タイトル:【塩】 【暗闇の中で】(一期一会より転載)
ファイル:塩保管スク[jsc0086.txt]
作者:匿名 総投稿数:非公開 総ダウンロード数:1231 レス数:1
初投稿日時:2006/09/05-22:02:49修正日時:2006/09/05-22:02:49
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【暗闇の中で】 その実装石が意識を取り戻した時、辺りは暗闇に包まれていた。 程なくして両目を襲った痛覚が、周りが暗いのではない、 視力が奪われたのだということを告げた。 聴力もなかった。 試みに耳を動かそうとしてみたが、ある筈の耳がない。 悲鳴を上げようとしたが、声が出なかった。 上半身を起こすために手をつこうとしたが、 肩から先の両腕の感覚がなかった。 ならば両脚で踏ん張ろうとしたが、こちらも両腕と同じ、 脚のつけ根より先の存在が感じられない。 四肢を失ったのだ、と理解した。 ばかりか、視力と聴力を失い、言葉を発することができなかった。 鼻の穴が詰まっていて、嗅覚も使えなかった。 自分がどこにいるのか、どのような状態かもわからないまま、 その実装石は仰向けに寝かされていたのである。                ※ そうだ、自分は襲われたのだと、彼女は思い出した。 野良生活を始めてしばらくして、自分だけの餌場を見つけた。 僥倖だった。 そこには定期的に食糧が補充されたため、飢える心配がなかった。 その餌場で何者かに襲われ、意識を失ったのだ。 それにしても、と思う。 命を奪われることなく、こうして生きているのは、 さらなる僥倖に恵まれたと言えるのではないだろうか。 暑くもなければ寒くもない、雨風や太陽を感じないので、 恐らくここは屋内なのだろう。 となると、人間に助けられたということか。 失われた感覚と手足は、 実装石の驚異的な再生能力をもってすれば、 いずれ回復する筈だった。 まずもって瀕死の状態でも生かされている現実に、 そして助けてくれたであろう人間に、 大いに感謝しなければいけなかった。 しかし、と同時に別の感情も湧き上がる。 「また、ひどいニンゲンに捕まっていたら、どうしようデス」 今を確かめることのできない実装石は、過去を思い起こす。 自分の肉親から迫害を受けたのが始まりだった。 住む家を追い出され、一匹で公園を彷徨った。 後ろ盾を持たない実装石が単独で生きていけるほど、 野良生活は甘くはなかった。 程なくして、同族に襲撃されたのである。 半死半生になっているところを、通りがかった人間に拾われた。 「けれど、そのニンゲンは虐待派だったデズゥ」 思い出し、実装石は怯えた。 現状がわからないことが、その恐怖を一層強めた。 両腕があれば、 自分で自分を抱きしめて震えを停めたいところだった。 何かが、実装石の頭を撫でた。 恐怖が最高潮に達する。 声を出すことができれば、悲鳴を上げたことだろう。 「ワタシの髪の毛に触るなデス!」 怯えながらも、実装石は心の中で叫んだ。 前に捕まった時は、同族のリンチから守り抜いた髪の毛を、 虐待派がばっさり切ったのである。 体の傷は癒えても、失った髪の毛は戻ってこない。 残された髪の毛を奪うつもりなのか? しかし、そうではなかった。 指が、髪の毛をすくように動いた。 しばらく味わっていなかった感触。 実装石の硬直した心は、次第に解きほぐされていった。 「デスゥ、デスゥ」 猫が喉を鳴らすように、心の中で自然と甘えた声が漏れる。 いけないデス、このニンゲンは虐待派かもしれないのに、 心を許してはいけないデス、と自戒する。 髪の毛を撫でていた指は、次第に位置を下げ、指の腹が頬に触れた。 その感触が何とも言えず柔らかく、 まだ自分の意思で動かせる頭部を、無意識にこすりつける。 