怨恨の代償 2 その日の夕方、男は夕食の材料を買う為駅前のスーパーへと足を運んだ。 男の顔は、無意識に微笑を浮かべている。 今日一日、ずっとそんな調子だった。 頭の中では、遥の呼び声が何度もリピートされている。 携帯の待ち受け画面も、既に彼女の写真に入れ替わっていた。 ふと、乳製品コーナーの端にある、ナチュラルチーズのラベルに目が止まる。 商品に手を伸ばそうとした途端、男の視界の端に、予想外のものが映った。 「随分嬉しそうじゃない?」 耳障りな、今もっとも聞きたくない声がすぐ横から響いた。 ——「奴」だ。 顔を上げず、目の動きだけで見ると、だらしなく膨らんだ脂肪まみれの顔を歪ませている。 どうやら作り笑いをしているつもりのようだが、それがかえって気味悪さを際立たせている。 男は適当に挨拶をして立ち去ろうとするが、奴に手首を掴まれた。 「まさかそれ、あの仔実装にくれてやるものだ、なんて言わないよな?」 僅かに怒気のこもった声。 奴は、明らかに男の態度に憤りを覚えているようだ。 ここで遭ったのも偶然ではなく、ずっとつけられて来たからかもしれない。 そう考えた男の背筋に、冷たい物がほとばしった。 強引に手を振り払い「違う」とだけ返答すると、男は振り返りもせずにレジへと向かう。 会計を済ませてスーパーを出ると、すぐ目の前で奴がニヤニヤしながら佇んでいた。 「今日、殺ろうよ」 「なんだって?」 「もうここまでやったんだから、いつ殺ったってかわんねーよ。 なあ、あんたが実装を殺るところ、俺に直接見せてくれよぉ」 人目をはばかることなく過激な発言をする「奴」。 ハアハアと息を荒げ、犬のようにだらんと舌を伸ばして興奮する。 激しい嫌悪感を催すその態度に、男は舌打ちして「頼むから、直接俺の所に来ないでくれ」とだけ 伝える。 だが、その言葉が「奴」の神経を逆撫でしてしまった。 「ふざけんな! 俺と約束しただろうが! 実装石を殺すって!! あんた、なんで約束破るんだよ! それじゃあ俺の今までの苦労は——!!」 突然大声で叫ばれたため、男は慌てて奴の口を塞ぐと、駅の脇にある薄暗い路地へと駆け込んだ。 何人かの人がいぶかしげに二人を見つめていたが、男はそんな事を意識しているゆとりはない。 口を押さえられながらも子供のように喚き立てる奴を、ようやく人気のない所に連れ込むと、男はその わき腹に強烈なフックを叩き込んだ。 「グッ——!!」 前のめりになった奴の胸倉を掴み上げ、更に鈍いボディブローをみぞおちへ叩き込む。 喚き声がくぐもった悲鳴に変わった頃、男は乱暴に奴を突き飛ばし、解放した。 「人前で余計な事を喋るな」 「……うう…うぐ……!」 口元を押さえ、こみ上げる吐瀉物をこらえているのか、男は酷く怯えた目で男を見上げている。 実力行使までされるとは考えていなかったのか、それとも手を上げられると途端に大人しくなる性質 なのか、奴は今にも泣き出しそうな情けない目で男を見上げ、ただコクコクと頷き続けた。 もう一発蹴りを叩き込もうかとしたが、振り上げた足を見て反射的にうずくまる奴を見て、なんとなく 気が削がれる。 男はもうそれ以上何も言わず、奴を放置したまま無言で帰路に着いた。 数十秒後、背後から怖気の走るような嘔吐の音・声が聞こえてきた。 せっかくの気分を台無しにされてしまったが、帰宅して遥の顔を見た途端、男は先ほどのことを瞬時に 忘れてしまった。 「ぱーぱ♪」 ぼふっ! と音を立てて飛び込んでくる遥の頭を撫でてやると、男は「ただいま」と囁き、早速相手を してやることにした。 「遅くなってごめんな。お腹空いただろ?」 「ぱーぱ!」フルフル 「ん、我慢してたって? そりゃあ偉いな。すぐ用意するからね」 「んー♪」 コクコク頷きながら、遥はなおも男の顔を覗きこむ。 だが、急に表情が曇った。 とても不安げに、或いは心配そうに見つめてくる。 男は、突然の態度の変わりように疑問を抱いたが、あえて何も聞かず食事の用意を始めた。 それから、一週間。 不思議なことに、その間「奴」からの連絡やアプローチはまったくなかった。 この前のやりとりが功を奏したのか、と男は考えたが、それで割り切れはしない。 あれだけ執拗に迫ってくる男が、たかがあの程度で諦めるとは思えない。 男は、出来る限り警戒心を維持したまま、遥との生活と仕事にいそしんだ。 一方、遥は男との距離を更に縮め、夜間限定ではあったが地下室から出してもらえるようになった。 男が外出している間だけは相変わらず閉じ込められているが、戻って来てからはずっと解放状態だ。 共に食事を摂り、テレビを見て、風呂に入り、就寝する。 既に遥の寝床は地下室ではなく、男のベッドへと変わっていた。 