タイトル:【不幸】 幸福の約束4
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作者:匿名 総投稿数:非公開 総ダウンロード数:3200 レス数:0
初投稿日時:2006/12/26-22:51:13修正日時:2006/12/26-22:51:13
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幸福の約束 4



 マリは、少しだけ意識を取り戻した。



 寒くない。
 とっても暖かい。そして柔らかい。
 さっきまでの冷たくて痛い所じゃない。

 ワタチ、バラバラになったおベベを集めた。
 おてて痛かったけど、あんよ動かないけど、一生懸命がんばって集めたの。
 汚れちゃったから、お水のある所みつけて、お洗濯してたの。
 そしたら、知らない仲間がやって来てワタチをぶったの。

 痛かった、とっても痛かった。
 やめてって言ってもやめてくれなかった。
 お洗濯はできなかった。おてて食べられた。あんよもかじられた。
 身体中痛かった。
 ニンゲンママの事を一杯呼んだ。でも、誰かがワタチのお口の中にウンチを詰めて黙らせた。
 いっぱい苛められた、殺されそうになった。
 ママに逢いたかった、ニンゲンママに逢いたかった。
 もうしんじゃおうかなと思った。


 でも、ワタチはまだ、ママのお願いを聞いてないの。

 だから、死ねないの。


 ——ママ…

 また、ママは笑ってくれるよね?

 ニンゲンママのお傍で、笑ってくれるよね——?


     ※     ※     ※



 マリの目がうっすらと開いた。
 俺はホッとして、足を崩して座り込んだ。
 酷い状態だった。よく生きていたものだと感心させられるほどに。
 でも…とにかく良かった!

 俺は、マリを連れ帰るとすぐに偽石を除去し、市販栄養剤に漬けた。
 あまりやりたくない手段だったが、あえて強行する。
 ここまで極限のダメージを受けている以上、偽石を隔離しておかないと、何がきっかけで致死に至るか
わからないのだ。
 これは、バイト先にある実装石治療に関しての資料に記述されていた、重症を受けた実装石に対する
処置だ。
 もしあれを見てなかったら、こんな方法は思いつかなかったかもしれない。
 仕事が見つかった事に、あらためて感謝する。

 その後に出来る限りの治療を施し、やっと一通りの処置を終えた。
 と思ったら、口内と内臓洗浄までしなければならない事を後から思い知らされた。
 まさか、糞まで食わされているとは思わなかったからなあ。
 本当に、酷い目に遭わされてしまったようだ。

 泣きたくなる気持ちを必死でこらえ、俺はマリを救おうとした。
 かつて、多くの実装石を虐殺した俺が。
 たった一匹の仔実装を救うために、必死になっているなんて。

 昔の俺自身が見たら、笑うだろうか?
 バカな行為、無駄な行動とあざけるだろうか?

 だが、そんな事などどうでもいい。
 実装石だからじゃない。
 ペットだからじゃない。
 俺とこいつには、絆がある。
 ものすごく細く弱く、ともすれば何かのきっかけで簡単に切れてしまうような、頼りない絆。
 だが、それを失うわけにはいかない。
 それだけの理由を、俺はこの子の親・マルからもらっているんだ。
 そして俺は、その代価をまだ支払っていない。
 それに、この仔との約束もあるんだ。

 たとえ相手が誰であっても、交わした約束は約束だ。
 俺は、それを守らなければならないんだ。


 デタラメな身体構造の実装石は、充分な栄養と休息さえ与えていればすぐに復活する。
 だがそれは、あくまで偽石が無事だった場合の話。
 案の定、マリの偽石には亀裂が走っていた。
 それはほんのわずか、見落としてしまいそうなほど微かなものだったが、栄養剤に漬けた瞬間、存在を
アピールするかのように気泡が一粒だけ浮かび出て来た。
 今回の事は、やはりマリの偽石に想像以上のダメージを与えていたらしい。
 ひょっとしたら、発見が遅かったら自壊していたかもしれない。
 一度ひび割れてしまった以上、この亀裂はもはや修復する事はできない。
 せいぜい、これ以上偽石が割れないように気をつけるしかないのだ。

 マリの身体が充分回復したら、偽石を戻してやることにしよう。
 だがそれまでは…


「テチュ…」

「気が付いたか、マリ?」

「テ…」

「もう心配いらないぞ、マリ。ゆっくり休めよ」

「テェ…テェェェ…」

「今夜は、俺がすぐ傍で見ててやるからな。安心していいぞ」

「テチュ…」


 マリは、両目から血涙を流しながら声を潜めて泣いている。
 頭を撫でてやりたいが、激しく負傷しているのでそれもままならない。
 手を取って安心させてやりたいが、千切り取られているからそれも出来ない。
 もう、回復するまで何もしてやる事はできない。

 俺は、ただ出来る限りマリの傍に居てやるしかなかった。

 マリ、死ぬな。
 絶対に助けてやるから、な…


『ニンゲンママ…』

 リンガルで翻訳できる声が出せたのは、帰宅後三時間が経過してからだった。

『ごめんなさいテチュ…。ワタチ、おベベなくしちゃったテチュ…。集めてお洗濯したのに…テェェェ…』

「いいんだ、もう…いいんだよ」

『テチャァァ……髪も…ニンゲンママが洗ってくれた髪も、なくなっちゃったテチュ…テチャァァァ…』

「そんなの気にしないぞ、俺は。——それでもマリの事、ちゃんと見守ってるからな」

『テ……』

 マリが、一瞬硬直したような態度を見せる。だが、すぐに力が抜けてしまう。
 本当に辛そうだ。見ている俺も辛い。

 こんなマリを見ていると、何度も頭の中を駆け巡るのが「実装石活性剤」という薬品のこと。
 これは専門で育てた仔実装から抽出したエキスを精製したもので、実装石のダメージを劇的に回復させて
しまうものだ。
 あまりにも効果が高いため、普通は何百倍にも薄めて使うほどのものらしい。
 それは、俺のバイト先の店に売られてはいる。
 しかし…値段が高すぎる。
 月の途中からバイト入りした俺の初任給が、一気に全部なくなってしまうほどのものだ。

 …せっかく仕事決まってそろそろ貯金の検討を、と思ったが、背に腹はかえられないな。
 明日、店長に頼み込んでみるとしよう。


 その晩、俺は徹夜でマリを看病し、フラフラの状態で仕事に行くことになった。
 その間、マリは安静状態。
 もう押入でこっそり飼う必要性はなくなったため、テーブルの上に仮設した箱ベッドの中で眠っている。
 帰って来るまで餌も水も与えられないのが、もどかしい。
 昼休みに一度戻って、様子を見ることにしよう。

 それぞれの鍵を今度こそしっかり確認すると、俺はバイト先へと急ぐ。
 今朝はやおあきに逢う事はなかった。




     ※     ※     ※


 午前中、度々襲い来る睡魔に必死で耐え、なんとか昼休みまで持ちこたえる。
 俺は店長に事情を話し、一時的に帰宅する許可をもらおうとした。
 話を聞いた店長は、眉をしかめると、俺の顔を睨みつけてきた。
 やべ、まさかダメだなんて言われるんじゃ?