また、自分の中で甘えた声がこだまする。 このニンゲンさんは、きっと良いニンゲンさんなんデスゥ、 愛護派なんデスゥ、と、彼女は考えるようになった。 と、口に何かが突っ込まれた。 一瞬、自分の考えが早計だったかと思った。 以前は毎日のように、口の中に棒を突っ込まれ、 虐待を受けたではないか。 しかし、それこそ早計というものだった。 体温と同じくらいの温度のどろりとした液体が、 口の中に流れ込んできた。 実装石の味わったことのない、スープだった。 味蕾を大いに刺激し、スープは食道を通って胃の腑に落ちる。 全身に滋養が行き渡るようだった。 「早く良くなれよ」 実装石には聞こえなかったが、彼女を見下ろす男は、そう呟いた。                ※ 最初に、聴覚が戻ってきた。 男の声が聞き取れるようになったのである。 もちろん、音声式の実装リンガルを通して。 「イエスなら首を縦に、ノーなら首を横に振ってくれ。 俺の声、聞こえているかな」 実装石は首を縦に振った。 「良かった。やっと聞こえるようになったんだね」 実装石は、自分の思いを告げられないのが悔しかった。 男の言うことに対して、イエスかノーか、 返事することしかできないのは不満がたまる。 それでも完全な孤独から解放されたことは、大きな救いとなった。 「僕は倒れていた君を拾って、こうして介護している。 安心して欲しい」 男は言った。 「君は命に別状はないし、お腹の中の子も無事だよ」 言われて、実装石はようやく思い出した。 そう、自分は受粉していたのだ。 なかなかうまくいかなかったが、何度目かの挑戦で成功した。 「忘れるなんてひどいレフ」と、 お腹の子供が怒ったように胎動した。 手が使えれば、お腹をさするのに。 感謝の気持ちを表すため、実装石は何度も何度も首を縦に振った。 そしてこの日から、声にならない声で、胎教の歌を歌った。                ※ 実装石は、今度こそ愛護派に飼われるのだと、心の中で喝采した。 さもなければ、動けない自分の世話を、下の世話を含めて、 人間が見てくれる筈がなかった。 以前はひどかった。 下着に糞を漏らすたびに、下着を剥ぎ取られ、 排泄口に怪しげな薬を入れられた。 その薬が入れられると、決まって腹を下すのだ。 そうした情けない自分の姿を見て、人間は笑っていた。 しかし、この人間は違った。 手足が使えず、 まるで蛆実装のようになった自分の世話をしてくれるのだ。 暗闇に佇む実装石には、蓋が開く音がして、 男の声を聞くのが、何よりの楽しみになっていた。                ※ 次に、言葉が戻ってきた。 「お、喋れるようになったか」 「デスゥ」 「痛いところはないか」 「はいデスゥ」 「お腹の子は元気そうだぞ。近いうちに産まれるんじゃないか」 実装石は、精一杯の笑顔を浮かべた。 「でも、心配デス。こんな体で子供を産めるデス?」 「大丈夫さ、俺が手伝ってやるよ」 やっぱりこのニンゲンさんは愛護派なんデス。 ワタシはついに、幸せになれそうデス。 実装石は幸せに包まれたが、同時に疑念も抱く。 どうしてこのニンゲンさんは、ワタシに優しいのデス? 「どうしてそこまでしてくれるデス?」 「お前が倒れていた場所でな……」 男は何とか言葉を紡いだ。 自分の一人娘が交通事故で命を落としたのだ、と。 そこでお前と出会ったのだ、と。 その後、妻と離婚した話まではしなかった。 「デスゥ……」 実装石は思った。 自分で、この男にしてやれることはないか。 「ワタシは以前、虐待派の人間に捕まったデス」 実装石は話し始めた。 自分は同族にリンチされたところを拾われた。 自分を拾った人間は、すぐに虐待派の仲間の許へ行き、 様々な虐待のテクニックを身につけ、それを実践した。 