怨恨の代償 通話を切り、携帯の電源を落とすと、男は暗い気持ちで階段を降りた。 螺旋階段の最下層に辿り着き、鉄の扉の錠を開く。 少しきしんだ音を立てて開く扉の向こうからは、芳香剤の爽やかな香りと共に、暖かな空気が漂って きた。 部屋の中を見つめ、複雑な表情を浮かべる。 元々は、コンクリート打ち放しの地下倉庫だった場所。 だが今は、華やかな模様の散りばめられた壁紙が貼られ、大きく明るい照明が天井中央に配され、 様々な家具、本棚、テーブル、そして大きくて柔らかそうなベッドが置かれている。 オレンジ色のカーペットはふわふわで感触も良く、男の手でいつも清潔に保たれている。 無骨な鉄の扉とはあまりにも不釣合いな元・倉庫は、今ではある者の居場所になっていた。 ベッドの上、絵本を開いていた少女が、男に気付いて駆け寄って来る。 ぼふっ、と胸の中に飛び込み、すかさず頬擦りをしてきた。 「おはよう、遥」 男は、にっこり微笑みながら頭を優しく撫でてやる。 遥と呼ばれた少女は、とても嬉しそうな笑顔を浮かべ、また男の厚い胸板に頬を摺り寄せた。 「お腹空いただろう? さあ、食事にするからリビングへおいで」 男の言葉に、遥はピクンと反応する。 言葉なく大きく頷くと、まずベッドの上の本を本棚に戻し、乱れた布団をきちんと整える。 その様子に、男は目を細めた。 「今朝は、お前の大好きなチーズオムレツを焼いたんだ。一緒に食べよう」 男の呼びかけがとても嬉しかったようで、遥はその場でぴょんぴょん飛び跳ねて喜んだ。 跳ねる度に、ネグリジェの裾がめくれ上がる。 男はハッとして、慌ててハンガーケースに駆け寄ると、適当なブラウスを取り遥を招き寄せた。 「先に着替えなくちゃな。さあ、遥が好きな色の服だ」 ネグリジェを脱がせ、半裸の遥に薄ピンクのブラウスを被せる。 しばらくじたばたした後、やっと袖に手を通す。 男は苦笑しながら、「まだ一人では無理かな」と呟き、着替えに手を貸してやった。 半泣きの顔がぴょこんと飛び出すが、男の優しい笑顔にすぐ気を良くし、またにっこりと笑う。 長く綺麗な髪、透き通るような白い肌、薄く儚げな体躯、そしてあどけなく可愛らしい笑顔…… それは、男がずっと、ずっと、心の底から求め焦がれてきたものだった。 遥は、男にとってかけがえのない、大切な存在だ。 だからこそ、ここから——鋼鉄の扉で閉ざされた監獄から、解放する事が出来なかった。 部屋を出ようとした時、ふと、足に小さなピンポン玉がぶつかる。 薄汚れ、所々へこんでもう転がる事すらできなくなったそれは、まるで男を待っていたかのように、 その場で静かに鎮座していた。 「まだ、こんなものが残っていたのか」 ピンポン玉を拾い、指で潰そうとすると、遥が泣きそうな顔でそれを止める。 必死で首を振り、返してくれと示す。 「ごめん、大事なものなんだな」 潰れたピンポン玉を返してもらうと、遥はまた笑顔になり、それを大事そうに本棚の上に置いた。 ※ ※ ※ 朝食の後片付けを済ませた男は、遥を再び地下室へ戻すと、鉄の扉に背を付け、薄灰色の天井を 眺めた。 もうこの環境に慣れたのか、以前のように泣きながらドアを叩く事もなくなった。 彼女を閉じ込める事に大きな抵抗はあったが、これから仕事に出かける都合、やむをえない。 そう自分に強く言い聞かせると、男は後ろ髪を引かれる思いを断ち切り、自室へと駆け上った。 地下室の中にある小さな冷蔵庫に、弁当と飲み物、そしておやつが入れてある。 今夜は残業もさほど長引く事はない筈だ、と思い返す。 遥がお腹を空かせる頃には、きちんと戻って来られる筈だ。 扉を閉める直前、どこか寂しそうに微笑む遥の表情を思い浮かべてしまう。 男は、小雨の降る中、またいつもの日常に溶け込むための一歩を踏み出した。 会社に着く直前、不意に携帯が振動する。 