「通勤時間、何分だっけ?」
「へ?」
「だから、家からここまでの時間」
「ち、チャリでだいたい10分くらいです」
「往復で20分でしょ、その仔の手当てにどれくらいかかるの?」
「た、多分…え〜と…」
「休憩時間45分でしょ? ギリギリじゃないの?」
「え、あ、はあ…そりゃそうですけど…」

 こんな話をしている間にも、俺の昼休みは削られていく。
 思わず足踏みをしてしまうと、店長はそれを見て重いため息を吐いた。

「家に帰ったら、すぐここに戻ってきて」
「え? だってそれじゃ…」
「家で治療してたりしたら、あなたが昼食を摂る時間もないでしょ? その仔をここに連れて来ればいいだけ
 じゃない」

「え?」

 足踏みが止まる。

「店長、それってまさか…」
「時間なくなるわよ、ぼやぼやしてていいの?」
「は、はい! 速攻で行って来ます!」

 店長は、素敵な笑顔を向けてくれた。
 ありがとう店長! なんて素敵なはからい!!
 俺が店の裏口から飛び出し、自転車にまたがって激走し始めたのは、その会話のわずか30秒後だった。




 自宅に戻り、マリの様子を窺う。
 静かに眠っている。そして、微かな寝息も聞こえる。
 良かった、まだ起きていないようだ。見たところ、特に問題もなさそうだ。
 このまま、箱ベッドをビニール袋に詰めて、そっと運び出す。
 一応、偽石を入れた容器も持って行こう。
 俺は速やかに準備を整えると、自転車の右ハンドル部分に袋を吊り下げ、走り出した。
 カゴが付いてないから、こうするしかないのだ。
 待ってろよマリ、すぐに良くなるようにしてやるからな。


 店に向かう途中、腹が鳴る。
 そういえば、朝飯も食ってないんだった。
 さすがに昼まで抜いたら、午後は仕事にならんな。
 やむなく途中のコンビニに寄り、おにぎりでも買う事にする。
 財布の中身を頭の中で確認すると、俺は道を逸れてコンビニへ向かった。

 自分としては、徹夜の割に随分頭がすっきりしているなと思っていた。
 しかし、それは極度の疲労から来る壮絶な「勘違い」だった。

 俺は、さすがにコンビニの中にマリを連れてはいけないと考え、自転車のハンドルからぶら下げたままで、
自転車を降りた。
 速攻で戻ってくるから、待っててくれよマリ。

 テスー、テスー……








「デスデスゥ。デス、デスデス」

「テチュテチュ、テッチュ!」

「デスゥ…デスデス!」

「テチュ!」


「 ど っ せ い ! 」


 ——ドサッ






     ※     ※     ※

 
 自転車を降り、二つのコンビニ袋を持って店内に飛び込む。
 結構ゆとりがあると思っていたのに、意外に昼休みは残っていなかった。
 店の裏口から入り、休憩室に入る。
 色々と業務上の都合があって、マリは店舗には入れられないから、ここまでが限界だ。
 コンビニ袋からおにぎりを取り出し、無理矢理口に詰め込もうとしたその瞬間…なんだか凄まじい異臭が
漂っている事に気付いた。
 な、なんだこれ?!

「としあきさん、戻っ……っ?」

 バイト仲間の子が、休憩室に入るなり硬直する。
 そして、無言で扉を閉めると、しばらくして店長を連れて戻ってきた。
 その間、俺は異臭の素らしき「マリの入っているコンビニ袋」の中身を見て、目を剥いていた。

「としあき君! これはいったい…?」
「て、店長?! い、いやこれは…一体何がなんだか」
「く、くさぁい!!」

「テッチュウ♪」

 室内にこもっている臭いは、実装石の糞の臭いだ。
 マリの袋の中に、いつのまにか別な仔実装が紛れ込んでいた。
 そいつは、箱ベッドの中にたっぷりと糞を漏らし、うっとりした顔でこちらを見上げている。
 両手を上げてテチュテチュと自分の可愛らしさをアピールしている。……つもりらしい。

 だが俺は、こいつのした大量の糞の下にマリが埋もれている事を瞬時に悟り、いつものスイッチを入れて
しまった。
 その後の行動に、一切のためらいはない。


 ぐいっ
「テッチュウ♪」

——ぐしゃっ!
「チベッ?!」

ベシャッ!

 野良仔実装は、瞬時に緑と赤の染みと化した。
 即座にマリの箱ベッドを袋から取り出し、糞を掻き捨てて救助する。
 汚れこそ酷い事になっていたが、顔をヒクヒクさせているので、かろうじて命に別状はなさそうだ。
 俺は、ほっと安堵のため息を漏らした。

 ——が。


「と、としあき君?!」
「き、きゃあぁぁっっ!!」

「あ、す、すみません! すぐこの糞蟲の糞を処理して…」
「そうじゃないでしょっ!」

 咄嗟に意味がわからなかった。
 何の疑問も抱かず、ティッシュで手の汚れを拭い落としている俺の足下を見て、店長とバイト仲間の子が
顔色を変えている。

 って、あっ。
 やべえ、いつものノリで、つい!

