タイトル:【愛】 幸福の約束1(修正版)
ファイル:幸福の約束1.txt
作者:匿名 総投稿数:非公開 総ダウンロード数:4465 レス数:0
初投稿日時:2006/12/16-10:12:33修正日時:2006/12/16-10:12:33
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幸福の約束 1


 俺は、また記録を塗り替えた。
 今日で、もう40件目。
 バイトを断られた数である。
 …もうダメぽ。


 俺・としあきは23歳。フリーター志望のプータロー。
 ある日突然バイト先が倒産したので、路頭に迷ってしまったわけだ。
 だから、決して働く意欲がない訳ではないが…バブルが弾けて不景気真っ盛りの今の日本
では、就職はおろかバイト探しすら厳しい。
 俺は、そろそろ底をつき始める預金残高を思い返し、頭を抱えながら自宅へと向かう。
 コンビニの弁当の袋が、やけに重く感じられる。

 はあ…500円越えのコンビニ弁当も、今日で最後かなあ。

 暗い事を考えながら、帰路を急ごうとする。
 そんな時、ふと、コンビニの脇である実装石と目が合った。

「デ…」

「…」

「テチュ…?」

 こういう所で幸運を使ってしまうから、俺はいざという時ダメなんだろうな。
 コンビニ脇のゴミ箱の陰に立っていた実装石は、両手で子供を抱えていた。
 どう見ても、託児のフォーメーション。
 最近この辺でやたらと増えてきた、実装石の託児被害を思い出す。
 野良の実装石は、季節の変わり目で自分の子供を育て切れなくなると、人間の荷物の中に
子供を投げ入れて育てさせようとするんだそうな。
 ハア…投げ入れられる前に気付いてよかったよ、ホント。
 あと、お前等…俺が実装石好きな奴で本当に良かったな。
 そうでなかったら、今頃地面の染みになってるぞ。

「おい」

「デッ?!」

「俺に託児しても育ててやれないぞ、うちのアパートはペット禁止だからな」

「テ…」

「デデ……デデ……!!」

「他の奴に託児するのもやめとけ。そのまま殺されるだけだ。我慢して一緒に冬を越す努力を
 した方がいいぞ?」

「デっ?! デデーッ!! デデーッ!!」
「テチュ?! テッ、テッ、テーッ!!」

 なんだか知らないが、ありがたいレクチャーを施しているつもりの俺に向かって、実装石達は
突然興奮し始めた。
 60センチクラスの成体実装と、10センチ程度の仔実装。
 どちらも酷く汚れた髪と服を持ち、顔を汚い。
 まるで、泥の中で泳いできたばかりのようだ。
 こんな奴等では、どっちみちどんな愛護派でもお断りだろうさ。

「じゃーな、達者で暮らせよ」

「デスーッ! デスーッ!! デーッ!」
「テチューッ!! テチューッ!! テチューッ!!」

 託児実装に逢ったのはこれが初めてだったが、こんなにしつこくうるさいものなのだろうか?
 奴等はすたすた歩き去る自分にすがるような大声を上げ、なんと後をつけて来た。

「おいおい! 勘弁しろって! 飼えないし飼う気はねーよ!」

「デーッ! デーッ! デェェェェッ!!!」
「テェェェェン、テェェェェェン!!」

 次第に駆け足になる俺。そして、どんどん距離を離される二匹。
 なんだあ? なんで俺が追いかけられなきゃならないんだよ?


「デーッ、デスーッ……」
「テェェ……」






 感覚時間で五分ほど走ったら、さすがにもう二匹の姿は見えなくなった。
 あ〜焦った、一体なんなんだろう?
 とにかく、早く帰ってメシ食おう、そうしよう。

 俺は、すぐに考えを切り替えるとあらためて帰路を急いだ。
 そして、さらに五分後には実装石達の事すらすっかり忘れていた。




 俺の住んでいるアパートは、ものすごいボロだ。
 木造二階建てで、各部屋の入り口が内部に向いている構造。
 聞いた話によると、なんでも昭和30年だか40年代に建てられたものらしい。
 廊下や階段はギシギシ言うし、風呂やトイレは狭くてしかも共用だし、隙間風が入るから
冬は寒いしと、ろくなものじゃない。
 ただ、管理人のじいさんが良い人だというのと、家賃が格安なこと、あと自分以外に住人が
居ないというメリットもあって、実際はそんなに嫌いなわけではなかったりする。
 もっとも、そんな所ですら今後住むのが厳しくなるわけで…ハア。

 動かす度に薄いガラスがガシャガシャ鳴る玄関の扉をくぐり、俺は二階の一番奥にある
自室・201号室を目指した。





 ——それから、さらに数時間後。

 夕食を買いに出かけようと玄関を出ると、何か聞こえてきた。
 アパートの庭の方だ。
 俺は、顔を覗かせた。

 それがいけなかったようだ。

「デーッ! デーッ!!」
「テチィィィッ!! テチィィィッッ!!」

「げげっ?!」

 そこには、さっきの実装親子が居た。
 コンビニで出会って追いかけてきた、泥で汚れまくりの二匹。
 こいつら、あれから俺のアパートを突き止めたってのか?!
 なんたる執念! なんたる追跡能力!
 俺は、奴等に呆れると共に、微かに感心もしていた。

「あのなあ、さっきも言ったけど、俺はお前等飼えないの」

「デーっ、デスーっ」

 コクコク。
 あれっ? 親が頷いている。
 言葉の意味はわかってるってのか?