ディスプレイには、出来れば二度と見たくない名前が表示されている。 ——さっき、かけてきたばかりだろうに—— 駅からビジネス街へと流れていく人の群れから外れ、男は、なるべく人気のない所で通話ボタンを 押した。 少し鼻詰まり気味のかん高い声が、耳に届く。 『やあ、今朝は、どうだった?』 馴れ馴れしい態度で呼びかけてくる様子に若干の苛立ちを覚えるが、男は態度に出さず、「ぼちぼち だよ」と曖昧な返答をする。 『もう結構時間も経ったし、そろそろいいだろう?』 早口でまくし立てるような口調と、先ほどとまったく同じ話題をしつこく繰り返す態度が、神経を逆撫で る。 男は「もうすぐ始業なんだが」と断りを入れ、用件だけに絞ろうとするが、「奴」はそんな事はまった く聞こえてないかのように話し続ける。 相変わらず、人の都合を考えない「奴」だ—— 『早いところ、結果報告をしてくれよ。俺はあんたから話を聞くのだけが楽しみなんだからさぁ』 「進展があったらこちらから連絡する、だからしばらく待ってくれ」と、時間を気にしながら返答する。 通話を切ろうとした瞬間、耳障りな声が、少しだけ大きくなった。 『約束はとっくに過ぎてるんだぞ、いつまで待たせれば気が済むんだ?!』 いつものように一方的に切るが、さすがに諦めたのか、もう以前のようにすぐかけ直してくることはなく なった。 朝から憂鬱な気分にされた事に怒りを覚えながら、男は再び人の流れに紛れ込んだ。 ※ ※ ※ 予定より遅れて帰宅した男は、急いで地下室へ向かう。 鉄の扉で封じられた部屋の中では、遥と呼ばれた少女が、半泣きで頬を膨らませていた。 ずいぶんと待たせてしまったようで、ベッドの脇ではお気に入りの絵本が投げ捨てられている。 扉を開けるなり、泣き声を上げながら飛びついてくる遥を抱きとめると、男は愛しそうに頭を撫でた。 「ごめんな、お腹空いただろう?」 胸の中で何度も頷き、またいつもの頬擦りを繰り返す。 涙と鼻水がスーツに付いてしまったが、男は、遥を引き離す事が出来ずにいた。 身体にかかる重さと、腕に伝わる弾力が、とても心地良い。 ハンカチを取り出し、顔を拭いてやると、男は目線を下げて遥の顔を覗き込んだ。 「お詫びに、プリンとシュークリームを買ってきたよ。遥の大好きなフタバ洋菓子店のだ。 いっぱい食べていいからな」 その言葉に反応し、泣き顔が瞬時に笑顔に変わる。 その露骨な態度の変わり様に、男はつい吹き出してしまった。 ※ ※ ※ 男が住んでいる家は、都心部から電車で一時間半ほど離れたところにある、とても閑素な住宅街に ある。 住み易く静かで居心地が良い反面、商店街や娯楽施設からも遠く離れており刺激が少ないという難点 はあるが、男にとって、それは逆に都合の良いポイントだ。 二階建てで大きなバルコニーが付き、二台の車を収められる駐車場まであり、広い庭には家庭菜園 まである。 加えて、大きな地下室まで備えているという、とても豪華な邸宅。 独り暮しにはあまりにも大きすぎるこの家は、かつて男が死に物狂いで働きようやく手に入れたものだ。 ここで、男は人生最高の幸福を味わう筈だった。 一度に四人が座れる大きなテーブルと椅子、使い勝手の良い大型ダイニングキッチン。 そこには、男と遥の姿しかない。 向かい合って座る二人は、会話をするでなく、ただ黙々と並べられた料理を食していく。 時折、遥が顔を上げ、とても嬉しそうな顔をする。 それを見て、男はナプキンを取り、遥の口元に付いたソースを拭き取る。 今日の料理も遥の口に合ったようで、男はふっと表情を緩める。 キッチンの窓から、もう一年近くも動かしていない自家用車が見えた。 庭の隅では、いまだに片付けられていない、小さな三輪車が置き去りになっている。 男は、嫌な物を見たような顔つきで、少し乱暴にカーテンを閉めた。 