服を脱がされ、焼かれた。 髪の毛を切られた。 嫌な薬を排泄口に突っ込まれもした。 餌だけは与えられたが、その後で必ず虐待を受けた。 もう耐えられないと思った。 窓の外を通りがかった同族に頼み、共謀してガラスを割った。 そして虐待派の許を逃げ出し、野良生活に戻ったのだ。 「ワタシも辛い目に遭ってきたデスゥ」 けれど今は幸せ一杯デス。 やさしいニンゲンさんに拾われて、子供も育っているデス。 これまで喋れなかったぶんを取り戻そうとするかのように、 実装石はよく喋った。 「もしニンゲンさんが良かったら、亡くなった娘さんの名前を ワタシにつけてもいいデスゥ」 少しはにかむように、実装石は言った。                ※ 両目が開いていれば、実装石の瞳は赤く染まっていた筈である。 母胎のほうは、出産の準備が整っていた。 「ニンゲンさん、産まれるデス、産まれるデス!」 踏ん張りたくても、両脚に力が入らない。 男はそんな実装石の代わりに、膨らんだ腹を軽くもんでやる。 デッデッフー、デッデッフーと、規則的な呼吸をする。 「フー」というところで、男は指を腹から下へスライドさせる。 「う、産まれるデスゥー、産まれたデスゥー」 総排泄口が開き、中から蛆実装が顔を覗かせた。 男が下腹部を圧迫したことで、ぽろりと出てくる。 まとわりつく粘膜を舐め取ってやらなければ、成長が阻害され、 そのまま蛆実装として短い生涯を送ることになる。 実装石の頭に一瞬、恐ろしい考えがよぎった。 この人間は実は虐待派で、粘膜を取らせてくれないのではないか。 あるいは、自分の目が見えないのをいいことに、 子供たちは殺されてしまうのではないか。 それは思い過ごしだった。 「ほら」と男が言うと、口元に蛆が当てられた。 実装石は夢中で舐めた。 母になった喜びに、ただ打ち震えていた。 「良かったな」 「デズゥ」 あとは視力と四肢が戻れば、幸せな生活を送れる筈だった。                ※ 自分の周りに蛆実装が群がっているのを感じる。 「ママはこんな状態デスが、すぐに良くなるデス。 すぐにみんなを抱っこしてあげるデス」 「レフレフ」 実装石は幸せを噛み締めていた。                ※ 「どうだ、光を感じるか?」 「はい、感じるデスゥ」 「じゃあ、ゆっくり目を開けてみようか」 男は実装石の目に当てていた絆創膏をゆっくり剥がした。 そして実装石は男の言葉に従い、ゆっくり目を開ける。 赤と緑のオッドアイが、ゆっくり開く。 男の姿がシルエットで浮かび上がる。 それは以前に拾われた虐待派──の筈がなかった。 声とこれまで触れられた感触で、別人であることはわかっていた。 苦労して焦点を合わせ、ぼんやりした風景が、 次第にくっきりした輪郭を帯びてくる。 「デ、デスゥ?」 自分はきっと、豪華なケージの中にいるものだと思っていた。 子供たちが、周りにいてくれるものと信じていた。 そして、人間──新しい奴隷が微笑んでくれている筈だ。 ところが。 実装石は裸で、水槽の中に置かれた特製の磔台に寝かされていた。 両手両脚は失われたわけではなかった。 しかしその先は壊死しており、赤い肉と白い骨がのぞいていた。 薬と強烈な麻酔によって、 破壊された四肢から感じる筈の痛みを感じずに済んでいた。 実装石の嗅覚が戻っていれば、その腐臭に気づいただろう。 腐肉に、蛆実装と、本物の蛆とが群がっていた。 確かに、数日前から咀嚼音が耳についた。 それは自分の子供が餌を食べているのだと思った。 確かにそうではあったが、 生きながら自分の肉を食べられているとは、 そして本物の蛆に食べられているとは、想像もできなかった。 「お前が舐めたのは、その本物の蛆のほうだよ。 お前の子供は、一生、蛆のままだ」 男が言った。 「デ、デギャア! デギャア!」 