タイトル:【観察】 アンダー・ユア・ポスト
ファイル:アンダー・ユア・ポスト.txt
作者:匿名 総投稿数:非公開 総ダウンロード数:19482 レス数:2
初投稿日時:2011/09/02-21:28:47修正日時:2011/09/05-12:34:02
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叩きつけるような豪雨に予兆は感じられなかった。
激しい雨音と一メートル先も覆い隠すような雨量。
道行く人々は、あるものは鞄を頭に掲げて逃げるように走り、あるものは少しでも雨を避けようとビルや商店に駆け込んだ。
公園では幾つものダンボールハウスが倒壊し、雨に負けない叫び声がそこここであがっている。
いくら木陰に気をつけて設置しようとも、圧倒的な水量に耐えることはできないのだ。
あまつさえ、中にいた仔実装や蛆実装が溺れ、流される事態も起こっており、自然の淘汰力を実装石たちは実感していた。
さて、そんな喧騒とは僅かに離れたビルの谷間にその仔実装はいた。
公園の阿鼻叫喚もここまでは届かない。
けれど仔実装にとっては何の関係もないだろう。
全身余すところなくずぶ濡れの身体を出来るだけ小さくして蹲っている。
そこは雑居ビルの裏口らしきドアの直ぐ横、今は使われていない赤い郵便ポストの下だ。
幅一メートルほどの路地裏にゴミを捨てるための青いポリバケツや雑多に積まれた粗大ゴミが通路を妨げるように並んでいる。
実際もうほとんど使われていない小道で、袋小路にもなっていたため両脇にあるビルから物置ともゴミ捨て場ともつかない扱いを受けていた。
そんな場所に何故仔実装がいるのかというと、親からはぐれたのである。
仔実装は産まれて数日。五人姉妹の末っ子で、今日は家族で公園内の散歩兼勉強をしていたところだった。
『お水はここで汲むデスー』
『ここは仔を産む場所デス。お前たちもここで産まれたデース』
『向こう側は公園の外でワタシ達が住む場所ではないデス。ママだけがご飯を取りに出かけるデスゥ』
親実装としては早く危険なものを教え、ルールを学び、賢い仔に育って欲しかったろうに思う。
けれどまだまだ遊びたい盛りの仔実装にとってそれは退屈以外の何物でもない。
そんな仔実装が時期尚早な一匹のトンボに魅かれて、ふらふらと親元を離れたのもしょうがないことといえよう。
仔実装自身は公園の外に出るということすら理解しておらず、気がつけばトンボは見失い、路頭に迷ってしまった。
初めのうちは泣きじゃくり必死に親を呼んでいたのだが、そこに訪れたのが所謂ゲリラ豪雨というやつである。
人間さえ慌てて逃げ惑うほどの雨に仔実装が耐えられるはずもなく。
雨にあたらない方へあたらない方へと逃げた結果がこの場所だった。
路地の奥で雨風があまり吹き込んでこないこと、古めかしいポストが庇代わりに雨をよけていることなどは仔実装にとって運が良かった。
踏み潰されなかったり、側溝に落ちたりしなかっただけでも僥倖といえるだろう。
「テチィィィィィィ…テチャァァァッァァァ……」
濡れた身体をガタガタと震わせ、親を呼ぶ。
仔実装にはもうそこから動くだけの気力も体力もない。押し寄せる水と孤独による不安がそれらを根こそぎ奪っていった。
「チィィィィィッ! テチィィィィッ!!」
ママならきっと助けに来てくれる。私はここだと精一杯叫ぶ。
その声が雨のカーテンにかき消されていることすら知らず。
もし晴れていて、親実装が愛情深い個体で、この仔実装が捨てるに惜しい逸材だったならば話は違っていただろう。
しかし、託児の際に跡を追うことが出来る臭いは流され、声は届かず、親実装もこの仔実装は他の姉妹の教育用教材としか考えてなかった。
その親実装は見失った仔を探すことなど眼中になく、押さえても押さえても雨水が浸入してくるダンボールハウスを維持するのに躍起になっていたのだが。
「テヂィィィィィィィィィィィッ!! チャァァァァァァァァァッッ!」
仔実装は必死の声を出し続ける。本当はもう喉も痛くて大人しくしていたいのだが、今この瞬間に路地前を親実装が通るかと思えば自己主張をやめられない。
本来ならば弱弱しい仔実装の鳴き声は他の実装石や犬猫カラスといった天敵を呼び寄せるものなのだが、やはり幸か不幸かこの雨がそれらの行動すら抑えていた。
すっかり人波も消え、しかし未だ降り続く雨に仔実装は不安を隠しきれずただ泣いた。
「テェェェェェェン! テチィィィィィィ!!! テヂャァァァァッァァッ!!」
誰も応えるものはいない。
やがてその声も少しずつ小さくなり、途絶えた。


仔実装が目覚めた時には既に周囲は暗かった。
時刻で言えば午前三時を少し回った頃合。
体力が尽き、意識を失っていた仔実装だったが、
「テェ…」
空腹感を覚えたたため、身体が起きることを要求したのだ。
昨日は朝にリンゴの皮を半個分食べたっきり。さらには遠出と鳴くことで大分お腹を減らしていた。
しんと静まり返ってはいるが、弱いながらまだ雨が降っていることは感じられる。
「テチャァ…ヂィィィッ!!」
