実装息仔 ぬめり、と音を立て、先端部が狭い部分を通り抜ける。 あれほどまでに使い込まれた筈の秘壷は、稔明自身を強く、きつく、それでいて ふんわりと温かく包み込んでいく。 段差部分が入り口を潜った直後、突然ぐいっと吸い込まれるような不思議な感覚 に捉われる。 無意識に漏れる情けない声を抑えられず、稔明の敏感な部分は、更に奥深い所 へと導かれた。 熱く火照った肌が触れ合い、汗が額から滑り落ちる。 まるで灼熱の太陽の下にいるかのような、暑さが感じられる。 白く滑らかな、どこか氷を連想させる美しい肌は、妖艶に揺らめき稔明のすべて の動きを受け止めていた。 脳の奥までとろけていくような感覚に支配され、瞬時に陶酔する。 これが、今まで何人もの男達を酔わせてきた、この仔の—— その中に一度入れば、後は難しく考えることなどない。 ただ欲望の、本能の赴くまま、自然に身体が動いていく。 それは機械のように確実で、そして抗し難い法則。 ぬめぬめとした温かい感触に自身を包まれ、絞られ、しごかれながら、稔明は 剥き出しの肉がもたらす甘美な悦楽に恐怖した。 稔明の首に、白く細い腕がかけられる。 軽く引き寄せられ、唇に柔らかなものが触れた。 と同時に、荒々しく舌が捻じ込まれる。 驚愕する隙すら与えられず、稔明の口内は侵入者に支配され、舌の裏側・歯茎・ 口腔内壁までも丁寧に舐め上げられた。 舌先に舌先を合わせられ、クリクリとしごく動作が加わる。 その絶妙な動きのせいで、反射的に伸ばした舌先は、柔らかい唇に挟み込まれた。 それはまるで、舌をフェラチオされているような…… 生まれて初めて味わう高等テクニックに翻弄され、稔明は、身体の中から こみ上げる勢いを抑え切れなくなった。 ——んんっ! んん……!! どくんっ! どくっ、どく………… 「うぐ……は、ぁぁぁぁあああ!!」 止まらない! 射精が、叫び声が止められない! まるで、身体機能をコントロールされているようだ! 射精を終えたはずなのに、稔明の身体はまだ強い快感に捕らわれ続けていた。 脳が悲鳴を上げそうになるほど、きつく苦しい、それでいて甘すぎる陶酔感。 こんなに凄い快感は、今まで味わったことなどない。 そのまま身体の中身まで吸い尽くされてしまうような感覚を覚える頃、稔明の 脳裏には、もはや先ほどまで懸念し続けていた「危険」の存在など、微塵も なくなっていた。 ——てちぃ♪ 再び、熱いキスが繰り返される。 首に巻き付けられた腕は、離れる素振りを見せない。 汗だくになった腰に、細く長い脚が絡みつく。 夜は、まだ当分終わりそうにない—— ※ ※ ※ ——「実装石特殊研究所」 そこは、「」県双葉市逢禰町にある、生物学研究施設である。 生物学と云っても、その名の通り「実装石」のみを専門に取り扱っている。 実装生物関連商品の二大大手企業・ローゼン社とメイデン社両方の支援を受け、 未だ謎の多い実装石について数多くの研究分析を行なっている所である。 どこにでもおり、どんな環境でも適応してしまい、大量に増殖する実装石。 一部の者はペット産業に、一部は畜産に、一部は工業に、そして一部は行き場も なく野良として人間の生活圏をさ迷う。 19世紀末、東ドイツ地方で発見され広まったとされるこの不思議な人型生物は、 あまりにも特殊かつ不可解な生態構造と習性を持っており、発見から150年を経た 現在に於いてなお、その全貌は解明されていない。 世界各国で実装石を巡る専門的な研究が行われているが、ここ「装石特殊研究所」 は、実装石を基にした、或いは実装石に関連する各種産業・工業・科学技術の発展 を目指しており、今も多くのサンプル体を育成しつつ、他に類を見ない独創的な 研究開発に邁進している。 研究所本棟地下二階。 ここには、大規模な実装石育成ルームが設置されている。 各種研究に用いるための実装石を培養・育成しているところで、プロのブリーダー に匹敵するエキスパート達が常勤している。 蛆実装・親指実装・仔実装・成体実装など、全二十種以上に及ぶ細かな分類が 行なわれ、それぞれ隔離されたブロック内で「出番」が来るのを待ち続けている。 そんな施設の中、「第四段階仔実装区分」と銘打たれたエリアに、稔明は配属 されていた。 重いスチールの扉を開け、ほんの数歩歩いてまた別な扉を開け、更にカードキー ロックのかかったメインドアを開く。 数メートルほどの殺菌済み廊下を通り、自分が担当しているMブロックのカテゴリ エリアに入る。 と同時に、四方八方から割れんばかりの鳴き声が轟いた。 テチーテチー、テチーテチー!! ×約15,000 「うぐぉっ?!」 配属されてもう半年以上も経つというのに、いまだにこの大音響の洗礼には慣れない。 稔明は、一瞬後ずさりそうになるが踏み止まり、笑顔で“子供達”の収められた アクリルケースの群れを見回した。 「あいよ、みんなおはよー。 さてと、順番に挨拶していくからねー。 えーと、M1-100…OK、M101-200…OKと。 ——M3201-3300…ありゃりゃ、四体も死んでるか。こりゃあまいったな」 午前中一杯の時間をかけて、無数に配置されたケースの様子を確認していく。 この部屋には、生後三ヶ月を過ぎた、身長15センチ以上20センチ未満の仔実装だけ が集められている。 しかも、いずれも優良個体として認められた親実装からのみ生み出された者達だ。 