幸福の約束5 浴槽の崩壊は経年による老朽化によるものだと判明し、大家もそれを認めた。 そのためとしあきが弁償したりする必要性はなく、彼自身にも負傷はない。 不幸中の幸いではあったが、としあきの不運はそれで終わったわけではなかった。 大家は、アパートの浴槽修理はすぐに行えないという旨を告げてきた。 現在、このアパートの住人はとしあきただ一人。 しかも、あと二ヶ月で退出が確定している。 という事は、直しても当分使われない可能性が高くなる。 たとえ修理したとしても、新しい店子が入ってこなければ意味がないからだ。 ならば大家としては、無駄な金を掛けたくないという心理が働く。 いくら家賃が格安でも、この田舎町でわざわざこんな物件を利用しようとする者などほとんどいない ので、管理人一家も、としあきが退出したらアパート経営を辞めようかと考え始めていた。 つまりとしあきは、一方的に風呂を奪われた結果になってしまった。 もちろん、使えないのは浴槽だけなのでシャワーや蛇口は引き続き利用可能だし、身体も洗える。 しかし、湯に浸かって疲労をほぐしたり身体を暖めるのは不可能だ。 これは意外に大きな問題だ。 どうしても風呂に入りたくなったら、銭湯に通うしかない。 そうすると、また出費がかさむ。 マリにはシャワーだけで我慢してもらうにしても、それで負担が解消されるわけではない。 としあきは、立て続けに起こる不条理な不幸に苛立ちを覚え始めていた。 そんなとしあきを、マリは少し離れたところから心配そうな顔付きで見つめていた。 ※ ※ ※ ニンゲンママ、すごくイライラしてる。 ワタシにはわかる。ずっと見続けてきたから。 どうしたんだろう? 「ツーチョウ」という薄いご本を見ながら、いつもため息ばっかりついてる。 そして、悲しそうなお顔でワタシを見る。 イヤイヤ、そんなお顔はイヤ。 ニンゲンママ、最近笑ってないよ。 もっと楽しそうに笑って欲しい。 ワタシ、そのためなら何でもするよ。 ポットからお茶を煎れられるよ。 冷蔵庫からお菓子を出せるよ。 テレビを観たらちゃんと消せるよ。 テレビで覚えたお歌も唄えるの。 まだうまくないけど、お部屋のお掃除だってやるの。 ニンゲンママに手伝ってもらう事も一杯あるけど、でも、ワタシが出来る事は全部自分でやるの。 だから…抱っこくらいは、いいでしょ? ワタシ、ニンゲンママのお傍に居たいの。 抱っこしてもらうと、ニンゲンママのお顔をすぐ近くで見られる。 そうすると、ワタシもニンゲンママもきっと安心なの。 でも…… ママ… ワタシ、ママみたいに、ニンゲンママの事を見守ってあげられるかな…? だんだん、不安になってきたよ—— としあきの苛立ちを敏感に感じ取ったマリは、自分で出来る限り甘える事を抑えようと努力していた。 だが、仕事から戻ったとしあきを見ると、どうしても気が緩んでしまい、ついまとわりついてしまう。 マリは、以前とは違う理由でとしあきに甘えていた。 正しくは、本人は甘えているつもりではない。 抱かれることで、としあきとの距離を縮められると考えていた。 マリの記憶の中には、いまだにやおあきから受けた虐待が根深く残っている。 としあきと離れる事で与えられた恐怖と、傍に居る事で与えられる安心感の比較。 それが、幾度も心の中で行われていた。 としあきと離れる事は、マリとって死よりも恐ろしい苦痛が訪れるという意味でもある。 だけど何より辛いのは、としあきの目の届かない所で何者かに苦しめられる事だった。 もし、自分がマルとの約束を果たしてとしあきを幸せにする事が出来たのなら、その時は死んでも 構わない。 否、幸せにするために自分の命が必要なら、いつ投げ出しても構わない。 だけど…としあきから遠く離れた所で寂しく死ぬのだけは、絶対に嫌だった。 普通の実装石なら、絶対に持ち合わせないだろう献身的な感覚。 マリにとって、自分の事よりもとしあきの幸せを願うことは当然であり、疑問を抱く理由すらない。 マリは、物心付く前から、としあきについて色々な事を教えられてきた。 自分を生んでくれたママ、そのママを育ててくれた、もっとすごいママ。 そんな認識を刷り込まれている。 としあきの傍で暮らしている事は、マリにとって最上の誇りだ。 自分がもっとも尊敬し、愛し、大切に思う者の傍で暮らせるなら、どんな苦労も問題ではない。 食事を我慢してもいいし、新しい服だっていらない。 自分が負担になるようなら、何もかも失ってもいい。 それで、としあきが悦んでくれるなら—— ずっと、そう思い続けていた。 だが、としあきはマリの生活を最優先に考え、そのために色々なことをした。 自分の大切なものを売り払ってまで、新しい実装服を買ったり。 お休みの日は、ずっと傍に居てくれた。 自分のために大事な事は、ほとんどしていない。 それは、実装石であるマリですら察する事ができた。 ニンゲンママ—— もう、ワタシは大丈夫よ。 もう、気にしなくていいのよ。 ここに居られるだけで、それだけでいいの。 禿裸でもいいよ、ニンゲンママが嫌がらないなら。 お服なんていらない、寒くても我慢する、ご飯だって我慢する。 おやつだっていらないよ。 だから…もっと笑って? 楽しそうに笑って? ワタシ…ニンゲンママの負担になりたくないよ…… マリの最大の不幸。 それは、やおあきから受けた虐待から始まっていた。 あの時偽石に亀裂が入ったため、としあきはマリのコンディションを過剰に気にするようになっていた。 偽石に負担をかけないように。 大きなショックを与えないように。 大事に、大事に扱う。 それが、マリの願いとのすれ違いを生んでいた。 マリを気遣うばかりに、彼女の願いに気付かないとしあき。 としあきを想うばかりに、彼の気遣いを悟れないマリ。 互いに強い思い入れと愛情があるがために、すれ違いは大きくなっていく。 だがマリには、それに気付くだけの知識も経験も、知恵も持ち合わせていなかった。 彼女は、普通より情が深いだけで、やはり只の実装石に過ぎなかった。 だから、人間の複雑な感情を知る術は、どうしても身につけられなかった。 