何で母親がいないのか。仔実装としてはとっくに暖かな家の中で美味しいご飯を食べているはずだった。
地団太を踏んで悔しがる様は理不尽な状況に憤っているようだった。
残念ながらその家は既にぼろぼろのゴミくずと成り果て、途方にくれた親仔は他の同属と同じように滑り台の下に逃げ込んで雨に震えていたのだが。
「テチテチャテヂェェェェェェェッ!!」
お腹空いたと四肢をバタつかせて駄々をこねても、誰も食事を運んでくれるわけでもない。
それどころか余計に消耗し、べったりと濡れて貼りつく服や髪が不快なだけだ。
髪も服も泥だらけ。短い間だったが毎日母親が綺麗にしてくれていたパンツは仔実装の頭大の糞が溜まってべろべろに伸びていた。
しかも臭い。
「…チィ」
とりあえず仔実装は下着を脱ぐと何とか裏返しにして出来るだけの糞を落とし、その辺の壁にこすり付けて汚れを取ろうとした。
が、長時間糞と雨に晒されたうえ、ざらつくコンクリート壁で削られたパンツは容易に破け、布切れとなった。
「テチャァァァッァァァッァァッァァアッァッァッァァッァァ!?」
手の中に僅かに残る宝物の残渣を見て今まで以上の悲鳴をあげる仔実装。
地面に散らばった端切れを集めて何とか元通りにしようとくっつけたり離したりを繰り返すが当然直るわけではない。
「テチィィィ!! テヂィィィァァァ…」
しばらく無駄な行為を続けていたが、うっすらと空が明るくなり始めたところで諦めて、パンツだったものを蹴飛ばしごろんと横になる。
寝て全てを忘れたかったのだが、いかんともしがたい空腹とスースーする股間が気になってどうしようもない。
かと言って、昨日の今日で雨に打たれるのはこりごり。
「…テェェェェ」
不意に仔実装の目から涙が零れる。
母親のある言葉を思い出したからだ。
『ママの言うことはちゃんと聞くデスゥ。聞けばいい仔になっていつか飼い実装になれるデスー』
でもと、一転厳しい顔になった母はこうも言った。
『悪い仔にはいつか罰が当るデス。ギャクタイハに酷いことされるかもしれないし、他のお仲間につれてかれるかも知れないデス』
けどお前たちなら絶対大丈夫デースと信じて疑わない眼差しを向けてきた母親が今とても恋しい。
仔実装はきっと自分が悪いことをしたのだと思うようになってきた。
酸っぱいご飯を食べたくなくてお姉ちゃんに交換してもらったのがいけなかったのか。
お隣さんの蛆ちゃんをおトイレにしている穴に投げ込んで殺してしまったのが駄目なのか。
寝てる間に糞をもらしたパンツを一番上のお姉ちゃんのと取り替えてそ知らぬふりをしたのが許されなかったのか。
「テェェェェッチ!!  テェェェェェッチ!」
仔実装は誰にともなく謝った。
ごめんなさい。いい仔になります。ごめんなさい。ごめんなさい。
もちろんそれは誰の耳にも届くことはない。
その頃もっとも謝りたかった母親は滑り台の群れからいつの間にか弾き出されて、全身ずぶ濡れ泥まみれで虫の息だったわけだが。
ちなみに姉妹はとっくに攫われ、どこの石とも知れない胃袋に納まっているのだが。
「…テヂィィッ!?」
急に仔実装の声色が変わる。今までは哀願するような切なげなものだったのだが、腹のそこから搾り出すような鬼気迫るものに。
「…ッヂッヂッヂッヂィィィィィ!!」
腹を押さえて汚れるのも構わず地面を転がる。
雨で冷えたために腹痛をもよおしたのだ。
しばし悶絶した後、額を地面にくっつけるようにして丸まると、パンツを穿いてないためむき出しとなった総排泄口から水便が噴水のように噴出した。
「テフゥゥゥ……」
排便したことで痛みが落ち着いたのか安堵の息を漏らす仔実装。
改めて身体を横たえて少しでも体力を回復させようとする。
が、冷たい感触。頬に当たる雨に仔実装は目を擦りながら身体を起こした。
雨脚は弱まっているものの今度は風が強く、今まで身を隠していた位置に吹き込んでくる。
「テヒィ! テヒィ!」
仔実装はよろけながらもポリバケツと壁の隙間にもぐりこむ。そこは腐った生ゴミがドロドロに溶けて腐臭を漂わせていた。
そのため、迷い込んだ当初は避けていた場所だったのだが仔実装は雨を凌ぐことを選んだようだった。
「……チィィィ」
落ち着くとやはり空腹が辛い。
産まれた直後もこんな飢餓感を味わった覚えがある。
母実装の乳房は二つ、仔は五匹。そして、一番下の仔実装は最初の餌にありつくまでには長い長い時間を要した。
いくらお願いしても少しも分けてもらえず、最終的にはほんの少しだけ出涸らしのミルクを啜っただけであった。
その時に先に食事を済ませた姉仔実装がこれ見よがしに目の前で大量の脱糞をした。
それは湯気が立ち、飲んだ母乳の影響かうっすらとクリーム色掛かった緑色。
美味しそう。と感じたのも無理ないこと。
犬食いの要領で顔からかぶりつこうとして、
『何してるデス!!』母実装は咎めた。『糞を食うのは蛆ちゃんか糞蟲だけデス!! お前は糞蟲なんデスゥ!?』
もちろん糞蟲であるが、そうは思ってない仔実装は涎を垂れ流しながらも何とか耐えた。
今、直ぐそこに先ほど下着から払った自分の糞がある。
注意する母実装はいない。
