タイトル:ワタシnoオウチ
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作者:匿名 総投稿数:非公開 総ダウンロード数:20117 レス数:2
初投稿日時:2006/11/25-06:12:12修正日時:2006/11/25-06:12:12
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ここはどこだ?
いったいどこまで来た?
いったいどれだけ離れた?
いったい自分はどこに行くんだ?

「お腹すいて…もう歩けないデス…」
一匹の実装石が道路の隅で力尽きようとしていても、誰も見向きもしない。
持ってきた食料は既に食べてしまった。人間はそれを「歩く」と表現するのだろうが、
彼女にとっては「全力疾走」だった。
「頑張る…ヒィ…デス。あのニンゲンが…ハァ…追いかけてくるデス」
しかし彼女は力を振り絞る。
「やっぱり戻った…デヒッ…方がいいデス?おしおきされるデ…ヒィッ」
自問した。
「戻ったらもっとひどいおしおきされる…デ…」
ふっ、と意識が遠のく。アスファルトの地面が眼前に迫ってきた。
「デ…ェ…」
悪あがきだと知っていながら、彼女は微かに鳴いた。
………
「何かしら、今…ア、ア…アナタ…」
女は道端に倒れている生き物を認めるなり口を手で覆い、はらはらと涙を流し始めた。
「グ…グリちゃん?グリちゃんなのね?」
最後に見たときと姿形は違っていても女にはわかった。
「デ…デス?」
抱き上げられた彼女はか細い声で応えた。
「そうよ!私よ!今までどこに行ってたの?心配したのよ。こんなにボロボロになって…」
「役に立たない…ドレイデスゥ。オマエのせいで悪いニンゲンに捕まっちゃったデス…」
その実装石はぼろぼろだった。耳は欠け、手足は不完全、探せば各所にその兆候が見られただろう。
「虐待派から逃げ出して来たのね…大丈夫。もうひどい目には合わさない。絶対に守ってあげる」


「デハッ…ヒッ…デヒィッ…」
苦痛に顔を仰け反らせ、舌を突き出し、口の端からだらしなく涎を垂らしながら、それでも彼女は走った。
必死で走った。短い手足を振り回し、悪意に満ちたこの世界で彼女達にも惜しみなく割り当てられた
唯一のモノ———「空気」を必死で吸い込み、吐き出し、唾を飛ばし、走った。

彼女はチャンスを逃さなかった。
いつか絶対にここを逃げ出す。
高貴なワタシにふさわしいドレイの元に、帰る。
ワタシの家に、帰る。
そんな思いが彼女を脱走に駆り立てた。
千載一遇——実装石がそんな言葉を知っているはずもないが——のチャンスだった。
部屋のドアの隙間を彼女は見逃さなかった。男を見た———寝ている。
脱出する前に台所の床に落ちていた食べ物を失敬した———大きなオニギリ。
玄関の段差もちゃんと場所を選んで飛び降りた———靴の横に置いてあったフカフカのクッションの上。
家から飛び出し、駆け抜けた———転ばないよう、つまずかないよう、キレイに掃き掃除されたポーチを。

「デヒィ…デフゥ…デハッ…」
疲労により緊張を失った総排泄口から糞が漏れ出し、足を伝い落ちても彼女は止まらなかった。
「デズ…オウチ…デヒッ…オウチに…ヒィ…フゥ…帰る…デスッ…」
伝い落ちた糞が道路につける足跡が、点々と続いていった。


「…ェェェェェエエエエエエ!」
絶叫しながらグリは飛び起きる。
「ごめんなさいデスゥ!ごめんなさいデスゥ!ご主人さ…」
言いかけて気づいた。ここはどこだ?あのニンゲンはどこだ?
「…デスゥ」
そうだ。ここはオウチ。ワタシのオウチ。一応ドレイの家だが、ワタシが住んでやっている。
あのニンゲンはいない。いるのはドレイだけだ。
そうだ。ワタシは帰ってきたのだ。
「大丈夫?」女が心配そうに実装石を見下ろしていた。
「デフン!」彼女はわざとらしくそっぽを向く。ドレイに心配される覚えはない。
「怖い夢でも見たの?」
「うるさいデス!そんなことよりさっさと特上寿司3人前持ってこいデス!」
「はいはい、ちょっと待っててね。今から注文するわ」
「まったくドン臭いドレイデスゥ!」
戸惑いはやがて空腹による怒りに、その矛先も夢の中の人物から現実のニンゲンへと移っていった。
その間にも女は注文を済ませ、昼食の準備に取り掛かる。いなくなる前から使っていたグリ専用の
小さな机を置き、グリの首に綺麗な前掛けをかける。