食事とデザートを終えると、男は風呂の準備を整え、湯が貯まるまでの間は遥の遊び相手をする。 と言っても、膝の上に抱いて頭を撫でながら、色々な話をするだけだ。 ありふれた昔話、童話、またはふしぎな動物・植物のこと。 あまりボキャブラリーが豊富でない男は、遥のためにと、賢明に色々なお話を搾り出す。 しかし、遥は男がどんなことを話しても静かに聞き入り、嬉しそうに微笑んだ。 風呂には共に入り、男は遥の身体を丁寧に、丹念に洗浄する。 遥は自分ではうまく身体を洗えないので、いつも男に任せきりだ。 長い髪に絡まる泡を丁寧にすすぎ、タオルでまとめると、男は湯船の中で遥を抱く。 すっかりさっぱりした遥は、とてもリラックスした様子で、男の頬にそっとキスをする。 そんな態度に苦笑しながら、男は、あどけない遥の笑顔をじっと見つめる。 温かな湯気の中、そこには確かな幸福が一つ存在していた。 ※ ※ ※ 楽しいひとときを過ごした遥は、疲れたのか地下室に戻る前に眠ってしまった。 男は彼女をベッドに横たえ、布団をかけてやると、いつものようにその寝顔に見入る。 こうして目を閉じている遥を見ていると、男の胸に、とても暖かなものが広がっていく。 だが、それはすぐに払拭されてしまい、代わりに肩にのしかかるような重圧感に支配される。 外の雨は、まだ続いているようだ。 地下室から戻り、戸締りを確認しようとした男は、ふと庭先に違和感を覚えた。 門が少しだけ開いており、脇に何かが見慣れぬ物が置かれている。 小雨の中、小走りで門まで行ってみると、塀の裏に、何か棒状のものが立てかけられていた。 それが使い古された「バール」であることに、男はしばらく気づけなかった。 数分後、携帯が鳴る。 甲高い声の「奴」からだ。 『やあ、近くまで来たから、土産を置かせてもらったよ。 持ってなかっただろ? 貸してやるから使ってくれよ』 わざわざ門の鍵をこじ開けて、こんなものを置いていったようだ。 文句を言ってやろうとしたが、それで「奴」が反省するとは思えず、つい言いよどんでしまう。 何も言い返さない男の態度に痺れを切らしたのか、「奴」は、少し怒気のこもった声で続けた。 『なあ、忘れてないか? あんたが望んだから、俺は“あいつ”を提供してやったんだぜ? 今更、情が移ったとか言わないでくれよ?』 『憎いんだろ? 恨めしいんだろ? あんたの仇なんだからさ!』 『早く殺してくれよ! 叩き潰してくれよ……ハァ、ハァ どんな風に殺ったのか、どんなにぐちゃぐちゃになったか、細かく教えろよぉ… 写真を撮って、見せてくれよぉ…写メでいいんだよぉ… 俺ェ……あんたから、報告聞くのが待ち遠しくってたまんねぇんだよ……ハァ、ハァ』 「奴」の声が、だんだん荒くなっていく。 また、いつものような異常興奮状態に陥っているようだ。 『変質者め!』と心の中で呟くと、男は無言のまま通話を切る。 そしてバールを庭の隅に隠し、再度、門戸の鍵を再チェックする。 家に戻ろうと踵を返した時、男の眼中に、車一台分の空間が空いた車庫が飛び込んだ。 ※ ※ ※ その日も、今日と同じような雨だった。 妻と娘を乗せた車が、大通りの交差点付近で大型トラックと激突したという報は、二人の帰りを待つ 男を絶望の淵へと叩き落した。 車は前面部が完全に押し潰されており、原型を留めていない。 信号は青……双方とも、スピードが乗った状態での正面衝突。 無論、二人は即死だった。 警察による事故調査の結果、妻と娘の乗っている車から、実装石の礫死体の一部が発見された。 妻は交差点上に現れた実装石を回避しようとしたが、ハンドルさばきを誤りこれを巻き込んでしまい、 一時的にグリップを失って対向車に激突したと結論付けられた。 新居に引っ越して半年も経たずに起こった悲劇は、男から生きる望みと活力を総て奪い取った。 それから、死人のような生活をただ無気力に過ごすようになった男は、何度も二人の後を追おうと 考えた。 