実装石というのは、愚かで不幸で、哀れな生命体だ。 中には賢い者も居るが、それでも基本的に実装石という生物の範疇を大きく逸脱する事はない。 よほどの知能的突然変異体でもない限り、彼女達はあくまで実装石という種族の枠を逸脱出来ない。 だから、回避できる危険や不運にもおのずと限界が生じる。 野良実装には野良生活故の多数の危険が常につきまとい、些細な事が死に結びつく。 その要因は、人間による虐待、同族によるリンチ・捕食、鳥獣による危害、飢えや病気、極端な 環境変化等様々だが、これら「災厄」との巡り合わせの頻度は異常に高い。 野良ではない生活を与えられた実装石達にも、別な形で不運が降りかかる。 飼い主による虐待、性格不一致による一方的虐殺や投棄、去勢処理、散歩中に野良実装や他生物 から襲撃される等、独自の「災厄」に付きまとわれる。 幸せな生活を営んでいる平和的性格の実装石が、ある日突然野良となり、雨風に晒される事になる かもしれない。 たとえその理由が不条理なものだったとしても、彼女達には抗う術はないのだ。 このように、実装石には数多くの「不運・不幸」がつきまといやすい。 本人達の性質や行い、経歴に関係なく、唐突に、理不尽に災厄は襲い掛かる。 そして実装石達自身も、無意識にそれを理解して生への執着を抱き、また幸福を求めるのだ。 自分だけでも幸せになりたいと願い、媚び、強要するその意識の背景には、そういったものが潜んで いるのかもしれない。 だが、そんな実装石達も気付いていない事がひとつある。 それは、自身が関わった別な存在にも、不幸・不運がふりかかってしまうという傾向がある事だ。 無論これは統計的なものではなく、むしろオカルト的な分野に属する物かもしれない、という補足が 必要となるが。 実装石を飼い、また実装石と深く付き合う事で、客観的にも認知できるほどの幸福を得たという例は、 実は著しく少ない。 無論正確な統計資料があるわけではないが、大なり小なり「損失」「被害」「浪費」を付加された人の 方が大きく目立つ。 仮にそれが虐待派・虐殺派だったとして、本人達は幸せでも、客観的に見た場合その存在が幸多き ものに映る事などまずありえない。 むしろ、冷静に判断すれば実装石と関わった事で失ったものの方が多い筈なのだ。 実装石とは。 自身だけが不幸になるのではなく。 不幸という物を辺りに撒き散らす存在。 否、不幸を生み出し、それを自他区別なく強制的に付加していく存在と言い換えられるのかもしれない。 ——無論、マルとその仔実装・マリも例外ではない。 だがこの二匹は。 それでも、最期までとしあきという男の幸福を、心の底から望んでいた。 そして、この世から消えるその瞬間まで、としあきの幸福を祈り続けた—— 幸福の約束6 ガシャーン! 「デスゥ! デスゥデスゥ!! デッシャアァッッッッ!!!」 「な、なんだ、どうした?!」 マリは、実装フードを盛りつけた皿を蹴飛ばし、俺を激しく睨みつけて吠えた。 「デギャアァッッッ!!! デシャアァァッッッッ!!! デッギュワアァァァァァッッッ!!!!」 マリが、突然態度を豹変させた。 今まで何にも文句を言わずに食べてきた実装フードを踏み潰す。 そして、大口を開け歯を剥き出しにして喚く。 この態度と叫び声は、糞蟲のそれだ。 差し当たり、もっと美味いメシを、と吠えているのだろうか。 だが、どうしてマリが突然そんな事を? 俺は、訳がわからずただ呆然とマリを見つめるしかなかった。 「デギャアァァァァッ!! デギイィィィィィッッッ!!! デシャアァァッッッ!!」 叫びながら、トテトテとドアに向かって歩いていくマリ。 一生懸命にドアを開けようとするが、身長が足りない。 俺は、呆然とマリの様子を見つめている。 何度かピョンピョン飛び跳ねた後、マリは、振り返って呟いた。 「デスゥゥ……デギィィィ…」 ペチペチ、と力なくドアを叩く。 いや、本人にしてみれば力一杯叩いているつもりなのだろう。 だが、成体とはいえ非力な実装石の力では、ドアを打ち鳴らす事すらもできない。 俺は、散らばった実装フードを片付けながら、横目でマリの様子を眺める。 いつの間にかドア叩きを止めたマリは、恨めしそうな視線を向けて佇んでいた。 「ジィィィ……デジィィィ……」 マリは、やっぱり、俺の気付かないところでストレスを溜めていたのでは……? そう思った途端… ぶりっ ぶりぶりぶりっ ぶりりりりっ 「デッ……ギャアアァァッッッ!!!!」 「う、うわ、臭せぇっ!?」 マリは、何の前触れもなく力みだし、パンコンした。 それどころか… ぺちゃっ、ぺちゃっ 「や、やめろ、マリ!!」 ぺちゃっ、ぺちゃっ 「デシャアァッッッ! デギャアァァァッッ!!」 ぺちゃっ、ぺちゃっ、ぺちゃっ なんと、盛り上がったパンツの中に手を突っ込み、軟便を次々に投げつけて来た! 畳が、壁が、ドアが、俺の服や手、顔が、マリの投げる糞で汚れていく。 「デジイィィィィッッッ!!! デッギャアァァッ!!!」 「やめろ、マリ! な、何がそんなに不満なんだっ!!」 「デギャアァッッッ!!! デシャアァァッッッッ!!! デッギュワアァァァァァッッッ!!!!」 まさに、半狂乱! マリは、もはや正常な状態ではない。 俺の注意に耳を貸さず、ただひたすらに部屋を汚していく。 大声で喚きながら、躊躇なく暴れまわる。 漏れた自分の糞を足で踏みつけているため、畳はさらに酷い事になっていく。 止めなければ…しかし、どうやって?! こういう状態の実装石を止める方法…俺が知っている方法は…殺す事だけだ。 だが、マリは—— 無意識に振り上げた腕が止まる。 俺は、マリのなすがままになる。 もし、この腕を振り下ろせば、次の瞬間、マリは全身を醜く潰し、悶死する筈。 だが、どうして俺がそんな事をしなくちゃならない? せっかく…マリのためにって頑張ってきたのに… 俺は結局、マリの糞投げ攻撃が終わるまで、ただじっとその場で静止しているしかなかった。 少しでも動いたら、その瞬間、俺の中でマルとの約束が崩壊してしまうように思えた。 ニンゲンママ—— ワタシ、こんなに悪い仔なのよ? だから、ワタシを捨てて。 ママの子供なのに、こんな悪い事しかしないワタシを憎んで。 ウンチぶつけなくても、ニンゲンママと仲良くしてても、苦しめてしまうの—— それが、今日やっとわかったの ワタシは…ニンゲンママを不幸にしてしまう ニンゲンママが大好きなのに…幸せにしてあげたいのに 約束を守れない——ママとの約束は、絶対に守れない だから、もう捨てて! 捨てられても、遠くから、大好きなニンゲンママの事を見守っているから ワタシ……もう、辛い…… 「デェェェ……デェェェェ…デスンデスン、デェェェェェエ……」 両手足を糞で汚しながら、マリが嗚咽を漏らし始める。 顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、声を上げる。 俺は、振り上げた手を静かに下ろすと、マリの頭を撫でた。 「デ…?」 「マリ、これを見てみろ」 俺は、ポケットの中から小型の箱のようなものを取り出す。 それはちょっと大きめの液晶が付いたキーホルダーのような形をしていて、横にいくつかのボタンが 付いている。 その一つ・電源ボタンを入れる。 『デス…』 “それは…?” 「よし、ちゃんと動いてる」 「デスデス…?」 “まさか…?” 液晶画面に表示される文字を目で追いながら、俺は頷く。 「型落ちの処分品なんだけどな。今日、店で安く譲ってもらえたんだ」 「デ……デデ……」 “ニンゲン…ママ…” 「前みたいに声としては聴けないけど、これでなんとか、お前の言いたい事はわかるぞ」 「デス…デ、デェェェェ……」 “そんな…そんな…” うろたえるマリに、俺は少し厳しめな口調で追求する。 「さあ、説明してくれるな。どうしてこんな事を?」 マリは、観念したようにべたっと跪くと、周りの壮絶な様子を見て、顔を真っ青にした。 ——どうして…? ニンゲンママが、何か理由があって「コトバガワカルドウグ」をなくしちゃったのは、わかってたの だけど、それはしょうがないと諦めてたの なのに、なのに… 「言いたくないなら、それでもいい」 「デ…?」 「話せるようになったら、その時教えてくれ…」 そう言って、俺はマリを抱きしめた。 付着した汚れは、もうどうでも良かった。 とにかく、今こうしてマリを抱きしめてやらなければ。 そう思ったのだ。 やがて、マリは声を殺して泣き始めた。 その後、マリは結局何も話そうとせず、ひたすら無言を貫いた。 俺は、撒き散らした糞を出来る限り丁寧に処理し、無抵抗になったマリをシャワーで洗い流した。 せっかくリンガルがまた手に入ったのに、結局その晩は、これ以上会話をする事はなかった。 酷い臭いのたちこめる201号室から避難し、臭いの届かない206号室まで移動した俺は、寝転がり 無意味に天井を見つめる。 マリは、何か理由があって糞蟲になった真似をしていた。 自分でも無理をしている事は、よくわかる。 あの態度は、糞蟲と呼ぶにはあまりにぎこちない。 何かを参考にして「演じた」だけなのがモロバレだ。 マリの中で、俺の想像の及ばない複雑な心境変化が起こり始めているようだ。 だがそれを聞き出すためには、今は焦れない。 少し距離を置き、あいつが平静になった時、あらためて話をしよう。 それが、家族ってもんだろう。 俺は、そう思う—— 金融業者との話は、あらかたついた。 まだ金は借りてないが、引越し先が見つかったらすぐ契約してくれるという事になっている。 店長は必死で思いとどまるように言ってくれたが、俺にはもう選択肢がない。 でも、形はどうあれここをちゃんとした形で出て行けるのなら、今はそれでいい。 必ず、マリと一緒に過ごせる最高の物件を見つけてみせる。 さあ、次の課題は不動産屋巡りだ。 これからは、色々と大変だろう。 こんな程度の問題で、くじけている場合じゃないんだ。 もう、時計を確認するのもおっくうだ。 睡魔が訪れ、俺は、吸い込まれるように眠りにつく。 布団もなく、まだ少し肌寒さが残っていたが、あまり気にならなくなってきた。 マリは…ちゃんと眠っただろうか? ※ ※ ※ ニンゲンママ—— ——さようなら ※ ※ ※ 朝日の光が目に飛び込む。 いつのまにか朝になっていたようだ。 腕時計で時間を確認しようとするより先に、何者かが、206号室のドアを開けた。 「こんなところで寝てたのかね!」 「え…? あ、あっ!! か、管理人さんっ!」 ドアを開けたのは、管理人の爺さんだった。 いつもの優しい表情ではあるが、少しだけ「困った奴だ」といった感情が透けて見えた…気がした。 「なんだか部屋が臭かったが、こんな所に避難してたのかね」 「す、すみません、つい!」 「しょうがないねぇ。ま、あえて訳は聞かんよ。——おっと、それより電話だよ」 「で、電話? 俺に?」 「ああそうだよ、まだ繋いでるから、急いでうちに来なさい」 「は、はあ」 誰からだろう? 全然宛てがないぞ。 俺は、じいさんに導かれて急いで管理人宅へ向かう。 途中、やおあきとその母親に逢い軽く会釈したが、ふん、と鼻を鳴らしただけでまともな挨拶は もらえなかった。 まあいい、どうせ、あと少しの辛抱だ。 俺は時代遅れな黒電話の受話器を取り、緊張した声で呼びかけた。 「お、おまたせしました。としあきですが…」 『——久しぶりだなとしあき、元気だったか?』 「に、兄さん?!」 懐かしい声に、思わず身体が震える。 電話の主は、俺の兄・ひろあきだ。 ニ年ぶりに聞く事になるだろうか。 いや、それよりなぜ今頃?! しかも、どうやって俺の居場所を? 「どうして、この電話番号がわかったの?」 『ああ、それはお前の履歴書見たからだよ』 「り、履歴書?!」 『そう、お前のバイト先のペットショップは、今俺が勤めている会社が経営している所なんだよ』 「…って、兄さん! いつの間にそんなところに潜り込んだんだよ?!」 『ふふふ、兄貴をあなどるなよ!』 兄の話はこうだった。 一家離散後、兄はしばらく他の職で食べていたが、ある機会に実装石関係の大きな業務を束ねて いた経験を活かして転身を図る事を決意したそうだ。 その結果、以前勤めていた会社のライバル企業に見事潜り込め、かつて計画していたプロジェクトを 貢物にしてまんまと社内の地位確保に成功した。 その計画とは、そう、かつて大失敗となった実装石を活かしたメンタル改善のアレである。 以前の失敗をパネに、今度は俺の例を参考にしてより完成度の高いプロジェクトに仕上げたようだ。 ただ随分と時間のかかるプロジェクトのようで、まだまだ形にはならないらしい。 現在は、各方面の資料や研究・実験を求めて各地を回っているようで、最近たまたまこの町に戻って きたらしい。 そんな時、俺の勤めるペットショップの店長から、声をかけられた。 ペットショップの店長は以前本社勤務だったのだが、体調を崩したため役職を降り、実家近くの店舗 責任者の役職を貰っており、兄と同じ部署に居た事もある知り合いだった。 俺が面接に来た時点でもしやと気付いていたようだが、兄は自分の存在を俺に明かさないように店長 に頼み、影から見守ってくれていたらしい。 以前、野良実装が紛れ込んだ時のトラブルを、管理体制の問題点にすり替えて俺の身を救ってくれた お偉いさんとは、兄の事だったようだ。 兄は、俺がせっかく頑張っているのだからと、直接姿を見せずに様子を見るつもりだったが、俺が 金融業者から金を借りて引っ越そうとしている話を店長から聞いたため、禁を破って連絡してきたそうだ。 俺は、今まで影から支えてくれていた兄に感謝しながら、静かに話を聞いていた。 『——でな、としあき。お前、怪しい所から金借りるのだけは、絶対やめろよ』 兄が、本題を切り出してくる。 しかし、これは俺には譲れない問題だった。 「いや、それは出来ない。俺はどうしても引っ越さなきゃならなくて…」 『それは聞いてる。だが思い出せ、オヤジがなんであんなに追い詰められたのか。お前、このままだと オヤジの二の轍を踏む事になるんだぞ』 「で、でも…」 『そこでだ。お前…俺と一緒に来ないか?』 「えっ?」 突然、兄が意味不明な事を話し出す。 『俺、来週末には本社のあるニューヨークに戻るんだが、お前うちの社員になって俺の手伝いしないか?』 「——な、なんだって?!」 に、ニューヨーク?! アメリカの? 海の向こうの?! サタデーナイトはディスコでフィーバーフィーバーな、あのアメリカですか?! 困惑している俺の態度を見透かしたように、兄はさらに続けた。 兄にとって、俺はプロジェクトを成功に導ける重要な「生き証人」だという。 だから傍に居れば何かと売り込みに利用できるし、また俺自身がマルとの関わりで身につけた様々 な知識や経験を活かせば、かつての自分と同じような立場の人達に色々と貢献できる何かが出てくる かもしれない、と。 概要はおおまかにしかわからなかったが、とにかく、共に行けば兄にとってとても都合が良い事は わかった。 もちろん、向こうに行けば生活はなんとかなるし、少なくとも今よりは様々な面で改善される事になる。 言語や生活習慣など多々問題は見えるが、今の俺にとってはこれ以上ないほどおいしい話だった。 俺は、反射的に二つ返事で答えようとして、はたと止まった。 「な、なあ兄さん…実は…」 俺は、マリの事を話した。 マルとの再会、そして死、埋葬、今の生活… 兄は、俺が実装石を飼っているという事は店長経由で知っていたようだが、それがマルの忘れ形見 だという事までは知らない。 電話の向こうで、しばし言葉を失っているのがわかる。 兄も、マルをかなり可愛がっていたのだから、当然だろう。 ——と、思ったが。 次に兄の口から出た言葉は、俺にとって、これ以上もないほど残酷なものだった。 『すまんが、としあき。