蒼歪め・軋(きしみ) その日の夕方、少女は泣きながら帰宅した。 お気に入りだった白いブラウスは、元の色がわからなくなるほど酷く汚れている。 衣服だけではなく、腕や足、髪の毛や顔まで汚染され、通り過ぎる人達は奇異な目で彼女を眺めていた。 泣き声を聞き、玄関まで迎えに出た母は、そのあまりに惨い様相に驚愕するしかない。 娘は、大量の糞便にまみれていた。 濁った緑色の汚物と、強烈な吐き気を催す汚臭から、それが実装石による被害だとすぐにわかる。 買ってもらったばかりの 新しいブラウスは、一日もしないうちに廃棄せざるをえなくなった。 その一家は、一週間前に引っ越して来たばかりだった。 父と母、そして娘の、三人だけの家族。 ようやく手に入れたマイホームで、これから幸福な生活が始まると思った矢先のこと、娘は野良実装石に目をつけられて しまった。 なんのことはない、ただ隣の公園に遊びに行った時、仔実装におやつを分け与えただけ。 それが原因で、娘は公園の近くを通る度に実装石から嫌がらせを受けるようになったのだ。 何が気に入らないのか、親切にしたのになんで苛められるのか、娘には全くわからない。 ただ娘も、両親も、この公園に住み着く実装石が大変悪質で、地域住民の多くが被害に遭っているという現実を知らされて いなかった。 威嚇、罵声と続いた娘への執拗な攻撃は、ついに糞投げという最悪の事態に発展する。 後日、娘は衣服の汚染だけでなく、顔面に受けた糞の一部が左目に入り込んだため、視力が極端に低下している事も判明した。 公園は自宅のすぐ脇で、しかも通学するためには、近道しても遠回りしても、公園の脇を通らなければならない。 娘はすっかり実装石に怯えてしまい、両親もなんとか解決する方法はないものかと、必死で悩んでいた。 翌週、娘はついに登校拒否を始めた。 娘を追跡して家を突き止めた実装石達が、ついには玄関先を大量の糞で汚すという行為に至ったためだ。 娘が無抵抗なのを良いことに、実装石達は徹底的に苛め抜こうとしている。 実装被害を免れている手段をまだ知らされていない一家は、ただ一方的に被害を受け続けるしかない。 ついには庭内にまで侵入し、外壁まで汚し始めたため、娘のパニックぶりはピークに達しようとしていた。 このままでは、まともな生活は続けられそうにない。 保健所の駆除活動を待つ時間もなく、父は、ネットや知人を経て、自衛手段を考慮する事を決意した。 父が辿り付いた結論は、「実蒼石」と呼ばれる、実装石の亜種を飼うというものだった。 これは実装石と同属でありながら性質が大きく異なり、賢く利口で人間には従順、しかも清潔で礼儀正しいという文句のつけよう のない存在だ。 その上、身内や家族を護る性質がとても強く、生まれつき携えている「鋏」に似た武器で外敵を排除する本能を持っている。 ペットショップだと、躾け済みの幼生体は十万円から、中型クラスになると三十万円以上にも及び、決して安い買い物ではない。 しかし父は、一刻も早く実装被害を抑制するため、あえて購入に踏み切ることにした。 血統書付きの仔実蒼は、娘が登校拒否を始めた三日後に到着する。 コロコロとした丸っこい顔に、緑と赤のつぶらなオッドアイが良く似合っており、ちょてちょてと歩き回る仕草も可愛らしく、 あまりの愛らしさに母も一目で気に入った。 最初は怯えていた娘も、仔実蒼の愛らしさ・健気さに、少しずつ心を開くようになった。 血統書に記された「シアン」という名前をそのまま呼ぶことにして、父は、早速仔実蒼に実装石の駆除を命じることにした。 だが仔実蒼は、父の顔を見て小首を傾げる。 躾け時を除き、自分に初めて命令をするのは父だ。 しかし、父は購入直後、シアンに対して娘を主人と思うように教えていた。 このままでは、シアンは主従関係を把握出来なくなってしまう。 やむなく父は、娘からシアンに命令するように伝える。 だが、実装石を極端に恐れる娘は、忌み名を告げられるだけでパニックに陥ってしまう。 散々悩んだ末、父は仕方なく、しばらくシアンを外飼いにすることにした。 庭に侵入してくる実装石を撃退する展開を望んだのだ。 首にリード線をつけられ、たった一人で庭に置き去りにされたシアンは、泣きながら必死で娘を呼ぶ。 飼い実蒼とはどういうものか、どういう飼われ方をされ、どのように立ち振る舞うべきかを、ブリーダーによって徹底的に躾けられた シアンにとって、父の選択はありえないものだった。 どんなに呼び求めても誰も助けてくれない状況に、シアンは次第に不安と怒りを募らせていく。 シアンは、「大切な家族から冷たく引き離した存在」として、父を認識してしまった。 そんな彼女の様子を、泣き声を聞き集まってきた野良実装達が、遠目に窺っていた。 口元に浮かぶ下卑た笑みは、自分達より遥かに小さく、弱々しい生物に向けられたものだった。 ※ ※ ※ 翌朝、庭を見た父は、予想外の事態に吃驚した。 身長60センチはあろうかと思われる、大型の成体実装が三匹。 それらが大の字になって倒れ、首元から大量の血を流していた。 いずれも目が灰色に濁っており、とうにこと切れていることはすぐに解った。 リード線は切断されており、シアンは庭の脇を陣取り、すやすやと眠り続けていた。 その全身は大量の返り血で汚れており、鋏も元の色がわからないほどになっている。 よく見ると、実装石は喉笛だけでなく、足や腹部、背中にも多数の刺し傷があった。 シアンは、実装石達の移動能力を奪った後に喉笛を刺し、反撃出来なくなったところでメッタ刺しにしたようだ。 見た目の愛らしさに反し、的確かつ執拗な殺傷行為を行う実蒼石の有様に、父は戦慄を覚えた。 父は、娘に「シアンが実装石を退治してくれたよ」と報告すると、あらためて実装石からの警護をシアンに命じるよう促す。 娘も、最初は抵抗したものの、実蒼石の防衛効果は本物だと確信し、指示を行うことにする。 シアンは、ようやくご主人様から命令をもらえたため、全身で喜びを表現した。 それから一週間。 娘から命令を受けたシアンは、自ら庭を警護するようになった。 もう外で泣き喚いたりせず、堂々と庭に立つ。 そして、入り込んでくる者を追い払い、或いは的確に葬り続けた。 実装石は当然として、その範囲はネズミやムカデ、ゴキブリにも及ぶ。 八日目にさしかかる頃には、なんとコウモリすらも仕留めるほどに技量を高めていた。 毎朝、多数の死体を処分する父の負担は増加したが、代わりに娘のパニックも収まりを見せ始める。 また、玄関前が糞便で汚染される被害もなくなっていた。 実蒼石が住んでいる家屋だという認識が広まったのか、付近で実装石の姿を見かける頻度も激減した。 やがて、娘は登校を再開する。 無論、途中までは母とシアンの付き添いが必要だった。 娘は、頼りになるボディガードを心から信頼し、そしてシアンも、娘からたっぷりの愛情を受けて満足そうな微笑みを浮かべて いた。 しかし、どんなに優しい声をかけてもおいしいエサを与えても、父にだけは決してなつこうとしない。 それどころか、常に距離を置き警戒するようになる。 父には、何故シアンがそんな態度を取るのか、全く理解が及ばなかった。 娘が、公園脇の道路を歩く。 すると、それを見止めた野良実装達が反応し、じわじわと接近を始める。 口元には嫌らしい笑みを浮かべ、ブリブリと糞便を漏らしながら。 その臭気は、娘と母の鼻にもすぐ届く。 娘に怯えの表情が浮かぶよりも早く、シアンは、母の腕の中から「離陸」する。 ——そう表現するのが相応しいほどの飛翔力で、シアンは野良実装達の中へ飛び込んだのだ。 目にも止まらぬ素早さで、園内を駆け抜けるシアン。 残像の後には、喉を割かれ、四肢を切り裂かれた実装石が次々に倒れ伏す。 その動きは実に合理的で、逃げさせず、かつ確実に殺せるように、まず両脚の腱を狙う。 姿勢が崩れ、どんどん迫ってくる地面の迫力に叫び声を上げようとするが、その前にシアンの二撃目が喉に炸裂する。 痛みが脳に届くよりも早く、野良実装は自身の声が出なくなった事に戸惑い、続けて大量の血が視界を覆う様に驚く。 声を立てようにも、出てくるのはゴボコボという濁った泡音のみ。 ようやく脳に届いた激痛の情報が、野良実装の全身を蝕む頃、三撃目が頭や腹に突き刺さる。 パキン、というガラス細工が砕けるような音を耳奥で聴き、野良実装の意識は、まるで途中で止められた映像のように途切れて いく。 苦しみのたうちまわる隙すら与えられることなく、野良実装は次々に動かぬ肉塊へと変貌した。 シアンの動きに翻弄される実装石達は、全く状況を把握出来ない。 ものの数分もしないうちに、シアンは十体もの成体実装を殲滅した。 息切れ一つ、せずに。 全身を血に染めながら、シアンはにこやかに娘の下へ戻る。 その異様な光景に、母は眩暈を覚えた。 そして、娘は——失禁していた。 その頬を、ひきつった笑みで歪めながら。 足元には滴がしたたり、小さな水溜りが生み出されていた。 ※ ※ ※ 娘がシアンと共に外出するようになってから、二週間。 もはや実装石達は、彼女の有視界内にすら入って来なくなった。 時折公園の草原が揺れ、緑色の服の一部が覗いたりする事はあっても、あの醜く汚れた姿がはっきり見える事はない。 あれほどまでに執拗につきまとっていた実装石達も、シアンの脅威をさすがに理解したようだった。 安息の日が、ようやく一家に訪れる。 一月も経つ頃には、娘は笑顔で家を飛び出していくほど元気を取り戻し、両親も胸を撫で下ろした。 そして、一家の救世主となったシアンはとても大事に育てられ、また彼女も、決して増徴せず節度をわきまえた態度を維持し、 大変理想的なペットとなっていた。 特に娘の可愛がりようは凄く、外出時には必ず抱きかかえ、眠る時も同じベッドを利用するほどだ。 