街頭テレビの前に大勢の人が群がり、歓声を上げている。 「お父さん、僕も見たい!!」 父は笑って、僕を肩車してくれた。 「いけー、そこだ力道石!!」「ウレ手チョップを叩き込めぇ!!!」 モノクロの画面に映し出される僕らのヒーロー、力道石。 大きな欧米石をばったばったと薙ぎ倒す。 敗戦ですっかり傷ついた僕らの心を、奮い立たせてくれる小さな巨人。 あの時代の日本人はみんな、力道石に勇気を貰っていたんだ。 夏休みのある日、僕は父に頼んで力道石の試合に連れて行って貰った。 今はもう無い蔵前国技館。 今日の相手は強敵「ウレタンの爪」テチックだ。 どこにも爪らしいものは見当たらないが、とにかくそういう技を使う。 なんでも、ウレタンの爪の餌食になった者は発狂してしまうらしい。 それほどの握力なのか、単に手がとんでもなく臭いのか。 幼い僕には想像もつかないが、それだけに底知れない恐怖を感じていた。 大丈夫、力道石ならきっと勝てる。 いつものようにウレ手チョップで相手を失神させるはずだ。 「鉄糞」ルー・デースも「吸血石」デスッシーも力道石はみんな倒してきたんだ。 僕らは二階の桟敷席に座った。 国技館の中央に設置された若草色のリング。 所々に赤や緑の色褪せた染みがある。 それはきっと多くのレスラー石によって刻まれた、死闘の残滓。 会場中に充満する熱気と緊張感。 会場が暗転する。 ざわめく観衆。 選手入場口がスポットライトで照らされる。 豪華な刺繍が施されたガウンを纏った、実装石が姿を現す。 「力道石ー!!」 僕は叫んだ。 僕だけじゃない、あの場にいた全ての人が叫んだ。 凛々しい相貌は真っ直ぐにリングを見据えている。 目映いフラッシュと大歓声をその身に浴びて、颯爽と花道を歩く。 僕は極度の興奮で、宙に舞っているようだった。 目の前の光景が、とても現実とは思えなかった。 それから数分、いや、数十秒? 僕の記憶は抜け落ちている。 父に「どうした?」と話しかけられてようやく正気に返った。 気付けばテチックも入場を終えて、まさにゴングが鳴らされんとしていた。 テチックは力道石より二回りほど大きく、金髪で、真っ赤な肌だった。 欧米石は総じて悪役だ。 テチックはニタニタと薄ら笑いを浮かべていた。 僕は不安になった。 あらためて、欧米石との体格差を思い知る。 でもきっと大丈夫だ。 力道石は、今までも勝ってきたじゃないか。 今日も勝ってくれる、絶対に勝つ。 僕は自分に強く言い聞かせ、精一杯応援すると誓った。 会場に悲鳴と怒号が飛び交った。 遅れてゴングが鳴らされた。 テチックは力道石に馬乗りになって、パンチを雨あられと降らせる。 「卑怯だぞー!頑張れ、負けないで力道石ー!!」 僕は半泣きになって、大声で叫んだ。 テチックの奇襲作戦だった。 ゴングが鳴る前、まだ自コーナーを向いていた力道石に背中から襲いかかったのだ。 テチックがボストンクラブを繰り出す。 必死に這いずって、ロープに手を伸ばす力道石。 「デェェエ!?」 力道石がロープに触れたのに、ブレイクせずリング中央に引きずり戻す。 今度はキャメルクラッチ。 「Depupupu Dethーn♪」「デェ、デジャァアア!!?」 それだけでは飽きたらず、力道石の少ない前髪を掴み、ガンガンとリングに顔面を叩き付ける。 骨が軋み、鮮血が舞い散る。 テチックは攻撃の手を休めない。 僕は大声を出しすぎて、既にかすれ声しか出ない。 それでも、声にならない声を出して、必死に力道石を応援した。 「Death deーth!」「デ・・デェ・・・」 僕の小さくて大きなヒーローは、惨めにリングで大の字に伸びていた。 テチックは短い腕で大仰に喉元をかっ切るジェスチャーをする。 