幸福の約束 3 『テチュ! 行ってらっしゃいテチュ!』 「ああ、行って来るよ。お前もちゃんと良い仔にしてるんだぞ」 『テチュ!』 ピシッ! いつもの敬礼で返答してくる。 うむ、マリの気合がよくわかる。 あれから、俺はマリに留守番のノウハウを丁寧に教え込んだ。 ここはペット禁止のアパートだ。マリの存在が管理人にバレたらただでは済まない。 そのため、マリにも自分の存在を隠す術を身につけてもらわねばならない。 自分以外の人間に姿を見られた時点で、この生活もあの約束もすべて台無しになってしまうという 説明はマリにとって物凄くわかりやすかったようで、全身を震わせながら涙目でコクコク頷いていた。 理解が早いなら、後は対策とその徹底。 マリにはダンボールハウスごと押入にこもってもらい、俺の留守中はずっとそこで過ごしてもらうこと にした。 幸い、昔気まぐれで買ったキーホルダータイプのミニライトがあったので、これをマリに預けておく。 マリの体格でも簡単にスイッチが入れられるので、これなら押入の中でも活動できる。 寒い時のために、多めにタオルや手製のクッションを渡しておき、暖を取れるようにしておく。 ご飯は毎朝三食分をまとめて用意しておき、絶対一度に全部食べないように言いつけておく。 ヤクルトの空き容器とストローを加工して作った吸い飲みも置き、マリが自由に水を飲めるようにする。 トイレは用を済ませたらすぐにビニールに捨て、その都度口をしっかり縛って臭いを漏らさないように させる。 ネズミ出現などの緊急事態が起こり、どうしてもダンボールハウスを出なければならなくなった時の ために、壁の端を切ってドアを作っておく。 押入の襖を少しだけ開けておくので、そこから部屋に脱出できるようにするわけだ。 押入の隙間のあたりには古雑誌の山を置き、脱出したマリの姿を隠すように工夫する。 これだけやれば、多分問題なく留守番が出来る筈だ。 後は、いつものように絶対泣き喚かない事と、大騒ぎしない事を厳重に言い聞かせる。 雇用条件によると、バイトの勤務時間は午前10時から午後8時までとなっている。 単純計算で実に10時間。これまでのマリにはとてもきつい待ち時間になる。 だがマリは、説明を一つひとつ聞く度に敬礼を放ち、理解した事を主張した。 色々と心配ではあるが、まずは一日目の様子を見なければ始まらない。 俺は、マリの頭を指先で撫でてやると、部屋を出て鍵をかけた。 今時金色の真鍮メッキの鍵だぜえ、泥棒に開けてくれって言ってるようなものだよ〜。 それでも、ひとまずここで考えを切り替えないと。 さあ、新しい仕事の第一日目だ、こっちも気合入れていかないとな! 俺は意気揚々とアパートを出て、自転車を引っ張り出した。 ※ ※ ※ ——午後10時。 俺は、ヘロヘロになって帰宅した。 …やられた。 雇用条件を鵜呑みにし過ぎた! 午後8時というのは、あくまで店舗の閉店時刻だった。 その後、様々な閉店処理・翌日の開店準備を行うため、どうしても一時間半以上プラスされてしまう のだ。 結果、どんなに急いで帰ってもこんな時刻になってしまう。 考えてみれば、前のバイトの時もそうだったじゃないか。俺はいつになったらこんな当たり前の事を 学習するんだ?! 初日だけあって、業務内容はそんなに難しいものではなかった。 商品の運搬や、店内で扱われているペット各種の世話の仕方のレクチャー、店舗清掃、接客ノウハウ の学習など、ごく当たり前の事ばかりだった。 しかし、最初はどうしても緊張感が伴う。 さらに、店員は例の店長の他3人しかおらず、そのうち一人は自分という状況だ。 だから、ポカなんかとてもやっていられない。 はじめはペットショップなんて全然大した事ないだろうとタカをくくっていたが、とんだ間違いだった。 だが、俺の精神に一番負担をかけたのは、よりによって俺のノウハウを最も活かせるだろうと考えて いた実装石達だった。 面接の時、店長が虐待云々と言っていた理由がやっとわかった。 こいつらを見ていると、人によっては殺意を抱きかねないからだ。 奴等は躾済みの飼い仔実装だが、いわゆる高級実装と呼べるほどではないため、多少知能や経験 が乏しく…ぶっちゃければ、糞蟲ほどではないにせよワガママが過ぎる。 恐らく、実際に飼うなら多少の躾を施せる覚悟がないとうまくやっていけないだろうという程度。 そんなのが、二十匹くらい常にテチテチ言っており、すべてに面倒を見なければならない。 やれ食べ物を持ってこい、昨日のエサはおいしくなかったから云々、隣の仔がかみついた云々… マリがどれだけしっかり躾けられていたのかが、あらためてよくわかる。 それでも、俺のまずい部分はまったく顔を見せる様子がなかったので、とりあえず安心した。 こんな奴等でも野良の糞蟲達に比べれば立派なものだし、なんだかんだで店員の言う事は聞けるし 我々を大きく困らせるような問題も起こさないから、まだマシなんだが。 でも、さすがにちっこいのがワヤワヤテチテチとうるさいと、結構神経に障ってしまう。 こればかりは、やっぱり慣れるしかないようだなあ。 はあ、明日がまた大変だ、とりあえずメシ食ってすぐ寝ないと…と考えた時点で、マリの事を思い出す。 それまでもちょくちょくマリの事を考えていたというのに、都合よく重要なポイントだけ頭からすっ飛ばし ていたようだ。 疲れていると、思考ってこんな風に歪むものなのかなあ。 「ただいま〜…」 声をかけながら、押入を開けてダンボールハウスの中を覗く。 中では、ミニライトをつけっ放しにしたままで、マリがテスーテスーと寝息を立てていた。 