面倒な世話を親に押し付けるようなことは一切なく、娘は、愛情と感謝の気持ちを込め、シアンを丁寧に丁寧に扱う。 しかし、相変わらずシアンに懐いてもらえない父は、二人の仲睦まじさに僅かな不満を抱き始めていた。 変化は、二ヶ月目の半ばを過ぎる頃に、突如起こった。 シアンが、自宅内の至るところで破壊活動を行うようになったのだ。 それは、猫の爪研ぎや犬のストレス発散の比ではない。 リビングの酒棚が割られ、瓶が外に投げ出されたり、カーテンがズダズダに引き裂かれたり。 更には、玄関やトイレのドアに穴が開いたり、父のスーツや鞄、革靴が原型を止めないほど破壊されたりと、あまりにも酷い有様 だった。 特に父の所有物の破損が酷く、被害額も相当なレベルに達したが、娘の部屋や持ち物が傷つけられたことは全くない。 父は、娘の監督不行届きを激しく叱りつけたが、その脇で鋏を抱きながらじっと睨み付けるシアンの殺気に圧され、最後まで話す ことが出来ない。 娘は涙を流しごめんなさいを連呼するが、今後どうするかという解答は、とうとう述べずじまいだった。 三ヶ月目に入ってもシアンの凶行は止まらず、あげくには父の目の前でも平気で破壊活動を行うほどになっていた。 制止の声をかけると一旦は止まるのだが、父を睨み付けて移動し、別な場所で暴れるのだ。 辛抱たまらなくなった父は、母と相談し、シアンを保健所に送り処分してもらう段取りを付けることにした。 しかし、それも泣いて懇願する娘のせいで、無期延期となってしまう有様だった。 母はインターネットで、実蒼石の性質について調査をしてみることにした。 すると、他にも同様の行動を取る飼い実蒼石の例が多数報告されている事が解った。 原因は、ストレスだった。 一度でも実装石の駆除を経験した実蒼石は、「狩り」に対する意欲が増進してしまい、これが抑制される環境にあると破壊活動 に走るという傾向があるという。 これを制するためには、子猫や子犬、兎やハムスター、または実装石などを別途購入調達し、実蒼石のストレス解消用にする のが一番とある。 一度でも狩猟本能に火が着いた個体は、そうでもしないと精神的バランスを失ってしまい、やがては飼い主をも傷つけかねない ような危険性を発揮してしまうという。 シアンがそんな状態に陥ったのは、狩猟対象が激減した影響だろうと考えられる。 とてもではないが、シアンのストレス解消のためだけに子犬や子猫を買うわけにはいかない。 また、自宅内でシアンが他の生物を殺傷するところなど、絶対に見たくないし、見せたくなかった。 悩んだ末に母は、近所の夫人達に相談を試みることにした。 母親が導き出した解答は、シアンを散歩に連れて行くというものだった。 実装生物を飼う場合、基本的に散歩は必要ないのだが、実際には可愛いペットを見せびらかしたいと願う飼い主が、よく外に 連れ出している。 だから、実蒼石を外に出すのも、特に不自然な光景ではないだろうと思われた。 伸縮式のリードを着け、娘と共に夜遅く家を出る。 本当ならば母親だけで行くべきなのだが、シアンは娘と一緒でないと制御が効かない可能性が高かった。 渋る娘を連れ、人通りの少ない住宅街を抜け、遠くにある別な公園を目指す。 そこには、いまだに野良の実装石が沢山住み着いているのだ。 母は、夫人達から聞いた話に頼り、そこでシアンを「充実」させるしかないと考えていた。 公園には、確かに多数の野良実装がひしめき合っていた。 詳細を伝えず連れてきた娘は当然怯んだが、母は心を鬼にして言い含める。 ここでシアンのストレス発散をさせないと、いつか大変なことになるかもしれない、と…… 泣きじゃくりながらも母の言葉に頷いた娘は、リードのロックを外し、シアンに呼びかける。 と同時に、シアンは素早く暗闇の中に姿を消す。 数秒後、闇を切り裂く怪しい悲鳴が、所々で響き出した。 肉を切り裂き、血しぶきが飛び散る音が、二人の許まで届く。 そのあまりにおぞましい状況に、母は耳を押さえ目を閉じる。 だがその横では、いつの間にか泣きやんだ娘が、身体を小刻みに揺らしている。 その様子は、以前にもどこかで見かけたことがあるような気がしてならなかった。 シアンの散歩を行うようになってから、家庭内の破壊活動はピッタリと止まった。 父はようやく胸をなで下ろしはしたが、同時に新たな不安を抱えてもいた。 もし、散歩先の公園で実装石がいなくなったら、どうなるのだろう? と。 父は、実蒼石に限らずあらゆる実装生物について、詳しい知識を持っていない。 そのため、実装石が持つケタ外れの繁殖能力についても理解がなかった。 父の不安をよそにシアンの散歩は順調に続き、一ヶ月を悠に越す。 公園の周囲でも、野良実装による住民の被害が激減したという噂が流れ、それは一家の耳にも届いていた。 