時は昭和、まだ「兵隊さん」たちが肩で風を切って街を歩いていた頃、 この世にリンガルなんてまだ無くて、実装石なんて犬猫と変わらなかった頃のお話。 お腹が減って死にそうだ。嘘。どれだけお腹が減ったら死ぬか、なんて知っている実装石はいない。 でもワタシにはわかる。お腹が空いているのは確かだ。そしてこの鼻が食べ物の臭いを嗅ぎつけている。 「デスゥ…」 大きなオウチの前でワタシは立ち尽くしていた。いいニオイ、ちょうどニンゲンたちもゴハンの時間だ。 どうしよう。思い切ってお邪魔してみようか。もしかしたら追い出されるかもしれないし、もしかしたら 追い出されないかもしれない。ひどくてもぶっ叩かれて放り出される程度だ。 「デス」 思い切って門をくぐった。途端 わんわん!わん! 「デェッ!」 腰を抜かしてしまった。門の影で既にワタシの気配を察していた犬がいた。鎖を眼一杯引っ張って何とか ワタシに牙を届かせようと頑張っている。けれどもソレがワタシに届くことはない。それがわかっていても 腰が抜けて動けなかった。パンツの中もぬるっとした感触がある。漏らしてしまった。 「デー…」 どうしよう。こんな汚い格好では幾ら気のいいニンゲンたちでもワタシを追い出すだろう。それでもお腹は 減っている。どうしよう。パンツの中にこんもりと詰まったウンチの上にお尻を下ろして、ニンゲンの家の庭 でワタシは途方に暮れていた。一度公園のおうちに帰って綺麗な格好で出直そうか。いや、そんな暇があったら そのままゴミ捨て場に行った方がいい。 「まあ…」 「デ?」その声に私は顔を上げた。 「コジローが元気だから出てきてみたら、なんて可愛いお客さんでしょう」 「デスー」ワタシは曖昧な返事を返した。この家のニンゲンだ。ハカマとかいう綺麗な服を着た女の人。見た ところワタシに敵意はないみたいだ。どうしよう、いちかばちか、ワタシは鳴いてみた。「デッスゥ…」如何にも といった風情でお腹を押さえて。 「まあまあ、お腹が減ってるの?かわいそうに…」 「…」やった!当たりだ!この家のニンゲンはいいニンゲンだ。「デスゥ…」もう一度駄目押しに鳴いた。 「いらっしゃい。ちょうどお昼の時間だから、アナタにも食べさせてあげるものがあるわ」 「デスッ…デスッ…」 土間に置かれた犬用のお皿に乗せられたゴハンを、ワタシは懸命に口に詰め込む。この美味しい食べ物は何だろう。 そう考えるよりも口と手を動かすことを優先した。 「あらあら、そんなにお腹が減ってたの?そんなに急がなくてもまだオカワリはあるわよ」 女の人はワタシの傍にしゃがみこんでくすくす笑っている。 「デス!」ワタシはほとんど返事ともいえない返事で鳴いた。そんなことよりも今目の前にある餌が大事だ。いや、 待て、オカワリ?この女のニンゲンは今、オカワリと言わなかったか?まさか。こんなにおいしいモノをまだ 食べさせてくれるというのか?なんてお人よしなんだ。ニンゲンという生き物は。 「デプッ」 結局ワタシはニンゲンに甘えて三回もオカワリをしてしまった。実は味が分かっていたのは二回目までだった。 三度目はいつ餌にありつけるかわからないので、その為の保険だった。お腹ポンポンのままワタシは寝転がって いる。 「ふふっ、お粗末様でした」女の人はまだ笑っている。 「デス!」ワタシはペコリと頭を下げた。そろそろ潮時だ。いつまでもニンゲンの好意に甘えていてはいけない。 それなのに 「ねぇ」 「デス?」 「アナタ、捨て実装なの?」 「デェ?」 「だったらうちの子になりなさいよ」 「…」どれだけ固まっていたのだろう。しばらくしてやっと喘ぐようにして声が出てきた。「…デ、デヒュ…」 「近頃は実装石も珍しくなくなったから、みんな簡単に捨てちゃうのね」女の人は悲しそうな顔をする。 「デ、デー?」ワタシは捨て実装などではない。生まれは公園、育ちは橋げた、ちゃきちゃきの野良実装だ。 