そのマリという仔は連れて行けない』 ※ ※ ※ 兄の言い分は、反論の余地などない正当な理由に基づくものだった。 ペットを海外へ運ぶ時は、農林水産省動物検疫所で必要手続きを行い、日本と海外の両方で輸出 入検疫を行う必要がある。 とにかく、ペットそのものがおかしな伝染病に感染していない事を検査確認し、輸送先の法律と照らし 合わせ輸入が問題なく行われるかどうかの確認が成されなければならないのだそうだ。 もちろん、これは「ペットとして扱われる動物に限った話」であり、決してすべての動物に対して適応 されるものではない。 そして実装石は、現在の日本とアメリカの法律ではペット動物として認知されておらず、また輸出入 検疫手続きも行えない。 これは、どんな高級飼い実装でも例外ではない。 日本を含む各先進国でも、まだ実装石の検疫が充分ではない。 いずれはこの点も改善されるかもしれない見通しはあるが、少なくとも、それは今すぐではない。 兄にとってもこの問題は深刻で、そのため業務で使用する実装石のサンプルは、その都度現地調達 しなければならないのだそうだ。 ——つまり、俺は。 兄に付いて行く事で、自らマルやマリとの約束を破らなければならないという事になる。 「なんとか、ならないのか兄さん?! こっそりどこかに忍び込ませるとか…」 『馬鹿言うな。こういうプロジェクトをやっている俺自身が、そんなヤバイ事をしていたとばれたらどうなる と思う?』 「で、でも、これは…」 『冷たいようだが、ここはお前の生活の問題を重要視しろ。——その仔は置いていけ』 「置いて…いけ? だって…?」 兄が、あえて冷ややかな態度を取っている事はわかっている。 だが、俺はどうしてもその言葉を呑み下せなかった。 俺は…俺達家族は、すでに一度マルを捨てているんだ。 そして、長い間苦労を強いた。 その末に、子供のマリが頑張って生き延びたというのに、それを…もう一度見捨てろというのか! 俺の都合だけで!? 次の瞬間、俺の答えは決まった。 「俺、止めとくよ」 『なんだって?』 「兄さんには付いていかない。俺はマリと一緒に暮らす」 『馬鹿をいうな。お前、それがどういう意味なのかわかっているのか?』 「俺は、自分の事しか考えない卑劣な奴には、もうなりたくない! たとえ相手が実装石でも、約束は 守りたい!」 『としあ……』 ガチャン! 受話器を叩き付け、俺はじいさん達に一礼すると、急いでアパートに戻った。 マリの顔が見たかった、どうしても、すぐに逢いたかった。 アパートに戻ろうとした時、つい鍵をかけ忘れていた事を思い出す。 どうも俺は、慌てて出て行くと鍵を忘れてしまう悪い癖があるようだ。 どちらにしろ、アパート入り口の鍵は201号室にしかない。 部屋に戻ろうとしたら、なぜか、アパートの入り口にはやおあきが立っていた。 「としあきさん、鍵、忘れてるよ」 「あ、ああ、わかってる」 以前は普通に聞いていた声が、なぜか酷く俺を苛立たせる。 無意識にきつい顔になっていたのか、やおあきは数歩後ずさると、首を振った。 「な、中には入ってないよ! 僕、さっきまで家にいたじゃん」 「じゃあ、なんでここに居るんだ?」 「おじいちゃんに言われたんだよ、鍵忘れてたみたいだからとしあきさんが戻るまでここに居ろって。 でも、中には絶対入るなって…」 「見張っててくれた、って訳か?」 「う、うん、どうせすぐ電話も終わるだろうからって」 それを聞いて少し安心するが、相手はやおあきだ、油断はできない。 アパートに戻る前に、やおあきが何か隠してないか調べるが、怪しい様子はない。 俺は、ようやく安心してやおあきに礼を述べると、アパートの扉を開く。 やおあきは、何の言葉を返さずに駆け足で遠ざかって行った。 「——としあきさん、僕、 ア パ ー ト に は 入 っ て な い よ 」 「デス…デェ……」 「良かった、としあきさんにバレなかったね。…さ、行こうか」 ※ ※ ※ 201号室に戻った俺の目に真っ先に飛び込んできたのは、開かれた窓と、窓際に僅かに零れている 実装石の糞だった。 咄嗟に野良実装の侵入を思いつくが、ここは二階、実装石が外から上がってくる事は不可能だ。 だとすると、答えは一つしかない。 先ほどから姿が見えないマリ…まさか、ここから飛び降りたのか?! 窓から下を見るが、そこには何も見えない。 俺は慌ててアパートを飛び出すと、もう一度管理人の…やおあきの家に向かった。 案の定、さっきすれ違ったばかりのやおあきは既に外出していた。 自転車もなく、家人の誰にも行き先を告げていない。 嫌な予感が、胸の中に渦巻く。 俺は、自分の自転車を引っ張り出すと、やおあきの姿を求めて走り出した。 あいつ…あいつ、また、まさか?! もし、そうなら……俺は、俺は今度こそ、あいつを殺すかもしれない!! ※ ※ ※ やおあきの自転車に乗せられ、マリがあの河川敷に辿り着いたのは数十分後だった。 すでに身体の痛みは麻痺し、激痛もさほど感じなくなっていた。 僅かに回復はしつつあったが、二階から落ちて全身を強打したダメージはまだ色濃く残っている。 「ここで本当にいいのかい?」 やおあきが、サドルに座ったままマリに話しかける。 マリは、手に持ったリンガルをやおあきに差し出し、デスデスと力なく答えた。 「なになに…“ここでいいデス、ニンゲンさんありがとうデス”…ね。はいはい」 やおあきは、少しひび割れた液晶に表示された翻訳文字を見て納得すると、マリをかごから抱き 下ろし、河川敷を降りていった。 ここは、マルの墓がある場所。 以前、としあきと共に訪れた場所。 かつて野良実装に瀕死の重傷を負わされた場所の、対岸。 マリが、自ら求めた地だった。 「僕は、あくまでお前の頼みを聞いただけだからね。何も悪くないからね」 「デ…デデ…ス」 “わかっていますデス。感謝してますデス” 「としあきさんやおじいちゃんにバレても、僕には責任なしって事でいいね?」 「デスゥ……」 “も、もちろんデス…” 「わかってるならいいや。じゃあ、この辺でいいか?」 そう言うと、としあきはマリを足下の草むらに投げ捨てた。 決して乱暴に叩きつけたわけではなかったが、背骨を傷め、腕と足を一本ずつ骨折したマリにとって は、凄まじすぎる追撃になった。 「デギャ……!!」 「だって、丁寧に扱えって言われてないもんね。それに、お前が自分からとしあきさんのペットを辞めるって 言ったんだから、もうタダの野良実装だよね?」 「デ…デデ…デデ…」 “そ、その通りデス…で、でも、だからって…” 「というわけで。——やっと、あの時の仕返しが出来るわけだ♪」 「——デ?!」 そう言うが早いか、やおあきは無抵抗のマリに襲い掛かり、実装服をビリビリに破り捨てた。 あの時と同じように。 としあきが実装リンガルを売ってまで買ってくれた、大切な実装服が、あっという間に細切れにされ、 ばらまかれる。 「デ、デギャアァァッッ!!」 「ハハハ♪ やっぱりお前は、禿裸の方が似合うって」 「デ、デギ……ギィィィ…」 「おっと、もう願いは聞いてやったんだからな。後はもう知らないよ」 やおあきは、そう言うとマリの持ってきた実装リンガルを足で踏みつけて壊し、河に向かって思い切り 強く放り投げた。 ——ポチャン! 「デ…!」 「さーて、これでもうお前は誰にも助けてもらえなくなったよ。大丈夫、僕はもう何もしないよ。このまま 見てるだけだからね」 「デ…デデ…」 「お前の無様な姿見てたら、なんかさ、直接甚振るよりも面白いかなって思うようになって来てね」 「デ…ヒィ…」 やおあきの言葉が本心だという事は、すぐに理解できた。 自分から少し離れた位置に立ち、冷ややかな目で見つめている。 その、とても少年とは思えない冷酷な眼差しに、マリは心底震えた。 「このままお前が回復してどこかに隠れられるか、その前に野良実装に見つかってイビリ殺されるか、 どっちになるか楽しみだね。——僕、あれから実装石に詳しくなったんだ。