『ニンゲンママ』 マリは、としあきの足にしがみついた。 「寒いのか?」 『ううん、違うデス。ニンゲンママをあっためてあげてるデス』 「…」 『ワタシがあっためてあげるから、元気出して欲しいデス♪』 精一杯明るい表情を作り、としあきの足を抱き締める。 としあきは不器用な微笑みを浮かべると、無言でマリを引き剥がし、脇に避けた。 『デェェ…ニンゲンママ、ワタシが傍に居るとイヤデス?』 「…」 『ニンゲンママ、まるでワタチの事キライになっちゃったみたいデス』 「…」 としあきは、応えない。 無言のまま立ち上がると、上着を羽織って隣の202号室へ向かった。 『デエエ、どこに行くデス?』 「隣の部屋。悪い、しばらく一人にしてくれないか」 『デス……』 寂しそうに、としあきの背中を見つめる。 また、隣の部屋に行ってしまった。 最近、よく一人になりたがる。 やっぱり…ワタシの存在が邪魔になってきたのだろうか? マリの心の中に、焦りの気持ちが蓄積する。 だが、それを解消する方法を、マリは知らない。 他の飼い実装なら、暴れたり何かに八つ当たりしたりしてストレス発散を図るが、そういう行為が益々 としあきに負担を強いる事を、マリは深く理解していた。 だから、何も出来ない。 胸の奥が、苦しくなる。 自然に、涙が零れて来た。 ニンゲンママ… そんなに、苦しいの? ワタシ、ニンゲンママの苦しさを助けてあげられないの? もし、そうなら… ワタシ、何のためにここに居るの? どうすればいいの? どうすれば、ワタシ、ママみたいになれるの? 教えて、ママ—— ——さらに、一ヶ月半が過ぎた。 契約が切れるぎりぎりの状態だ。 としあきの焦りはピークに達し、マリもその影響を受けて辛い思いをしていた。 無人の202号室で、ごろりと横になるとしあき。 無意味に天井を見つめ、これからの生活と、引越しのための算段を何度も検討する。 だが、何度思考実験を繰り返しても、マリの存在がネックになってしまう。 マリが居るために、金が貯まらなかった。 ただでさえ薄給なのに、育成費用はどんどん高まっていく。 かといって、それを削る事はできない。 このままだと、仮に奇蹟が起きて引っ越しが叶ったとしても、どこかで必ずつまずく。 今とは別な仕事を探せれば苦労はないが、バブルのはじけたこの不景気の中、バイト一つ探すの ですら苦労を伴う。 今以上の好条件の仕事に就くのは不可能だし、まして、あと半月では何もできない。 マリとの生活を維持するため。 必要なのは、とにかく金。 そう思って、藁にもすがる気持ちで宝くじやギャンブルにも手を出したが、結果はかえって首を絞める 結果になった。 幸い、そんなに多くつぎ込める資金もなかったため歯止めは利いたが、この冷酷な現実はとしあきの 心を益々焦らせ、荒ませた。 八方手塞がり。 それが、今のとしあきの心境だった。 最悪の場合、ホームレスにでも堕ちるか? マリと一緒に、俺まで野良生活か……それも面白いかもな…… もう、なんだか疲れちまった。 どんどん心が沈んでいく。 だが、としあきはなんとか目先の問題だけでも解決しておきたかった。 先ほどの洗濯の様子を見ていたら、マリの服がまた小さくなっていた事に気付く。 今身に着けているものは40センチサイズの実装石用だが、どうやらマリは、いつのまにか45センチ クラスの体格になっていたらしい。 動きも随分窮屈そうだった。 このまま無理に小さい服を着せ続けストレスを蓄積させたら、偽石にどんな悪影響があるかわからない。 新しい服を買うしかない。 しかし、そんな金はどこから出るのか? 今月分の貯金予定費を全部つぎ込んでも、まだ足りない。 どうすればいい? としあきは、悩みながら実装リンガルを手の中で弄ぶ。 思えばこれは、かなり高価なランクのものだった。 衝動買いとはいえ、あの時どうして、もっと安価なものを買わなかったんだろうか… としあきは、見慣れた実装リンガルをぐっと握り締めた。 ※ ※ ※ 「デスゥ…」 「ほら、遠慮なく食べろよ。全部お前のだからな」 「デス…デス? デス…」 「ん、まあ…とにかく食べろ!」 「デス…」 テーブルの上で、ささやかな宴。 その日の夕食は、キャベツでもパンの耳でもない。 久しぶりに買って来たコンビニ弁当。 しかも、600円越えのステーキ弁当だった。 その肉を大きく切り取り、マリに分ける。 コンビニで暖めて運んできたものだが、まだ充分温かい。 としあきは自分の分を頬張りながら、久しぶりの贅沢な味に酔いしれた。 「デス、デス?」 「ん、どうした食欲ないのか?」 フルフル 「デスゥ…デッデッ、デェェェ…」 「あー、まー、その…いいじゃないかどうでも♪」 「デ…」 マリは、状況の変化を敏感に悟ったようだ。 だが、それに対して何のリアクションも取れないでいた。 としあきには、もうマリの言葉はわからない。 これからは、態度やジェスチャーだけで言いたいことを判断するしかない。 でもそのおかげで、新しい実装服を購入する事が出来た。 少しだけ残った残金で、ステーキ弁当を買った。 このステーキ弁当は、マリに対するせめてもの詫びのつもりだった。 新しい実装服を身に着けたマリは、複雑な表情でとしあきを見つめていた。 「デェェ、デェェ」 シャワーだな、よしよし。 今すぐ準備してやるからな。 風呂場に行くか。 「デッスゥ、デッスゥ♪」 気持ちいいか? 洗えるところはちゃんと自分で洗うんだぞ? 「デー、デー、デスゥ」 よーし、じゃあ少し遊ぼうか。 「デッスゥ……」 おいおい、もう成体なんだから、いつまでも甘えちゃダメだぞ。 かろうじて、ぎりぎりのコミュニケーションは取れている。 一見、何も問題はなさそうだった。 マリの意志が直接伝わらなくなってしまった事は辛いが、それでも、マリに身体的負担を強いるよりは 遥かにマシだ。 そう信じて疑わなかった。 まだ問題が棚上げ状態だったが、それはまた後日考えよう。 としあきは、そう思う事にした。 正直なところ、もはや自暴自棄な気分だった。 