それにしてもなんというニンゲンだ。餌をくれたばかりか、飼い実装にまでしてくれると言っている。ある種の 恐ろしささえ感じた。 「ねぇ、そうしなさいよ。実装石の一匹ぐらいならきっとお父様も許してくださるわ」 「デ、デス、デスー」 よくわからないままワタシはやっぱり曖昧に鳴いた。 展開は夕方だった。餌をくれた場所——土間——に寝転がってまどろんでいると大きな影が玄関から差し込んで くる夕日を遮った。「デェ…?」ワタシは眠い眼を擦って起き上がった。 「何だコレは…」 「デッ!」瞬間的にわかった。このニンゲンは一番エライ。この家で一番のニンゲン。もちろんまだ飼い実装になる 決心はついていないが、それでもワタシはこのニンゲンの前で膝をつき、額を土間にこすりつけた。「デッスゥン」 ニンゲンはワタシを無視した。「おい!」誰の返事もないとまた怒鳴った。「おい!きょうこ!おらんのか!」 やがて「はーい、あ…お父様」さきほどの若い女の人が来て、気まずそうな顔をする。 「コレはお前が拾ってきたのか!」 「そ、そうです!」女の人は必死な顔だ。「私が拾ってきました。ねぇお父様…」 「飼わん!」 「そんな、この子はかわいそうな捨て実装なんです!」 「実装石など人に飼われなくても生きていける!」 「デス…」全くもってその通りだ。確かに飼われた方がワタシも楽だが、飼われなくても充分生きていける。ただ、 今まで通りの生活を続けるだけだ。 「でも…」 もう一人が加わった。「でも、お父様、コイツ、とっても面白い生き物なんですよ」小さな男の子の声。 「としあき!お前も何度言ったらわかるんだ!実装石など卒業しろ!お前の友達はとうに…」 「だって、コイツったら…」 「いい加減にするんだ!」口髭の男の人は怒った。腰にぶら下げている棒が揺れている。ニンゲンはあれをカタナと いうらしい。そう、ワタシは知っていた。このニンゲンは「兵隊」という種類のニンゲンだ。 兵隊の子供たちは怒鳴り声に首を竦めて縮こまった。ワタシにもわかった。この子たちじゃこの大きなニンゲンには 敵わない。それはそうだ。ワタシもママには敵わなかった。でも 「あなた、そんなに大きな声をお出しになったらご近所様に迷惑じゃないですか」もう一人の女の人が登場した。 ああ、そうか、このニンゲンはこの家の「ママ」だ。 「う…」一番エライはずのニンゲンは急に勢いがなくなった。「それは、しかしだな…」 「いいじゃないですか。この子たちで面倒を見ると言っているんですから。それに実装石は生ゴミも食べてくれる から私も助かります」 「うぅ…」三人から攻め立てられて一番のニンゲンは困っていた。そして遂に「わかった!いいだろう!しかし 面倒はお前らが見ること、それと絶対に土間より上には上げるな!いいな!」 こうしてワタシの飼実装生活が始まった。 この家には5人のニンゲンがいる。 「ご主人様」はこの家で一番えらくて、一番厳しくて、一番怖い。この前なんかご主人様の前でうっかり粗相を しただけで庭に蹴りだされた。たったそれだけで怒ることはないのに、とワタシが抗議の鳴き声を上げようとしたら 腰にぶら下げたカタナに手をかけた。ワタシは慌てて頭を下げて庭の隅に逃げた。それに何かあるたびにワタシに 「ブシドー」とか「ヤマトナントカ」とかそういうお話をする。そういうニンゲンだ。 「お母様」はワタシには無関心だ。嫌いではないらしいが、好きでもないらしい。たまに生ゴミとか食べ残しの入った 桶をワタシの前の置きにくることぐらい。その時には「お願いね」とだけ言う。そういうニンゲンだ。 「お姉様」はとっても優しい。悲しくなるぐらい優しい。ガッコウという所に行く前に必ず撫でてくれて、帰ってきた 時にも撫でてくれる。うっかり粗相をしてしまうとニコニコしながら片付けてくれる。ゴハンも自分の分をこっそり わけてくれる。ただひたすらに優しい。そういうニンゲンだ。 