 
「い、いや、店長、こ、これは!」

「あなた…今、何のためらいもなく…殺したわね?」
「酷い…としあきさん、握り潰して…その上叩き付けるなんて…!!」


 何かが終わりを告げた実感をがあった。





     ※     ※     ※



 結局、マリの顔面に乗っけられた糞仔蟲の糞は粘度が高かった事が幸いし、マリの体内に入り込む事は
なく、気道も確保されていたので窒息するような事はなかった。
 不幸中の幸いとしか言えないが、それでも、かなり弱らされた事は間違いない。
 店長は最初の話通り、マリに簡単な治療を施してくれた。
 俺が欲しがっていた活性剤を注射し、その日の業家が終わるまで休憩室の片隅にマリを置かせてくれた。
 おかげでマリは、ここに連れてくる前よりも元気を取り戻し、閉店の頃にはテチテチと鳴いて笑顔を
向けられるほどになっていた。
 さすが活性剤、その効果は劇的だ。


 だが。
 治療の代償はあまりにも高く付き過ぎた。


 俺は、仔実装の残骸と糞の始末をさせられ、その日の店頭業務からは外されてしまった。
 そして、恐れていた厳重指摘と処分検討を行う旨の勧告。
 その理由は、先の仔実装抹殺行為が原因でさらなる事態を発生させてしまい、営業に致命的な悪影響を
及ぼしてしまったからだ。

 店長は、ペットショップ経営者だからと言って決して実装石愛護派ではない。
 しかし、託児された仔実装を何の考えもなく抹殺した事により発生する諸問題は、しっかりと踏まえていた。
 まず、重度の実装石愛護派である事が判明したバイト仲間の子が、半狂乱で俺を攻め立て続けたこと。
 しかも、仕事そっちのけで、と来たもんだ。
 これにより、店頭の業務に大きな支障を来す事になった。
 さらに、仔実装の臭いを辿って後からやってきた親実装が、裏口でずっと騒ぎ続けてしまった。
 これを排除しようと外に出た俺をバイト仲間の子が止め、さらに非難を加える。
 親実装はその隙を突いて俺達の足下を通り抜け裏口に侵入、休憩室の床で匂いを嗅ぎつけると仔実装
の死を悟り逆上、またまた俺の追跡をすり抜けて店舗へ入り込んでしまった。

 ——その後の惨状は、ご想像におまかせする。

 親実装は、他のペットに直接危害を加える事はなかった。
 しかし、一番低い段に置かれている飼い実装の水槽を発見し、こいつらに糞を投げつけて威嚇したのは
やばかった。
 水槽の天井には通気用に金網が張られていたのだが、そこに親実装の投げた糞が乗り、中にボトボトと
零れ落ちた。
 この時点で、この飼い実装達の運命は決まってしまった。
 なんでも、野良と接触してしまったペット販売用の実装石はナントカ言う感染症の問題が懸念してしまい、
衛生管理上もはや売り物にならなくなるんだそうだ。
 そして、何だかの規約で無条件一斉処分しなければならなくなるらしい。
 そんな理由で、店頭に出ていた約20匹の仔実装達は何も落ち度もないのにゴミ袋に詰められ、哀れ
廃棄処分となった。
 また、仕入れ状況の関係で、二ヶ月くらい次の実装石の在庫は入れられないらしい。
 それ以外にも、親実装のせいで使い物にならなくなった製品が沢山出た。
 自分の仔実装が殺された事を悟ったからなのかどうかは知らないが、俺が捕まえるまでの間、親実装は
必死で暴れまくった。
 バイト仲間の子の非難と余計な制止行動の結果、必要以上に時間を要し、店頭は先ほど以上の悪臭が
蔓延し、とても客が入れる状況ではなくなった。
 たまたまヒマな時間帯で来客数がゼロだったから良かったものの、もし来客中だったらさらに酷い結果に
なったことだろう。

 すべてが片付き、親実装を詰めたビニール袋の上にコンクリートブロックが落とされた頃、時計は
午後10時半を指していた。

 こんな大トラブルの原因を作ったせいで、俺もバイト仲間の子も、揃って処分検討となってしまったわけだ。

 店舗への実被害は、もはや一バイトの陳謝で丸く収まるようなレベルではなくなった。
 無論、そもそもの原因はマリを店に入れる許可を出した事なので、店長自身にも大きなペナルティを
課せられるそうだから、俺だけが不平を唱えるわけには行かないだろう。
 店は三日ほど休業して消毒・清掃が行われ、商品も大幅に入れ替えられるそうだ。
 子犬や子猫の中には、このトラブルですっかり怯えてしまい慣れた店長にすら近づこうともしないほどに
なってしまい、その辺でも色々ややこしい処置が必要になってくるとの事だった。
 こんな顛末だったので、とてもじゃないが活性剤のストックなど分けてはもらえなかった。
 加えて、バイト仲間の子からビンタは食らうわ罵詈雑言を浴びせられるわと、大変な心労まで負わされた。
 さらに、肝心の初任給も支給が難しくなるかもしれないという、悪夢のような一言が投げつけられる。
 はあ……もう、どうにでもしてよ、ホント…


 細かい処理と処分についての報告は後日改めて行う、という冷酷な宣言を店長から受けた俺は、日付が
変わる頃、ようやくアパートに帰りついた。
 処分報告ねぇ、はあ、そんなもの聞くまでもないわい。
 もう……さすがに何もする気が起こらなかった。



『ニンゲンママ? 大丈夫テチ?』

 さっきまで全然大丈夫じゃなかった奴が、俺に呼びかける。
 俺は、疲れ果てた声で、仕事をクビになった事を告げた。

『テ…クビってどういう意味テチ?』

「仕事がなくなったって事だよ。——あの約束も、また振り出しに戻ったって事…」

『テチ?! ……キュウ』

 ぽてっ

「ん? お、おい、マリ?! マリ?!?!」


 久しぶりに、マリは、仮死していた。





     ※     ※     ※



 翌日から、俺の職探しは再開された。
 あんな事になってしまった以上、もう店に顔を出す事などできっこないからだ。
 すべてを諦めた俺は、必死で頑張った。
 しかし、何日経っても進展はまったく見られなかった。

 コンビニで情報誌を立ち読みし、有益そうな情報を見つけてはメモって公衆電話に向かい、そこで「もう
締め切りました♪」という報告を受けてガックリするというプロセスを繰り返す。
 最後のテレカも、連発する締め切りアウト告知のせいでどんどん度数が減り、あと十回かけられるかどうか
という所まで行ってしまった。
 なんという事か、今度は日雇いの肉体労働すらまともに捕まえられなくなった。
 あげくに、新しい履歴書を買う金も、履歴書用の写真を撮る金もなくなってしまい、ついには前に返却
された履歴書を使いまわすハメに陥る。
 部屋の中の本や不用品を、アウトレットショップに売却しに行く日々が続くが、買取金額も雀の涙。
 手持ちの大事な漫画本をほとんどすべて売り払った事でなんとか当分の食いぶちは確保できたが、これ
もいつまでもつか全然わからない状況だ。

 どう考えても、以前より不幸度が増している。
 なんなんだ、これは? いったい、何からケチがついたんだ?