着替えをさせ、専用の布団に横たわらせてお休みと声をかけると、マリは「デスゥ」と敬礼を返してくる。 としあきは、微笑みながら懐中電灯の明かりを消した。 マリの体格では、もはやダンボールの中のタオル布団で寝かせるわけにはいかない。 そのためとしあきは、先々月に実装石用の布団セットを購入していた。 これのために、としあきは一ヶ月極限まで食費を削る事になり、一度は貧血で倒れた。 だが、マリとの約束がとしあきを支えていた。 たとえ自分がどんなに厳しい状況に陥っても、マリとの約束と、マルとの絆を失うよりは良いと考えて いた。 一方マリは、布団に潜り込む度に、複雑な心境に陥っていた。 マリは、以前のように粗末なダンボールの中で眠ればいいと思った。 それくらい、大した事じゃない。小さい時は、濡れた木の板の上で寝転がっていたから。 としあきが貧血で倒れた時、マリはこの世の終わりが来たかのような激しさで泣いた。 としあきの言いつけを破ってまで、大声で泣いた。 必死で看病しようとしたが、実装石では何もしてやれず、ただ泣きながら傍に付いているしかなかった。 悔しかった、自分が実装石であるという現実が、とても憎かった。 もし、自分がニンゲンだったら。 自分も一生懸命頑張って、としあきとの約束を果たせたかもしれない。 そう考えると、益々胸の奥が痛む。 今回も、新しい服のためにどんな苦労をしたのだろう? としあきが、自分のために多くの気遣いをしてくれるのは嬉しい。 けれど… 二人が床に就いて数時間後、マリはそっと布団を抜け出し、としあきの枕元に立った。 窓から僅かに差し込む街灯の光で、うすぼんやりと顔が見える。 としあきの頬にそっと手を触れると、掠れるような声で「デス…」と鳴いた。 マリは悲しい気持ちを必死で抑えていた。 としあきは、実装リンガルを…自分の言葉を理解するための道具を持たなくなった。 自分の言葉が直接伝わらなくなったことは、マリにとって大きなショックだった。 マリの知能では、リンガルがなくなった事と自分に新しい服が与えられた事を関連付けるのは不可能 だった。 とにかく、としあきが話しかけなくなったのが辛い。 最低限の言葉をかけながら、不器用な笑顔を向けるだけだ。 それでも充分嬉しいけど、やっぱり、悲しかった。 もっと、いっぱい話しかけて欲しかった。 ニンゲンママ。 ワタシ、ニンゲンママの事が大好きよ。 でも、もうそれは伝わらないの? ワタシ、ニンゲンママともうおしゃべりできないの? もっとお話したいの。 もっと、ニンゲンママの事大好きって言いたいの。 今日思いついたことを、いっぱい伝えたいの。 気付いた? さっきお風呂の時、ワタチニンゲンママの事、ママより大好きって言ったの。 でも…ニンゲンママ、黙ってた。 やっぱり…ワタシの言う事、わからないの? 一度人間との綿密なコミュニケーションを経験してしまった実装石は、それが中断されると大きな ストレスを覚えるようになる。 飼い主への依存度や思い入れが大きければ大きいほど、そのストレスは増大化する。 単なるおしゃべりの相手でも、おいしい餌を求める事でも、以前は普通に意志の疎通が出来た筈の 相手が望む反応をしてくれない。 これは、欲求に対する拒否反応も含めての意味だ。 おいしい餌の提供を断られても、実装石はそれに対し「不満の意を示す」という次の行動が取れる。 無意識のうちに、相手のリアクションに対する反応を学んでいるためだ。 しかし、リアクションそのものが既知のものと大きく変わってしまうと、実装石は人間が考える以上の 不安を覚える。 それだけ、実装石は逆境に弱いのだ。 焦りに駆られたとしあきは、その重要なポイントすらも見失っていたのだ。 最初から意志の疎通が不充分な関係ならば、こんな不安を覚える事はない。 勿論、時間があればいつしか慣れてしまい、疑問を抱かなくなる。 しかしそれは、かつて直接会話を交わしていた時のような綿密な関係に戻るという事ではない。 本当の意味で、「飼い主とペット」の関係に落ち着いてしまうという事だ。 実装リンガルは、人間と実装石の関係を「飼い主とペット」以上のものにするため開発されたものだ。 無論、これには様々な意味が含まれるが。 元々関係のバランスを変質させるためのアイテムなのだから、なくなってしまえば、自然とバランスは 元の関係に戻る筈。 飼い主も実装石も、互いの立場というものを充分に認識していれば、の話なのだが。 しかし、マリは違う。 マリの心の中には、単なる飼い実装以上の自覚が芽生えていた。 それは、決してここに来てからのことではない。 としあきと出会う前からのことだ。 だからこそ、その関係がバランスを崩す事を恐れた。 マリにとってもう一つの大きな不幸は、出会った直後にとしあきが実装リンガルを購入してきた時点で、 すでに始まっていた事になる。 としあきの寝顔を見つめながら、マリは、過去の記憶を振り返っていた。 「ママ、ニンゲンママのお話してテチュ」 「いいデスよ。じゃあ、今日はママが初めてとしあきさんと出会った日の事を話すデス」 「テェェェ、それは聞いた事なかった気がするテチュ」 「今までわざと話さなかったんデス。でも、お前もそろそろ、本当のとしあきさんの事を知っておく必要が あるデス」 「本当の…ニンゲンママ?」 「そうデス。ワタシは昔……」 ※ ※ ※ 今から四年前。 当時高校を卒業したばかりだったとしあきは、平凡で変化の乏しい生活に苛立ちを覚えていた。 明確な不満があるわけではなかったが、とにかく、些細な事がやたらと神経に障った。 特に、実装石。 これまでは特に興味を持たなかったが、近所の公園で大量発生しよく目に付くようになってから、その 外観、性質、行為、声質、特性すべてが気に食わない。 人間の持つ醜い欲望を凝縮し、人形サイズにまとめ上げたような存在・実装石。 そんな奴等が我が物顔で道を歩き、自分を指差して愉快そうにあざ笑っている。 最底辺の糞蟲共に笑われる屈辱と、日々の苛立ちが結びついた時。 いつしかとしあきは、目に付く実装石を殺戮するようになった。 蹴り飛ばし、車道で車に踏み潰させる。 