『雷光』 八月某日。 夕方の町は激しい雨に見舞われていた。 濃い灰色に曇った空から、大きな雨粒が乱れ落ち、騒々しく地面を叩いている。 町の人々は、手持ちの傘をさして、足早に家路へ向かっている。 そんな中、とある住宅地の道路の端を、一匹の実装石が歩いていた。 彼女は野良実装で、公園の棲み家まで戻るところだった。 この日は朝から曇り空だった。 日差しが出ていないのを幸いに、野良実装は新しい餌場を探しに出かけた。 途中で雨が降り始めたので、探索を切り上げて棲み家へ戻ることにしたが、 普段は訪ねることのない遠方まで足を伸ばしてしまったため、家路は遠かった。 やがて雨は勢いを増し、さらに空がゴロゴロとうなり始めたのである。 どしゃ降りの雨に暗く沈んだ町並みが、 突然昼間のように明るく照らし出されたかと思うと、 直後に地面を叩き壊さんばかりの大きな衝突音が鳴り響く。 野良実装は、雷が怖かった。 人間でさえも思わず身がすくんでしまうような、けたたましい音である。 小さな実装石では、なおさら恐ろしく感じられることだろう。 野良実装は、道路脇の住宅の塀にもたれかかるようにして歩いた。 辺り一面がぱっと明るく照らされると、彼女はすぐに両手で頭を押さえてうずくまった。 頭の中は真っ白で、体もがたがた震えたが、耳をぴたりと畳んで、 落雷の音を耐えしのいだ。 野良実装は、雷の本当の姿を見たことがある。 ちょうど今と同じような嵐の日に、公園のダンボールハウスの中から 恐る恐る外の様子をうかがっていたときのことだった。 灰色に広がる雨空の向こうで、雲間からふとまばゆい光の筋が 飛び出したかと思うと、それはまたたく間に地上へと突き刺さった。 まるで空中に大きなひびが入ったかのような、不気味な光景だった。 野良実装には、雷が意志を持っているように感じられた。 まばゆく刺々しい光の筋と、地面をぶち壊さんばかりの轟音は、 未知なる何者かの、激しい怒りの表明に思えた。 “あの光が落ちたところには、一体誰がいるのだろう…… ネコ……?タヌキ……?人間……?それとも……まさか…………” 詳しい事実はさておき、雷は誰かを狙って落とされていると彼女は思った。 だから、雷が怖かった。 雨は一向に止む気配が見えなかった。 雷光と雷鳴は、いつも不意をついて現れ、野良実装を脅かした。 恐ろしさで足がすくんで、思うように歩けない。 彼女は何度もつまづき、水びたしの道路に倒れこんだ。 公園までの遠い道のりを頭に思い浮かべながら、 彼女はもはや、まっすぐ棲み家に帰ることをあきらめていた。 家路を急ぐより、今はとにかく雷から身を守りたかった。 とある家の玄関にさしかかったとき、野良実装は、その玄関の アルミ製の門扉が、少しだけ奥のほうへ開いているのに気が付いた。 彼女は、門扉の格子の隙間越しに家屋を覗いてみた。 玄関や部屋の窓は暗く、どこにも電気はついていないようだ。 そして何より重要な事実として、その玄関には、前方の左右両端を 柱に支えられた、広い屋根がついていた。 迷っている余裕など無かった。 野良実装は少し後ずさりをしてから、助走をつけて門扉に思いきり体当たりをした。 すると門扉はさらに奥へと押し開かれ、彼女は家の敷地のほうに倒れこんだ。 彼女は急いで立ち上がり、屋根の下へと転がり込んだ。 頭上を広く覆った屋根は、本当に頼もしく見えた。 難を言えば、壁があるのは玄関側の一面だけで、他の三方はほとんど がら空きだったが、彼女はあまり苦にしなかった。 この玄関は、薄壁の小さなダンボールハウスよりも、ずっと安全な場所に感じられた。 窮地をまぬがれたことで、他のことを気にかける余裕が出てきた。 野良実装の服は、雨水を吸ってずっしりと重くなっていた。 ここで服を脱いで、雨水を絞ったほうがいいだろう。 そう思って、後ろ襟に手をかけたその時、辺りがぱっと明るくなった。 一瞬はっとしたが、明かりの正体は雷ではなかった。 野良実装の背後で玄関の室内照明がつき、ガラスブロック越しに外へ光が広がったのだ。 彼女は玄関ドアのほうに向き直った。 ドアが開いて人間が出てくる気配があったので、慌ててドアから離れた。 ドアから顔を出したのは、四十歳前後の、ありきたりな背格好の男だった。 野良実装の姿を見た男は、うんざりしてため息をついた。 玄関に備え付けたセンサーは、来訪者を感知すると、 屋内にチャイムで知らせる仕組みになっている。 夜勤に備えて仮眠をとっていた男は、鳴り続けるチャイムに眠りを妨げられた。 チャイムがいつまでも鳴り止まないので、不審に思って玄関に出てみると、 ドアの外に野良実装がいたのである。 男は敵意のこもった目で野良実装を睨みつけた。 だが、彼女は逃げ出そうとしなかった。 雷に比べれば、人間はずっと危険の少ない相手に思えた。 彼女は男を見上げ、身振り手振りを交えて事情を説明した。 “雷が怖くて外を歩けないデス!どうか雷が鎮まるまでの間、ここで避難させてほしいデス!” 男は下駄箱の天板の上に置いてある殺虫ラケットに手を伸ばした。 テニス用のラケットを、そのまま一回り小さくしたような形のこの道具は、 蚊やハエを退治するのに用いられる。金属製のネットに数千ボルトの電圧を 発生させる仕組みになっていて、飛び回る蚊やハエを叩いて焼き殺すのだ。 庭に現れる蚊を退治するため、男はこのラケットを玄関に保管していた。 男は殺虫ラケットのスイッチを入れて、野良実装の額にネットを押し当てた。 電撃のショックで体内の偽石が粉々に砕けるまでのほんの一瞬のことだったが、 野良実装は、ラケットを持った男が雲の上にひざをついて町を見下ろしている姿を 眼前に見た気がした。