このまま、全てが上手くいくかのように思われたが、破綻はその月の下旬に突如発生した。 ※ ※ ※ ある日の夕方、娘が血相を変えて帰宅した。 出迎えた母に挨拶もせず、娘は自室に飛び込むとシアンを連れて再び外に飛び出す。 その、余りに鬼気迫る態度に言い知れぬ不安を覚えた母は、娘の跡をつけた。 行き先は隣の公園で、その入り口の一角には、中型の段ボール箱が無造作に置かれていた。 段ボール箱は、血にまみれている。 母が駆けつけたのは、ちょうどシアンが、最後の仔実装の首を鋏で切断する寸前だった。 母の咄嗟の制止も聞かず、シアンは、何の躊躇いもなく仔実装の首を切断した。 吹き出す血飛沫を顔や身体、鋏に受け、恍惚の表情を浮かべるシアンと、紅潮した顔つきでその様子を窺っている娘。 母は、彼女達の前に出ていく事が、どうしても出来なかった。 しばらく後、事後の公園を再度訪れた母は、件の段ボールの中に三体の仔実装の残骸が散らばっているのを確認した。 『とっても人懐っこい、可愛い子供達です どなたか可愛がってあげてくださいね』 箱には、そう書かれた張り紙が付けられていた。 娘が、休日にシアンを連れて外出するようになったのは、それからだった。 飼い実蒼の常識として、お出掛けの時は鋏を置いていくか、或いは専用のケースに収めていく事になっているが、偽石が体内に あるタイプのシアンは前者で対応する。 娘にとって、シアンはもはやかけがえのない程大事な存在になったようで、友人にしきりに自慢していたようだったが、今回は いよいよお披露目という段階だった。 出掛けた先は、学校で一番最初に仲良くなった少女の自宅。 だがそこでは、既に成体に成長した実装石が飼われていた。 まだ子供の実蒼石に過ぎず、凶器を持っていないシアンに対し、飼い実装は露骨な嫌悪感を示し、口汚く罵倒する。 その言葉は少女達に理解出来る筈もなかったが、目に悔し涙を浮かべて飼い実装を睨み付けるシアンの様子に、娘はただならぬ 物を感じ取った。 実装石は、シアンちゃんより大人だから、ペットとしての心構えを教えてあげているのよ。 友人は、そう言いながら飼い実装の頭を愛しそうに撫で上げる。 うちのシアンも、最高のペットなんだという娘の反論は、即座に却下される。 よく躾けられた実蒼石は、実装石の前でも感情を剥き出しにはせず、おとなしくしている筈である。 それが出来ないシアンは、まだ躾が充分じゃない。 友人の指摘通り、出荷後のシアンは躾らしい躾を全く受けていない。 躾済みの個体を購入したので、もう必要ないだろうと家族全員が考えていたのだ。 当然、ただ可愛がり甘やかすだけの娘が、何かを教え込もうとする筈もない。 それが裏目に出ていることを、友人は的確に指摘したのだが、娘には理解が及ばなかった。 しかし、手を上げたりこそしないものの、シアンを誹謗中傷し続ける飼い実装の下劣さも、相当なものだ。 三十分程経った時、遂に我慢の限界に達したシアンは、娘達の傍に居るにも関わらず、飼い実装に襲いかかった。 轟く悲鳴と、叫び声。 シアンは、飼い実装の腕に激しく噛み付いていた。 否、そんなレベルではなく、傷口からは大量の血が溢れ、みるみるうちにカーペットを汚染していく。 激痛にあえぐ実装を助けようと、友人は慌ててシアンを振り払った。 弾き飛ばされ、部屋の壁に激突したシアンを抱き上げると、娘は怒りの形相で、友人を非難した。 幸い、シアンは軽い打撲だけで怪我らしい怪我を負わなかったが、友人の飼い実装は左手を大きく食い破られ、実装の治癒力 ですら完治に二日はかかる程の重傷を負った。 無論、その日以来、娘と友人の関係が破綻したのは言うまでもない。 だが、話はそれだけで終わらなかった。 母は、ある平日の夜、娘がシアンを連れ立って無断で出掛けた事に気付いた。 父が帰宅する時刻になっても戻らないので、心配した母は、心当たりのある家に電話を架けてみる事にした。 以前仲の良かった娘の友人宅に架けた途端、受話器の向こうから女の子が号泣する声が聴こえてきた。 余りの大声に良く聞き取れなかったが、友人の母親によると、何か事故に巻き込まれたらしいという。 取り込み中のため電話を切ったその直後、娘がシアンと共に帰宅した。 脇に立つシアンは剥き出しの鋏を携帯しており、その刃は血に染まっている。 そして二人は、揃って満足そうな笑みを浮かべていた。 両親の追求に対し、娘はただ「なんでもないわ」と繰り返すだけ。 父は、娘が単独で「シアンの散歩」をする事に猛反対したが、母は、これまでとは違う何か不気味なものを感じ始めていた。 ※ ※ ※ シアンが家にやって来て、一年が経とうとする頃。 娘は、あれだけ寵愛していたシアンの世話を、完全に放棄していた。 彼女の関心事は外部の友人関係へと向き、時間の殆どをそちらに費やすようになったのだ。 年齢的にも、それは当然の事だったが、その煽りを被ったのは両親だった。 