 俺は何度目かのお断り電話を切った後、アパートに帰りながら、ここまでの不幸を振り返ってみた。

 バイトのクビ、突然の託児、アパートの契約更新の打ち切り勧告、マリ誘拐&虐待、マルの死……

 考えてみたら、マルやマリと出会った事と、バイトが決まってしばらく働けたという事以外、何も良い事が
ないではないか!
 少なくとも、マル達と逢うまではもう少しマシな生活が出来ていた筈だった。
 おかしい、何がこんなに調子を狂わせたんだ?!



 部屋に戻り、俺は、出迎えてくれたマリの顔を見つめた。
 マリは活性剤のおかげでもうすっかり回復し、元気に動き回れるようになっていた。
 しかし、さすがに禿裸という状態は変わらない。
 今は、薄地のタオルを切り裂いて作ったマントみたいな服をはおっているが、その姿はとても実装石には
見えない。
 シルエットだけなら、出来の悪いなんかのノロイ人形みたいにも見える。
 それでもマリは、精一杯の笑顔を作って俺を迎えてくれた。

『ニンゲンママ、おかえりなさいテチ。お仕事見つかったテチ?』

「いや、まだだ」

『そうテチか……でも、頑張ってくださいテチ! ワタチ応援しているテチ!』

「お前が応援しても、なあ…」

『テ?』

 つい口を突いて出てしまった言葉に、マリが小首を傾げる。
 俺は、咄嗟に口を手で塞いだが、手遅れだった。

『テチ…ニンゲンママ?』

「い、いや、なんでもない。なんでもないよ」

『テ…』

 嫌な気分を振り切って、食事にする事にした。
 俺の食事は、今日からいよいよマリとまったく同じ物になる。
 叩き売りのキャベツと塩、そしてパンの耳がぎっしり入った袋。
 これを少しずつ分けながら生きていかなければならない。
 缶詰や多少のレトルト食品がストックされてはいるが、あれに手をつけるのは最後の最後。
 少しでも節約して生活しないと、後が怖い。
 何せ俺は、五ヶ月以内に仕事を見つけ、新しいアパートの契約金と引越し代を稼がなきゃならないの
だから。

 目の前が真っ暗というのは、こういう事を言うのだろうな。


 トントン。

 突然、部屋のドアがノックされる。
 誰だろう?
 郵便や宅配便なんか、ここしばらくまったく来た事ないのに。
 生返事でドアを開けると、そこには、管理人のじいさんが立っていた。

「じ…か、管理人さん?!」
「お邪魔しますよ。おっ、元気になったようですな」

「テチー?」

 俺の肩越しに中を覗き、マリを見る管理人。
 その表情はいつもの温和な笑顔だが、この前のアレを見た以上、本心が読めず困惑する。

「可愛いもんですな。こうして見ると、としあきさんが思い入れるのも良くわかる」
「は、はあ…」

「あ、そうそう。これ、余り物なんだけど、良かったらと思ってね」

 そう言ってじいさんは、複数のタッパの入ったビニール袋を差し出した。
 何やら、色々と惣菜が入っているらしい。
 結構ずっしり重いから、結構な量がある。
 って、えっ?! マジ?

「あ、ありがとうございます! いいんですか、こんなに?!」
「気にしなくていいよ。ちょっと作りすぎてしまってね。ああ、おかしな物は入ってないから、そのおチビちゃん
 と一緒に食べてください」
「ありがとうございます! ありがとうございます!」

 俺は水のみ人形のように何度も何度も深々と頭を下げた。
 俺の態度に不思議そうな声を上げるマリ。
 じいさんは、姿勢を低くしてマリに手招きをする。
 少しだけ警戒していたが、俺が何も言わない事で警戒心を解いたのか、テチテチと駆け寄っていく。
 じいさんに頭を撫でられ、ご満悦のマリ。
 マリの奇妙な格好に何も言わず、じいさんは指先でマリの頭やピコピコ動く耳をいじくり、可愛がった。

「ほんとに可愛い仔だ。だけど、うちの息子夫婦は今回の件でかなり怒ってしまってね。どうも、やおあきが
 私に折檻されたのはとしあきさんのせいだと考えているらしい」
「え?」
「だがね、約束は守りますよ。あれらには何も言わせません。あまり長い間ではないですが、この仔をここ
 で大事に育てておあげなさい」
「は、はあ」
「とりあえず、息子夫婦とやおあきはとしあきさんに偏見を持ってしまったようなので、あまり顔を合わせない
 方がいいかもしれませんな」
「わ、わかりました。すみません、色々と」
「なぁに、悪いのはやおあきの方ですからな。それに、あの件はもう片付いた。だからもう気にする事はない」
「…」

 愉快そうに笑いながら、俺の肩を叩くじいさん。
 申し訳ない気持ちで一杯の俺と、じいさんに向かってテチテチと鳴くマリ。
 俺は、何も言葉を返せなかった。

「それにしても、この仔はこのままじゃ寒そうだね」
「ええ、もう服がなくなってしまったので」
「じゃあ、これ少ないけど…」
「えっ?」

 じいさんは、懐から財布を取り出して一万円札を抜くと、それを俺に手渡してきた。

「ち、ちょっと…これは?!」
「私はあまり実装石には詳しくないのでね、丁度良いものを買ってあげる事が出来ないから。これでこの仔
 に何か暖かくなる服でも買ってあげてください」
「で、でも…いくらなんでも、こんな…」
「なら、ちょっと早いクリスマスプレゼント、って事でどうですかな? 私から、このおチビちゃんへの」
「え…あ、はあ…ありがとうございます…!」

 確かに、これなら仔実装用の既製品服は余裕で買える。
 それどころか、かなり余裕が残る筈だ。
 激貧に瀕した俺にとっては、とてつもなくありがたいものだ。
 だけど…なぜ?

