ブラウが男の部屋へ来て1ヶ月が経った。もう夏の暑さはピークを過ぎている。 男は仕事から帰るとすぐに実装金共通の好物である卵焼きを作る。 男が作る卵焼きは味付けこそローゼン社の既製品に頼っていたが、焼き方は既に完璧だった。 しかしその日、ブラウは卵焼きに手をつけていなかった。夏バテだろうか。 「ブラウ……気分が悪いのか…風邪か……?」 「ううん、違うのカチラ」 「……? 卵焼き……飽きたか?」 「そんなことないカチラ! 人間さんの作る卵焼きは絶品カチラ!」 「…じゃあ……どうしたんだ…」 「カチラ……」 ブラウが窓の外を見ている。いや、窓の外にある—— 「…母親の墓を……見ているのか…」 ブラウが無言で頷いた。 「ブラウは、優しい人間さんに拾われて毎日おいしい卵焼きを食べさせてもらえて幸せカチラ。 時々オレンジジュースも飲ませてもらって服も体もキレイに洗ってもらってとってもとっても幸せカチラ」 ブラウの目に涙が浮かぶ。 「でも……ママは、ママはブラウのことを助けたから、死んじゃったカチラ……土の中カチラ…」 「……ブラウ…」 「っく……えっく…この卵焼きを、死んじゃったママにも食べさせてあげたいカチラ……」 「………」 「カチラ……カチラー! カチラぁー!」 もうリンガルにも拾えない大泣き。 同じ光景をまだ名もない仔実装金としてブラウを拾ってきた日に見た。 男は以前は何も出来ずにただ立ち尽くすことしか出来なかった。だが—— ——しっかりしろ俺。俺がこの子を守ると決めたんだろう。 男はブラウの涙を節くれ立った指先でそっと拭った。 「……母親に…卵焼きをやろう…」 「ひっく…えぐ…カチラー……?」 「……丁度…お盆だ……」 「お盆、カチラ?」 「ついてこい……」 「……お外には行きたくないカチラ…」 「…庭に…出るだけだ……」 男は使わなくなった皿に卵焼きの3分の1ほどを切って乗せると、 アパートの庭にあるブラウの母親の墓の前に置いた。 その前で男は静かに合掌する。 「人間さん、何してるのカチラ?」 「墓は……わかるな…自分で言った……から…」 「わかるカチラー」 「……墓に…供え物…えっと、つまり……墓の前に置けば… 墓の主が……食べ…ないけど……な…つまり……満足で…お盆……なんだ…」 「?」 男の話はたどたどしく、いまいち要領を得ない。 「つまり、お墓の前に卵焼きを置けばママが喜んでくれるカチラ?」 これで通じるのだから世の中は不思議である。 「ああ……そうだ…」 「だったら、これでママも卵焼きを食べられたカチラ」 「……ん…」 「人間さん、ありがとうカチラ。ママもきっと天国で喜んでるカチラ」 「……そうだな…」 やっと笑顔が戻ったブラウの頭を撫でると、風呂に入れてやった。 男が髪をタオルで拭いて乾かす。いつもの光景。ただ、その日は少しだけ違った。何かが特別だった。 「ママ、ありがとうカチラ」 「……!?」 男は驚きのあまりタオルを落としてしまう。 ブラウはもじもじと手混ぜをしながら、縦ロールをピョコピョコ動かしている。 「やっぱり変カチラ? やめたほうがいいカチラ?」 「どうして……俺が、ママなんだ…?」 「人間さんは優しくて、あったかくて、まるでママみたいカチラ。 だから、産んでくれたママとは別の新しいママと心の中で思ってたカチラ。 でもやっぱり今のなしカチラ! ごめんなさいカチラ! 忘れてほしいカチラー!」 「……いい…ぞ…」 「カチラ?」 「俺が……お前の、ママになる…」 「! ママ、大好きカチラー!」 気恥ずかしそうに鼻の頭を掻く男と、その首元に抱きつくブラウ。 心の底から温かい何かが湧き出てくるような感情。それを、一人と一匹は共有していた。 次の日の夕方、共に早番だったとしあきと酒を買って家に帰る。 ——ブラウも昨日の一件もあるし、もう人間には慣れただろう。 