それはただ、共に同じ場所で時間を共有するだけの行為だったが、二人にとってはとても幸福で大事 なスキンシップだった。 しかし、男は部屋中に遮光カーテンを張り、光が外に漏れないようにする必要性があった。 遥が地下室から出るのは夜間で、確かに人目には付かないが、室内からの明かりで影が見えて しまう。 本来あまりカーテンに気を回さない性格だったが、男はたまたまそれに気付く事が出来、急遽デパート から大量の注文を行なった。 二人の平和な生活は続き、2週間目に達しようとする頃。 男は、遥がこの家に来て以来まったく日光を浴びていないことに気付いた。 遥は元気ではあったものの、その体はとても健康そうには見えなかった。 色白でやや荒れ気味な肌、華奢すぎる体格、色の薄すぎる髪。 その姿は、まるで作り物の人形のようですらある。 充分な栄養と運動は与えているつもりだったが、それでも、遥にはまだ克服しなければならない条件 が多く残っていた。 適度に外に出し、新しい刺激を与えることでストレス解消を行なったり、日の光を浴びて健康的な代謝 を取り戻すことが、今の彼女に求められることだと、男は様々な調べ物の結果理解した。 だが、それらを満たすためには大きなリスクを払う必要性がある。 色々考えた末、男は有給休暇を取り、遥を連れて遠く離れた所へ旅行に行く事に決めた。 なるべく人目につかない、所謂鄙びた温泉旅館などがベストだと考え、男はあらゆる情報網を使って 最適の地を選び出す。 苦労の果て、次の週末に隣の県の山奥にあるマイナーな温泉旅館に宿泊する手筈を整えた。 「遥。来週はパパと温泉に行こう」 「オンセン? ん?」 「とってもあったかい、大きなお風呂があるところなんだよ。そこなら、遥はお日様の下に出ていっぱい 遊んでもいいんだよ」 「わー♪ ぱーぱ! ぱーぱ♪」 「ははは、そんなに嬉しいか? よしよし」 報告を受けた遥は、とても嬉しそうに男に飛びつき、頬擦りを繰り返す。 体格の割に少し軽めな体重を受け止め、男は、出来る限りこの娘の喜ぶことをしてあげようと、心の中 で改めて誓う。 いつしか遥への奉仕は、死んだ娘や妻への代償行為の枠を超えようとしていた。 その日、男は膝の上に遥を抱き、共にインターネットの画面を見ながら、訪問先について楽しく語り 合った。 語り合うといっても、遥はただ相槌を打ったり同じ単語を繰り返すだけだったが、それでも云いたい事 は充分に理解出来た。 マウスを動かし、胸にもたれかかって寝息を立てる遥の重みを受け止める男の頭の中からは、もう 完全に「奴」の存在はいなくなっていた。 だがその翌日、男はすぐに彼の存在を思い出すことになる。 ※ ※ ※ 男が、身辺の変化に気付き始めたのは、翌朝の出社時だった。 いつものように身支度を整え、玄関を出た時、近所の夫人とばったり出会った。 町内でも有名な実装石の愛好家で、今日もピンク色の服に身を包んだ大きな実装石を連れて歩いて いる。 以前ほど実装石に対する嫌悪感を抱かなくなっていた男は、夫人に向かって笑顔で挨拶をした。 何の悪意もなく、ただごく普通に声をかけただけだったが、なぜか夫人の表情が苦々しいものに 変わった。 「——行きましょう、テレシコワちゃん!」 デスゥー 露骨に嫌悪の表情を浮かべたまま、夫人は早足で男の前から立ち去った。 彼女の飼い実装は一瞬男の方を振り返ったが、すぐに向き直り夫人の後を追う。 「なんだ? 俺は何かしたのか?」 首を傾げながら、男はいつものように駅へと歩いていく。 気のせいか、通りすがる人々の何人かが、いぶかしげな目つきでこちらを見つめているような気が した。 さっきの夫人のように—— その日の夜、買い物を済ませて戻ってきた男は、自宅の前で固まり何かを話している女性達の姿を 見つけた。 どうやら近所の夫人達のようで、いずれも実装石を飼っている人達だ。 そのうちの一人と目が合い、反射的に会釈をしたが、夫人達はまるで何か忌まわしいものでも見るか のような目つきで睨み付けて来る。 今朝会った夫人が、男の前につかつかと歩み寄る。 その額にはくっきりと青筋が浮かんでおり、男は猛烈に嫌な予感に襲われた。 「あなた、うちのアントワネットちゃんをどうしたの?!」 「は?」 「とぼけるんじゃないわよ! 今朝あなたも会ってる筈よ! うちの実装石チャンよっ!!」 「それはわかりますが、その子と私と一体なんの……」 「まあ、白々しい! あくまでとぼけるつもりねっっ!!」 男は、何がなんだか理解が及ばない。 やがて夫人達はアントワネットの飼い主の夫人の後ろに寄り、口々に何かの文句を唱え始める。 