既に成体へと成長したシアンは、以前より賢さが増し、ある程度自我を抑えられるようにはなっていたが、やはり仔実蒼時代の 習慣が抜け切れず、実装石を対象にした過度なストレス発散は継続しなければならなかった。 しかし、体格や運動性能が向上したため、以前と同じ殺傷規模では満足出来なくなり、遂には近所の野良猫なども殺害対象に するまでに至った。 それでも、娘がかまってやっていれば、そこまでストレスを溜めることはなかったのだが…… 当の娘は、夜遅くに戻ってくると疎ましそうにシアンを見つめ、自室から完全に閉め出してしまう。 しかし、近所の公園で実装石を見つけた時に限り、シアンを連れ出し処分させる。 娘の実装石嫌悪は年を経る毎に肥大化し、シアンは殆ど道具のような扱いしかされなくなった。 にも関わらず、シアンは娘に対してだけは一切反発することなく、忠実に仕え続けていた。 一方、シアンと父の関係は、以前よりも更に険悪化していた。 実装生物が、ある程度人間の言葉を理解するという特性を知らなかった父は、ある日、シアンの目の前で彼女を用済みと罵り、 保健所に処分を依頼しようと母に相談した事があった。 それ以来、シアンは父の傍には決して近寄らなくなり、たまに同室に居合わせると、激しい憎悪のこもった視線を投げ付けるまで になった。 そんな状況のため、シアンの世話は専ら母が行わざるをえなくなったが、そんな彼女にも、シアンは決して気を許そうとしない。 シアンにとっては娘が主人であり、それは絶対的なものなのだ。 たとえ当の本人から避けられたとしても、実蒼石は一度固めた認識を変える事が出来ない。 親身に接してくれる他人よりも、冷酷な主人の方が大事なのだ。 しかし、実蒼石がそういった特性を持っている生物だということを、家族の誰も理解していなかった。 だが、ある時期から突然、娘はシアンを高頻度で連れ出すようになった。 シアンを連れ出す事は野良実装を狩るため、という認識を持っていた両親は、唐突な変化に戸惑いはしたものの、二人の関係 が戻ったのだと考え、少しだけ胸を撫で下ろした。 ——娘が、血に汚れたシアンを連れ帰る日が来るまでは。 その日の二人の様子は、明らかに異常だった。 異様な興奮状態の娘と、 まさに真っ赤という表現がぴったりな状態のシアン。 驚く母をよそに、珍しく自らシアンを洗うと言う娘に、母はかつてない程の嫌な予感に駆られた。 翌日、自宅から数百メートルも離れていない場所で、殺人事件が発生したというニュースが届いた。 被害者は娘の同級生の、野球部員の少年だった。 死因は、首筋を真一文字に切り裂かれた為の失血死だが、その後更に、鋭い凶器で顔面を何度も抉られていた。 現場周囲は凄惨な状況で、まさに血の海だったという。 部活動帰りの暗くなる時間帯だった事、現場が閑寂な住宅街の外れだったため目撃者が全くいなかった事、被害者は悲鳴すら 上げることなく殺害された事などもあり、警察は犯人の想定すらろくに行えない状態だった。 その犯行手口から、警察は怨恨の線で調査を開始したが、当の被害者がそこまでの恨みを買うような人物には思われなかった。 当然の如く、この事件は住宅街全体の話題となった。 同世代の子供を持つ親は警戒心を高め、地域内の各学校では厳重な警戒を行う運びとなった。 犯人が特定されていない以上、皆が次の事件を懸念するのは当然だったが、たった一つだけ、他とは全く違う考えを持つ家族が いた。 母は、この事件に娘とシアンが関わっている気がしてならなかった。 しかし、どうしても娘を追求する勇気が湧かず、父にも相談出来ずにいた。 それから三週間後、ある少女が下校中に背後から斬りつけられ、背中に重傷を負うという事件が発生した。 死亡には至らなかったものの、三十センチにも渡る傷跡は相当な重傷で、しかも公衆の面前で発生した事件のため波紋の 広がり方は前回の比ではなかった。 まるで、かまいたちのような「姿なき者」によってズバリと斬られたという証言が、友人関係者から述べられたが、それ以外には 有力情報は一切なく、警察は再び困難な調査を強要される事となった。 そしてその当日も、母は娘がシアンを洗浄する場面を見ていた。 ※ ※ ※ 娘が校内で虐めに遭っているという報告を両親が受けたのは、更にしばらくの間を置いてからだった。 普段の出来事を全く話そうとしないため、父も母も、娘の学校生活の様子を窺い知る事はなかったのだ。 担任教師によると、娘は普段から協調性に乏しく、また反抗心も強く、気に入らない相手に対しては感情を隠そうとしない性質が 見られるという。 普段の生活からはとても考えられない娘の態度に母は激しく驚愕させられたが、それが原因で同級生の反感を買い、虐めに 遭っているのだという事はすぐ理解出来た。 そして、先の事件の被害者が、どちらも娘を虐める側の人間だったという事も、その時初めて知る事が出来た。 