東北のとある山系。ここが山実装の生息北限であることを知るものはさして多くない。 かつては北海道にすら蔓延っていた野生の実装石たちは山実装が食用として珍重されるようになったこと、動物たちが長い年月のうちに実装石を恐れなくなったことにより少しずつ生息範囲を狭めていた。 そしてこの山の実装石がたった一匹を除いて死に絶えたのは一昨年のことである。 獣道を最後の生き残りが走ってゆく。 「なんでデス? この山にはもうニンゲンは来ないはずデス!」 ひどくほつれ破れた実装服をまとった大柄な実装石だ。 後ろに続く小柄なものたちは仔だろう。動揺のあまり糞を垂れ流しながら必死に親について行く。 (糞が臭う) 男は身をかがめ這うように獣道をたどっていた。鼻を鳴らしあたりを嗅ぎまわりながら手を地につけ四つばいで動く男の姿は実装石などよりよほど獣らしかった。 (実装道か) 実装石の糞尿は人間のものとも動物のものとも明らかに違う異臭を放つ。その一種人工的な刺激臭が山野で自然の香りにまぎれることは決してない。実装マタギは数百メートル離れていても糞を嗅ぎ付ける。 男の背中の背負子にはブリキ缶がいくつもくくりつけられていた。その一つには先ほど川のそばで捕らえた成体に近い仔実装石が入れられている。 男は仔実装を捕らえたときの悲痛な叫びに覚えがあった。子供が親を呼ぶときの泣き声だった。 捕まえた時沢の向こう岸の崖の上に消えた個体があった。それこそが男が求める最後の生き残り、この山で最も賢く強く運の良い実装石に間違いあるまい。 男が彼女の姿を見たのはほんの一瞬であったが、山育ちの男の優れた目は彼女の山実装には珍しい五十センチに近い体躯と、そしてぼろぼろの実装服をはっきりと捉えていた。 (ボロと呼ぼう) 「お姉チャンは? ママたすけてあげてテチ!」 「あの子は諦めるデス」 哀れにも長女は独り立ちしてから数時間と立たぬうちにニンゲンの手に落ちた。 娘が彼女の縄張りの境界線、川の向こうに旅立ったのは今朝のことである。 川の浅く、流れのゆるいところを選び、転ばぬよう、流れに逆らわぬようゆっくりと歩み、十メートル渡る間にその十倍は下流に流された。 親実装のボロはそれを見守り川のそばを下った。こちらの岸が崖になり、沢が淵になりかけたあたりで娘はようやく渡りきり、こちらを向いて笑顔を見せた次の瞬間ニンゲンが茂みから現れたのだ。 ボロはすぐに逃げ出したから捕まるところは見ていない。長女の恐怖の表情が最後の記憶になった。 「川のあそこはニンゲンでも簡単には渡れないし、こちらの岸は崖だったデス。すぐには追ってこられないデス。みんな今のうちにできるだけ遠くまで走るデス」 「テッチャー!」 子供たちは糞を垂れ流しながらついてくる。 山実装猟は難しい。実装料理は生け作りが前提だ。銃を使っては脆弱な実装石は死んでしまう。罠も使いづらい。知能が高い山実装は半端な罠には掛からない。 それにおびき寄せるためには餌を撒かなくてはいけないが、美味しい餌を一口でも口にすれば肉はひどくゆるく、水っぽくなってしまいとても売り物にはならない。 結局は追い掛け猟だ。ひたすら後を追いかけ素手で捕まえる。 実装石の走る速度が人間の歩く速度と変わらないからこそできる原始的な狩りである。 (巣立ちだったか) 幸先が良い。山に入った日に一匹捕らえた。沢の東岸で水を飲みに来るのを待ち伏せていたところ、なぜか実装石がのろのろと川を渡ってきたのだ。 (三郎沢から西が縄張り) 男はいま自分が追跡している山実装の一家がこの山最後の実装石であろうと当たりをつけていた。 (では但馬の尾根を越えることはあるまい) 歩みの遅い実装石の縄張りは狭い。ボロに同族の競争相手がいないことを勘定に入れても二キロ四方より広く、尾根や川、峠をまたぐテリトリーを持つとは考えにくい。 