「それじゃあ、私はこれで。おチビちゃん、風邪引くんじゃないよ」
「テチッ!」ピシッ
「おやおや、敬礼ですか。面白いのを知っているんだね。じゃあ、私も…」

 ——ビシッ!

 じいさんが、鋭い敬礼を返す。
 それは、あまりにも見事に決まり過ぎていた。
 すげ…瞬時に姿勢が整い、周囲の空気が引き締まった。
 これ、まさか、本職仕込み?!

 当のマリは、敬礼を返された事をとても喜んだようで、じいさんに微笑んでいる。
 俺はろくに挨拶も礼も言えないまま、ただ階段へ向かうじいさんの後ろ姿を見送っていた。

『テチー♪ あのニンゲンさんとっても良い人テチ! ワタチ気に入っちゃったテチ』

「あ、ああ、そうだね…」

 じいさんが持ってきてくれた袋の中身を確認する。
 肉じゃが、竹の子やレンコン入りの田舎煮、ひじきの煮物、キャベツときゅうりの漬物、そして多少の米が
入っていた。
 
『おいしそうなご飯テチー♪』
「管理人さんありがとう、管理人さんありがとう、管理人さんありがとう」
『テチ? カンリニンサンアリガトーテチー』

 俺の真似をして、マリが手を合わせて復唱する。
 正直、この差し入れのおかげで俺は物凄く助かった。
 しかもとてもおいしく、やや薄味仕上げだったためにマリも喜んで食べた。
 しかしじいさん、まるで俺の境遇を見越しているかのような行動だったなあ。
 単なる偶然か、それとも年を取ると、そういうのがわかるようになるのかな?

 不幸の後に、こんな思わぬ幸運も訪れるものなんだな、とあらためて認識する。
 そういえば、バイトが決まったのもマルが死ぬという不幸の後に来たものだな。
 よく「幸運と不運は交互に訪れるもの」と言うけれど、本当なのかもしれないと考える。
 しかしまあ、本当に不幸から脱却するためには、自分でなんとかしなきゃならないわけで。

 まずは、マリの服をなんとかしないと。
 クリスマスプレゼントとして受け取ったものなら、俺が勝手に使い込むわけにはいかない。
 マリの体格に合った実装服は…と考えた時点で、ふと、恐るべき事実に気付く。


 この町で実装服を売っている店って、俺の元バイト先しかなかった筈では?!



     ※     ※     ※


 翌日、俺はマリの世話を行い頂き物で朝食を済ますと、重い足を引きずって元仕事場へ向かう事にした。
 マリの実装服を買うためだ。
 マリのサイズは、昨日のうちに計っておいた。
 後は買うだけだが……ううっ、店長と顔を合わせたくない。
 出がけにマリに声をかけてもらうようにして、もう鍵をかけ忘れないようにする。
 俺は自転車にまたがり、ペットショップへと走り出した。


 ところが。
 店に着いた俺は、予想外の事態に驚愕した。

 まず、入店直後に店長とばったり。
 うわ、ヤバ…と思ったら、案の定店の奥に引っ張られてしまった。
 そして、激しい追求。
 なんで連絡をしてこなかったのかと、怒涛の説教開始となった。

 あれ?
 なんか、話が変?

 なんでクビになった俺が、無断欠勤で怒られなきゃならないの?
 …と思っていたら。

「誰がクビにするなんて言いました? 後で処分を伝えるから連絡しなさいと言ったでしょう?」

 と、考えを見透かされたような事を言われた。
 えっ、俺、まだクビになってなかったの?

「人手不足で雇ったのに、いきなり二人もクビになんか出来ません。あなたが全然連絡してくれないから、
 この数日私一人で大変だったんですよ」
 と、愚痴まで叩きつけられた。

 どうやら、今回の件は親会社の方に報告され、色々と検討されたらしい。
 確かに、翌日は営業できない状態になってしまった上に専門の清掃業者を呼ぶハメになったそうだから、
報告はやむなしだろう。
 店長も、これだけのトラブルが発生したのだから、バイトのクビ切りはやむなしと思っていたそうだ。
 しかし、なぜか今回は処分保留となったそうだ。
 この問題は、野良実装侵入を食い止めるための充分な機能が店舗側に備わっていなかったという流れに
ずれ込んだらしく、あらたな営業マニュアルの作成と店舗の管理体制の再検討という形で決着したらしい。
 上層部のあるお偉いさんがこの問題を指摘・主張してくれたおかげで、俺の首は皮一枚で繋がったようだ。
 俺は、見知らぬお偉いさんに感謝しながら、店長の更なるお説教を聴き続けた。

 バイト仲間の愛護派の子は、その後自主的に辞めてしまったそうで、今は代理の人間を本社より派遣して
もらって凌いでいるらしい。
 そんなわけで、俺は早速明日から復帰という流れになった。

 うっそぉ……何、ナニ? このラッキーの連発?!

 と、浮かれる前に、俺は本来の目的を果たそうとする。
 マリの実装服の購入だ。

 既製品の実装服は、当然ながら実装石の成長に合わせて伸縮する事はない。
 一ヶ月間で劇的に成長する仔実装などの場合は、服を買ってもすぐに役に立たなくなってしまうケースも
多く、必然的に消耗品となり需要も多くなる。
 現在は化学繊維の発達で多少なら身体成長に沿って拡張できるものもあるが、それも気休め程度のもの
に過ぎない。
 だから購入者は、たいがいにおいて“ちょっと大きめの服”を買っていく。
 10センチの仔実装に対し、15〜20センチ体格用の服を買ったり。
 しかし、その結果ブカブカの服を着せられた仔実装は益々不恰好になってしまい、自身の姿にストレスを
感じてしまうようになるそうだ。

 要するに…仔実装用の服というのは、何度も何度も購入せざるをえないようになっているという事なのだ。
 まったく、巧く出来ているというかなんというか。
 結局俺は、マリにこれ以上負担をかけないようにとサイズぴったりの服と、それより一段階大きい服を
まとめて購入する事にした。
 なるべく安いものを選びはしたが、当然、じいさんのほどこしはあっさりと消滅した。
 ううっ、でも、事態は好転しているんだ。
 俺は、僅かな残金を握り締めながら店長に挨拶をし、派遣の社員にも礼と詫びを述べると、急いで
アパートに戻った。