同時に、二人を理不尽な死へと追い込んだ実装石を、心の底から憎悪した。 そんなある日、男の勤める会社に出入りしていた清掃業者の一人が、こっそりと彼に耳打ちをしてきた。 それは男の憎悪を激しく煽り立て、全身の血液を沸騰させるような報告だった。 事故現場の近くには大きな市営公園があり、そこには以前から野生の実装石が多数棲みついている が、そのほとんどは「捨てられた元・飼い実装」なのだ。 それらは生粋の野良と違い危機感に乏しいため、安易に公園を出て道路や交差点を横切ろうとして しまう。 そのため、以前から事故が発生していた。 男の妻と娘を死に導いた実装石は、既製品のピンクの実装服をまとっていた。 男の愛する家族は、そんな奴らに命を奪われたのだ。 業者…「奴」は、薄気味悪い笑顔を浮かべながら、やや甲高い耳障りな声でさらに続けた。 “実装石に、復讐してみないか” 「奴」は、実装石を虐待・虐殺する事に性的な興奮を覚える異常者だった。 ある事件の執行猶予中のため自身の手を汚すことが出来なくなっており、他人に虐待の悦びを伝え、 代行してもらうことで悦楽を得るという、理解し難い領域に踏み込んでいた。 精神的に追い詰められていた男は、そんな「奴」の誘いに乗り、彼から実装石を虐待するための ノウハウを教えられる。 それは、時には目を背けたくなるほど残酷かつグロテスク極まりない行為ばかりだったが、施す相手 が愛する者達の仇だと考えると、意外なほどすんなりと容認出来た。 「奴」は、男に一匹の小さな仔実装を手渡した。 家族を死なせたのと同じように、ピンク色の実装服を身に着けた「飼い実装」。 どこから調達してきたのかわからないが、それは男の嫌悪と憎悪を駆り立てるのに充分な存在だった。 彼が教えたのは、「上げ落とし」と呼ばれる方法だった。 わざと幸福の絶頂に上り詰めさせ、一気に絶望のどん底に陥れる酷いものだ。 それは、男が実装石に味わわされた事そのものであり、それこそ仇をとるのに相応しいプログラムの ように思えた。 「奴」から仔実装を受け取り、「必ず自分の手で殺しそれを報告すること」を約束した男は、早速これに “上げ”の生活を施し始めた。 心の中ではおぞましい憎悪を渦巻かせ、しかし表面上にはそれを表さず、男は丁寧に仔実装に接した。 いつか、その手で究極の絶望と激痛を与えるために。 男は、必死で屠殺願望を抑え続け、時には酒や薬に頼りながら耐え抜いた。 少しでも本心を覗かせてしまうと、仔実装は敏感にそれを察して警戒してしまい、上げ落としは失敗 する。 そう「奴」に教わっていた男は、人生最初で最後の「実装石虐待」のため、全精力をつぎ込む。 それは紛れもなく過度なストレスだったが、皮肉にも彼に気力を与える役割をも果たしていた。 気付かぬうちに、かつてと同じかそれ以上の活力を取り戻していく男。 そして仔実装も、いつしか彼を少しずつ信頼し始め、まるで自分の本当の親のように甘え始めた。 噂では実装石は大変不潔で図々しく、我侭極まりない下種な生物と聞いていたが、この仔実装は その例に当てはまらず、大人しい個体だった。 小さなピンポン玉一つ与えられば、それでいつまでも楽しそうに遊ぶ。 食事も、最も躾が難しいとされるトイレもすぐに覚え、男の手を煩わせない。 それどころか、知識欲が旺盛で何かを覚える事に歓びを感じているような節も見て取れた。 男は、そんな仔実装に色々なことを教え、話し、時には人間の子供が読む絵本を買い与え、朗読して やったりもした。 仔実装は、次第に物語の内容にあわせて感情表現を示すようになり、楽しい話だと手足を振って 笑い、悲しい話だと目に涙を溜めるなど、やたらと人間らしい仕草をして見せた。 いつしか男は、そんな仔実装に様々なことを教える楽しみを見出し始める。 