実装石の柔らかな皮膚では自由に山林を駆け回ることは難しい。よって山実装はとがった枝や草のとげで傷を負わぬよう獣道を移動する。 追跡はたやすいがボロは途中で茂みに飛び込みやり過ごそうとするだろう。用心深ければあえて藪を突っ切って移動することも考えられる。 (糞が消えた) 今まで男は転々と道に落ちた緑色の糞を道しるべに移動していた。それがここしばらく消えている。このあたりで茂みに逃げ込んだ。男はそう判断し立ち止まり、辺りを注意深く観察し始めた。 普通追い掛け猟には猟犬を補助に使うが、男は敢えて愛犬を連れてこなかった。 実装石が死に果てたこの山を実装マタギの男が訪れたのにはもちろん訳があった。 男は一人でたった一匹の、それも賢く経験深い山実装を捕らえるつもりだった。 (爺さんはいつまで俺を半人前扱いする気か) 先端が輪になった伝統の捕獲用の猟具、「ジッソガケ」を手に男は三十分ほどあたりを探しまわったが,男は何も見つけることができなかった。 「ママやめてテチィー!」 「ウンチ食べるのイヤテチュー!」 ボロは嫌がる三女に馬乗りになると無理やり口に糞を押し込んだ。 糞食いをしたことがない娘が悪臭に耐え兼ねて嘔吐するとそれもかき集め口に押し込む。 糞を残しては追跡者に自分の居場所を教えるも同然である。彼女なりの厳しいしつけであった。 ボロが途中から糞を処理し始めたのはわざとである。実装道から糞の跡を消すことで、ハンターにボロたちが道からそれたと勘違いさせるのだ。 「いいデスか、これからはできるだけウンチはがまんして目立たない場所でまとめてするデス。どうしてもがまんできないときは食べてしまうデス」 「いやテチュ!がまんするのいやテチュ!臭いのいやテチュ!」 二女ががさがさと聞き苦しい音を立てながら反対の声を上げた。彼女は実装服を着ていない。代わりに白いビニール袋を身にまとっている。一ヶ月前、川で自分の服を洗っているときにうっかり流してしまったのだ。 その後マナーのなっていないハイカーが捨てたビニール袋を拾ってきて服の代わりにしている。 防寒の役には立たないし、立てる音で捕食者に気づかれてしまう。ママも姉妹も裸だからといって馬鹿にしたりはしない。 そういって何度も捨てるよう言い聞かせたが聞こうとしない。できの悪い子であった。 「ウンチを残すとニンゲンに見つかってしまうデス」 何度も丁寧に言い聞かせ、ようやく納得させたがボロの心は重かった。 ボロは五歳になる。 生まれて最初の一年はひたすら母の後をついて歩いたことしか記憶にない。 独り立ちした次の年はただ生き延びるだけで精一杯であった。 三歳のときも敢えて子供は作らなかった。その頃厳しい自然と人の狩りによって山実装は数家族にまで減っていた。とても子供を育てることはできないと判断したのだ。 彼女の考えは正しく、足手まといの子供を連れた二家族は冬の前に全滅し、残る三家族もその年のすさまじい寒波を耐えきったものは一匹もいなかった。ボロは彼女たちの凍死体から服を剥ぎ、肉をかじって何とか生き延びた。 四年目の初春、ボロが最後の実装石になってから彼女はようやく仔を産んだ。胎教に気を使い、産まれた八匹の仔の中から選別に選別を重ね、最も賢く気立てのいい一匹をのぞいてすべてを間引いた。ボロはそれだけ慎重だった。 だが愛娘は夏を迎えることができなかった。足の小さな傷から病気に感染したのだ。痙攣しのた打ち回って苦しみ、死に顔は醜く歪んでいた。 そして今年、多産な実装石にもかかわらず、彼女から生まれた子供は一匹だけだった。 加齢、厳しい生活で傷ついた肉体、群れたがる本能に逆らって長く一人きりで暮らしたストレス、それらが彼女の偽石に深刻なダメージを与えていた。 