「坊ちゃま」はおイタが過ぎて困る。ワタシの再生力を知っているのでいろいろ無茶をする。手足をもぐことなど 日常茶飯事だ。一度など「ダルマ」状態にされて、飼っている犬と一緒に「蹴球(サッカー)ごっこ」をされた。 その時はさすがにお母様に「実装石を粗末にするんじゃありません!」と怒られていたが。そういう時はワタシも いい気味で「デププ」と笑い声が漏れてしまう。でも後でそう思ったことを必ず後悔する。彼は夜中にこっそり 来て、ワタシの手足を接着剤でつなぎ合わせてくれ、まだうまく動かないワタシの口に甘いモノを入れてくれた。 いつもそうだ。ただいたずらをするだけではない。そういうニンゲンだ。 「お婆様」はいるのかいないのかわからない。あまり姿を見せない。たまにビョウインという所に行く為に家を出る 時に顔を合わせる程度だ。でもワタシを見ても「実装っころはいつも元気でいいねぇ」とぼやくだけ。そういうニンゲンだ。 「コジロー」はワタシと同じ居候。でもワタシより地位は上だ。そして恐らくワタシを狩りたがっている。それだけだ。 飼い実装というのは思ったよりも心地よい。捨て実装がまた飼い実装になることを夢見て公園で生活しているのも わかる。彼らは再びニンゲンに拾われるように街に出て、街灯の元に座り込むのだ。大抵は意気消沈して帰ってくるが 中には帰ってこないものもいた。捨て実装たちは、拾われた証拠だといって自らの希望にするが、ワタシたち野良実装は 知っている。ホケンジョというニンゲンたちが連れて行っている。どこに行くのかは知らないが。 とにかくそれだけの価値がある生活なのだ。 ある日、とうとうワタシは好奇心に負けた。この土間という世界の向こうはどうなっているのだろう。この身長より少し 高い段差の向こうはどうなっているのだろう。昼過ぎという頃合を見計らってワタシは行動に出た。段差に腕をかけて 必死に身体を持ち上げる。しかしワタシの鈍重な身体は自らを持ち上げることもできない。それでもワタシは頑張った。 退屈故の冒険だった。しかし 「まあ!」 「デヒッ?」仰天してワタシは土間にころんと転がった。 「まあまあまあ!なんて愛らしい仕草なんでしょう!」 お姉さまだった。だらしなく土間に転がったワタシをうっとりと見て頬に手を当てている。カワイイ?アレが?スカートが まくれ上がって、ウンチの緑色の染みがついたパンツを丸出しにして、段差に短い足をかけようと無様にあがく仕草が? やはりお姉さまは優しいニンゲンだ。こんなワタシをかわいいと言ってくれるのだから。何と情け深い。 「そうね、あなたもオウチに上がりたいわよね」彼女は決心した表情になる。「いいわ。お父様が帰ってくるまで内緒で 上がっていいわよ」そしてワタシの脇に腕を差し入れ、持ち上げた。 「デスゥ…」 これが居間。初めてみた世界。植物で編んだらしい、タタミという名の地面。これはいい。今度公園で暮らすことになったら 真似してみよう。そしてその真ん中に鎮座する「ちゃぶ台」という机。ワタシはきょろきょろしっぱなしだった。 「あ、せっかくだからお茶でも入れましょうね。紅茶でいいかしら?」 「デス…デス…」 ちゃぶ台の上にあるお菓子を取ろうとして必死に手を伸ばすワタシを見て、お姉さまはにこにこしている。 「ホントに愛らしいわねぇ」決して取ってくれようとはしない。 「デ…ッスゥ!」ようやくお菓子に手が届いた時、 「帰ったぞ!」 空気が凍りついた。足音が容赦なくどすどすと迫ってくる。ワタシはちゃぶ台の影に縮こまった。お姉さまはおろおろしている。 居間に来るなりご主人様はどすんと座り込んだ。 「お、お父様、今日はお早いのね」 「ああ。ちょっとな」やがて「ん?」違和感に気づいた。二人分のティーカップ。「誰か客でも…」そして認めた。「…」 その姿を。机の陰に縮こまる緑の塊、ワタシを。 全てが一気に起こった。「貴様ぁ!」