川へ投げ飛ばし、溺れさせる。 壁や路面に強く叩き付ける。 横蹴りで頭部をふっ飛ばす。 バットで殴り殺す。 バールのような物体を使い、刺し、抉り、殴り、押し潰す。 実装石なら、なんでもいい。 見かけたら、殺す。 たとえ有視界内にいなくても、探し出して殺す。 ダンボールハウスの上に飛び乗って、家族ごと潰す。 灯油を撒いて火をつける。 殺す、コロス、とにかく殺す! すべての実装石は、俺が殺す! やがてとしあきは、実装石を殺す事そのものに快楽を見出すようになった。 苛々を抑えるためだった筈の行為が、屈辱感を晴らすための暴力が、「悦楽」を求める狂気の行動に シフトしていく。 毎晩、道具を持って公園や郊外の林、河川敷へ向かい、凄絶な抹殺行為を繰り返す。 としあきが行っていた事は、決して虐待ではない。 ——もっとたちの悪い、無分別な「 虐 殺 」だった。 近郊の川辺で遊んでいた飼い実装の一家を、問答無用で全滅させた事もある。 その時は飼い主に追いかけられ、あやうく捕まりそうになった。 なんとか無事逃げられ、素性を知られる事は免れたが、それ以来傍に飼い主が居る時は自制する ようにした だがそれは、益々実装石殺戮の欲求を膨れ上がらせるだけだった。 当然ながら、家族はとしあきの凶行を深刻にとらえていた。 普段は何の問題もなく、ごく普通に平凡な生活を営んでいるため、どうしても追求し辛い部分がふる。 しかし、だからと言って黙認するにはあまりにも業の深い行動だ。 父親や母親が何度か注意し、叱った事もあるが、「実装石は害虫、それを駆除して何が悪い?」という 反論に、的確な解答を述べられはしなかった。 これには、ひとつの理由がある。 80年代後半。 実装石の立場と考えられ方は現在ほど確立しておらず、害獣的に扱われる反面、犬以上に人間と 仲良くなれる愛玩動物という見解も大きく、両方が混じり合って大変不安定な位置付けにあった。 だから、ペットの飼い実装が散歩するすぐ傍を野良実装が歩いていても、飼い主はそれをあまり警戒 しないという、現在から見れば大変問題のある認識が当然のようにはびこっていた。 そんな混沌とした状態だから、実装石が害獣と呼ばれても、人間の友達と呼ばれても、詳しくない人 には肯定も否定も出来ない。 としあきの両親が彼の言葉に強く反論出来ないのには、そういう背景があったのだ。 無論、倫理観の問題を指摘した事も何度かあった。 だがとしあきは、その時は生返事をしてかわし、後でそれをすっかり頭からすっ飛ばした。 結局、両親にはとしあきを止める事は出来ず、ついにはどこかの相談所を訪れ、しかるべき対処を 検討しようかという話にまで発展した。 そんなとしあきに最後のチャンスが与えられた。 久しぶりに帰省したとしあきの兄・ひろあきが、自ら問題解決を請け負ったのだ。 ひろあきは、当時海外資本の大手動物関連企業に勤務しており、実装石を利用した新たな プロジェクトに着手していた。 ひろあきがマネジメントしていたプロジェクトは、専門の教育を施した仔実装を育成させることで、人間 のメンタル面の問題を治療または矯正、解消させるという内容だった。 既に他の動物で似たような事は行われているが、ひろあきはさらに一歩進め「実装石側に人間を思う 気持ちを刷り込む」ことで両者の距離を詰め、親近感を煽り「他者との関わり」や「いたわり・優しさ」を 自覚させようと考えた。 そして、既にいくつかの施設・家庭で、サンプルの配布とテストも行われていた。 ここで用いられた仔実装は、専門施設で優秀な成績を残した母体実装より産み出されたもので、 専門技術を持つ実装石により「賢い個体」と区分された、本来なら同社系列の各ペットショップへ卸される 飼い実装候補生となるべき者達だ。 そして、そのうちの何割かは、プロジェクト実験のために特殊な処置を施された。 母体実装を経由して特殊な胎教を徹底的に施し、人間への考え方を識域下で変えさせる。 出産後はすぐに母体と離され、分別されてさらに認識力テストを経過し専門ブリーダーによる教育を 行う。 一週間後まで生き延びられた個体を用い、実験に投入。 これを受け取った人は、人間に対して積極的で献身的な仔実装と接する事で、内面変化を促す。 そういう見込みだった。 しかし、現実にはこのプロジェクトは頓挫しかけている状態だった。 否、限りなく失敗に近い状態だったと言い換えられる。 提供段階において、仔実装が「初めて接触したブリーダー以外の人間を“ご主人様”と認識してしまう」 という問題点が露見したのだ。 これは、「卵から生まれた子供が初めて見る“動く物体”を親と認識する」インプリンティングにも似た 現象かもしれない。 人間に対する認識のすり替えの結果、仔実装達は「まず誰を主人と認識するべきか」を判別する前に、 最初に自分を「保護」してくれた者を主人と思いこむようになっていたのだ。 後に、これは実装石自体が生来持っている「極端な認識力欠如」が招いた結果だと判明するが、これ では一番必要とされるべき人間を主人と認識出来ないわけで、本来求められる関係がいつまで経っても 築けないという結果を導いてしまう危険がある。 賢いが故に、実装石は一番最初に抱いてしまった認識を容易に変えない。 ひろあきの許には、「仔実装が対象者を警戒して馴染まない」「対象者を敵として認識し、提供者に 保護を求めるようになる」という困ったレポートが山のように寄せられていた。 だがひろあきは、今回はこれを逆に利用する事を思いついた。 自分を主人と認識させた仔実装を用意し、これに「弟と接する事」を命令する。 主人の命令を受け入れた仔実装は、としあきがどういう人間なのかという概要を学び、準備を整える。 これをとしあきに与える事で、「他人の実装石の育成と世話を強要」するのだ。 親族が大事にする実装石となれば、どんなに殺したくても手を出すわけにはいかない。 そして仔実装は、ご主人様の絶対的命令に従い、怖くても辛くてもとしあきに接しようとする。 この結果、としあきに実装石虐殺を抑える制御力が身に付けばよし。 