「テェ…テチッ!」
仔実装はポリバケツの陰から左右を伺うと一歩を踏み出した。


「テッチュ〜ン!」
目の前の餌を全て平らげてご満悦の仔実装は、くちくなった腹をさすりながら雨風の当たらないポリバケツの裏へと引き返す。
直接口をつけて両手で掻き込むように食したので、口の周りどころか前掛けや前髪にまで糞が付着しているが満腹感の前には些細なことらしい。
「テッフゥ…」
雨も避け、胃も満たし、訪れるのは睡魔。
仔実装が舟を漕ぎ始めたその時、水を跳ねる音と、
「あーもぉ、何でここのポストはこんなところにあるかな」
人間の声に仔実装は飛び跳ねるように身を隠した。
とはいえ、ポリバケツと壁の間に頭を突っ込むだけなので、むき出しの臀部は丸見えである。
『ニンゲンは怖い生き物デスゥ。ママなんかよりずっと強くて、痛いことをいっぱいしてくるデス』
公園を闊歩する大巨人のことを母実装はそう言っていた。
実際、同属がいとも簡単に禿裸にされたり手足を千切られたり、自分のような仔実装は簡単に踏み潰されて同属の餌になるのを見た。
「テヂィィィ……」
痛いのはいやだ。禿裸もいやだ。助けて、ママ助けて。
仔実装にとって幸運だったのはそこが薄暗い路地裏だったことと、糞の跳ね返りで尻が薄汚れていたことであった。
人間は新聞配達員で愚痴を零しながらも、ビニールに包まれたそれをポストへ投函する。
バネ式の投函口が戻る反動でやや甲高い金属音を立てると、それに仔実装が敏感に反応した。
「テチェェェェェッェエ!!」
先ほど食った糞を再び糞として漏らしつつ、なんとか逃げ出そうというのか、蹲った姿勢のまま前へ前へと這いずる。
配達員はそれに気付いていたが、何をするわけでもなく歩き去った。
実装石を知ってはいるが、テレビで見るような愛玩動物としての側面程度で、犬猫と同等くらいにしか認識していなかったのだ。
実装石は人間に飼われる、人間の作ったものを享受される、人間の捨てたものを漁るなど人と関わりを持たずには生きられない。
しかも人間の傍まで近寄ることが許されているのは免許持ちの飼い実装や、虐待用の消耗品としてである。
野良実装は公園や人里に近い山林などでしか存在できず、故にその近辺に縁がない人間にとっては、ちょっと高いペット程度にしか思われていない。
この配達員もどちらかといえば実装石に馴染みが薄い方だった。
極稀に駅や商店街で見かけることもあるが、大概はその一度きりであり、深く実装石を知るまでには至っていない。
そのためか、せいぜいが「汚いなぁ」と漏らすくらいである。
何も危害を加えられなかったことに仔実装は安堵の脱糞をし、勿体無いとさっそく口に運ぶ。
「テッチィ! テッチャァ!!」
出したての糞は温かく、それが嬉しいらしい。
先ほどまで満腹だったはずなのにここぞとばかりに平らげるのは実装石の性なのか。
そして再び糞を綺麗にすると今度こそ眠りに落ちた。


次に起きた時には全身にべっとりと汗をかいていた。
「…テフェェェェ……」
未だしとしとと雨が降っているとはいえ夏である。暑くないわけがない。
更には日光が当たらないだけに仔実装の服は生乾きで異臭を放っていた。
仔実装自身は既に食糞などで鼻が麻痺しており、何となく身体がべたべたして気持ち悪いと感じているくらいである。
さて、とりあえず食べて寝て元気を取り戻した仔実装。
「テェェェェチッ!!」
まだ親が迎えに来ていないことにご立腹で、直ぐ傍にあったポリバケツを蹴りつける。
その母親は弱っていたところを空腹の同属に食料として迎え入れられ、既に糞と成り果てていたわけだが。
「テチィィィィィ!! チュアァァァァッァァァァ!!」
昨日のように仔実装は鳴いた。
雨も弱まり一度は自分の足で帰ろうと試みたのだが、
「テジャァッ!!?」
往来する人の多さにすっかり尻込みしてしまったのである。
後に仔実装はこのタイミングで勇気を振り絞って帰路についていればと後悔するが、この段階では親を呼ぶという選択肢以外は選べなかった。
「テチィィィィ……テチィィィ…」
しかしいかな仔実装とは言えども、日が落ちる頃合まで鳴き続け、それでも何も応答がないとなると薄々現状を察し始める。
見捨てられた、と。
「テック…テック……テック」
膝を抱えて泣き寝入りすることで、その日を終えた。
翌日もそのまた翌日も、朝の新聞配達員の来訪に怯え、力ない鳴き声をあげるだけで過ぎた。
糞の出も悪くなり、そもそも栄養の出涸らしであるだけにあっという間に仔実装は衰弱する。
配達員が仔実装の顔を拝んだのは、そうして痩せこけ、隠れるだけの気力も体力も湧かずに、ただ地面に身体を預けて惰性のように糞を垂れ流すようになってからだった。
「うっわ…」
全体的に焦げ茶色を呈したそれを見て、配達員は思わず声が出た。
おぞましい。つい昨日までとは打って変わって目の当たりとなった醜態に鳥肌が立つ。
「チィ……」
仔実装の目はもうあまり見えなくなっていた。
だから目の前を遮る影を親だと思い、嬉しくて、でも起き上がることが出来なくて。
それでもやっぱり来てくれたと安心して、鳴いた。