このブロックは、所謂「良質個体」のみが選別育成されており、そうでない者・ そうでなくなった者はまた別なブロックへ移送される。 実装石の研究実験には、それぞれの個体の性格・性質も大きく関与するため、そう いった細かなチェックとえり分けが大事なのだ。 実装石虐待派でも、愛護派でもない稔明は、その公平な性格を見込まれてこの部署 に配属されていた。 今日のチェックでは713体が死亡、1216体が負傷、26体が行方不明だった。 負傷は不慮の事故で発生する場合もあるからまだ良いが、死亡・行方不明は相当 まずい。 特に後者は、同属食いが発生した証拠になる。 空気口兼食料配給口は仔実装では潜れない位置にある上、ケースは人力でないと 決して開けられないため、個体が外に逃げ出すということは絶対ありえないのだ。 100体ごとに分類されたブロックケースのうち、約6箇所で同属間の虐待または殺害、 捕食が認められたため、小型のフォークリフトのような機械で取り除かれる。 リフトの爪が迫った瞬間、ケース内の仔実装達は己が運命を悟ったようで、悲痛な 悲鳴を上げる。 可哀想に、彼女達はこれから悪質個体管理部署に回され、一匹単位で拘束育成される ことになる。 100匹中たった一匹でも悪質個体がいると、ケース内全てが問答無用で連帯責任を 負わされてしまうという、非情な掟がここにはある。 閉鎖空間内に置かれた実装石は、特に強い個性を持つ個体の性質が感染しやすく なる特徴を持つため、やむを得ないのだ。 事務的に処置を行い、チェック結果を端末に入力後、本日の報告を行う。 別部署の担当者が「荷物」を受け取りに来るまでは、特にすることはない。 稔明は、ふぅとため息をつくと、朝持ち込んだミニペットボトルを手に取った。 今日の交代は午後二時からなので、弁当はその後になる……腹が減るなあ。 そんな独り言を呟いていると、ふと、脇にある分別済みのケースの中で、一匹の 仔実装がしきりに呼びかけているのに気付いた。 それは、身長が21センチ以上に達し、第五段階仔実装区分へ送られる者達が収め られているケースの一つだった。 しかもそれは、明日から行なわれる特殊実験に用いるためより分けられたもので、 特に優秀で大人しい子供達が収まっている。 ケースの中から壁をポムポム叩いて呼びかけているのは、黄色い首輪をつけた 仔実装「ID:M14381」だ。 ここに来てから約二ヶ月、稔明が特に目をかけて育てていた者だった。 稔明がケースに顔を近づけると、ニッコリと微笑みを返す。 つられて笑顔を浮かべた稔明は、もうすぐお別れなんだなと思い返し、ふと悲しい気持ちにとらわれた。 「M14381…いよいよ今日限りだな」 稔明は、呟きながらID:M14381を手の上に乗せた。 テチー? 「お前達は、明日から別なところに行くんだ。そこでも、ちゃんといい子にしてる んだよ?」 テェェ? テチー… 「そんなしょぼくれた顔するなよ。俺まで悲しくなるだろ?」 テチー 「今日は、これからしばらく暇なんだ。最後だし、少し遊んでやるからな」 テッチュウ♪ 両手を挙げて大喜びするID:M14381に、稔明は少しはにかんだ笑顔を向ける。 人差し指と中指で頭をクリクリ撫でてやると、ID:M14381は頬を真っ赤に染めて照れ 笑いを浮かべた。 実装石に特別な感情を持たない稔明だが、このID:M14381だけには妙な思い入れを 抱いていた。 他の個体よりも人懐っこく、そして仕草が面白くて人間味がある。 それに、何より賢くて可愛らしい。 もし叶うなら、上に頼んでこの仔を飼いたい…とすら思うほど、稔明はID:M14381 を好きになっていた。 だが、彼女はあくまで研究用個体であり、一職員が自由にして良いものではない。 もう少しの時間でお別れなのも、上の者達が決めたことで、抗する手段も方法も 理由もない。 実験のために用いられるということは、つまりは死による永遠の別れを意味する。 実験内容は知らないが、一度持ち出されて生きて戻って来た個体の話など、今まで 聞いたことはない。 28にもなって初めて動物に思い入れを抱いた稔明にとって、それはとても厳しく、 しかし受け容れなければならない現実だった。 他の個体の目が届かない所に移動し、たっぷり一時間も遊んだ稔明は、ID:M14381 を両手で包みながらその瞳を見つめた。 テチィィ… 「お別れが近いって、わかるのかな? M14381…」 テェェ… 「ごめんな、俺じゃあどうしようもないんだ」 テチュゥゥ 「明日、さようならだ。せめて、最後に何かしてあげたかったな」 テチーテチー、テチー!! 「M14381…」 仔実装の名前を呟きながら、呼び辛さをあらためて実感する。 もっとすっきりした識別コードをつけてやればいいのにと、稔明はいつも思って いた。 単なるブロックナンバーと通し番号の組み合わせで作られた、無機質な識別ID。 名前らしい名前も与えられることなく、彼女は明日から、どこかでその短い命を 散らすための生活を強要されるのだ。 ——ふと、稔明はある名案を思いついた。 「そうだ。明日、お前に名前をつけてあげるよ」 テチ?! 「せめて、可愛い名前を考えてやるからな。俺にはそれくらいしかできないけど」 テ、テチー、テチー!! 以前、先輩の職員から「実装石は人間から名前を与えられると喜ぶ」という話を 聴いたことがある。 