仮に失敗したとしても、所詮不必要になったテスト用個体が一つ減るだけなので大きな損はないし、 その時は当初予定していた事をすればいいだけだ。 この「巧く行けばしめたもの」的発想の計画に、両親も深く理解を示す。 そして、この無謀とも思える奇策は実行に移される事になった。 としあきの許に、一匹の仔実装がやって来る。 名前はなく、としあきがつけてやらなければならない。 前から兄に頭の上がらなかったとしあきは、「絶対にこいつを殺すな」という命令を渋々受け入れた。 事故に見せかけて殺す事も出来ず、ましてそんな手段では鬱憤を晴らす事は出来ない。 としあきは、「ぶっ殺したいのにそれが出来ず、逆に育成をしなければならない」という苦難の生活を 強いられることになった。 この仔実装が、後のマルである。 としあきは、何かあるとテチテチと鳴きながら擦り寄ってくる仔実装をはねのけ、遠ざけ、ケージに閉じ 込めて距離を置こうとした。 目に付くとうっかり殺してしまいそうなので、死角に置いて放置しようとしたのだ。 ところが、それを想定していたひろあきは「たまに育成度合いを確認しに来る」と告げた。 こうなると、嫌でも仔実装と接しなければならない。 としあきは、粗相もなく言う事はすべて聞こうとする仔実装に、あえて無理難題を押し付けて虐待を 加えるという手法で少しずつ鬱憤を晴らしていたが、その度に実装石に詳しいひろあきに看破されて しまった。 結局、としあきは「ひろあきの望む形に仔実装を育成しなければならない」ハメに陥り、嫌々ながら 育成と躾の方法と理屈を勉強し始めた。 やがて、切れそうになる気持ちを必死で抑えながら、仔実装を躾けるとしあきの姿が見られるように なった。 家族も躾に協力し、そのおかげで仔実装はすぐに家族に迎え入れられる。 そうすると、益々仔実装に手を上げづらくなっていく事になる。 としあきの忍耐力は、いやがうえにも鍛え上げられていった。 仔実装に対する躾の方法も決して万全というものではなく、時には本当の意味での虐待に近い行為 をしてしまったり、突発的に仮死に至らしめてしまった事もあったが、それでもとしあきは少しずつ腕を 上げ経験を積み、正しい躾の仕方を身に付けていった。 そしていつしか、自分が教えた事を仔実装が成し遂げられた時、自然にその頭を撫でて笑顔を浮かべ られるようになった。 だが躾の勉強によって、としあきは「実装石の本質」をも学ぶ事になった。 自己中心的で身勝手、なんでも都合よく解釈し人間を奴隷のように考える図々しさ。 そんなものが、マルの中にも潜んでいるという現実の直視。 それが、としあきの心の解放にストップをかけてもいた。 そのためとしあきは、最後の一歩でマルに歩み寄れない状態にあった。 一方仔実装は、としあきの横暴な教育方針と過剰に厳しい躾に怯えながらも、それでも懸命にとしあき に接し、甘えた。 いつぶち切れるかわからない相手に対して、必死で積極的に振舞わねばならない恐怖。 それは、一見すると普通の飼い主と飼い実装の関係に見えるが、当人からすればとてもシビアな状況 だった。 だが、やがて仔実装は学び出す。 自分が素直に命令を受け入れ、大人しくしていればとしあきは怒らないし、切れない。 要するに、距離の置き方を工夫すればいいんだ、と。 その上で、教わった事はきちんとこなせばいい。 これは、決して理屈で考えた事ではなく「なんとなく」という感覚的なものに過ぎなかったが、次第に 効果は生まれてきた。 そんな不器用極まりない生活が一年も続き、やがて「マル」と名付けられた仔実装は、すっかり一人前 の成体実装となった。 いつしかとしあきはマルに手を上げなくなり、自分から話し掛けたり一緒に散歩に出かけるようになった。 こっそりと家を抜け出して実装石虐殺を楽しむ事もたまにあったが、いつの間にかそれもなくなった。 虐殺して戻ると、同族の血の臭いに反応しマルが酷く怯えたからだ。 そんな経験もあってか、としあきはマルの嫌がる事を自然に避けるようになった。 そんな頃、事件が起きた。 公園に出かけた時、突然、野良の実装石がマルに襲いかかったのだ。 その野良実装は、狂っていた。 同族によって禿裸にされ、全身を汚され傷つけられ、徹底的に貶められた元・飼い実装。 過剰な虐待に対して『狂う』事でしか抗えなかったそれは、かつての自分と同じ飼い実装を激しく 憎んでいた。 雑木林から突然飛び掛かり、マルを押し倒して殴りかかる。 たまたまとしあきが公園のトイレを利用していて、マルが外で待っている時だった。 怖かったとしあきが優しくなり、自分と気軽に外出してくれるようになったと、心の底から喜んでいた 時に起きたトラブルは、マルの心を激しく傷つけた。 服を破り、腕を食い千切り、大声で喚きながらマルを嬲り殺そうとする禿裸の野良実装。 泣き叫ぶマルの髪の毛が毟られかけた瞬間、野良実装は、としあきの一撃を受けて頭部を粉々に 吹き飛ばして死んだ。 マルは命に別状はなかったが、かなりの重傷を負っていた。 だが、すぐ目の前で同族を殺害したとしあきに対し、忘れようとしていた恐怖感が蘇った。 今までは想像でしかなかった「としあきの虐殺」がリアルで展開し、現実だったという事を認めざるを えなくなったのだ。 それは、ようやく良好になりかけた両者の関係が、崩壊してしまいかねないほどの衝撃。 途中から、マルの怯えは野良実装ではなく、としあきに対するものに変わっていた。 脱糞し、血涙を流し、ちぎられた腕の痛みすら忘れ、ガタガタと身体を震わせる。 そして、マルの態度から今自分がしてしまった事の重大さを悟ったとしあきも、激しく動揺していた。 だがマルは、そんな状態でありながら、必死の思いでこう言った。 『——ありがとうございましたデス、としあきさん——』 傷だらけの身体を晒し、ボロボロになり、恐怖で脱糞しながらも、懸命に笑顔を作ろうとするマル。 それは、笑顔というよりも、単に引きつっただけのようにも見えた。 だが、決して愛想のために作ったものではない。 強い恐怖を感じてはいたが、命を助けられた事に対する感謝の気持ちも、確かにあった。 