仕事で疲労しいちいちそんな事に耳を貸しているゆとりなどない男だったが、彼女達の言葉の中に 「いなくなった」「殺した」という物騒な言葉を聴き止め、ハッとした。 「返して頂戴! うちのアントワネットちゃんを!」 「あなたが隠しているのはわかっているんですのよ!」 「あなた、実装ちゃんを虐めるのが趣味なんですってね! なんて酷いことをするのかしら?!」 「うちのマルガリータちゃんも昨日からいなくなってるのよ! あなたなんでしょ?! 警察を呼ぶわよ!!」 男は、ここに至ってようやく自分が何かの誤解を受けていることを理解した。 「待ってください! どうして私が実装石なんかを——」 咄嗟に口を突いて出た言葉だったが、それが夫人達の逆鱗に触れた。 「やっぱりあなただったのね! 許せないわぁ〜!」 「警察よ、警察を呼びましょう!!」 「うちのマリーセレストちゃんは、絶対あなたの手にかけさせたりしませんからね!」 「お願いよ! 私の娘も同然なのよ〜! 返して、返してよぉっ!!」 「待ってください!! 私はそんな事してません! 誰がそんな馬鹿げたことを言ったんですか!」 迫り来る夫人達を押し返すような勢いで、男はつい語調を荒げてしまう。 だが、興奮した夫人達の耳に男の言葉など届くはずもない。 押し問答を続けているうちに、付近の住人達がぞろぞろと集まってくる。 しばらくすると、誰が呼んだのかパトカーの回転灯の光が男達を照らした。 男と夫人の押し問答は、駆けつけた警官によって止められたが、男はそのまま簡単な尋問を受ける ことになった。 話によると、何者かが「男が実装石を誘拐し自宅で甚振り傷つけているらしい」という噂を流していた ようだが、それと連動するように、実際に何匹かの飼い実装が行方不明になっていた。 しかも、そのうちの一匹・アントワネットの持ち物だったポシェットが男の家の敷地内に落ちていた。 当然ながら、男は出社時にそんなものは見ていない。 だが彼のアリバイ主張は聞き入れられず、勢いに押されたのか、警官達も夫人達側の意見を尊重 し始めた。 「本当に、何もやってないの、あんた?」 「やっているわけないじゃないですか。第一なんでそんなことを」 「じゃあ申し訳ないが、お宅の中をざっと見せていただいてもいいですかね?」 「はあ?」 「いえ家宅捜査とかじゃなくて。簡単で結構ですよ、さもないとこちらの人達も納得しないでしょう」 「いや、それは困ります。うちにだって事情が…」 「拝見するのは私達警察の者だけですよ。私達から皆さんに説明すれば納得してくれるでしよう?」 若い警官の言葉に、男はつい頷きかけてしまったが、慌てて首を横に振り直す。 地下室には、遥がいるのだ。 もっとも怪しまれるだろう地下室を覗かれ、その中で少女が監禁されているなどと誤解されてしまったら…… 「すみませんが、お断りいたします」 男は、なんとしても警官の言葉を拒み続けるしかなかった。 ※ ※ ※ その晩、男は遥を抱き、身を縮めるようにして眠りについた。 突然の言いがかりに戸惑ったからではなく、一部思い当たることがあったからだ。 元々、彼は実装石を虐待するのを目的としていた。 失った家族の恨みを晴らすため、実装石を徹底的に苦しめるつもりだったのだから。 だが、もうその気持ちはない——男の本当の想いは、「別な遥」となってここに存在しているのだ。 無念の思いに身を震わせる男に、遥は心配そうな顔を向ける。 厚い胸板を小さな手で軽く摩りながら、優しげな声でささやきかけている。 「ぱーぱ……ぱーぱ」 遥がとても心配で、たまらない。 いつしか男は、どうやったら遥を守り続けることが出来るか、そればかりを考えるようになっていた。 それが、当初の自身の誓いを破ることになるのも忘れて。 それから数日、周辺住民による男への風当たりは、益々強まった。 特に何か変化があったわけではなかったが、あの時警察の要請を拒んだ事が、不信感を増長させる 結果となったのだ。 町内の人々の目を避けるような生活を強要された男は、肩身の狭さと辛さを、仕事と遥への奉仕で 補っていく。 「奴」から電話があったのは、そんなある日の夜のことだった。 『どうだい調子は? そろそろ、あいつをぶっ殺したくなってきたんじゃないかい?』 奴の言い回しが、妙に引っかかる。 帰宅中に電話を受けた男は、物陰に隠れると口元を手で覆い、辺りに声が漏れないよう注意しながら 問い質す。 「どういう意味だ?」 『あんた、すっかり虐待派だと思われてるよ。 なんせ自宅で他人の飼い実装を殺した疑いかけられてるんだもんなぁ。 なあ、もうこれで迷うことはないだろ? 疑われてるんだから、今更一匹ぶっ殺したって代わりないだろ? 