腐った牛乳の中のような空白からぬるりと目が覚めた。 前髪の裏側の額には粘性の汗が貼りつき、畳と背中の間の僅かな隙間が蒸れている。何もかもが生温いような。 体を起こし、額を右手の甲で拭う。その甲をしわくちゃのTシャツの腹のところで拭う。 ボウという形容しがたい音を立てながらパソコンのモニターが点滅し、それにあわせる様に天井の黒い染みが動く。 色あせた壁に映るのは夕方の太陽の光。 ずいぶんと寝てすごしたらしいが、何故か自分の部屋だというのに余所余所しく感じた。 いつもの自分の部屋。 どうやらネットをやっている途中で眠りこけたようだ。 ベッドがあるのにわざわざ畳に転がって寝ているというのが如何にも自分らしい。 ゴミの山の中にわざわざ空間を作りその中で丸くなって寝ているのだ。 ゴミに埋もれているなんて。 そんな自嘲を然も下らないと吐き捨てた。 また、いつもの違和感。 汚らしい見慣れた自分の部屋。 だが、どこかが違っている。 そんな気がする。 その違和感に最近彼は苛まれていた。 そうだ、いつもいつもそうだ。 まるで誰かに見張られているかのように彼はそっとあたりの気配を伺う。 ボウというパソコンの音しかしない、むっとする生ゴミの匂いが漂う部屋。 階下に捨てに行けばいいのに面倒だという理由でコンビニの弁当の空き箱が延々と重ねられている部屋。 俺は何をしていたのだろうか。 そうだ、確かいつものように双葉で実装スレを見ていたはずだ。 実りから白保管庫を覗いていつものように狂った饗宴を繰り広げている文字板に書き込んで。 最近めっきり投稿数の減ったスクを斜め読みして、虐待が足らないと不満をぶつけて。 ネットを離れた彼の日常はまさに敗北者というべきものではあったが、ネットの中では彼は独裁者も同然だった。 特に、実装石と呼ばれる作品群に心を奪われていた。 現実にはありえないような虐待を架空の生き物へ行い、彼ら彼女らが絶望し、恐怖し、苦痛に喘ぐさまは見ていて実に痛快だった。 禁忌というものの内側の苦く癖になる果実を味わってしまった。 タブーを破るこそ得られる快楽というものがある。 もちろん、その果実は誰かが畑を耕し実らせたものである。 実社会において虐待というのは許されざるものではあるが、かといってそのような事象を創作することは褒められこそすれけなされるべきものではない。 しかし、それを享受するのは当然のことであるしそれに感謝することなど一度もなかった。 むしろ、自分の思ったとおりに事が進まない点を作者の無能と見下していた。 何故ならば彼は彼一人の王国の王であり独裁者だからだ。 独裁者は畑で作物を作らない。汗をかかない。 そのような低俗なことは民衆がやればよく、そして民衆が作った作物をいの一番に味わう権利は独裁者にある。 もちろん、このような思考を彼は言語化していない。 文章として与えられれば当然「そんなことはない」と反駁する。 しかし、自覚がなければ、何処までも残酷に振舞える。 彼はモニターの中で独裁者だった。 そして、モニターを通さない現実の世界で、ある日、視線を感じ始めた。 それはぶらりと外を散歩するときだった。 それはトイレのなかで物思いにふけるときだった。 それは親に将来のことを考えろといわれ、反論する言葉もなく親を怒鳴りつけ部屋に閉じこもったときだった。 ふと、視線を感じたのだ。 一人だけなのに誰かがいるような、それ。 肩越しに誰かが覗き込んでいるような、それ。 最初は視線だけだった。 だが、ある日「何か」が盗まれた。 ふと視線をずらしたり。 眠り落ちて目を覚ましたときに。 なくなっているのだ。「何か」が。 また盗まれた。 重苦しい絶望が喉元に這い上がってくる。 最初は気のせいだと思っていた。 誰もいないからだ。 だが、「確かに」盗まれている。 誰が何のためにそんなことをするのかなんて見当もつかない。 俺を観察でもしているのか。 俺を試しているのか。 視線を感じる。でも誰もいない。 気のせいだと理性が言う。 しかし確かに感じるのだ。 窓。 襖。 テレビ。 パソコン。 携帯電話。 何処をみても「眼」はない。 彼を監視するあの「眼」のことだ。 視界に入った瞬間に消えてしまうが視界の隅にほんの僅かだけ捉えることができるあの「眼」だ。 何処かに張り付いてじっとこちらを覗きこんでいるのだ。 度々見つけてはいたが、見つけた瞬間にそれは消えてしまう。 僅かに赤と緑とに光るそれはひとつだけではなく、六つも七つも八つもあった。 その視線を感じると首筋の辺りの産毛が逆立つのを彼は感じるようになっていた。 昨日の飲みかけのペットボトルに手を伸ばす。 じろじろと穴が開くほどに調べて、それの何処にもあの「眼」がないことを確認し、彼はぐぃとラッパ飲みをする。 温い茶がごくりと喉元を過ぎ、寝ている間の渇きを潤すと、だんだんと怒りがわいてきた。 馬鹿にしてやがる。 なんで俺がこんな目にあわなくてはならないんだ。 俺がいったい何をしたんだ。何もしていないだろう。 