そっとダンボールハウスを押入から出し、中の様子を確認する。 トイレの処理、床面の汚れ、おもちゃの片付け、服や髪の汚れ…いずれも問題なし。 少しだけ食事を溢した跡があり、さらにヤクルトの容器はカラカラになっていた。 ううむ、水は量が足りてなかった可能性があるな、明日はもっと大きめな容器にしよう。 食事については、暗くて注意が行き届かなかった可能性もあるから、本人に確認しよう。 押入から出た様子はまったくなく、どうやら本当にこの中で無事過ごし切ったらしい。 勿論仮死などしていないから、まずは上々の結果だ。 俺はマリを起こしてあらためて挨拶を交わすと、遅れた詫びを入れ、すぐに風呂の用意をしてやること にした。 『ニンゲンママ、お仕事は面白かったテチュ?』 鼻歌混じりでくつろいでいたマリが、嬉しそうに尋ねてくる。 だが、それに疲れた笑顔を返した途端、表情が曇った。 『テチュ…つまんなかったテチュ?』 「いやいや、仕事ってのはそういうものだよ。楽しいとかそういうのとは関係ないの」 『テチュ…。よくわからないテチュけど、ニンゲンママとっても疲れてるみたいテチュ』 「うん、さすがにな。でも、すぐ慣れると思うよ。心配かけてゴメンな」 『いいえテチュ。ワタチ、ニンゲンママにご心配かけないようにするテチュから、頑張ってほしいテチュ!』 「ありがとう〜。でもごめんな、今日は遊んでやれそうにないんだ〜」 『テェッ?!』 マリは目をひん剥いて驚いている。 どうやら、これが楽しみでずっと待っていたらしい。 あっという間に表情が曇り、無言で手足をジタバタさせ始める。 ううっ、罪悪感… しかし、ここで甘い顔は出来ないのも、重要なポイントだ。 俺は「どんなにワガママ言ってもダメ」と念を押し、マリの入浴の準備をし始めた。 入浴中はとても気持ちが良いせいか、遊んでもらえない不満は一時的に消えるようだ。 だが身体を拭き、髪を乾かして服を着直した直後に、またまた不満の色が浮かんでくる。 『ニンゲンママ、せめて抱っこして欲しいテチュ…』 「ホントに、お前は甘えん坊だな」 『テチュ…だって…テェェ…』 本当なら一緒に寝てやりたい心境だが、こういう甘やかしが良くない事も知っている。 俺は、あえてマリの要求を退ける。 ただし、ダンボールハウスをいつもより俺の布団に近い位置に動かしてやった。 『ニンゲンママに近くなったテチュ♪』 「じゃあな、お休み。また明日な」 『おやすみなさいテチュ!』 布団の中で敬礼するマリに微笑みながら、俺は電灯を消す。 しばらく箱の中からテッチテッチと独り言が聞こえたが、すぐに静かになる。 一方俺は、マリの声が聞こえなくなったのをなんとなく意識した直後、吸い込まれるように眠りに 着いた。 ※ ※ ※ ——なんだかんだで、一週間が経った。 かろうじて職場に馴染み始めた俺は、初日のような極端な疲労感を覚える事もなくなり、帰宅後も少し マリをかまってやれるゆとりが出て来た。 マリは少しだけ背が伸び、今は13センチくらいになっている。 鳴き声も「テチュ」という甘えた響きはなくなり、「テチ」とはっきり発音できるようになった。 もちろん、この一週間ただ成長を見守っていたわけではない。 俺は週二回の休みの日は付きっきりでマリの世話と躾を行った。 トイレ、食事、留守番、風呂と問題なくクリアしたマリの次の課題は、洗濯だ。 これだけは、さすがに未経験だ。 俺は、マリに洗濯のやり方を見せた上で服を奪い、すぐに実践させる。 流し台の中にぬるま湯を入れた小さな桶を用意し、そこで洗濯をやらせる。 賢いマリなら、これもきっと……と思っていたら、思わぬボロが出た。 『テチ…テチ…! ニンゲンママ! 終わったテチ!』 「どれどれ。…?!」 マリは、水に浸した服をそのまま俺に手渡してきた。 勿論、汚れはそのまま付着しているし、水気もたっぷり含んでいる。 全然洗濯になってない。 「マリ、やり直し。全然洗えてないじゃないか」 『テエ? ちゃんとお水に浸けてジャブジャブしたテチ』 「あのな、さっきの見てなかったのか? 汚れを落とすためにはこすらないとダメだろ。あと、絞ってない!」 『テチテチ…わかりましたテチ、もう一回やるテチ!』 俺の手から服を取ると、もう一度桶につけて洗濯をやり直すマリ。 しかし、服を浸した直後にその後の行程が頭から飛んでしまうようで、「これからどうするんだっけ?」 と言いたげな顔で見つめてくる。 そして、俺の顔色を見てブルブル震えると、もう一度チャレンジに入る。 だがマリがやるのは、ただ水の中で服を揺するだけだ。 どうしても行程が覚えられないらしい。 「躾の意味を半分しか理解出来ない」という例の欠点が露見したかな。 呆れた俺は、不意打ちでマリの脳天にデコピンを叩き込んだ。 少し陥没するくらい、強めに。 『チベッ?!』 「アホかお前は! もう一度よく見てろ!」 『テェェェ……痛いテチ、ニンゲンママが叩いたテチィ…』 「物覚えが悪かったらお仕置きだって言っただろ? 名前がもらえたからって調子に乗るな」 『テェ…痛いテチィ。テェェェン…』 「泣き言はいいから、ホラ、よく見ろ!」 別な布でもう一度手本を見せてやる。 一つひとつ行程を説明してやってもいいのだが、それではマリ自身がその動作の意味を理解できず、 応用力が身に着かない危険がある。 だから俺は、マリの観察力に期待して、何も言葉を付け加えずにいた。 『テチテチ…お水でジャブジャブするテチ』 「違うだろ!」 ベチッ 『テチャッ?! テェェ…ちゃんとニンゲンママと同じようにやったテチィ』 「じゃあなんで、この汚れが取れない?」 