が、配達員は一瞬だけ留まったものの直ぐにその場を去った。
明日には死んでいるかもしれない。そうなったら心置きなく、隣のポリバケツに捨てられる。
「テ…チュ………ン」
仔実装は媚びた。手も動かず、満足に笑うことさえ出来ないが。
行かないで、ワタシはここにいるの、連れてって、ママ、ママ。
影が消え、薄ぼんやりとしたした視界に映るのははるか頭上の赤い色。
それすらも見えなくなっていく。
仔実装の短い命は今まさに尽きようとしていた。
「テチャァァァァァァッァァ!!」


神様というものがもしいたとするならば、それはほんの戯れ程度に過ぎないのかもしれない。
もっと不遇な仔実装もいるし、別世界のように優雅に暮らす仔実装もたくさんいる。
その飼い実装が路地裏の仔実装の最後の一鳴きを聞いたのは偶然か巡り合わせか。
「どうした?」
「デス…デスゥ、デェッス」
可哀想な仔の声がする、と音源と思しき路地裏を覗き込むが、そこからでは視認できない。
飼い実装は主人である男を見上げて、デスと呟いた。
男は腕時計をチラリと見て、「五分だけな」と頷いた。
ぺったんぺったん。
実装石用の雨合羽と長靴を履いた足取りはいささか鈍いものの何とか目的の場所に辿り着く。
「デー…」
まず飼い実装はその饐えた臭いに顔をしかめた。
ついでぼろ雑巾のような仔実装の身なりに、何をしたら良いか呆然と立ち尽くす。
が、「テェェ…?」と弱弱しくも母親を呼ぶ声が聞こえると、
「デスッ!」
顔を二度、自分で叩いて鼓舞するとその場に屈み込んだ。
汚れも厭わず仔実装を抱き上げ、たすき掛けにしていたポーチからコンペイトウを取り出すと、自らの口に含み甘くなった唾液を垂らしてやる。
嚥下する体力が残っているかどうかは不安だったが、甘味を感じたのだろうか仔実装はもごもごと口を動かす。
程なく仔実装が目を覚ますと、
「テェェェン! テェェェン!!」
「デ…デスゥ…」
飼い実装をママと呼び縋ってきたため、困惑しながらも頭を撫でた。
仔実装が落ち着いたところで、自分はママではないことを告げ、母親はどうしたかを尋ねてみる。
だが、仔実装の答えは要領を得ず、類推として散歩か餌探しの途中ではぐれたのだろうと結論付けた。
公園の事情も知っている飼い実装はおそらくこの仔実装の親も生きてはいないと感じていた。
「おーいそろそろ時間だぞー」
飼い主の声に親実装は後ろ髪を引かれる思いで立ち上がると仔実装に別れを告げた。
「テチャァァッァァ!!? テッチ! テチィ!!」
仔実装は必死に飼い実装を引き止める。それはそうだ、散々苦汁を舐め、一匹では生きていけないと実感したのだ。
けれど飼い実装にも自分の幸せがある。
「デスー」
少し待つように告げると、仔の制止も振り切って一度主人の元へと戻る。
人間のいる場所に近づくことを忌避しているようで仔実装は追っては来ない。
「デ…デス! デェス……」
仔実装を飼っても良いかと。
男の返答は首を横に振るだけの単純なもの。
それ以上は飼い実装も食い下がることはなかった。これ以上我侭を言えばお仕置きされると、男の目を見て理解したからである。
「デス、デスゥ」
せめて最後のお別れをと申し出ると、「今日のおやつは無しでいいな?」と言われ、迷いはしたものの渋々承諾した。
先ほどからしつこいほどに鳴いていた仔実装の下に戻ると、
「テッチューン!」
お愛想をされたが、飼い実装にはどうすることも出来ない。
「デース」
「テェェェェェ!!?」
さよならだと言っても、仔実装は今度は飼い実装の服の裾を掴んで離そうとしない。
そこで飼い実装は罪悪感を覚えながらも、ポーチからこっそり溜めていた実装フードを三粒取り出し地面に置いた。
「テッチィ!」
迷わず飛びつく仔実装に、
「…デスゥ。デス。デッスー」
いい人間さんに飼われて欲しいと語りかけたが仔実装が聞いているかどうかは定かではなかった。
飼い実装が立ち去ったことに気付いたのは実装フードを全て食べ終えた後。
「…テチャァッァァッァアァ!?」
仔実装、何度目か知れない絶望である。


夜を迎え、ひもじさに苛まれる仔実装であったが今までとは異なりひりだした糞をどうも食べる気にはなれなかった。
美味しいと感じないどころか、吐き気さえこみ上げてくるのだ。
どうしてか。
仔実装には自覚はないが、一度実装フードを食べたことにより味覚の要求が一段上がってしまったのだ。
あの飼い実装はしょうがないと思いつつも与えたフードであるが、その場では仔実装を満足させたものの、以後空腹を紛らわす術を奪ってしまった。
「テッチャァ…」
所在無げな仔実装は空を見た。
ビルに切り取られた細長い夜空があるが、それになんら感慨を持つことはない。
名残惜しそうに糞を一瞥した仔実装だったが結局食べることを諦め、寝ることを選択した。
翌朝、配達員の来訪にいつもの如く尻を晒して怯える仔実装。
「あれ?」
昨日より元気になっている仔実装の姿に配達員は疑問を浮かべるも、たまたま具合が良くなかっただけかもしれないと片付けた。
「テヒィ…」
仔実装は立ち去る配達員の背中を見送ると、大きく息を吐いた。
