タイトル:【塩】 【ベランダの飼い実装】(一期一会より転載)
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作者:匿名 総投稿数:非公開 総ダウンロード数:735 レス数:1
初投稿日時:2006/08/05-20:33:26修正日時:2006/08/05-20:33:26
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【ベランダの飼い実装】 その時、仔実装は生まれて初めて後悔することを学んだ。 ちょっとした冒険心を出したばかりに、後にも先にも引けなくなっていた。 好奇心を抑えてさえいれば、今頃はエアコンの効いた部屋で、 欲望の赴くままフードを食い散らかしていたものを、と。                ※ 仔実装は、申し分のない生活を送っていた。 飼い実装が認められたマンションに、飼い主と暮らしていた。 いつでも好きなフードを好きなだけ食べられて、 黙っていても飼い主は、色とりどりの服を持ってきてくれる。 飼い主である若い女性は、仔実装を自律した人形、 くらいの気持ちで見ていた。 だから躾はしない。 面倒だから、適当に餌を与え、 気が向いた時に自分好みの服を着せて遊んでいただけだった。 仔実装は次第に、ショップで教えられた 「立派な飼い実装になるための心得」を忘れていった。 仔実装は、並みの飼い実装に比べれば、物的にははるかに恵まれていた。 それでも実装石にとって、贅沢は次の贅沢の呼び水となる。 退屈した日常に、刺激を求めるようになったのだ。 そんな時、ベランダに通じる窓が、少し開いているのに気づいた。 仔実装は好奇心に勝てなかった。 ベランダへ出た。 熱を帯びた大気が仔実装を包み、陽光がちりちりと皮膚を刺激する。 決して良い匂いとは言えないが、不快感より先に、 仔実装は外気の匂いに自由を感じていた。 ベランダへ出て、正面と右手には柵がある。 柵の間から顔をのぞかせてみると、はるか下に地面が見える。 目眩がしそうになって、思わず尻餅をついた。 この家で飼われてから生活能力、思考力が低下していた仔実装だが、 柵を越えて下に落ちたら危険であることはわかった。 三方の残された左側、洗濯機を通り過ぎた向こう側は、 フェンスで仕切られていたが、その下を潜り抜けることは可能だった。 「緊急時にはこの壁を破って避難してください」と書かれている。 フェンスで視界が制限されているため、 その向こうが妙に奥行きがあるように感じられる。 それがまた、仔実装の好奇心を煽った。 仔実装は奇声を上げて走り出した。 退屈な日常が、こうして破られた。                ※ 仔実装が飼われている部屋、即ち三〇一号室の隣室、三〇二号室には、 どちらかと言えば実装石が嫌いな男が住んでいた。 それまでは好きでも嫌いでもなかった実装石だが、 このマンションへ引っ越してきて嫌いになった。 三〇一号室の仔実装が、とにかくうるさいのだ。 飼い主がいる間はそうでもなかったが、いない時はとにかく騒ぐ。 物を落としたり、壁に何かをぶつける音が響く。 飼い主は、どうやら水商売をしているようだった。 つまり、仔実装が暴れる時間は夜。 真面目なサラリーマンが明日の仕事に備えて寝ている時間だった。 その男の視界の隅を、仔実装が走っていた。 いや、正確にはのそのそ歩いていた。 高カロリーの食事ばかりを口にしてきた結果、 危険なまでに太っていたのである。 高校野球をテレビ観戦しながら飲んでいたビールを吹き出しそうになった。 仔実装は自分の部屋のベランダを横断し、三〇三号室に向かっていった。 しばらくすると、三〇三号室からまた戻ってきて、三〇一号室へ帰る。 何が面白いのか、また三〇一号室のベランダから飛び出し、 三〇三号室を目指す。 気が散って、野球観戦に集中できない。 男は、夏季休暇の貴重な一日を台無しにされたと感じた。 