野良実装って、禿裸の仲間 を嬲り殺すのが大好きなんだってね♪」 「デシャアァ…」 反射的に叫び声を出しそうになるが、咄嗟にやおあきが平手を向けてそれを静止する。 「おっと、声を出すとすぐに気付かれるよ?」 「デ……!!」 愉快そうに、本当に愉快そうに、薄ら笑いを浮かべながらやおあきが呟く。 わざとらしく声を潜める態度は、やおあきの心の中の闇を垣間見せている。 マリは、自分の重大な選択ミスを痛感させられ、言葉を失いかけていた。 浅はかだった。 いくら賢い実装石と言っても、マリは「甘さ」まで克服できなかった。 あまりにも、安易に人間を信じすぎてしまったのだ。 夕べ、としあきが206号室に移動してからしばらく。 マリは、自分の力でアパートを出て、としあきの許を去ろうと決意した。 自分がどんなに糞蟲を演じても。 どんなに暴れても。 としあきは、自分を優しく受け入れてしまう。 ——それでは、ダメなんだ。 自分が、としあきの負担になってはダメなんだ。 マリは、201号室の窓の開け方を知っている。 以前としあきから、換気のために開ける術とコツを習っていたからだ。 マリは、そこから外に飛び出してアパートを出る事にした。 部屋のドアを開け、廊下を歩いて階段を下りようとすると、絶対にとしあきに気付かれ止められてしまう から、これしか選択肢がなかった。 としあきが部屋に残していった実装リンガルを手にして、旅立つ決意を固める。 これは、ある理由でどうしても持って行く必要があった。 だが、いざ窓際に立ったマリは、窓の外の様子が自分の想像を遥かに超えるものだという事を 思い知らされた。 今までとしあきと共に二階へ移動していたマリは、「201号室の高さ」というものをまったく理解出来て いなかった。 窓から飛び出せば、少し怪我するだけで無事に逃げられると思っていたのだが、そんな甘い思考は 見事に打ち砕かれた。 遥か下に広がる薄暗い庭は、奈落の底を思わせる迫力がある。 ここから落下すれば、間違いなく死んでしまうだろう。 だがマリは、それは外が暗いからだと考えた。 明るくなれば下が良く見えるようになって、今より降りやすくなるだろうと無根拠に想像する。 賢いマリにも、「物事を都合よく解釈してしまう」短絡的発想力が働いてしまったのだ。 もはや、下に降りるという行為にすべての意識を奪われたマリは、窓を開けたまま明け方を待ち 続けた。 眠い目を擦り、飢餓感に必死で耐え、庭がよく見えるようになるのを待った。 朝が来れば、窓から庭までの高さが縮まるとでも考えたのか。 だが明るくなると、逆に高さがはっきり把握出来るようになり、かえって恐怖感が増す。 残酷な事実に気付いたマリは、夜に味わった以上の恐怖にガクガク震えながらも、必死で自分に 言い聞かせていた。 同じ頃、としあきが206号室で目覚め、管理人に導かれてアパートを出た事にすら気付かずに。 もし、この時としあきが、アパートの鍵を取りに201号室に戻っていたら。 間違いなくマリは助かっていた。 ここでも、マリは自身に降りかかる不幸の洗礼を浴びていたのだ。 やがて、下に誰かが姿を現す。 それをとしあきの影だと思いこんだマリは、慌てふためき、部屋の中に戻ろうとしてつい足を滑らせて しまった。 ——真下には、何気なく201号室の窓を見上げていたやおあきが居た。 落下して来たマリを咄嗟に受け止めようとしたが、両腕の隙間をすり抜けてしまった。 やおあきの腕に一瞬引っかかったおかげで、ある程度衝撃は緩和された。 それでも、地面激突のダメージは大きかった。 成体だったから即死は免れたが、もし、今より発育が悪かったら間違いなく身体は潰れていただろう。 マリは、瀕死の状態にも関わらず実装リンガルをやおあきに掲げ、懸命に声を絞り出した。 “お願いデス、ワタシを——ある所に連れて行って、捨ててくださいデス…” としあきが電話を終えて戻ってくる、約十分前の出来事だった。 ※ ※ ※ 河川敷に捨てられたマリは、河をまたく橋桁の下、影になっている目立たない箇所に隠れていた。 堤防に沿って斜めに建てられたコンクリート製の橋桁は特異な形状の隙間を作り上げており、マリ くらいの体格の実装石にはベストな場所だった。 しかも、手前には背の高い草があり、中を容易に覗かれる事はない。 幸いこの河川敷にはさほど多くの野良実装は住んでいないようで、放置されてからは、まだ一組の 家族にしか出会っていなかった。 その一家との出会いは、マリにとって幸運だった。 たまたま出会った野良実装の一家は、ボロボロのマリを発見すると、急いでここに運び傷を洗って くれた。 そして自分達の食べ物を分け与えてくれたのだ。 その一家はかつて飼い実装だった者達で、心無い飼い主に捨てられたのだという。 ようやく身につけた野良生活の知恵を躊躇う事なくマリに伝え、救おうとしてくれた心優しい一家だった。 自分より大きな親実装と、可愛らしい二匹の仔実装。 禿裸にされたにも関わらず、優しさを向けてくれる。 マリはとても感謝感激し、傷が治ったら是非ともお礼をさせて欲しいと強く願い出た。 実装石同士で、こんな暖かな関係を築けたのは、マリにとって初めての経験だった。 これまで自分に優しかった実装石は母親のマルだけであり、それ以外は自分の命を脅かす脅威で しかなかった。 しばしなごやかな雰囲気の会話が弾み、マリの心が幾分か癒された頃。 仔実装の一匹が、どこからともなく一輪の花を採って来て、笑顔でマリに見せた。 「おチビちゃん♪ とっても可愛らしい、綺麗なお花デスね」 母親は、仔実装からその花を受け取ると、さらにマリの眼前に突きつける。 「さあ、これを使うデスよ」 母親実装石が、突然意味不明の事を言い始める。 「デ? ど、どういう意味デスか?」 「これを使って、すぐに子供を作るデス」 「デ?」 母親実装は、花を自分の股間に寄せ軽くパタパタと振ってみせる。 そして、先程より少し真剣な表情になり、さらに説明を続けた。 「ここは仲間が少なくて公園より安全な代わりに、食料調達にはとても不便デス。ワタシ達も、これ以上 あなたのために大切な食料を分ける事はできないデス。だから、食料は自分で作るデス」 「自分で作る? 意味がわからないデス…それは…?」 「オバチャン、このお花でアフンアフンして、蛆チャンとか親指チャンを一杯産むテチュ!」 「それで、その仔達を食べればいいテチュ!」 「デ……?!」 はじめは冗談だと思ったが、母親も仔実装達も、真面目に話している事が雰囲気で理解できた。 同族食い…しかも、産んだ子供を自分の糧にする… それは、マリには想像も出来ない陰惨なものだ。 それを、この優しげな一家が推奨している。 「ここは、そうでもしないととても生きて行けない所デス。ワタシも、賢いこの仔達だけを残して、後の仔 を食べて生き続けたデス。強制はしないデス。でも、よく考えるといいデス…」 「デデ…」 それだけ言うと、母親実装は子供達の手を引いて隠れ家から去っていった。 その場に残されたマリは、呆然と、傍らに置かれた一輪の花を見つめていた。 今は、それしか出来なかった。 ※ ※ ※ 自転車を走らせ、思い当たるところを駆け巡る。 以前やおあきがマリを虐待した河川敷、林と繋がっている公園、打ち捨てられた廃墟ビル、工場裏、 山の麓…しかし、マリの姿はまったく見えなかった。 夕方前に一度帰宅し、腹に詰め込む物を取りに戻る。 その時、管理人の家の傍でやおあきの姿を見止めた。 「やおあき! お前…マリを——」 「何、またあの実装石のこと? いい加減にしてよね」 「な?!」 「僕、 と し あ き さ ん の 飼 い 実 装 に は 何も手出ししてないよ? 言いがかりはやめて 欲しいんだけど」 堂々とした態度で、真正面から否定してくるやおあき。 その態度からは、とても何か隠し事をしているようには見えない。 こいつが何かイタズラを黙っている時は、もっとオドオドする筈だ。 