こんなことじゃそのうちおかしくなってしまうんじゃないだろうか。 実際、「何もしていない」ことが彼をここまで追い込んでいることに彼は気付いていない。 生の実感、生きがい、誰かから感謝されるような仕事。働いた証としての給与。 そんな「リアル」がないからがらんどうになっている。 ふと携帯を手に取った。何も映っていない黒い画面に自分の顔が映る。 はれぼったい眉。浮腫んだ瞼。目の下のくまは深く、顎はだらしなく垂れている。 口元の髭は不精に伸びており、口元はだらしなく歪んでいる。 これが俺か? 本当に俺か? いや、違う。 俺は「俺」を盗まれているんだ。 誰だ、「俺」を盗んでいるのは。 あの「眼」だ。 あの「眼」の持ち主が「俺」を盗んでいるんだ。 その正体はわからない。 だが、確かにいる。 そういえば、携帯で電話しているとき、なにか変なデンパが混じっていた。 あれももしかしたら盗聴されているんじゃないのか? 嫌な汗が背中を歩く。 だとしたら俺は何時から見られているんだ? 思い出せ思い出せ。 そうだ、確か。 ネットで実装石を知って——— 虐待作品にショックを受けて——— これは面白いと自分の中の暗い喜びを理解したそのとき——— そのとき、彼は視線を感じた。 振り向いた。 息を呑んだ。 絶叫した。 そこには、実装石がいた。 あの、下手な漫画のようにデフォルメされたそれが。 あたかもこれが現実でないかのような歪んだ顔で。 ああ、そう、確かムンクだったか、あの「叫び」で。 げらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげら げらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげら げらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげら げらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげら 笑っていた。 指がないその手で指差して笑っていた。 さもおかしいとばかりに全身を振るわせ笑っていた。 ありえない。 ありえるわけがない。 彼の理性がそう訴える。 だがそれでも喉がからからになった。 全身が恐怖で震えた。 何か喚いたのかもしれない。 死に物狂いで飛びついた。 その瞬間、実装石は消えた。 逃げたのだ。 あのやろう、俺を笑うだけ笑って逃げやがった。 恐怖が怒りに変換される。 あの視線を感じなくなっていた。 肩で息をしながら全身を伝わる脂汗の不快感に彼は「切れた」 殺してやる。 殺してやる。 殺して殺して。 殺して殺して殺して殺して。 殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して。 殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して。 殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺。 もう一刻も我慢などできなかった。 奇声を上げて部屋から飛び出した。 階段を二段抜かしで駆け下りて台所に飛び込んだ。 目に付いた包丁を握り締めた。 蹴り飛ばすように玄関を出た。 薄暗くなり始めた夕暮れが一瞬彼の身体を引きとめようとしたが、無駄だった。 頭蓋骨の裏側がちりちりと鳴ってコロセコロセと誰かが囁いた。 そして、なにか、どこか。 遠い国の出来事のような沈黙の中でそれが起きた。 恐怖に歪んだ若い女性の腹部を刺し。 その母親にしがみつく幼い子供の頚動脈を切り。 引きつった学生服の若い男二人に包丁を振り下ろし。 何かぐにゃりとした手ごたえと。 生臭く飛び散る真っ赤な血と。 思わず逃げ惑う中年の女性の後頭部に刃を突き立て。 思わずげらげらと笑い転げ。 視線を感じてみればそこで実装石が笑っていて。 彼も。 笑った。 それからの記憶は飛び飛びになる。 たくさんの腕が彼の腕を取った。 そのまま何処かに運ばれた。 たくさんのフラッシュが鳴った。 彼は大勢から罵倒のような賞賛を浴びた。 不思議なぐらいに高揚してそれでいて冷静だった。 彼は称えられていた。 彼は「通り抜けた」のだ。 殺さなくてはならない。 殺さなくてはならない。 殺さなくてはならない。 そうだ、そんな単純なことになんで気付かなかったのだろう。 あの視線は当然のものだったのだ。 これからも殺す。殺し続ける。 理由なんて要らない。やつらが実装石だからだ。 それで十分だ。 あいつらは人間に見えたがみんな実装石なんだ。 いつの間にか白い部屋にいた。 手が動けないように拘束されている。 誰もいない、天井までも白い部屋。 そこは彼の部屋であって彼の部屋ではない。 ゴミなどは何処にもなく、天井の黒い染みさえない。 そしてそこで彼は彼の王国論を。 ただ一人で。 目の前の実装石に。 げらげらと笑いながら話し続けた。 ちんすけ拝