これまでの経験から、どうやら痛いことはされないと分かっていても怖いものは怖い。
一日のうちで一番の脅威が過ぎ、再び空腹を実感する仔実装だったが、やはり糞に手をつけようとはしない。
それどころか臭いを嫌い、小さい手でえっちらおっちらと袋小路の奥へ捨てに行く。そこには格子蓋があり側溝に続いていた。
以後、ここで糞をすればよいと気付くにはまだ少し時間が掛かる。
とりあえず身辺を整理すると壁に背中を預けて、仔実装は歌いだした。
「テッテロチェ〜テッテロチェ〜」
身体を左右に揺らしながらニコニコと。
今日のウマウマはなんだろう。今日のアマアマなんだろう。ご飯、ご飯、美味しいご飯。ママのご飯は最高テッチュン。
そう、仔実装の中では既に昨日の飼い実装がまた餌を盛ってきてくれることになっていた。
幸せを簡単に当たり前へと格下げする実装石である。奇跡だって当然とみなすのも実に自然だ。
だからこそ誰も、何も訪れずに夜になったときに仔実装はこれ以上ないほどの癇癪を起こした。
「テヂャァァァッ!! デジャァァァッ!! テッチィィァァァァァ!」
やり場のない怒りをあたり一面に糞を撒き散らすことで発散する。
見る間に腐臭が漂う路地。
暴れたことで大分すっきりしたのか、仔実装は定位置で丸くなり、目を閉じた。
さて、ここまでで仔実装の一番の幸運はなんだろうか。
それは配達員以外の人間に見つかっていなかったことである。
新聞を運ぶ者がいれば受け取る者もいる。
仔実装の真上にあるポストは単なる飾りではない。
現実にちゃんと新聞は回収されていた。
ただし裏口が開くことはなく、不精な家主はただ窓を開けて新聞に手を伸ばしていたのだ。
「あっちゃぁ…」
配達員が眉をしかめるのも無理はない。
朝の澄んだ空気をぶち壊すように緑の染みが壁にまだらを描き、時間が経って大分薄れたとはいえむせ返るような悪臭も健在だ。
息を止め、手早く新聞をポストに突っ込むと、
「…原因はこの仔、かなぁ」
いつもとは違い安らかな眠りについている仔実装の手や足元に同じような染みが見える。
配達員はおせっかいかと思いながらもポストの中に書置きを入れた。
『実装石を飼い始めましたか?』
短い言葉だったが家主は察してくれるだろうと期待して。
この仔実装が万が一飼い実装だった場合は手を出すわけにはいかないし、そうでなくても他人の敷地を汚すのは躊躇われた上での苦肉の策だった。


「なんてことすんだこの糞蟲がぁ!」
「テヂャァァ! ジッヂュァァァァ!!」
今まで見たことのない人間に怒鳴られ、仔実装はパニックになっていた。
ビニール傘の先で潰さない程度に地面に押し付けられた仔実装の総排泄口からは現在進行形で糞が垂れ流されている。
「誰が掃除すると思ってんだ!?」
「テチィィィ! チュ、チュアアァァァァァァァ!! ァァァァッァァァァァ!!」
今朝方、今までにない異臭を感じた家主は、書置きを確認すると滅多にあけない裏口から飛び出し、寝ていた仔実装の両足を踏み潰した。
騒ぐ仔実装に直接触ることを嫌い、ゴミとしておいてあった傘を取り、押さえつけたのである。
親がいるような痕跡もなく、本格的にここを住処と決めたわけではないようだったが、実装石はいるだけで不快だ。
「ヂィィィィッ! テチャァァァァァァァァァッ!」
いくら薄汚れているといっても流石に糞に塗れてはたまらない。
とはいえ家主の男も虐待派というわけでもないので殺すのに抵抗もあった。
そこで見聞きした情報を思い出し罰を与えることにする。
「確か…服と髪を取られんのが嫌だったっけか」
一度事務所に引っ込んでトイレ掃除用のゴム手袋を嵌めて戻ってくると、なんとか逃げようと仔実装が這い、ポリバケツの裏に頭を突っ込んだところだった。
糞と血がまっすぐ線を引いているだけでなく、もともと隠れていないため男の手は容易く仔実装をつまみあげる。
「テェェェェェェェッ!?」
これまで難を逃れることが出来た逃げ場からあっさり連れ出されたことに困惑する仔実装。
「うわっくっせぇ」
食糞をしていただけでなく積もり積もった汗や垢、泥、さらには生乾きの実装服によって例えようがない臭いを纏っていた。
高所にいる、人間に触れられている。
「テッヒィ! テ…ピィィィィィィッ!」
声が裏返るほど叫び、ぼたぼたと大量の糞が生れ落ちる。
男は舌打ちすると、さっさと済ませようとした。
前髪を摘むとゴム手袋越しにもぬるりとした感触が伝わり、「げぇ…」と嫌悪感を露にする。
「ッテ! テチュ〜ン! テチュ〜ン!」
何をされるか理解したのだろうか。仔実装が一転して甘えるようにお愛想を連発。
が、男の表情はますます険しくなり、
「キメぇよ」
「テギャァァッァァッァ!!?」
一気に前髪を引き抜いた。
真っ赤になった抜け跡に必死に手を伸ばそうとするも届かない仔実装に見せ付けるように、ごわごわの前髪を男は地面にたたきつけた。
「アッアッァァァァァァァッァァ!! ァァァァァァァァアッ!!?」
ギョロリと目をむく仔実装が手の中で暴れる感触に、思わず力を入れて胴を締める。
「キヒィッ!」