それは全くの幸運だった。
公園で偶然にも愛護派に拾われたこと。
ドレイ。オウチ。オフロ。ステーキ、テンプラ、コンペイトウ…
欲しいものは何でも与えられた。
幸せな生活だった。
愚かなニンゲンが傅き、食べたいモノを食べ、お風呂に入り、髪を梳らせてやり、撫でさせてやった。
自分に似て——ワタシには敵わないが——かわいい仔実装も生まれた。少々癪だが、ドレイはワタシ
と同じぐらいその仔実装たちをかわいがっていた。
しかし彼女にはわかっていた。
美しくて、高貴なワタシだからこそ選ばれたということを。

その生活が終わるのはあまりにもあっけなかった———始まった時と同じように。

彼女にとってはちょっとした不運だったが、それが重なってしまったのがよくなかった。
あの日は、生まれたばかりの仔実装2匹に成体に近づいている仔実装3匹のお守りをしていた。
幼い仔実装の面倒を見るのに精一杯でやんちゃな三匹に目をかける暇がなかった。
はっとした時、自分がうたた寝をしていたのに気づき、仔実装の泣き声で目が覚めたのにも気づいた。
「テェェ!テェェン!」大切な我が仔が顔を覆って泣き喚いていた。
「どうしたデス?高貴なワタシたちはウンチ漏らしちゃダメだって教えたはずデス!」
「だっテェ…だっテー、大事なボールちゃんが逃げちゃったテチュゥ!」仔実装は泣きながら訴える。
見ると、三匹が遊んでいたボールが玄関をゆっくりと転がり通過していくところだった。
「デェ…」親実装は悩んだ。どうする、取りに行くか?それともこのまま放っておいた方がいいのか。
ドレイはお外に出てはいけないと言っていた。でも、この仔たちの誕生日にプレゼントされた大事な
ボールだ。また貢がせてやってもいいが、やはり無くしてはならない。
悩んだ末、「ママが取ってくるからオマエたちは大人しくしてるデス!」
たったそれだけのはずだった。なに、ちょっとだけなら大丈夫だろう。言わなければ怒られることもない。
バレてもワタシのかわいさに免じて許してくれるだろう。
なんといってもアイツはドレイだ。

そして彼女は廊下を歩いた。
玄関の段差に手をかけ、慎重にずり落ち、玄関を出る。
「捕まえたデス。まったく世話かけるなデスゥ」
ボールに手をかけたようとした時、小石につまずいた。
「デッ?」
バランスの悪い実装石は前のめりに倒れ、ちょうどボールに頭突きをする格好になった。ボールは
てんてんと転がっていく。道路に向かって。
「待てデスゥ!」
彼女は必死で追った。交通ルールなど知るわけもない。ボールだけを見て道路に飛び出した。幸い車には
引かれなかったが、思い返せばもっとタチの悪いモノにぶつかってしまっていた。
「デェ?」
ぼふんと何かにぶつかった彼女は、目線を上に辿っていく。
「…」
彼女は賢かった。少なくともソレが出来る程度には。無表情に見下ろしてくる男に対してペコリと
頭を下げた。しかし伏せた顔はデププ笑いをしている。
(可愛いワタシが頭を下げれば何でも許されるデスゥ!)
それが本音であり、オウチという限定された空間ならば事実だった。少なくともドレイはそうだった。
そして男はドレイではなかった。

たったそれだけの出来事だった。
うたた寝してしまったこと。
ボールが玄関の方に転がってしまっていたこと。
小石にけつまずいてしまったこと。
その男が通りかかったこと。


女は実装石と向かい合い、グリの為にかいがいしく世話をしていた。一方のグリはサビ抜きの特上寿司を
手で掴んでめちゃくちゃに口に放り込む。ネタだけ食べたり、シャリを放り投げたりやりたい放題だ。
それでも女は怒る素振りさえ見せない。常人には理解できない、まるで増長さえも楽しんでいるようだった。
「それにしてもどうやって逃げてきたのかしら…」
「デ…!デギギギギギ…」
実装石は大して力の無い顎をギリギリと軋らせた。あの日、あの夜、ワタシは…