周りの奴らだって、大して気にはかけないよ』 「言ってる事の意味が、まったくわからんのだが——」 『なあ、いい加減にしろよ! 俺は、あんたが実装を殺しやすくなるようにお膳立てしてやったんだぜ? あんたは、もう虐待派なんだ! 虐待派なら、実装石を殺したって周りはおかしいと思わないよ! どうだい、これならもうあんたは、世間体を考えなくても良いんだよ』 男は、無意識に携帯を取り落とした。 奴が正気の沙汰ではない事を、あらためて思い知らされた。 奴は——完全な狂人だ! 再び携帯を取ると、男は、出来る限り動揺を抑え冷静な態度を演じた。 「こちらにも事情がある、あと二、三日待ってくれ」 『なんでだよ! 今すぐ殺ろうよ』 「それはダメだ」 『わかったよ。けど嘘の報告はしても無駄だからな! 実装を殺せばどんな風になるか、俺はよく知ってるんだ。 あんたが嘘をついたって、すぐにわかるんだぜ』 携帯を切り、男はいつもの帰路から外れた方向へ歩き出す。 途中、大きな麻袋を購入し鞄に押し込めると、二度と行きたくないと思っていた場所へ向かっていく。 行き先は市営「ふたば公園」——妻と娘が事故死した現場近くにある、あの場所だ。 ※ ※ ※ 男は、すっかり暗くなった公園内を巡り、桃色の影を捜した。 奴が言っていた、“捨てられた飼い実装”を求めているのだ。 だが、そこには飼いどころか野良の実装石の姿すらほとんどない。 麻袋を片手に何度も公園を周回した男は、やがて疲れ果ててベンチに座り込んだ。 奴の望みを果たすためには、実装石を本当に殺すしかない。 だが、遥を手がけることが出来ない以上、別な個体を捜す以外に手段はない。 男は、実装石の生態についてほとんど何も知らない。 そのため、ある程度野良生活の経験を経た実装石が、人目に付き難い場所を確保して身を隠している可能性にまで、考えが回らなかった。 まして、ここは虐待派が詳細を知っているほどの「実装虐待のメッカ」でもある。 その中に生き延びる者達が、知恵を絞り人目を避けているのは、当然のことだった。 しばらくすると、見知らぬ若い男がやってくる。 手に持つ大きなバールから、どういう目的なのかがすぐにわかる。 若い男は、茂みの奥に何かを放り込み、じっと待ち続ける。 しばらくすると、茂みの中からデスデス、デギャッという鳴き声が聞こえてきた。 素早い動きで茂みに飛び込んだ男は、しばらく格闘を演じた後、二匹ほどの成体実装を捕まえて 戻ってきた。 広い場所に落とすと、それに向かってバールを振り下ろす。 人間と大差ない大きさの頭部に、鉄塊が叩き込まれる。 ブシュ……ズガッ!! ギャッ!! 肉を裂くような音に続けて、硬い物を打ち砕く音が聞こえる。 続けて、声にならない悲鳴。 目の前の惨状に怯え叫び声を上げるより先に、二匹目の腹に硬いつま先がめり込む。 声を立てられずうずくまる成体の後頭部に、バールの先端がゆっくりと突き刺される。 若い男は、素人目にも実装虐待に熟練しているように思えた。 三十分ほどの時間をかけて、じっくりと二匹を殺した若い男は、バールを拭きながら男に迫ってきた。 「あんた、さっきから何見てんだよ。なんか文句でもあるわけ?」 あまり教養の高くなさそうな態度に、男は一瞬嘲笑しそうになる。 だが、ある事を思い出し、あえて下手に出ることにした。 「——虐待の初心者ぁ? ああ、だから俺のテクを見てたわけか」 「良かったら、少しでいいから教えてもらえないか? 実装石をどうやっていぶりだすかわからないんだ」 一万円札を手渡して頼むと、若い男はあっさり態度を変え、耳障りな舌巻き口調で話し始めた。 金平糖などの撒き餌を使い、飛び出してきた実装石の後頭部を軽く叩き、失神させてから広い所に 連れ出し、甚振るというのが、若い男の手段であり、オーソドックスなものだという。 姿を見せた現場ではなく、わざわざ広い所で殺すのは、実装石の無残な姿゛をよく見るため、そして 周囲の実装石に恐怖を見せ付けるためだという。 賢く姿を隠している筈の実装石は、餌を撒けば無警戒に飛び出し、同族が甚振られると野次馬に走る。 更に学習能力が乏しいためか、同じプロセスをすぐに繰り返しても、また捕まえることが出来るのだと いう。 若い男は、金平糖の袋を取り出し、「あんたも試しにやってみろよ」と言ってくる。 試しに一掴み取って草むらに投げつけてみると、パラパラという音を聞きつけて、デスデスという鳴き声 が即座に聞こえてきた。 若い男は、すぐに飛び込み今度は三匹の実装石を連れて来た。 だが、そのいずれも緑色の服を着ており、しかも、とても元飼い実装とは思えない程野良っぽさが 染み付いている。 男は、奴から聞いた「捨てられた飼い実装がよく居る」という話について、確認してみた。 