何故こんな醜く太った仔実装が俺のベランダをうろちょろしているのだ? そこで、ちょっとした悪戯を思いつく。 ベランダに溜め込んでいた空ビール瓶を、 三〇三号室との境界にずらりと並べる。 フェンスに密着させるのではなく、仔実装の体ひとつ分の隙間を空けておく。 こうしておけば下からのぞかない限り、 隣室の住人が一列に並ぶビール瓶を不審に思われないだろう。 しかし、いずれは三〇一号室へ帰らせてやる必要がある。 それなら、その前にちょっとばかり苦労してもらおう。 二度と、俺の部屋のベランダに侵入する気が起こらなくなるくらい。 男の休日は台無しにされたどころか、充実したものになりつつあった。                ※ 仔実装は久しぶりの運動に、たっぷりと汗をかいていた。 運動することが、こんなに楽しかったとは。 そろそろ戻って、何か食べよう。 仔実装は三〇三号室と三〇二号室を隔てるフェンスをくぐる。 そして、驚いた。 茶色い瓶が、進路を遮っているのだ。 思わず「テェ」と情けない声を出し、端から端まで移動するが、 左は柵、右は壁である。 道を間違えたのだろうか。 さっきはあっちから来たから、ここで折り返してあっちへ戻る筈だ。 この方向で間違いない。 じゃあ、目の前の壁はいったい何だ? 仔実装の頭の中は、ただただ混乱するだけだった。 正面はビール瓶、左と後ろは柵。 仔実装は恐る恐る三〇三号室の窓を叩いてみたが、反応はない。 鍵がかかり、カーテンも閉じられていた。 万事休すだった。 夏の陽射しが仔実装に容赦なく降り注ぐ。 直射日光を避けるべく、太陽の動きに合わせて日陰へと移動した。 窓ガラスにくっくつと、少しひんやりすることがわかると、 肌が露出している部分を密着させて体温の上昇を抑えた。 暑さのため、意識が朦朧としていた仔実装だが、 隣のベランダで物音がしているのに気づいた。 人間がいる。 自分を助けてくれるかも知れない、いや助けるべきである。 三〇三号室の窓にもたれて寝ていた仔実装は立ち上がると、 再び三〇二号室のベランダへ向かい、ビール瓶の前で鳴く。 人間はその声に反応しなかったが、 仔実装は一番左端、外側の瓶がなくなっていることに気づいた。 その隙間から自分の部屋へ帰れる! そう思って駆け出したが、目の前に広がる光景は、さっきまでとは違った。 罠を仕掛けると言っても、相手は隣室の飼い実装だ。 まさか命に関わるような仕掛けは作れなかった。 それに時間も資材もない。 男が用意した罠は、実に単純なものだった。 まず、収集日にまとめて出そうと考えていた段ボールを用意する。 これを使ってベランダを半分の幅に仕切る。 これは仔実装の行動範囲を制限するためだ。 第一関門は、発泡スチロールの緩衝材を使った平均台だった。 少し高い位置、仔実装の手の届かない高さに平均台を設置して、 この平均台を通らない限り先へ進めないようにする。 平均台から落ちると、側壁の段ボールに空けた穴を経由して、 スタート地点に戻るしかない。 第二関門は水泳。 昔飼っていた熱帯魚の水槽をベランダに置く。 左右は側壁と鉄柵に阻まれているので、 水槽を泳ぎきらなければ先へ行けなかった。 第三関門はターザン・ロープ。 水槽を泳ぎきったところに第三関門のスタート地点がある。 ここから、物干し竿からぶら下がっている何本かのロープを伝って、 反対側まで行かなくてはならない。 スタートもゴールも、仔実装の背の届かない高さにあるので、 下に落ちたら第一関門と同じように、段ボール側壁の穴を経由して、 スタート地点に戻らなければならなかった。 第三関門のゴールに達すれば、あとは階段を下りて、 三〇一号室へ戻るだけだった。 落ちて怪我でもされたら大変と、第一関門と第三関門の下には、 古新聞を丸めて作ったクッションを置いておいた。 これなら、落ちた衝撃で脱糞されても掃除が楽だ。 罠と言うよりは、運動能力を競うテレビ番組のアトラクションのようだった。 