どこにこれだけ溜めていたのか、更に糞が零れ落ちる。
「汚ねぇっつってんだろうが!!」
後ろ髪をまとめて千切る。
「ヒッ……ア…ア…」
最早声をあげる力すら失ってしまったのだろうか。すっきりした後頭部をペタペタ撫でる仔実装の顔面は蒼白だ。
男は次に頭巾を掴んで上に引く。
丁度手を上げていた形となった仔実装からするりと実装服は脱げた。
男の手の中で揺れる見慣れた布切れ。
見れば自分はいつの間にか素っ裸。
「ヂュゥゥゥァァッァァァァァァァッァァ!!! ジギィィィィィ!!」
返して。服を返して。懸命に両手を伸ばすが、届くことはない。
男は仔実装を地面に降ろすと、抜いた髪と奪った服を重ねて仔実装から少し離れた位置に置く。
「テッチィィィ! ヂュゥゥゥッッ!!!」
髪、服、ワタシの、宝物。
『いいデスゥ? あそこにいる髪とお服をなくしたのは奴隷って言うデス』
『どれいテチ?』
『それってウマウマテチ?』
『デー…奴隷は最低なんデスー。いっぱいイタイイタイされて、ご飯も貰えずに死んでいくデース』
『テチャァ……どれいイヤイヤテチィ…』
『テプププ、無様テチィ』
姉妹と共に嘲笑っていた奴隷という立場に今まさに仔実装はなりかけていた。
服さえあれば。髪ももしかしたらまだくっつくかもしれない。
脚の痛みを堪えて仔実装は地面を掻く。
「ほらよっと」
男が手持ちのライターで火をつけた。
「…テェ」
脂がたっぷりと付着したそれらは良く燃えた。
真っ赤な火が立ち上り、しかし僅かな燃料だったため直ぐに萎んでいく。
「……テチャァァァ!!?」
「これで勘弁してやるけど、さっさと消えろよ!?」
髪と服だった灰を男は脚で散らすと仔実装に唾を吐きかけて屋内へ引っ込んでいった。
「テヒャァァァ……」
仔実装は泣きながら燃えカスとなった髪と服を集めて回った。
真っ黒な煤は泥や仔実装の糞と混じって何がなんだか分からない代物へと化していた。
それでも仔実装は「テチィ…テチィィィィィ!!!」と身体に、額に塗りたくる。
もちろんそれで元通りとなったわけではないが、身体の前面が泥で覆われると仔実装の見える範囲では服が戻ったようになった。
「…テチャァ」
よかった。これで奴隷にならずに済む。
一つ、勘違いではあるが心配が取り除かれた仔実装は次にどうにかしてここから逃げないと、と感じていた。
けれど脚を潰され思うように動けない。
しかも、どこへ行けばいいかも見当がつかない。とりあえずこの細い道を出なくてはと思っても、表通りの人波にもまれてはたまったものではない。
最終的に仔実装が出来ることといえば助けを呼ぶことだけだった。
それも思いとどまる。
今大きな声をあげたらさっきのニンゲンがやってくるかもしれない。
何も出来ない。
「テェ……ェェ…ェェン」
出来るだけ声を押し殺して仔実装は泣いた。
そんなことをしても何の解決にもならないというのに。


「あ、生きてた」
昼過ぎ、ちょっとだけ仔実装の顛末が気になって様子を見に来た配達員は、相変わらずポリバケツの影で尻を振る仔実装を見て拍子抜けした思いを味わった。
生きているか死んでいるかは別として、もうここにはいないものとばかり思っていたからだ。
しかしその容貌が今までとちょっと違うことに気がつく。
その貧相な身体を包んでいたボロ切れはなく、泥で前面と頭部の一部が汚れていた。
可哀想なことをしたかなぁ。
こっそり望んでいた結末があったとはいえ目の前の惨状は悲惨なことこの上ない。
大分酷い目にあったのだろう。
「テチャァァァァア!! テチャァァァァ!!」
潰れた脚を一所懸命動かして、糞を断続的に噴出しつつなんとか更に奥へと潜り込もうとしていた。
「あー…なんかごめんよ…」
と、配達員はポケットから飴玉を取り出すと包装を剥いて少し離れたポストの下へと置いた。
「じゃあね」
餌を与える。それだけで罪滅ぼしの気分に浸っていることは配達員自身も分かっていたのに。
配達員の気配が去って、仔実装が恐る恐る振り返ると、見慣れない塊があった。
「テェ?」
ピスピスと鼻を鳴らして近づくと僅かに甘い香り。
「テ……テチャァア!!」
試しに舐めてみると優しい甘さが口中に広がる。
仔実装は飴玉にしがみ付き、一心不乱に舐める。
美味しい。甘い。美味しい。ありがとう、ママありがとう。
久しぶりの食事であると同時にこの上ないほどのご馳走は、すっかりママからの贈り物ということになっていた。
もちろんこのママというのは自分を助けてくれた上に、ご飯を置いていってくれた新しいママのことだ。
飴玉のサイズが半分ほどになると、落ち着いたのか今の場所は危険だと再認識したのだろう。
左手に飴を抱え、右手で身体を支えて半身の姿勢で避難を試みた。
それでも仔実装が辿り着けるのはやはりポリバケツの裏が精一杯だ。
とはいえ、これまでは慌てて頭だけを押し込んでいたが、もう少し無理をして体全部を捻じ込んでみた。
少々窮屈ではあるが、逆にその密着感に仔実装は満足して残った飴玉を大事に抱えて目を閉じた。
実際に上から見る分には仔実装は死角になっており、真横から覗かない限りは絶対に見つからないようになっていた。