悲鳴を上げる実装石。 「この馬鹿ニンゲン、どうしてこんなひどいことをするデズゥ。 お前なんか殺してやるデズゥ」 「ひどいこと? お前は自分のやったことがわかってないな」 「ワタシは辛い目にばかり遭ってきたデス。 虐待派から命からがら逃げて、 平和に野良生活を送っていだけたデス」 男は煙草をくわえて、火を点けた。 心行くまで煙を肺に吸い込む。 「その野良生活を支えていたのは何だ?」 「どこかの馬鹿ニンゲンが、 いつも食べ物を置いていってくれたデス」 「その馬鹿ニンゲンってのが、俺だ」 「デ?」 「娘が、事故死した現場だよ」 実装石には意味がわからなかった。 構わず、男が続けた。 「お菓子と花が供えられていたろ? お前はその菓子を食い散らかし、花をむしり取って、 その汚いケツに突っ込んでいたんだ」 「デッ……」 俺があの道を通るたび、糞まみれの花が散らばっていた。 それを見た俺の気持ちがわかるか? なあ、娘は、飛び出してきた実装石を避けようとして、 自転車ごと車道に飛び出してしまったんだ。 そして、車に轢かれた。 実装石なんて、そのまま踏み潰せばいいものを、 心の優しい子だったんだよなあ。 その娘の名をつけさせてやるとは、どういう了見だ。 あの時、自分を抑えるのにどれだけ大変だったか。 「娘を、お前は冒涜したんだ」 男は、煙草の灰を実装石の口に落とした。 デギャッと、短い悲鳴が上がった。 「だがな」と、言葉を続けた。 俺も鬼じゃないんだ。 お前を懲らしめたら、解放してやろうと思っていた。 しかし、見てしまったんだ。 「迷い実装を探しています」の貼り紙を。 その短い髪、見間違いようがない。 俺は飼い主に、お前が言うところの「虐待派」に連絡したよ。 お前、瀕死のところを助けられたそうじゃないか。 あの爺さんはお前を病院へ連れていき、 処置の方法を聞いたんだよ。 服を焼かれた? ダニだらけだったそうじゃないか。 代わりの服を買ってもらったんだろう? 髪を切られた? 虱の住処になってたんだぞ。 ハゲにされなかっただけでもありがたく思え。 ケツに薬を突っ込まれた? お前、寄生虫持ちだったんだぞ。 虫下しの薬を入れてもらって、逆切れする奴があるか。 「でも、あの虐待派は笑っていたデス」 「薬が効いて、喜んでいたんだよ」 「ご飯の後で棒を口に突っ込まれたデス」 「実装石の虫歯を気にしてくれる飼い主が、 どれだけいると思っているんだ」 その老人の優しい気持ちを、お前は裏切ったんだ。 おまけにお前が逃げた時に野良実装に侵入されて以来、 あの家はマークされたんだ。 「実装石に甘い」って。 「部屋中を糞だらけにされ、引っ越しを余儀なくされてもなお、 お前のことを心配していたんだよ、あの爺さんは」 男の言葉が右から左に抜けているのか、 実装石は口角泡を飛ばして言った。 「そんなことはどうでもいいデス、早くワタシを解放するデス。 ワタシを幸せにするデス」 「親子水入らずで十分、幸せだろう」 そう言って、男は水槽を持ち上げた。 庭へ行き、あらかじめ掘ってあった穴に水槽を下ろす。 「その本物の蛆な、肉バエの蛆なんだ。 お前たちの皮膚を食い破って、体内で大きくなるからな。 ほら、お前の太ももを見てみろよ。それからあの蛆ちゃん」 実装石は太ももを見る。 ミミズ腫れのようなものが蠢いている。 デギャッと、実装石は悲鳴を上げた。 男が指差した蛆実装も、体内の異物に苦しめられ、 のた打ち回っていた。 「そいつらがハエになって、お前らに蛆を産みつける。 蛆はお前たちを食って、またハエになる。 延々とそれが続くんだぜ。なあ、惨めだろう」 男は返事も待たず、水槽に蓋をして、土をかけていった。 呼吸ができなくなるのと蛆に食われるの、どちらが早いだろうか。 「知ったことか」 穴を完全に埋めると、男はシャベルを放り出した。 