仔実装は階段を上り、平均台の前に立つ。 もとは緩衝材なので、固定する対象の形状に合わせて形は一様でない。 幅は殆ど同じだが、ところどころに段差がある。 最初の一歩を踏み出した。 固定が甘いのか、平均台全台が少し揺れる。 両手を左右に開き、バランスを取りながら一歩一歩足を前に出す。 しかし悲しいかな、仔実装は見事なほどトップ・ヘビーな体型をしている。 わずかなバランスの狂いが体全体を不安定なものにし、 見る間に平均台が落ちてしまった。 お尻をしこたま打った仔実装。 落下の衝撃で「実」が少し出たが、大声で鳴くことはしなかった。 早く帰りたい、という気持ちが強く、それどころではなかったのである。 平均台の下をぐるぐる回り、 前も後ろも自分の背丈では届かないことがわかると、 唯一残された道、側壁の段ボールに開いた穴をくぐって側道に出た。 そこは、ビール瓶の壁で囲まれた 三〇二号室と三〇三号室の境目に通じていた。 二度、三度の挑戦もことごとく失敗に終わり、 そのたびに仔実装は尻を打ち、あるいは足を痛めた。 「もう嫌テチ」 と思わず泣きそうになり、スタート地点でうずくまる。 おいおい、それじゃ面白くないだろう、と男が思っていると、 仔実装の背後が賑やかになった。 三〇三号室の住人が部屋に戻ってきたのである。 飼い犬を連れて。 犬はベランダへ出されると、すぐに未知の臭いに警戒の色を示した。 明らかに侵入者がいる。 臭いのもとをたどっていくと、隣室との境が怪しい。 フェンスの下に、仔実装の下着が見えた。 犬は吠え、飛びかかる。 仔実装は、間一髪、尻をかじられずに済んだ。 犬の口はフェンスの下をくぐったが、口を開こうとして引っかかたのだ。 そこで犬は顔を横に倒して大きく口を開く。 仔実装はその隙に逃げ、スタート地点となる階段を駆け上った。 前門の罠、後門の犬。 仔実装の進退は窮まった。                ※ 仔実装の飼い主は慌しく準備を整えると、部屋を出て行った。 上客から食事を誘われたのだ。 その後はもちろん同伴出勤。 仔実装のことなど、思いも寄らなかった。 しかし戸締りだけは、忘れなかった。                ※ 後ろで犬が唸り声を上げている。 とにかく、前へ進むしかなかった。 仔実装はバランスを取って歩くのを諦め、四つん這いで平均台の上を這う。 タイム・アタックではないのだから、それで十分だった。 何度か落ちそうになりながらも、第一関門を制した。 次は水泳。 男は水槽を置いた時に気づいたことだが、これは簡単に突破される。 泳がなくても、水槽の縁に手をかけて少しずつ移動すれば 反対側へ行けるのだ。 まあ、溺れられても困るのではあるが。 仔実装は意を決し、服のまま飛び込み、最初は溺れかけた。 しかし男が予想した通り、 水槽の縁に手をかければ溺れずに済むことに気づくと、 両手をかけて少しずつ移動した。 これで第二関門突破である。 問題は第三関門だった。 仔実装の力は弱く、両腕の力で自重を支えるのは至難の業だ。 だが、それをしなければ先へ行けない。 両腕でロープを掴んでぶら下がってみる。 何とか支えられる。 それから片腕で自分の体重を支えつつ、 次のロープを手繰り寄せる。 服は水で重くなり、水槽を横断するのに両腕の力を使いきっていた。 仔実装は体を支えられずに落下した。 顔面を打つ。 見上げれば、前も後ろも断崖絶壁。 第一関門と同じく、ジャンプしても届かない。 仔実装はトボトボと、段ボールの側壁の穴をくぐってスタート地点に戻った。 第一、第二関門は何とか通過できても、必ず第三関門で引っかかった。 腕の力がもたないのである。 夕焼けの中、同じ場所で同じ失敗を繰り返す仔実装を見るのにも飽き、 男は夕食を食べに外出した。 帰ってくると、仔実装が第三関門の下で倒れていた。 疲れて、そのまま眠ってしまったようだった。 目が、涙で腫れていた。 