冬の幻 やや北寄りのこの地方でも温暖化は進み、昔に比べれば雪は減っている。 老人達は気候の変動よりも、直接生活に関係してくる雪かきの労働からの解放を喜んでいた。 だが、それでもそれを喜ぶ余裕があるのは人間だからこそであり、人間以外の生物にとっては辛い冬が増えている事に 代わりは無かった。 特に野生動物にとって気候の異変による食料の減少は無視出来ないレベルで常態化しており、ここ近年山から人里に 下りてくる熊や猪、鹿等による農家への害はこれもまた無視出来ない状況である。 そんな中、仲でも特に危機的状況となっている少数の生物がこの山里にも居た。 住居もまばらな一面の雪野原。 そこを、山から下りてきたらしい、這い蹲る様に進む緑色の何かがあった。 発酵しすぎたまま固まってしまったパン生地の様なブクブクの顔面は、苔が生えた方がまだましと思える程に、厚く重なった 垢と細かなアカギレ、何かの衝突によるみみず腫れにまみれ、ところどころは腫れるどころか異様に陥没してさえいた。 彫刻刀でぞんざいに開けた様な、閉まる事を忘れた逆三角の口からはどぶに顔を突っ込んでいるかの様な汚臭が漂い、ヒキガエルを 更に押しつぶした様な独特な濁った鳴き声が、喘息の様に繰り返されている。 その口の上には、鼻くそや吸い込んだ汚れが詰まり、一息吸う毎に耳障りな呼吸音を出す単なる二つの穴としか言えない鼻がある。 更に上にはこれまた切り抜いた皮膚に詰めただけの様な目。 乾燥して腐敗したトマトの様な赤黒い片目と、同じくそれに青カビが生えたかの様なカビ居色の片目が、ビクビクと小さく 痙攣しながらせわしなく周囲を見ていた。目と言えるかどうか怪しいその目からは、泥を水に溶かした様な涙と血涙が同時に 流れている。 体を覆う緑色の布、頭巾も、その正体は不明であり、皮膚の変異とも毛の変異とも言われる。 が、それはどうでも良かった。衣服らしいモノを纏っているくせに洗濯も脱ぐ事も知らぬそれは当然生まれた瞬間から汚れの 一途を辿る。 今や緑だったのかと頭をかしげる程に汚れ、ほつれ、体から出た垢と外からの汚れ、更には、自らの排泄物のこびりつきで あちこちが硬く変質したそれは、ぼろぼろの悪臭発生器だった。 頭にあり、同じく頭巾と呼ぶもはばかられるそれの下にある意味もなく長い毛は、枯れた根の様にみすぼらしくよじれ、何かに 引っかかる度に何の抵抗もなくぶつぶつと切れる。 弾力も何もないそれは、動物で言うところの毛の役目を放棄していた。 それは実装石。 山に入れば、熊や他の動物から例外なく敵と見なされ容赦なく殺され、人里に近づけば近づいたで同じく万に一つの例外なく 人間に忌み嫌われ、追い払われ、食い下がればバールの様なもので頭蓋を砕かれ、汚臭を防ぐ為だけに土葬される。 それぞれの理由は単純。 害獣だからの一言に尽きる。 動物からすらもその扱いを受ける理由は何か。 山に入ったそれが忌み嫌われる理由を体で表すのは食事の時。 動物ですら本能にすり込まれたルールを守り、来年の実りの為に全てを食い尽くす事はしない果物や木の芽、キノコ、種子等の 山の幸を、それは見つけた先から、腹が減っているいないに関係なく、根こそぎ食い散らかす。 しかも下手くそな食べ方と取り方によってもぎとったものの半分近くをただ食いこぼしたり踏みつけたりして無駄にしてしまう。 普通なら何かの動物が食べ残した果物等も、他の小動物が食べたり出来る。 だが、それが手を付けたものではそういった自然のリサイクルが効かない。 なぜなら、それが口を付けたものは動物すらえづく程の酷い口臭が染みつき、更に粘つく唾液がからみつき、みるみる腐敗して しまうから。 