そしてその間、実装石に対する憎しみが和らいていく事をも自覚し、同時に戸惑いを覚えていた。 二ヶ月が経ち、もう「仔実装」と呼び難いほどに大きくなり始めた頃。 「奴」は、男に“落とし”の催促を始めるようになった。 だが男は、いつしか仔実装育成が今の自分を支えている総てであると、気付いてしまった。 はじめはあれほどまでに燃え盛っていた憎悪の炎も、薄汚れ始めたピンポン玉で楽しそうに遊ぶ 仔実装を見ると、少しずつ火勢を弱めていく。 仔実装が体調を崩し、病床に伏せると、男は本気で心配し、看病に努めた。 連日の激務で激しく疲労していても、大切な休日を費やして仔実装に接した。 甘い愛情だけでなく、男は正しい躾け方も自ら学び実践し、また仔実装もそれを率先して身につけて いくようになる。 三ヶ月が経とうとする頃には、二者の間には絶大な信頼感が成立し、理想的な「飼い主とペット」関係 が生まれるほどになっていた。 「奴」からの催促は、相変わらず続く。 男は、だんだん「奴」の存在に悩まされるようになった。 今がまさに「落とし」に移行する絶好のタイミングであり、「奴」が急かす理由も理解は出来た。 それは自覚していたが、男は、明らかに迷いを覚え始めていた。 元々人一倍優しく世話好きな性格の彼は、どうしても落としに踏み切れずにいた。 まごつく男の態度に、「奴」は時折語調を荒げるようになった。 『あんたがやらないなら、オレがやってやるよ!』 その言葉がきっかけになり、男はようやく、「落とし」に移る決心を固めた。 あれだけの苦労を重ねてここまでやったのに、最後だけ他人に任せるということに、大きな違和感を 覚えたのもあるが、何より初心を忘れ始めていた自身に苛立ったことが大きかった。 男は、直接肉体を傷つける行為を始める前に、まずは仔実装の心に動揺を与える策を思いついた。 翌日、男は仔実装に自分の家族の写真を見せた。 自分がかつて愛した者達の姿、記憶を教え、男は、彼女達を今でも強く想い続けていることを切々と 語った。 妻と初めて出会い、告白した時のこと いずれ結婚するためにと、二人で必死で頑張った数々の経験 結婚式の感動、披露宴での知人・友人達からの賛美 初めて子供が生まれた時の、言葉に出来ないほどの感激 成長していく子供を、愛する妻と見守り続ける決意を定めた熱い気持ち ——そして、それが総て一度に奪い取られた絶望感 男は、仔実装に話しながら、いつしか大粒の涙を流していた。 そして、あの時に抱いた実装石への憎悪と復讐心が、再び燃え盛るのを実感した。 仔実装に向かって、自分がどれほど実装石を憎んでいるか、どれほど苦しめられたかを執拗なほど 長く、細かく説明していく。 だが仔実装は、そんな男の独白に静かに聞き入り、鳴き声一つ上げない。 柔らかな丸手で男の手をポンポンと叩きながら、妻と娘の写真をひたすらに見つめていた。 男の憎悪はやがて「罵倒」「誹謗」という武器に変わり、仔実装を責め立てる。 自分がどれほど、失われた家族を求めているのか そして、どれほど実装石が憎らしく許し難いか 憎い実装石を、今までどんな気持ちで育て続けてきたか 仔実装の頭を何度も撫でながら、アルバムを開きながら、男は執拗なほど怨み言を呟き続ける。 自分でも吐き気がするような陰湿極まりない行為だったが、怨念のこもった言葉を止めることは出来 ない。 「死ね、死んで詫びろ」 「この糞蟲め」 「ゴミ」 「害虫」 「俺の家族を返せ」 まるで何かに操られているかのように、汚い罵りの言葉が飛び出していく。 だが仔実装は、何の感情表現もせず、ずっと男の言葉を受け止めていた。 その態度は、まるで完全に覚悟を決めた死刑囚のように、穏やかだった。 精神的な責めの効果が計れない男は、一週間以上に渡り、仔実装に憎しみの言葉を吐き続けた。 それ以外は、これまでとまったく同じように振舞いつつ。 