「まさか、俺の言う事がわかるの?」

「デスーッ!」

 コクコク。
 えっ? ホントかよ!
 じゃあこいつら、わかってるのに来たってのか?
 だとしたら、随分と図々しい奴等だなあ。
 さしあたり、「お前の都合などしったこっちゃないデス。いいからワタシ達を飼うデス。
最上級のステーキと特上寿司と金平糖を山ほど持ってくるデスーッ」などと言っている
のだろう。
 俺は、先手を打って「金平糖もステーキも寿司も赤福も花マルハンバーグもないぞ」と
告げてやった。

 ところが…

 ふるふる。
 親実装は、首を横に振った。

 どうやら、要求はそういうものじゃないらしい。
 仔実装は、無言のまま親と俺のやりとりを眺めている。
 やがて…

「デッ、デッ、デッスーッ!」

 俺を指差し、何かを唱え始めた。

「デッ、デッ、デーッ♪ デッ、デッ、デーッ♪」

 仔実装を降ろし、突然踊り出す親実装。
 両手を上げて左右に揺らしながら、ステップを踏んで身体全体を揺らす。
 そして、クルリと回ってちょこんと座る。

 その動きに、俺は見覚えがあった。

 確かこれは、昔テレビでやっていた仔実装用のダンスだ!
 どうして、これを野良の、しかも成体のこいつが知って……


 ——あれっ、まさか?!


「デッ、デッ、デーッ♪ デッ、デッ、デーッ♪」

 親実装が、俺のズボンの端を掴む。
 まるで「一緒に踊ろう」と誘っているかのようだ。
 そう、俺はかつてこんな風に、ある実装石から何度も踊りに誘われた事がある。
 それは…俺がまだ実家に居た頃の話だ。

 俺は、親実装の前掛けの端に注目する。
 泥汚れで埋もれていたが、指でこそげ落としてみると、見覚えのあるものが見えてくる。

 “Maru”と記された、ほつれかけの赤い刺繍。
 これは、俺の母親が縫い付けたものだ。


「マル…なのか?」

「デッスーッ!!」
「テッチューッ!!」

 正解! といわんがばかりに、親実装が大きくジャンプする。
 それに連動して、仔実装もぴょんぴょん飛び跳ねる。
 そして俺は…呆然と、二匹の様子を見つめていた。

「本当に、マルか? 本当に? マジで?!」

「デーッ♪ デッスーッ」

 ぺこり。
 深々とお辞儀をしてから、バンザイと一緒に笑顔を見せる。
 そうだ、間違いない。
 これは、毎朝マルが俺達家族に見せていた挨拶。
 そして、俺が教え込んだものでもある。
 こいつが、まだ小さかった頃に…

「まさか、まだ生きてたなんて…マル!」

「デーッ!」

 やっとわかってくれた、と言いたげな表情を向ける。
 二年ぶりの再会。
 俺は、かつて実家で飼っていたペット実装・マルと再び巡り逢えた。
 そしてこいつは、自分を捨てた冷たい家族の俺を、ずっと覚えていてくれた。

 マルが、俺のことを覚えていてくれた。
 突然、胸が熱くなってきた。

「デ、デー…」

「待ってろ、マル」

「デ?」

「俺、もう実装リンガル持ってないんだ。これから買ってくる!」

「デジャ?!」

「ここに居てくれ! すぐに帰ってくるから!」

「デーッ!!」
「テチーッ!」

 駅前のキャッシュディスペンサーは、まだぎりぎり使える時間の筈だ。
 預金残高の額なら、なんとか実装リンガルが買える筈。
 そう思った途端、俺は無意識に走り出していた。全力で。
 それを買ってしまったら、明日からドえらい事になるとわかってはいたが。


 
 一時間も経ってしまったが、マルとその子供は、ちゃんと庭で待っていてくれた。

「買って来たー♪ 今、スイッチ入れるぞ」

「デッデー…」

「いいんだよ、お前とまた逢えたんなら、これくらいどうってことない」

「デー…(でも、としあきさん…)』

「おっ! 通じた通じた♪」

 大枚はたいて買った、最新式の音声変換型リンガルだ。
 これで、マル達の声を変換する。
 ちょっとチャチな合成音声を出すタイプだが、きちんと聞き取れる事を確認する。
 俺は、無意識にマルの頭を撫でていた。

『お懐かしいデス、としあきさん。とてもお元気そうで何よりデス』

「今まで、どうしていたんだ? 大変だっただろう」

『はいデス。とっても厳しかったデス』

「あ、俺達が言えた義理じゃないんだよな、ゴメン」

『仕方ないデス。それにもうずっと昔の事デス』

 俺達家族が、マルを捨てた理由。
 それは、決してこいつへの愛情が冷めたからではない。
 どうしようもない事情があったからだ。


 もう二年前になる。
 親父が営んでいた下請け会社が、親会社倒産の煽りを食らって潰れてしまった。
 そのため俺達一家は路頭に迷い、紆余曲折の末、負債の一部をそのままに各自分散して
生活する事を選ばざるをえなかった。