その上、食べている時の醜い笑顔と下品な笑い声は動物でも気分を害するらしい。 どのような仕草かというと、大抵寸分の狂い無く、それは食事中に以下の様な仕草をする。 大抵生物ピラミッドの下層に居る者は常に飢餓に喘ぐ。 言うまでもなく普段最下層中の最下層にいるそれは、餓死寸前の所で、茂みに絡みついてたわわに育っている赤い実を見つけるや 否や、たった今まで緑色の生ゴミが芋虫の様に動いていたと言うのにバネの様に起きあがった。 そしてどうすればそんな事が出来るのか不思議なほどに涎をまき散らしながら実に近づき、地面に枝を差して穴を開けたかの様な 鼻をくんくんとすぼませて熟した実の香りを嗅ぐ。 普通の生物ならば喜び勇んで食べるところだが、それは一瞬だけ砂上の楼閣へと登ってから行動を起こす。 腹が悲鳴みたいに鳴り、喜んだ腸が勝手に勇み足で糞を吹き出した。 いい香りがしていたそこは、一瞬にしてヘドロ色と異臭にまみれる。 それは匂いを嗅いでから一房を指の無い手でぶちゅぶゅと実を潰しながらもぎ取る。 べろりと一舐めし、事もあろうかフン、とバカにする様な顔つきで赤い実を見下す。 その顔はこう言っていた。高貴で最強の存在である自分に食われるのだから、感涙にむせび泣いてありがたく食われるがいい、と。 それは、植物に対してすら、己が素晴らしい存在だと言わなければ気が済まないのだった。 それから、ようやくそれは実にかぶりつく。 下品という言葉を世界中から集約して物質化した様な食い方で。 誰にも渡さない。全て自分のだ。それが当然だ。食われてありがたいだろう。もっと食わせろ。独特で耳障りな鳴き声でそれは そう叫んでいる様だった。 一体この腐臭は何事か、と食事の現場に近づいた動物に対しても、それは下等動物を蔑む視線と共に、鼻をフン、と鳴らす。 鼻から青緑色の鼻水を噴きながら。 そして短い手を口に寄せて、何て薄汚くて下品で低能な生き物だ、と言わんばかりの仕草で体中から汚臭と共に見下しオーラを放つ。 その時の瞳は背筋が寒くなる様な嫌らしい笑みをこびりつかせて。 そして大抵、とどめとばかりにしっしっと指の無い手を優雅な仕草のつもりで振って動物を追い払おうとし、ヒキガエルの 断末魔の様なゲップと水っぽい音の屁を同時に出す。 その醜悪な動作を1セット見た動物で冷静な者は居ない。 熊の場合。 その時は、成体が三匹だった。 まず立木をもなぎ倒すその爪を、一匹の腐りかけのトマトの様な感触の顔面に走らせる。 ぶちゅ、と瞬間的に膿が弾ける様な音がするが、ほぼ同時に地面までえぐれる程の力で土に叩きつけられたそれは最早音一つ、 声一つあげる事無く腕力まかせの竜虎乱舞により、十秒も経たずに土まみれのミンチとなる。 残りの二匹はその迫力に更に糞を垂れ流し、互いに前に押し出そうと変色した涙を流しながら醜く命を差し出させあっていた。 一匹の足がよろけ、顔面から地面に倒れる。 もう一匹がしめたとばかりに後頭部に飛び乗り、対して重くもない体重をかけて何度も飛び跳ねた。 そして、熊に向かって何故か胸を張る。 それはこう言っていた。 悪い奴はやっつけた。 そしてふんぞり返ったままで、今度は何故か手を差し出してホラホラ、とジェスチャーする。その意味はこうだ。 悪い奴はこいつだ。そいつをやっつけた。だから何か食い物を寄こせ。さっさとしろこのデクのボウ。 熊はその反吐の出るジェスチャーに我を忘れて吠える。 その声に、立っていた一匹が肝を潰して糞を吹き出す。 同時に、倒れた一匹の上に乗る一匹の頭上から、熊の屈強極まりない足が蹴り落とされた。 岩が落下した様なその強烈な一撃。二匹は、一瞬で土塊まみれの緑色のシミとなった。 狐の場合。 