あの日、彼女が家を出る前の日。
男は突然に彼女を水槽から出し、布団の上に放り出した。
「デェェエエ?」
なに?なに?何が起きたの?
ふかふかの布団の上で彼女は混乱した。「ふかふか」という感触自体も初めてのものだ。
仰向けの状態で彼女はただ男を見上げた。これは新しい虐待か?これから何が…
男は無言で彼女をうつぶせにひっくり返し、髪のないざらざらの頭を押さえつけた。
「…デムゥ!…ムグゥ!…フゥ!」
布団に口を押し付けられた息苦しさの中でも、ぐい、と足を広げられるのがわかった。
「…デッ!」
これから何が起こるか直感した。
拘束が解かれ、彼女は頭を起こし鳴いた。
「やめるデズッ!オマエなんかに高貴なワタシと交尾する権利はないデスー!」
しかし男は容赦なかった。無言で代用服をひん剥く。
「デスァッ!やめろデス!ワタシと交尾できるのはもっとかっこいいドレイに限るデスッ!」
パンツを引きおろし、うつ伏せに押さえつけられた。
「オマエなんか…オマエなんかが高貴なワタシと…デズァァァアア!」
悔しくて、悔しくて色のついた涙がとめどなく溢れた。
悔しかった。
屈辱だった。プライドの高い個体であるだけになおのことだった。
髪を抜き、服を破き、自分の糞を食わせるニンゲン、そんなニンゲンと交わることが。
もちろん今までにも、受粉によって何匹も仔を生んできた。
しかし
交尾は初めてだった。
「デスッ、デスッ、やめ…デスゥ…、デヒッ、さっさと…デスッ、抜く、デスゥ…」
それなのに、自分の喉から搾り出される声は今まで出したこともない様な声だった。
「デヒッ…デヒン…ヒン…デヒァ…デッスン…デスン…デヒ、デヒッ…デヒン…♪」

男はそのまま寝てしまい、彼女は男の布団から静かに這い出し、布団の周りに投げ捨てられた服を
身にまとい、逃げ出した。


「うるさいデス!ドレイは黙ってワタシに仕えればいいデスッ!」
グリは大トロを投げつけたが、力の無い実装石の腕で投げられたソレは女の膝の上に落ち、バラリと
崩れただけだった。
「ごめんなさいね」女は謝りながらそれを拾った。
「デフン!オマエがしっかりしてないからデス!このバカニンゲン!」
後はただ、彼女のもぐもぐ、くちゃくちゃという咀嚼音、それに実装石特有の快感の鼻息が聞こえる
のみだった。


新しい生活にも慣れてきた頃、彼女が自身の身体の異変に気づく前に、新しい飼い主が気づいた。
「最近、お腹大きくなったんじゃない?」
「デェ…?」
そういえばそうだ。微かに腹が膨れている。
「もしかして…おめでた?」
「デスッ!」
そうだ。これは今までにも経験したことがある感覚だ。妊娠した。
そういえばその兆候もあった。最近やけにお腹がすくと思っていたのだが、こういう事だったのか。
それは幸せの兆候。仔供だ。仔供だ。仔供だ。遂に仔共が産まれる。ワタシはママになる。
あの男に我が仔がさんざん殺されてきたが、ここなら奪われることもない。嬉しくて仕方なかった。
しかし———
「でも変ねぇ。今は花粉もそんなに飛んでないし。」
「デ…」
そういえばそうだ。何故?今は受粉のシーズンではない。何故妊娠したんだ?
理解は早かった。

アイツだ。

あの夜、ニンゲンがワタシの中に植え付けたのだ。
お腹の中にいるのはあのニンゲンの仔。
屈辱も、暴虐も、あの夜で終わったわけではなかったのか?
あのニンゲンから逃げられたわけではないのか?
このオウチは安全ではないのか?
あのニンゲンはワタシがここにいることを知らないはずだ。
あのニンゲンは…
「でもとりあえず、お祝いしなきゃね。今夜はグリちゃんの好きなステーキにしましょうか?」
「ふざけるなデズァァアッ!」
お祝い?お祝いだと?このお腹の中にいるのはあのニンゲンの仔だぞ?
彼女は恐れ、震えながら自身の腹を見下ろした。
ワタシの身体の中で怪物が育っている。
あのニンゲンがワタシの中にいる。