男はさすがに悪いと思い、仔実装を第三関門のゴールの上に置いてやった。 それからしばらくして、仔実装は空腹で目が覚めた。 気がつくと、そこはゴールである。 自分でも知らないうちに、ここまでやったのだ。 仔実装は単純に喜んだ。 そして階段を駆け下り、フェンスの下をくぐり、懐かしの我が家へ帰る。 しかし── ベランダの窓はしっかり閉まり、びくともしない。 部屋の中は真っ暗で、物音一つ聞こえない。 どんどん窓を叩いてみたが、何も変化がなかった。 飼い主は自分を放っておいて、どこかへ行ってしまったのだろうか。 自分がいなくなったことに気づかなかったのだろうか。 窓を叩きながら、うつ伏せに倒れた。 仔実装はよろよろと立ち上がり、仕方なくフェンスをくぐった。 三〇三号室には危険な動物がいるから近寄れない。 ならば三〇二号室の住人に頼るしかない。 喜びながら下りてきた階段を、今度は悲痛な面持ちで上り、 明かりがこぼれる三〇二号室の窓に向かってアピールする。 「お腹が空いたテチ。何か食わせろテチ」と。 男は初めて仔実装の前に姿を現した。 隣を見ると、明かりが消えている。 外出したのだろうか? だとしたら、この仔実装は締め出されたことになる。 それに責任を感じないわけにはいかなかった。 とは言え、仔実装に変に懐かれるのは本末転倒だ。 ゴール近くの側壁を折り曲げ、 自分の部屋の近くまで来られるようにしてやった。 仔実装は階段を下り、テチテチと寄ってくる。 近くで見ると、昼間見た時より、少しすっきりした感じだった。 こんな短時間の運動で効果が上がるものなのだろうか? 仔実装は部屋に上がろうとしたが、それは阻止する。 そして自分は部屋の中にいながら、仔実装の前で腕立て伏せをしてみせる。 仔実装はぽかんとした顔でそれを見ている。 二十回ほどした後で、男は腕立て伏せを切り上げ、 仔実装を見ながらテーブルにあった飴を口に含んだ。 仔実装は男の意図を理解した。 腕立て伏せをすれば、食べ物を貰えるのだ。 「いいから食べ物を寄越すテチ」 そんなわがままを言える状況ではなかった。 男が、仔実装を睨みつけていたからだ。 ベランダのコンクリートの上に四つん這いになり、 両腕を突っ張って顔を反らし、腕立て伏せを始める。 二回が限界だった。 立ち上がり、手を差し出す仔実装に男は首を振る。 もう一度挑戦する。 今度は三回。 これも駄目。 次は七回できた。 それでも男は腕を組んだまま。 仔実装は汗だくになりながら、ついに腕立て伏せを十回やり、 そのまま倒れ込んだ。 顔を上げると、目の前に、蜂蜜を塗った食パンと牛乳が置かれていた。 いつもより量は少なく、質素ではあったが、 仔実装は半日ぶりの食事を味わって食べた。 こんなに食事が美味しいと思ったのは、初めてのことだった。 その夜は男のベランダで眠った。 熱帯夜ではあったが、昼間の運動疲れのためか、 寝苦しさに睡眠を妨害されることはなかった。 翌朝、仔実装は夜明けとともに目が覚めた。 自分の部屋に戻ってみるが、やっぱり飼い主は帰っていない。 男は目を覚ますと、ベランダの窓を開けて新鮮な空気を吸い込んだ。 仔実装がいた。 仔実装は男と目を合わせると、自ら腕立て伏せを始めた。 「朝飯の準備をするか」そう言って男はキッチンへ向かった。 仔実装はこれまでの飼い実装生活の中で、欠けていたことに気づいた。 それは、人間との関わりであり、与え、与えられるだけではない関係だった。 犬が人間に遊んでもらうことを楽しみとしているように、 実装石も人間に構ってもらうことを好む。 飼い主は確かに好きなだけフードを与えてくれるし、服も買ってくれる。 しかしそれ以上の関わりを持とうとはしなかった。 この男は、自分に課題を与え、それが達成された時は何かをしてくれる。 そのゲーム感覚に、仔実装は楽しみを見出し始めていたのだ。 そしてそれは、 ショップで叩き込まれた買い実装の在り方を同時に思い出させた。 