「はぁ? 飼い実装をこんな所に捨てる奴なんざ滅多にいねーよ。 いても野良に捕まって、すぐ殺されて食われちまうのがオチってもんさ。 今は即保健所行きがセオリーだぜ、あんた飼い実装捕まえに来たのか? そりゃあきっと、誰かに騙されたんだよ」 ※ ※ ※ 肩を落として帰宅した男は、家に着くなり異変に気付いた。 入り口のドアは半分開いており、部屋の明かりが全て消えている。 慌てて地下室に下りると、ドアが開けられていた。 娘の名を叫びながら室内に飛び込むと、照明の消えた部屋の奥で、身を縮めて震えている遥の姿を 見つけた。 「遥、大丈夫か! いったい何があったんだ!」 「ぱ、パパぁぁ……パパあぁ……」 薄暗くてよく見えないが、何かとても恐ろしい目に遭わされたようで、しきりに身体を震わせている。 泣きじゃくりながら抱きついてくる遥を落ち着かせようと、男は優しく頭を撫で続ける。 だが、心の中では激しい怒りの炎が燃え盛っていた。 と、突然遥が男から逃げるように離れる。 携帯の振動に驚いたようだ。 ディスプレイには、今最も見たくない者の名前があった。 『どこに、隠してるんだよ——おい』 今までにない、妙に冷たい声だ。 男は何も答えず、あえて向こうの発言を待った。 『家の中、見させてもらったよ。 けど、どこにも実装いねぇじゃねぇか! いったいどこに隠してるんだよ! それとも、俺に黙って捨てるか殺すかしちまったのか? えぇ?!』 男は、なんと言い返してやろうかと思考を巡らせたが、何を選んでも罵倒の言葉しか出そうになかった。 ひたすら我慢して適当な相槌を打ち続けていると、奴の声が、突然いつものようなねちっこくいやらしい 響きのものに変わった。 『なあ、地下室にいるの、あんたの娘か? おかしいよなぁ、娘死なせた筈なのにさ』 心臓が、ドクンと激しく鼓動する。 『あんたの娘と奥さん、事故って死んでただろう? 実装ふんずけてスリップしてよぉ。 じゃあ、そこにいるそっくりさんは誰なんだい? 閉じ込めてるなんて、なんだか怪しいじゃないの』 奴の言葉に、眉間がピクリと反応する。 「——何が言いたい?」 『その娘、なんか色々知られたくない奴なんだろ? ご近所にバラされたら、困るんじゃない?』 「——」 『早く、実装殺せよ。 明日、今度はあんたの居る時に行くからよ。 俺の見てる目の前で殺してくれよ。 なあ、こんなに待たされたんだ、いいだろう?』 「——わかった」 電話を切り、男は、憤りを抑えつつ遥を抱きしめた。 今はとにかく、少しでも彼女の恐怖感を取り除いてやることが先決だと考えた。 地下室を出て風呂と着替えを用意しようと思った刹那、男は、遥に起きていた更なる事態をようやく 理解した。 遥の衣服はボロボロに破られ、しかもその下の肌には浅い傷や噛み跡、薄い切り傷が無数に付いて いた。 しかも、顔も殴られたらしく真っ赤に腫れ上がっている。 床に転々と続く血痕が、足の間から流れていることに気付いた瞬間、男の我慢は臨界を越えた。 「あいつ……あの野郎っっ!!」 男が先ほど地下室で誓った決意は、ここで確実に固まった。 「奴」を殺す——!! 怒りで身を震わせる男に、遥は、背中から抱きついた。 その顔には、なぜか、満面の笑みを浮かべている。 「なぜ、笑えるんだ?」 「ぱー……ぱ……♪」 「どうしてだ……なんでだよ?!」 「ぱーぱ……」 「どうして、笑えるんだ! お前は殴られたんだぞ、甚振られたんだぞ! それに……犯されたんだぞ?! わかってるのか?!」 「ぱー……ぱ……」 「遥、お前は——!!」 そこで、男の怒号が止まる。 男は、遥の笑顔の意味に、ようやく気付いた。 遥は、目に一杯の涙を浮かべながら、それでも必死で笑顔を浮かべ続けていた。 そう、以前にも、これと同じ事があった。 あの時も、遥は恐怖に耐えながら、微笑み続けていた。 その目に、一杯の涙を浮かべながら。 肩や手、脚を、ガクガクと震わせながら。 顔を青ざめさせ、それでも、笑顔を絶やさなかった。 男の胸に、あの時の罪悪感が蘇る。 「ぱーぱ……ぱーぱ、ぱーぱ!!」 遥が、更に強く抱きしめて来る。 男は、もう、声を出せなかった。 「遥……遥!!」 「ぱーぱ!! ぱーぱ!! うう、うあぁぁぁあん!!」 「許してくれ、遥! 私は、またお前を……っっ!!」 また娘を守れなかった無念と悔しさが、胸中に渦巻く。 あらゆる感情が入り混じり、男は、ただ涙を堪え続ける事しか出来ない。 そして、胸の中に抱きしめた遥のぬくもりを受け止めるしか。 その晩、男は自分のベッドに遥を招き、共に眠った。 最後に、本当の遥と共に眠りについたのは、いつだっただろうか——そんな事を考えながら。 