ならば、M14381にとってそれは最高のプレゼントになるだろう。 外から持ち込んだ飲食物は絶対与えられない以上、もうそれしか稔明には思い つかない。 M14381に固く約束をした直後から、早速稔明は頭をフル回転させた。 ※ ※ ※ 翌日、寝不足で少し痛む頭を抱えながら、稔明はいつもの仕事場にやって来ていた。 夕べ、深夜までM14381の名前を考えていたのだが、どうしても良いものが思い つかない。 ミドリ、ぷち、マル、マリ、アンリ、ルミ、レイミィ……色々考えたが、今ひとつ しっくり来ないのだ。 多分、M14381はどんな名前を付けられても喜んでくれると思えたが、だからこそ 逆にいい加減には出来ないと、真面目な稔明は考えていた。 午前中のチェック作業の最中も、名前のことが頭から離れない。 一通りのルーチンワークを済ませ、いつものように飲み物を手に取り一休みする。 行きがけに買ってきて、既に温まってしまった缶コーヒーのラベルや注意書きを、 何気なく読み込む。 どこかに良い名前のヒントがないものかと、必死になっているのだ。 「あ〜、ダメだ。どうしても思いつかねぇ。もっと別な約束にするべきだったかなあ」 ついに弱音が漏れるが、先ほどのチェック時にM14381と目が合った瞬間、彼女が 満面の笑みを浮かべて両手を振っていた光景を思い浮かべる。 相当期待しているのだろう、益々プレッシャーがかかる。 ついに諦めの境地に達しようとした稔明は、M14381というIDから何か名前らしい ものをでっちあげられないかと、とんでもないことを考え出した。 だが、切羽詰ると意外に良いネタを思いつくこともある。 稔明は、IDの分類コードとナンバーを分け、ナンバーを別な文字に変換する事を 考えた。 Mがアルファベットなので、残りの数字を順番に当てはめてみると、A D C H A に なった。 マドチャ、或いはマッドチャ。 いくらなんでもこりゃ酷いと思い、考え直す。 今度は、最初の1と4を14に見立て、アルファベットを当ててみた。 O C H A 「オチャ」 これも、なんか妙だ。 だが、これに最初のMが加わると、「MOCHA」=「モカ」となる。 「モチャ」とも読めるが、モカの方が通りが良さそうだ。 モカ……モカ! なかなか個性的で覚えやすい名前な気がする。 散々考え抜いた後のせいか、稔明は、なんとなく名前っぽい響きに落ち着いた 「それ」に妥協的満足を覚えた。 「M14381、今日からお前の名前は“モカ”だ。いいかい?」 テェェ? テ、テ、テッチャー!! 一瞬目を剥いて驚いた後、M14381…否、あらたに「モカ」となった仔実装は、両手 を挙げてぴょんぴょん飛び跳ね、全身で喜びを表現した。 今まで見たこともないような明るい笑顔に、満足してくれたことを確信する。 稔明は、手の上にモカを乗せ、いつものように人差し指と中指で頭を優しく撫でた。 「気に入ってくれて良かったよ。苦労して考えたもんなぁ」 テチーテチー! テチー♪ テッチューン♪ 稔明の手の平に抱きつき、モカは何度も頬擦りを繰り返す。 だがよく見ると、その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。 嬉し泣きなのだろうか、それとも—— 「どうしたんだ、モ……」 呼びかけようとしたその時、不意に、何者かが室内に入り込んで来る音がした。 見覚えの無い影が、半透明のカーテンの向こうで蠢く。 慌ててモカをケースに戻した稔明は、来訪者が誰か確認しようと立ち上がった。 やってきたのは、すらりとした体躯の女性科学者、別研究班の人間だ。 以前に一度だけ見かけたことがあるが、その時は彼女のあまりの美貌ぶりに呆然と させられたのを覚えている。 同期の仲間に聞いたら、なんでもフランス人のハーフで、この研究所内はおろか 他研究支部全体の中でもトップクラスを誇る美人だという。 しかし、ただ美人というだけでなく能力・実績もハイレベルというから、人間的な 総合評価も極めて高いことになる。 そんな、もはや住む次元が異なるような存在が、同行者もなくたった一人で、 こんなつまらない所へやって来たのだ。 稔明が驚かない筈など、ない。 紺色のスーツの上に白衣をまとい、銀色のフレームの眼鏡を携えた女性は、やや 鋭い視線と稔明に向ける。 目線が合った瞬間、心臓が止まるようなショックを受けた。 「三戸研究班主任・ローザ三隅です。先日お願いした、実験用個体を受け取りに 参りました」 「は、はあ……あ、貴女が?」 緊張でしどろもどろになりそうなところを必死でこらえ、なんとか対応する。 ローザは、あからさまに嫌そうな表情を浮かべながら周囲を一瞥すると、コホンと 咳払いしてから続ける。 「私では、何か問題が?」 「え? い、いいえ。もっと別な人がくるんじゃないかなって思ってましたから」 「はあ」 “何を言ってるんだコイツ?”と言いたげな顔つきで、ローザは稔明を睨みつける。 その後、彼女は感情のこもらない口調で様々な段取りの説明を行い、選別された 仔実装を入り口に寄せたキャリーまで運搬するよう、稔明に願い出る。 快く承知はしたものの、ローザは『そんなの、言われる前に気を利かせなさいよね』 とでも言いたそうな表情を浮かべている。 