【終】 【暗闇の中で】 その実装石が意識を取り戻した時、辺りは暗闇に包まれていた。 程なくして両目を襲った痛覚が、周りが暗いのではない、 視力が奪われたのだということを告げた。 聴力もなかった。 試みに耳を動かそうとしてみたが、ある筈の耳がない。 悲鳴を上げようとしたが、声が出なかった。 上半身を起こすために手をつこうとしたが、 肩から先の両腕の感覚がなかった。 ならば両脚で踏ん張ろうとしたが、こちらも両腕と同じ、 脚のつけ根より先の存在が感じられない。 四肢を失ったのだ、と理解した。 ばかりか、視力と聴力を失い、言葉を発することができなかった。 鼻の穴が詰まっていて、嗅覚も使えなかった。 自分がどこにいるのか、どのような状態かもわからないまま、 その実装石は仰向けに寝かされていたのである。                ※ そうだ、自分は襲われたのだと、彼女は思い出した。 野良生活を始めてしばらくして、自分だけの餌場を見つけた。 僥倖だった。 そこには定期的に食糧が補充されたため、飢える心配がなかった。 その餌場で何者かに襲われ、意識を失ったのだ。 それにしても、と思う。 命を奪われることなく、こうして生きているのは、 さらなる僥倖に恵まれたと言えるのではないだろうか。 暑くもなければ寒くもない、雨風や太陽を感じないので、 恐らくここは屋内なのだろう。 となると、人間に助けられたということか。 失われた感覚と手足は、 実装石の驚異的な再生能力をもってすれば、 いずれ回復する筈だった。 まずもって瀕死の状態でも生かされている現実に、 そして助けてくれたであろう人間に、 大いに感謝しなければいけなかった。 しかし、と同時に別の感情も湧き上がる。 「また、ひどいニンゲンに捕まっていたら、どうしようデス」 今を確かめることのできない実装石は、過去を思い起こす。 自分の肉親から迫害を受けたのが始まりだった。 住む家を追い出され、一匹で公園を彷徨った。 後ろ盾を持たない実装石が単独で生きていけるほど、 野良生活は甘くはなかった。 程なくして、同族に襲撃されたのである。 半死半生になっているところを、通りがかった人間に拾われた。 「けれど、そのニンゲンは虐待派だったデズゥ」 思い出し、実装石は怯えた。 現状がわからないことが、その恐怖を一層強めた。 両腕があれば、 自分で自分を抱きしめて震えを停めたいところだった。 何かが、実装石の頭を撫でた。 恐怖が最高潮に達する。 声を出すことができれば、悲鳴を上げたことだろう。 「ワタシの髪の毛に触るなデス!」 怯えながらも、実装石は心の中で叫んだ。 前に捕まった時は、同族のリンチから守り抜いた髪の毛を、 虐待派がばっさり切ったのである。 体の傷は癒えても、失った髪の毛は戻ってこない。 残された髪の毛を奪うつもりなのか? しかし、そうではなかった。 指が、髪の毛をすくように動いた。 しばらく味わっていなかった感触。 実装石の硬直した心は、次第に解きほぐされていった。 「デスゥ、デスゥ」 猫が喉を鳴らすように、心の中で自然と甘えた声が漏れる。 いけないデス、このニンゲンは虐待派かもしれないのに、 心を許してはいけないデス、と自戒する。 髪の毛を撫でていた指は、次第に位置を下げ、指の腹が頬に触れた。 その感触が何とも言えず柔らかく、 まだ自分の意思で動かせる頭部を、無意識にこすりつける。 また、自分の中で甘えた声がこだまする。 このニンゲンさんは、きっと良いニンゲンさんなんデスゥ、 愛護派なんデスゥ、と、彼女は考えるようになった。 と、口に何かが突っ込まれた。 一瞬、自分の考えが早計だったかと思った。 以前は毎日のように、口の中に棒を突っ込まれ、 虐待を受けたではないか。 しかし、それこそ早計というものだった。 