腹が減っていた。男は立ち上がると食事の用意を始める。 男はいつもの調子で卵焼きを作ってしまっていることに気付いて苦笑した。 もうブラウはいない。甘い卵焼きを食べる者は、誰もいないのだ。 酒の勢いもあってか男は自分で作った卵焼きを食べ始める。 一切れ口に運ぶ。 『こほん。誘拐犯、今すぐママを返してここから出すカチラ!』 一切れ口に運ぶ。 『素敵な名前カチラ♪ 今日から私の名前は『ブラウ』カチラ。キムじゃなくて、ブラウカチラ♪』 一切れ口に運ぶ。 『ブラウにも読めるけど、それでも人間さんに読んでほしいカチラ』 一切れ口に運ぶ。 『! ママ、大好きカチラー!』 一切れ口に運ぶ。 『ママ、すごいカシラ? ブラウきちんと弾けてたカシラ?』 一切れ口に運ぶ。 『ほっぺすりすり気持ちいいカシラー♪』 最後の一切れを口に運ぶ。 『ううん。すごく嬉しいカシラ♪ ママ、似合うカシラ?』 一切れ食べるごとにブラウの思い出が頭の中に浮かぶ。 卵焼きの甘い味付けと共に涙の味が口中に広がる。 全てを食べ終わる頃には、男は嗚咽を漏らしていた。 「う……ぐ…ブラウ……ブラウ…っ」 棚の上にまるで展示されているかのように大事に置いてあるブラウの偽石を手に取る。 座布団を枕の代わりにすると、寝転んで偽石を眺めた。 「ブラウ……俺には………わからないんだ…どうすればいいのか…… 苦しい…悲しい……会いたい………もう一度会いたいんだ……ブラウ…」 絞り出すようにそう声に出すと、手に灰色の偽石を持ったまま、男は深い眠りに落ちていった—— 今日は嬉しい日。ママとトシアキが私の記念日を祝ってくれる日。 窓ガラスに映った自分のドレスをまじまじと見つめる。ママが昨日買ってくれた服。 嬉しい気持ちが押さえきれなくなった私は、 バイオリンを手に取ると小躍りしながら『赤とんぼ』を演奏し始める。 ママに買ってもらったドレス。ママにプレゼントしてもらったバイオリン。ママに初めて褒めてもらった曲。 ああ、早くママたち帰ってこないかな。トシアキにもこの姿を見てもらいたいな。 本当はあんまりうるさくしちゃいけないんだけど、嬉しくて弓を持つ右手が止まらない。 テーブルをステージに私だけの演奏会。すぐに、私とママとトシアキの演奏会になる。 今日は嬉しい日。もうすぐ、楽しくなる日。 気持ちよくバイオリンを弾いていると、ママの…いや、産んでくれたママのお墓に、 緑色の何かが集まっているのが見えた。あれは……嫌。嫌、あれは、実装石… 沢山の数で襲ってきて、産んでくれたママに大怪我を負わせ、死なせた生き物。 私の体が引きつったように固まる。動かなきゃ。あの生き物、実装石の視界から消えなきゃ! でも……私の体は動かない。体が覚えているんだ。 あの日、ママの腕の中で震えていた記憶を。 悪意を撒き散らしながら、歯を剥き出しにし、赤と緑のオッドアイを光らせて追ってくるたくさんの影を。 きっとこういうのをトラウマ、って言うんだ。お願い、動いて、私の体! ああ、お供え物の卵焼きを食べていた小さな実装石が私の方を見た……! 「ママ、あそこに実装金がいるテチ」 「デス? 飼い実装金がいるということは飼い主のニンゲンもいるデスゥ?」 私は硬直する体を無理矢理動かし、棚の後ろの小さなスペースに隠れた。 お願い、このままどこかへ行って…… 「どうやらニンゲンはいないみたいテスゥ」 「デププ。お前たち、これからニンゲンの家の襲い方を教えるデス。 ニンゲンはバカだけどおいしいモノを沢山貯め込んでるデッスゥ」 「ステーキ食べたいテチ」 「これからガラスを割るから、お前たちは少し離れているデス」 ガシャン、と大きな音がした。