男がブラウにオレンジジュースと卵焼きを与えると、 二人の男のささやかな飲み会は始まった。 としあきとは終業時間が同じの日に飲む約束をしていた。 以前からとしあきと男はちょくちょく一緒に飲んでいたが、 男がブラウを拾ってからはその世話にかかりきりで疎遠になりがちだったのだ。 ビールを飲みながら饒舌なとしあきが笑い話を男に話して聞かせ、 男は要所要所で相槌を打ちながらその話を聞いていた。 そして5本目のビールを空にした後、事件は起こった。 「そこでしもんきん、しもんきんじゃないかって——うお!?」 「………!?」 としあきが話しながら寝ころんだ頭の先にいつの間にか灰皿があった。 折り畳んで枕代わりにしていた座布団の代わりに灰皿に頭をぶつけた感触が走り、としあきの後ろ髪が灰でひどく汚れた。 「引っ掛かったカチラ! ママの家で煙たい棒をスパスパ吸って空気を汚す極悪人カチラ! ママに代わって成敗カチラ!」 名乗りを上げたブラウを見てとしあきの額に青筋が走る。 「オイ。このおチビちゃんがお前の飼ってる実装金か? やっぱり俺が躾てやるか?」 「チビじゃないカチラー! チビって言ったほうがチビカチラ、この極悪人ー!」 ——喧嘩は収まりそうにないな。このままだと良くない結果になる。 そう思った男はブラウに向けて厳しい言葉を投げかけた。 「……ブラウ…お客さんにいたずらをするのは……とても悪いことだ… …謝るんだ……としあきに……」 「ブラウは間違ったことは何もしてないカチラ」 そっぽを向くブラウ。 ブラウは拾ってくれた男に懐いただけで、人間そのものに心を許したわけではなかったのだ。 男はため息をつき、としあきに濡れタオルを渡した。 「…ブラウ……ママの言うことを聞くんだ…としあきに、謝らなきゃ駄目だ……」 「嫌カチラ!」 「……ブラウ!」 パチン 男がブラウの頬を目掛けて人差し指を払った。 ただそれだけだが男と仔実装金では体格がまるで違う。 ブラウはビンタのようなものをされ、尻餅をついた。 「………カチラー!」 「………」 「ママが……ママがぶったカチラー! カチラー! カチラぁー!」 一瞬静かになったかと思うと火がついたかのように泣き出した。 「…ブラウ……俺だってこんなことは…したくない… ただ、いけないことをブラウが平気でするのが……見ていられないんだ… ブラウ……わかってくれ……」 「カチラぁ……」 ブラウがぐずりながらとしあきの前へとゆっくりと歩く。 「…ごめんなさいカチラ……」 としあきはタオルを畳んでテーブルの上に置くと、 「いいよ、チビ。ちゃんと謝れたんなら文句はないよ」 「カチラ。トシアキ、ありがとうカチラ」 「…さんをつけろよデコ助野郎ぉ!」 「カチラっ!?」 としあきが指先でブラウの割と広めの額を小突く。 「お前に呼び捨てにされる謂れはねぇー!」 「カチラ! トシアキはトシアキカチラー!」 「としあき……ブラウも…親しみを持ったから、その……呼び捨てにしてると…」 「あーもう、コイツはコイツで親バカだし! やぁっぱ『躾』しちまうかな……?」 としあきが常備している虐待七つ道具を取り出そうとしているのを男が必死に止めようと押さえ付ける。 ブラウはその姿がおかしいのか、ただ単に危機感がないのか、笑って男を応援している。 何だかんだ言ってとしあきも本気で怒っている訳ではなかった。この日、ブラウにケンカ友達(?)ができた。 その日から、ちょくちょくとしあきは酒を持って男の部屋に遊びに来た。 良いリアクションをする仔実装金をからかうのが、気に入ったようだった—— 数ヶ月が経ち、仔実装金だったブラウは見た目も鳴き声もすっかり成体実装金になっていた。 男はペットショップで実装金向けの冬物の服を店員に見繕ってもらっていた。 「こちらなどいかがでしょう?」 