『テチィ…もう一回やるテチ』 「早くやらないと風邪引くぞ」 『テ、テェェ……クチュン!』 マリは、暖房もストーブもない部屋のステンレス流し台の中で悪戦苦闘を続けている。 すでに両手はあかぎれが出来始め、身体の色も青ざめ始めている。 実は、洗濯が失敗するたびに桶の中の湯に水を足し、温度を下げているのだ。 今ではもうほとんどぬくもりはなくなり、ただの冷水になっている。 さっきまで元気だったマリも、さすがに寒さが全身に回ったようで、もうほとんどろくに手が動かなく なっている。 それでもなかなかコツが把握できないようなので、俺はわざと聞こえるような大きなため息を吐き、 マリを流し台から解放した。 『テエ? も、もういいテチ?』 「ダメ。全然ダメ」 『テ、テェェェ?』 「お前、今日はもう服着るの禁止。それから、あのお仕置きも追加!」 『テ……テチャアァァッ?!?!』 俺が取り出した物を見て、マリはテーブルの上でペタンと腰を抜かした。 さらに、ブリブリと脱糞する。 粗相をしない筈のマリが脱糞するほどのものとは…? いや、単なる透明ペットボトルなんだけどね。 『テチャアァァァッ!! それだけはイヤイヤテチュゥゥゥゥゥッ!!』 以前の口調に退化しながら、必死で逃げようとするマリ。 それを問答無用でふん捕まえると、俺は総排泄口の汚れもそのままに、ペットボトルの脇に開けた穴 へ叩き込む。 注ぎ口近くに切り開けられた出入り口は、ペットボトルを立ててしまうとマリには決して届かなくなる。 底の方にズリズリと落ちていくマリは、驚愕の表情で上を見つめている。 準備が整ったので、俺はマリ入りペットボトルを持って押入の上段に登ると、天板を開いてその奥に 押し込める。 『テチャァァァッ!! 真っ暗イヤイヤテチィ! 怖いテチィ! ネズミさんまた来るテチィィッッ!!』 普段押入で留守番しているくせに今更何を…と思われるかもしれないが、実はマリは、待機中ずっと ミニライトを点けていないと留守番ができないという事がわかった。 どうりで電池の消耗が早いと思った。 どうやら完全な暗闇には生理的な恐怖感があるようで、このように無抵抗状態で閉じ込められると、 いつもの平静さを完全に失って取り乱しまくる。 だが、そうでなければお仕置きにならない。 この閉じ込めはせいぜい四時間程度で解放するものだが、当のマリは以前天井裏のネズミに襲われた ようで、さらに強い恐怖感を持ってしまったようだ。 ペットボトルの出入り口は完全には切り開かれておらず、一辺を残してドアみたいに閉じられるように なっているから、ここからネズミにつけ入られるような事はない。 つまり絶対安全が保証されてはいるのだが… チュウチュウ 『テチャァァァッッ!! 早速出たテチィィッッッ!!』 チュウチュウチュウ 『ゆ、揺らさないでテチィィッッ!!』 チュウチュウチュウチュウ 『こ、転がさないで欲しいテチィィッッ! テェェェェン!!』 円筒状の2リットルペットボトルは、ネズミ達にとって良い玩具のようだ。 たっぷり転がされ弄ばれたマリは、内部を緑一色に染め上げていた。 すっかり怯え切り、いつまでも身体を震わせている。 全身を糞で汚しながらも、懇願するような目でこちらを見つめてくる。 俺はぬるま湯の中にマリを落とすと、冷酷な言葉を投げかける。 「よし、じゃあ洗濯のやり直しだ」 『テ、テチャァァァッ?!?!』 もちろん、覚えるまで何度でもやるよ。 洗濯の後は、自分の使うダンボール内の掃除、布団に使ってるタオルの洗い方など、課題は山ほど ある。 仮死されると困るから、マリの偽石に極度の負担をかけないように微調整しながら躾けないとならない が、俺は心を鬼にして教育に専念した。 って、そういやあれからまったく仮死してないな、こいつ。 休日の夕食前になると、マリは心身ともにすっかり疲れ切り、せつなそうな顔で俺を見つめてくる。 どうやらこれで、俺が仕事を休む日=自分がたっぷり遊んでもらえる日である、という認識は薄らぎ 始めたようだ。 前のように、無闇に甘えようとはしなくなった。 なかなか良い傾向だ。 前はすぐに寂しがって仮死してしまうほどだったのだが、少しは成長したという所だろうか。 だが、夕食を済ませた後はきちんとスキンシップを取ってやらなければならない。 お風呂に入るまでの約一時間、マリをたっぷり可愛がってやる。 もちろん、おかしな意味じゃなくて真面目に。 だが当のマリは、俺と一緒におもちゃで遊んだり本を読んでもらったりするよりも、とにかくべったり くっついている方が好きらしい。 この日も、マリは俺の手の平に収まり、ぺたりと頬を付けてうっとりしている。 こちらもまんざら悪い気はしないんだが、マリの頬が紅く染まっているのを見ると、思わず心の中で こう言ってからかいたくなる。 【マリ、お前…俺にホレてるな?】 ——ゲホッ、ゲホゲホゲホッ!! 『テ、テチ!? ニンゲンママどうしましたテチ?』 「い、いや…何でも…ゲホゲホッ」 『テェェェ…お風邪引いたテチ?』 マリは心配そうな顔をして、手の上からじっとこちらを見ている。 やべ、バカな事考えてたら自分でツボに入っちまった! 俺はそれからしばらくむせ続け、マリが落下しないように必死になっていた。 そしてマリは、ひたすら心配そうに俺の親指を撫で続ける。 いや、そんな事しても無駄だから。 ※ ※ ※ さらに一週間が過ぎた。 気がつくと、すでにマリと一緒に暮らして二週間が過ぎている事になる。 随分手間がかかったが、あれからマリはなんとか洗濯のノウハウを理解し、ようやくちゃんと行える ようになった。 