母の相談を受け、遂に父は、事態の追求を決意した。 無論それは、事実の否定を期待してのことである。 だが、二人に示された各種情報は、かの事件と娘を関連付けずにはいられない内容ばかりだった。 その晩、シアンを連れて出かけようとする娘を、父は強引に引き留めた。 渋々戻った娘は、父から、いつも夜に出かけて何をしているのかと追求される。 目を伏せ、無言のままじっとする娘と、父をジッと睨み付けるシアン。 娘のポーチからは、シアンの鋏を収めている専用ケースが大きくはみ出ていた。 数十分にも及ぶ父の一方的な呼びかけは、娘の無言の立席で終了した。 怒鳴りつけ、娘の肩を掴もうとした父の手に、激痛が走る。 見ると、いつの間にか鋏を取り出したシアンが、彼の手を斬りつけていた。 傷は浅かったが、父は、何のためらいもなく斬りつけて来たシアンの態度に恐怖と確信を覚える。 だが、自室に戻る娘を、それ以上追求する事は出来なかった。 その週の金曜日、再び事件が発生した。 しかも、今回は三件の連続発生で、被害者三名は全員即死という過去最悪の結果となった。 やはり被害者は、娘と同じ学校に通う同級生で、下校中を何者かに狙われた。 死因は、首筋への一刺し、頸動脈の切断、そして頭部切断。 前者二名は、殺害された後に顔面をメッタ斬りにされ人相が解らなくなるほどの惨状だったが、首を切り落とされた被害者だけ は、そこまでの追撃はされなかった。 それは、通りすがりの主婦がたまたま現場に居合わせたためだと思われたが、一部始終を目撃した者が居たにも関わらず、 犯人の概要は様として知れなかった。 もっとも、目撃者となった主婦はその後過度のPTSDを併発してしまい、充分な証言能力が発揮出来ないとも判断されたのだが。 今回の被害者も、やはり娘の虐めに荷担している者達だった。 この頃になると、校内でも“娘に関わった者は殺される”といった噂が流布し始めており、中には彼女が犯人なのではないかと する意見または誹謗中傷も公然と囁かれるようになった。 無論、それは担任教師を経て両親にも伝えられたが、母は、取り乱さないように努めるので精一杯という状態だった。 父も、日々の業務に加え精神的なストレスを伴い著しく体調を崩してしまい、定期的な通院を余儀なくされるほど疲弊してしまった。 もはや二人は、肉体的にも、精神的にも追いつめられている状況と云えた。 実蒼石は、生来とても高い運動能力を持ってはいるが、成長することでそれは更に高まり、時には大型獣ですら殺傷しかねない ほどの戦闘能力を発揮する。 また、あまりにも素早いため、状況によっては人間の動体視力ですら捉えるのが難しいほどだ。 この上で凶器である鋏を携帯しているため、成長した飼い実蒼の管理は厳密さが求められる。 しかし、世間ではまだ「実蒼石はとても賢くて人間の言うことならなんでも必ず守る」という常識観がまかり通っていたため、 実蒼石の倫理観育成と自己抑制教育に本腰を入れようとする飼い主は、まだまだ少なかった。 それどころか、実装石と異なり成体になっても愛らしい外観が崩れないため、つい実蒼石愛護にかまけがちになってしまう飼い主 も多く、そのため各所でトラブルが発生しているのも現状だった。 娘の為を思い、躾済み実蒼シアンを購入した父と母だったが、彼らは実蒼石のことをあまりにも知らなすぎた。 本来であれば、家長である父がシアンの主人となり、家族と共に過ごすようにと家庭内教育を施すべきだったのだ。 しかし、自宅に招くより先に娘が主人だと教えてしまったため、シアンはそれを受け容れてしまった。 実蒼石は、一度受けた命令は生涯ずっと忘れることはないが、同時に変更が利かない。 このため、最初の接触時は最も神経を払う必要があるのだが、父と母がそれを理解したのは購入後しばらく経ってからのことだ。 時既に遅く、今までペットなど一切飼ったことのなかった一家に於いて実蒼石シアンの主人となったのは、自分の都合の良い時 だけしか構おうとしない「娘」だ。 シアンは娘を盲目的に慕い、たとえどんなに冷たくあしらわれても彼女に従い、好かれるためならばと、どんな過酷な命令をも 受理した。 そして、その為に発生するストレスは、「狩猟」と他の家族に対する反発で発散していたのだ。 もし、シアンと直接意見のやりとりを行う手段があったなら、彼女の口からも、娘に対する不平不満が聞けた事だろう。 だがシアン自身が、娘を変えてしまう要因ともなっているのだ。 そこまで彼女自身が理解・把握に努めていたのかは、定かではない。 頭は良いが思いこみが激しく、頑固で融通が一切利かない実蒼石は、成長後の再教育を全く受け付けない。 もはや、シアンは完全に手遅れの状態だった。 ※ ※ ※ 連続殺傷事件の犯人は実蒼石であると警察が断定したのは、それからしばらくしてからの事だ。 