だが…何かが引っかかって仕方ない。 「で、でも…それじゃあ、あいつは…?」 「知らないよ。第一、あれだけおじいちゃんに叱られたのに、また僕が何かすると思ってるの? 酷いよ としあきさん」 「——ぐ…」 「頼むからさ、もう僕を疑うの止めてくれない? すごく迷惑なんだけど」 そう言い放つやおあきの顔が、冷酷な笑みを湛えている事に、俺は気付いていた。 恐らく、こいつが言っている事そのものは本当なのだろう。 だけど、それ以外の何かを知っている事も間違いない。 マリの情報を持っている事と、自分がマリに何かした事は関係ない。 そう思っているのだろう。 ——やむなく俺は、やおあきに向かって、土下座をした。 「頼む…なんでもいいから教えてくれ! あいつは…マリは、俺が絶対に守らなきゃならない特別な実装石なんだ! 俺は、何があっても、あいつを失うわけにはいかないんだ!! どんな事でも聞く。 だからこの通りだ、マリの事で知っている事があったら、何でもいいから教えてくれ!」 必死で頭を下げ、懇願する。 俺を見下ろすやおあきが、一瞬、何かを言いかけて止めた事に気付く。 だが次の瞬間、俺は、自分の精神力の限界に挑戦させられるハメに陥った。 やおあきは、クスクスと愉快そうに笑い始めた。 「じゃあさ、実装石を殺して見せてよ」 「え?」 「僕、見てたよ。前にあの実装石を探しに行った時、野良実装を踏み潰していたよね? 僕、あの時の としあきさん見てスゲーって思ったんだ。人が実装石殺しているところ、初めて見たんだから」 「…?」 嫌な予感がする。 とてつもなく、嫌な予感が。 例えようもないほどドス黒い何かが、俺の胸の中に宿る。 「あの時みたいに、問答無用で実装石を殺すとしあきさんを、もう一度見たいんだ。 それを見せてくれたら、僕、としあきさんの飼い実装の事教えてあげるよ♪」 ※ ※ ※ 夜の帳が降り始めた河川敷は、地獄の世界になった。 隠れ家の中から外の様子を見ていたマリは、それを腹の底から実感させられた。 どこからともなく姿を現してくる、成体の野良実装。 それが、互いの子供達の肉を求めて争い、闘う。 数こそ多くはなかったが、そこかしこで悲痛な悲鳴と、勝ちどきの声が聞こえてくる。 その様子に、マリはただ震えるしかなかった。 あの親子が言っていた事は、真実だった。 ああでもしないと自給自足は出来ないし、それですら、下手をすると他者に奪われてしまうのだ。 それほどまでに過酷な、生存競争。 それが、ほんの僅かな河川敷のエリア内で起こっているのだ。 マリが隠れている所までやってくる実装石は、今のところいない。 あの親子が、とっておきの死角を教えてくれたようで、傍を通る実装石の誰もがこちらに注意を 向けない。 まるで透明人間の視点で、実装石同士の争いを眺めているような気分。 そんな不可思議な感覚の中、マリは、ただひたすらとしあきの名前を心の中で叫んでいた。 助けて、たすけて、ニンゲンママ! 怖いよ…ここ、こんなに怖いよ! ごめんなさい、ごめんなさい! ワタシ、やっぱりニンゲンママのお傍に居たい! 助けて、助けに来て! ニンゲンママァ…… アパートを出た時の決意は、とっくに恐怖に侵食されて消滅している。 今のマリは、ただ外来の驚異に怯える愚かで無力な実装石に過ぎなかった。 としあきやマルから受けた教育も、それまでの幸せな生活の記憶も、すべて関係ない。 少しでも油断したら、その瞬間自分の存在が消失してしまうという絶望… ただ、それに必死で抗うしかなかった。 マルが、どうしてあんな場所を選んだのか。 どうして、他の野良実装から距離を置いていたのか。 今までそれらを漠然としか理解していなかったマリは、今更ながらマルの賢さを実感させられていた。 マリは、母マルの墓の傍で過ごしたいと思った。 だが、なぜあの時としあきがわざわざマルを火葬にしたのか、その意味を考慮するのを怠っていた。 としあきは、ここにはマルの遺体に害を成す存在が潜んでいる事を理解していた。 その考えを少しでも読んでいれば、マリは、自分が捨てられるべき場所にこの河川敷を選んだりは しなかった筈だ。 かつてマルと共に過ごした、あの廃屋の隅が、彼女にとってベストな場所だったのだ。 だが、あそこではマルが殺され、食われたという忌まわしい思い出がある。 母を死なせたあの場所は、マリにとって忌まわしい以外の何物でもない。 そんな判断が、益々マリを「平穏な環境」から遠ざけていたのだ。 もっとも、やおあきに巡り会ってしまった時点で、あの場所で無事に過ごせたという保証はどこにない のだが。 「——デギャァァッッ!!」 「デ、デ、デギイィィッッ!!!」 「テチャアァァッ!! チベッ!!」 突然、外の様子が変わった。 今まで聞こえてきた怒声や悲鳴の質が変わり、まるで、外に居る実装石のすべてが別な恐怖に おののいているような気配を覚える。 恐る恐る、外の様子を窺う。 と、その瞬間、頭を半壊させた成体実装が、マリの居場所に首をねじ込んできた。 「デギャ?!」 「ダ、ダズゲ……デ、デズ……」 「デ、デデッ?! あなたは、まさか…?!」 マリは、感覚で理解した。 その半死半生の実装石は、先程この場所を教えてくれた、あの親切な母親実装だった。 だが、その姿はもはや見る影もない。 何か大きな力で叩き伏せられたようで、頭だけでなく、全身に大怪我を負っている。 そして、右手には仔実装の生首を一つ、左手には仔実装の下半身をぶら下げていた。 「まさか…そ、それは…!?」 「ゴロザレダ…デズゥゥ……ニンゲン、ギャクタイ…ニゲ…」 ——パキン! そこまで言うと、母親実装は大量に吐血して自壊した。 偽石の割れる音が、やけに鮮明にマリの耳に届く。 そして、まるでそれに呼応するかのように、胸の奥の痛みが蘇る。 ——ズキン——!! 「デ……!!」 思わず、呻き声を上げる。 その瞬間、目の前の母親実装の死体が動き出し、ずるずると外へ引きずられた。 何者かが、死体を引きずり出したようだ。 「——ここにもまだ居るよ♪ としあきさん!」 「……」 二度と聞きたくなかった声が、二度と逢えない筈だった愛しい者の名前を呼ぶ。 としあき…さん? としあきさんって、ニンゲンママの事だ。 ニンゲンママ……助けに来てくれたの?! 「デ……デギャアアアッッッ!!!」 中を覗き込むやおあきの影におののきながらも、マリは、ありったけの声で叫んだ。 ——ニンゲンママァァァァッッ——!!! 実装石達の断末魔は、まだ途切れない。 だが、それもすぐに静かになる。 何者かの足音が、枯れ草や小石を踏み、蹴散らしながら近寄って来るのがわかった。 「としあきさん、この中にまだ居るよ、こいつも殺っちゃおうよ」 「——そいつ、怪我してるじゃんか」 「何を今更。さあ、もっと殺ろうよ! 僕、だんだんテンション上がって来たんだから♪」 「もういいだろ、もう…。いったい、何十匹殺したと持ってるんだ?」 「エエー? もう終わりなのぉ? つまんないよーっ」 「……いい加減にしろよ、やおあき。俺が、どんな気持ちでこんな事してると思ってるんだ」 「…ひぇ…!!」 耳障りな子供の声と、優しくて…それなのに、今はとても怖い、懐かしい声が、交互に響く。 としあきが、そこに居た。 だがその声は震え、感情を必死で押し殺しているようだ。 マリは、いつしか隠れ家のさらに奥に潜り込んでしまっていた。 なぜ、距離を置いたのかは判らなかった。 だが、一つだけ確信があった。 ——穴の中を覗き込んだとしあきは、この姿を見たのに、自分の事に気付いてくれなかった。 裸にされ、泥と血で汚れまくった姿は、もはやとしあきにとってのマリではなかったのだ。 否、それでも名乗り出れば、としあきは自分を受け入れてくれるだろうという確信はあった。 だが、マリは——なぜここに来る事を望んだか、本来の目的を思い返す事が出来た。 