無理を重ねて四回出産したが、子供は一匹ずつしか生まれず、最後には流産してしまった。今年の冬を越せないだろうことを本能的に悟った彼女は選別を行わず、危険を承知の上で三匹全員を育てることにした。 (あのように糞隠しをするとは) マタギは風のように山道を駆け上っていた。 山実装が自分の糞尿を隠すことは普通に見られる習性だが、糞の垂れ流しと併用して狩人を欺く個体は初めてだった。 一度追跡を開始しながら途中で見失うのは屈辱だったが、かえって男の胸には闘志が燃え上がった。 男はボロの行動を予想する。成体としても大きいボロでは隠れてやり過ごすのは難しい。できるだけ距離をとって逃げようとするだろう。 “追っかけ”を開始した川、最後に痕跡を認めた獣道の場所、そして縄張り全体の地形とその境界を頭に思い描く。 水っぽい糞を大量に排泄する実装石は渇きに弱い。水場に行くだろう。仔を捕らえられた沢にはしばらく近づくまい。 (茅沼だ) 山の中腹に潅木と草が生い茂る開けた平らな場所があり、その草原の中にひっそりとその沼というのもおこがましい水溜りはある。晴天が続けばぬかるみになるその小さな水場に名前をつけて呼ぶ者は男らマタギたちの他には居ない。 男は沼に近づく前に迂回し、草原全体を見下ろせる峠の近くまで上ると双眼鏡を取り出した。 居た。水を飲み終わったのであろう、ボロが巧みに姿を隠しつつ沼からはなれていく。尾根に向かう。そう男は判断した。 数百メートル離れているが、双眼鏡は親だけで無く、一緒にいるちいさな二匹の仔をもはっきりと映し出す。 (さすが進駐軍払い下げ) 遠目に見れば全体に緑のシルエット、足元と顔だけが白く浮かぶのが実装石だ。しかし一匹は全身が白っぽい。裸実装かと思ったが、色は肌より白い。 (シロと呼ぼう) 男は沼へ向かい移動を開始した。 ボロたちは必死に、といっても人が歩くより多少早い程度だが、尾根を駆け上っていた。 「見つかったデス!」 「ほんとテチュか? ワタチもうつかれたテチュ!」 二女のシロが不満の声を上げる。 撒いたはずだった。だが夕方ごろから再び気配を感じる。おそらくあの水場は待ち伏せされていたのだろう。 水場はもうすべて危険と考えたほうがよさそうだった。そして餌場とねぐらも発見された可能性が高い。長年の経験は用心深いボロにそう判断させた。 季節はすでに晩秋、追跡をかわしつつ新たなねぐらを造り、越冬用の食べ物を集めることができるだろうか。 「…仕方ないデス」 「二手に分かれるデス。山のてっぺんに食べ物を貯めた安全な隠れ家があるデス。でも全員ではたどり着けそうにもないデスし、食べ物も三人が冬を越せる量はないデス。ママはお姉ちゃんのお前だけはなんとしてでも助けたいデス。」 自分は選ばれた。シロの顔が輝く。 「まっすぐに登り続けるデス。この子とワタシは残っておとりになるデス」 「ワタチはママと一緒だからだいじょぶテチ。もちろん逃げ切れるからお姉チャンともまた会えるテチ」 末っ子もつとめて明るく振舞うが声の調子は沈んでいる。 「わかったテチュ! ワタチがんばるテチュー!」 シロは服代わりのビニール袋をがさつかせながら威勢よく飛び出し、開けた、遮るものとてない山道を登りだした。 (おとりだったか) 必死に逃げる仔実装をわざとつかず離れずの距離で追い掛けながら男はひとりごちた。 すでにあたりは薄暗いが、シロの体を覆うビニールはがさがさと音を立てて居場所を知らせるため後を追うのはたやすかった。辺りにいるはずの母のボロと妹は見当たらない。 ボロはうるさく音を立てる子を連れて逃げるのを諦め、捨石としてわざと目立ちやすい場所にシロを送り出し自分は別の場所、おそらくは最も信頼できる隠れ家に向かったのだろう。 しかしマタギは大して落胆してはいなかった。