実装石が部屋の中に入ってきたんだ! 私は棚の後ろでへたれこんでしまう。 恐怖で指一本動かせない。 「石をこんな風に使うなんてママは天才テスー」 「さあ、ママが持ち上げてあげるから中に入るデス」 「一番乗りテチー♪」 「ワタシは石を踏んで自分で上がるテスゥ」 「それじゃ、食べ物を探すデス。 経験から言うと、あのレイゾウコというものに冷えた食べ物がいっぱい入ってるデスゥ」 「ママ、さすがテチ」 がさがさと音がする。あちこちを探し回ってるんだ。 助けて、ママ。助けて、トシアキ…… 「ママー。さっき見た実装金がいないテチ」 「放っておくデス。成長した実装金の肉は不味いデス。ニンゲンの食料が先デス」 「このふかふかしたモノすごいテス! きっとこれが噂の『ベッド』テッスゥ!」 怖い。怖いよ、ママ。この音…きっと実装石が私のベッドで遊んでるんだ。 そうだ、バイオリン。このママからもらった大切なバイオリンだけは守らなくちゃ…! 「あったデス。食べ物デスゥ。デププ、肉がたくさんあるデス。こっちには卵デス」 「ふかふかのベッドに冷たい風が吹いてくる機械テス! ママ、ここを新しい家にするテスゥ!!」 「ダメデスゥ。ニンゲンが帰ってきたら捕まってしまうデス。 賢いワタシはニンゲンを言い負かすことが出来るデス。でも、お前たちは殺されてしまうデスー だから、ニンゲンが帰ってくる前に肉や卵を食べるだけ食べて逃げるデッス」 中くらいの実装石と、大きな実装石が話してる。 もう一匹、小さな実装石は……? 「ママ、見つけたテチ。実装金テチ。こんなところに隠れてたテチ」 ひっ……逃げなきゃ…でも、体が動かない……怖いよ、助けて…ママ……! 「ワタシたちから隠れるとは生意気テス。一気に引っ張り出すテス」 「わかったテチ。お姉ちゃん、一緒に引きずり出すテチ」 やめて! やめて! 来ないで! 「コイツ、変なもの抱えてるテチ」 「知ってるテス。これはギターというモノテス。 美しいワタシが弾いてやるから貸すテス」 ダメ、このバイオリンはママからもらった私の宝物なの! 「テッシャアアァァ! このブスが! 醜いくせに抵抗するなテス!!」 が……ぁ…痛、い… 息が…できな…… お、お願い……バイオリンを、乱暴に扱わないで… 「チププププ。お姉ちゃんのパンチでグロッキーテチ。コイツ弱っちぃテチ」 「この高そうなギターは高貴なワタシにこそふさわしいテッスゥ。テププ、キレイな装飾テス」 「お姉ちゃん、弾いてみてテチ」 「ワタシの美しい旋律に酔うテスー♪ テス、テテ? 音が鳴らないテス。ぶっ壊れてるテス! 不良品テス! こんなガラクタを大事に抱えてるなんて、コイツはバカテス!!」 ああぁ… そんなに叩き付けたら、壊れちゃう… ごめんなさい、ママ……ママがくれたバイオリン…… 「テスー、テスー…音が出なくても、このデザインだけは気に入ったテス。 このギターはワタシがもらっていってやるから感謝しろテス」 「お前たち、何を遊んでるデス。食べ物を見つけたデス。 さっさと食べて逃げるのが得策デスゥ。デス? この実装金、綺麗な服を着てるデス。気に入らないデッスゥ……」 大きな実装石……嫌ぁ…怖い……助けて…助けて…! 口を大きく開けて、こっちに来る…! ママ! ママー! ……っ!! 痛ぁい! 腕が! 私の腕が!! 熱い! 痛い…! 助けて、ママぁ! トシアキ! 「デップゥ。やっぱり実装金の肉は不味いデス。 お前たちはこっちの唐揚げを食べるデスゥ。 