その時は成体と子供が二匹だった。 狐はそれよりも遙かに知能らしい知能がある為、噛めば口が臭くなる事を瞬間的に察知。 その為、まず成体の一番匂いの少ない服の端にまず噛みつき、動きを封じる。元より歩く事の下手さにおいて比類の無き スペックだが、狐の怒りはいかなる方法の逃げも許さない。 成体が、何をするこのケダモノ、と怒りに顔を歪ませるが、次の瞬間その目は飛び出んばかりに見開かれる。 体が宙に浮き、振り回される。 狐は腰を抜かして糞を漏らしている子供二人に向けて成体を投げ飛ばした。 それは一匹に直撃し、成体の頭が半分陥没。子の方は頭を完全に潰された。 狐は更に裾を噛み直し、今度は成体をハンマーの様に振り回して残った子供に何度も振り下ろす。 子供は、泥から泡が吹き出ているとしか思えない、音の様な声を何度かあげたが、根性のない肉体はあっという間に形をゆがめ、 程なくつぶれた。 成体は辛うじてまだ息がある。 その時、成体は自分としては一番甲高い悲壮なつもりの声で鳴いた。 実際はゲップと大差のない声だが。 狐はそれでも成体が初めて許してくれといっているのだろうかと思い、口を離す。 いい加減鼻も曲がりそうだし、二度と顔を見せないならば。 そう思っていた。 だが。 手も足もまともに動かなくなっているにもかかわらず、解放された、イコール自由の身、イコール全て思いのまま、イコール 自分が最高。 と瞬間的に思考を際限なく膨らませた成体は、股間に手を突っ込んで糞を掴み、狐に向かってこれでも食らえ、と、投げようとした。 狐の怒りが沸点に到達するのと、冗談みたいに無様でスローな投擲フォームが勝負になる訳はない。 狐は生まれて初めてとも言える程の殺気を吹き上げながらそれの服を噛み、体が浮きそうな程の力で振り回す。 次の瞬間、それは弾丸の様に岩に飛び、最初に到達した頭は泥水を入れた水風船の様な音を出して岩のシミとなった。 猿が相手の時は、成体が三匹と子が六匹、蛆が十匹だった。 体が一部欠けている子も居た。 だが、三匹の成体はまず己の食事を何より優先させる。 子も子で、少し茂みの端によれば他の実があるのに、真ん中が一番美味い。真ん中で食べるのが一番偉い。一番美しい。 だから自分以外あり得ない、と何の根拠もない自信と理由で成体の間から無理矢理割り込もうとする。邪魔された成体は途端に 怒りの声を上げ、いびつな丸にしか見えない手で子の頭頂を殴りつける。 目を半分飛び出させて口と鼻から体液が吹き出す。成体とはいえ非力なその力で殴られてこれなのだから、子の体はどれだけ 粗末な作りなのか想像がつかない。 子は、緑色の泡を吹いて卒倒した。 残りの子はそんな子をみて助けようともせず、ただ後ろでげたげたと口に手を当てて笑っている。 馬鹿な奴。頭のいい自分たちとは大違いだ、そう思っているのが醜悪な笑顔から見て取れた。 そしてその当人達はでは頭がいいのかと言えばそんな事は無論無く、ただ虚勢を張るのが精一杯で足が動かないだけである。 蛆どもはといえば、卒倒している子の股間から溢れている糞にぐじゅぐじゅと音を立って這いずって近づき、そこに群がり、 耳を塞ぎたくなる音でそれを啜っている。 地獄の様な光景だった。 そこへ、悪臭の発生に気付いた猿が二匹やってきて枝の上からそれらを発見する。 斥候の二匹は、漂ってくる異臭に吐き気を催して口を押さえた。 成体の一匹が枝の上の猿に気付いた。 腐りかけのオリーブの様な目で自分を見ていると気付いた猿は、それだけで背筋がぞくりとする。 怖さではなく、気持ち悪さで。 霊長類としてより感情に長けた彼らには、その瞳がいかにおぞましいか、その瞳の奥底の醜さが理解出来たのだ。 