さすがに良い気はしなかったが、相手は様々な意味で自分の手が届かない位置に 居る者。 稔明は、何も言わずに仔実装を詰めたケースを持ち上げると、入り口へと歩き出した。 テチーテチー!! テチーチー!! ケースの中で、一匹だけ妙に激しく騒いでいる者が居る。 透明のアクリル窓から覗き込むと、それは先ほどまで遊んでやっていたモカだと 気付いた。 楽しく遊んでいるところを中断されて怒っているのか、それとも突然動かしたので 動揺したのか。 他の個体は何も言わず静かに座っているのに、モカだけが全身を震わせて怒りを 表現している。 しかも、どうやらそれは稔明に対してではないらしい。 彼女の目線は、ケースの遥か向こうに立つ、ローザに向けられていた。 テチーテチー、テチーテチー!! テェェェ!! 「すみません、うるさくて。こらモカ! 静かにしなって」 「モカ? まさかあなた、実験用個体に名前を?」 「え?! あ、いや……き、気のせいですよ気のせい!!」 「……」 実験用個体に妙な思い入れを抱き、特別な扱いを行なうのは、管理者として絶対に やってはいけないことである。 何故なら、それにより実験用個体が予測不能な変化を及ぼしてしまう可能性が生じる ためだ。 思い込みの力がとても強い実装石は、精神状態の変化が肉体に大きな影響を及ぼす ケースが大変多い。 だからこそ、稔明の担当する部署をはじめとする実験用個体管理部門は、徹底した 機械的管理を要求するのだ。 結局モカは、ローザのキャリーに乗せられるまで延々と騒ぎ続け、ケースの中から 歯を剥いて威嚇した。 何を思ったのか、彼女が相当お気に召さなかったらしい。 キャリーにケースを載せ終えると、ローザはものすごくぞんざいな挨拶を一言残し、 早足で遠ざかっていった。 そういえば、研究班の一部には個体管理部門をまるでブタ小屋のように蔑視する 連中が居るとも聞いていた。 ローザの後姿が見えなくなる頃には、稔明は彼女に対する緊張感や高揚感が すっかり冷め果ているのを自覚していた。 「あ〜〜……なんかこう、その……ま、いっか」 頭をボリボリ掻きながら、踵を返して部屋に戻る。 再びいつもの場所に戻り、飲みかけのペットボトルを手に取った瞬間、稔明の 胸中に突然怒りが湧き上がって来た。 それは、ローザに対するものではなかったが…… 『なんだよ、こんなあっさりお別れなんてアリかよ……。 もう少し、余韻のあるお別れくらいさせてくれたっていいじゃねぇか』 管理担当にあるまじき思いを、ぼそりと呟く。 稔明は、モカと共に過ごしたこれまでの時間を思い返し、次の仕事が来るまで たっぷりと感傷に浸った。 ※ ※ ※ 研究所の休みは不規則であり、特に稔明の部署は複雑なローテーション編成の結果、 思わぬ日に休みが決められてしまうことが多々ある。 あれから数日後、稔明は三日間ほど連続の休みを貰うことが出来、自宅でだらけた 生活を堪能した。 だが休みが明けると、今度は八日間連続の勤務である。 しかもそのうち三日間は、 昼から深夜までの担当だ。 重い足取りでいつもの仕事場に向かおうとした時、稔明は、Lブロックのカテゴリ を担当している同期の友人に声をかけられた。 「稔明、所長が呼んでたぞ」 「所長って四谷所長が? 俺を?」 「ああ、なんだかすごく慌ててたみたいだ。今日は俺が代わりにMに入ってるから、 行って来いよ」 「あ、ああ。悪いな」 所長とは、この実装石特殊研究所の総合責任者のことである。 全職員約200人を抱える大規模な施設のトップであり、末端の稔明からすれば ほとんど雲の上の存在だ。 そんな人物に、名指しで呼び出される理由はまったく思い当たらない。 稔明は、首を傾げながら小走りで所長室へと向かった。 黒く重厚な木製扉をノックし、許可をもらった稔明は、頭を下げながら室内へ入った。 そこでは、過去ほんの数回しか顔を見たことのない人物……四谷所長が眉間に皺を 寄せながら待ち構えていた。 「ああ、君が……。良く来てくれたね」 「いえ、それで私に何か?」 「ああ、実は少し聞きたいことがあってね」 何か云い辛そうな態度で、四谷所長はじっと稔明を凝視する。 射すくめられたように身を硬直させながら、稔明はかろうじて「ハイ」と小さく 返答した。 「先日、君の部署から引き取った実験用個体なんだが、覚えているかね?」 「い、いつのものでしょう?」 「君が休みに入る直前の時だよ。一週間と少し前かな。三戸班の三隅君が引き取りに 行った——」 三隅、という名を聞いた途端、あの鋭い目線と嫌悪感丸出しの嫌みな表情を 思い返す。 彼女が引き取ったということは、モカを含めた第五区分相当の仔実装達のことだ。 そこまで考えた時点で、稔明の顔色がサァッと青ざめる。 ……もしや、モカが何かしでかしたのだろうか? 「は、は、はい。そ、それで……」 「君の所から引き取った実験用個体が、少し奇妙なことになってしまってね」 「き、奇妙と申しますと……?」 「本当なら、担当部外者に見せるわけにはいかないのだが、やむを得ない。 ——来たまえ」 四谷所長は、稔明を連れ立って部屋を出ると、研究施設の最深部・機密実験エリア へと進んでいく。 ここは、所内でもごく限られた優秀な人材のみが配属される超機密地区で、稔明の ような存在が入れるような場ではない。 それこそ、先日のローザ三隅クラスの存在でもない限り、気軽に入り込めないほど なのだ。 