また住処の掃除も、試行錯誤の末なんとか身につけた。 勿論、その間に何度天井裏で泣き叫んだかわからない。 しかしマリも、俺から与えられるお仕置きが決して虐待目的ではない事を理解してくれているようで、 いつしか「教わる姿勢」と「甘える姿勢」を区別できるようになっていた。 とにかく、俺は一つスキルを身につける毎にマリを褒め、自分にとってどれくらい大事な存在になった かを説明するようにした。 マリは、そんな俺の話を嬉しそうに聞いている。 そして同時に、以前は口にしなかったような事を述べ始めるようにもなった。 『ニンゲンママ、ワタチとママ、どっちが大事テチ?』 ママというのは、言うまでもなくマルの事だ。 この質問を受ける度に、俺はこう説明した。 「どっちも大事だよ。俺にとって、マルとマリはそれぞれ別々に大事なんだ」 すると、マリは決まってこんな返答をしてくる。 『どう違うテチ? ワタチ、まだまだママには勝てないテチ?』 「どうしてマルに勝つとか、そんな事を言うんだ?」 『それは……テチ……』 会話はここで途切れる。 いつも、ほとんど同じパターンで繰り返される。 いったいどうしたんだろう、マリは? 俺にとって、マリは大切な実装石だ。 マルという、俺にとってかけがえのない存在が残した仔。 いわば、俺とマリを繋いでいる唯一の絆。 一度途切れかけたそれを、俺はもう二度と手放さないと決めた。 だから今後も、何があろうと俺はマリを守り、育てる。 そんな気持ちをわかりやすくかみ砕いて、マリに説明する。 だがマリは、なぜか涙目になってしまう。 『テェェェ……』 「どうしたんだ、マリ? なんか変な事言ったか?」 『テェェ…ワタチ、まだ赤ちゃんだから巧く言えないテチ。でも、でも…ワタチ、なんだかとってもモヤモヤ しちゃうテチ! テェェェン…』 「う、う〜ん…」 どうしたんだろう? どうやらマリの中では、マルという存在が変質し始めているようだ。 よくわからんけど、こいつなりに妬いてるってことか? そう思うと、なんだかちょっとおかしくなって笑いそうになってしまう。 俺は、マリの頭を撫でながら静かに言葉を続けた。 「マルはマル、マリはマリだろ?」 『テ…?』 「俺にとって、マルは確かに特別だけど…もう居ない。でも、マリは今ここに居る」 『……テチ…』 「マルは、俺の思い出の中で大事。だけどマリは、今の俺にとって大事。どっちもそれぞれ一番大切だ」 『テチッ☆』 ぽふっ、と可愛い音を立て、マリが親指にしがみつく。 納得…してくれたのかな? 目を閉じてひたすら頬擦りをするマリの姿は、何度見ても可愛らしい。 マルの時を思い出す。 あいつも、俺の手の中に乗るのが好きだった。 すぐに大きくなってそんなに沢山乗りはしなかったが、今でもあの時の感覚ははっきり覚えている。 ——そしてまた、マルの無残な死を思い出してしまう。 風呂のために湯を沸かしていたやかんがピーッと鳴り、俺は我に返った。 ※ ※ ※ 「おう、やおあき。おはよう」 「あ、としあきさん。おはよー! これからバイト?」 「ああ。そーいう事。んじゃまたな」 「はーい! せいぜいずっコケないでねーっ」 「そんなドジじゃねーよ! んじゃな!」 …キキーッ、ドテッ! イテーッ 「言ってる傍から転んでら。あーあ。……って、あれ?」 カチャ……ギィィィ…… 「としあきさん、アパートの鍵かけ忘れてるじゃん?」 ※ ※ ※ 先ほど、としあきは大慌てで部屋を飛び出して行った。 どうやら寝坊してしまったようで、随分慌てていた。 そういえば、押入がいつもみたいに閉められてなくて、大きく開いちゃってるけど、大丈夫かな? いつも出て行く時お外への扉がガチャって言う筈だけど、今日はそれがなかった。 大丈夫かな? それでも、マリの餌と水を用意していってくれたので、マリにとっては特に大きな問題はなかった。 いつものように、押入の中でミニライトを点ける。 ほんやり浮かび上がるダンボールハウスの中、マリは、お気に入りのスポンジボールを手に取ると、 ダンボールの壁に向かって転がしてみた。 テチテチ、テチテチ 弱々しく転がり、跳ね返ってくるボールを受け止める。 そんな事を数回繰り返すと、マリはすぐに飽きてしまい、大きくため息をついた。 新しいおもちゃや遊びが欲しいというのではない。 また、ニンゲンママが出かけてしまった。 寂しくて退屈な日々が始まる。 頭上に広がる暗闇を見つめ、マリは、いつものように物思いにふけった。 としあきは、マリにとって物心付く前から特別な存在だった。 母親のマルが、としあきやその家族との思い出話を何度も繰り返していたからだ。 まだ知能の発達が未熟なマリですら覚えてしまうほど、マルはとしあきの話をしてくれた。 だからマリは、いつかとしあきに飼って欲しいと強く思うようになっていた。 そして、その夢は一応叶った。 だがその代償として、大切なママは死んでしまった。 突然やって来た野良実装の家族に襲われ、気が付いた時には、マルはすでに動かなくなっていた。 野良実装の親が言っていた言葉が、思い起こされる。 『お前達に餌付けしているニンゲンの所へ連れて行くデス』 訳がわからなかった、何が起きたのか全然理解できなかった。 ニンゲンママに逢いたい、逢ってママを助けて欲しい。 ただひたすらその思いに突き動かされ、マリは野良実装をアパートへ導いてしまった。 混乱から回復しないうちに、マリはとしあきに逢えた。 マルに成りすまそうとした野良実装に抱かれながら——。 動かなくなったマルが「死を迎えた」という事が、としあきによる埋葬でやっと理解できた。 