三匹は、指の無い手で猿達を指さし、口に手を添えて断末魔の蛙の様な声で笑う。 そして少しの後、今度はいきなり猿達に向かって歯を剥いて怒り出した。 猿は、突然笑っていきなり怒りだした。意味が分からない。奴らはキチガイか? と首をかしげる。 その理由はこうだった。 最初に三匹は、猿達を見てお約束通り根拠無き自信と理由であざけり笑い出す。 なんて醜い、無様な生き物なのだろう。それに比べてどうして自分たちはこんなに高貴で美しくてあたまがいいのだろう。 申し訳なくなってしまう。 そう思って笑っていた。 その慢心が、今度は勘違いへと滑り始める。 あんな醜いモノに向かってまで済まないと思うなんて、自分たちはどこまで慈悲深くて謙虚な存在なのだろう。 こんなに頭が良くて美しくて完璧な存在の自分達は、見せてやるだけでも大変な幸運、生涯崇め奉る神の様な、いや、神だ。 なのにあの醜いモノどもは、上から自分達を見下ろしている。 なんと無礼な、なんと恥知らずな、なんと傲慢な存在だ。 許せない。まずは土下座させ、その頭をこの美しい足でふみつけてやろう。 それから甘い物を山の様に持って来させよう。 それから気持ちのいい寝床を用意させ、体を洗わせ、美しいこの体を時々は拝ませてやる。 だから今すぐ自分達の前に降りてきて土下座しろ。どうした? どうしてお前達が言った約束を守らない。この外道め。 醜いカスめ! 三匹は、あのわずかな時間でここまで猿達をこき下ろし、あろう事か一言も言葉、意志を交わす事無く約束までさせていた。 自分達の脳の中で。 猿にはそんな事は分からない。 目の前にあるのは、汚臭を振りまいて醜い姿をくねらせ、大切な食料を汚物まみれにした五月蠅い汚れ物。 そんな物が、どうやら自分達に対して無礼な事を思っているらしい。 それで充分だった。 二匹は、遠吠えする。 下にいたそれらは、その大きな声に例外なく腰を抜かして糞を漏らした。 蛆の一匹が腰を抜かした成体の下敷きとなり、汁気の多い屁の様な断末魔をあげて文字通り糞まみれで絶命する。 数分後、周囲の木の上には猿の一群が揃っていた。 地面にも同数の猿の群。 総数で五十匹はいるだろう。 彼らはこの山の中でも大きな方の群だったのだ。 百近い目が、一つ残らず敵意に満ちて光っている。 流石に、生まれる前から場を読む神経をどこかに置き忘れてきたそれも、これはマズイ状況だと気付く。 成体は周囲を見回し、囲まれていると知る。 子共は、頭蓋がへこんで痙攣している子を中心に固まる。 そしてこの状態でも尚、未だに状況が理解出来ない蛆は、絶命した一匹を除き、幸せそうな顔で子が漏らした糞をしゃぶり続けている。 成体が、不意に蛆の一匹を掴んだ。 蛆の中でも一番ブクブクと太った、白豚から手足をもぎ取って緑に塗った様な個体。 そしてそれを、一番眼光鋭いボス猿に向けてかかげた。 ボス猿が何をするのかとわずかに興味を抱く。 するとそれは、蛆を突然真ん中からぶちゅりと折り曲げる。 蛆が、今になって初めて痛みと恐怖で屁の様な声で悲鳴を上げる。 成体は蛆の折れ目から体液が吹き出し顔や体を汚すのも、耳障りな悲鳴と痙攣が体に伝わるのも構わず、そのまま噛みつきながら まっぷたつに千切ってしまった。 蛆は両の目玉を半分以上飛び出させ、腐ったサシミの様な色の舌を口いっぱいに飛び出させながら絶命している。裂け目からは 緑色の絵の具と泥を混ぜた様な体液と塩辛の様な内臓がしたたり落ちている。 ボス猿以下、全猿が言葉を失った。 あいつは今、一体何をした? 猿を絶句させたそれは、更に猿にとって信じられない行為をする。 折った蒸かし芋の様になった蛆の片方を、いきなりぐちゃぐちゃと咀嚼しだしたのだ。 