「……服のことは…わからない……暖かそうなのを3着ほど…頼む…」 「はい、少々お待ち下さい」 店員が服を選んでくれている時、男の目に小さなバイオリンが映った。 『新入荷! 実装金用バイオリン』 ガラスケースの中には様々なバイオリンが並んでいた。 子供の玩具同然のものから、本格的な音が出るもの。 対実装石用の、共鳴作用で偽石を破壊する小型実装音叉の代わりをするようなものまである。護身用か、虐殺用か。 「お客様、成体になった実装金ちゃんのためにバイオリンはいかがでしょうか?」 「………」 「種族としてバイオリンと傘を好む傾向にあるので、きっと喜ぶと思いますよ」 「……あれは…?」 「あちらは、本物のバイオリンをそのまま実装金サイズにした本物指向で、 趣向を凝らした作りから少々値段が張りますが」 そこで区切ると店員は営業スマイルをフル稼働。 「音楽性を理解する子なら、とても気に入ると思います!」 「………」 ——ブラウはよく音楽番組を見てたな。教育番組から流行音楽まで。 冬のボーナスも入ったし、ここは奮発するか。 「……そのバイオリンも包んでくれ…」 「はい♪ お買い上げありがとうございます。 いつもご贔屓にしていただいているので、サービスで『実装伝言ログ』をお付け致しますね」 「……伝言…ログ…」 「はぁい。忙しい日に実装金ちゃんが眠る前に言葉を残したり、 お客様が出かける前に実装金ちゃんがまだ眠っていたら言葉を入力しておいたり。 双方向翻訳対応、実装リンガルの派生商品となっております。 使い方は簡単、ボタンを押してマイクに喋るだけ。全実装シリーズに対応しております」 「……ありがとう…いただいておく……」 すっかり常連になった男は軽くなった財布と少し重くなった買い物袋を持って家路へ着いた。 後ろで店員が「予想通り」といった風なダークスマイルを浮かべていたが、男が知る由も無かった。 家に帰り着くと、ブラウがおしぼりを持って男を迎えた。 実装金の力では微妙に水気を絞りきれてないので、どちらかというと濡れた布巾という感じだが いつものことなので男は気にせず手を拭いた。 「ママ、お帰りなさいカシラ」 「ただいま…おみやげ……買ってきた……」 「わーい、ママありがとうカシラ♪」 「包み……開けてみてくれ…」 「何カシラ何カシラ?」 ブラウは縦ロールを落ち着かなく動かしながら時間をかけて包装紙を取り払った。 中にある木で出来た新品のバイオリンを見て、嬉しさと驚きを隠しきれない。 「ママ、これ、ブラウのもの、カシラ…?」 「……ああ…」 「ママ大好きカシラー!!」 首元に抱きついてくるブラウ。男の厳つい顔の口元がほころぶ。 「これ……高そうカシラ。服も買ってきてくれて、ママ大変じゃないカシラ…?」 「子供は……そういう心配はしなくていい…それより、弾いて見せてくれ……」 「ママありがとうカシラ。やってみるカシラ!」 公営放送のクラシック番組で見たことがあるのか、バイオリンを持つブラウの姿は様になっている。 発表会か何かのように緊張した面持ちのブラウ。息を飲む男。急に辺りが静かになった。 そして、弦に当てた弓を引いた—— キー…… 「! 鳴ったカシラ! 鳴ったカシラ、ママ!」 「……ん…そうだな……」 「ママ、ブラウ毎日練習するカシラ! 絶対上手くなってみせるカシラ!」 「ああ……楽しみにしてる…」 ブラウは縦ロールを左右に揺らしながら夢中になって弦を鳴らしていた。 男はその、まだ音楽にならない『音』を聞きながら溶き卵に砂糖とみりんを混ぜ、 ブラウが好きな味付けに調整した卵焼きを焼いた。もうお手の物である。 お隣さんは居ないけれど夜遅くまで練習しないことと、冷めないうちに卵焼きを食べること、 それと実装伝言ログのことを簡単に説明すると、男は炬燵に入りビールを静かに飲んだ。 次の日、男が帰ると部屋が真っ暗だった。普段は男の帰りが遅い日はブラウが明かりをつけている。 