彼女は歌わなかった。
今まで、どんな状況でも——あのニンゲンの家でぐらぐら煮立つ鍋の上に宙吊りにされ、強制的に
出産させられても——歌だけは忘れなかった。ママから教わった大切な歌を我が仔にも聞かせてやった。
例え産まれたその瞬間に死を迎えるとしても、グリは歌った。それが義務だったから。
胎教ではない。腹の中にいながらにして、既に死が運命づけられている小さな命たちへの手向け。
外の世界に出て一番最初に耳にするのは恐らく絶叫だろう。
ワタシの絶叫。
この仔の絶叫。
だからせめてお腹の中にいる間だけでもワタシの美しい歌声を聞かせてやろう。
泣きながら歌った。

彼女は歌わなかった。
いま自分の腹の中にいるこの仔の為に歌ってあげる気にはならなかった。
例えニンゲンに妊娠させられたとしても、産まれるのは実装石だとわかっているのに。
それに、あのニンゲンはワタシの歌を嫌っていた。あのニンゲンはワタシが歌い始めるなり喉を潰した。
代わりに自分が歌いながら、産まれたばかりの仔実装を茹で上げてワタシの口に突っ込んでいった。
実装石を虐げる時にいつも歌う、お気に入りの歌を口ずさみながら。

彼女は歌わなかった。
この仔は歌わない実装石になる。

「デェッ…デェッ…」
数日後、とうとう陣痛が始まってしまった。仔実装が胃壁を蹴り付ける感触。小さな命がずるずると
総排泄口から出てくる感覚は、ある意味で排便の快感に近い。あの家にいた時にも、何度も
強制的に出産させられ苦しい思いもしてきたが、それでもやはりこの感覚が懐かしく、嬉しかった。
どんなに苦しい思いをしたとしても、仔を産みたくない実装石はいない。どんなに賢い個体も、
また愚かな個体も。
「…」
それなのに彼女は恐れていた。出来るなら産みたくない。どんなに賢い個体も、また馬鹿な
個体も出産を拒否しようとしない。母になることを喜ぶ。しかし彼女はそれを拒否しようとした。
その意志は既に行動に表していた。
お腹をぽんぽん叩いて潰してしまおうとした。
総排泄口に手を突っ込んで掻き出そうとした。
しかし妊娠から出産までの流れを止めることは、やはりできなかった。
彼女の不安や恐怖をよそに、新しく育まれた命は彼女の胎内ですくすくと育ち、やがて出産の
日を迎えたのだった。
「デフ…フゥゥゥ…」
彼女はいきむ。
「デ…ズ…ズズ…」
そしてとうとう…
ずるり。「テッテレ〜♪」
「デハァ…ハッ…デヒッ…」
息を弾ませながら、彼女は足の間を蠢いている我が仔を眺めた。まだ幼く、弱く、儚く、
粘液にまみれた仔実装。すぐに立ち上がった仔はすぐさま自分に歩み寄ってくる。
何の罪も無い、かわいい我が子。ようやく授かった、大切な大切な…
しかし、あのニンゲンの仔だ。
産んでしまった。
あのニンゲンの仔を。
あのニンゲンを。
「…」彼女の中で殺意が芽生え、むくむくと膨らんでいった。母性本能がそれに抗ったが
しばらくせめぎ合ったのち、やがて屈し、彼女の中は殺意で占められ、渦巻いた。
「マ…マ、マァマ?」たどたどしい言葉。
「…」初めて発したその言葉に返事をすることなく、彼女は我が子の脇に手を差し込み、
抱え上げた。
正対する両者。
「テッチーン♪」仔実装は口に手を当てて首を傾ける。誰に教えられるでもなく、生まれた
その瞬間から既に身についている動作。
「…」こんなに、ワタシに似てこんなにも可愛いのに、これはあのニンゲンの仔。
これはあのニンゲン。
殺すのは簡単だ。この手を離せば、弱いこの仔は床の上に潰れる。手がゆっくりと離れていく。
「テチュゥ?」仔実装が母親を見た。
目が合った。あのニンゲンによく似た目をしている。
見ている。
あのニンゲンがワタシを見ている!
「デスゥ………!」
「ママ?くるしいテチュ!そんなにギュッとしちゃ苦しいテス!」
「オマエはママの仔デス!ママの仔デスゥ!」抱きしめた。泣きながら我が仔をかき抱いた。