その目はお菓子を食っているかの如く恍惚。 そして片方のそれを猿に向かって差し出す。 口の中を赤緑色の肉片と液体でたぷたぷにしたまま、うがいしながら笑っている様な不気味な声を森に響かせる。 それは、こう言っていたのだ。 こんなに美味い蛆をお前らに半分も食わせてやろう。だから、逃がせ、と。 わずかの沈黙の後、ボス猿の赤い顔が、いよいよ火がついた様に激しく紅潮した。 こいつらは、自分達の子供をたった今自分で殺し、そして食った。 笑いながら子供を食っている。 更に見よ。 したたり落ちる体液を求めて、子や蛆までが我先にと互いに相手を押しのけ合ってその汁を啜ろうとしているではないか。 猿達の怒りは、最早言葉では言い表せなかった。 ボス猿が一際大きな声を上げる。 それは、戦闘開始の合図。 声に腰を抜かしたそれらは、もはや魚の様に口をぱくぱくとさせるしか出来なかった。 地面の若い猿達が五匹、それぞれ手に太い物やら細い物やら、木の枝、捨てられていた角材を持ってそれに襲いかかった。 まず蛆を食っていたそれに、錆びた釘が刺さったままの角材が振り下ろされる。頭蓋は外れたが、顔の前にそれは擦り、釘が 右目をえぐり取ってそのまま顔の下まで皮膚を破り裂いた。 成体は、口が裂けんばかりの濁った悲鳴を上げる。 声を嫌った他の一匹が、鋭く避けた枯れ木の先端を口の中に突き刺した。 枝のささくれが周囲の肉を遠慮無く切り裂きながら、あっさりと喉を貫通した。枝は途中で松の葉の様に大きく裂け、喉と 背中辺りに枝が飛び出す。 五匹の猿はまず、何はともあれ蛆を食っていた成体を執拗に叩きのめす。 一打ちする毎に頭蓋が窪み頭や胴体から体液が噴き出し、手足はぼろぼろと形を失ってゆく。 痛みで我に帰ったのか、ほんのわずか残った目が猿を睨み付けた。なにをする、このゴミ共め、と。 五匹の怒りに注ぐ油としてその一睨みは極上だった。 一匹が目玉に枝を突き刺し、そのままぐるぐると脳をかき回す。 いびつに痙攣したその姿は余りにもおぞましく、なおさら五匹の攻撃は激しさを増した。 やがて一匹が枝を捨て、大きめの石を両手で持ち上げる。 他の猿は何をする気か即座に悟り、さっと身を退いた。 猿の前には、服を着せたミンチ同然のそれが息をしているかどうかも分からぬ様で横臥している。 石を持ち上げた猿は、一声鳴くと勢いを付けてそれを投げ落とした。 頭蓋に落ちた石が、まるで豆腐でも潰したかの様に抵抗無く頭を押しつぶし、そのまま石は地面にぶつかった。 周囲に、緑色の吐瀉物の様な汚物をまき散らしながら。 ボス猿が一声鳴くと、五匹の猿は下がった。 無論これで終わりではない。 もう一声鳴いた時、次は残りのそれらに向けて、木の上から石や木の枝が雨あられと降り注ぐ。 何が起きたか分からない成体の一匹は、顔面に石が落ちてきてそれが上あごを砕いて喉を塞ぐまで痛みを感じなかった。 もう一匹は茂みに逃れようとしたが、遠巻きにしていた猿達も石を投げ始めた為、同じく顔面に石を当てられ、泥の様な血を 噴きながらごろごろと倒れ込んだ。 蛆は石一つで簡単にぷちぷちと潰れ、子も二つ三つの石や棒きれに当たっただけで骨を陥没させたり皮膚に枝が突き刺さったり して、苦痛に一秒とて耐える事無く絶命した。 少しの後、ボス猿がまた一声鳴き、猿達に攻撃をやめさせた。 腐臭を放つそれらが居た場所。そこは、匂いこそ変わらないが、生き物は居なくなっていた。 緑色の液体、わずかに固形を残した肉片、緑色とはとても言えない服らしき残骸を残し、生命は消えていた。 この様に、実装石と出会った生き物は例外なくそれらを敵と見なし、また、万が一に敵対心を持たない可能性のあるものにすら、 自らの傍若無人極まりない態度によって敵対心をわき起こさせる。 