右腕を振り上げ、力道石の頭上に掲げる。 絶望と悲嘆を孕んだ悲鳴が場内を満たす。 必殺のウレタンの爪が、今まさに力道石を襲わんとしている。 僕は怖くて、悔しくて、自然と涙が込み上げてきた。 顔を背けたかった、目を瞑りたかった、耳を塞ぎたかった、その場から逃げ出したかった。 それでも、カッと両目を見開いて、リングを凝視した。 力道石の方が、僕の何倍も何十倍も辛いはずだ、痛いはずだ、怖いはずだ。 もう声も出ない。 喉が焼け付くように熱い。 僕に出来ることは、最後まで見守ることだけだ。 テチックがふてぶてしい顔付きで四方を見回す。 そして、力道石の顔目がけて、凶悪な爪を振り下ろした。 信じられなかった。 目の前で起きたことが容易には理解出来なかった。 闘う者の、鍛え上げられた肉体、研ぎ澄まされた感覚、そして追い詰められた精神。 力道石は死中に活を求めた。 勝利を確信したテチックの心に生じた僅かな隙を、力道石は見逃さなかった。 ウレタンの爪を紙一重でかわすと、渾身のウレ手チョップをテチックの顎に叩き込んだ。 巨体がぐらり、と揺らいだ。 力道石は動きを止めない。 立て続けに、二発、三発、四発、五発、必殺のチョップを繰り出す。 テチックはふらつきながら、コーナーに追い込まれた。 逃げ場を失ったテチック目がけて、力道石は容赦なく手刀を降らせる。 地鳴りのような歓声が、国技館を揺さぶる。 誰もが、圧倒的なカタルシスにその身を震わせた。 僕は流れる涙を拭いもせず、力道石の一挙手一投足に酔いしれた。 テチックは既に半失神状態だ。 力道石は右腕でテチックの喉元を掴む。 相撲石だった力道石がここ一番でしか見せない、最終奥義「一本上げ落とし」だ。 もっとも、見た目はただの喉輪落としだ。 しかし、自分より遥かに大きな相手を、果たして右腕一本で持ち上げられるのか? 呼吸を封じられたテチックが、我に返ってジタバタ暴れる。 必死に踏ん張ろうと、腰を落とす。 僕は急に不安になった。 もし、一本上げ落としをかわされたら? もし、反撃に転じられたら? もう次はないだろう。 今度こそ力道石はウレタンの爪の餌食になって、狂い死にしてしまうのではないか? 駄目だ、力道石!!その技は駄目だ!!! ふと、力道石が僕を見た気がした。 赤と緑の目をほんの一瞬細め、微かに笑みを浮かべた気がした。 心配ないデス、ワタシは必ず勝つデス・・・そう語りかけてきた気がした。 期せずして場内に大・力道石コールが起こる。 僕はコールに加わらず、懸命に祈った。 持ち上げろ、持ち上げてくれ力道石! 神様、仏様、お願い、お願いします!! 力道石を助けて!!! 「デェ、デェェ、デシャァァァアアア!!!!!」 「Deeeee!!?」 テチックの巨体がふわり、と浮いた。 ・・・息を呑んだ。 濃密な静寂が空間を支配した。 歓声は消え、誰もがリング上を凝視した。 神託を授かるシャーマンを、じっと見守る民衆のように。 刹那、力道石の頭上でテチックの身体はひらりと弧を描き、そのまま頭からリングに叩き付けられた。 爆発音のような大歓声。 テチックは舌を出し、白目を剥いてパンコンしていた。 力道石がフォールを奪いにいく前に、レフェリー石が試合を止めた。 試合終了を告げるゴングがけたたましく打ち鳴らされる。 疲労困憊で、セコンド石の肩を借りながら勝ち名乗りを受ける力道石。 舞い散る紙吹雪、投げ込まれる紙テープ。 惜しみない万雷の拍手、賞賛の声。 すごい、すごい、すごい!!! 自分の体ではないみたいだ。 必死に抑え込もうとしても、身体の深奥から湧き上がってくる高揚感、浮遊感。 僕はその場でじっとしていられず、ふらふらと歩き出した。 