ちゃぶ台が宙返りする。ワタシの上に圧し掛かってきた。「グベッ」お姉さまがご主人様 に泣きながらすがりつく。「ええい!離さんか!」お姉さまが振り飛ばされる。ワタシは苦しくてタタミをぺちぺち叩く。 ワタシとお姉さまは土間に正座していた。正面にはご主人様がいる。お姉さまは泣いていた。 「私は言ったはずだぞ」ご主人様の声はまだ震えていた。「実装石を決して居間に上げるなと」 「はい…ごめんなさい、お父様、ごめんなさい」 「二度とないようにしろ。もし土間より上に上げた場合は…」眼がワタシに語っていた。斬る、と。 「はい…ごめんなさい」 「行っていい」 お姉さまは顔を覆って立ち去りかけたが、振り返って言った。「あの、お父様、この子にあんまり乱暴は…」 「さっさと行け!」 「は、はい」お母様も味方してくれない今は、お姉さまは弱かった。いや、違う。結局一番強いのはやはりご主人様なのだ。 「さて、貴様の処遇についてだが…」 「デス…」ワタシは俯いていた。ちゃぶ台が当った頭がまだ凹んだままだ。 「貴様!」パァン!とワタシのほっぺたが鳴った。 「デビァッ!」ワタシの顔が真横に回転した。 「私の目を見んか!」 「デズ」ワタシは恐る恐る顔を上げ、ご主人様の目を見た。 「ガンをくれるな!」ばちーん!またビンタ。反対側に首が回った。 「デ、デァァア…」ワタシは思わず頬を押さえる。今度は頭に拳骨が振ってきた。「デギャッ」べこりと頭が凹んだ。 「心配するでない。貴様らの身体など明日には元通りだろう」そしてまた鉄拳が飛んでくる。 そうだ。ご主人様の言うとおりだ。ワタシが反省しているかどうか、そういうのは置いといて、明日にはワタシの身体は 元通りなのだ。そういう風に出来ているのだから仕方ない。そしてまた痛みを感じるように、出来上がる。 「デ…ギャッ…デズッ…デベッ…」 「貴様には士道というものを…」 「まず武士とは…」 「葉隠れの真意を知っておるか?」 「戦場に討ち入りて早死したるは如何なる無下の者にも成しえらるべし…」 折檻(オシオキ)は夜中まで続いた。本当のところはよくわからない。ワタシの意識は途中で飛んでいたから。 「おい!」 「デス…?」 正直、ああ、またか。としか思えない。この声、この期待といたずら心に満ちた声。坊ちゃまだ。今日はワタシにどんな いたずらをしようというのだろうか。 「これなーんだ?」 坊ちゃまの手にはコンペイトウのようなものが幾つかある。コンペイトウでないのは明らかだ。坊ちゃまがいたずら前に それをくれたことは一度もない。それ以外の何か。いたずらする為の。 「デスゥ?」気の乗らない声でワタシは鳴いた。これも飼い実装生活を維持するためのお付き合いだ。 「へへっ、糞玉っていうんだって!上級生がくれたんだ!」 「デスー」 なんと不吉な名前の玉なのだろう。くそだま?嫌な予感がする。 「これを実装石に飲ませるとすげー勢いでウンコが出るんだってさ!」 「…」ああ、やっぱり。 「一個飲ませるだけですごいらしいんだけど…」突然ワタシの口をこじ開ける。「お前は丈夫だから全部いいよな?」 手の中にあった5個の糞玉をワタシの口に投げ込んだ。 ゴクリ。「…」 「…」坊ちゃまは期待に満ちた眼差しでワタシを見ている。やがて、 ギュル「デ?」ギュルギュル「デデッ?」ギュルルルルルル!「デェエァアア!」何だコレは!聞いていない!こんな 激しいものなんて!ギュルギュルという音は「実体」と共に口と反対の穴に下っていく。ものすごい速度で。駄目だ! ここは土間だ!こんな所で粗相をしたらまたお姉さまに迷惑を…違う!粗相なんてものじゃない! 「デェェエエエズゥウウウウ!」 ドブリリリリブバババババババア! 土間は大惨事だった。糞玉は予想外の力でワタシの中から強制的に糞を噴出させた。まさに大爆発だった。 「わはははっ、臭え!」 自らも頭からワタシのウンチを浴びているのに、坊ちゃまは如何にも楽しそうに笑っている。