 ——俗に言う、一家離散・夜逃げ敢行という奴。

 当時の俺は大学を中退し、小学生時代からちまちま貯めていた貯金と、親父からの餞別金
だけを頼りに今まで生きてきた。
 親父やお袋、兄貴がどうなったかは知らない。
 だが俺は、なんとなく遠くに行く気が起こらず、隣町のボロアパートに住み付いた。
 灯台下暗しを狙ったわけではなかったが、遠くに逃げても近間でも、バレなければ同じだろう
と漠然と考えていた。


 そしてマルは、離散の前日に俺達一家に捨てられた。
 もちろん、その前に捨てざるをえない理由もじっくりと説明した上で。
 賢いマルは、詳しい事情はともかくそれしか選択肢がなかったという事を理解してくれた。
 そして、悲しい…とっても悲しい別れを送った。
 生まれてこの方、一度たりとも外での生活などした事のないマルは、野良としてとても生きて
いけないだろうと皆が考えていた。
 無論俺も、マルはとっくの昔に死んでしまっていると思い込んでいた。

 だけど、マルはちゃんと生きていた。
 そして、偶然とはいえ俺と再会した。

 初めて家に来た時から、一番に面倒を見ていた俺と。
 俺は、すぐにマルだと気付かなかった自分を責めた。だが、マルは首を振ってそれを制した。

『ワタシが生きていけたのは、以前としあきさんが教えてくれた知恵のおかげデス。むしろ感謝
しているデスよ』
『テチュー♪ ニンゲンさんが、ママのママだった人テチュね?』

「この仔は?」

『ワタシの自慢の仔デス。まだ生まれたばっかりデス』
『テチュ♪ ニンゲンママよろしくテチュ♪』

「おっ、小さいのに挨拶できるなんて凄いなあ。よろしくな」

 ニンゲンママか、こりゃまた奇妙な呼び名を付けられたものだ。
 思わず苦笑するが、はたとある事に気付く。
 …よろしくしてどうするというのだ?

 何の考えもなくリンガルを買ってきてしまったが、俺はここでマル達を飼う事は出来ないんだ。
 その事を、改めて思い返す。

「あ、あのさ、マル。また逢えたのはとても嬉しいんだけど、その…」

『わかっていますデス。ただ…』

 そう言って、仔実装の方を見る。
 そういえばマルは、さっき自慢の仔を託児しようとしていた。
 それだけ、切羽詰った生活なのだろう。
 自分よりも、まず子供を生かしたいと考えたのだろう。
 賢いマルのことだ。きっと託児などしてもちゃんと生きていける可能性は限りなく低いと知って
いるだろう。
 にも関わらず託児を行わざるを得なかったのだとしたら。

「そんなに大変なのか、生活?」

『は、はいデス。最近すごく寒くなって、この仔も何度も凍えかけたデス。ワタシも、もう二日も
 ご飯を食べていないデス。公園の餌取りも激しくなりすぎて、毎日沢山の仲間が死んでいく
 デス…』
『テチュ…』

「冬用の蓄えもない…んだろうなあ」

『そうデス。だからせめて、この仔だけでも…』

 マルの必死な眼差しを受けて、俺は考え込む。
 知り合いも少ない今の自分に、野良上がりの仔実装を今の時期から飼ってくれなどと、とても
頼めたものではない。
 まして、そんな頼みを聞いてくれそうな人間は、知人の中には皆無だ。
 たっぷり悩んだ結果、俺は、重いため息を吐き出すしかなかった。

『やっぱり、ダメデスか』

「ゴメン、役に立てなくて」

『テ…テェェェェ…。このままだとママが死んじゃうテチュ』

「ううっ、そう言われると辛いなあ」

 自分の事よりも親の身を心配するところに、マルの仔だなあと感じさせられる。
 こんな利口な家族なんだし、なんとかしてやりたいなあ…と思わず考え込むが、ふと、ある事
を思いつく。

「なあ、飼う事は出来ないけど、生活の援助ならしてやれるかもしれないぞ」

『デ? 本当デスか?』

「うん。少しくらいなら食べ物や暖かくなる物を分けられるかもしれない。お前達の住処はここ
 から遠いの?」

『そんなに遠くないデス。多分十分くらい歩けば着くデス』

 マルの体格で十分だとすると、公園ではないのだろう。
 それどころか、かなり近い所の筈だ。
 この町の公園は林に隣接しているせいか野良実装がかなり多く住み着いていて、その分色々
と危険が多い。
 マルはあえてそこを避け、安全圏を独自で発見したのだろうか。
 俺は、マルに案内を頼んで住処を教えてもらった。


 マルが住んでいたのは、俺のアパートの近くにある廃屋だった。
 いや、本当は廃屋とは言い切れない所で、土地の管理者が材木等の資材置き場に使って
いるのだが、その一角に器用に偽装した巣を作っていた。
 何年も放置されているような古い木材の下の空間を陣取り、錆びたドラム缶が盾になって
隠しているという、なかなか巧い隠され方だ。
 木材には青色のビニールカバーが掛けられているので、雨風もしのげるようになっている。
 さすがマル、別れ際に俺が教えた「何もしなくても雨風をしのげる所を探して住処にすれば、
家が壊される心配はなくなる」というのを、きっちり守っている。
 これなら、人間や同族に発見される事はないだろう。
 それにしても、まさかこんな近くに住んでいたなんて…。