その証拠に夕方頃に家主が確認のために裏口から顔を出したが、仔実装には気付かなかった。
このことに仔実装はほっと胸をなでおろす。
もう大丈夫。あとはママが迎えに来てくれるまで我慢するだけ。
仔実装にとって飴玉のプレゼントはやはり母親が来てくれたという確信を持つに至っていた。
ならば何故その時に連れて行ってくれなかったのかという疑問はついぞ浮かばず、ひたすらに静かに日々を過ごすようになる。
ここにいれば見つからないという安心感があるせいか仔実装の目覚めは遅くなった。
昼頃にもそもそとポリバケツの裏から這い出すと、袋小路の奥にある側溝の格子蓋の上で糞をする。
そしていつの間にかポストの下においてある日替わりのご飯に舌鼓を打つのだ。


飴をくれてやった翌日、配達員は仔実装の姿がないことにちょっぴり寂しさにも似た気持ちを抱いた。
けれどあれだけ満身創痍の(ように見えた)仔実装がもしかしたらまた戻ってくるかもしれないと、今度はチョコをひとかけら置いてみた。
するとどうだろう、次の日には綺麗さっぱりなくなっているではないか。
これに少しだけ気をよくした配達員は毎日適当なお菓子を置いていくことが日課となった。
仔実装も日々与えられる餌に、満足し食っちゃ寝の生活を送っていた。
が、ある日仔実装は気付いてしまう。
その日は前日に食べた飴に人工甘味料が入っていたせいか、妙にお腹をゆるくしていた。
「テッチテッチ!」
すっかり脚も治った仔実装は明け方に覚えた便意にえっちらおっちら尻を押さえながらトイレと決めた場所へ駆ける。
格子の隙間から落ちないように気をつけて跨り、
「チュッフーン!」
心地よい排便。
と、そこから見える風景に何か物足りなさを感じた。
ポストの下にご飯がないのだ。
まだママが来てない。つまりこれからママが来る。そこで出て行けば連れてってもらえる。
仔実装の幸福回路は簡単な答えを弾き出すと、糞の尾を引きながら自宅と化した所定の位置へ潜り込む。
「テプププ」
ママを驚かせてやろう。びっくりするだろうけど嬉しくて抱きしめてくれるはずだ。
期待に胸膨らませる仔実装の目に映るのはそんな想像とはかけ離れた事態だった。
「…テ?」
ニンゲンがご飯を置いていった?
ここでママなどいないと、自分は一匹だと考えることが出来たらどんなに幸せだったことだろう。
だが仔実装にとってご飯はママが持ってきてくれていることになっていた。
故にこう結論付けたのである。
ニンゲンがママだ、と。


配達員は、「ふぇ?」と間抜けな声を漏らした。
なぜならいつもお菓子を置くポストの下に禿裸の仔実装が鎮座していたからだ。
「テッチューン!」
右手を口元に添えて小首をかしげるお愛想のポーズ。
テレビで見たことはあるが実際に目の前でやられるのは初めてだ。
「どっか行ったんじゃなかったの?」
しゃがみこみ問いかけると、「テッチュウ! テッチュウ!」と両手を伸ばして近寄ってくる。
一体どういう風の吹き回しか。散々震えて隠れてたのが嘘のようだ。
「えっと…お腹減ってるのかな?」
試しに今日の分のお菓子を手渡してやると、ご機嫌な声をあげてかぶりついた。
身体を小刻みに揺らして、リズムを取るように食べる仕草に、配達員の顔が綻ぶ。
「美味しい?」
「テチィ!」
まるで本当に会話を交わしてるような気になって、配達員は満足して立ち去った。
仔実装も無理して追うことはない。
また明日も来ると信じていたし、そのときに連れて行ってもらえればいい、と。
それから何日かは朝の三分ほどを配達員も仔実装もお互いに楽しんだ。
懐く仔実装を配達員はそれなりに可愛いと感じていたし、ママに構ってもらえて仔実装も楽しかった。
蜜月と言っても良かったかもしれない。
「はい、ご飯だよー」
「テッチューン!」
差し出されたのは小さなかまぼこ。
仔実装はくるりと一回まわって嬉しさを表現してから受け取った。
「テッチィ! テッチュチュワァァ!!」
美味しい。いっつも美味しいご飯。ありがとう、ママありがとう。
仔実装が糞蟲だったらそろそろこんなものは食えるかと叩きつけ、配達員の怒りか呆れを引き出せただろう。
しかし、一度糞食いに身を窶したせいか与えられる食事は常に美味しく感じていたため、その危機は回避できていた。
「うーん」
ぺたんと地面に腰を降ろして、幸せそうに与えた餌を咀嚼する仔実装をみて、配達員は思う。
「飼ってみてもいいかなぁ」
「テェ!!」
その言葉に仔実装は食事の手を止めて、配達員を見上げる。
ついに、ついにこの時が来たのだと。
「…テェェ! テェェェェン!!」
食いかけのかまぼこを地面に投げ捨て、よちよちと配達員へと駆け寄る。
「よし、とりあえず調べてみよう」
配達員は仔実装のことは目に入ってなかったようで、立ち上がり去っていく。
「テェェェェェェェェェエェエェェッ!!?」
その行動に奇声を発する仔実装だったが、何か準備があるのだと気を取り直して、砂に塗れたかまぼこを拾い上げて、食事を再開した。
お気楽な幸せ回路はまだまだ健在である。