父が何か言った気がしたが、よく聞こえなかった。 花道を引き上げ、控え室へと続く通路に消えていく力道石が見えた。 いつの間にか、僕はその後を追って駆け出していた。 「君、止まりなさい!ここは立ち入り禁止だ!!」 警備員のおじさんに止められたが、僕はその脇をすり抜けて走った。 どこ?力道石はどこにいるの? 会いたい、力道石に会いたい! 多分言葉は通じないけど、会って一言「ありがとう」と言いたい。 ドアに紙が貼られた部屋があった。 「レスラー石控え室」 ここだ、間違いない! 僕はドアを開き、部屋に雪崩れ込んだ。 果たして、力道石はそこにいた。 しかし、信じられない光景に、余りに不条理な光景に、僕は言葉を失う。 力道石は、ついさっきまで死闘を演じたテチックと揃って小さなケージに収まり、這いつくばって餌を食べていた。 他の試合に出場した全てのレスラー石が、善玉石・悪玉石の別なく、二三匹ずつ幾つかのケージに収まっていた。 力道石は僕と目が合うと「デデッ!?」と鳴いた。 他のレスラー石も酷く狼狽している様子だ。 「何だお前は!?坊主、どうやってここまで来た!?おい、警備員!警備員は何やってる!!」 怖いおじさんが僕を怒鳴りつける。 でも僕はそれどころではない。 すっかり混乱していた。 茫然と立ちつくしていると、警備員が数人入ってきて、僕は部屋から摘み出された。 最後まで力道石から目が離せなかった。 「デェェェ・・・」 力道石は俯いて、小さく鳴いた。 その後のことは余り思い出したくない。 警備員さんに怒られ、父から拳骨を貰った。 興行主と名乗るおじさんから、あの部屋で僕が見たものを決して口外しないようにと、堅く約束させられた。 「誓約書」なるものに父と一緒にサインした。 子ども心に、大変なことをしてしまったんだと、朧気ながら理解した。 僕は肩を震わせて、女の子のようにめそめそ泣いた。 帰り道、父は優しかった。 リボンシトロンを飲んで、駅から家まで肩車してくれた。 試合のことは何も話さなかった。 その日だけじゃない、それからずっと、僕は力道石のこと、実装プロレスのことを口にしなくなった。 もう街頭テレビの前で立ち止まることもなくなった。 今にして思えば、随分純粋だった。 それだけにショックも大きかった。 あの時点では確信までには到らなかったが、子どもなりの感受性でうっすら感づいていた。 実装プロレスは八百長である、と。 日本中を興奮の坩堝に巻き込んだ小さなヒーロー、力道石は虚像であると。 或いは大人達は皆知っていたのかもしれない。 知った上で、敢えて騙され、楽しんでいたのかもしれない。 でも、未熟な僕には、無垢な僕には、それは耐え難い茶番に思えた。 もっとショックだったことがある。 如何にレスラー石といえど、裏では普通の飼い実装と何ら変わらぬ扱いを受けていたことだ。 虚飾のベールを剥ぎ取った後に残る剥き出しの現実は、こんなにも味気ない、哀しいものなのか。 あの夏の観戦で、僕は少しだけ大人になった。 時は流れ、多くのレスラー石が現れては消えていった。 パンコニオ猪木、デッシャー木村、長州石、パンコン三銃士・・・。 僕は冷ややかだった。 右から左に受け流した。 やがて実装プロレスは飽きられ、時代は総合格闘技に移っても、相変わらず食指が動くことはなかった。 エメリアーウンコ・ピュートデル、ミドリコ・クソコップ、パンコニオ・ホドリゴ・ノラ、ヌル山・・・。 熱狂する人々を前に、敢えて水を差すような言動を取ることはしない。 しかし、試合会場に向かって意気揚々と歩いていく子どもを見るにつけ、僕の心はきりりと痛むのだ。 願わくば、あの少年が、かつての僕でありませんように。 そう祈らずにはいられない。