としあきに気付いてもらえなかったという、小さな無念の気持ちが、恐怖の渦に溺れるマリの思考を、 一時的に正常に戻したのだ。 「さあ、言えよ。マリはどこに行った? 何があったんだ?!」 「わ、わかったから、胸倉掴まないで!」 「早く言え! 俺は…もう絶対やりたくないと思った事を、ここまでやったんだぞ。お前にも約束は守って もらうからな…」 「わ、わかったよ! わかったってば!」 言い争いの声が聞こえる。 しばしの静寂の後、軽く咳き込む声がする。 やがて、落ち着きを取り戻したやおあきの声が響いてきた。 「——としあきさんの飼い実装は、窓から落ちてきて、僕に捨ててくれって頼んだんだ」 「嘘つけ! どうしてそんな事が…」 「実装リンガル持ってたんだよ。だから僕、あいつの言う事聞いてやったんだ」 「嘘つけ…やおあき、お前、この期に及んで…」 「う、嘘じゃないってば! だって、実装リンガルなかったでしょ?! だから僕、あの実装石を捨てに行った んだ! 隣 町 ま で ! 」 「——!!」 やおあきが、としあきに凄まれながらも嘘を言っている。 マリは、やおあきの狡猾さを憎みながらも、その発言に僅かながら感謝した。 自分は、ニンゲンママのすぐ傍に居る でも、もう、逢っちゃいけないんだ そう、ワタシは…自分から捨てられる事を願ったの だから、これでいいの これでいいの—— 胸の奥が、激しく痛む。 ここまで強い痛みの連続は、初めてだった。 苦しい、息が出来ない。 身体が動かせない、悲鳴も上げられない。 まるで、体の中枢部を直接捻られているような、鈍くて強い、抗えない激痛。 自分の想いが、誓いが、本当の心と強くぶつかっている。 そのために悲鳴を上げる、傷ついた偽石。 マリの、最大の不幸が眼前に迫っている。 「隣町の、廃工場だな」 「うん、間違いないよ」 「——あそこも、凶暴な野良実装の巣窟じゃねえか!」 「あれ、としあきさんなんで知ってるの?」 「昔、そこで……いや、なんでもない」 「? どーでもいいけど、行かなくていいの? 早く見つけてやらないと、あの実装石死んじゃうかもよ?」 「…!」 やおあきの声に反応して、としあきが全力で走り去っていくのがわかる。 必死で激痛と戦いながら、マリは、としあきとの本当の別れが訪れた事を自覚した。 ピシッ かろうじて動く右手を掲げ、虚空に向かって敬礼する。 それは、としあきに対する最後の別れの礼のつもりだった。 と、次の瞬間、突然身体が引きずられた。 「デッ?!」 抵抗の余地もなく、あっという間に隠れ家から引き出されたマリは、そのまま地べたに放り出された。 「——デベッ!」 「良かったね」 「デ…」 「これで、本当に捨てられる事が出来たよね、おめでとう♪」 やおあきが、またあの冷酷な笑顔で見下ろしている。 マリはこの瞬間、すべての幸運を使い果たした。 一片のかけらすら、残さずに。 ※ ※ ※ マリ——マリ! なんで、そんな馬鹿な事をしたんだ! 俺は、お前を絶対守り抜くって決めたんだぞ! 俺の事を変えてくれた、マルに誓って! ——いや、もうマルは関係ない! 俺は、マリ、お前が大切だから…大好きだから、傍に居て欲しかったんだ! それだけだ…それだけなんだ!! そのためなら、俺は、どんな苦労をしたっていいんだ! 待ってろよ、マリ! 俺が、絶対にお前を助け出してやるからな!! そして、今度こそ、一緒に——仲良く暮らそうぜ……!! ※ ※ ※ 瀕死の様子に飽きを覚えたやおあきが立ち去った後。 マリは、自分が放り出された場所が「さらなる地獄」であった事を理解した。 周囲には、無数の実装石の死体。 いずれも、押し潰され、踏み砕かれ、引き裂かれ、捻り千切られたものばかり。 一つたりとも、まともな形状の死体はない。 すべて、としあきが行った凶行の結果だ。 やおあきの命で、マリを救うために、やむなく行った虐殺の跡。 としあきは、もはやかつてのように徹底した虐殺願望を振りかざす事はなくなっていた。 以前はどの個体も原型を留めないほどぐしゃぐしゃにしていたものだが、この死体の山は、いずれも 殺害方法こそ残酷だが、すべて一撃で葬られていた。 死に損なって自壊した者も居たには居たが、そういうものに執拗にトドメを叩き込むような真似はして いなかった。 ただ、やおあきの望むままに、形だけ行われた「心無い虐殺」。 だが、そんなとしあきの行為も、今のマリの理解を得られるものではない。 まして、この中途半端な惨状は、さらなる予想外の悲劇を連鎖的に生み出していた。 どこからともなく、生き残った実装石達が歩み寄ってきた。 数は多い。 今までどうやって隠れていたのか不思議だったが、どんどん、どんどん集まってくる。 その目的が、としあきの屠った野良実装達の死体なのは明白だった。 河川敷の実装石の数が少ない、というマリの予想は、完全に的はずれなものだった。 あの母親実装が言っていた。 この河川敷では、食べ物が不足している。 だから、自分の子供を食ってでも生き延びる必要があると。 つまりそれは、この河川敷を根城にする野良実装達のほぼすべてが、同族食いを平然と行えるように なっている事を意味していた。 「デ…な、な…!?」 無言で、まるでゾンビのように近付いてくる野良実装の生き残り達。 その数は、実は大して多くはなかった。 せいぜい成体が5、6匹、仔実装が3、4匹程度だ。 だがマリには、それが無数の大群のように見えていた。 ゴチソウデス クソニンゲンガゴチソウヲメグンデクレタデス ナカナカミドコロノアルヤツデス ウマウマテチュ、コイツトテモウマイテチュ ウジチャンハ、コノノウショウガタマラナクスキレフー イマノウチニイッパイタベテオクデス 恐ろしい囁きが、次々に耳に飛び込んでくる。 死体の山の端の方に居るマリの存在には、まだ誰も気付いていない。 すぐ目の前の新鮮な死体に気を惹かれているようだ。 凄惨な光景は、マリの、あの忌まわしい記憶を呼び戻した。 母の死体を食い漁る、仔実装達の… その瞬間、マリの心の中で、また何かが弾けた。 そうだ、忘れていた ママは、あの時死んでしまったのに それでも、ずっとニンゲンママのお傍に居た ニンゲンママの、肩の後ろでニッコリ笑っていた ニンゲンママの幸せを、ずっと願っていたんだ ワタシ、ママと約束してた ニンゲンママを見守ること ニンゲンママとも約束した ワタシが見守るって ——ワタシ、約束を守らなきゃ! デギャ?! イキテルヤツガイルテチュ! アイツモクウデス イキナガラオドリグイレチュー♪ 野良実装達が、マリに気付いた。 だがマリは、懸命に、死地から逃れようと動き出した。 まだ、潰れた手足は完全に回復してはいない。 かろうじて立ち上がれたものの、ふらふらしてまともに歩けない。 それに、胸の痛みはもう耐えられないほどに脹れあがっている。 だけど。 マリは、そんな身体を必死で鞭打った。 何があっても、ここから逃げ出してみせる。 そして、としあきの傍に。 としあきを見ていられる場所に。 としあきを見守り、幸せにするために。 いつしかマリの心の中では、自分が見守れば、としあきは必ず幸せになれるという図式が成立して いた。 それは、実装石特有の、自分勝手な妄想の発展に他ならない。 だが今のボロボロのマリには、それしか頼るものがなかった。 たとえどんなに微かなものでも、すがりつける自信が欲しかった。 そうでなければ、マリは、今にも倒れ伏してしまいそうだったから。 ニゲルナデスゥゥゥゥッッ スグニツカマエテヤルデスゥゥッッ 背後から、どんどん野良実装達の声が近付いてくる。 絶対に、捕まらない! ワタシは、ニンゲンママのところに行くんだ! ニンゲンママを見守る事が出来る場所に! —— 絶 対 に ! だが、マリが捕まったのはその直後だった。 背中からタックルされ、前のめりに倒れる。 そして、次々に野良実装達が群がってくる。 コイツハゲハダカデス イキタエサハサイコウデス ホネマデシャブルテチュ ブッコロセレチュー 「デ、デギャアア———ッ!!!」 