マルは、それだけ言い終えると、崩れるように泣き出した。 そのあまりにも惨めで健気な姿に、としあきはついに折れた。 泣きながらマルを抱き締め、動物病院へ駆け込む。 マルの治療を懇願し、医師に頭を下げる。 数日間の入院の間、必死で回復を祈る。 としあきは、医師に言われた「偽石への負担があった場合」の事を気に病み続けていたのだ。 マルが無事回復し、家に戻ってきた時、一番悦んだのはとしあきだった。 その時点で、もはやとしあきのマルへの偏見は失われていた。 マルは、大切な家族の一員。 実装石に関しての知識は得たが、それによりマルを歪んだ目で見たりはしない。 気が付くと、虐殺行為にも大きな抵抗を持つようになった。 何より、マルが嫌がるから。 さらに、半年。 すっかり打ち解けあい、まるで兄妹のように仲良く振舞えるようになったとしあきとマルを見て、ひろあき と両親は深く安堵した。 プロジェクトは全面見直しになり、実質的に中止という結果に落ち着いてしまったが、皮肉にもここに、 ひろあきが目指していた結果が示されていた。 一年半もの長期スパンにより、としあきはマルを受け入れ、マルも、としあきを認めた。 ひろあきは監視を止め、としあきにマルを正式に譲り、またあらたなプロジェクト立案に尽力し始めた。 マルがとしあきに対して警戒心を抱かなくなったもっとも大きな理由。 それは、としあきが与えていた恐怖感が、丸ごと裏返しになったからだった。 最高に恐い相手が、最高に自分を想ってくれると信じられるようになった時。 マルの心の中に、絶大な信頼感が芽生えたのだ。 としあきも、同じようなものだった。 嫌悪感を抱き、歪んだ偏見だけで見ていた忌まわしい生物が…殺される事でしか人間の役に立てないと 思っていた者が、こんなに長い間自分の傍に居て、ずっと見守ってくれていた。 そこから生まれる安心感を、受け入れたのだ。 としあきにとって、マルが実装石である事など、もはやどうでもよくなっていた。 マルだから、信頼できる。愛情を注ぐ事が出来る。 そう強く誓えるようになった。 そして二人は、以前からはとても考えられない程の仲良しとなり、生活の上で最高のパートナーとなる事が 出来た。 すべてが、巧く行ったかに思えた。 だが——次の不幸は、としあきとマルだけでなく、家族全体に襲い掛かった。 「——っと…?」 ふと、真夜中に目が覚める。 カーテン越しに差し込む明かりが、枕元のシルエットを浮かび上がらせる。 寝ぼけた目を擦り、じっと見つめて、ふぅと息を吐く。 マリが寝ぼけて枕元に座っているようだ。 困ったもんだ、また俺の寝顔でも見に来たのだろうか? 微かな寝息が聞こえてくる。どうやら、そのままの姿勢で眠ってしまったようだ。 布団から起き上がり、マリを布団へと戻す。 呑気にテスーテスーと寝息を立てている。 としあきは、マリを布団に横たえさせると、そっと頭を撫でる。 髪のない、すべすべした肌の感触が悲しい。 としあきは、寝るまでに考えていた今後の事を思い返し、また、複雑な心境に陥った。 一度マリを飼うといった以上 俺の都合だけで、マリを見捨ててはいけない マリの存在が、俺の生活の足を引っ張っているのは確かだ でも俺は、それを踏まえた上でマリを引き取った筈だ マリを見捨てるという事は、俺自身の大切な何かを捨てるも同じ事だ どんなに苦しくなっても どんなきつくっても やっぱり俺は、マリとずっと一緒に暮らしていこう 何があっても、諦めないでいこう なあに、貧乏神にとり憑かれたわけじゃなし、気合入れてりゃ、いつかはなんとかなるさ 夕べ通帳を眺めながら考えていた、最後の手段を検討する。 家族離散の直接的原因でもあるので、出来ればあまり頼りたくなかったものだが… ——明日、金融業者をあたってみよう。 結論に至ったとしあきは、再び布団に潜り込み、瞼を閉じた。 ※ ※ ※ 朝食を済ませて出勤の準備を整えたとしあきは、マリの顔を両手で包んで優しく呼びかけた。 「マリ、今日なんとか都合を付けて、お前をちゃんと飼えるような場所を探してくるからな」 「デエ?」 小首を傾げるマリ。 何があったんだろう? 夕べの憂鬱さが消えて、今朝はとてもすっきりした顔立ちだ。 疑問に思いながらも、としあきを見送った。 としあきが家を出てから、マリは部屋の片付けを始める。 床に散らばったとしあきの服やタオルをたたみ、一箇所にまとめる。 目立つ床ごみを拾い集め、ゴミ箱に捨てていく。 ある程度拾い終えたら、今度はマリサイズの小さな卓上ほうきとチリトリを使って、丁寧に床を掃く。 部屋の床全部を掃除し終える頃には、もうすっかり昼になっている。 自分の持ち物をまとめた元ダンボールハウスの中から、実装フードの袋を取り出して専用の更に盛る。 朝、としあきが入れてくれたペットボトルの水も用意して、ゆっくり時間をかけて食事を始める。 マリは、成体になっても子供の時同様、食べる事に集中するようにしていた。 そうする事で、少量でも腹が結構膨らむ事を知っていた。 マリは、三回分の食事量を四回に分けて食べるようにして、少しでもとしあきの負担を減らすように 心がけていた。 自分が食べ過ぎるから、としあきが困るのだと勝手に判断しているのだ。 朝はとしあきが直接取り分けてくれるので、本来の一回分をしっかり食べられる。 でも、残り二食分を三回に分けることになるため、それぞれの量は2/3に減る。 これは食欲旺盛な上、成体として最終段階の成長を迎えようとしているマリにとっては、厳しいもの がある。 夕方前には空腹感が訪れ、夕食時には眩暈がしそうになる。 それでも、マリはとしあきのために必死で耐えていた。 だが。 実はとしあき自身、マリに気付かれないように少しずつ一回あたりの食事量を減らしていたのだ。 現在としあきが一回分としてマリに与えている分量は、成体実装の標準量の80%に過ぎない。 そうしなければ、とてもじゃないが他の必要消耗品に手が回らないのだ。 それでも、三食は欠かさないようにして少しでもマリに飢餓感を与えないよう努力しているつもりだった。 