実際には、最初の事件の時点で実蒼石による犯行の可能性は示唆されていたが、人間の味方である賢い実蒼石がそんな事を する筈がない、という愛護主義者が内部関係者に居たため、より確実な証拠を固めた上で再調査を行う必要性が生じてしまった のだ。 決定的となったのは、背中を切りつけられた少女と首を切断された被害者が、いずれも目撃者がいる状況下で事件に巻き込まれた 点だった。 現場を直接見ていた者達の目に止まることなく、スピーディに殺傷を行える可能性のある者は、実蒼石しかありえない。 また、現場付近から一切の凶器が発見されず、またその種類の特定も叶わないという点も、実蒼石に容疑を絞る要因となった。 内部に太い骨を有する人間の首を、瞬時に切断するために必要な条件を、かの現場状況下で人間が満たす事は出来ない。 消去法的な考え方ではあったが、こういった見地から「人間にあらざる者」が関わった可能性は無視出来ないとして、実蒼石が 疑われるのは当然の流れだった。 警察は、事件現場付近の実蒼石の所在を確認する事から始め、まず保健所に協力を要請。 自治体により、飼い実蒼には必ず埋め込まれているマイクロチップの登録ID照合を開始。 これにより、事件現場半径2キロ以内には、飼い実蒼が三匹存在している事が判明した。 しかも、そのうち二匹はまだ身長が15センチに満たない仔実蒼で、成体クラスに成長した者は一体しか居ない。 言うまでもなく、それはシアンの事であった。 警官は住宅街を巡り、実蒼石についての情報を集め始めた。 近所の者達は、かつて公園の野良実装を過度に駆逐している様子を目の当たりにしていたため、口々にシアンの情報を提供 する。 母は、その話を友人の夫人から聞き、慌てて父を呼び戻した。 ここまで来た以上、もはや娘がシアンを使役して人間を殺傷させていた事を認めざるを得なくなった。 だが不思議なことに、警察は一家をすぐに訪問しようとはしなかった。 不気味なほど、平穏な時間が流れていく。 近所の住人達による奇異な視線の中、学校から帰宅した娘は、早速自室からシアンを連れ出そうとする。 そんな彼女の腕を掴み、ついに父は、手を上げた。 父と母は、娘に迫り、全ての事情を説明するようにと迫った。 両親が、これほどまでに激しく娘を責めた事はなかった。 娘は泣きべそを掻き、慌てふためきながら、何がなんだかわからないと繰り返す。 しかし父が、シアンを連れてこれから誰を襲おうとしているんだと追求した途端、娘の態度が豹変した。 娘はすぐに落ち着きを取り戻し、妙に冷めた口調で説明を始めた。 予想通り、娘はシアンを使役していた。 事の発端は、以前彼女が遊びに行った先の飼い実装だった。 シアンの存在を貶されたと感じた娘は、シアンに命じて、散歩中の飼い実装を襲わせた。 だがそれは友人にすぐ感知され、翌日には校内の噂の中心となった。 他人のペットを殺した女、というレッテルを貼られ、娘への虐め行為が始まった。 具体的な証拠など一切なかったが、年端も行かない子供達にとって、そんなものは必要ない。 ただ、娘が飼い実装を殺させたという疑惑があれば、それだけで充分なのだ。 きつい虐めを受け続けた娘は、やがてその怒りを発散させようとし始めた。 かつてシアンに命じて公園の実装石を殺傷させていたように、今度は、自分に危害を加える者達を攻撃させる。 主人である娘の命令を受け、シアンは速やかに事に及んだ。 リーダー格であった野球部の少年を殺害。 二回目の時は機を焦って失敗したため、三回目からはより確実に仕留めるように命令した。 離れた場所から、シアンが生徒達を殺傷する場面を、娘はじっと観察していたという。 心の中で、何度も「ざまあみろ、いい気味だ」と叫びながら…… まるで楽しい思い出を語るように説明する娘と、それを聞きながら青ざめる両親。 ショックのあまり号泣し崩れ落ちる母をよそに、父は、玄関に置かれた練習用のゴルフクラブを掴むと、そのまま階段へと突き 進んでいく。 父にしがみつき食い止めようとする娘だったが、母がそれを必死で引き剥がそうとする。 もはや、何もかもがお終いだった。 父は、ゴルフクラブのグリップを強く握り締め、娘の部屋のドアを乱暴に開く。 その中では、ベッドの枕に何度も鋏を突き立てている、シアンの姿があった。 一心不乱に枕をズブズブと突き刺し、父の姿に気付こうともしない。 階下から響く娘の叫び声をあえて聞き流し、父は、再びゴルフクラブを握り締める。 娘の部屋の中に入り込むと、父は、鬼気迫る表情でゴルフクラブを振り上げた。 家屋内に、凄まじい絶叫が響き渡ったのは、その直後だった。 ※ ※ ※ 三十分ほど後、複数の警官が一家の自宅を訪れた。 警官達は、檻に入れられた数匹の実蒼石を伴っている。 一人だけ制服の異なる警官からの指示を受け、何度も頷く三匹の成体実蒼石は、それぞれが持つ鋏をしっかり抱き締め、檻の 出口付近でじっと待機する。 