 俺は場所を確認すると、マル達にことわって一旦家に戻り、色々な物をカバンに詰め込んだ。
 買い置きのスナック菓子、使っていないもらい物のタオル、ポケットティッシュ、ビニール袋、
新聞紙の束、残り物のキャンディ、ペットボトルに詰めた水道水…
 貧乏生活だからこんなものしか用意できなかったが、なんとかなりそうかも。
 俺は物資を持ってマル達の許に戻ると、それらをすべて提供した。

『こ、こんなに沢山いただいて、よろしいんデスか?』
『ワーイ! 一杯テチュー♪ ご飯もあるテチュー♪』

「なくなったら、また声をかけてくれよ。出来るだけなんとかするから」

『デ…でも、なんだかご迷惑では?』

「他の実装石ならともかく、マルとその子供だってんなら、これくらいお安い御用だよ。気にする
 な」

『あ、ありがとうございますデス! としあきさん!』

「飼ってあげられない分、こんな形でなんとかするからさ。あらためてよろしくな!」

『はいデス!』
『ニンゲンママありがとテチュ♪ ワタチニンゲンママも大好きテチュ!』

「おう、ありがとう」

 早速、仔実装に飴を与え、マルにはスナック菓子を与える。
 後で保存の利く実装フードを買い込んでおくと約束をして、俺は部屋に戻ろうとする。
 踵を返したところで、マルが声を掛けてきた。

『としあきさん、パパさんやママさん、お兄ちゃんは?』

「あれから全然連絡が取れないんだ。今どこに住んでいるかもわかんない」

『そうデスか。としあきさんに逢ったら、皆さんにもお逢いしたくなったデス』

「うん、俺も…」

 思い返せば、俺達はとても仲の良い家族だった。
 それなりに反抗期だった頃もあったが、俺は親父もお袋も、兄貴も大好きだった。
 決して生活は裕福ではなかったが、それでも暖かい家庭だなという自覚があったし、何より
幸せだった。
 もちろん、マルも家族の一員として溶け込んでいた。
 あの時は、この幸せがずっと続くと信じていたんだけど。
 何が、狂わせたんだろうな。

 俺は、ひとまずマル達の身体にこびりついた汚れを出来る限り丁寧に拭き落としてやり、後日
まとめて洗ってやる事を約束した。
 そんなに綺麗にはなれなかったが、泥汚れが少し落ちたために二人ともかなりご機嫌に
なった。
 さて、あまりのんびりもしてられないな。そろそろ帰らなければ。


「また来るよ。おやすみ」

『おやすみなさいデス、としあきさん』
『ニンゲンママー! ありがとうテチュー♪』

 どうやら、仔実装にはすっかり懐かれたようだ。
 夜の帳が降り始めた頃、俺はやっと家に戻った。


 あ。
 夕飯買いに行くの、すっかり忘れてた。




    ※      ※      ※



 思わぬ再会。
 昔捨てたペットと再び巡り会うなんて、滅多にないことではないだろうか?
 しかも、お互い以前とは違う土地で。
 こんな素敵な偶然はない。


 俺は、次の日も早速マルの家を訪れた。
 今回は、実装石には定番のアイテム・金平糖もある。
 住処を覗きに行くと、仔実装だけが眠っていた。


『テチュ〜? ニンゲンママ?』

「おはよう。ママはどうした?」

『おはようございますテチュ。ママはご飯を探しに行ったテチュ』

 丁寧に挨拶できた仔実装の頭を撫でながら、俺はマルの事を思う。
 素直にアパートに来ればいいのに。
 マルには昨日、アパートの庭に来て声を掛けてくれればすぐに出て行くと伝えておいたのに。
 ボロアパートだから、二階でも声は聞き取れるし。
 ひょっとしたら、いきなり俺に頼るのは良くないなどと考えたのかもしれない。
 だとしたら、本当に生真面目な奴だ。


 仕方ないので、俺はしばらく仔実装とおしゃべりをして時間を潰す事にした。

 仔実装によると、マルは俺達家族との生活の思い出を以前から沢山語っていたようだ。
 その内容のほとんどは覚え切れていないようだが、とにかく仔実装は「ママを育ててくれた
ニンゲンのママが別に居る」と認識していたようだ。
 そして、それが俺であると理解した。
 だから仔実装にとっては、俺はどうやら初めから特殊な存在に思えるらしい。
 まんざら悪い気はしない話だ。

『ニンゲンママはいいニンゲンさんテチュ。お話聞いてて、ワタチも逢いたくなったテチュ』

「それは光栄だな。でも、飼ってやれなくて本当にごめんな」

『いいんテチュ。ニンゲンママと逢えるからそれでいいテチュ。ママは、贅沢は言っちゃいけないって
 教えたテチュ』

 なかなか良い躾をしているようだ。
 これくらいの仔実装なら、今はワガママ放題、まず自分の欲求を主張する所だというのに。
 マルの時はものすごく手間がかかったけど、あいつは自分が受けた躾をこの仔にもきちんと
施していたのだろうか?