それは、としあきという特別な人間について誰も話をしてくれなくなったという事でもある。 そこからマリは、自分の認識だけでとしあきと向かい合わねばならなかった。 ニンゲンママに逢うために、としあきの傍に居るために、沢山の事を教えてくれたママ。 飼い実装になるためには絶対必要な事だからと、泣きながら懸命に自分を躾けてくれたママ。 そのママが夢見ていた、ニンゲンママとの生活——そして、ニンゲンママと生活するという事が示す 意味。 マリは、マルが本当に望んでいた事を再確認するため、ただひたすら物思いにふけり続けた。 毎日、毎日。 そしてそれは、やがてマリの中で大きな変化を起こそうとしていた。 ママが望んだこと。 それは、ニンゲンママの傍に居る事。 ずっとずっと、見守ること。 ワタチはママの仔。 ママは、ワタチにもニンゲンママを見守って欲しいって、言った。 ワタチには、ママにもらった大切な役目がある。 ——でもこんな暗い所に居て、その役目は果たせるの? ———ママは……どう思ってたの? 不安だよ、ニンゲンママを見守ってないと、不安だよ… 「テチィ……」 思わず声が漏れる。 その呟きは、実装リンガル越しに聞けば切ない思いの代返として受け取れたことだろう。 だが、リンガルなどまったく持たない、そして実装石に無理解な人間にとっては、単なる異生物の 汚らしい鳴き声にしか受け取れない。 がらっ! 突然、押入の襖がこじ開けられた。 「テチッ?!」 「あーっ、なんだこりゃあ! なんでこんなトコに実装石が居るんだぁ?!」 誰かが、見下ろしている。 誰だろう? 見たことがない。 ニンゲンさんだ、でも、ニンゲンママじゃない。 こっちを見ている、こっちを睨んでいる。 手を伸ばしてくる。 怖い、コワイ。 お願い、怖い事しないで。何もしないで。 ワタチ、悪い事なにもしてないの、してないの。 いい子にして待ってるだけなの。 ニンゲンママ、どこにいるの? 誰か知らない人来たよ? ニンゲンママ、助けて、助けて!! 「テチャアァァッッッッ!!!」 「あー、としあきさんこんなのこっそり飼ってたんだぁ。だから中入るなって言ってたのかぁ。悪い人だなぁ♪」 見知らぬニンゲンが、自分の身体を無造作に掴み上げる。 乱暴に握り締め、振り回す。 笑い声が聞こえる。とても怖くて、とても残虐な… あまりにも不幸な偶然が続いた。 不自然なまでに。 たまたま襖を閉め忘れたとしあき。 たまたま鍵をかけ忘れて出かけたとしあき。 たまたまアパートの鍵をかけ忘れて出かけたとしあき。 それに気付き、イタズラ半分でアパートの中に入り込んだやおあき。 たまたま二階に上がり、たまたま201号室の扉を開けてしまったやおあき。 マリは運悪く、最悪の瞬間に声を上げてしまったのだ。 恐らくこのトラブルは、本来ならば物凄く低確率で発生するものだった筈だ。 例えるなら、初めて買った宝くじが一等になってしまうような。 マリは、その最悪のくじを見事に引いてしまった。 或いは、このアパートに来てからの幸せで充実した生活の代償を求められたのかもしれない。 当選の支払いは、即座に行われる。 しかも、この当選は前後賞まで付いていたようだ。 「けーやく違反だけーやく違反! というわけで! この実装石は僕が処分しまーす♪」 マリを捕獲したやおあきは、小学生でありながら実装石に大きな関心を示す、真性の虐待派予備軍 だった。 まさに、最悪極まりない出会い。 今まで色々なトラブルを経験してきたマリだったが、ここまで不条理な不幸は未経験だった。 「テチャアァッッッ!!」 「どーしよっかなあ、コイツ。やっぱり殺そうかな? 実装石だし」 やおあきは、マリを手で掴んだまま部屋を出て、外へ向かっていく。 どこへ行くの? どこへ行くの? 廊下を通り、階段を降り、アパートの玄関を通り抜ける。 鍵がかけられる。 外の景色が見える。あの野良実装に無理矢理連れてこられた庭、としあきを追ってマリと一緒に 歩いてきた道路…すべて見覚えがある。 やめて、お外怖いの、怖いの! ワタチ、お外イヤなの! 必死で叫び、許しを乞うが、やおあきは耳を貸そうともしない。 自分を握り締める手の力が強まったり弱まったりして、マリを幾度となく圧迫する。 としあきとマルに固く戒められていたパンコンを繰り返してしまう。 それでも、やおあきの握力はまったく弱まらない。 マリは、未経験の恐怖を連続で与えられながらも、今は自分の粗相を恥じ、悔やんでいた。 否、もはや思考が混乱し始めていたのかもしれない。 あまりにも場違いな感情に支配されつつあったマリは、気が付くと、見覚えのない広い場所へやって 来ていた。 「チベッ!」 突然、草むらに放り捨てられる。 落下した瞬間、下になった右腕と右脚が潰れ、鋭い葉が頬を切った。 自分の糞の臭いと草の匂い、そして土の香りが混じっている。 マリは、少し離れたところから自分を見つめているやおあきの姿を見止め、恐怖に身体を震わせた。 「お前、あのアパートにいちゃいけない奴なんだぞ?」 「テ…?」 「だから俺が捨ててやったんだ。ありがたく思えよ」 「テチィ! テチィ!」 やだ、こんなところやだ! ニンゲンママのところに帰して、帰して!! 必死に懇願するが、やおあきはニヤニヤ笑っているだけだ。 だがやがて、じわじわと近寄ってくる。 徐にマリの服に手を掛け、力一杯引き千切った。 ビリビリッ! 「テ、テチャアァァッッッ!!!」 大切なおべべ! ママからもらって、ニンゲンママから洗い方を教わったおべべ! どうして、どうしてそんな事するの?! ワタチ、裸んぼのまんまになっちゃう! 