実装が狙いをつけたのは、先ほどまで住んでいたダンボールを拾った民家だった。 食料よりも雨風や寒さを防ぐものを優先したことや、 実装石へ強い嫌悪感を持つ人間の多い商店街などを 狙わなかったことは賢明だと言えるだろう。 しかし、そうそう都合よく大きなダンボールが手に入るはずもなく、 それどころか…… 『ママー!いもうとちゃんがいないテチー!』 『妹ちゃーん!どこにいるデスー!』 何もない軒先で途方にくれていたときに、野良猫の襲撃を受けた。 幸いなことに猫が本気でなかったらしく、威嚇と投糞でどうにか追い払うことが出来たものの、 気づくと次女の姿が見当たらない。 今の猫にさらわれてしまったのだろうか? それとも、どこかに迷い込んでしまったのだろうか? 『デエエ……妹ちゃんはあきらめるデス……』 『そんなの嫌テチ』 『グズグズしていると、また怖いのが来るデス!』 『テ!?』 いずれにしても、野良猫のテリトリーをいつまでもウロウロしているわけにも行かず、 親実装は泣く泣く長女だけを連れて公園へと引き返した。 幼い仔実装が親とはぐれて生きて行けるはずもない。 次女はもう駄目だろう。 親実装はそう思った。 夕刻近くになっても、4分の1ほどの実装石が公園に戻らなかった。 どうにか帰って来たものたちにしても、多くの仔を、 あるいは全ての子を失ったあげくに手ぶらでの帰還であった。 日が暮れてしばらくすると、やはり雨が降り出した。 公衆便所の入り口にバリケード代わりに置かれた大きな使用禁止の看板は、 とても実装石たちの力ではどけられそうにもない。 そうなると、滑り台や木の下ぐらいしか雨をしのげる場所はないのだが、 雨とともに吹き始めた風までは防げない。 親実装も大きな木の下に身を寄せていたのだが、 この寒さと横殴りの雨にすっかり疲弊していた。 『ママ。寒いテチ……ううん、怖いテチ……』 『……大丈夫デス。オマエは何も心配しなくていいデス』 せめて、この仔だけでも。 親実装は長女を自分の服の中に潜り込ませ、ぎゅっと抱きしめ、 冷たい雨粒が殴りつけてくる風上に背を向ける。 『……ちょっとあったかくなったテチ』 『朝までゆっくり休むデス』 『おやすみなさいテチ』 『おやすみデス』 ………… …… 東の空が微かに白み始め、ようやく雨も止んだ。 野良実装たちにとっては忌々しい雨であったが、 雨を避けて1箇所に固まっていたのが幸いしたようだ。 実装石たちは互いに暖め合うことで、輪の外側で数匹が死んだ以外、 ほとんどのものが凍死を免れて生き延ていた。 『寒いデス……』 『お腹空いたデス……』 『眠りたいデス……』 あるものはゴミ収集所目指し、あるものはかつて自分の家があった植込みを目指し、 寒さと疲労とに痛む身体を引きずるようにして歩いて行く。 その中に親実装の姿はなかった。 おしくら饅頭のようになった輪の中で長女が潰されることを恐れた親実装は、 輪の外側、それも他の実装石といくらか離れたところにいたのだ。 いくら長女と自分の体温で互いに暖め合ったところで、2匹だけではたかが知れていた。 輪の外側で死んだ不運なものの1匹が、他ならぬ親実装だったのである。 死んでなおも、しっかりと長女を抱きしめたままなのは正しく、母の愛と言えるだろう。 そして、それが長女には不幸だった。 『テェエ……冷たいテチ……』 『……』 『ママ、冷たいテチ』 『……』 『ママ?』 『……』 親実装の身体の冷たさに長女は目を覚ました。 母親の死、というものは理解できなくとも、 このままでいることが危険であることぐらいは長女にもわかる。 『ママ、放してテチ。もう大丈夫テチ』 親実装の服の中から抜け出そうと必死にもがくのだが、 既に死後硬直が始まっている親実装の両腕は、仔実装の力ではびくともしない。 『放してテチ!冷たいテチ!』 そうしている間にも、冷え切った亡骸は長女の体温を奪っていく。 『テ、テェエエーン、誰か助けてテチー!』 大声で助けを求めたところで、周囲に成体はもういない。 『テェエエーン、テェエエーン、死んじゃうテチィイイイ』 『テェエ……エーン……、死にたく……ないテチ……』 『テェエ…エ……ン……』 『テェエ……』 『……』 長女の泣き声が聞こえなくなるまでに、1時間とは掛からなかった。 その頃…… 『テッチュ〜ン!甘いテチィ〜♪』 「クッキーは気に入ってくれたみたいね。 まだ沢山あるから、いっぱい食べてね?」 暖房の効いた快適な部屋の中、初老の女性に甘える仔実装の姿があった。 昨日はぐれた、あの次女である。 『ありがとうテチィ〜♪ ニンゲンさん大好きテチ!』 「うふふ」 携帯電話のリンガル・アプリに表示された仔実装の言葉に、女性は穏やかな笑みを浮かべる。 野良猫の襲撃でパニックに陥った次女は、どこをどう走り回ったのか、 いつの間にかこの家のエアコンの室外機の下に逃げ込んでいた。 そこで寒さと不安とに震えていたところをこの女性に見つかり、 運良く家の中に上り込む、と言うか、連れ込まれることになったのである。 生きてさえいれば。不幸など所詮は次なる幸運へのきっかけに過ぎない。 そして、幸運もまた————— 「今晩、あの人が出張から帰って来たら、 あなたのことを飼えるようお願いしてみるからね」 『よろしくテチ! ワタシ、お手伝いするテチィ! お歌もお遊戯も、いっぱい覚えるテチィイイ♪』 「うふふ、いい子ね」 しかし、この女性の御亭主、大のつく実装石嫌いである。 次女がこの先、どのような運命を辿ることになるのか。 それは、誰にもわからない。 (終)