否、本当の娘とは——娘とは、俺にとって大事な存在とは、何だろう? まどろみの中、男の心は、大きな戸惑いに揺れていた。 ※ ※ ※ その日会社を休んだ男は、遥に事情を説明し、早い時間から地下室に監禁した。 閉じ込めたと言っても、鍵は奴に盗まれているため施錠は出来ない。 遥は男の意図を理解したのか、それとも尋常ではない状況気を理解したのか、素直に男の言う事に 従う。 まるで最期の食事のような、重苦しい空気漂う朝食を済ませると、男は地下室に遥の分の昼食を用意 しておく。 後は、「奴」が来るのを待つだけだった。 明日来る、とだけしか言わなかった奴は、こちらの都合などおかまいなしにやってくるだろう。 そう考え、男は、いつでも迎かえられるようにと準備を進めていた。 懐には、いざという時の決め手となる物を忍ばせながら。 地下室のドアにもたれかかりながら、男は、遥にすべての事情を説明した。 自分の妻と娘の死、そして遥を引き取った本来の理由。 奴のこと、遥が原因で奴と揉めていた事。 その後、気持ちが変化した事、更に、今では遥を心から愛しているという事を。 それは、男が遥を殺すつもりだった事の告白でもあった。 しかし、今なら、遥はその事実すら受け止めてくれる——そんな確信があった。 ドアの向こうから返事はなかったが、それでも、男は独り言のように呟き続ける。 「これが終わったら、二人で、本当に温泉に行こう。 だから——」 「……」 「だからこそ、私はちゃんと決着をつけるよ。 私が……招いたことなんだからね」 「…」 「今度こそ、私はお前を……守ってみせる」 長い時間が、少しずつ経過していく。 午後6時、門が開かれる音が聞こえ、玄関のドアが荒々しくガチャガチャ回される。 奴が、来た—— 男は、必死で動悸を抑え、平静な態度を保とうと努力する。 ノブのガチャガチャという音が激しくドアを叩くドンドンという音に変わり、意味不明な叫び声が聞こえ 始めた頃、男はようやく鍵を開けた。 そこには、季節はずれな分厚いコートを着た「奴」が、大きな袋を肩にかけて立っていた。 「早く開けてくれよ、何やってんだ」 「悪かったな、入れ」 「いよいよ、あいつを殺せるんだなぁ、ワクワクするよ」 鍵を締め、奴を地下室へと導きながら、男は静かに尋ねる。 「ところで、一つ聞きたいことがある」 「なんだい?」 「なぜ、あれに手を出した」 「はは、俺が気付いてないとでも思ったのか? あいつがあの仔実装なんだろ?」 「なぜわかった?」 「わかるさ、滅茶苦茶驚いたけどなぁ! 目の色が違うし、実装の耳もあるし、鳴き声が実装のまんまじゃん! なんだ、そうならそうだと最初から言ってくれよ。 あんなになっちまったら、そりゃあ殺し辛くなるよなあ」 「どうして、昨日のうちにやらなかった?」 「確証がなかったからなぁ。 けど、これではっきりわかったよ! もう遠慮はしないさ……へへへ、人化した実装をぶっ殺せるなんて、一生に一度あるかないかの奇跡 だよなぁ♪ ああ、ゾクゾクしてきた……勃起してきたよ。 なあ、殺す前にまたあいつを犯させてくれよ、頼むぜ」 奴は、悪い事をしたという意識など全くないといった態度で、心の底から嬉しそうに話す。 こみ上げる殺意を必死で堪え、耐え忍び、男は更に尋ねた。 懐の中にある「決め手」の存在を、手で確かめながら。 「もう少し話を聞かせてくれ」 「おい、いい加減にしろよ。 早くあいつを殺させてくれよ」 「なんで、俺の妻と娘の事故原因が、実装石を踏みつけてのスリップだとわかった?」 「……」 いよいよ、確信に迫る。 男は、夕べの電話の会話を繰り返す。 「妻と娘の事故は、確かにニュースでも報道された。 だが、報道された事故原因はトラックとの正面衝突だ。 スリップも、実装石を巻き込んだということも、私だけが警察から聞かされていることだ。 報道もされてないし、他の者が知っている筈がない」 「……」 「もう一つ。 あの公園に、飼い実装がよく捨てられるなんて話も嘘だ」 「……」 「どこで、そんな話を知った? お前は、いったい何の罪で執行猶予中だったんだ?」 「待て、そんな話より奴を殺すのが先だ」 「質問に答えてもらおうか」 「うるせぇよ、そんなのどうだっていいだろう?! もう死んじまった奴らの事なんか、関係ねーじゃねぇか」 奴の一言が、男の殺意のスイッチにガッチリと触れた。 思わず殴りかかりそうになったが、それでも男は、必死で衝動を抑え続けた。 生まれて以来、これほどの我慢を強いられたことはなかったが、それでも、男は全力で耐えた。 今、手を下すわけにはいかない事情があった。 「この地下室にいるのか、開けるぜ」 奴は慣れた手つきで、地下室のドアに手をかける。 