左手に、右足に、後頭部に激痛が走る。 食い付かれ、肉を引き千切られる。 毛や服という障害物がないため、マリは、複数の野良実装達によって全身を同時に齧られ始めた。 もはや、抗う術はない。 マリはただ、飢えた野良実装達の餌食となるしかなかった。 としあきも、マルも、助けてはくれない。 としあきを、見守る事も果たせない。 胸の痛みが激しさを増す。 それは、肉体が感じる表面的な痛みを遥かに凌駕する、実装石にとって最大の苦痛だった。 ——偽石の、崩壊。 ピシ… ニンゲンママ…ママ、ごめんね—— ピキッ… でも…ありがとう—— ピシッ ニンゲンママ…素敵なお名前をくれて……アリガトウ… パキ… マリ——ワタシの名前は、“見守りたい”からマリ—— ワタ シハ マ リ パキン 偽石が、砕けた。 マリの胸の痛みは、永遠に、消えた。 ——ずりっ ずりっ… 「デ?!」 「どうしたデス? ママ」 「こ、こいつ、まだ動いているデスっ!!」 「デ?! デ、デシャァッ?!」 「な、なんでデス?! さっき偽石は割れたデス?!」 ずりっ…ずりっ… ずりっ…ずりっ… 「偽石が割れた音…しっかり聴いたデス」 「だったら、死んでる筈…デス……なのに…」 「デ、デキャアアァッッ!!!」 野良実装達の言う通り、マリは、死してなお動いていた。 偽石が割れ、身体から引き出され、左腕も、両脚もほとんど失ったのに。 オッドアイは色を失い、すでに灰色に染まっているのに。 その顔には、死を迎えた直後の、絶望の色を残しているのに。 それなのに、マリはなおも身体を揺らし、かろうじて残った右腕を動かし、前へ進もうとしていた。 死の間際、己の名に込められた使命を思い出し、命が尽きた後も執念だけで動いていた。 その姿は、野良実装達を怯えさせるのに充分過ぎる効果があった。 成体実装達はいずれもパンコンし、或いは走り去り、仔実装の中にはあまりの恐怖に偽石を自壊 させる者もいたり、突然混乱して蛆実装を齧り始める輩まで居た。 結局、マリはほんの数センチだけはいずった後、すぐに動かなくなってしまった。 動いた時間も、ほんの僅かだ。 だが野良実装達にとって、もはやマリは化け物以外の何物にも見えなかった。 死体の山の一角に放置されたマリは、そのまま風に晒される。 だがそれも、翌日、恐怖を忘れた野良実装達に食い尽くされるまでの僅かな間の事だった。 としあきは、ついにマリと再会する事はなかった。 ■□■ EPILOGUE ■□■ ——あれから、十五年が過ぎた。 その後の俺は兄に再度説得され、ついに折れた。 マリと別れた事がきっかけになったのは、言うまでもない。 俺は、兄と一緒に日本を去った。 それまでの人生をすべて振り切るつもりで必死になって働いた俺は、その後社内で順調に昇進を 繰り返し、なんとかそれなりの収入を得られる身分になった。 今の部下達に俺の昔の話などしても、多分誰一人として信用してはくれないだろう。 今では日本支部長として活躍している兄の影響なのか、俺は本来の地位よりもかなり高位に立つ 人間だと考えられているようだが、決してそんな事はない。 俺は今でも、あの時の苦労を忘れずに生きている。 そして、未だに心の中には—— 俺はある日有給を取り、ふと、以前過ごしたあの町に出かけてみた。 懐かしいアパートはあの時の姿のまま残っていたが、入り口は木の板で閉鎖され、窓にはカーテンも なく人が住んでいる気配はまったくない。 俺が住んでいた201号室の窓だけが、なぜか少しだけ開けられていた。 管理人一家には会わなかったが、風の噂で、あのじいさんが亡くなられた事を知った。 やおあきは何をしているんだろうか、相変わらず虐待派なのかな。 あまり思い出したくない存在だが…今更あの頃の感情を引き戻しても意味はない。 このアパートも、近々取り壊す事が決まったそうだ。 辛い記憶が多いが、俺にとって大切な日々を過ごした場所がなくなってしまうというのは、やはり寂しい。 俺は、ほんの数分間だけ、あの思い出の部屋の窓を眺めて、立ち去った。 この町は、何も変わってはいなかった。 アパートの周りも、通い慣れたコンビニも、散々お世話になった公衆電話までそのままだった。 電話待ちの退屈しのぎで、公衆電話の脇にこっそり貼り付けた就職情報誌のシールがまだ残っていて 苦笑させられる。 バイト先のペットショップも、店長は変わったものの相変わらずだった。 ショーウインドウの向こうで、躾済み実装石達がテチテチ鳴いているようだ。 あれから、実装石の商品需要はかなり高まったから、今後ここはさらに発展していくだろう。 ふと目が合った店員に軽く会釈をすると、俺は先を急いだ。 マルとマリが住み付いた、廃屋の資材置き場。 ここも、あの時のまま時間が止まっていた。 木箱も、立てかけられた用途不明の木材も、その上のビニールシートも、ドラム缶も… 俺が作ったボロ布のクッションだったとおぼしき残骸まで、ご丁寧に残されていた。 まるで、ここで少し待っていたら、マルがデスデス言いながら帰ってきそうだ。 そして、俺を見て笑顔を浮かべたり…… 最後に向かったのは、あの河川敷だった。 もう、ずっと来ていなかったマルの墓。 最後に忌まわしい思い出を作ってしまったため、どうしても来辛くなっていた所。 時が止まったこの町で、あの墓標はまだ残っているだろうか? マルの墓は、もはやそこに何があったのかすらわからない状態になっていた。 少しだけ開けていた周囲はすっかり背の高い草で覆われている。 最初に見た時、本当にここで良かったのかと思うくらい、記憶と違っていた。 ——マルの墓は、ただの地面の一角となっている。 何が通りかかっても、そこが墓だとはわからない。 恐らく、この辺に巣食う実装石達も、無造作に踏みつけて通り過ぎて行くだろう。 俺は、それでもマルの墓の前で跪き、マルの遺灰を埋めた辺りを手で撫でた。 ——ただいま、マル。 静かに眠れていたか? 少しだけ湿り気を帯びた土が、ひんやりとした感触を手に伝える。 ひょっとしたら、マルの魂はもうとっくにここから旅立ってしまっているのかもな。 もう二度と、ここへ戻る事はないだろう。 今の俺には、家庭があり、本当の意味で守るべき者達が居る。 そこへ、帰らなければならない。 十五年前、俺の人生の転機に大きく関わった実装石…マルに、心の中で厚く礼を述べる。 そして、さよならと、静かに囁く。 不思議と、悲しくはなかった。 ただ、たとえようのない虚無感があった。 そして、厚い感謝の気持ちと—— 町から遠ざかる電車の中で、マリの事を考える。 あれから、あいつはどうなっただろう? きっとマリの事だ、マルが野良生活へシフトしきれたように、持ち前の強さで巧く生き伸びたに違いない。 そう信じて、俺は生き続けて来た。 そうでもしなければ、気が狂ってしまいそうだったから。 隣町の廃工場を、徹夜で探し回ったにも関わらず、マリとはついに出会えなかった。 あの時の夜明けの光は、多分一生忘れない。 俺は、もう二度とマリに逢えない事を理解し、心の底から泣いたものだ。 だが、どちらにしろ…もう、マリ生きては居ない筈だ。 十五年という時は、人と実装石を繋ぐにはあまりにも長すぎる時間。 マリは、最期に何を見たのだろう? あいつは、最期に何を思っただろう? その思いの中に、俺の姿はあっただろうか? 俺はこの町に来る直前まで、マリの事をすっかり忘れていた事に気付いていた。 それだけ、俺の十五年は激動だったのだ。 無論、心のどこかで微かに引っかかり続けてはいたのだが。 あんなに大切に思っていた実装石なのに、なんて冷たい奴なんだと、自分を罵る。 そして、心の中で、マリに深く詫びた。 ※ ※ ※ 有給も終わり、自宅に戻ってから数日後。 良く晴れた日曜日の午後、俺は、自宅の近くを愛娘と共に散歩していた。 「パパー♪ こっちこっちぃ!」 まだ幼い娘は、容赦なく父の休みの時間を奪っていく。 