それなのに、マリ自身がそこからさらに摂取量を減らしているわけだから、飢えない筈がない。 おやつも、マリの進言で既に与えられなくなって久しい。 午後五時を過ぎ、としあきの帰宅まであと五時間という頃になると、マリはもうすっかり動く気力を 失ってしまい、部屋の真ん中でばったり倒れる。 これが、マリのと最近の生活ぶりだった。 としあきと日々幸せに暮らしているつもりではあったが、野良実装の頃とは違う厳しさを痛感させられて いた。 ——ズキッ また、胸の奥が痛む。 偽石を戻されてから、断続的に発生する痛み。 決して耐えられないものではなかったが、気になって仕方ない。 マリは、これが過度の我慢をする度に必ず発生しているものだという事に、まだ気付いていなかった。 この痛みは、やおあきによる虐待を受けた時に付いてしまった、あの微かな亀裂が原因だった。 実装石ですら治癒できない、生命の源に付いてしまった割れ目。 これが、強い飢餓感や疲労感を抑える度に疼く。 強烈なストレスが、偽石を少しずつ蝕んでいたのだ。 だがマリは、としあきの傍に居ることでこの痛みが緩和出来る事を、無意識に理解していた。 だからこそ、としあきに甘え、抱き締められたいと願う気持ちを捨てられなかった。 しかし、実装リンガルがなくなり言葉が通じなくなった今。 その思いが遂げられる機会は、著しく減少した。 辛かった。 身も心も、とても辛かった。 だけど、自分には「約束」がある。 母親・マルと交わした約束が。 それまでは、何があっても死ねない。 そんな強い……実装石にはありえないと言えるほどの強固な意志が、マリの存在を支え続けていた。 「お前にお願いがあるデス」 あの日、マルはマリに突然話を始めた。 何の前触れもなく、深刻な表情で。 それは、としあきと初めて逢った日の晩のことだった。 「何テチュママ? お勉強テチュか?」 「違うデス。これは躾でもお勉強でもない、ママからの“お願い”デス」 「テチュ?」 「ママは、もうそんなに長く生きられないデス」 「テェ?! テ、テチューッ!! ママそんな事言っちゃイヤイヤテチュ!」 「これは仕方ないんデス。ワタシは、元々偽石にヒビが入ってしまっているんデス。むしろここで良く 生きてきたと思えるくらいなんデス。だからそう遠くないうちに、ワタシは…」 「テチャァァッッ!! ママァ、そんな寂しい事言わないで欲しいテチュ!!」 「お前は、少しでも早く大きくなるデスよ。そして大人になって、もっともっととしあきさんと仲良くなって 欲しいデス」 「テェェ…わかったテチュ、ママがいなくなったら嫌だけど、約束するテチュ…」 「——これから言う事をよく覚えておくデス」 マルは、手の中にマリを抱き、その目をじっと見つめながら呟く。 マリも、視線を逸らす事ができなくなっていた。 「もしママが死んだら、ママの代わりに、としあきさんを見守って欲しいデス」 「テェ?!」 「今までママは、としあきさんをずっと見守り続けてきたデス。そのために、あのアパートに近いこの 場所を住処にしたのデス」 「テェェ…そうだったんテチュ?」 「としあきさんには気付かれないように注意したデスけど、それで良かったデス。ワタシには、としあき さんが幸せになるまで見守る義務があるデス」 「シアワセ…?」 「どうかお前にも、その義務を…ママの誓いを引き継いで欲しいデス」 マルは、マリに話し始めた。 二年前、としあきの家に突然訪れた不幸を。 無論、それはマルに理解できる最低限の内容だったが。 としあきの父親が経営していた下請け会社が突然潰れ、家族全員が路頭に迷った。 他会社に勤めていたご主人様・ひろあきも、その煽りを受けて会社に居られなくなり、退社。 昼夜を問わず押しかける取立て屋の暴挙に怯え続けたる日々。 完全に首が回らなくなった父親は、ある日家族を集め、夜逃げの敢行を宣言。 他に選択肢のない家族はやむなくそれを受け入れ、マルは捨てられる事になった。 マルは、そんな事情を彼女なりに理解しようと努めていたが、どうしても割り切れないものがあった。 どうして、こんな不幸が訪れたのだろう? せっかく皆と、としあきさんと仲良くなれたのに。 せっかく、これからみんなでシアワセになれる筈だったのに。 どこで、おかしくなってしまったの? もう誰も家には居られなくなり、その結果自分も捨てられる事はやむなしと諦めたが、不条理に押し 寄せる不幸だけは解せなかった。 としあきに必要最低限の道具を与えられ、野良実装に対する対策を学んだ後、マルはこっそりと 町外れに放された。 両者納得の上での行為だったが、その別れはとても辛かった。 最後の晩、皆で囲んだささやかな夕餉の時が思い出され、涙が溢れそうになる。 寂しそうに遠ざかっていくとしあきを見つめながら、マルは思った。 ワタシは、マル。 ご主人様が、「としあきさんを“見守る”」事にちなんで付けてくれた、大切な名前。 ワタシは、この名前に恥じないように、これからもとしあきさんを見守りたい。 としあきさんは、あんなに乱暴だったのに最後はワタシと仲良くなってくれた。 それは、きっと見守った意味があったから。 なら、としあきさんだけでもシアワセになれるように…もっともっと良く変われるように、これからも 見守り続けなければ。 ひろあきがマルに最初に命じた事。 それは、二年の歳月を経て、「果たすべき使命」にまで昇華していた。 それからマリは、としあきから距離を置きつつ、ずっと生活ぶりを見守ってきた。 と言っても、実際はただアパートを影から見る程度だ。 野良生活は想像以上に大変なので、常時見張る事はとても無理だったが、それでも使命を果たして いるという充実感があった。 時には、一日にほんの一瞬姿を見かける程度だったり、三日以上も逢えず心配した時もあったが、 出来る限りとしあきを見守ってきた。 そして何より、としあきの無事で元気な姿を見るのが、喜びだった。 その感覚は、かつての兄妹的な関係ではなく、もはや母性愛に近かったのかもしれない。 やがて、マルにも子供が出来て立派に成長していく。 