そして三日ほど何も変わらない日が続き、仔実装はそわそわしていた。
今日こそ、今日こそは。
いつもそう願っているのだが、なかなかママは拾い上げてくれない。
「あ、おはよう」
ポストの下にいつものように座っていた仔実装に配達員は笑顔で挨拶。
僅かに霧雨が降っているのだろうか、しっとりとその髪は濡れていた。
「テッチュー!」
仔実装も身体全体で喜びをアピールし、駆け寄ろうとして、眼が合った。
「…テ?」
「…レ?」
配達員の胸ポケットにすっぽりと納まった同属。
「ほーら親指ちゃんだよぉ」
自分より一回り小さいそれを親指実装と呼ぶことは知っていた。
けれど何故それがママのところにいるのかは理解できない。
「テェェェェ!!? テァァァァァァァッ!!」
叫び、いきんだせいで糞が漏れる。
「うわ、どうしたの!? ほらお友達だよ?」
普段は見ない血走った表情と醜態に配達員は少なからず動揺する。
その様子を見て、胸ポケットから手の平へと移された親指実装は、
「レプププ」
楽しそうに笑った。
何しろ見下ろした先にいるのは禿裸な上に、全身を糞とも泥ともつかぬものがこびり付いているみすぼらしい個体だ。
これを笑わなくてどうするというのか。
「テッ! テジャァァァァァッ!!」
それに気付いた仔実装は四つん這いになり、歯を見せて吼える。威嚇。
「ちょ、ちょっとどうしたの?」
先ほどから困惑してばかりの配達員は仔実装の感情を量りかねていた。
配達員としては実装石も悪くないと思えたのは仔実装のおかげである。
こういう可愛い仕草を見せるものなら飼ってもいいかもしれないと。
しかしこの仔実装を飼おうという発想はなかった。
なぜなら禿裸というテレビや雑誌でよく見る実装石とは大きく風貌が違っていたし、何より汚かったからだ。
汚れは洗えば落ちるが、綺麗にしようという意識がない実装石は不潔なままだとネットで知った。
そのため、ならばいっそのこと新しい仔を飼おうと思っても不思議ではない。
毎朝のコミュニケーションは欠かす気はなかったし、その際にお仲間がいればもっといいだろうとすら考えていた。
だから今朝もてっきり新しい友達を歓迎してくれるとばかり思っていたのだが。
「シャァァッッ!! テヂャァァァァッッ!」
攻撃的な仔実装に、
「レピャーッ! レヒレヒレヒャァァ!!」
騒ぎ立てる親指実装。
何とかその場を宥めようと、配達員は今日の分のご飯であるコンペイトウを差し出した。
実装ショップで親指を買い求めた際に、実装石はコンペイトウが好物であると聞かされ早速準備したのだ。
しかし、仔実装はそれすら払いのけ、執拗に威嚇を繰り返す。
「テシャァァァァァッァア!  チュアァァァ! チャアッァ!!」
何でお前がそこにいる。そこはワタシの場所。ワタシの席だ。
「レプププ。レチィ、レッチィ〜。レッピャー!」
この奴隷は何を言っているのか。ワタシこそが飼い実装であり、単なる野良風情が世迷言を吐くな。
二匹は決して歩み寄ろうとはしない。
「えっと、今日は機嫌が悪いみたいだから明日ね」
そそくさと親指を胸にしまうと配達員は新聞を入れて背を向けた。
「テ!? テチュゥゥゥゥッ!! テッチテッチャァァァァァ!」
待ってママ! ワタシがママの仔なの。その仔じゃないの。待ってママ、ママ、ママ。
仔実装の訴えに配達員は振り向かない。
親指実装をあやすのに夢中だから。
「テッチャァァァァァァァァッァァァッァァァァァァァァッァア!!!」
仔実装は叫んだ。
声の限り、息の続く限り。
呼んだ。
愛しいママを。いっぱい遊んでくれたママを。
しかし、
「うるせえぞ! まだいたのか!!」
現れたのはいつぞやの家主。
彼は仔実装の姿を見つけると、ワンステップでサッカーボールのように蹴り飛ばした。
「ヂッ」
インパクトの瞬間仔実装の身体は爆ぜ、上半身だけが内臓と糞を振りまきながら表通りの丁度入口に着弾した。
早朝の人気の少ない中、仔実装はかろうじて馴染みの背中を見つけた。
配達員。ママ。
その背がゆっくりと遠ざかっていく。
「…ィ……ケプッ」
声を出そうとして、血を吐いた。
折りしも降っていた雨の勢いが強くなる。
それは死に掛けた仔実装の身体を執拗に叩き、血も体温すらも奪っていく。
「ッポ…ァ」
開いた口に雨滴が入り、喉を、息を止める。
胸が痛む。
その理由を蹴飛ばされたからだと仔実装は感じていた。
が、心の痛みとは理解できず。
ひっそりと雨の朝に小さな命の火は潰える。
この仔実装の悲劇は雨に現れ、雨に消えたのだった。

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1 Re: Name:匿名石 2023/06/23-04:13:09 No:00007339[申告]
知恵遅れみたいな配達員だぁ……
2 Re: Name:匿名石 2023/07/06-18:59:01 No:00007453[申告]
飼ってもらえると勘違いするシーン最高です…ざまあ
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