結局、彼女の心配は杞憂に終わった。
実装石の仔は実装石でしかなく、仔実装は仔実装でしかなかった。
確かに少々抜けた仔ではあったが——パンツは汚すし、夜泣きはするし——しかしそれでもカワイイ
仔には違いなかった。母の言うことはよく聞き、もちろん飼い主のいうことも聞く。何よりも元気に
育ってくれる。
ニンゲンのドレイ、可愛い我が仔、夢にまで見た生活だった。だが

足りない。物足りない。何か物足りない。
何が?何がないの?何が物足りないの?

彼女は自問した。
あの家にいた時、ワタシ——ワタシ達——は全てを奪われていた。或いは奪われようとしていた。
しかしここに戻って来た時から変わった。全てが戻ってきた。
奪われていたものは取り戻され、いや、それ以上のものが得られた。

引きちぎられたはずの服は以前よりキレイになって戻ってきた。
引っこ抜かれたはずの髪はビヨウインという所でサラサラになって戻ってきた。
もう二度と育てられないと思っていた我が仔が目の前にいる。
餓死寸前まで切り詰められていた食事は以前よりたくさん、贅沢になった。
ニンゲンと自分の糞尿が溜まった池もここでは透明で温かった。
忘れていた自尊心もドレイの分かりきったお世辞で以前より微かに膨らんだ。

望むべくもない生活ではないか。
それなのに…いや、もう望むものがないのだ。

この幸福な日々の中で忘れてはいた。
しかし完全に頭の中から消し去ることだけは、どんなに幸せな思考回路をもった
彼女達といえども出来なかった。消そうとしてもできなかったのか、或いは消そうとも
しなかったのか。
日々の増長の中でも常にその「目」は彼女を見ていた。
小さな我が仔の両眼を通して。
また彼女もそれを常に、頭のどこか片隅の中の、さらに小さな領域で意識していた。
だから彼女は恐れた。我が子の目を見る事を。我が仔と目を合わせる事を。
また皮肉にも、賢い仔実装はその気配を敏感に感じ取り、敢えて親実装と目を合わせようとは
しなくなった。グリにもそれが分かり、可哀相な思いをさせていると思いながらも、やはり
目を合わせることができなかった。

そういえば、この家に来てから夢も見なくなった。
あの家にいた時は毎晩のように夢を見、覚醒した時そのギャップに愕然としたものだった。
それどころか虐待の最中でも気を失い、見ることがたびたびあった。たいていは激痛で覚醒
させられたが。
あのクソニンゲンがいつかワタシの魅力に気づき、メロメロになる夢。
あのクソニンゲンがカワイイワタシを喜ばせようとコンペイトウをたくさんくれる夢。
あのクソニンゲンが美しいワタシに似合うきれいな服をくれる夢。
あのクソニンゲンがいつかワタシに屈服しドレイになる夢。
あのクソニンゲンが高貴なワタシを…
あのクソニンゲンが
あのクソニンゲンが
あのクソニンゲン
あのクソニンゲン…

驚き、ハッと目を開けた。絶叫していたのは自身だと気づいた。隣を見ると我が子がすやすやと
眠っている。
「どうしたの?」ドレイが部屋に入ってきた。
「何でもないデスゥ…邪魔デス!とっとと出て行けデス!」
「そう?何かあったら呼ぶのよ」
「言われなくてもわかってるデス!」彼女は怒りに任せて、常に用意してある高級実装フードを
ドレイに向かって投げつけた。