 その後も色々話をしていて、あらたな発見があった。
 この仔実装は賢いことは賢いが、決して特別というわけではなかった。
 俺の言葉の意味もあまりよく理解出来なかったし、躾られる意味も半分はわかっていないよう
だ。
 しかし、躾を受けて問題点をクリアすると、ママが喜んでくれる。
 その時のママの笑顔を見ると幸せな気分になれるから、そのために頑張って覚えているの
だという。
 理解が伴っていないのは多少引っかかるが、とても前向きな姿勢なのは間違いない。
 実装石には珍しく、生まれつき努力の必要性を知っているのだろうか。


『ホントは、ママはニンゲンママにとっても逢いたがっていたテチュ』

 突然、何の脈絡もなく仔実装が話を切り替える。

「そうなのか?」

『はいテチュ。いつニンゲンママに逢ってもいいようにって、ワタチは飼い実装として恥ずかしくない
 ように教えられているテチュ』

 そう言いながら、寂しそうに俯く。
 そうか…そんな目的意識を持ってたのか。
 せっかく努力して出会ったというのに、いきなり飼えないと言われたんだもんなあ。
 それじゃあ、こいつの頑張りも無駄になっちまうようなものだし…

 ——う〜ん…ものすごく心が痛む。

『ニンゲンママ、もうずっとワタチ達を飼ってもらえないテチュか?』

「うん、残念だけどここに住んでる間はね。引越しが出来ればまた違うかもしれないけど…」

 そこまで言って、はたと気付いた。
 そうだ、別に現状に甘んじる必要はないじゃないか。
 なんとか仕事を探して、お金を貯めてペット可能なところに引っ越せばいいんだ。
 それだけのことだ。
 この不景気で仕事は巧く見つからないし、不採用連発記録更新中だけど、目標があれば
くじける事はない。
 そうだな、こいつらの存在を糧にして、もう一度頑張ってみようか。

「よし、じゃあ俺、頑張ってお前達を飼えるようにするよ」

『テチュ?! ほ、本当テチュか?』

「もちろん。でもすぐには無理だな。多分、お前が大人になってる頃だと思うけど、それまで
我慢してくれるか?」

『ワタチがママになるくらいテチュ?』

「うん…そうだな。でも、約束を守るために努力するよ。だからお前も頑張って、それまでにママ
 から色々教えてもらうんだぞ」

『はいテチュ! ワタチもニンゲンママと約束するテチュ!』

「よし、いい仔だ!」

 指きり代わりに、俺の小指と仔実装の右手が触れ合う。
 さて、そうと決まったらうかうかしてられないな。
 早速行動に移らないと。

 この仔実装が大きくなるのは、恐らく一ヶ月後から三ヵ月後くらいだろうか。
 仮に今すぐ仕事を始められたとしても、その短期間で引越し代と新規契約代を捻出するのは
厳しい。
 本当ならどこぞから借金したいところだが、それだとせっかく頑張ろうと決めた意味がないし、
何より後が色々と怖い。
 とにかく少しでも早くお金を貯めなければならない。
 仕事の種類など、選んでいられないな。


 俺はマルが戻るまで、仔実装と遊んでやることにした。
 おもちゃがないので身体を使った運動になるが、仔実装は不満一つ述べず楽しんでくれた。

 やがて仔実装がヘロヘロに疲れ始めた頃、マルが帰ってくる。
 仔実装と戯れている俺の姿に、安心したようだ。
 遊びまくってすっかりお腹を減らした仔実装をマルに返し、俺は金平糖の袋を手渡す。
 マルは嬉しそうにお礼の言葉を述べ、仔実装は、ぴょんぴょん飛び跳ねながら喜びを表現
している。
 俺はしばらくマルとも話をした後、早速あらたな行動に入るために戻る事にした。

「また来るからな。あ、夜には実装フードでも買ってきてやるよ」

『ありがとうございますデス。とても助かりますデス』
『ニンゲンママー♪ また後で遊んでくだちゃいテチュ〜!』

「ああ、でも、さっきの約束はちゃんと覚えてろよ」

『テチュ!』

 仔実装は、ピンと身体を伸ばして敬礼をしてみせる。
 これは、さっきの遊びの最中に俺が気まぐれを教えたものだ。
 本人はとても気に入ったようで、これでもう十数回も繰り返している。
 不思議そうな顔をしているマルに、敬礼の意味を説明しようとしている仔実装。

 そんな様子に微笑みながら、俺はアパートに戻った。




     ※     ※     ※



 それからしばらく、俺は充実した日々を送った。

 いつもより早く起きてマル達の様子を窺いに行く。
 最初のうちこそ、マルは遠慮して自分で食料を探しに行っていたが、やがて冷え込みが激しく
なり早朝の調達が困難になって来たため、素直に俺からの差し入れを受けるようになった。
 もっとも、こちらもビンボーなので渡せるものはせいぜい食パンの耳やちくわ、安いスナック
菓子やお徳用実装フードといった程度なのだが。
 食べ物に関しては、どうしてもこれ以上の提供が難しかった。
 その分、防寒用具は出来るだけ提供してやることにした。
 もう着なくなったボロボロのトレーナーを切り裂き、中に綿やボロ布を織り込んで縫い合わせた
簡易布団や、仔実装がすっぽり入れる寝袋のようなもの、またマルが着けられそうな小さな
マフラー(のように使えるタダのボロ布の切れ端)などを与えた。
 一度ホッカイロを差し入れた事があったが、マルがヤケドしそうになったので止めた。
 また寒さが酷い夜は、就寝前に温かいココアやミルクを持って行って飲ませた。
 適当なディスカウントショップで手に入れた少しボロいポットを使って、二人をお風呂に入れて
やった事もある。
 ちょっとした露天風呂気分なのか、二人はとても喜んだ。
 しかも仔実装は風呂初体験だった事もあり、それはもう物凄いはしゃぎようだった。