通り過ぎる研究員達は、二人に頭を下げつつもどこかいぶかしげな表情を浮かべて いる。 それだけ、稔明の存在が浮いているのだ。 しばらくすると、鋼鉄の自動ドアで封鎖された、まるでSF映画にでも出て来そうな 場所に連れて行かれる。 プシュー、という排気音と共に仰々しく開いたドアの向こうから、不意に強い風 が吹き付けてきた。 どうやら、気圧が変わっているらしい。 機密エリアに立ち入ろうとした瞬間、四谷所長が稔明を引き止めた。 「ここに入る前に、確認をしておきたい」 「はい?」 「今から見るものは、当研究所の最重要機密に属する。君には絶対に外部に漏らして もらいたくない。——約束してくれるかね?」 「は、はぁ……別に、構いませんが」 「——よかろう。来たまえ」 何がなんだかわからなかったが、稔明は素直に四谷所長の後に続いた。 やたらと天井の高い室内には、無数の巨大な機器が設置されており、それぞれが 太い鋼鉄製のパイプで繋がっている。 そして、それぞれの機器の傍には専用の端末が置かれており、二台に一人程度の 割合で誰かが何かを処理している。 ごぉん、ごぉんという不気味な振動音に包まれた大きな部屋を通り抜け、いくつか の自動ドアを潜り抜けていくと、やがて両脇の壁がすべて透明になっている不思議な 廊下に出た。 透過壁の向こう側では、全身白づくめの格好をした所員達が、数メートルほどの 大きさのケースの傍で作業を行なっているのが見える。 ——はっきりとはわからないが、大きなケースの中には、何か白くて大きな球の ようなものが置かれているようだ。 しばらくして、小部屋で所長共々白衣とマスク、キャップを着けさせられた稔明 は、透過壁の向こう側……四谷所長曰く「最重要機密エリア」へと歩みを進めた。 その瞬間、稔明は、今まで気付かなかったある事を意識した。 ——ここまで、実装石の姿を、まったく見ていない? 「ここは、何の研究をしているのですか?」 疑問がピークに達し、つい背後から質問を浴びせてしま4。 四谷所長はすぐに返答を返さず、顎で脇にある巨大ケースを指し示した。 あの、白い球体が収められているものだ。 「アレだよ。ここは、“アレ”について研究を続けている」 「アレは、なんですか?」 「我々はコロニーと呼んでいる。だが、一般的にはコロニーと呼ぶよりは…… “繭”かな」 「繭? こんなでっかい繭を作る生き物なんて、いるんですか?」 つい口をついて質問が出てしまうが、その次の瞬間、稔明の中で何かが繋がる。 ゆっくり振り返った四谷所長は、無表情のまま口元だけを変に歪めてみせた。 「——実装石だよ」 「え?」 「このコロニーは、すべて実装石が作り出したものなんだよ。 これも、あれも、その向こうのアレも……すべて元は、君の部署で管理していた 仔実装達なんだ」 「え、えぇぇ……っつ———?!」 反射的に大声が出そうになり、稔明は慌てて手を口に当てる。 その態度を見越していたかのように、四谷所長は説明を始める。 「まあ、驚くのは無理ないな。だが、本当のことだ。 この部署は、実装石にある工夫を施し、このようなコロニーを作成させ研究を 続けている」 「な、なんのために、こんなことを?」 「うむ。まぁ見たまえ」 四谷所長は手近なケースの傍に行き、接続された端末を稔明に覗かせる。 思ったより小さな液晶モニタの中には、「コロニー」の断面スキャンと思われる 画像が、サーモグラフィ状態で表示されていた。 不鮮明だが、なにやら中心部で大きな固まりが脈動しているのがわかる。 「コロニーの中だ。動いているのは実装石だ」 「ってことになりますね。……あれ、でもこれって、今ここにある繭の中身ですよね?」 「コロニー、だ。——まあ、そういうことになる」 「だとすると、この中で動いてる奴……えらくでっかい気がするんですけど?」 「ほぉ、良く気付いたな」 ケースの中で無数の白い帯を張り巡らせている「コロニー」は、パッと見 約2メートルほどの全長があり、厚みは太い所だと直径80センチくらいはありそうだ。 そんな楕円形の物体の中で蠢いている影は、どう見ても対比的に人間サイズくらい ありそうだ。 これが、先週まで稔明が面倒を見ていた仔実装なのだとしたら、いくらなんでも 大きくなりすぎだ。 画面とケースを何度も見直す稔明に、四谷所長は更に説明を加える。 「去年の初め、市内で女性拉致監禁殺人事件があったのを、覚えているかね?」 「あの、自宅の玄関に死体が腐るまで放置してたって、アレですか?」 「そうだ。あの事件は一般的には、容疑者が女性を死なせそのまま死体を放置した 事件とされている。だが、実はそうじゃない」 「は? どういう意味でしょう」 「あの時、容疑者の家で発見された死体……あれは、実装石なんだよ」 「は、はぁぁ?!」 四谷所長によると、復顔写真を公表してもまったく身元が判明しない被害者に 困惑させられた警察は、再度検死を行い遺体の特徴を再確認しようとしたが、 その際、警察病院のある医師が人間にない特殊な骨格構造を見出した。 頭骨と頸部、胸部骨格、そして脊髄の一部の構造が人間とやや異なり、また 指関節の間隔が独特なこの遺体は、部分的に実装石の骨格的特長を持っていること がわかり、この研究所にも調査協力が求められた。 