ボロは二匹しかいない子の片方を諦めた。相当に追い詰められている。 シロを泳がせているのは目的地を確かめるためだ。仔実装はひたすら上へ上へと逃げていく。 山頂を目指しているようだ。ならば残りの親子は逆の方向、山のふもとへ逃げていると男は判断した。男が追いかけてきているからまっすぐ尾根を下りては鉢合わせしてしまう。左右どちらかの斜面を下るしかない。 ではどちらの斜面をくだったのか。尾根の東側は植林された杉林、南側には原生に近いブナを主とした落葉樹林が広がっている。 考えるまでも無く南だった。木立が整然と列を作り、よく手入れされ下生えがほとんどない杉林では百メートル先まで視界が開け、隠れ場所も皆無に近い。木々がうっそうと茂る南斜面を通るのは間違いない。 ここまで分かればもうシロに用はない。男はひょいひょいと山道を跳びあがるとシロの前にまわりこみ、仔実装の髪をつかんで持ち上げる。 「テェェェェ! テッシャァァァ!」 背負子にぶら下がるブリキ缶をひとつ取るとふたを開け、シロを中に詰め込む。 缶の中には綿が敷き詰められており、実装石が中で暴れても体を傷つけず、また音が外に漏れないようになっている。 ビニール服は剥いでおく。禿や裸は値が落ちるのでプロのマタギは実装服すら傷つけぬように注意を払う。が、ビニール袋では身につけていても裸扱いだ。 どうせ料理するなら一緒だろ、と男は常々思っているが口に出したことはない。 裸にするときシロはデスデスうるさかった。マタギはそれが抗議、あるいは不満を意味する声だと思っている。 男はしばらく前に街に下りたときのことを思い出していた。 映画館で本編上映が始まる前のニュース映画の時間。 『実装石は言葉を話している』 デスデスと聞こえる実装石の鳴き声は同族間の意思疎通に使われており、言語と呼べるレベルにあることがこのたび明らかになったという。 最新の実装学の成果だそうだ。今は国の研究所で解読が進んでいるらしい。この事はしばらく前に新聞の一面を飾ったのだが、男は読んでいなかった。 実装石は言葉を話す。 男は冷笑した。 (実装マタギはずっと昔から知っている) 男は落ちるのと変わらない速さで落ち葉が積み重なる落葉樹林の急斜面を駆けてゆく。 (アシ谷地だな) 行き先の見当はついている。 ブナ林の斜面を下っていくと少しずつ下生えが増え歩きにくくなっていく。 山の谷間、じめじめした土地にはマタギの身長を超えるササが繁茂している。 ここを抜けた谷の最奥部の湿地には背の高い葦が生えている。 人が動き回るのは難しいが小柄な実装石なら根もとの間をそこそこすばやく歩けるだろう。 ボロと娘は笹薮の中で息を潜めていた。日没から数時間。あたりは暗黒に閉ざされている。実装石は昼行性の動物、夜の山で移動できるような視力は持ち合わせていない。 できれば日暮れまでに谷の最深部の湿地に逃げ込みたかったが果たせなかった。そこはボロが成体になってから今年の春まで三年間ねぐらにした場所だった。 今年になってから子育てのために水場の近くに居を移し、蓄えていた餌も食べつくしてしまったが、まだ隠れ家が残っている。知り尽くした場所で追っ手をしのぐつもりだった。 しかし風にかすかにシロの匂いが混ざっている。実装石の嗅覚は基本的に人間並みだが親子のにおいには特別に敏感である。 山頂に向かうように言って送り出したはずのシロの匂いが近づいてきているということは、あのニンゲンがシロを捕らえ、さらに自分たちをも毒牙にかけんと追ってきていることを意味する。 男は藪の中をじりじりと這っていた。空には雲が垂れ込め、星はひとつも見えない。 男は目を閉じたままだった。文字通り鼻をつままれても分からない。目を開けたままでは葉や枝で眼球を傷つけかねない。 全身を耳にして斜面を這い降りてゆく。