 さすがに毎日そんなものを提供し続ける事は出来ず、随分ムラのある差し入れではあったが、
マルや仔実装は文句一つ言わなかった。
 それどころか、俺に深い感謝の気持ちを述べた。
 マルはともかく、年齢的にもワガママ言い放題な筈の仔実装までがそんな態度だったので、
ある程度不満をぶつけられる覚悟を決めていた俺は、随分面食らった。
 後から聞いてみたら、俺の見えないところで随分マルからお説教を食らっていたらしい。
 なるほど、やっぱり躾の賜物だったか。
 かつては仔を独立させた事もあるというマル、さすがの手腕といったところだろうか。


 しかし、マル達への差し入れはなんでもかんでもいいというものではなかった。
 この辺には、公園や建物の陰、廃屋や空き地をねぐらにしている野良実装達が結構いる。
 無論、そいつらもこの寒さの中生き抜くために必死だ。
 そんな奴等に発見され、他より恵まれているという事を悟られるのはまずい。
 だから俺も、保存が利く実装フード以外はなるべくすぐに食べ尽くせる程度のものだけを
持ち寄り、また大きく目立つようなものは与えないように心がけた。
 ボロ布加工の防寒具を与えたのには、そういう意味もある。
 もし、飼い実装用のしっかりした造りの商品を与えていたら、それを見止められた場合彼女達
の立場は一気に危険に晒される。
 嫉妬に狂った野良実装達からの虐待を受けてしまうからだ。

 また、俺が何度も頻繁に通うところも悟られてはまずい。
 そのため、俺はなるべくマル達の巣には直接行かず、そこから少しだけ離れた廃屋の脇に
座り、マル達が来るのを待っていた。
 提供品も一部の食料品を除いてはわざと少し離れた所に置き、自分達で回収させた。
 賢いマルは、その上に夕食時の食料調達は極力自分で行うように心がけ、自分達の待遇を
悟られないように工夫した。
 幸い、寒さが増したせいか日中に出歩く実装石の姿はどんどん減っており、マルもほとんど
顔を見なくなったという。
 それでも出来る限りの用心を行い、俺はマル達との時間を過ごした。


 一方、仕事探しの方は相変わらず難航し続けていた。
 ごくたまに日雇いの仕事をもらえる事があっただけマシだったが、それはほとんど日々の生活
とマル達への差し入れで消えてしまい、やがては情報誌や履歴書を買う金や面接に向かう
交通費すら厳しくなってくる。
 日雇い仕事でも連日行えればまだいいが、色々と難癖をつけられて二日も連投できればいい
ところ。
 夜間の土方仕事などでちょっと高めの日当をもらっても、せいぜい一週間程度しか持たない
ものだ。
 電話はすでに止められていたが、この調子だとライフラインもやばくなるかもしれない。
 
 せっかく目的を定めたというのに、俺は益々厳しい状況に追い込まれていく。
 やむなく俺は、あまり好きではないためあえて避けていた職種も選択候補に加える事にした。
 つか、そういうえり好みできる立場じゃないんだよな、よく考えたら。

 接客業…か、俺に勤まるかな?


 俺が一番最初に目を留めたのは、駅前に新しく出来たペットショップだった。
 ここは実装石関連の業務もあるという。それなら、なんとかできるかもしれない。
 まずは、ここから手を出してみる事にしよう。
 テレホンカードの残高が、まだかろうじて残っている事を確認する。
 俺は店名と連絡先をメモると、情報誌を棚に戻してコンビニを出た。

 店員が嫌そうな目で睨んでいたが、俺は華麗にスルーを決め込んだ。



     ※     ※     ※


 その後、面接の日取りが決まった。
 二日後の夕方だ。
 俺は、少しだけ有頂天になってマルの許へ向かった。
 本当はまだ全然喜ぶ段階じゃないんだけど、最近は面接申し込みに出遅れてしまう事も
しょっちゅうだったので、やはり嬉しいわけだ。
 マルも、報告を聞いて一緒に喜んでくれた。

『としあきさん、がんばってくださいデス。ワタシ達応援しているデス』

「ああ! きっと仕事始めてもっと良い物をお前達に差し入れるからな!」

『テッチュウ!! ニンゲンママ♪』

 俺の脚にしがみついて、かまってほしいと甘える仔実装。
 どうやら、俺があの約束に一歩近付いた事をなんとなく理解したようだ。
 或いは、ただ俺とマルが喜んでいる様子に反応しただけだろうか?
 俺は仔実装を抱き上げて手の中であやしてやる。
 それを見たマルは、ふっと目を細めた。

『としあきさんが、ワタシの子供を可愛がってくださるデス。ワタシ、ずっとこうなるのを夢見ていた
 デス…』

 その言葉に、意識が切り替わる。
 俺は、無言でマルの顔を見つめた。

「マル…いや、俺は…」

『こんな事言うと怒られるかもしれないデスけど、ワタシ、本当に嬉しいデス。としあきさんに
 初めて逢った時、こんな風には絶対ならないと思っていたデスから、余計…』

「勘弁してくれよマル。俺はもう、あの時とは違うから」

『はい、それはわかっているデス』

「第一、お前と一緒に暮らしてた時には、俺はもう…」

『はいデス。とっても可愛がってもらったデス。感謝しているデス。でも…』

 そこで、言葉が途切れる。
 マルは、泣いていた。
 透明な涙が流れている。

 しかし、それが決して無意味な作り涙ではない事は理解できる。

 ——マルは、嬉し涙を流していた。

『最初は、ワタシ、としあきさんがとても怖かったデス。殺されると思ったデス。死んじゃうと
 思ったデス。だけど……仲良くなれて、本当に…本当に嬉しいデス。 デェェェ…デェェェェン、
 デェェェェン…』