実装石特殊研究所による入念な再検査の末、被害者女性は人間95%、実装石5% の骨格特徴を併せ持ち、また損失した内臓器官の配置、筋肉位置と強度、頚椎内 に残留した神経細胞の一部の特徴、加えて現場で遺体を包んでいた正体不明の 白濁色の組織の分析結果から、ほぼ確実に「実装石そのもの」であることが結論 付けられた。 つまり被害者は、何かしらの原因で人間の成人女性の外観を得ることに成功した、 大変稀有な実装石だったのだ。 この調査結果は、実装石特殊研究所に新たな研究目標を与えるきっかけとなり、 既に新規実験が一年以上に渡り行なわれているという。 新規実験——つまり、実装石の変態を人工的に成功させるというもの。 言い換えれば、「人化実装」を意図的に生み出すという実験だ。 過去の別種実験の手法を基に様々な試行錯誤を行い、最近ようやく人化実装と 呼べる存在を作り出せるようになったのだが、なぜかいずれもすぐ死んでしまったり、 また体組織が充分な形成を行なえず、孵化直後に身体崩壊を起こしたり、またゾンビ のような外観になってしまうパターンがほとんどだったという。 現在この最高機密エリアで調整されている「者」達は、稔明がローザを経由 して提供した、優秀な仔実装達であるという。 一通りの概要を説明した後、四谷所長は更に稔明を奥へと導いた。 「それで、わざわざ君に来て貰った理由だが」 「は、はい……」 「実は、あの時の実験用個体の中から、かつてないほど完璧な状態で孵化に成功 した個体が居たのだよ」 「えっ、人間になったんですか?」 稔明の驚きの声に、四谷所長は無言で強く頷く。 「身体強度、内臓器官、骨格、健康状態、その他すべて完全な健康体…… 人間の基準で見ても、充分な存在だ。 これほどまでの成功例は、私も今まで見たことがない。 まさに、奇跡としか云いようがないのだが——」 と、そこで四谷所長は言葉を濁す。 「だが……なんですか?」 「ああ、実はね……いや、直接見てもらった方が早いな」 「は?」 「君が三隅君にアレを渡す時、何があったのかを聞こうと思ったんだがな」 「は? あ、あの、おっしゃってる意味が——」 稔明の質問を遮るように、四谷所長はある小さな部屋の扉を開く。 ギギギ、と耳障りな音を立てて開いたその向こう側では、何人かの所員が疲れた 表情を浮かべて座り込んでいた。 少しすえた臭いが鼻を突いた。 「君達、席をはずしたまえ」 四谷所長の命令で、所員が無言で退出していく。 背を丸めながらとぼとぼと出て行く彼等からは、生気が感じられない気がした。 狭い室内の奥には、アクリルで作られた大きな籠状のケースがあり、その中に、 一人の少女が座り込んでいた。 緑色の頭巾、とても長くて豊かな毛髪、細くそれでいて肉感的な四肢、透き通る ような白い肌…… その少女は、一糸纏わぬ姿で隔離されていた。 よく見ると、両手首に大きな黒い鎖が巻きつけられてる。 にも関わらず、少女は特にそれを嫌がっている様子はない。 その少女の顔を見た途端、稔明は、一週間ほど前にも体感したあの感覚に再び 捉われた。 少女は、あのローザ三隅その人だった。 「み、みみみみみみ?!」 「驚いただろう?」 「え? あ、あの? こ、これはいったい……?」 何度目をこすっても、そこには間違いなくローザ三隅がいる。 衣服を奪われた上に拘束までされ、しかもこんな狭い空間に隔離されている。 しかもそんな状態で、つい先ほどまで複数の男性所員に囲まれていたのだ。 いったい、どういう状況なのだろう? 稔明は、一瞬頭が混乱した。 脳が、状況の理解を拒んでいる。 「てちぃ♪ てちてち、てちーっ!!」 と、その時突然、ローザが両手を挙げて稔明に声をかけてきた。 その顔は、あの時と違いとても朗らかで、その上強い親しみを覚える。 目を剥く稔明の肩を、四谷所長が軽く叩いた。 「あれは三隅君ではない。実装石だ」 「はぁっ?!」 「信じられないだろうが事実だ。本物の三隅君は、これを見て気分を害して、今は 臨時休暇を取っている」 「って、まさかあの、これが……え、えええっ?!」 「てっちー♪」 全裸のまま、ローザ…に良く似た少女は、稔明の方を向く。 とてもスレンダーだが、独特の美しさを誇るその肢体は、稔明の視線を釘付けにする。 自分の意思に関係なく、その身体に見入ってしまうことに、稔明は強い抵抗感 を覚えた。 だが……何かが、少しおかしい。 どこかに、強烈な違和感を覚えさせるものがある。 ぷるん♪ ローザ似の少女の股間で、何かぷっくりとしたものが、揺れている。 とても、とても見慣れた、本来そこにある筈がないもの……あってはならないもの。 稔明は、つい反射的に、自分の股間へと視線を落とした。 「な、三隅君ではない決定的な証拠だろう?」 「三隅主任は、実はオ○マだった……なんてことはありませんか」 「それはない、絶対にない。私が保証す……ゲフンゲフン」 「?」 「とにかく、だ。 この、ID:M14381がどうしてこのような変化を起こしたのか、その原因がどうして もわからないのだ。 すまないが、M14381を三隅君に渡した時の状況をできるだけ詳しく説明して くれたまえ」 M14381というナンバーに、反応する。 ということは、これは……モカなのか?! 稔明は、思わずローザ似の少女?と四谷所長の顔を交互に見回した。 妙な威圧感を以って迫る四谷所長に気圧され、稔明はあの時のことを可能な限り 思い返し、説明する。 