「お前みたいなちっこいのなんか、どーせすぐ死ぬんだから、こんなの要らないだろお♪」 びりっ! 端の方を掴み、盛り上がったパンツまで剥ぎ取る。 完全に裸にされたマリを、冷酷な目で見下ろすやおあき。 その手はマリの糞で汚れているのというに、まるで気にしていないようだ。 手が汚れている事よりも、仔実装をいたぶる事に意識が集中しているようだ。 「ここまで来たら、髪も取っちゃおうかなあ♪ 禿裸実装って奴をまだ見た事ないんだよね♪」 「テ、テチャアァァッッ!! テ、テェェェェン! テェェェェン!!」 やおあきの手が伸びる。前髪に触れる。 人差し指と親指で挟み、力を込める。 ぐいっ、と強く引かれ、鋭い痛みが額に広がる。 やめて、お願いだからやめて! 髪はもう生えてこないの、なくなったらダメなの! お願い、何でもするから、それだけはしないで! ニンゲンママに嫌われちゃう! ニンゲンママに嫌がられちゃうから! 「テチャアァァッッ…テェェェェ…テチィィィッッ…!」 「何言ってるか、わっかりませーん♪ ……そーれっ!」 ぶちっ……ぶちぶちぶちぃっ……! 「テ、テギャアァァァッッ!」 何の抵抗も出来ぬまま、マリは、前髪をすべて毟り取られた。 毛の根元の皮膚ごと。 抜き損ねた毛まで、丁寧に千切り取られていく。 無論、それだけではすまなかった。 立て続けに、後ろの二束の髪も完全に奪われ、周りに撒き散らされる。 マリは、今や完全な禿裸実装に成り果てていた。 「なんだあ、これはこれで可愛いじゃんか♪ よっし! だんだん面白くなってきた!」 「テチ…テチ…テ……」 ワタチの髪が……服が…… どうしよう、もう、ニンゲンママに逢えなくなっちゃった。 あんなに大事にしろって言われてたのに…あんなに大切なものだって教わったのに… どうして、どうしてこんなになっちゃったの? ニンゲンさん、ワタチ…どうしてこんな目に遭わなくちゃならないの? 「それっ! シュートっ!!」 ドゲシッ! 「デゲ……!!」 マリの問いかけの返答は、きついキックの一撃だった。 小さな弧を描き、さらに離れた草むらの中へ落下する。 腹は潰れ、後頭部を激しく激突させたため、マリは一気に半死半生の状態に陥った。 ママ…ニンゲンママ…… タスケ……テ…… 「あはは♪ 面白かった! でもあんまり飛ばなかったなあ、今度別なので挑戦してみよ!」 愉快そうに笑うやおあきの声がする。 だがマリには、もうやおあきの次の行動を警戒する気力すら残っていなかった。 どれくらいの時間が経っただろう。 マリは、朦朧とする意識の中、やおあきの追撃が止まった事を感覚的に悟った。 身体が痛い。いろんなところが痛い。 こんなに痛いのは初めてだ、躾でも経験したことがない。 かろうじて無事だった左手で、弱々しく身体をまさぐる。 そして、服がない事に気付き、慌てる。 そうだ、おベベなくなっちゃったんだ。 マリは、痛む身体に鞭打って、自分の服を探し始めた。 足が潰れているから、立ち上がる事はできない。 だが、マリは必死で身体をくねらせ、草むらの中を移動した。 鋭い葉が、刃のようにマリの身体を切り刻む。 しかし、それ以上の激痛に苛まれるマリにとっては、そんなものは大したダメージに感じられなかった。 それよりも、あれだけ過酷な躾で覚えて、やっと自分で綺麗に洗濯出来た服を失う事が嫌だった。 禿裸にされた実装石が、どういう立場に追いやられるかは、幼いマリにも理解は出来ていた。 その恐怖感も、マリの身体を突き動かす原動力となっていた。 蹴り飛ばされてから数時間。 何度嘔吐し、何度脱糞したかわからないという状態で、マリはやっと自分の服の切れ端の一つを発見 した。 「テ……チ……」 あった。 でも、これっぽっち。 もっと集めなきゃ、もっと集めなきゃ。 あっちにも、緑色のがある。 あっちにも落ちてる。よかった。 拾ってお洗濯しよう、お洗濯しよう。 そうすれば、きっと綺麗になって、おベベも元に戻るね。 お洗濯して、乾いたら、きっと元に戻るよね。 そうだよね、ニンゲンママ? 全身を泥と汚物で汚し続けながら、マリは必死で自分の服の切れ端を集めた。 無論、集めたものすべてが彼女の服だったわけではない。中には無関係な紙片やビニールの切れ端 なども混じっている。 しかし、マリにとってはすべてが自分の服に見えていた。 正常な判断力など、とっくに失なわれている。 今はただ、少しでも早く元のちゃんとした格好に戻って、としあきの許しをもらいたかった。 左手に抱えられるだけ抱えた切れ端、その量はマリの頭巾の半分にも満たない。 それでも、今のマリにはこれ以上見つける事は不可能だった。 急いで水場を探す。洗濯をするために。 さらに一時間後、たまたま落ちていたコンビニ用のビニール袋に、雨水が溜まっているのを発見した。 お水だ。 お洗濯ができる! ニンゲンママに許してもらえる! 急がなきゃ、急がなきゃ… 芋虫の如き鈍重な動きで、少しずつ水場に近付くマリ。 気が遠くなるような距離を移動した感覚に捕らわれながら、マリは、腕の中にかろうじて残っていた 布の切れ端を落とした。 綺麗に澄んだ水が、みるみる濁っていく。 マリは、それを見て安堵のため息を漏らした。 お水に浸しただけじゃ、ダメなのよ。 ごしごし、ごしごし、こすらないとダメなの。 そうしないと、汚れが落ちないのよ。 早く、はやく、ごしごししないと。 急がなきゃ、急がなきゃ… 最後に、きちんと絞らないとダメなの、乾かないの。 早くしないと…ニンゲンママ、笑ってくれないよ…… 「デギャアァッッ!! ワタシ達の飲み水になんて事するデスゥッ!!」 