だが一瞬の隙を突いて、男の方が先に中へ入り込んだ。 地下室の中には、以前奴が押し付けたバールが置かれている。 それを取れば、たとえ無傷とは行かなくても、奴を遥に触れさせずに追い出せるだろうという確信が あった。 「あ、待て!」 出し抜かれた奴が、慌てて室内に飛び込む。 だが—— 男は、バールを手にすることは出来なかった。 同じく、奴も、次の行動に移れなかった。 二人は、仲良く揃って、室内の異変に目を奪われ、硬直していた。 そこには、巨大な「繭」があった。 白く、大きく、激しく振動を繰り返し、周囲に無数の糸束を結び付けている。 ドクン、ドクンと脈動する側面には、何かが巻き込まれている。 それが、今朝まで遥が身に着けていた衣服だと気付くのに、かなりの時間が必要だった。 「これは……なんだ? まさか——」 「これが、実装繭かよ、初めてみた…… って、なんでだ?! あの娘はどこだ?」 遥の姿は、どこにもない。 どう考えても、この巨大な繭は遥が化身したものだとしか考えられない。 しかし、遥は既に繭を経て人化している筈だった。 もう一度繭になることなど、出来ない筈だ。 「遥、遥——っ!!」 「すげぇや、実装繭を虐待出来るってのも、一生に一度あるかないかの経験だぜ!! これはこれで……!」 そう叫ぶと、奴は袋から自前のバールを取り出し、実装繭へと踊りかかった。 咄嗟に反応が遅れた男は、奴の一撃を止める事が出来なかった。 激しく振り上げられたバールの先端が、繭の側面部に突き刺さり、破る。 と同時に、中から大量の粘液が噴出してきた。 「うわあぁぁぁっ?!」 それは、茶色とも灰色とも、緑色ともつかない不思議な色の液体だった。 だが、その中には人間の内臓のようなものが混じっていたり、毛髪まで混じっている。 そして、遥が身に着けていた下着類まで…… 意味を理解した男は、慌てて繭に飛びつこうとした。 「遥、遥——っ!!」 「てめぇ、やっぱり愛護に目覚めてやがったのか!! 殺してやる!! 実装をな!!」 「貴様、いい加減にしろ! どれだけ俺達を苦しめれば気が済むんだ!」 「うるせぇ! 俺だって、おめぇん家の車に泥はねかけられたんだぜ! お互い様じゃねぇか!!」 男の眉間が、痙攣する。 自然と、その視線は奴を睨みつける。 「何……だと?!」 「だからちょっと脅かしてやったんじゃねぇか!! 事故ってくたばったのは、てめぇの嫁の運転が下手だっただけだぜ!! 俺は悪くねぇ!」 「やっぱり、貴様が……!!」 「俺じゃねぇよ、道路の真ん中に走ってった実装石が悪いんだぜ! だからよぉ、実装石ぶっ殺せばあんたも仇取ることになるだろ? 俺は何も間違ってねぇじゃねぇか!」 「貴様……許さん、絶対に——!!」 ついに我慢の限界に達し、奴に殴りかかろうとする。 だがその時、 チィー という、小さな鳴き声が、二人の足元から聞こえて来た。 分厚い粘液に包まれながら、小さな禿裸の仔実装が、苦しげに呻いている。 その身体は半分が崩れており、皮膚がなく真っ赤な筋肉組織と内臓の一部が露出している。 だがそれは、粘液の渦から脱出しようと、懸命にあえいでいた。 テチーッ かろうじて粘液から顔を出せた仔実装は、ようやくはっきりとした鳴き声を立てた。 男と仔実装の目が、一瞬合う。 仔実装は、満面の笑顔を浮かべていた。 それは、グロテスクな姿であっても、とても愛らしく可愛らしいものだった。 それが、男と「遥だった者」が共有した、最期の時間だった。 「いたあぁぁぁっ!!」 ズシ……ン!! ヂッ 仔実装の笑顔は、奴が力一杯に振り下ろしたバールによって、瞬時にかき消された。 ほんの、一瞬だった。 仔実装は完全に押し潰され、ただの肉の塊となり、粘液に混じり流れた。 「遥あぁぁぁぁぁぁ!!! うおぉぉぉぉおおおお!!」 奴の顔面に、強烈な右フックが炸裂する。 男はすかさずマウントポジションを取り、両腕で、休む間もなく顔面を殴り続けた。 奴の悲鳴も、命乞いにも、耳を貸さない。 「ウボ……ゲホ! やめ……!!」 「うがあぁぁぁぁ!!!」 爆発する殺意。 男は、完全に切れていた。 否、切れない方がおかしいだろう。 男は、奴を本当に殴り殺すつもりだった。 ここで奴を殺さずして、どうして恨みが晴らせるだろうか!! 妻を、娘を、そしてもう一人の娘を殺し、男から全てを奪い去った「奴」。 拳に血が滲み、骨がきしんでも、男はその苦痛を感じることはなく、ただ闇雲に顔面を殴打し続けた。 最初に計画していた事を、完全に忘れてしまうほどに。 「何をしている! やめなさい!!」 突然、聞き覚えのない声が室内に響く。 と同時に、強い力で引き剥がされた。 