手探りでスイッチを入れると、ブラウがバイオリンを抱いたまま部屋の壁にもたれ掛かっていた。 ——こんなに寒い日に毛布もかけないで。手もこんなに冷たくなってるじゃないか。 玄関の実装伝言ログのボタンを押す。 <ママ、出来たカシラ!> <出来たカシラ出来たカシラ!> <夕方の音楽がブラウにも出来たカシラー!> さっぱり要領を得なかった。とりあえずこのままにしておくこともできないのでブラウに声をかける男。 「……おい…ブラウ…起きろ……」 「…カ…シラ……?」 「……風邪、ひく…寝るなら…ベッドに……」 「カシラー!」 ガバッと起きあがるブラウ。驚く男。 「ママ、バイオリン弾けるようになったカシラ! 聴いてほしくて頑張ったカシラ!」 「……バイオリン…練習してて……途中で眠ったのか…?」 「カシラ……疲れていつの間にか眠っちゃったカシラ。 でもでも、弾けるようになったのカシラー!」 ブラウがテーブルの上にのぼり、バイオリンを構える。 夕焼け小焼けの 赤とんぼ おわれて見たのは いつの日か 「赤とんぼ……弾けるようになったのか…」 「カシラ♪ ちゃんと音が出せるようになってから最初に弾けるようになったカシラ♪」 ——そういえば、ここら辺のゴミ収集車の音楽がこれだったか。聴く機会が多いからメロディを覚えたんだな。 「ママ、すごいカシラ? ブラウきちんと弾けてたカシラ?」 ——すごい。はっきり言って、一日でちゃんとした音が出せるようになるとは思わなかった。 他の実装金もこんな感じなんだろうか。他の実装金……そういえば、今月号の『実と装』に書いてあったな。 『うちで飼ってるのは実装金です☆ 名前はカナちゃん。 特技はお洗濯でいつもお手伝いしてくれます。 よく出来た時には頬ずりしてあげると大喜びします。 ただ、摩擦熱でまさちゅーせっちゅにならないように要注意! アパレル関係OL 20代女』 ——まさちゅーせっちゅって何だ。全然わからん。だが、頬ずりしてあげると喜ぶらしいな。 男はブラウを抱き上げると、少し躊躇いがちに頬ずりをした。 「ブラウ……よく出来たな…」 「ママ、おヒゲがちくちくしてくすぐったいカシラー」 ブラウは縦ロールを犬の尻尾のように振っている。本当に喜んでいるようだった。 男はその日、オレンジジュースをおかわりさせた。男も自分のことのように喜んでいる。 ブラウは昼寝したのと褒めてもらったことで興奮気味になったらしく、その日はなかなか寝付けなかったようだ。 ブラウは男が仕事へ行く時間になってもまだ眠っていた。 男は実装伝言ログに食事のことと、睡眠時間を正すように注意の言葉を入れると仕事へ行った。 としあきが部屋の扉を勢い良く開け、勝手を知る我が家と言わんばかりに部屋に入る。 男も酒や食料が入ったビニール袋を両手に持ってその後に続く。 「よっ チビ。元気にしてたか」 「ただいま……ブラウ…」 「ママ、おかえりなさいカシラ。トシアキ、チビって呼ぶのは止めてほしいカシラー。もうブラウは大人カシラ」 「お前が俺のこと呼び捨てにするのを止めたら考えてやるよチビ。 おお。本当にバイオリン買ってやったんだな。しかもすげぇ高いやつ」 「……ん…ボーナスが…入ったからな……三週間前に……買った…」 「お前、本当に実装金が趣味って感じだな。 あそこのペットショップの実装用の服の種類、甘ロリ系が増えたし 絶対お前の財布狙われてるって。 まぁ俺もボーナスは実装石の虐待なんておおっぴらに言えない趣味につぎ込んだけどな」 一瞬ブラウが硬直し、縦ロールがビクッと跳ねた。 しかし男もとしあきもそのことに気付かない。 「今日は久しぶりだ。とっとと飲み始めようぜ」 「…そうだな……ブラウ…コップを頼む……」 「わかったカシラー」 とてとてと台所からコップを持ってくる。 「可愛いお嬢ちゃんにお酌してほしいなー」 「トシアキはこういう時だけ調子いいカシラー。 