背後から、ドスドスという鈍い足音と共に、強い気配が急接近してきた。 ※ ※ ※ 午後十時。 俺はアパートに戻り、自分の部屋の鍵を出して南京錠に通そうとして、真っ青になった。 鍵がかかってない! 泥棒か? いや、錠前は室内のいつものところに置かれたままになっている。やはり完全に掛け忘れただけの ようだ。 しかし…アパートの鍵はかかってたんだよなあ? どういう事だろう? 俺、自分の部屋の鍵は閉め忘れたのに、アパートの鍵だけは閉めたのか? 状況がよく思い出せなかったが、とりあえず盗まれるようなものは何もないからいいか、と割り切る。 そして、いつものように押入を開けようとして……硬直した。 開かれた襖、引き出されたダンボールハウス、点々とついている緑色の異臭の元。 マリが何者かに連れ出されたのは明白だ。 しかも、その誰かは思いっきり検討がつく! 俺は、すぐにアパートを飛び出すと、管理人の家に向かい玄関を叩いた。 しばらくして、やおあきの母親が迷惑そうな顔付きで出てきた。 「どうしたんです? こんな時間に…あ、としあきさん」 「すみません、やおあき君は居ますか?」 「今何時だと思ってるんですか? やおあきはもう寝てます」 「どうしても聞きたい事があるんです! すみませんが呼んでください!」 「何言ってるんですか! それにあなた、アパートで動物を飼っていたんですって?」 「な…!!」 心臓が止まりそうになった。 なんで、この人からそんな言葉が? 「やおあきが実装石を見つけたそうですよ、二階で。だとしたらあなたが飼っていた以外にないでしょう」 「…って事は、やおあき…俺の部屋に勝手に忍び込んだってことになるんですが」 「いいえ、やおあきは二階の廊下で実装石を見つけたと言ってましたわ。しかも、あなたの部屋の鍵は 開きっぱなしだったって。あなたの部屋から逃げ出したのを捕まえたのよきっと」 嘘だ。 マリは決して部屋から出ないし、まして鍵の有無に関係なく自力でドアを開けられない。 これは最初の頃に試しているから、間違いないことだ。 それに、荒らされていた部屋の様子から、誰かが忍び込んだのは明白だ。 俺は、頭に血が上っていくのを実感した。 「あなたね、前に一階に住んでた高白さんの子犬のこと覚えてるでしょ? 契約違反だから、本当なら あなたにも出て行ってもらわなきゃならないのよ!」 「…俺の部屋への無断侵入に対する詫びもなく、そんな事を言いますか…?」 「だから、廊下でって…」 「だったら、俺の部屋に今すぐ来てみろ! 荒らされている証拠を見せてやる!!」 俺は、思わずやおあきの母親の胸倉を掴みそうになった。 だが、その手は空中で止まった。 いつのまにか玄関に来ていた管理人のじいさんが、俺の腕をつかんで止めたのだ。 「やおあきだね、今、呼んで来るよ」 「管理人さん…」 「お義父さん! やめてください。この人は…」 「やおあきが本当に忍び込んだのなら、それは犯罪だからな。我々の管理責任問題だ。 ——としあきさん、ちょっと待っててな」 笑顔なのに、独特の迫力を秘めたじいさん。 ゆっくり階段を上っていく後ろ姿を見ながら、俺は、さっき握り締められた前腕をさすった。 指がめり込んだ部分が、まだヒリヒリと痛んでいる。 なんつーバカ力だよ、あのじいさん。 しばらくして、パジャマ姿のやおあきが連行されてきた。 俺の顔を見るなり青ざめる。 その瞬間、すべてが判明した。 管理人のじいさんは、やおあきの顔色を見ると何も言わずに耳を引っ張り上げ、問答無用に外へ 連れ出した。 「い、痛い痛い! おじいちゃん痛い!」 「としあきさんの部屋に行こうか。そこでもう一回実装石を見つけたときの事教えてくれないかい?」 「い……!! い、いやだイヤだ!! だって僕…!」 「やおあき、実装石をどうした?」 間に割って入る。 俺は、返答次第ではやおあきをぶん殴る覚悟で迫った。 後のことなんか知ったこっちゃない。 その迫力に気圧されたのか、やおあきは怯え切った目で見つめ返す。 じいさんは、ニコニコと笑顔を崩さないまま、やおあきの首根っこを掴む。 向こうで母親が何か叫んでいるが、多分俺達の誰も聞いてない。 俺の懇願で、じいさんはやおあきにマリをどうしたか追求してくれた。 よりによって、マルを葬った河川敷に捨ててきたらしい。 それを聞いたじいさんは、やおあきにパジャマ姿のままで案内をさせる事にした。 この時間は、上着を羽織っていてもかなり寒い。 なのにじいさんもやおあきも、上着なしの寝巻き姿のままだ。 やおあきはガタガタ震えているが、じいさんはまったく許す気がないらしい。 しばらくして、河川敷に辿り着いた。 そこは、マルの墓のある側の向こう岸だった。 「どうしてお前は、人様の物に勝手に手を出す悪い癖があるかな? ん?」 「お、おじ……ごめ……許し…ごめ……」 「確かにペットは禁止だが、だからといってお前が勝手にしていいわけじゃないな? わかるか?」 「は、ハイ…ご、ごめ……ふえ……」 「じゃあ、捨てた実装石を探しなさい。すぐにな」 「え、えぇぇぇぇっ?! 今からぁっ?!」 「そうだよ。さあ、急げよ。見つけるまで家には帰さないからな」 反発するやおあきに、すかさずじいさんの殺気がこもりまくったガンつけが炸裂する。 うげ…なんつー厳しいじいさんだ! 今まで何度も逢ってたけど、ここまで怖いとは思わなかった。 それに何より怖いのは、さっきからずっと笑ってるって事だ… 俺は、先程まで煮え滾っていた筈の怒りが引いていくのを実感していた。 哀れ、やおあきは泣きながらパジャマのままで草むらを漁り始めるハメになった。 