「お、おい、マル! 泣くなって」

『テチャッ?! ニンゲンママ、ママをいじめないで欲しいテチュ!!』

「いじめてないよ〜!」

『デェェェェン、デェェェェェン、デェェェェン!!』

 大声で泣くマルと、その頭を撫でながら必死でなだめる俺と、それを不思議そうに見つめる
仔実装。
 ちょっと奇妙な雰囲気に包まれ、俺は、また少し違った暖かい感覚を覚えた。


 やっぱり、マルは忘れていなかった。
 俺が、初めてこいつと遭った時の事、そして、それからしばらくの事。
 胸が、激しく痛む。
 実家での生活の中、俺にとってもっともせつなかった時。
 マルが泣いているのは、その時の苦い思い出と今の幸せを比較しているからだ。


 マル、ごめんな——

 
 心の中で、何度も詫びる。
 そして俺は、今の自分があるのはマルのおかげであるという事を、あらためて実感した。








 ——だが。

 俺はこの時、マルの泣き声を無理矢理にでも止めるべきだった事を、後から思い知らされる。
 極端な話、マルの喉を潰してでも強行すべきだった。
 この時は、思いつきすらしなかったが……

 二年間のブランクは、予想以上に俺の注意力を鈍らせていたようだ。




     ※     ※     ※



 翌朝。

 窓の外から、デスーデスーという鳴き声が聞こえてくる。
 おや、マルが来たのかな? と思い、窓から顔を覗かせる。

 アパートの狭い庭には、マルと、その腕に抱かれた仔実装の姿がある。
 俺は、実装リンガルを引っ掴んで庭へ出た。


「よお、おは………?」

 言葉が止まる。
 そこに居たのは、まったく見覚えのない実装石。

『ニンゲン、腹が減ったデス。とっととご飯を用意するデス』

「……お前、ダレ?」

『何を言ってるデスこのバカニンゲン。お前の主人デス。下僕で奴隷の癖に、自覚が足りない
 デス』

『テェェェ…』

 庭に居る実装石は、全身から異臭を放ち、欲望に濁った薄汚い面を向けてデププと笑っている。
 抱いているのがマルの仔実装である事は、間違いない。
 だが、抱いているこいつは間違いなくマルじゃない。
 大きさも、体格も、顔付きも、口調も、態度も、すべてが違う。
 仔実装は、怯えた目でこちらに救いを求めている。

 俺の胸の中に、とてつもない不安が広がっていく。

「マルに、何をした?」

『デ? 何デスそれ? そんな事より早くご飯を用意しろデス!』

「その仔、どこから持ってきた? そいつの親はどうした?」

『な、何を言ってるデスこのクソドレイ! こいつはワタシの仔デス! 知らない筈がないデス!』
『テチャァ…ニンゲンママさ…』
『お前は黙ってるデスっ!』

 べしっ!

『テッ?!』

 仔実装の額を軽く叩いて黙らせる。
 こいつ…マルに成りすましているつもりか。
 俺の心の中では、最悪の事態が想定されていた。

 俺の中で、黒い何かが大きく膨らんでいく。

「よし、じゃあエサを持ってくる。だからその仔を渡せ」

『ご飯が先デス! それと引き換えデス!』

「その仔を焼いてステーキにして持ってきてやろうと思ったんだけどなー」

『それを早く言うデス!』
『テチャアァァッ!! ステーキイヤイヤテチュウ!!』

 糞蟲は、俺の嘘にあっさり乗って、仔実装を差し出した。
 それを受け止めた次の瞬間、俺は、低い姿勢から糞蟲の喉に向かって足刀を叩き込む!

 ドガッ!

『ゲ……?!』

 悲鳴らしい悲鳴も上げずに吹っ飛ぶ糞蟲。
 庭を囲む垣根に激突し、ずるずると落ちてきた所を、間髪入れずに踏み潰す。
 下半身、両腕、腹と順番に潰していく。そして最後に頭部。
 ためらいはしない。

 ぐしゃり!

『ベチャ…!』

 よくわからない断末魔を上げ、糞蟲はあっさりと死んだ。
 周りに飛び散る体液と肉片、足下に広がる無様な肉塊。
 そんな光景が、忘れていたあの感覚を呼び起こしそうになる。

『テチャアア…』

 だが、手の中の仔実装の声に、現実に引き戻された。

「お、おい、一体どうしたんだ?」

『ママが…ママが…テェェェェン』

 俺はすぐにアパートに戻り、一旦仔実装を室内に置くと、すぐにマルの許へ向かった。
 仔実装が何か必死で叫んでいたような気がするが、それに構っている場合じゃない。


 住処へ辿り着く。
 そこは一見、何事もないように見えた。

 だが……あの臭いが漂っている。
 あの忌まわしい臭いが……


『テチテチ、この豚の肉はなかなか美味いテチ。ちょっと硬いけどコクがあるテチ』
『でも、ママがもっとすごいご馳走を持ってくるテチュ』
『ママの分も残しておいてやるテチュ。ワタチは頭がいいからとても親思いテチュ』