だが、モカとのやりとりの部分だけはしっかり要約している。 実験用個体を特別に扱ったという報告を、よりによって最高責任者に自白する 勇気まではない。 そのため、稔明の説明は四谷所長を納得させるには、あまりにも不充分な内容と なった。 「それだけかね? それだけで、その……アレが、こんなになったと?」 「そ、そういわれましても」 「ふぅむ、困ったな。これでは、次の実験に活かせない」 その後いくつからの質問に答えさせられた稔明だったが、やはり四谷所長の疑念 は晴れなかった。 問答の最中、ケースの中から妙に艶のこもった視線を投げるモカに、稔明の心臓 はバクバク鳴っている。 なにせ、はためにはあの超絶美人が一糸纏わぬ姿で脇に佇んでいるのだ。 顔だけでなく、身体も、端にカールのかかった長い亜麻色の髪も、すべてが 美しすぎる。 先ほど股間についていたナニカの存在はとうに頭から飛ばし、稔明はいつしか 所長を無視し、ひたすらモカの肢体に魅入った。 四谷所長のわざとらしい咳払いで、現実に引き戻されるまで。 「あ、あ、すみません、つい」 「やむを得ないのはわかる。実は、ここの担当者達もみんなそうなってな」 「はあ、やっぱし」 「男性器が付いているとはいえ、外観は見事なまでに美女だ。 目を奪われない者はいないだろう。 まして、これには不思議なものがあってな」 そういうと、四谷所長は稔明に、モカをじっと観察することを指示した。 よくわからないが、堂々と見ていられるならと、素直に従う。 籠状になったケースは、柵が透明アクリルのようなもので構成されているものの、 その隙間は比較的大きく取られており、成人なら指三本程度差し込むことができる。 その隙間越しに、稔明はモカの……どう見ても完全にローザとしか思えない顔を じっと見た。 「てちー♪」 稔明がわかるのか、モカはとても嬉しそうに微笑みを返してきた。 柵越しに指を伸ばし、稔明の手に触れようとする。 無意識に手を伸ばすと、白くて細い、そして柔らかな指が絡みつき、心臓がときめく。 少しずつ、二人の顔が近づいていく。 モカの、あまりにも美しい顔を見ているうちに、稔明の胸の中になにやらモヤモヤ したものが湧き出してきた。 モカの息が鼻に当たり、絡め合った指に力がこもる。 ピンクに色付いた柔らかな唇が、あと僅かで触れるというその瞬間、稔明は突然、 後ろに強く引っ張られた。 「わ! な、な、な?!」 「どうだね?」 「ど、どうだね、とは?」 「今、自分が何をしようとしたか、わかっていたか?」 「え? え〜と……あれ?」 「わからなければ、M14381をもう一度、良く見てみたまえ。 今度は顔じゃなく、身体を」 四谷所長の指差す方向に眼を向けると、ケースの向こうのモカは、とても残念そう な表情で立ち尽くしていた。 だが、その下半身に、明らかな異常が起きていた。 モカの男性器が大きく膨れ上がり、先端からは透明な液体をほとばしらせている—— 彼女が……否、「彼」が、強く欲情しているのは明らかだった。 「てっちゅ〜ん♪」 女性と見まごうような極上の容姿に、不似合いな性器。 そのあまりにもアンバランスな姿が、再び稔明を現実に引き戻す。 稔明は、思わず数歩後ずさった。 「あ、あれは、何の冗談ですか?!」 「魅了されかけてたんだよ、君は」 「み、魅了?」 「さっきここに居た連中を見たかね? あいつらも、これに魅了されたんだ。 今、私がとめなければ、君も——」 「ち、ちょっと待ってください?! なんでモカがそんな」 「モカ? なんのことかね」 「え? あ、いやそれは……そ、そそそ、それより、魅了ってどういうことなんですか?」 つい口を突いた失言を、咄嗟の質問で切り抜ける。 眉間に皺を寄せていた四谷所長は、「まあ、ここまで知ったならな…」と呟くと、 ため息を吐いて説明を開始した。 ※ ※ ※ 【実装石の人化プロセスについて 最終まとめ】 実装石特殊研究所・第十二科学生態研究班三戸班 実装石は、ある種の条件が加わることで繭化を経た変態を起こす習性があることが 判明及び確定。 以下は、そのプロセスと構造、変化理念をまとめたものである。 1.変態理由 実装石は、生来ある種の脳内麻薬を、半ば意識的に発生・分泌させることが可能である。 これは人間にとってのエンドルフィンに相当するもので、本来の効果は痛覚を緩和 したり、身体疲労によるダメージや強い刺激による衝撃から脳及び偽石を守るための、 自己防衛機能の一つである。 当班ではこの分泌液に「ジソルフィン」と仮名付けし、以下もこの表記で統一する。 ジソルフィンの具体的な構成成分については今後の更なる研究を待つ必要があるが、 現時点での実験結果においては、先述のように人間のエンドルフィンとほぼ同等の 効力を発揮すると考えて良い。 ただし、個体によってはこの影響により、事態・状況を正しく把握する能力を著しく 欠いたり、また悪環境下に於いて無根拠に幸福を覚えたりと、奇妙な行動・思考に 陥るケースもある。 問題は、ジソルフィンの分泌量と頻度と、その効果に対する実装脳の快感耐久度は 必ずしもかみ合っていない点にある。 これは、何かの理由で過度なジソルフィン分泌が促された場合、個体が 「幸福な気分のまま悶死する」事を意味する。 蛆実装が腹部への圧迫刺激を受け過ぎた場合、(負荷が大きかった訳でもないのに) 死亡するのは、これが理由である。 