なんて楽しそうに笑う ニンゲンだろう。普通、実装石のウンチはニンゲンのウンチよりも臭くて、道端にしただけでニンゲンたちは嫌がるのに。 「デ…デズゥ…」 しかしワタシはそれどころではない。ものすごい勢いで今日の昼食——生ゴミと食べ残し——を全てひりだしてしまい、 オマケにその勢いで「下のお口」の中身もすこしはみ出してしまっている。それでも動く気力はない。ワタシは自分のウンチ の中で伸びていた。 その夜、坊ちゃまはご主人様に拳骨を頂戴して、ワタシは下のお口を焼いて塞いでしまうぞ、と脅された。 今年もその季節が来た。それが分かったのはいつもよりお腹がすくこと。確信したのはお腹が一杯でなくても膨らんできた からだ。ワタシのお腹の中にいる仔供たち。あと一週間もしないうちに生まれる。野良実装の仔として生まれ、今までも 野良実装の仔を生み、野良の家系を継いできた。そして今は飼い実装の家系を作ろうとしている。 「デフゥ!デフゥ!デデフゥ!」 「大丈夫か?」 坊ちゃまもパンパンに膨らんだワタシのお腹を見ておイタをするのは諦めてくれた。いい兆候だ。しかしワタシが出産を 終えたらまた始めるだろう。それも新たに生まれた仔供たちも一緒に。うまれた仔たちは坊ちゃまのいたずらに耐えられる だろうか?そんなことを考えるのも幸せだった。しかし——— とうとう出産のときだ。苦しい。辛い。 「デヒッ、デヒッ、デフゥ!デヒッ、デヒッ、デフゥ!」 ようやく下のお口から一匹目の仔が頭を除かせた。そして ズルン。「テッテレー!」 一匹出れば後は楽だ。ズルリ。「テッテレー!」ズル。「テッテーン!」チュルン。「レッレフー!」 「デス…」 ああ、最後の仔は蛆か。他の仔はちゃんと仔実装として生まれてきたのに。何でこの仔だけ?いや、この仔に罪はない。 全部で三匹の仔実装と一匹の蛆実装、どれもかわいいかわいいワタシの仔。アナタたちは生まれた時点で飼い実装なの。 幸せが約束され… 一匹がひょいっと持ち上げられた。「デ?」 「ママー!離れたくないテチュ!」首根っこを摘まれた仔実装はじたばたしている。ウンチも漏らしている。 また一匹「テチー!離すデチー!」 さらに一匹「テェエエン!ティヘェエ!」 最後の蛆も「やめるレフやめてやめてレフ!」尻尾の端をつままれてぴちぴちと暴れていた。 お婆様だった。摘み上げたワタシの仔たちを桶にひょいひょいと放り込んでいく。 「…」ワタシは抵抗しなかった。分かりきっていたことだった。いつもお母様が生ゴミと食べ残しを入れる桶、それを 抱えたお婆様をワタシはぼーっと見つめていた。 立ち上がったお婆様はぼそりといった。「すまんね」 ワタシはお愛想の鳴き声も出さなかった。 やがて聞こえてくる我が仔たちの鳴き声。しきりにワタシを呼ぶ声。聞こえない。聞こえないフリをした。ここから返事を することもできる。してどうなる?希望を持たせてどうなる?ワタシにできるのは仔が苦しまないように祈ることだけ。 しかしお婆様は上手だった。今までにもやった経験があるのかもしれない。 「テヂャッ!」「デチッ」「チュベッ!」「ギュレフッ…!」 たった四回の鳴き声、一匹が一回の鳴き声を上げるだけで済んだのはお婆様のお陰だ。下手なニンゲンだと、生命力の強い ワタシたちをなかなか殺すことができず、苦しめることになる。さようなら、ワタシの仔。 その日の晩、土間から庭をぼうっと見ているとコジローが餌を食べているのが見えた。専用の容器に顔を突っ込んで懸命に 咀嚼している。一心不乱に食べるその姿はいつもより豪華な、特別な何かを食べさせてもらっているようだ。 どう?コジロー?ワタシの仔どもたちの味は? コジローはワタシの声にならない声を聞き取ったかのように顔を上げ、ワタシを見た。そしてゲフッとやってからまた食事に 戻った。 日々は続く。ワタシは生来の飼い実装なのではないか。