全ての動物の行動に共通しているのは、肉の一切れすら、誰一匹として食べようとはしない事。 獲物としての価値は完全にゼロだから。 貴重な食料を食い荒らして台無しにし、かつそれ自体は血一滴すら食する価値が無い。 まさしく、動物に取ってすら百害あって一利無しの最低最悪の存在が実装石だった。 今、雪の上を這いずり進むそれは、先ほどの猿の攻撃を、本当に奇跡的に生き延びた成体だった。 攻撃による負傷により、ただでさえ不気味なその姿は正しく妖怪の様に異様だ。 そんな、見た目の不快さ、沸き上がる悪臭、耳を塞ぎたくなる鳴き声を出すそれが、真っ白な雪の上を這いずる様に歩いていた。 這いずる理由は無論歩けないから。 通常であれば、あの体の作り故に雪の上をまともに歩くなど出来ないが、それでも四つんばいで、歩くことは出来る。 だが、今のそれには、体全体で這う以外に進む方法がないのだ。 いびつに曲がった手足手足。消耗した体力、まともな箇所のない骨と内臓。 それが全て。 雪の上を進む度、その進んだ跡には赤茶けた色、そして異臭が残る。 不意に、せむしの様に盛り上がった背中がもぞりと動き、弱々しい声が聞こえる。 背中には、一匹の蛆が居た。 助けた訳ではない。 あの時、転がりながら必死に茂みへ逃げようとしていた時、一匹の蛆を盾か何かにしようと無我夢中で掴み、その蛆が服の中へ 逃げただけである。 幸いにして助かったとは言え、既に相当打ちのめされており、その顔は、これは顔? と実装石すら悩むだろう程に潰れている。 体を転がす体力もなく、ひたすら這いずって山を下りられたのが幸いし、背中の蛆はとりあえず息をしていた。 一メートルを一分程かけ、五メートルも進む毎にそれはぜいぜいと大げさなほどに呼吸音を荒げ、雪に顔を突っ伏して横臥する。 モノを掴む事を放棄した魚すら骨には指の跡があるのに、実装石の手足にはそれがない。 実装石の骨は個体によっても数が違うという異常な構造の上、末端に行くほど簡略化されている。 誰もその気にならないので数えられた事も無く、知る必要が無いので知る者は居ないが実装石の骨の数は成体で頭蓋の分割を 入れて数えてもわずか40個前後だった。 出来の悪いお手玉を袖から覗かせているかの様な手は、皮膚と筋肉の伸縮でものを掴む。 おぞましいの一言に尽きる動きのそのマニピュレータは見た目から想像出来る通りの低機能。移動範囲も辛うじて口に届く 最低限の長さしか無く、自分の頭頂に触れた事のある個体はない。 形のない柔らかなものを掴むには余りにも不都合なその手で、何とか雪を口に掻き入れ、渇いた喉を潤す。 数分後、死んだ様に突っ伏していたそれが顔を上げる。 途端、そのえづきそうな程に汚れた顔が、筋肉に人を不快にさせる悪意があるとしか思えぬ形で醜悪に歪んだ。 一体、笑顔という言葉にこれほど絶望を抱かせるにはどのような修行をすればいいのか。 腐った色の目の先には、一件の家がある。 壁は無く、家の煙突からはもうもうと煙が立ち上っている。 風に乗り、ふわりと炊きたての甘い米の香りが流れてきた。 ゴミだらけの鼻腔に米の香りが届いた時、実装石の股間から粘着質な粘土が空気と一緒に飛び出た様な不快な音と共に軟便が 吹き出した。 下着と呼ぶのもはばかれる茶色で穴だらけのそれのあちこちから、汚臭と共に便が飛び散った。 更に恐ろしいことに、背中の中からも小さい排便の音が聞こえ、ただでさえ汚い緑がうじゃけた傷口の様に色を濃くする。 言うまでもないが、背中の蛆も同様に糞を噴出したのだ。 歩いた線上に汚染されていた汚物の道が、一瞬で周囲一メートルを汚物で汚染された。 