朝食の後、仔実装は男が用意した罠 ──その実態はフィールド・アスレチックだが──に進んで挑戦した。 第一関門を、今度は四つん這いでなく、何とか歩いて渡ろうとした。 何度も失敗して下に落ちたが、ついに成功した。 それを見ていた男は、小さく拍手をして仔実装を褒めてやった。 テレビでスポーツを観戦している気分になっていた。                ※ 仔実装が新しい遊びに夢中になっているうちに、 同伴出勤した上客の部屋に泊まった飼い主が帰宅した。 部屋のどこにも仔実装がいないことにようやく気づき、 あの時、少し窓が開いていたから、そこから逃げ出したのだ、 という結論に達した。 まだベランダにいるかしら、と思って窓を開けようとしたところ、 またあの上客から電話があった。 飼い主は再び部屋を出た。                ※ 仔実装はその日の夜も男のベランダで過ごした。 腕立て伏せをして食事を貰う。 日中の疲労を、食パンに塗られた蜂蜜が回復させてくれた。 ボール遊びもした。 とは言え、男が持っていたのは軟式野球用のボールだ。 生半可な気持ちで受け止めようとすると、そのまま潰されてしまう。 仔実装がうまくキャッチすると、男は仔実装の頭を撫でて褒めた。 翌朝も仔実装はベランダにいた。 男は次第に不安になってきた。 隣室に人が戻ってきた気配はない。 仔実装は捨てられたのだろうか? ともあれ、いつでも飼い主のもとへ帰れるようにしておかないと。 男は腕立て伏せを終えた仔実装に朝食を与えた。 丸二日間のトレーニング、食前の運動もあって、 仔実装は見る間にシェイプアップされていった。 しかし、考えてみれば風呂に入れていないので汚れが目立つし、臭う。 そこで第二関門で使った水槽を使い、仔実装を洗ってやることにした。 服は、洗濯機にかけて洗う。 しかしあちこちがほつれており、洗濯機にかけたことで痛みがひどくなった。 そして男は裁縫ができない。 悩んだ挙句、軍手の指の部分を短く切り、 ジャージ風に加工して仔実装に着せてやった。 サイズはぴったりだった。 これまできれいな服しか着たことがなかった仔実装は不満だったが、 体の動きに合わせて伸縮してくれるので、 思ったより着心地が悪くないことに気づいた。 運動するのであれば、むしろこのほうがやりやすい。 仔実装は「軍手ジャージ」に妥協することにした。 仔実装は体が軽くなったのを感じた。 動きに張りが出る。 それと同時に精神の健全さも取り戻していた。 今までは、ただ与えられるだけの生活だったが、 今はきちんと自制できるようになった。 この日の仔実装は大いなる進歩を見せた。 昨日成功した第一関門は、バランスを崩す前に走り抜けることに成功した。 第二関門では、背泳ぎに挑戦した。 男は段ボールの側壁を取り払い、つきっきりでコーチをする。 背中を少し反らし、手を上にまっすぐ伸ばし、バタ足で前に進む。 頭がこつんと水槽の壁に当たると、第二関門突破だ。 そして第三関門。 これまで第二関門で腕の力を使い果たしていたが、 今回は背泳ぎなので、体力を温存している。 そして連日の腕立て伏せが、仔実装の腕力を向上させていた。 大胆にも片手でロープを握る。 少し弾みをつけて、体を前に出す。 左手を前に出し、次のロープを握る。 振り子のように、一度後ろに下がってから、 前へ出たところで右手でロープを掴む。 そして最後のロープを掴み、両手で掴み直して、 前後に何度か揺らしてから、弾みをつけてゴールへ向かってジャンプした。 バランスを崩しそうになるのを必死で食い止め、着地に成功した。 男は仔実装に、厚紙で作った王冠を頭に載せてやった。 金のペイント・マーカーで塗っただけの粗末なものだったが、 仔実装にとっては、この達成感を形で表現してくれる、 価値のあるものだった。 男は、当初の目的を思い出して苦笑した。 そればかりか、こんな仔実装だったら飼ってみるのも悪くない、 と思い始めていた。 その日も、飼い主は戻ってこなかった。 