この現象は、俗に「パキン」と呼称されることが多い。 しかし、稀に脳の耐久性が高く、一定分泌量を超えたジソルフィンの効果に絶える 個体が存在する。 しかも、これは成長度合いによる強弱ではなく生来の性能差であり、確率は1/5000程度 と考えられる。 このような個体が過度のジソルフィン分泌状態に陥った場合、普段は休眠状態にある 脳機能が覚醒・活性化し、思考・判断・反射能力、成長促進、外部刺激への耐久性・ 五感の著しい向上などを引き起こす。 この状態の個体は、あらゆる外部刺激に対して異常に敏感になっており、普段は 何の反応も示さないような些細なものでも、過剰な反応を示してしまう。 またこれは、肉体のみでなく精神的なものも含んでおり、酷い例になると蚊に刺された だけで激痛を感じるケースもある。 無論、ほんの僅かなショックでも死亡してしまうこともありうる。 この危険な状態を一定時間維持すると、実装脳は「現在の身体機能では外部の刺激に 耐えられない」と判断し、偽石へと信号を送って身体の急激な環境対応を促し始める。 これにより、個体は身体の保護・身体の増強・能力の向上を行なう。 具体的には、身体を保護幕で覆い外部刺激を遮断し、隔離状態を作り出す。 身体を落ち着かせ、冥想に近い状態に陥り、ここから身体変化(次項参照)が開始 される。 この状態を、当班では「特殊防衛期」と呼称している。 特殊防衛期に達する個体は、実装脳の耐久性に優れた者の中でも更に数千分の一 程度と、非情に限られた割合でしか存在しない。 これが実装石の変態確率が異常に低い要因になっているものと考えられる。 当三戸班の研究は、このような特殊状態の実装石を意図的に量産し、次項 「身体変化」へのプロセスを容易にさせることが、第一の目的となっている。 2.身体変化 特殊防衛期に至り、身体変化を開始した個体は、まず保護幕を形成する。 まず鼻腔内部より硬質繊維状の物質を分泌し、これで外輪郭(フレーム)を形成。 続いて、フレームの周囲を包むように軟質繊維状物質を発生させるが、これには いくつかのパターンがある。 ・実装服を一度分解して繊維状に戻したものを巻き付け 不足分を体内より分泌する場合 ・実装服はそのままに腕部・脚部・顔面全体より繊維物質を 発生させる場合 ・身体全体から繊維物質を発生させる場合(実装服を持たない個体) ・毛髪が増長化する場合、全身から細かな繊維物質を噴霧し、 これが結着化する場合(実装服を持たないケース) 以上4つのケースが実験により確認されている。 軟質繊維物質は、分泌直後は上質の絹糸に似た柔らかな質感を持ち保湿力が高く、 かつ大変丈夫という優れた品質を持っているが、結着開始後一時間ほどで硬化し 始め、最終的にはフレーム繊維をも遥かに凌ぐ頑強さと弾力性、膨張性を発揮する に至る。 分泌繊維は個体を保護するだけでなく、姿勢維持等にも用いられ、例えば木や壁に 付着する場合は超強粘度ゴムまたは鉄にも匹敵する強度に達する部位が発生する。 この状態になった個体を「コロニー」と呼称する。 その白い外観、楕円形の形状から、一般には「繭」と呼ばれることもある。 コロニーを形成した個体の周囲は、出産時に胎児を包んむ粘膜に似た物質で覆われ、 更にその周囲は薄い半透明の皮膜で包まれる。 粘膜に覆われた個体の身体は、母体内で退治が形成されるプロセスを逆に辿り、 一旦身体部位が細胞単位まで分解される(この行程は蛹状態の昆虫にも見られる もので、まさに「繭」という表現に相応しいものであるとも云える)。 これは脳髄・神経節・脊髄・全血管・全筋肉全てが該当するが、眼球などごく一部の 部位は原型を留める(変態後も眼球色が変化しない理由はここにある)。 ただし原型を留めた部位も、その後の変化において付加膨張を行い、最終的に 大きな形状変化を起こす場合もある。 コロニーを形成し、外部からの妨害を受けず充分な休息時間を得られた個体は、 昆虫の孵化と大変良く似た行程(未発達形成→経過時間による身体硬化・安定化) を経て比較的短時間で成熟する。 この頃には、個体を保護していた粘膜は役割を完了して溶解し、コロニー内壁に 付着しながらこれの強度を低下させる役割を果たす。 粘膜付着による軟化を経たコロニー外壁は容易に破れ、個体は自力で外部への脱出 を果たす。 蛇足ではあるが、この時(変態完了後は)初めて肺呼吸を行なう。 個体が排出されたコロニーは急激に軟化し、支軸の役割を果たしていた外面の 繊維状物質やフレームも連動するようにその硬度を弱めていく。 コロニー各部は、個体排出後おおよそ一週間程度で急激な腐敗を始め、約三週間 程度で土に還る(腐葉土に近い性質を持つ物質へと変質し、これは大変多くの 栄養を含み植物育成時の肥料としても役立つ)。 ただし、腐敗時は大変激しい刺激臭を伴うため、特殊な換気設備のない屋内で これを観察する事は推奨されない。 排出された(脱出した)個体は、新たに構成された身体をすぐに駆使する事が可能 である。 そのタイムラグは限りなく皆無に近く、恐らく孵化直前にコロニー内で何かしらの リハビリテーション的運動行為が行なわれている可能性も考えられる (事実、孵化前にコロニーが激しく振動・膨張活動を行なうことが確認されている)。 →NEXT