警官達は、ヘルメットと防弾チョッキをまとうと、目線で合図を行い呼び鈴を押した。 と同時に、中から大きな激突音が響いて来た。 警官達は、ためらう事なく庭内に飛び込むと、玄関のドアを開けようとする。 鍵は、かかっていなかった。 玄関を開けた途端、廊下の奥から、何者かが素早く飛びかかってきた。 先頭の警官のヘルメットに、硬い金属のようなものが激突する。 それと同時に、檻で待機していた実蒼石達が一斉に飛び出した。 激しい金属音が、狭い空間内で何度も交錯する。 危険を感じた警官達は一旦外に飛び出したが、ほんの短時間にも関わらず、二名ほど腕に切り傷を付けられていた。 警官達が連れてきた実蒼石は、警察用に特殊訓練を受けた者達だった。 凶暴な実蒼石が暴れた場合、拳銃やライフルによる威嚇や狙撃は不可能となり、時には現場担当官の生命すら危ぶまれて しまう。 そのため、同等の能力を持つ特殊な実蒼石を投入し、「毒を以て毒を制す」方式で対応させるのだ。 警官達が一家の自宅をすぐに訪れなかった理由は、そこに関係していた。 家屋内では、三匹の警察実蒼石とシアンの闘いが繰り広げられていた。 しかし、訓練を受けた三匹もの猛者相手に、何の訓練も受けていないシアンが敵う筈もない。 疲労のため、着地時に見せた一瞬の隙を突き、警察実蒼石達はシアンの身体を貫いた。 まさに、目にも止まらぬ早業。 三方向から同時に腹部を突き刺され、シアンは偽石を瞬時に砕かれた。 断末魔を上げることも、なく。 シアンの顔は、とても飼い実蒼とは思えないほどおぞましい表情を浮かべていた。 三匹のうち一匹が、せつなそうな顔でシアンの絶命を確認すると、死体を引きずって玄関の外へ出ようとした。 ようやく中に入り込んだ警官達は、目の前に広がる凄まじい光景に、しばし呆然とさせられた。 大量の鮮血の海の中、こちらを見つめながらこと切れている中年の男女。 その首筋からは、大量の血が迸っていた。 階段の途中には、ねじ曲がったゴルフクラブを握った右前腕だけが、転がっている。 女性は、もはや人相の判別がつかないほど顔面を破壊されており、白い骨が所々に覗いていた。 血は階段から廊下、玄関の手前まで滴っており、リビングや壁、家具にまでベッタリとこびりついている。 だが、警官達を最も驚かせたのは、そのどれでもない。 血の海の中、ただ一人佇んでいる少女の姿に、吃驚させられていた。 制服を真っ赤に染め、大量の涙をこぼしながら、少女は強ばった表情で警官達を見つめていたが、やがて声を上げて泣き出した。 その時、警官は血の臭いとは異なる、少し据えた臭いを少女の身体から感じ取った。 ※ ※ ※ 保護された娘は、その後すぐに病院へ送られた。 後日、平静さを取り戻した頃合いを見計らい、警察は家屋内の出来事について質問を行うことにした。 まだ若干動揺が残っている様子の娘は、彼らの質問に懸命に答え、家庭内で繰り広げられた恐るべき事態を説明した。 娘によると、とても凶暴なシアンは、定期的に何者かを殺傷しないと冷静で居られない存在であり、家族はいつも悩まされていた。 ある時期から、シアンは自宅を抜け出し、血の付いた鋏を持って帰宅するという行動を取り始めたが、その度に殺人事件が発生 した。 シアンがついに人間を手がけ始めた事に気付いた家族は、なんとか拘束しようと試みたが、ついには家族に対しても牙を剥き 始めたという。 そしてシアンは、とうとう両親を殺害し、ついには自分にも刃を向けようとしたのだ、という。 身を震わせながら全てを語り、ついには失禁までしてしまった娘を不憫に感じ、担当官はそれ以上の追求を行わなかった。 この証言から、事件は飼い実蒼シアンの単独暴走による結果であると結論付けられた。 人間の友達であり、決して危害を加えないものと信じられていた実蒼石が、自らの欲望のために複数の人間を殺したという ショッキングな事件は、たちまち全国規模の話題となった。 無論、実蒼石を盲目的に愛護する者達と、今回の事件を辛辣に捉える者達との意見は衝突し、その後何年にも渡り不毛な議論 が展開していく事となるが、これにより、実蒼石のペット化に対する規制がより強化される運びとなった。 この後も、各地で実蒼石による深刻な被害・事件が勃発する事となるが、本件は実蒼石の認識を根底から覆す事件として 語られ、人々の記憶に長く残り続ける事となった。 唯一助かった娘は、その後「不幸な事件の唯一の生存者」として報じられ、一時的に時の人となったが、その後は施設に 引き取られた。 その後の娘の消息が報道される事は一切なかったが、どこかの裕福な家庭に養女として迎えられたとか、或いは施設内で 発狂死したといった、無根拠極まりない噂が多数流れた。 娘の両親は訪れる者すらない寂しい墓地の一角に葬られ、墓石はただ無常に苔生していくだけだった。 蒼歪め・軋 完