シロのあとを着いていき、だいぶ時間を食ったとはいえ、子連れの動きののろい実装石がすでに谷の底まで下りきっているとは考えづらかった。斜面の途中に身を隠しているに違いない。 (ェース…… ェース……) マタギの耳が実装石の呼吸音を捉えた。 実装臭はにおわない。風下の方向、十メートル以内にいる。 (トモシで行くか) 左手に懐中電灯、右手にジッソガケをもちじりじりと這い進む。 頃合いを見計らって電燈のスイッチを入れ前方を照らす。 夜の山では草木に邪魔され明かりで照らせる範囲はごく狭いが、 「テェッ!」 闇の中に並んで緑と赤の光が浮かぶ。 男は前方に飛び出し、ジッソガケを繰り出す。 獲物は泣き叫び逃げ出そうとするが突然の強い光で視界を奪われまごついている。 その胴体に針金でできた輪がかかり、男が中空の柄の先端からでている紐を引くと針金の輪はぐっと締まって仔の胴体を締め付けた。 夜間に明かりをつけ、眼に反射する光を目当てに捕らえる、灯しと呼ばれる猟法である。 (子供か、親はすぐそばに!) 続けて二匹目も捕らえようと男は伸び上がりあたりを見渡す。愛情深く(そして分別の足りない)実装石なら仔を奪い返しに突撃してくるはずだが、 「デエェェェェェェ!」 少し離れたところからボロらしき姿が脱兎の勢いで駆け下りていくのがちらりと視界をかすめる。 「デェァ!」 ボロが転び、ごろごろと転がり落ちていく気配。すぐにでも追いたかったが、男の目はすでに明かりに慣れてしまっている。 (流石に手強い) 男は三匹目の獲物を確かめ、ブリキ缶に押し込んだ。 風が生ぬるくなってきた。マタギは鼻を鳴らし大気の匂いを確かめる。 (一雨来そうだ) 東北の冬の夜明けは遅い。 ボロは谷の底にうずくまっている。 産まれたのは日当たりの良い川原だった。だがこの湿地でボロは育ち、暮らし、産んだ。 そして娘を失った。頑健なボロはダニやコケを食べ、泥をしゃぶって水分を補給する暮らしで平気だった。それが普通の実装生だと思っていた。 ボロはコンペイトウの味も、暖かい家も、美しい服も知らない。偽石に刻まれているはずの人間に甘える快感も、警戒心で塗りつぶされている。 母の胎内にいた頃に聞かされた、甘いご馳走や立派な家、忠実な召使の歌の記憶は生後すぐに捨ててしまった。生きていくには不要どころか邪魔だった。 ボロとしては子供に十分な食事を与えているつもりだった。しかし抵抗力の弱い仔は雑菌が多く湿度の高い不衛生な環境と栄養分に欠ける食事に耐えられず病に倒れた。 「ここはきらいデスゥ…」 最初の仔を失ったこの場所では嫌なことばかり思い出す。 今日一日で三匹の仔をすべて失った。寿命の近い彼女の、おそらく最後の子供たちを。 思い返せば後悔は限りない。 「山にはワタシたちだけデス。 仔を独り立ちなんかさせなくても家族みんなで生きていけたはずデス…」 そうすれば長女は無防備に不慣れな川向こうへ渡ることも、そして捕まることもなかったはずだ。 「あの仔もおとりにせずに、山の反対側に逃がせばよかったデス…」 そうすれば次女シロは逃げ切れたかもしれない。そうでなくとも自分たちは逃げ切れた。 思考は悪い方向へ転がっていく。 そもそもあの仔が服にこだわり狩人の追跡を容易にしたのだ。 言葉を飲み込む。 間引いておくべきだったかもしれない。 ボロは必死に卑しい考えを振り払った、 「ワタシは… あの仔を見捨ててしまったデスゥ…」 マタギが這い寄ってきたとき、自分が音を立てながら飛び出したならばそれにまぎれて末娘は逃げられたかもしれない。 あるいは捕まった後、人間に飛び掛り仔を救い出すべきだった。できるかどうかは別にして。 「ワタシはだめなママデスゥ…」 ぽつりぽつりと雨粒が落ちてきた。見る間に雨脚は激しくなる。