複数の警官が、地下室に飛び込んできたのだ。 奴が家に入る前の挙動を不審がった近所の人達が、通報していたのだ。 凄まじい状況にうろたえつつも、警官達は暴れる男を取り押さえ、殴られた奴を介抱している。 顔面を激しく殴打され、鼻が折れ大量に出血していたが、奴は警官にすがりつき「助けてくれよぉ」と 泣きついていた。 そこからの記憶が、ない。 男は、警官に羽交い絞めにつれたまま、気を失ってしまった。 「あれ、こいつ……これ、なんだ?」 「マイクだ、裾にマイクが付いてる——ボイスレコーダーじゃないか、これ?」 消え行く意識の中、警官達の呟きが聞こえた気がした。 ※ ※ ※ それから—— 「男」は、「奴」に対する過度の暴行致傷・傷害罪により、罪に問われることになった。 しかし、「男」の親族が「奴」の愉快犯・故意犯的行動により死亡した事、またそれに対する反省の意志 がまったくない事、罪を悔いている態度が見られない事が、ボイスレコーダーに録音された会話により 立証された。 また、会話内容から「奴」が「男」に実装石虐待を強要していた事実も判明し、また「男」自宅内で 実装石を殺害した事実も認められ、明確な計画性があるとして精神障害認定もされず、正式に裁かれる 流れとなった。 「奴」は、以前にも同様の手口で他者を事故に巻き込む危険のある過激な実装虐待を行った罪で 逮捕されており、その執行猶予期間中に更なる虐待(犯罪)行為を行ったとして、更なる重罰が加えられる 事になった。 「男」は、ボイスレコーダーの内容から実装虐待を実際に行っていたとは認められずに済み、我慢の 成果がある程度実った形に落ち着いた。 また、「奴」への暴行致傷・傷害についても、情状酌量の余地ありとして、当初の見込みよりはかなり 減刑された。 地下室の粘液と内臓・肉片についても、当初は死体遺棄の可能性ありと判断されたものの、後の調査で 人間の死体ではなく実装石のものだと判断された。 また、この事件は昨年初等の事件に並ぶ、貴重な実装石繭化事例として取り扱われる運びとなった。 だが、「遥」を殺された件については、単なる器物破損罪としてしか扱われなかった—— 「奴」は牢獄に捕らわれ、「男」には——しばらくの空白の後、再び平穏な時間が訪れた。 男は、薄汚れたピンポン玉を手に握っていた。 少しだけへこんだ、「遥」の大切にしていた玩具。 事件の波は既に通り過ぎ、過去の話として語られるようになったが、男に対する世間の風は相変わらず 冷たい。 かつての仕事も辞め、地下室も閉鎖し、それでも、男はその家から離れようとは思わなかった。 否、一生離れることは出来ないだろうと、強く自覚していた。 男は、どうして遥が再び繭化し、仔実装の姿に戻ろうとしたのか、最近になってようやく理解した。 恐らく遥は、何もかも知っていたのだ。 実装石である自分が、何故男憎まれていたかを……だからこそ男の求める姿を得て、慰めたいと 思った。 男に愛されたいからではなく、あくまで、男の不安と憎しみの気持ちを払うため。 そのためだけに、彼女は、ずっと笑顔を浮かべ続けたのだ。 どんなに辛くても、どんなに酷い目に遭わされても、笑顔を忘れない。 そうすることで、いつか男の心が慰められるだろうと信じて。 だからこそ、「奴」に犯された時にも、笑顔を浮かべていられたのだ。 男の抱いた、「奴」への憎悪を打ち消すために。 痛みも、恐怖も、苦しみも、すべてを引き換えにして微笑み続けたのだ。 だが遥は、実装石に戻ってしまった。 人になり、幸福を得た筈なのに、また実装石の姿に戻った。 遥は、知っていたのだ。 自分の存在が、男に災いを招いてしまうということに。 どんなに笑顔を向けても、それは男の心を慰めるだけで、彼に幸運を与えるわけではないという事に。 男の娘の姿を得ても尚、自分が男を悲しませる存在に過ぎないことに。 だからこそ、遥でいることを辞めたのだろう—— そうでなければ、あの時、男に向かって微笑むことなど、出来なかった筈だ。 遥は、二度も奇跡を起こした。 男を守るために。 本来守らなければならない筈の相手に、逆に守られ続けていた—— あんな小さな仔実装に。 男の手の中には、薄汚れたピンポン玉がある。 部屋の隅に置かれた写真立ての中では、笑顔を浮かべる遥の姿があった。 あの時と同じ笑顔を浮かべながら。 手の中に残された僅かな物が、憎しみの代償によるものだと考えたくはなかった。 写真立ての脇にピンポン玉を置くと、優しい微笑みを浮かべる。 「行ってくるよ、遥」 そう呟き、男は、車のキーを握り締めた。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 怨恨の代償 完