一体何が起きたのか? 何の事はない。 飯の匂いを嗅いだだけで反射的に食った気になり、それに連動して便が飛び出たのである。 内蔵の反射はところてんを押し出す機械より単純だった。 実装石は空腹を何より嫌う。根性がないから。 その為、滅多にそのような勘は働かないが、たまたまそれが当たると、出す筈の便を際限なく溜め込む事がある。 腹が膨れていると、満腹な気がするから。 そんな粗末な防御機構は、わずかな飯の匂いを嗅いだだけで決壊した。 糞だけで俵型に膨れていた胴体はみるみるかさを減らし、それの体型はいびつにしぼんでいった。 体力などほとんど無い筈。 だが、それは立ち上がった。 糞が排出され、体が軽くなったせいもあるだろう。 飯が食える。何の根拠もない確信が体を動かしたのかも知れない。 根性はないが欲望は人一倍なのだ。 その家では昼食の支度の最中だった。 両親は不在だったが、それは冬の間良くある事であり、留守を預かるのは高校生の兄と小学校に入ったばかりの妹だった。 後はみそ汁を作れば終わり。 その時、不意に兄が直感的に危機を感じた。最も、正確には鼻が利いただけである。 しかし、それはこの地に住む為に必要な直感だった。 まずい。 兄は眉間に皺を寄せる。 この肥だめに腐った生ゴミを捨てて混ぜた様なすえた匂い。 間違いない。 あれが近づいている。 兄は、妹に絶対に窓を開けるなと言いつけ、もしもの為にバールの様な物がどこにあったかを考える。 妹は、はーい、と素直に返事をした。 だが、この妹はまだ実装石を見たことがなかった。それが悲劇となる。 妹も、初めて嗅ぐの異臭に感づいていた。 兄は覚える必要はないから忘れろと言ったが、この匂い、一度嗅いだら危険臭として脳が嫌でも覚える。 言いつけを守って部屋にいた妹だが、ふと、昼ご飯用の漬け物が切れていたことを思い出す。 何が外にいるのか分からないけど、裏の小屋に行くだけだからいいよね。 キティのどてらを羽織ったまま、チェックのミニスカートから素足が除く。 寒さに強いのは子供特有だ。 そして妹は、スポンジボブの長靴をはいて外に出てしまう。 外に出ると、快晴の空には似つかわしくない異質な匂いが漂っていた。 確かにこれはおかしい、と妹も危機感を覚え、足早に小屋からたくあんを一本取り出し、母屋に戻ろうとした。その時、一瞬 目眩がする程の濃い異臭に思わず立ち止まり、その方向を見てしまった。 妹は、小動物の様に小さい悲鳴を上げた。 そこに、地獄の餓鬼を思わせる出で立ちで立っていた実装石が居たのだ。 不自然な呼吸による耳障りな断続的鳴き声、一歩ごとに強まる汚臭、よたよたと少しずつ近づく怪物そのものの姿に、妹は 数年ぶりの失禁をした。 妹を見たそれは、からだを揺すって背中から蛆を乱暴に落とした。顔から落ちた蛆は小さく鳴いて体を痙攣させる。 それだけで、妹は胃液がこみ上げそうだった。 成体は、尻尾を持って蛆を持ち上げ、形だけは母親が赤ん坊を抱く格好を作る。顔と尻が逆でなければ尚それらしいだろう。 それを見た妹は、純粋な本能で助けたいと思ってしまう。 精神は危険だと信号を発しているが、幼い魂はまだ、このバケモノに対して情をかけたいと思えていた。 妹は、濡れた下半身の不快を我慢しながら、恐る恐るそれに近づく。 対して実装石も半歩下がったが、それ以上は動かなかった。 いびつな傷だらけの顔で歯を剥いているが、純情な妹は怖がっているからだ、とこの前買い始めた子猫が最初はそうだったのと 同じだと思ってしまう。次元が違うとも知らずに。 妹は、おいしいよ、とたくあんを一本差し出し、雪の上に置いた。 