木と草にさえぎられ直接雨に打たれることは無かったが、たちまち足元には水溜りができる。 男は缶から竹かごに捕らえた仔実装を入れ替える。ボロが潜んでいると思しき葦原の風上の適当な立ち木を三本選び、それぞれにかごを紐でぶら下げる。 経験したことのない高さに実装石たちは泣き喚き、糞を漏らす。かごは実装石では開けることも壊すこともできない頑丈なものだ。昔は地面に固定しておくだけでよかったが、何世代か前から木につるすようになった。 最近の獣はジッソを怖がらねえな。 男の祖父もマタギである。彼は最近獲物を横取りされることが増えたとよく愚痴をこぼしていた。 かつて二本足で歩き、服を着て手に物を持つ実装石を山の獣は恐れ近寄らなかった。山実装が警戒するのは熊と狼くらいだった。はばかることなく山の実装石たちは殖え、山の恵みを享けた。 いつごろだろうか、獣たちが実装石はヒトに似てこそいるが別物だと気づいたのは。 歩くのは遅く、跳ぶことも木に登ることもできない。力は弱く足腰は不安定で爪も牙もない。群れることはあるが集団で反撃してくることはない。 キツネ、タヌキ、イタチそして野犬。トビやカラス。実装石の食物連鎖内での地位は人類の誕生以後生物界で例を見ない速さで低下した。 仔をおとりに使うおとり猟も難しくなった。仔を入れたかごを設置してしばらくしてから様子を見に戻ると、仔の鳴き声に引き寄せられやってきた親もろとも食い散らかされていることが増えた。 かごを木につるすのは獣に手を出されないためである。それでもサルがかごを引き上げてこじ開け仔を喰うのは防げない。 寒さに震えるボロの耳に聞きなれた声が飛び込んでくる。 「ママーー!」 「たすけてテチィ!」「さむいテチュ! おなか減ったテチュ!」 「デェ!」 一瞬幻聴かと思ったがそうではない。山の奥からは声とともに子供たちの匂いが漂ってくる。 「無事だったデスか!」 すぐにも駆けつけようとするが、一歩踏み出したところで足は止まった。 「これは罠デス…」 子供たちで自分をおびき寄せるつもりであることはたやすくうかがい知れる。 「返事してテスー!」「だいじょぶテチ! ニンゲンはどこかに行ったテチ!」「たかいテチュ! こわいテチュ!」 返事をしてやりたい。だが答えてどうなるというのだ。人間は娘たちのすぐ近く、しかし娘たちからは見えないところに身を隠し待ち構えているだろう。 ママは助けてあげられない。そんなことを叫んで子供を絶望させさらに自分の居場所を晒すのか。 きっと大丈夫、がんばれ。そんな気休めを言えば結局子供たちはより苦しむだろう。 ボロは声に背を向ける。できることなら耳をふさぎたかったが実装石の短い手は耳に届かない。 「悪いママを許してデス…」 ボロの心は千千に乱れた。うまくこれから逃げ切れたとしてどうなるのか。安心できるねぐらも、食料の貯蔵もない。 ボロは自分の寿命が近いことを感じている。十分な準備があったとしても、冬眠すればおそらく二度と目覚めることは無いだろう。 雨脚は衰えるどころか強さを増す。湿地は泥沼と化し、ボロはすでにひざまで浸かっている。 流れる水は容赦なくボロの体温を奪っていく。疲労と緊張に加え低温のためにボロの意識は混濁し始めている。 ボロはゆっくりと娘たちとは反対の方向に動き出した。 「…生き抜くデス」 ボロは顔を上げた。 「生き延びてまた子を産むデス」 娘たちの声を振り払う。 なんとしてでもこの危機を、この冬を乗り越えて見せる。そして今度こそ子供を立派に育て上げるのだ。 体が熱くなり、活力が漲る。強い想いが偽石に力を与えたのだ。 もう振り返ることはない。ボロはゆっくりと湿原を渡っていく。 その先に男が待ち構えているとも知らずに。 湿地から二メートルほど頭を突き出した巨岩の上にマタギは蹲っていた。 