ワタシは別の食べ物をレイゾウコから探すデス」 「わかったテス。肉テス肉テスー♪」 「ママ、その実装金の腕ワタチにちょうだいテチ。くんしょうテチ」 「デププ。コイツ腕が取れたくらいで死にそうデスゥ。 本当に実装金はバカでブスで弱くて救いようが無いデス」 痛い…痛い……っ! 早く、玄関に……ママが帰ってくるドアに… 実装伝言ログ…ママに……メッセージを…… 助け…て……マ…マ……… 「うおおおおぉぉっ!!」 男は汗だらけで飛び起きる。まだ夜が明けたばかりで、外は薄暗かった。 何キロも走ってきたかのように男の息は荒い。 ——さっきのは、夢? だが、それにしては生々しい… 今もはっきりと腕を噛み千切られた感触を思い出せる。 ふと、男が手の中の偽石を見ると、ぼんやりと黄色い光を放っている。 「ブラウ…? ブラウ!」 すぐに偽石の光は薄くなり、消えてしまう。 だが、男は確信めいたものを得ていた。 「……今の夢は…ブラウが……死ぬ前に体験した出来事だ……!」 ——何てことだ。ブラウは、実装石に親を殺されていた。 それがトラウマになってあいつらから逃げられなかった。 俺のせいだ。俺がブラウを死なせた。 ブラウが外に出たがらないことも、母親がどうして傷を負ったのかも。 気づけたはずだった。話を聞いてやれたはずだった。 そしてガラスを強化ガラスに変えることでブラウは死ぬことはなかったはず…… だが、ブラウを死なせた犯人は俺だけじゃない。俺は、責任を持って嘘を暴かなければならない。 男は風呂場へ向かうと、洗面器に水を張り、眠っている実装石に勢いよく浴びせかけた。 跳ね起きた実装石の襟首を掴んでバスタブから引きずり出す男。 「お前……ブラウを…無抵抗の実装金を、殺したな…?」 「デデ!? ど、どうしてそんなことを聞くデ」 「答えろ!!」 「デデ……デ…」 襟首を掴んだまま激しく揺さぶると、 観念したかのように自嘲的な声を上げる実装石。 「監視カメラでもついてたのデス…? その通りデスゥ。 あの実装金はうちの娘を襲ったりしていないデス。 逆にただ隠れていたところを娘に見つかっていたのデス」 「…俺は……悲しみで……としあきは……怒りで…気付かなかった…… ブラウは……実装金は、罠を張るのが得意…… 戦うにしても……逃げるにしても…効率のいい方法を取れたはず…… だが…産みの母親を実装石に殺されていたブラウは……トラウマで、動けなかった…」 「棒立ちでワタシの娘に殴られていたデス。デププ、弱い実装金デス」 もはや悪意を隠そうともしない。 「…何故だ……どうして殺した…!?」 「許せなかったデス… ワタシたちが、寒い日はアカギレと凍死に苦しみながら必死に食べ物を探していた時に、 あの実装金はきっと暖かい部屋で何の苦労もなく生活をしていたデス。 ワタシたちが、暑い日に同族食いから逃げながら腐った食べ物で飢えを凌いでいた時に、 あの実装金は涼しい部屋で白い綺麗なドレスを着て楽器を弾いたデス。 何もかも、気に入らなかったデスゥ」 「それだけか! たったそれだけの理由で殺したのか…!?」 「デッジャアアァァ!! 腕を食い千切られたくらいで死ぬ弱い生き物が、 何の苦労もリスクも負わずに生きていられるのがおかしいのデス!! バカで醜い実装金に贅沢な生活をさせた、クソニンゲンの責任デッズァ!!」 「黙れ……ブラウを、侮辱するなぁぁぁぁぁ!!」 男が実装石の右腕を力任せに千切り取る。 「デッギャアアアァァァ!?」 「これが……ブラウの痛みだ…ブラウの、ブラウを殺された恨みだ…!」 