そんな錯覚を抱くようにもなった。しかしやはり日々は続かなかった。 おうちの雰囲気が変わった。いつも優しいお姉さまはあまりワタシを撫でてくれなくなった。坊ちゃまもあまりおイタをしなく なった。お母様とお婆様はよくわからない。しかし一番変わったのはご主人様だ。あまり折檻(オシオキ)をしなくなった。 その代わりにお説教をするようになった。いつものお説教。 「いいか?武士とは…」 「もし主君が死んだ時には…」 もちろんワタシには全然意味がわからない。ただお愛想にデスデス鳴いてあげた。それだけでご主人様はいいみたいだ。ただ 聞いてもらえれば。 その頃からこのおうちではある言葉が飛び交うようになった。センソー。センソーって何だろう。食べれるもの?気持ちのよい もの?痛いもの?何?でもわかる。ニンゲンたちはソレが嫌いなんだ。 センソー、それは生き物なのかもしれない。センソーという言葉をこのおうちのニンゲンたちが言い出してから、ワタシは相手に されなくなっていった。そう、ワタシの代わりにセンソーという生き物を飼い始めたに違いない。センソーという生き物がいれば ワタシはもういらないのかもしれない。今は坊ちゃまのおイタでさえ懐かしい。 わかっていた。潮時だ。本物の潮時。ここらで戻るべきなのかもしれない。しかしそれはできなかった。もう野良としてやって いくだけの自信がなかった。忘れられてもいい。相手にされなくてもいい。餌をくれさえすれば、それで。 ある日、とうとう来た。センソーという生き物がご主人様と散歩に行く。 「おい」 「デス?」 珍しいことだった。ご主人様からワタシに声をかけるなんて。でも言葉はそれだけだった。ご主人様はただワタシの頭をそっと 撫でてくれただけで、何もいわずおうちを出て行った。ワタシには分かってしまった。もうご主人様はこのおうちには帰って こない。どこに行くのかは知らない。でも、もう帰ってこない。 そして、この実装石の予感通りに彼は帰ってこなかった。家族が戦死の報告を受けたのは彼が死んでから二ヶ月も経ってからの ことだった。実際に死んだのは二ヶ月も前のことではあったが、家族にとっては昨日死んだも同然だった。悲しみに暮れる 家の中、その土間に彼女はやはりいた。彼が出て行った時と変わらず。 しかし彼女にもわかった。家族の悲しみが。自分も家族のつもりでいた。だからこそ彼らの悲しみが分かるのだ、と。そして 彼女も泣いた。娘と同じように、息子と同じように、或いは母や祖母と同じように。 見て。ワタシもこんなに悲しいの。だからワタシも家族でしょ?こんなに泣いてるの。 最初は「デェェェン、デェェエエン!」という実装石の珍しい泣き声に振り返ったがやがて見向きもしなくなった。その涙の 色を見て。透明の涙。実装石自身、当たり前だと思っていた。本当に悲しいわけではないのだから。ただ「場」の雰囲気で 泣き真似をしているだけだ。それでも自分は何かしていなければならない。自分は何をするべきなのだろう。 そして突然悟った。 それはまさに彼の繰言がこの実装石の中で結実した瞬間でもあった。 方法は一つしかなかった。 今では居間に上がるコツも心得ていた彼女はさっさと今に上がり、台所に向かう。戸棚を開け、ソレを取り出した。片手では 持てない、両手で必死に抱えて居間に戻った。家族は未だ悲しみに暮れていた。そして自分のやることは唯一つ。ソレの先端 を自らの腹に突きたて——— その死を一番悲しんだのは「坊ちゃま」だった。他の者が実装石の死には見向きせず——切腹したことそれ自体には驚いたが—— ただ一家の長が死んだ悲しみに暮れ、暮れなずむ中、彼は実装石の為の墓を庭に作ってやった。 土を盛った頂点には木の棒が刺され、たどたどしい字で「じっそうせきのはか」と書かれた。翌日には「じっそうせきのばか」に なり、その翌日はコジローが小便を引っかけていたが。