実装石は尚も威嚇の声をあげつつ、たくあんに視線を釘づける。 妹は、目にすら染みる異臭から逃れる為、鼻を押さえながら後ろに下がる。 元の距離に戻った時、実装石は蛆が下敷きになるのも構わず四つんばいになり、たくあんにかじりついた。 だが、ぼろぼろの歯は最早たくあんをかみ切る力はない。逆にたくあんに歯を持って行かれ、その痛みに泥が吹き出す音の様な 悲鳴と糞の噴出を同時に行った。 妹は一連の醜い行動を見て再び背筋を震わせ、その場に座り込んでしまった。 怒りに顔を歪ませたそれは、あろう事か半分押しつぶされている蛆を妹に向かって投げつけた。 事故にあった死体を思わせる崩れた顔の蛆が眼前に迫った時、妹は思わず想像もした事の無い死を覚悟する。 だが。 次の瞬間、妹に向かって飛んできた蛆は分厚い革手袋に遮られた。 兄が、スコップとバールの様な物を持って家から飛び出してきたのだ。 顔を覆い隠す程に大きなマスクとゴーグルを付けて。その理由はすぐに分かった。 まず兄は力任せに、受け止めた蛆を成体に向かって投げつけた。 顔面にぶつかった蛆はそのまま液状に弾け散り、成体の顔も元から骨がおかしくなっている為、その勢いでだけで更に顔が窪む。 兄は間髪入れずスコップでそれを横殴りに殴りつける。それは、スコップの衝撃のベクトルをそのまま受け継ぎ、破れかけの ゴミ袋の様に宙を舞った。 雪国で育った足腰はいびつに歪んでいる為空気抵抗が大きく落下の遅い実装石が落ちる前に落下地点に追いつき、再びスコップで 宙に飛ばす。 これは、少しでも家の敷地から遠くへ汚物を追いやる為だ。 二度、三度とそれを繰り返すうちに、それの形がだんだん小さくなっていた。 一打ちする毎に、体が端から砕け散っていたから。 畑の外にそれが出た時、兄はとどめとばかりに渾身の力を込めてスコップで最後の一撃を食らわせた。 実装石は体を四散させ、雪の上に汚物をまき散らす。 兄はわずかにそれと分かる顔を見つけ、念入りにバールで叩き潰す。 間違っても生き返らない様にとのまじないと、妹への仕打ちに対するお返しである。 その後、雪で体を拭いて戻ってきた兄を見て、妹は赤ん坊の様に抱きついて泣いた。 これで完全に実装石に対する嫌悪感が脳に植え付けられた事だろう。 いずれはそうなるのだからいい機会だったかも知れない。 だが、せっかく直っていたお漏らしのクセがまた再発したら困る。 兄はそんなことを考えながら、未だにアンモニアの匂いをさせて泣きじゃくる妹を急いで風呂へ入れ、一緒の湯船で実装石に 対する心構え、恐ろしさ、対処方法を少しずつ教えるのだった。 風呂から上がった妹は、未だ残るショックと気疲れから程なく寝てしまう。 兄は、布団に妹を運んで寝かせた。行こうとした時、妹の手が袖を掴んで離さなかった。 兄は、やれやれ、と笑って添い寝する。 これで昼食は完全に冷めてしまうが、仕方ないだろう。 兄は、再び降り始めた雪が舞い散る窓の外を見てそう思った。 今日の事、忘れは出来ないだろうが出来るだけ思い出さないで欲しい。この幼い妹にはまだ刺激が強すぎるから。 冬の幻とでも思って、起きたら忘れて欲しい。 兄はそう願い、妹の頭を優しく撫でた。 汚物に汚れた雪野原が再び白一色に戻るのは、それからほんの少し後の事だった。 完

| 1 Re: Name:匿名石 2019/08/17-15:48:26 No:00006084[申告] |
| ここに出てくる実装石って、り地域民そのままだな。 |
| 2 Re: Name:匿名石 2019/08/17-19:22:48 No:00006085[申告] |
| まあ、愛誤派の異様な保護といい、糞蟲のモデルのようなものだからな
今更 |