再び訪れた闇と静寂の中、彼女は隣で寝ている我が仔に耳を澄ませた。起こしてしまっただろうか。
「テスー…テスゥ…」
安らかな寝息に胸を撫で下ろし、そっとその腹に触れた。
「スゥー…テェー…テスー…」
緩やかに上下する腹からそっと顔に手を滑らせた。小さなカワイイ口から吐き出される微息が
手の平に当る。
この仔は何も知らない。
この世界が自分達の味方ではないこと。
この世界は悪意に満ちていること。
このまま素直に育ってくれるのだろうか。少なくとも今は、眠っている今のままならば、
この仔は幸せだ。
「…」
やがて仔実装の様子が変わったのに彼女は気づいた。どこか苦しそうな呻き声が聞こえる。
短い手足がぱたぱたと暴れている。
やがて彼女はハッと我に返り己の手を引っ込めた。
「デェ…?」
ワタシは何をしていた?この仔に何をしていた?口を塞いでしまっていたのか?何故?
殺そうとしていたのか?この仔を?何故?
あのニンゲンの仔だから。
「デー…」
闇の中、グリは顔の前にやった見えない手を見つめ続けた。我が仔の苦悶の呼吸が再び緩やかに
なっていくのを聞きながら。


夢は予感だった。
綻び始めた歪な幸福の隙間に張り込んできた、現実でもあった。


昼下がり、たらふくコンペイトウを腹に詰め込んだグリはぽんぽんに膨らんだ腹を撫でながら、
珍しくリラックスしているのを実感していた。こんなに落ち着ける日は一体いつ以来だろう。
まさかこんな日が来るとは、どんなに楽観的な実装石といえども想像できなかった。それだけの
絶望があの家にはあった。そしてココは「あの家」ではない。
「…ー♪…ッスゥー…テー…ッテッテ…♪」
「デェ?」我が仔の不思議な鳴き声が微かに聞こえ、グリは気だるそうに首のない頭を回した。
「テーテスー♪テッテッテテッテー♪テテチーテテー♪」仔実装は楽しそうでも嬉しそうでも
なく、ただ淡々とソレを口ずさみながら首の据わらない頭を前後に揺らしていた。
「デ…ッ」グリは驚愕した。
歌っている!この仔が歌っている!
普通ならば、なんと愛らしく歌っていることだろう、と頭を撫で、頬ずりしてやるくらいなのだが。
それはもちろんこの仔の生い立ちがあっても変わらない。問題はこの仔が歌っている歌だ。
何故だ!何故その歌を知っている!
グリは実装石に似つかわしくない俊敏さで立ち上がり、我が仔に迫った。
「どうしてデス!」
歌に集中していた仔実装は虚ろな瞳で親を見上げた。「…テェ?」
それでも彼女は追及を緩めなかった。それどころか仔実装の前髪を引っつかみ、グイッと仰け反らせる。
「テヒュゥ!やめテチュ!ごめんなさいテス!もうお歌は歌わないテチ!」
「…」賢い。なんと賢い仔なのだろう。ワケが分からずに泣き喚いて糞を漏らしてもおかしくないのに、
即座にその理由を把握してしまった。「…どうしてデス」ようやくグリは仔実装の拘束を解いた。
「どうしてオマエがその歌を知ってるデス」
知っているわけがない。幾分調子っ外れではあったが、その歌は確かにあの歌だった。あのニンゲンが
歌っていた歌。この仔がどうしてあの歌を知ることができたのだろう。やはりこの仔はあのニンゲンが…
「テホッ、ェホッ…ママが歌ってるのをマネッコしたテチィ…」
「そうデスか…」
不思議と納得できてしまった。
この仔があの歌を知っていた理由も。
自身が意識せずに歌っていた事も。


そして綻びは、とうとう目に見える形で現れてきた。
開け放たれたドア、という形で以って。
「グリちゃん、お留守番おねがいね!」
女はゴミ収集の時間に間に合うように慌てて飛び出していった。
「デェ…」
グリはただ立ち尽くし、外の世界を眺めた。

久しぶりに見たその景色はどこか懐かしくもあった。
あの日、ワタシはあのドアの外に出て…戻ってきた。
戻ってきた?
どこから?
どこに?