体温と同じくらいの温度のどろりとした液体が、 口の中に流れ込んできた。 実装石の味わったことのない、スープだった。 味蕾を大いに刺激し、スープは食道を通って胃の腑に落ちる。 全身に滋養が行き渡るようだった。 「早く良くなれよ」 実装石には聞こえなかったが、彼女を見下ろす男は、そう呟いた。                ※ 最初に、聴覚が戻ってきた。 男の声が聞き取れるようになったのである。 もちろん、音声式の実装リンガルを通して。 「イエスなら首を縦に、ノーなら首を横に振ってくれ。 俺の声、聞こえているかな」 実装石は首を縦に振った。 「良かった。やっと聞こえるようになったんだね」 実装石は、自分の思いを告げられないのが悔しかった。 男の言うことに対して、イエスかノーか、 返事することしかできないのは不満がたまる。 それでも完全な孤独から解放されたことは、大きな救いとなった。 「僕は倒れていた君を拾って、こうして介護している。 安心して欲しい」 男は言った。 「君は命に別状はないし、お腹の中の子も無事だよ」 言われて、実装石はようやく思い出した。 そう、自分は受粉していたのだ。 なかなかうまくいかなかったが、何度目かの挑戦で成功した。 「忘れるなんてひどいレフ」と、 お腹の子供が怒ったように胎動した。 手が使えれば、お腹をさするのに。 感謝の気持ちを表すため、実装石は何度も何度も首を縦に振った。 そしてこの日から、声にならない声で、胎教の歌を歌った。                ※ 実装石は、今度こそ愛護派に飼われるのだと、心の中で喝采した。 さもなければ、動けない自分の世話を、下の世話を含めて、 人間が見てくれる筈がなかった。 以前はひどかった。 下着に糞を漏らすたびに、下着を剥ぎ取られ、 排泄口に怪しげな薬を入れられた。 その薬が入れられると、決まって腹を下すのだ。 そうした情けない自分の姿を見て、人間は笑っていた。 しかし、この人間は違った。 手足が使えず、 まるで蛆実装のようになった自分の世話をしてくれるのだ。 暗闇に佇む実装石には、蓋が開く音がして、 男の声を聞くのが、何よりの楽しみになっていた。                ※ 次に、言葉が戻ってきた。 「お、喋れるようになったか」 「デスゥ」 「痛いところはないか」 「はいデスゥ」 「お腹の子は元気そうだぞ。近いうちに産まれるんじゃないか」 実装石は、精一杯の笑顔を浮かべた。 「でも、心配デス。こんな体で子供を産めるデス?」 「大丈夫さ、俺が手伝ってやるよ」 やっぱりこのニンゲンさんは愛護派なんデス。 ワタシはついに、幸せになれそうデス。 実装石は幸せに包まれたが、同時に疑念も抱く。 どうしてこのニンゲンさんは、ワタシに優しいのデス? 「どうしてそこまでしてくれるデス?」 「お前が倒れていた場所でな……」 男は何とか言葉を紡いだ。 自分の一人娘が交通事故で命を落としたのだ、と。 そこでお前と出会ったのだ、と。 その後、妻と離婚した話まではしなかった。 「デスゥ……」 実装石は思った。 自分で、この男にしてやれることはないか。 「ワタシは以前、虐待派の人間に捕まったデス」 実装石は話し始めた。 自分は同族にリンチされたところを拾われた。 自分を拾った人間は、すぐに虐待派の仲間の許へ行き、 様々な虐待のテクニックを身につけ、それを実践した。 服を脱がされ、焼かれた。 髪の毛を切られた。 嫌な薬を排泄口に突っ込まれもした。 餌だけは与えられたが、その後で必ず虐待を受けた。 もう耐えられないと思った。 窓の外を通りがかった同族に頼み、共謀してガラスを割った。 そして虐待派の許を逃げ出し、野良生活に戻ったのだ。 「ワタシも辛い目に遭ってきたデスゥ」 けれど今は幸せ一杯デス。 やさしいニンゲンさんに拾われて、子供も育っているデス。 