     ※     ※     ※


『ニンゲンママー♪ あったかいテチ! ありがとうテチ! とっても嬉しいテチ!』

 新しい実装服を身に着け、マリは嬉しそうにはしゃぎ回った。
 恐らく、今日はマリにとっても良い日になるだろう。
 バイトの復活報告、残金で買って来た金平糖とプリンのおやつまで付いて来たのだ。
 マリの喜びようは、それはもう凄いものだった。
 手の中でニコニコ微笑むマリをコロコロ転がしてやりながら、俺もつい微笑んでしまう。

「マリ、今度こそ約束守るために頑張るからな。お前も、しっかり覚えるんだぞ」

『はいテチ! ニンゲンママとの約束も守るテチ』

「も?」

 ふと、マリの言葉が気に掛かる。

「俺との他に、誰かと約束している事があるのか?」

『テチ。あるテチよ。ママとの約束があるテチ』

「へえ、マルと? それはどんな事?」

『テェェ…それはナイショテチ♪』

「えー、なんでだよ」

『なんだか言うのが照れ臭いテチ♪』

「なんなんだ」

 なんだかよくわからないが、マリは両手を口に当ててクスクス笑ってる。
 チプププという、あの侮辱めいた笑い方じゃない。
 まあ、別に怪しい事じゃなさそうだし、マルとの約束っていうなら、尊重してやってもいいか。

「よし、じゃあ今日から新しい躾再開だぞ。今度は、布団に使ってるタオルの洗い方と寝床の整え方だ。
 しっかり覚えろよ」

『テェェェェ…が、頑張りますから、その手に持ったペットボトルはしまって欲しいテチィ』 

 再び、平和で穏やかな日々が始まった。




     ※     ※     ※

 

 ——それから、三ヶ月が過ぎた。


 だんだん暖かくなり、冬の気配はとうに過ぎ去った。
 俺は仕事にすっかり慣れ、いつしかあの野良乱入事件の事すら忘れるほどになっていた。
 これくらいになると、ようやく「毎月の収入」というものに目が向けられるようになる。
 家賃、生活資金、公共料金、マリの飼育代と予算を分け、貯金を積み重ねる。
 バイトの収入は決して良くはなかったが、それでもなんとか滞納していた金も支払え、ようやく人間らしい
生活が出来るようになってきた。

 一時は止められた電気も復活し、休みの日は電気代を気にせずテレビを見られるようになった。
 マリもテレビが大好きになり、なにやら色々と覚え始めたようだ。
 通販番組や昼メロ、または古い時代劇が好きなようで、この前は「桐箪笥が欲しいデス。きっとテンポウ
のエドショミン生活のふいんきが出ていい筈デス」などと、訳のわからない事をほざいていた。

 えっ、マリの口調が変わっていないかって?

 そう、この三ヶ月でマリはすっかり成体へと成長した。
 今ではだいたい身長が40センチくらいで、ここに初めて来た時の四倍くらい背が高くなっている。
 人間の感覚で考えるととんでもない事だが、まあ大きくなったのはメデタイ。
 言うまでもなく、除去された偽石もとっくに体内に戻されているので、体調も万全だった。。

 しかし反面、それによる生活の変化は著しくなってきた。


 まず、食事事情。
 マリは決して大食いはせず、当初のように適量で我慢する事が出来るが、それでも「適量」そのものが
多くなった。
 以前は一ヶ月持った実装フードは今や一週間未満しか持たず、消費量の関係であまり良いランクのもの
を買えなくなった。
 今食べているのは、かなり味が落ちるタイプのものだ。
 仔実装時代に食べていたものに比べると、かなり食いづらいらしい。
 それでも、マリは文句一つ言わず綺麗に平らげていた。

 次に、風呂や洗濯など水を使う行為。
 すでに流し台での風呂や洗濯など行えなくなってしまい、最近はアパートの風呂場を使うようになった。
 洗濯そのものは洗い場でまかなえるからいいのだが、問題は浴槽だ。
 備え付けの洗面器ではマリが身体を浸からせるには不充分のため、どうしても浴槽を使わなければ
ならない。
 しかし、浴槽にマリが一人で入るのは高さの問題で不可能だ。

 そのため俺は、店で売れ残った実装石用の台座をいくつか安く購入し、これを使わせる事にした。
 この台座は、親指実装以上の体格のものなら自在に使えるようにと専門開発された遊具の一種らしく、
側面部に小さな段差が付けられている。
 マリの身長だと届かない浴槽の脇に台を置き、これをステップにして浴槽の中にすべり降りる。
 中には俺が予め薄めに湯を張っているので、うっかり手が滑っても怪我する事はない。
 さすがに浴槽から出る時は手を貸してやらないとだめだが、それ以外なら、マリはだいたい一人で入浴
がこなせるようになった。
 髪がないので洗うのを手伝う必要はなくなり、マリは、専用のあかすりを器用に使って頭頂部をごしごし
こする。
 今では洗い残す事もほとんどなくなり、完璧に綺麗に出来るようになった。

 しかし、それに伴いマリ専用の入浴洗剤などを別途確保しなければならなくなった上、冬場は肌荒れや
風呂上り後の体温温存を考慮して入浴剤も揃えなければならない。
 昔、実家でマルが居た時にも必要としていたものだが、個人ですべて買おうとすると結構な負担になる。
 しかも、マリは洗剤の消費量がとても多い。
 全身アワアワになるのが好きらしく、よく過剰に身体を洗うようだ。
 これは何度もたしなめたのだが、どうしても譲れないらしく、何度も繰り返してしまう。
 これだけ大きく成長したマリには、もはや昔のような躾は通用しないため、叱るというより「交渉」に近い
ものになる。
 だが、普段娯楽が少ないマリだから、これくらいは…とつい甘く考えてしまう自分も居たりする。

 次に、実装服だ。
 あれから毎月新しい服を買うハメになり、今身に着けている通算4着目の服は、もはや仔実装用のもの
とは段違いの価格に達してしまっている。
 つか、俺の持ってるどの服よりも高いというのは困ったものだ。
 それでも、多分あと二ヶ月もすれば買い替えである。
 60センチ台まで成長すればだいたい背は伸びなくなるそうなので、あともう少しの辛抱ではあるのだが…
痛すぎる、出費が痛すぎる!