平穏な生活を与えつつも、飼い主に深く憎まれているという自覚を刷り込んでいくことで、精神に 揺さぶりをかけるつもりだった。 十日を過ぎようとする頃、ようやく、仔実装の態度の変化が明確化した。 今までのような甘えた態度が消え、少し離れたところから悲しげな目つきで、男を見つめるようになった。 その目はいつもと変わらなかったが、男には、どことなく悲しみを含んでいるように感じられて ならなかった。 仔実装が一切鳴き声を立てなくなったことに男が気付いたのは、育成を始めて四ヶ月に達しようと する頃だった。 事態の急変は、四ヶ月半になろうとするある日の早朝に発生した。 室内に突如発生した、薄灰色の巨大な「球体」。 それが、無数の糸に支えられ、僅かに床から浮き上がり、脈動している。 仔実装の姿は、どこにもない。 球体は小刻みに蠢き、熱を発し、不気味な音を立てながら肥大化していく。 それはあまりに大きすぎ、また不気味だったため、男の手に余った。 実装石の「繭」—— ありえない筈のものが、確かにそこにある。 処分対策が見つかるまでやむなく放置された繭は、数日を経て元の数倍にまで膨張し、週末の晩、 ついに「孵化」の時を迎えた。 割れ裂けた繭の中から姿を現したのは——事故死した娘「遥」だった。 髪の色こそ亜麻色になってはいるが、顔、体格、身長、すべて男の記憶にあるそのままだ。 半透明の粘液に全身を包まれてはいたが、「遥」は明らかに呼吸し、薄い胸を上下させている。 男は慌てて「遥」を抱きかかえ、風呂場へ向かう。 仔実装の行方など、既に彼の頭の中にはなかった。 男が「奴」に報告する前に情報を得られた事は、幸いだったのかもしれない。 人間から愛情を与えられて育った実装石は、繭になって、人として生まれ変わる そんな都市伝説が古くからあり、かつては現実的にありえない幻想譚とされていた。 だが、昨年始めに起きたある事件が、その認識を変え始めていた。 ある青年が自宅内に女性の腐乱死体を遺棄していたという陰惨な事件だったが、ネット上に流出した 現場写真の様子から、被害者女性は繭を作った実装石だったのではないかという憶測が語られ 始めていた。 それは僅か半年未満で沈静化するほど些細な盛り上がりではあったが、男はたまたまその話題を まとめたサイトに巡り会えた。 なまじ信じられないことだったが、仔実装と入れ替わるように出現した「遥」を見る限り、受け入れる しかない。 翌日に意識を取り戻した「遥」は、見た目こそ愛娘そのままだったが、人間の言葉はまったく話せ なかった。 両の眼は深い宝石を思わせる緑と赤に染まっており、また耳の形状や大きさも人と異なっている。 男は、どうしてこんな事になったのか、まったく理解が及ばなかった。 愛情を示したわけではない、それどころか、激しい憎悪を向けていた筈なのに。 だが「遥」となった仔実装は、狼狽する男を見て、とても嬉しそうに微笑んだ。 小首を傾げてニッコリと笑う、特徴的な微笑み。 それは、男が大事にアルバムにしまっていた、あの写真そのままの仕草だった。 全裸で抱きついてきた「遥」を、男はつい反射的に突き飛ばした。 驚きの表情を浮かべ、やがて泣き出す「遥」。 その態度に思わず駆け寄ろうとしたが、男の足はなぜか動かない。 男は、夢にまで見た娘との再会を、受け入れる事が出来ずにいた。 彼女は男の愛娘であって、そうでない。 こいつは、俺が憎み殺すために手に入れた、忌むべき実装石。 それなのに、抱き締めていいのか、抱き締めるべきなのか? どうして、こいつはこんな姿になってしまったんだ?! 男が、躾以外で手を上げるようになったのは、それからだった。 彼の中で、「遥」の姿を模した仔実装は、“愛する者を汚した存在”に摩り替わっていた。 否、そう思わなければならないと、必死で自身に言い聞かせ続けた。 