「デヒィ デヒッ デププ…クソニンゲン、ワタシを殺せばいいデス!! ワタシを殺して、その罪で地獄に落ちるデス! オマエとあの実装金は、二度と会えないのデズゥゥゥ!!」 「黙れぇぇぇ!!」 男は実装石の真上から拳を振り下ろす。 男の巨躯は、それだけで醜悪な実装石をただの赤緑の染みに変えた—— どれだけの時間、男は黙って立ち尽くしていただろうか。 いつの間にかとしあきが部屋の中に入ってきていた。 また合い鍵使わせてもらったぞ、と言うと男の隣へ来るとしあき。 「殺したんだな。答えは出たのか?」 「…いや……答えは、出なかった……」 バスタブの縁に腰掛ける男。 「だが…決着はついた……そこにあるのは、悪意の残滓だ……」 「そうか。お前がそう感じたんだったら、それは正しいよ。 何せ、これはお前の問題で、お前だけにケリがつけられるんだからな」 重ねたティッシュで実装石だったものの残骸を拭き取ると、 シャワーで赤緑の染みを落としていく。 「…いや……違う………俺も、としあきも、ブラウも、その親も…… みんな…実装石という生き物を忘れられない………当事者…だ……」 「ブラウの親? 産みの親か? 何かわかったのか」 「…………」 男の返事は無い。 「話したくないなら別にいい。それで、ブラウのことは?」 としあきの言葉が持つ複数のニュアンスに気付いた男が、としあきの両肩を強く掴む。 「忘れられる訳が……ないだろう…!?」 「……そうだよな。お前の娘で、俺の友達だ。 悪い、今のは無かったことにしてくれ」 男の顔はくしゃくしゃに歪んでいて、たくさんの感情がごちゃ混ぜになっていると見て取れた。 としあきは、無神経なことを言ったと自分を恥じた。 「それで、今日はどうするんだ?」 「……ブラウと……産みの親を…実装石の来ない所に葬ってやりたい……」 「よっしゃ、俺も手伝うよ。確か、隣の市との境目あたりが実装石駆除指定地域だったな。 小高い丘があるから、そこに埋め直そう。俺、仲間から車借りてくるよ」 「…すまん……」 「いいよ。いちいちお前は水くさいんだよ」 それから二人は陽の当たる丘に二つの墓を作り直した。 男が膝をつき、墓の前で何かを喋っていたがとしあきは聞かないようにした。 きっとコイツとブラウは二人で話をしているんだ。としあきは、そう考えた。 それから卵焼きとオレンジジュースを二つの新しい墓に供えると、二人は丘を後にした。 ——また日常が戻ってくる。ブラウが居ない日常が。 それでも昇ってくるであろう太陽を、男は少しだけ恨めしそうに見た。 男が部屋の中で一人佇んでいる。 寂しそうな笑みを浮かべて、実装リンガルログのスイッチを押す。 <愛してる> <ずっと……忘れない…> そう呟くと、ゆっくりとスイッチから手を離した。 工事現場で働く筋肉質の男。一年前に、ブラウと名付けられることになる仔実装金を拾った男。 全身汗だらけになりながら、セメントの袋を運んでいる。 あれから男はまた無口になった。としあきは変わらず男の部屋へ酒を持って遊びに来る。 変わらない日々。しかし、大事なものをなくし、命の重さに懊悩を重ねる日々。 そして後悔と罪悪感。それでも男は生きている。ブラウと生きた一年間の思い出と共に。 「おーい! セメントこっちにも持ってきてくれ! 新人のシンゴがコンクリ混ぜるの失敗しておやっさんに絞られてる」 男は声に対し、首を縦に振って答えた。 新しい袋を運びに行く途中、ふと目を向けた工事現場の片隅に、ヒマワリを見つけた。 それは、どこかブラウの笑顔にも似ていた——
