「・・・痩せたんじゃないですか」 部屋を出てすぐ、妻に言われた。 自分で頬を撫でる。無精髭と荒れた肌、そして指の骨にこびり付きそうなぐらい尖った顎を感じる。 痩せたのかもしれない。それは確かなことだろう。 しかし何分、あちらとこちらの境界線でそのように言われるのは不快であった。 黙って、クレゾールに汚染された白衣を脱ぐ。所々に落としきれなかった血の跡が見える。 考えてみればこの匂いに慣れすぎているのかもしれない。そしてその分私は無生物に近づいていく。 血と羊水の腐るようなおぞましさに溺れ死にそうになっていることに気付きながらその子宮の居心地のよさに腰を押し付けようとしている。 リノリウムのタイルの床は赤黒く汚れている。まるで自分の影がそこにこびり付いているかのようで。 幾ら明かりを強くしても境界線が斑な影こそが私だ。土葬の洞穴に染み付いた微生物達の室のようなどんよりとした、それが。 だからあの部屋にあるのが私の影で。 こちら側の私には影がない。人間ではない。そんな曖昧さに慣れてきてしまう。 だが、妻の言葉を素直に受け取れない。 私はあの部屋に引きこもることにした。 別に私は異常者ではない。ただの産科の医者だ。 そして、主に胎児をかき出すことを生業としている。 やりたくてやっている仕事ではない。 が、やりたくてやっている仕事だ。 この生業がもつ原罪の塊のようなそれが、陰鬱な影を呼んでいることは確かだろう。 どこか古い地方都市で、蔵の奥にでも隠し作られている座敷牢で日夜を過ごしてもこのような気分になるものではあるまい。 それなのに、どこか落ち着いてしまう私がそこにいる。誰も命令をせず、誰も迷惑をかけず、誰も邪魔をせず、自分だけが支配者でいられる空間。 部屋の中央にはいかめしい内診台が据えられ、その壁向かいに机と書物、そしてさらにその横にホルマリン漬けの胎児が浮いている壜が幾つも並んでいる棚がある。 茶緑に染まったホルマリンの中から赤と緑の目が浮かんで光る。 脳のない蛙のような胎児。脱け殻の蝉のような胎児。二つの目が抉られているのに空いた瞳孔を大きく見開いた胎児。 彼ら彼女らは実装石と呼ばれている。 一種の、奇形児だ。 どのようなDNAの悪戯なのか、ここ10年で『人』の出産にはこのようなリスクを負うようになってしまった。 生まれてくる赤ん坊が『実装石』であるとき。 それがわかったとき。 人が選択することは単純な二択だ。 生かすか/殺すか。 生かして、実装石として生まれ、そして人化へとさらに生まれ変わった例もある。 非常に幸運な例だが、そのような例では往々にして彼ら彼女らの『能力』は非常にすばらしいものになるらしい。 100ある幸運を100すべて自分が手にしたような、そんな恵まれた『人生』を送っているらしい。 が、全ての実装石が人化するとは限らない。 そして、そのリスクを考えたとき。 /殺す ことが選ばれる。 私はそんなときの選択を実行する者だ。 そして選ばれなかった彼ら彼女らに心引かれていた。 ホルマリンの壜を、毎日のように取り替える。 自分の仕事机においてしみじみと眺める。眺め続ける。 そうしていると彼ら彼女らに微妙な表情の違いを感じるようになる。 生まれてくるはずなのに、その足を引きずられた。 生という死の夢の中の泡沫にあふれ出されなかったそのことは彼ら彼女らにとって不幸なのか或いは幸運なのか。 眠り続けるその瞳の裏側に写る夢はどんな色をしているのだろうか。 見極めたいと思う。見極めたい。 それでも分厚いガラス越しに見える俯く胎児の顔は何も応えてはくれない。 むしろそこには拒否するような赤と緑の瞳が見える。 赤ん坊なのだから、笑っている。笑ったまま、死んでいる。 生きているのか生き続けているのか死んでいるのか死に続けているのか。 この濁った液体には確実に闇が宿っている。闇が私を手招きする。 しかし私は入れない。分厚いガラスで入れない。 だから私の目に。 目の中の暗いそれに。 それの中の赤と緑のそれに。 結局のところ私は観察しているのではなく、観察されている。 瞳の中の洞に闇を宿しているのは私。 生まれてくるものをコロシテイル私。 ふと鏡を見る。映るのは目を窪ませた男。健康とは程遠い男。 そして闇を宿している男。 妻の言うとおりだった。こんなことをしていれば痩せるのが道理だ。 どんよりと濁った世界でこぽりと息を吐くこともなくこちら側を覗いて。ただただ闇の底へとこぼれ落ちていく。もう誰の手にも届かない。 私も、かつて胎児であった。妻もそうだ。 いや、それだけではない。この世界に存在する全ての『ニンゲン』は胎児だったのだ。 そして当然ながら彼らにもそれは与えられるものだったのだ。 ただ、実装石であったというだけで。 /殺した 私は、母親を覚えていない。彼ら彼女らもそうであろう。 自分自身を捨てた母親のことなど覚えているわけがない。 いや、それとも、それでも子供というものは母親を慕っているものなのだろうか。 そんな実装石の母親は何人もいた。 中には自分で殺す決断をしておいて、私に殺させておいて「子供を返せ」と狂う母親もいた。 自分で選んだんだろう。自分の殺意で自分の子供を殺したんだろう。 腹の腑で蠢くその言葉をいうことはできなかった。 ただただ、汚らわしいものを見るような目で見下ろしていただけである。 そんな私はどれほどまでに汚らわしいのか。 ホルマリンの中の実装石に聞く。答えは返ってこない。 私たちはみなホルマリン漬けの実装なのかもしれない。 濁ったホルマリンの中でただただ何も言わずに浮いている。 ただただ殺されていないというだけの話で。 壜の分厚さに実装石の顔がふと笑ったように見えた。 私も笑った。 ああ、何も変わらない。何も変わらせてくれない。ああ、その程度のことなんだな。 私はこの部屋を後にした。 なに、何も変わるものじゃない。 きっとまた私はここに新しい胎児を連れてくるのだろう。 実装石というだけで胎児を殺すのだろう。 殺して殺して殺して。 また闇を宿すのだろう。 どうせそう遠くない。 私が死ぬときは。 そうだ、お前たちを壜から解放してやろう。 溺れるようなホルマリンの海の中で中毒をおこして死んでやろう。 なに、そう遠くない。 まるで深海の魚を神とあがめているかのような異教の祭司になったかのように。 私はこの部屋を出て。 この部屋ではない私になった。 ちんすけ拝