これまで喋れなかったぶんを取り戻そうとするかのように、 実装石はよく喋った。 「もしニンゲンさんが良かったら、亡くなった娘さんの名前を ワタシにつけてもいいデスゥ」 少しはにかむように、実装石は言った。                ※ 両目が開いていれば、実装石の瞳は赤く染まっていた筈である。 母胎のほうは、出産の準備が整っていた。 「ニンゲンさん、産まれるデス、産まれるデス!」 踏ん張りたくても、両脚に力が入らない。 男はそんな実装石の代わりに、膨らんだ腹を軽くもんでやる。 デッデッフー、デッデッフーと、規則的な呼吸をする。 「フー」というところで、男は指を腹から下へスライドさせる。 「う、産まれるデスゥー、産まれたデスゥー」 総排泄口が開き、中から蛆実装が顔を覗かせた。 男が下腹部を圧迫したことで、ぽろりと出てくる。 まとわりつく粘膜を舐め取ってやらなければ、成長が阻害され、 そのまま蛆実装として短い生涯を送ることになる。 実装石の頭に一瞬、恐ろしい考えがよぎった。 この人間は実は虐待派で、粘膜を取らせてくれないのではないか。 あるいは、自分の目が見えないのをいいことに、 子供たちは殺されてしまうのではないか。 それは思い過ごしだった。 「ほら」と男が言うと、口元に蛆が当てられた。 実装石は夢中で舐めた。 母になった喜びに、ただ打ち震えていた。 「良かったな」 「デズゥ」 あとは視力と四肢が戻れば、幸せな生活を送れる筈だった。                ※ 自分の周りに蛆実装が群がっているのを感じる。 「ママはこんな状態デスが、すぐに良くなるデス。 すぐにみんなを抱っこしてあげるデス」 「レフレフ」 実装石は幸せを噛み締めていた。                ※ 「どうだ、光を感じるか?」 「はい、感じるデスゥ」 「じゃあ、ゆっくり目を開けてみようか」 男は実装石の目に当てていた絆創膏をゆっくり剥がした。 そして実装石は男の言葉に従い、ゆっくり目を開ける。 赤と緑のオッドアイが、ゆっくり開く。 男の姿がシルエットで浮かび上がる。 それは以前に拾われた虐待派──の筈がなかった。 声とこれまで触れられた感触で、別人であることはわかっていた。 苦労して焦点を合わせ、ぼんやりした風景が、 次第にくっきりした輪郭を帯びてくる。 「デ、デスゥ?」 自分はきっと、豪華なケージの中にいるものだと思っていた。 子供たちが、周りにいてくれるものと信じていた。 そして、人間──新しい奴隷が微笑んでくれている筈だ。 ところが。 実装石は裸で、水槽の中に置かれた特製の磔台に寝かされていた。 両手両脚は失われたわけではなかった。 しかしその先は壊死しており、赤い肉と白い骨がのぞいていた。 薬と強烈な麻酔によって、 破壊された四肢から感じる筈の痛みを感じずに済んでいた。 実装石の嗅覚が戻っていれば、その腐臭に気づいただろう。 腐肉に、蛆実装と、本物の蛆とが群がっていた。 確かに、数日前から咀嚼音が耳についた。 それは自分の子供が餌を食べているのだと思った。 確かにそうではあったが、 生きながら自分の肉を食べられているとは、 そして本物の蛆に食べられているとは、想像もできなかった。 「お前が舐めたのは、その本物の蛆のほうだよ。 お前の子供は、一生、蛆のままだ」 男が言った。 「デ、デギャア! デギャア!」 悲鳴を上げる実装石。 「この馬鹿ニンゲン、どうしてこんなひどいことをするデズゥ。 お前なんか殺してやるデズゥ」 「ひどいこと? お前は自分のやったことがわかってないな」 「ワタシは辛い目にばかり遭ってきたデス。 虐待派から命からがら逃げて、 平和に野良生活を送っていだけたデス」 男は煙草をくわえて、火を点けた。 心行くまで煙を肺に吸い込む。 