はい、ママのコップにもお酒カシラ」 「……ありがとう…」 「それじゃ、乾杯!」 「…乾杯……」 男二人がコップを合わせ、一気に呷る。 「っかー、やっぱ寒い時は日本酒だな。 そういやチビ。お前もうバイオリン使いこなせるのか?」 「ふふんカシラ。教本も買ってもらってもうバッチリって感じカシラー」 「んじゃ、あれ弾いてくれ。コーラのCMで流れてるやつ」 「確か……こんな感じだったカシラ?」 ブラウが器用にCMのテーマソングを弾いてみせる。 「おー、おー、いいね。んじゃ次、昨日の7時にやってたあのアニメの主題歌」 「いかにもトシアキが好きそうだったから覚えておいたカシラー」 「気遣いは嬉しいが言い方がいちいち引っ掛かるんだよデコ助野郎」 「デコ助じゃないカシラー! 野郎でもないカシラーー!!」 ブラウの演奏するアニソンが荒れ気味になる。 「…としあきは、照れてるんだ……よく照れ隠しに悪態をつく……」 「うるさいな、黙って飲んでろよ」 そっぽを向いてコップに入っている酒を一気に飲み干すとしあき。 「……よく弾けたな…ブラウ……偉いぞ…」 「ほっぺすりすり気持ちいいカシラー♪」 「うわ。うわうわ。お前普段チビに頬ずりとかしてるのか?」 ——げっ。いつもの調子で人前なのに頬ずりしてしまった。 「ご近所のみなさーん! いい年したごっつい男が飼ってる実装金に頬ずりしてますよー!」 「……近所は…居ない…二階にしか…」 「きっと普段は赤ちゃん言葉で話してますよー!」 「そんなこと……するか…!」 今度は男がそっぽを向く番だった。瓶に残っている酒を一気に呷る。 ヤケになっているようにも見えた。 「ははは、いい大人がいじけてるぜ。 お。そういやチビに面白いもの買ってきたんだよ」 「何カシラ?」 「スクリュードライバー。オレンジジュースの酒だよ」 「オレンジジュースカシラ! 飲んでみたいカシラー!」 「ほら、お前のママンがあっち向いてる間に飲め飲め」 「トシアキありがとうカシラー。いただきますカシラ♪」 小さなコップを持ってきて缶チューハイを注いでもらうブラウ。 匂いを嗅ぐと、一気に飲み干した。 「あ……こら、ブラウに酒を…!」 「いいじゃねーか。飲ませたらどうなるんだ?」 「…飲ませたことがない……わからん…」 コップを口元に持ったまま固まっていたブラウが大きなしゃっくりをした。 それと同時に縦ロールが後ろにピンと逆立つ。 「カシラー! カシラカシラカシラー!!」 「な、何だ。なんて言ってるんだ?」 「……リンガルに…翻訳不能と…」 「きんもちいいカシラーっっっ!!」 急に両手両足両縦ロールをピンと張って大声で叫んだ。 としあきが驚いてコップを落としそうになる。男は落とした。 「最高にハイ!ってやつカシラー!」 そう叫ぶとテーブルをステージに軽くステップを踏み、 バイオリンでジャズミュージックを演奏し始めた。 「ぷ……あははは、いいぞチビー! ノってるじゃねーか!」 としあきが笑ってコップを箸で叩き、リズムに合わせる。 男は零れた酒を拭くと、ドンチャン騒ぎを楽しそうに見ていた。 こんな時間が永遠に続けばいいのに。この場にいる誰もがそう考えた—— 冬、春と季節は巡る。その間、男ととしあきとブラウは楽しく過ごした。 夕暮れに男の膝の上で見様見真似のクラシックを弾くブラウ。 ブラウをからかうとしあき。そのとしあきを逆にからかおうとして、 目の前で卵焼きを一切れブラつかせて美味しそうに食べようとし、結果としあきに卵焼きを食べられてしまったブラウ。 としあきと一気飲みで勝負し、いつも最終的には負ける男。 何か芸をしろ、と無茶振りをするとしあきと、縦ロールでお手玉をしてとしあきを逆に驚かせるブラウ。 酒の勢いでブラウととしあきはコンビでロック・スターを目指すと宣言して男を笑わせた。 そうしている間に、また夏がやってきた。