だが、そのいずれもマルの意志を引き継ぐほどの利口さと使命感を持っていなかった。 どの子供も、母親の寝物語に関心を示さず、またとしあきを見守る意味も重要性も理解しようと しなかった。 子供達がすべて巣立った後、一時はこのまま一人で最後まで見守り続け、静かに一生を終えようと 諦めたほどだった。 だが、そんな時マリを身ごもった。 高齢のためたった一匹しか生まれなかったが、最後の子供はまるで自分の小さい頃そのままの ような謙虚さと賢さ、そして優しさを持っていた。 だからマルは、これまでの子供以上にとしあきを見守る重要性を説き、様々な知識を伝えた。 マリ自身もそれを吸収し、やがてとしあきを「ニンゲンママ」と呼び、尊敬するようになった。 本当なら、このまま二人はこれまでのように静かにとしあきを見守り続ける筈だった。 だが、今年は一時的ではあったものの異常寒波が押し寄せ、マルも経験した事がないほどの寒さに 見舞われた。 マリは凍死直前の状態に何度も陥り、もはやマルの体温だけでは充分に温めてやることもできなかった。 最後の子供を、寒さ如きで失うわけにはいかない。 マリを抱きながら餌探しに向かっていたマルは、偶然としあきの姿をコンビニで見止める。 その瞬間、今までの誓いを破る事を決意した。 としあきに、この子を託児しよう。 それしか、この仔を救う手段はない。 影から見守るという誓いは破れてしまうが、このまま寒さで死なせてしまうよりはマシだ。 自分がマルだと気付かれないように、手近なぬかるみで身体を汚しておけばいいだろう。 としあきなら、託児されても無残に殺したりはしない筈だ、きっと…なんとかしてくれる。 だがとしあきは、マルが行為に走るより先に気付いてしまった。 予想通り、マリを殺そうとはしなかったが、やんわりと断りを入れる。 そしてここで、マルは自分の計算の浅はかさを心底思い知らされた。 二年ぶりに間近でとしあきと話した事が、マルの中で封印されていたスイッチを入れてしまった。 懐かしさと愛しさに支配され、冷静な判断力が瞬時に失われる。 いや、としあきに託児しようとした時点で、すでに血迷っていたのだろう。 だがもう、止められない。 マルは、いつの間にかとしあきの後を追い始めていた。 なぜ追うのか、追ってどうなるのか、そんな事はわからない。 だが、マルの頭の中からは、これまで構築してきたものがすべて失われていた。 それだけ、としあきとの再会が嬉しかったのだ。 もう、止められない。 としあきさんに、気付いて欲しい。 そして、としあきさんの事を話して聞かせたこの仔を知って欲しい。 そして、この仔を—— ——ママ? ママはもう、ニンゲンママを見守らないの? ママは、死んじゃってからも、ニンゲンママの事を見守っていたよね。 その度に、ニンゲンママは幸せそうに笑ってた。 いい事もあったみたいだった。 ニンゲンママはママに気付かなかったけど、それでも、幸せそうだったよ。 でも、ワタシが見守っても、ニンゲンママは辛いお顔をするだけ。 ワタシは、ニンゲンママを見守る資格がないの? ワタシは……ニンゲンママのお傍に居るべきじゃないの? どうすれば…ママみたいに、ニンゲンママを幸せにしてあげられるの? わからない、わからないよ… 飢餓感がさらに強まり、動けなくなる。 今回のは、いつものより何故か強烈に思える。 どうしたのだろう? まるで、暗い淵に引きずり込まれるようだ。 マリは、あの河川敷で野良実装に受けた虐待の事を、何故か思い出した。 『デプププ、こいつきっと飼い実装デス。こんないい匂いのするよわっちいガキは間違いないデス』 『ママァ、こいつで遊んでいいテチ? オモチャにしたいテチ』 『腕おいしいテチ♪ あんよも食べるテチ』 『こいつ生意気に泣いてるテチ。家畜の豚風情がいい気になってるテチ』 糞蟲から浴びせられた醜悪な言葉が、なぜか何度もフィードバックする。 嫌悪感…身悶えするほど劣悪な嫌悪感が支配する。 どうして、思い出すのだろう…? あんな事、思い出したくないのに…もう、忘れたいのに… 『デプププ、飼い実装なんて所詮こんな程度デス。何の役にも立たない糞蟲デス。だからせめて、 ワタシ達の家畜になってお役に立つデス!』 糞蟲の親実装が、罵倒する。 もう、苦しめないで…お願い、お願い! ワタシは、糞蟲じゃないの。 ニンゲンママと、ママに育てられたの。 だから…… でも…役に立つって、どういう意味なの? ワタシが本当に、ニンゲンママの役に立つことって、何なの——? マリの中で、何かが、はじけた。 ※ ※ ※ 「ただいま〜…」 疲れきった顔で、としあきが戻ってきた。 荷物をどっかと置き、マリに顔を向ける。 マリは無言のまま、じっととしあきを見つめている。 「ああ、まだ夕飯食ってないんだな、今用意してやるから…」 そう言いながら、実装フードを盛り付ける。 やれやれ、とため息を吐いて壁にもたれかかるとしあきの耳に、突然、鋭い音が響いた。 ガシャーン! 「デスゥ! デスゥデスゥ!! デッシャアァッッッッ!!!」 「な、なんだ、どうした?!」 マリは、実装フードを盛りつけた皿を蹴飛ばし、としあきを激しく睨みつけて吠えた。 「デギャアァッッッ!!! デシャアァァッッッッ!!! デッギュワアァァァァァッッッ!!!!」 いい加減にしろデス! こんな糞マズイ餌をいつまで食わせるつもりデスーッ?! 高貴で美しいワタシのために、もっと高級でおいしいエサを山盛りで持って来いデス! この役立たず、糞ニンゲンっっ!!! ———お前なんか死んじまえばいいデスゥッ!!! (続く) ---------------------------------------------------------------------------- 年内投稿は、これが最後になります。 鬱内容でごめんなさい! 今年夏からの参加という新参者でしたが、これまで沢山のご感想をいただき、皆様にはとても感謝 しております。 どうか皆様、よいお年を…… 来年もどうぞよろしくお願いします。 敷金礼金 ◆lvc/muchiU