頭まですっぽりと蓑をかぶり、しゃがみこんだひざを抱く。蓑の裾は尾のように後ろに伸びている。 その姿は羽を休める巨鳥のようにも見える。 この岩の上は見晴らしが良い。 ボロがあのようなおとりに引っかかるわけがない。むしろ仔から距離をとって逃げようとするはずだ。 その考えは確信に近かった。だから男は仔を置いた湿地のはずれの反対側、ボロの風下に陣取った。 東の空が白む。雨は夜半過ぎにやんだ。ボロは姿を現さなかった。 男はのそりと立ち上がる。実装石に限らず昼行性の生物は明け方に一番注意力が落ちる。男は獲物に接近を始めた。 葦を掻き分けながら湿地を進む。 がさり。男のすぐ近くで何かが音を上げ、風のように走り去っていく。 (違う、実装石はこんなに速くない) ノウサギか何かだろう。しかし、逃げ去った方向を覗き込んだマタギの目に飛びこんできたのはボロの変わり果てた姿だった。 手足は根元の部分を噛み潰され、咽笛も食い切られている。もとから穴だらけだった実装服はもはや布切れになっている。腹部の他と比べて新しい傷口からは腸がはみ出ていた。 (動物にさらわれたか!) マタギは次の瞬間仔へ向かって駆けだした。ボロは仔実装の泣き声を聞きつけてやってきた肉食動物にやられたのだろう。うかうかしているとせっかく捕らえた仔実装まで喰われてしまう。 流石に疲れを覚えるが体に鞭を打って走る。 幸いにも仔の入ったかごに変わりは無かった。木からぶら下げたかごには捕食者も手が出せない。元通りブリキ缶に詰め替える。 狩りは終わった。男はふもとを目指して歩き出す。 途中でボロのそばを通る。よく見るとまだボロには息があった。 男はかがみこみボロを観察する。 「ェヒューゥ… ェヒューゥ…」 ボロは何か言っているようだが、のどの穴から空気が漏れるだけで言葉にはならない。 なんと言いたいのだろう。 「助けて」だろうか。「子供を返して」だろうか。それとも「私の山から出て行け」だろうか。 人間には実装石の言葉が分からない。始終山実装を追いかけている実装マタギすらそうだ。雰囲気や身振りから大意を判断しているにすぎない。男もほんのいくつかの断片的な単語を解するだけだ。 男はしげしげとボロの顔を見つめる。服だけではなくボロの顔や体にも年輪が刻まれている。 連れ帰り、治療を施せば助かるかもしれない。全快すれば目利きのいない料亭やレストランになら高値で売り飛ばすこともできなくはない。 男は立ち上がる。ボロに背を向け山を下りはじめた。実装マタギはそんなことをするために山を彷徨うのではない。 何かの視線を感じるが気にしない。もう音を立てぬ用気を使う必要もない。背負子にいい加減にぶら下げられたブリキ缶がぶつかり合いがらんがらんと音を立てる。 中に入れられた仔実装たちはすぐそばに母がいることなど知らないだろう。ボロだって男の背中の冷たい筒の中に娘たちがいるとは気づかなかったはずだ。 少しも行かないうちに背後の草むらから音を立てて、何かがボロの元に忍び寄る。 おそらく狐か。男が姿を消すのを待ちきれないとはよほど腹が減っているのだろう。 (今回はお前が上手だったようだな) 実装マタギが夜明けの山を下りてゆく。 昨夜野生の実装石の生息北限が山系ひとつ分南下したことを誰が知ろう。 朝焼けに照らされて山肌が濡れ光る。 (終) ----------------------------------------------------------------------------- あとがき どうも。初スクです。(書きあがったのは二番目ですが) いわゆる実装グッズがまだ存在しない昭和の中ごろを想像して書いたものです。 突っ込みどころがたくさん有るでしょうから遠慮なく指摘してください。
