子供の頃、夜トイレに行くのが怖かった。 薄暗い裸電球の灯りに照らし出される便壷。いわゆる汲み取り式というやつだ。 換気のため開けっ放しの窓からは生暖かい風が吹き込んでくる。 近くの寺から住職の読経の声が聞こえ、心なしか線香の匂いが漂う。 思い出すのは怪談の数々。便壷から伸びる白く細長い手、そして・・・ 「かんばり入道」 それはトイレに出る妖怪。夜になると鳥のような鳴き声を出し、トイレの中を覗き見る。 大晦日(おおみそか)の夜にトイレに行き、「かんばり入道ホトトギス」と唱えると一年間は遭わずに済むという。 子供の頃、この妖怪が酷く恐ろしいものに思えた。 妖怪図鑑を見る限り、人間を襲うことはないらしいが、個室でお目にかかりたくはない。 それからというもの、大晦日の夜、トイレで例の呪文を唱えることが毎年の恒例行事となった。 あれから20年余。 よりによって、この恒例行事を怠ってしまった。 一昨年までは欠かすことは無かった。もっとも呪文を唱える時、顔から火が出そうだったのだが。 それが去年の大晦日に限って忘れてしまったのだ。 妖怪なんて出るはずがない、そうタカをくくったのかもしれない。 そのツケが廻って来たのだ。 ************************************* 寒い夜のこと。 冷えた体を温めるため、お茶をガブ飲みしていた私は、急に尿意を催した。 何気なくトイレに向かい、用を足す。その時・・・ 「テチッ・・・」 鳥のような鳴き声がして思わず窓から外を見る。外は漆黒の闇。何も見えない。 でも何かいるような・・・まさか? 「チィィ・・・」 声のする方を見る。暗闇にぼんやりと浮かぶ、赤と緑の光・・・ 「ひいぃぃぃぃぃぃぃ!!!!」 声にならない悲鳴を発しながら後ずさる。 出た!かんばり入道だ!! 呪文を唱えなかったから・・・ 私は、もんどりうってトイレから出ると、ドアを閉めてへたりこむ。 まさか本当に出るなんて・・・ トイレの灯りを消そうとして、窓を閉め忘れたことを思い出す。 やばい!!これじゃ覗かれっぱなしだ。朝までトイレに入れない。どうしよう・・・ トイレのドアの前で考え込む。 明日になったら窓を閉め、ロックして、更に見えないように蓋でもしよう。 そうすれば安心だ。そう思ったところへ・・・ 「トントン」 トイレのドアを中からノックする音。 空耳だろうと耳をすませる。しかし・・・ 「トントン」 空耳じゃない!! 恐ろしい想像が脳裡を駆けめぐる。 「入ってきたんだ!!!」 かんばり入道がノックしてるのに違いない。 「ど、どどどどうしよう・・・・・・」 必死になってトイレのドアを押さえる。 朝まで持ちこたえなければ・・・そう思いつつ腕時計を見ると午前2時。 6時になれば明るくなる、それまでの辛抱だ。 かくして私の人生で一番長い夜が始まったのである。