「その野良生活を支えていたのは何だ?」 「どこかの馬鹿ニンゲンが、 いつも食べ物を置いていってくれたデス」 「その馬鹿ニンゲンってのが、俺だ」 「デ?」 「娘が、事故死した現場だよ」 実装石には意味がわからなかった。 構わず、男が続けた。 「お菓子と花が供えられていたろ? お前はその菓子を食い散らかし、花をむしり取って、 その汚いケツに突っ込んでいたんだ」 「デッ……」 俺があの道を通るたび、糞まみれの花が散らばっていた。 それを見た俺の気持ちがわかるか? なあ、娘は、飛び出してきた実装石を避けようとして、 自転車ごと車道に飛び出してしまったんだ。 そして、車に轢かれた。 実装石なんて、そのまま踏み潰せばいいものを、 心の優しい子だったんだよなあ。 その娘の名をつけさせてやるとは、どういう了見だ。 あの時、自分を抑えるのにどれだけ大変だったか。 「娘を、お前は冒涜したんだ」 男は、煙草の灰を実装石の口に落とした。 デギャッと、短い悲鳴が上がった。 「だがな」と、言葉を続けた。 俺も鬼じゃないんだ。 お前を懲らしめたら、解放してやろうと思っていた。 しかし、見てしまったんだ。 「迷い実装を探しています」の貼り紙を。 その短い髪、見間違いようがない。 俺は飼い主に、お前が言うところの「虐待派」に連絡したよ。 お前、瀕死のところを助けられたそうじゃないか。 あの爺さんはお前を病院へ連れていき、 処置の方法を聞いたんだよ。 服を焼かれた? ダニだらけだったそうじゃないか。 代わりの服を買ってもらったんだろう? 髪を切られた? 虱の住処になってたんだぞ。 ハゲにされなかっただけでもありがたく思え。 ケツに薬を突っ込まれた? お前、寄生虫持ちだったんだぞ。 虫下しの薬を入れてもらって、逆切れする奴があるか。 「でも、あの虐待派は笑っていたデス」 「薬が効いて、喜んでいたんだよ」 「ご飯の後で棒を口に突っ込まれたデス」 「実装石の虫歯を気にしてくれる飼い主が、 どれだけいると思っているんだ」 その老人の優しい気持ちを、お前は裏切ったんだ。 おまけにお前が逃げた時に野良実装に侵入されて以来、 あの家はマークされたんだ。 「実装石に甘い」って。 「部屋中を糞だらけにされ、引っ越しを余儀なくされてもなお、 お前のことを心配していたんだよ、あの爺さんは」 男の言葉が右から左に抜けているのか、 実装石は口角泡を飛ばして言った。 「そんなことはどうでもいいデス、早くワタシを解放するデス。 ワタシを幸せにするデス」 「親子水入らずで十分、幸せだろう」 そう言って、男は水槽を持ち上げた。 庭へ行き、あらかじめ掘ってあった穴に水槽を下ろす。 「その本物の蛆な、肉バエの蛆なんだ。 お前たちの皮膚を食い破って、体内で大きくなるからな。 ほら、お前の太ももを見てみろよ。それからあの蛆ちゃん」 実装石は太ももを見る。 ミミズ腫れのようなものが蠢いている。 デギャッと、実装石は悲鳴を上げた。 男が指差した蛆実装も、体内の異物に苦しめられ、 のた打ち回っていた。 「そいつらがハエになって、お前らに蛆を産みつける。 蛆はお前たちを食って、またハエになる。 延々とそれが続くんだぜ。なあ、惨めだろう」 男は返事も待たず、水槽に蓋をして、土をかけていった。 呼吸ができなくなるのと蛆に食われるの、どちらが早いだろうか。 「知ったことか」 穴を完全に埋めると、男はシャベルを放り出した。 【終】

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1 Re: Name:匿名石 2024/02/29-15:07:03 No:00008822[申告]
やるせない話だ
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