 とにかく、こういった多数の出費が重なってしまったため、俺の貯金はほんのわずかずつしか出来なく
なってしまっていた。
 ぶっちゃけると、予定していた毎月の貯金額の1/3以下だ。
 勿論、俺は自分のものなどほとんど何も買ってない。
 それどころか、ゲーム機やソフトまで売り払い、以前からあった娯楽すら削り始めている始末だ。
 おかげで俺の部屋は、今や「帰ってメシ食って寝るだけ」になりつつある。
 そして留守の間は、ひたすらマリが番をしているという感じだ。
 マリが居るので退屈ではないが…
 俺の中で、大切な何かが少しずつ削り取られていくような実感があった。


 マリのために割く金額は大きくなったが。
 それは、決してマリに贅沢をさせているわけではない。
 それどころか、マリも質素な生活を強いられている状態なのだ。
 だから、マリが図に乗って糞蟲化するような事はない。
 それどころか、いまだに与えられるものに遠慮の気持ちと御礼を述べる気持ちを失っていない。

 マリは大きくなっても相変わらずの甘ったれ性格で、家に居る間は俺にベッタリはりついて離れようと
しない。
 それどころか、こんなに大きくなっても抱っこをせがむくらいの赤ん坊感覚だ。
 服を持ってはいても、髪がないマリは散歩に連れ出す事も難しいため、娯楽はすべて部屋の中で
まかなわなければならない。
 そのせいか、俺と戯れる事も大事なストレス発散の手段になっているようだ。

 親(保護者)離れが出来るようにと散々躾は行ったんだが…これだけは、どうしても受け入れようとしない
マリ。
 仕事で居ない時は何も言わないのに、一旦帰宅すると、一時的な外出ですら悲しげな顔をする。
 本当に、俺と一緒に居ないとダメになってしまったようだが、いったいどうしたというのだろう? ま、仮死
されるよりゃマシなんだが。
 マルは、この辺すっぱりと割り切れてたのだが…



『ニンゲンママ、それは何デス?』

「これはな、ビールって飲み物だ」

『ビール? 初めてみるデス。おいしいのデスか?』

「さあなあ…わかんない」

『デェ?』

 仕事帰りに俺が買って来たのは、ごく普通の缶ビールだった。
 普段はあんまり飲まないし量も飲めないんだが、今日はなんとなく気まぐれで買ってきてしまった。
 いや…正しくは、焦る気持ちを誤魔化したくなっただけなのだ。


 三月も、もうすぐ終わろうとしている。
 俺のアパートの契約が切れるまで、あと二ヶ月。
 この時点で、俺の貯金は引越し代にすら届いてない。
 車を持ってる友人が居れば、無理に頼んで運搬を手伝ってもらう事もできるのだが、生憎夜逃げを経験
した立場の俺には、もはやそんな親しい友達など居ない。
 まして引越し代はなんとかなったとしても、新しいアパートの新規契約金もないのだ。

 俺は今朝、出勤前に駅前の不動産屋の店頭にある物件情報を見た。
 ——とてもじゃないが、手が出せない!
 否、仮に新規契約金が揃ったとしても、今度は高すぎる家賃と管理費で値を上げてしまう事になるのが
目に見えているのだ。
 ペット可能の物件は、防音設備やらなにやら色々あるらしくて、家賃相場がこのアパートの二倍近くに
達する。
 これだと、もはや俺一人でも生活が苦しい。
 まして今のバイトを辞める事になったら最後、もはやその時点で生活出来なくなってしまうという過酷な
現実もちらつく。

 要するに。
 この時点で。
 俺は、もうマリとの約束を守れなくなってしまっていたのだ。

 そんな辛い現実から、少しでも逃れたかった。
 だから、普段飲み慣れない酒なんかを——


「お前も、少し飲んでみるか?」

『デス? で、でも…いいのデスか?』

「今日は特別にな。ホラ、ちょっとだけ舐めてみなよ。お前のコップに入れてやるからな」

 ちょっとしたイタズラのつもりで、俺はマリ専用の小さなプラスチックコップにビールを注ぎ込んだ。
 といっても、1センチにも満たない程度のごく少量だ。
 俺は、マリと無意味な乾杯をすると、胃の中にビールを落としこんだ。
 苦すぎる味と、過度にきつい炭酸の刺激が喉を駆け下りていく。
 眉をしかめながら、俺はビールを無理矢理飲み込んだ。

 げふー

 ケプー

 マリも自分の分を飲みきったようだ。
 あっという間に頬が真っ赤になる。
 おや、フラフラし始めた。
 やがてチョコンとその場に座り込むと、マリは、俺の顔をじっと見つめ始めた。

 俺の頬も、アルコールのせいで火照り始める。
 事情を知らない者が見たら、二人の様子はまるで恋に震え………いや失礼、忘れてくれ冗談だから。
 とにかく、俺は突然寡黙になったマリの様子が気になり、つまみのするめを齧りながらどうしたと尋ねた。

『ママが居ないデス』

 ボソリと呟く。

「おいおい、俺はここに居るじゃないか」

 俺の言葉に、マリが首を振る。

『ニンゲンママじゃないデス。ワタシのママデス』

「ママって、マルの事か?」

 こくりと頷くマリ。
 よくわからないが、その様子はなんだかとても辛そうに見える。
 酔っぱらっているからなのか?

「マリ、何度も説明しただろ。マルはもう死んで…」

『わかってるデス。でも、ワタシにはずっとママが見えていたデス』

「えっ?」

 なぜか、一瞬背中がぞくっとした。
 おいおい、冗談はよそうぜ。
 怪談のつもりか? 時期ハズレもいいとこだぜ?