男の平手を頬に受ける度に、「遥」は短い悲鳴を上げ、それでもすぐにまたあの笑顔を浮かべる。 頭を小突いても、左右の頬が赤くなるほど張っても、それでも笑顔を浮かべ続ける。 それは、男にとって屈辱的な反応でしかないのに。 最愛の家族の命を奪った忌まわしい生物が、よりによって最も大切にしていたものを汚していく。 その許し難い行為は、やがて男に明確な殺意を芽生えさせ始めた。 やがて、男の折檻は度を超し始め、「虐待」の域に達しようとしていた。 だが、それでも「遥」は笑顔を崩そうとしない。 水も食事も与えられず、やせ細り身体も汚れ、更には暖を取る布切れすら与えられなかったのに。 それでも、「遥」は泣き声一つ上げず、男を見る度に微笑を浮かべ続けた。 その目に、一杯の涙を浮かべながら。 肩や手、脚を、ガクガクと震わせながら。 顔を青ざめさせ、それでも、笑顔を絶やさなかった。 否、無理に笑顔を作り続けていた。 いつ殺されるか判らない恐怖に支配されながらも、必死で—— ある寒い朝、動かなくなった「遥」を発見した男は、発作的に大声で叫んだ。 それは、心の底からの慟哭だった。 「遥」が限界だったように、男の精神も、虐待を行なう度にボロボロになっていた。 自身を復讐者へ変貌させるために、無理矢理気持ちを捻じ曲げていたが、それを自覚せざるを えなかった。 同時に、彼女が何故、今までずっと必死で微笑み続けたのか、その意味をようやく悟ることが出来た。 そして、何故彼女が、「遥」の姿になったのかも—— その瞬間、男は生まれ変わった。 「遥」を手厚く看護し、手を尽くして治療を施し、回復を祈った。 仕事も休み、一時も離れず「遥」の手を握り続けた。 手を放してしまったら、娘の死を二度も経験しなければならなくなる。 もはや、それが実装石であることなど、どうでも良い。 何日も虐待を受けながらも、男のすさんだ心を少しでも癒そうと、命懸けで微笑み続けてくれた“彼女” を、絶対に死なせたくなかった。 「遥」を死の淵から救ったのは、皮肉にも「奴」から譲られた実装石活性剤だった。 躾にしくじり、過度のダメージを与えてしまった際に用いるようにと与えられていたもの。 人間になった「遥」に効果があるのか不安だったが、男の機転は見事に功を奏した。 「遥」が身体の調子を完全に取り戻すのには一週間もの時間を費やしたが、半ば強引に仕事を 休んでまで、男はつきっきりで看護した。 回復した彼女が瞼を開いた瞬間、男は感極まって大声で泣いた。 そして「遥」も、男に抱きしめられ、初めて声を上げて泣いた—— 「二人」は、ようやく、互いが求めていた何かを手に入れることが出来た。 だが。 男が遥を受け入れた後も、苦難は山積みのままだ。 既に死んでしまった者の姿を、表立って晒すことはできない。 また、妻子を失ったことを周囲に知られている男が、娘と同じ年頃の少女を家に住まわせていることを 知られるのも、ご時世がご時世なだけに問題が生じる。 まして遥は人であって、人ではない。 それに、人間の姿になった実装石の存在など、誰も認めてはくれないだろう。 本人達の意向に関わりなく、今後も飼い主と実装石の関係が強いられることになる。 それに気付いた男は、散々悩んだ挙句、ほとんど使わなくなった地下の物置を改装し、ここに遥を 隔離することにした。 否、せざるをえなかった。 そこは、まさに現代の「座敷牢」。 世間の目に触れさせられない、特殊な家族を隠し活かすための非情な牢獄。 男の想いに反して、地下室は遥を活かし、隠し続ける。 何ヶ月、何年、使い続けることになるのかは、誰にもわからない。 それでも、遥は不平不満を唱えない。 男が分厚い扉を開くまで、ひたすら大人しく待ち続ける。 そして、男が部屋を訪れたとき、必ずあの微笑を向ける。 二人の間に、人としての会話はない。 