彼女はやがて、認めた。
「ママ、どうしたテチュ?」
「…」あの日ドアが開いていたのは偶然じゃなかった。
「お外に出ちゃいけないってドレイが言ってたテス」仔は必死で親の手を引っ張る。
「…」しかし彼女は動かなかった。
「駄目テチュゥ!」
「このオウチには…もういられないデス」
「何でテチュ?」仔には理解できなかった。「ゴハンも、服も、お風呂も、何でもあるテチィ!」
「…」だからだという事を、この仔も理解できる時が来るだろうか。
「お外は怖い怖いニンゲンがたくさんいるってドレイが言ってたテチ!」
「…」あのニンゲンはワタシを待っている。
「怖いニンゲンはイヤイヤテスゥ!」
「…」今日もあの家のドアを開けて。
「駄目テチュゥウ!」
「…」ワタシでなければ、高貴で美しいワタシでなければ駄目なのだ。
「テチィイイ…」仔は必死で親を引き止めた。もちろん小さな自分の力では本当に親を止める事は
できないのはわかっている。ただ、ドレイが帰ってくるまでの時間を稼ぎたかった。
「…」やがてグリは足を動かした。
「テァ?」仔実装は引きずられる。
「…」二歩目。
「駄目テチィ!ドレイがいないとワタチたちは何にもできないテチュー!」
「…」賢い。なんと賢い仔だろう。本当にワタシの仔なのだろうか。

そう。ワタシ達は儚い。それはワタシ達だってわかっている。
だから媚びる。だから喚く。だから縋る。だから…だから…
そう。わかっている。儚い、余りにも微かな生———自分たちでも実感がない程の。
死にたくない、死にたくない、そうやって暴れ泣き叫ぶのはそうする事で実感が得られるから。
仔供を殺さないで、なんていうのも同じ。仔実装なんて幾らでも産める。それでも泣く。
「あの家」にはあった。ソレがあった。
実感があった。生きているという確かな感覚———或いはスリルにも似た。
今日こそ殺されるかもしれない。今日こそ殺して欲しい。軽薄な生命観だからこそそう思った。
しかし、毎日の苦行が終わりぼろぼろの身体と朦朧とした意識の中で、それでも思う。

あぁ、ワタシはまだ生きている。

強力な再生力で身体が修復されていくのが実感できる。
めためたに罵られても“やっぱりワタシはカワイイ”と確信できる。
ボロボロの裸を見下ろしてやはりワタシは美しいと断言できる。
明日こそは我が仔に会えるのだろうかと切望できる。
「この家」には、なかった。
この家にいたら、全てが満たされてしまう。
渇望。
コンペイトウが欲しい
オヨウフクが欲しい
コドモが欲しい
オウチが欲しい
オフロが欲しい
ドレイが欲しい
欲しい。欲しい。欲しい。

「ママー!」
「…ェ?」足元の絶叫で彼女は我に返った。
「お外は駄目テチ!」
「オマエは本当に賢いデスゥ」グリは仔実装の頭を撫でた。
「テェ?」
「やっぱりオマエはママの仔デス。でも、今日でお別れデス…」
「嫌テチュ!」仔実装は首をぷるぷる振り回す。「ママと一緒がいいテチ!」
「駄目デス。オマエはこのオウチを支配するデス」
「いやいやテチ!一緒に行くテチュ!」
「デスゥ…」
己の姿が玄関の鏡に映っているのに彼女は気づいた。
この髪はさぞかし引っこ抜き甲斐があるだろう。
この服もどれだけひん剥き甲斐があるだろう。
肥えた舌は自分の糞なんか吐き出してしまう。
ああ、あのクソニンゲンは上げられたワタシを落とし、どれだけ喜ぶのだろう。

それにこの仔。
しかしこの仔は手強いぞ。賢く、忍耐力のある仔だ。
何といってあのニンゲンの仔。
それでもアイツは糞蟲化させる為に嬉々としてこの仔を追い詰めるだろう。

二匹は手を繋ぎ、歩く。
「ママ、どこに行くテチィ?」
「オウチに帰るデス」

ここからどれだけ遠いのかわからない。
どこにあるのかもわからない。
一生たどり着かないのかもしれない。
きっときっと長いみちのり。
それでも親子はやっと家路につくことができた。









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タイトルは荒俣宏先生の小説からパクらせていただきました。ごめんなさい。



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1 Re: Name:匿名石 2023/08/31-16:11:56 No:00007914[申告]
飼い主の女は障害持ってそう
2 Re: Name:匿名石 2023/08/31-20:13:08 No:00007917[申告]
男が逃がしたのはわざとだけど女も「どうやって逃げてきたのかしら」とか言動が妙だね
でもグルだとこの発言は出ないか…
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