『時々ママがお傍に立ってるのが見えたデス。ママが見えると、ニンゲンママにはいい事があったデス。
 今まで、ずっとそうだったデス』

「な…?」

 マルが? 立ってる?
 意味がわからない。
 つか、そのまま聞いたら本当にマルの幽霊が出て来たみたいじゃないか!
 まあ、仮に本当だとしても、マルなら怖がる事はない筈なんだが…
 マリの話は、まだ続く。

『ママは、お傍にずっと居たデス。——なのに、もう見えなくなっちゃったデス…デェェェ…』

 マリの目に、みるみるうちに涙が溜まっていく。
 透明な涙。
 だが、それが嘘泣きではない事はわかる。
 マリは、悲しみを感じている。

 俺は、マリの言いたい事がまったく理解できず、困惑していた。
 だが、できるだけ言葉を選び、優しく話しかけてやる事にする。


「マルは、俺じゃなくてお前が心配で見守っていたのかもしれないぞ」

『デッ…』

「お前がどんな酷い目に遭っても、必ず助かったのは、きっとマルが守ってくれたからだ」

『デデ、そ、それは……』

「でも、お前はもう立派に大きくなった。だから、マルはもう大丈夫だと思ったんじゃないかな?」

『…』

 納得したのか、それとも理解が及ばないのか、よくわからない。
 だがマリは、いつしか言葉を止め、ただ俺に抱かれているという状況に安らぎ始めた。
 こうすると、いつもマリは大人しくなる。
 とても落ち着くのだそうだ。

 マル…か。
 マリは、まだマルの事を想っているようだ。
 まったく、実装石にしては珍しいくらいに情が深い奴等だ。

 気が付くと、あいつが死んでもう四ヶ月近くも経つのか。
 時が経つのは早いな。


 少し時間を置いて、酔いが抜け始めるのを待ち、次の行動に移る。
 眠そうなマリを起こし、風呂の用意をさせる。
 タオルなど必要なものを集めてくると、マリはまた、俺の膝の上にちょこんと飛び乗った。

「おいおい、お風呂だって」

『デスゥ♪ ニンゲンママ、抱っこして連れてってデス』

「何甘えてるんだよ。ホラ、降りなさい」

『デェェ…後でおいしいお茶を煎れてあげるデスから、お願いデスゥ』

「まったく、いつまで俺に甘えてるつもりかね、この仔は」

 根負けした俺はマリを抱き上げ、風呂へと向かう。
 うう、こういう甘さが命取りなのは、よくわかってるのに。判っている筈なのに。
 実装石を調子に乗せると、どんどん図に乗ってしまうというのに…
 どうしても、この仔を遠ざけられない。
 遠ざける事が、辛い——
 いつ、あの約束が破綻を来すかわからないという懸念がある以上、どうしても——


 マリを風呂に入れ、その様子を眺めながら色々と考える。
 マリは、身体を洗いながら小首を傾げて俺を見つめてきた。

『デエ? ニンゲンママ、どうしたデス? さっきから静かデス』

「ん、お前を見てエッチな事考えてた」

『デ、デェェェ?! に、ニンゲンママ、エッチデス! エンガチョデス! 乙女の入浴を覗いてイヤーン
 まいっちんぐデス!!』

 浴槽の中でジタバタして、湯を跳ね飛ばすマリ。
 それを見て、俺は今日初めて腹の底から笑った。

「ハハハ、何を今更。安心しろ、冗談だから」

『デエエ! お、脅かさないで欲しいデス! 乙女の貞操のピソチかと思ったデス』

「何バカな事言ってんだ。ホラ、風邪ひかないようにしっかりあったまれよ」

『デスウ!』ピシッ!

 ようやく安心したのか、マリは敬礼をすると浴槽の底に腰を下ろし、肩まで浸かり直した。



 ピシ…


『デッ?』

「どうした、マリ?」

『今、なんか変な音がしたデス?』

「いや、聞こえなかったけど?」

『おかしいデス。でも、今確かに…』

 ピシッ


 あれっ、本当だ。
 今、俺にもはっきり聞こえた。
 どこからか知らないが、何かが割れるような音だ。
 俺は浴室の窓を確認し、ガラスを確認するが問題ない。
 ステンレスも、洗い場の桶も、特に問題ない。
 浴槽に被せる蓋も見るが、何もない。
 いつしか音も聞こえなくなったので、俺は単なる「家鳴り」みたいなものかと解釈することにした。

「よし、そろそろ上がろうかマリ。俺も早く風呂入りたいもんな」

『ニンゲンママも一緒に入ればいいデス』

「そうはいかないよ。俺が入るためには、もっとお湯を足さないと…」

 マリを浴槽から抱き上げ、お湯を一旦抜こうとする。
 気のせいか、まだ栓を抜いてないのに、湯が少し減っている気がする。
 とりあえず気のせいだという事にして、俺は湯を全部落として新しい湯を貯め始めると、マリが
パジャマ代わりに使っている別な服(古い実装服を縫い直してもらった流用品)を与える。
 そして湯が貯まるまでに、マリを部屋へと上げた。


 風呂に湯が貯まるまでの時間は、だいたい13分。
 俺は時計を確認して、風呂場へ向かう。
 気のせいか、いつもより貯まりが遅い気がする。
 いつもの八割程度しかないようだが…蛇口を充分にひねってなかったのかな?

 さらに待つのも面倒なので、俺は我慢して入る事にした。
 早く風呂から上がらないと、マリがまたふてくされるからな。
 と、笑いながら湯を止め、身体を流して浴槽に浸かる。
 ふい〜、今日もお疲れさんっしたぁ! …と心の中で自分に呼びかける。


 ビシッ、ビシッ……


 ビシビシビシッ、ビシッ…!


「ん?」

 さっき聞こえた音が、更に激しく、連発して聞こえてくる。
 おかしい、これは窓や桶からの音じゃない。
 いったい何が…と思った次の瞬間。



 ——バキッ!


 ド・ザ・バアァァッッッッ!!!



「う、うわぁぁっっ?!?!」


 ザザザザザザザザァァァァッッ——




 いきなり、浴槽が、豪快に割れた。



(続く)


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 金髪さんの「冬のデパートと実装石」で登場した、「ペットショップの実装石の扱い」の概念に感銘を
受け、勝手ながら少しだけアイデアを拝借させていただきました。
 ご、ごめんなさい!
 ず、ずんだ餅…お好きですか?!


 ここまでの流れで、としあき主体の境遇変化パターンについて再注目していただけると、ちょっと
嬉しかったりします。
 分かり辛い部分もあるかと思いますが…


※金髪氏作品のタイトルを間違えてアップするという処刑物のドジに気づき、修正・再アップしました。
 失礼しました…って、なんで後書きでこんなミスすっかなあ…

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