 くちゃくちゃ……

   むしゃむしゃ……

 ぐちゃぐちゃ……


 木箱の向こうでは。
 覗きこむ俺の存在に気付こうともせず、三匹の野良仔実装共がマルの亡骸を食い漁っていた。


 無念の表情をこちら側に向けている。
 年齢の割には大きくクリクリとしたオッドアイは、すでに灰色に変わっている。

 まだ眠っている所を襲われたのだろうか?
 俺が夕べ置いていった実装フードの袋は、そのまま残されている。
 マルのことだ。もし起きている時だったら、実装フードを手渡してその隙に逃げていただろう。
 それが出来なかったという事は……野良実装共は、マル達が完全に無抵抗になる状況を
見計らって、計画的に襲撃したのだ。

 頭の中が、妙に冷静になる。
 自分でも怖いくらい静かな気持ちで、状況分析が繰り返される。

 だがその冷静さは、突き抜けた怒りが産み出した偽りのもの。
 マルとの思い出が…再会した時の嬉しかった気持ちが、物凄い速度でランダムフィードバック
する。


 ——ぞくっ——


 夕べ別れた時の事を思い出した次の瞬間、俺の中で、ずっと押えていた何かが目覚めた。




 もう…止められなかった。


 俺は、野良仔実装共に迫った。




『テチャアァァッッ!!!』

 ぐしゃっ!

『イタイテチヤメテテチタスケテテチツブレルテ……チベッ!!』

 ぶちゅっ……!

『テチャァァァァッッ!!』

 パンッ!


 踏み潰し。
 握り潰し。
 ドラム缶に叩きつけた。

 瞬時に、三匹の野良仔実装を殲滅する。
 緑と赤に汚れた手を見る。

 笑う。
 笑みが漏れる。
 楽しくてしょうがない。

 ずっと忘れていた、この感覚。
 弱々しく、薄汚く、儚くもろいこいつらを、圧倒的な力で問答無用にぶっ潰す快感。

 俺は酔った。酔っていた。

 漂う死臭が心地良い。

 ——まだ酔えるのか、俺は、この惨状に!?
 

 久しぶりに体感する刺激臭が、新たな獲物を求めさせる。
 俺は、他に叩き潰す実装石はいないかと、周囲を見回す。
 高ぶった感覚は、もはや実装石の血肉でなければ治まらない。

 ふと、すぐ傍にまた別な実装石の姿がある事に気付く。



 それは————マルだった。




 腹を食い破られ、内臓をはみ出させ、目を灰色に染めたまま。
 とても悲しそうな目で俺を見つめ、佇んでいる。
 俺は動きを止めた。


 どうした、マル?
 俺は、お前の仇を討ったんだ。
 お前を殺して食い漁った糞蟲共を、地獄に叩き落してやったんだぞ。

 なのに。
 どうしてそんなに悲しい顔をする?



 マルは、ゆっくりと首を振り、ぼろぼろと涙を流す。

 透明でもない、赤と緑でもない…漆黒。

 コールタールのように不透明で、不気味で、そして死の匂いを漂わせる涙。
 生気を失ったのに、それでも溢す悲しみの涙。

 マルは、ゆっくりと両手を前に伸ばし、そして…泣きながら、無理に笑顔を作った。

 あの時、俺に見せたあの笑顔を……黒い涙で頬を濡らしながら。





『マル?』

 現実に引き戻される。

 気が付くと、俺は先ほどまで木箱が置かれていた場所に佇んでいた。
 目の前には、無残なマルの亡骸が横たわっている。

 笑ってなどいない。
 立ち上がってもいない。
 泣いてなどいない。
 出来るわけがない。
 マルは、やはり死んでいた。
 野良仔実装共に食い荒らされたままだった。

 だけど、マルは俺を呼び戻してくれた。
 


 ——なんで、だ?


 せっかく逢えたのに。
 もう二度と逢えない筈の俺達が、奇跡の偶然でまた逢えたというのに…

 どうして…どうしてこんな事になってしまうんだよぉ!



 俺は、大声で泣いた。
 周りの住民に聞かれる事などまったく気にせず、心の底から泣いた。
 「慟哭」とは、こういうものなのだろう。

 俺は生まれて初めて、他者の為に心の底から涙を流した。







(続く)

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 これは「敷金礼金2」の練習で書きまとめていたものですが、あえてアップしてみる事に
しました。

 なんだか巷では愛護派・虐待派云々と論争があるようですが、私は虐待も愛護も実装石
スクの単なる一ジャンルとしか考えていないです。
 色んなジャンルで書いてみたいと思い、今回はたまたまこんなのを選んだという程度に
過ぎず、他意はありません。
 もし、気分を害した方がおられたらごめんなさい。


 愛護派の主人公と元飼い実装の関係をメインに描いていますが、並行テーマとして
「敷金礼金無料」内でにじあきとやおあきが語っていた“ある要素”をピックアップ
していきたいと思っています。

 どうか、しばらくお付き合いください。


追伸:感想スレでご指摘いただいたミスを修正しました。
    ありがとうございました。チベッ

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