だが、男は少しずつ気持ちが通じ合っていくのを実感していた。 愛娘の姿をした実装石。 心優しい、実装石の「人間」。 ありえない奇跡を迎えて誕生した、男にとっての「夢」。 それが、いつまでも果てず続いていくように、男は常に願うようになった。 そしてやがて、「奴」の存在は、男の中で彼の生活を脅かすほどの脅威へと変貌し始めていた。 静かな寝息を立てて眠る遥の顔を見つめながら、男は嬉しそうな、それでいてどこか悲しそうな表情を 浮かべていた。 常夜灯の光の中、光の影の生み出す強いコントラストが、遥の顔に影を落とす。 それに不吉な予感を覚え、男は少し慌て気味に立ち上がった。 もし、この子の存在が「奴」に知られたら、どうなるのだろう? もし、「奴」がこの子の正体に気付いてしまったら、どうなるのだろう? もし、「奴」がこの子を…… 不意に、男の胸中にドス黒い感情が芽生える。 それは、自分でも驚くほどおぞましいもので、背筋を震わせた。 かつて、愛する者を守れなかった自分。 だから、今度こそ、守らなければならない—— ここ数日、男の心の中で繰り返された言葉が浮かぶ。 地下室の扉を開き、階段を上ると、冷たい空気が頬を叩いた。 その瞬間、男の脳裏に、もう一つ別な考えが浮かび、消えた。 ——だが、あの子は実装石、なんだ…… どんよりと曇っていた空から、ぽつぽつと、冷たい雨粒が降り注いで来る。 すぐに激しくなる雨は、アクリル製の車庫の屋根を強く叩く。 その音に反応し、男は、再び視線を車庫に向ける。 一台分の余剰空間のある、車庫を。 ※ ※ ※ 夕べの雨が上がり、快晴を予感させる爽やかな朝。 男は、遥に朝食を与えるために、いつものように地下室へと向かう。 分厚い扉の向こうから、芳香剤の爽やかな香りと共に、暖かな空気が漂って来る。 早起きな遥は、とっくにベッドを抜け出し、お気に入りの絵本に見入っていた。 「おはよう、遥。朝ごはんだよ」 絵本を放り出し、満面の笑顔で胸元に飛び込んでくる遥。 男は、腰の入ったタックルを腹で受け止め、少しだけうめき声を上げた。 「はは、元気だな。さあ今朝はオートミールとミルクパンだよ。遥の大好きなチーズもあるんだ」 市販のナチュラルチーズは、遥と、本当の遥共通の大好物だ。 耳をピクピクさせて歓びを表現すると、遥は男の胸に何度も頬擦りをした。 少し腫れぼったくなっている目を見て、また夜泣きをした事に気付く。 仔実装だった頃から治らない、少し困った病気だが、今ではそれもたまらなく愛しい。 「さあ、上に行こうか。今日はとっても良い天気だよ」 コクコク、と頷き、遥は男の手を握る。 遥が地下室を出る、ほんの少しの時間……男が、失われた家族との思い出を再現出来る、限られた 瞬間。 遥の手をしっかりに握りながら、男は、温かい朝食が並べられたキッチンへと急いだ。 「パーパ」 男がキッチンに入った途端、背後から不思議な囁きが聞こえた。 振り返った視線の先には、いつものように優しい笑顔を浮かべている遥がいる。 男の手を両手で包みながら、遥は、ゆっくりと唇を動かし、呟いた。 「ぱ-ぱ…」 「遥…?」 「ぱーぱ、ぱーぱ!」 「……」 それは、遥が初めて話す人間の言葉だった。 どこで覚えたのかは判らないが、はっきり、しっかりと、呼びかけている。 本当の遥よりも、少しかん高く深みに乏しい声。 だが、それは確かに、男に呼びかけられた「遥の声」だ。 やや違和感はあったが、嫌な気持ちはしない。 それどころか、男の胸中にはとても熱い物がこみ上げていた。 「ぱーぱ! ぱぱ、パパ♪」 「遥…」 戸惑う男にぎゅっと抱きつき、遥はまた愛情表現の頬擦りを繰り出す。 半開きのドアの狭間で、二人は、いつしか熱い抱擁を交わしていた。 続く −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
