『殺したい糞蟲』 ────────────────────────────── 「ただいま」男が、家に帰ってきた。高層マンションの36階、2L DKだが、リビングは20畳もある。 しかし、せっかくのリビングも、物は散らかり放題、宅配ピザのケ ースや食べ残し、ペットボトル、コンビニエンス・ストアの袋が散 乱しており、足の踏み場もない。昔はこんなんじゃなかったのに、 とため息をつきながらネクタイを緩め、「おーい、帰ったぞ」。 ダイニング、浴室、トイレ、最後に寝室と、男は順番に部屋の中を のぞいていったが、見つからない。「おかしいなあ」 紙袋をキッチンのテーブルの上に置く。「ジョゼフィーヌ、お前の 好きなアンリ・シャルパンティエのクレープシュゼットを買ってき たぞー」 返答がない。いつもなら、涎を垂らしながら突進してくる筈なのに。 「俺一人で食べちゃうぞー」言って、一切れ口に運ぶ。カラメルの 甘さがほんのり口中に広がる。旨い。クレープシュゼットを初めて 食べたのは昨年のことだ。ジョゼフィーヌと一緒に見ていたテレビ 番組で紹介され、彼女が食べたそうにしていたから、わざわざ買っ てきた。「美味しいテチー」と両手をぶんぶん振り回して喜んでく れたっけ。「こんな美味しい物を食べられて、ワタチは本当に幸せ テチ」 「それがどうだ!」男は、思わず声を出した。可愛くて、従順で、 自分の身の回りのことはもちろん、家の片付けだってできた、お利 口な実装石が、あっと言う間に糞蟲と化した! 甘やかせて育てた のが良くなかったのか。 男は、幸いにも仕事に恵まれていた。一人暮らしの寂しさを紛らわ せるために、血統書つきの実装石を求め、一緒に暮らし始めた。し かし、仕事の忙しさにかまけ、十分に躾ができない。かまってやれ ない後ろめたさが実装石の贅沢を許し、半年も経たないうちに糞蟲 様だ! しばらく、ゴミ屋敷と化した部屋を呆然と見つめた。すると、静寂 を破る電話の呼び出し音。男は実装石のジョゼフィーヌが姿を見せ ないことを忘れ、のろのろと受話器を上げた。 「……さんだな」不自然にくぐもった、男の声。 「はぁ。どちら様で?」 「お宅の可愛い実装石を預かっている」 え、うん、ああ!? ジョゼフィーヌを預かっている? 実装石を誘 拐!? 「聞こえてんのか、てめぇ。実装石を返して欲しければ300万円用 意するんだ」 あの糞蟲を誘拐? こいつは傑作だ。笑いが止まらない。 「駄目だ、300万円なんてとても用意できる金額じゃない」できな い額じゃないが、する気がない。 「あんたが住んでいるそのマンションを手放せばいいだろう?」 「駄目だ、親の借金の抵当に取られているんだ。一銭の価値もない」 平気で嘘を言う。 「じゃあ、いくらなら用意できるんだ」一円だって払う気がない。 黙っていると、男が勝手に値を下げてきた。 「200万円でどうだ……駄目? じゃあ100万円……まだ高い? う ーん、50万円、それなら払えるだろう?」ペットショップで購入し た時の金額までディスカウントされた。あの時の、愛くるしい仔実 装なら、その金額で納得する人間もいるだろうが、たかが糞蟲にど うして50万円も払えるか。 ふと、男は閃いた。「ちょっと待ってくれ」と受話器の向こうの男 に断り、戸棚の書類入れを漁る。あった。実装石を買った時に貰っ た血統書と……保険証。事故にあった場合は最大で50万円、事件で 命を落とした時は最大200万円の保険が下りる! ペットショップ で払った金額には、この掛け捨ての保険加入料も含まれていたのだ。 興奮を必死で抑えながら、男は電話に戻る。 「も、もし金を払えなかったら、どうなるんだ?」 「ちょ、ちょっと待て。払えないってどういうことだ?」 「だからもしも、だ」 「知れたこと、お前の可愛い実装石はバラバラに刻まれ、公園の野 良実装の餌になる」 声を殺し、ガッツポーズをして満面の笑み。 「わ、わかった。金は何とか工面するからもう1日待ってくれ」 「明日同じ時間に電話をする。くれぐれも警察には通報するな」 受話器を置いて、万歳をする。「神様、ありがとう!」 ※※※ その数時間前、男の部屋のチャイムが鳴らされた。面倒臭そうに、 ドアホンで対応するジョゼフィーヌ。留守番ができるように開発さ れた、実装リンガルがエンベッドされたドアホンである。もちろん、 実装石の背が届く高さに取り付けられている。 「誰デスゥ?」 「クール宅配便でーす。北海道から蟹をお届けにまいりました」 「蟹!? すぐに開けるデス、すぐに持ってくるデス」 エントランスをくぐり抜ける宅配便業者。後ろに小さな影が続く。 エレベーターで36階まで昇り、男の部屋の前に立つ。あらためて呼 び鈴を鳴らす。「デスデスデス」と中から声が聞こえ、実装石がド アを開けた。「待ってたデス」 見知らぬ男が立っていた。宅配便の制服と帽子を身に着けているが、 サングラスとマスクで顔を隠している。ずいと、玄関に体をねじ込 ませる。 「な、何デス? 宅配便じゃデス!? ははぁーん、さてはワタシの 熟れた体が目当ての間男デス? 下僕には内緒にしてやるから、一 発だけやらせてあげるデスゥ」そう言ってジョゼフィーヌは自らぱ んつを下ろそうとした。 侵入者は、これほどの糞蟲を見たことがなかった。後ろを振り返る。 男と同じように、サングラスとマスクで変装した実装石がそこにい た。男は首を傾けて「本当に間違いないか」と訊く。実装石は頷く。 今は見る影もないが、実装石ビューティ・コンクールで優勝を収め た母親の血を引く、紛れもない優秀な種である。 「さ、早くやるデス。下僕が帰ってくるデスゥ」 M字に開脚をして、すっかりその気の実装石を無視し、男は用意し ておいた麻袋をジョゼフィーヌの頭から被せた。 「デププ、茶巾包みデス? マニアックなプレイデス」状況を全く 理解していない実装石。男は手早く袋の口を縛ると、肩に担いだ。 持ち上げられ、ひっくり返され、ようやく自分が置かれている立場 に気づいたジョゼフィーヌ。 「ち、ちょっと待つデス。お前たち何するデス!」 ぼすぼすと袋を殴り、足をばたつかせて暴れるが、非力な実装石の 力では為す術もない。変装した男と実装石はマンションを後にする と、薄汚れた白いバンで立ち去った。 (続く) ────────────────────────────── ※ご存じの方も多いと思いますが、元ネタはベッド・ミドラー主演 のあの映画です。