だが、それが何より幸福な証でもある。 燦々と照らされる暖かな日差し、のどかなひととき。 あの時は決して手に入れられないと思っていた、充実した時間がここにある。 不幸のどん底で呻いていた時代を思い返しながら、俺は娘を抱き締め、今の幸せを神に感謝した。 「パパー。ホラ、あそこ」 「ん?」 娘が、我が家の門の辺りを指差している。 「あの子、どこから来たのかな?」 「んー?」 そこには、一匹の成体実装石が居た。 髪はなくなっていたが、実装服を身につけ、静かに佇んでいる。 何も鳴かず、騒いだりせず、媚びたりもせず、ただ静かにこちらを見つめていた。 ご近所は、どこも実装石を飼ってはいなかった筈だ。 無論、うちでも飼っていない。 見たところ服も綺麗だし野良ではないようだが、とにかく妙に大人しい。 何より、俺達の姿を見て何のリアクションも示さないというのが、奇妙だ。 「あの子、笑ってるよ」 「笑ってる?」 「うん、とっても嬉しそうだよ」 思わず娘に聞き返す。 静かに佇む、無表情な実装石。 それは、とても涼しげな眼差しで、まるで俺達の事を見守っているかのようだった。 もう一度、その実装石を凝視する。 俺の中で、何かが音を立てて繋がる。 そうだ、俺は…こいつを知っている。 涼しい眼差しの実装石は、接近した俺に向かってふっと微笑む。 今度は、はっきりとその笑顔がわかった。 そして、そいつがなぜそこに居るのか、その意味が理解できた。 懐かしかった。 涙が溢れそうになった。 俺は——遠い昔に失った大切なものに、やっと、巡り会えた。 「マリ」 静かに、語りかける。 恐らく、娘は不可思議な顔で俺を見ているのだろう。 だが、それでも構わない。 俺は、さらに話しかけた。 「お前、ずっとここに居たのか?」 「あれから、何年経ったと思ってるんだよ。 十五年だぞ? まったく……どうして、お前はそんなに、素直でバカ正直なんだよ」 「お前のこと、俺…忘れかけてた時もあったのに。 それなのに……お前は——」 マリは、あれから俺との約束をずっと守り続けていた。 俺の前から姿を消して…今までずっと、俺の事を見守って来たのか。 ——他愛ないおしゃべりの中で、ふと交わした程度の、なんてことのない約束だったのに。 「ありがとう、マリ…ありがとうな」 声を絞り出し、ありったけの感謝の気持ちを込めて呟く。 俺は情けない飼い主だった。 深く誓った約束だって、守れなかったのに。 とても、お前に見守ってもらうような価値などない男なのに。 それなのに、お前はずっと約束にこだわってくれていたんだな。 マリが、また微笑んだ。 あどけなくて、儚げで、そして優しい笑顔。 俺が大好きだった、癒しの表情。 俺の心の闇を幾度も払ってくれた、大切な姿。 俺は、告げなければならない言葉を紡ぎ出す。 あの町からの帰り道、俺の心の中で生まれた言葉。 マリに——俺を見守り続けてくれたこの子に、どうしても伝えなければならない、想いを。 「——でもな、マリ。 もう、いいんだよ」 マリのありし日の姿を思い浮かべながら、囁く。 嗚咽が、混じる。 「俺はもう、自分の力だけで幸せになっていける。 だから、マリに助けてもらわなくても、大丈夫なんだ」 涙が言葉を止める。 ——嘘だ。 そんなの、嘘だ! 俺の傍に帰ってきてくれ! そして、もう一度、俺と暮らそう! 今度こそ、もう、お前を苦しめたりしないから! だから……だから……もう、どこにも行かないでくれ!! 頼む、一生のお願いだから…!! 今にも、本音が口を突いて飛び出しそうになる。 だが俺は、情けなく乱れる声を必死で絞り出し、言葉を続けた。 娘が何か言っているが、俺の耳には届かない。 俺は、マリから目が離せなかった。 離したくなかった。 マリは、一瞬だけ悲しそうな目つきをしたが、すぐに、また笑顔を浮かべてくれた。 「もう、お眠り。 そして目覚めたら、今度は自分だけの幸せを探すんだ。 生まれ変わったら、俺じゃなくて、お前だけの……幸福を」 幸せまでの道のりは、たとえ誰かに導いてもらっても、その先は自分で歩まなきゃならない。 もし、俺が本当にマルとマリから幸せを貰ったのなら、ここからは、もう頼りにしてはいけない。 自分の意志で、マリの恩恵に決別しなければならない。 マリが必死で約束を守ってくれたなら。 死してなお、俺に幸福を授けてくれたのなら。 俺は最後に、今度こそ守り通せる約束を交わさなければならない。 「幸福の約束」を—— ——さよなら、マリ ——デスゥ 空耳だろうか。 懐かしい、マリの声が聞こえたような気がした。 目の前にあった微かな気配が、どこかへ消えていく。 そんな実感を覚える。 空気に溶け行くように、愛しい姿が薄まっていく。 マリは完全に消える間際、そっと右手を額に翳した。 ——敬礼。 俺は、声を上げて、泣いた。 マリの姿も消えた。 まるで、そこには最初から何も居なかったかのように、何の気配も残ってはいなかった。 その場から動けずにいる俺の背中に、娘が抱きついてきた。 「ニンゲンママー♪」 「おう、どうしたマリ?」 「ワタシ、ニンゲンママとずーっと一緒に居たいデス♪」 「いいのかぁ? 俺はビンボーで不幸だから、苦労するかもしれないぞ?」 「全然いいデスよ」 「なんで?」 「ワタシがずっと見守って、ニンゲンママを絶対幸せにしてあげるデス。 ワタシ、大好きなニンゲンママと約束するデス!」 (幸福の約束 完) ----------------------------------------------------------------------------------- 冗長なスクに最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございました。 「幸福の約束」は、自作「愛しても、いいですか?2」のリメイクのつもりで書いてみました。 当時はいきなり愛護主体でまとめてしまい、多数の厳しい御指摘を受けましたので、 その後得た経験値を活かして「愛護主体だけど実装らしい展開」を目指してみたつもりです。 とはいえ、今流行のジックス展開は露骨に避けました(笑)。 後、繭化などの展開も避け、あくまで実装石と人間の関係に留めました。 今回は理詰め(のつもり)で書いてしまったせいか、個人的に今ひとつノリが悪い…というか 徹底出来てない感があるのですが、少しでも楽しんでいただけたら幸いに思います。 って、最初に仕上げた奴に色々と書き足したら、こんな容量になっちゃったんだけどナー …ゴメンナサイ 敷金 ◆lvc/muchiU

| 1 Re: Name:匿名石 2016/09/15-01:23:56 No:00002531[申告] |
| 往年の名作を読んでみて改めてすごいと思った。
いろんな意味で不幸になるのが当たり前の実装石に対して、反逆のような見事な愛護スク。 素晴らしかったです。 |
| 2 Re: Name:匿名石 2023/05/06-22:21:38 No:00007132[申告] |
| クソガキは散々玩具にしてた実装石以下の人生を歩んてほしい |
| 3 Re: Name:匿名石 2023/06/16-19:14:31 No:00007303[申告] |
| 面白くていっきに読んじゃったけどやおあきがそこらの虐待スクの糞蟲よりよっぽどクズで凄い残尿感
マリの顛末よりこいつどうにかなんねぇかな…ってのが先にきちゃった この糞人間と比べたら実装なんて可愛いもんだな |
| 4 Re: Name:匿名石 2023/07/12-15:31:06 No:00007503[申告] |
| マジで泣けました… |
| 5 Re: Name:匿名石 2023/07/20-23:59:51 No:00007590[申告] |
| 敷金礼金だとそんなに悪印象ないが小学生やおあきは反吐が出るクソ野郎だね
じいちゃんの死後にこのアパートがあんな使われ方するの冒涜感あるなあ |