俺も、マリの名前を呼びながら必死で探した。 勿論、じいさんも手伝ってくれている。 三人とも、何匹かの野良実装を見つけはしたが、マリはまったく見つからない。 痺れを切らした俺は、さっき捕まえた野良実装にリンガルで話しかけた。 「おい! ここにこれくらいの大きさの仔実装が居なかったか?」 『そんな仔実装なんか知らんデス。この辺りにはワタシ達一家と、さっき見つけた禿裸の糞ドレイしか 居なかったデス』 「禿裸?」 嫌な予感がした。 俺は、マリのお土産にと買って来た金平糖を野良実装にくれてやると、禿裸の居た場所を教えさせた。 しばらくして、少し背の高い草むらの奥で、どす黒く変色した不気味な物体が見つかる。 …信じたくはなかったが、それは、マリと同じくらいの体格の仔実装だった。 両腕は食い千切られ、全身糞まみれにされ、かろうじて片足だけは原型を留めていたが顔は殴られ まくってめちゃくちゃ、耳は折れ、背骨も曲げられている。 その姿を見た野良が、デプププと笑っている。 ぐしゃっ! 『デベッ!!』 次の瞬間、そいつは俺の足の下で一生を終えた。 黒い塊になった仔実装を抱き上げる。 「マリ…か?」 「テ…」 弱々しいが、返答があった。 俺には、なぜか確信があった。これはやはりマリだ。 胸が熱くなった。色々な意味で。 「見つけました。こんな目に遭わされてましたが」 やおあきとじいさんの前に、マリの無残な姿を突きつける。 思わず身を引くやおあきに、じいさんが事情を問いかけている。 禿裸にしたのは、どうやらやおあき自身らしい。 その瞬間、俺は、やおあきに明確な殺意を抱いた。 先ほど屠った野良実装と同じように。 いや、ガキに対して大人げないと言われたらそこまでだが、事実だから仕方ない。 本当なら、俺は次の瞬間間違いなくやおあきに殴りかかっていただろう。 全身の血が沸騰して臨界に達している今の俺には、そんな自覚がある。 だが結局、俺は何もしなかった。 ——否、出来なかった。 やおあきは、じいさんに思いっきりぶん殴られ、もんどり打ってぶっ倒れた。 「いやあ、すみませんな」 飛ばされた孫のことなど構わんという態度で、じいさんが話しかけてきた。 「前に高白さんの子犬がいなくなった事あったでしょ。アレも実は、こいつが勝手に引っ張り出してどこか に捨てて来たからなんですよ。その後は高白さんに物凄く責められてしまいましてね、本当に大変な 事になりました」 「…そ、そうだったんですか?!」 「あの時も、その件でこいつを散々叱った筈なんですけどね、どうやらこのバカはまだわかってなかった ようです。どうにも弱い者いじめが好きなようでね、困った奴です」 「は、はあ…」 なんとなく、わかる。 前にもこいつ、捕まえてきたカブトムシとクワガタをわざと同じ入れ物に入れて死ぬまで争っているのを 眺めてたり、釣って来たザリガニが共食いする様子を見て笑ってたからなあ。 しかし、高白さんとこのジェニーもこいつの仕業だったのか。 確か、最後まで発見されなかったんだよな、あの子。 自分の死んだ子供の代わりだって、物凄く大切に育ててたんだよなあ…規約違反だったから、当時は あまり共感出来なかったけど。 高白さんが大泣きしながら引っ越していった時の事が、思い出される。 「これからこいつは私がしっかり言い聞かせます。ですので、どうかこれで許してやってくれませんか」 「え…あ、はあ…」 あまりの展開に、俺はもう、何も言葉を発せなくなっていた。 じいさんは、今日初めて顔を見せた時のままの表情で、倒れているやおあきを無理矢理引っ張り上げた。 当のやおあきは、もはや泣き声すら上げられず、ガタガタ震えながら失禁している。 お、おっそろしいド迫力教育…このじいさんがいれば、やおあきはきっと素晴らしい大人物になるだろうな。 と思っていたら、じいさんは今度はこちらに背を向けたままで話しかけてきた。 「——ですがやおあきさん、契約違反は違反ですな」 「ぐ…!」 「ペット禁止なのにペットを飼ってたというのは、明らかに問題です。こちら側の問題は綺麗にしましたが、 今度はそちらも筋を通してもらわなければなりませんな」 「…」 す、筋を通す?! な、殴られるのか?! ぶっ殺されるか?! なんだか勝てる気がしないけど、オレはこれからマリを助けなきゃならん。 いくら管理人のじいさんでも、かかってくるなら死ぬ気で反撃するぜ! などと、足をガクガク震わせながら考えていたら… 「その実装石は、そのまま飼い続けて結構です」 「——へっ?」 「そんなに大切な仔なら、捨てる事などできないでしょう? ただし」 「た、ただし?」 「次回のアパートの契約更新はお断りします。——契約終了までに、ペット可能な新しい家を探して ください」 ま、マジですか? 契約期間……残りあと半年ないんですけど……… 「ペットの件はそれまで目を瞑りますし、こいつにも、息子達にも口出しはさせません。その代わり、 こいつが勝手に部屋に入った事も、許してやってもらえませんか?」 その申し出を、今の俺が断れる筈などなかった。 つか、そんな度胸はどこを絞っても出てきっこない! 状況は……過酷を極めてきた。 なんで、なんであんな出来事の後にこんな目に遭わなきゃいけないんだよぉ…。 俺は、真っ暗な気分でアパートへと戻った。 (続く) ---------------------------------------------------------------------------- なんでか知りませんが、自分の中でじいさんのイメージが、なぜか某渋川先生になってしまって います…w