仔実装は男のベランダで眠った。 仔実装は男が作ってくれた王冠を両手で持ち、空に掲げてみた。 月が、その輪の中に収まった。 仔実装は自分の中での成長を実感し、月をも手に入れた気分だった。                ※ 翌朝、隣室から聞こえる物音で男は目を覚ました。 明らかに隣人が部屋に戻ってきた兆候である。 男は胸を撫で下ろした。 ようやく仔実装が元の生活に戻れるため、 そしてこれで安心して帰省できるためであった。 ベランダの窓を開けると、仔実装も目を覚ましていた。 男に頭を下げ、両脇に破れた服と手製の王冠を抱えると、 フェンスをくぐっていった。 男はその姿を見届け、手早く荷物をまとめて、 戸締りをして部屋を出た。 仔実装は誇らしかった。 飼い主と会えなかった数日の間にシェイプアップし、 本来のスタイルを取り戻していた。 何かを得るためには努力をしなければならない、ということも学んだ。 これまではただ与えられるだけだったが、 これからは飼い主にとって何か役に立つことをしてみよう、と思った。 またそうするだけの自信もついた。 それはショップで学んだことでもあった。 そうすればあの男のように、飼い主は自分と遊んでくれる筈だ。 ベランダの窓をとんとんと叩く。 反応がない。 もう一度、どんどんと叩く。 部屋の奥から姿を現したのは、自分の服を着た、見慣れぬ仔実装だった。 仔実装の顔を見て、首を傾げ、おかしな服──軍手ジャージを見て 「テププ」と笑う。 その後から、飼い主が姿を現した。 仔実装は必死にアピールする。 「その仔実装は誰テチ? ワタチは帰ってきたテチ。 これまでよりずっと賢い仔になって戻ってきたテチ」 しかし飼い主は眉間に皺を寄せると、 「何、この薄汚い実装石。キモい」 と言い放ち、ベランダへ出ると、 フェンスの下から隣室のベランダへ押し込んだ。 そして束になっていた雑誌で、フェンスの隙間を埋めた。 彼女は飼っていた実装石が逃げ出したものだと思っていた。 その話を上客にすると、彼女の気を惹くため、 可愛い仔実装をプレゼントしたのである。 飼い主は自分の仔実装の顔をしげしげと見たこともない。 ただ着ているのが軍手だったために、 隣の独身男性の飼い実装に違いないと判断してしまったのである。 仔実装は雑誌を押し戻そうとした。 鍛えられた腕力をもってしても、雑誌の束はぴくりともしなかった。 仔実装は、男に助けを求めることにした。 しかし、いくら窓を叩いても男は出てこない。 どうしてこんな目に遭うのかと仔実装は悲嘆に暮れた。 しかし、本来の賢さを取り戻したことが、悲劇を招く。 「そうだ、ワタチの努力が足りないから、人間さんが姿を現さないテチ」 仔実装はベランダで腕立て伏せを始めた。 それまで十五回が最高だった記録を二十五回まで伸ばした。 それでも男は現れなかった。 アスレチックにも挑戦した。 タイムを計っていれば、何度もコース・レコードが塗り替えられた筈だ。 それでも男は現れなかった。 そして、仔実装はそれでも挑戦を続けた。 自分の努力が、まだ足りないと思い込んで。 男が帰省先からマンションへ戻ったのは、それから三日後のことだった。 帰ったら、実装石を飼おうと考えていた。 賢くて、遊び甲斐のある奴がいいな。 そうすれば退屈を紛らわせてくれるだろう、と。 部屋に入り、空気を入れ替えるためにベランダの窓を開けて驚いた。 あの仔実装が、水槽に沈んでいたのである。 水分が蒸発し、十分な水量が保てなくなったことで、 水槽に入った仔実装は水槽の縁に手が届かず、 水から上がることができなかった。 そしてついに力尽きた。 背泳ぎの状態で水に浮かび続けた仔実装が最後に見たのは、月だった。 隣室からは女の声と、仔実装の嬌声が聞こえてきた。 男が実装石を飼うことは、なかった。 【終】 【ベランダの飼い実装】 その時、仔実装は生まれて初めて後悔することを学んだ。 ちょっとした冒険心を出したばかりに、後にも先にも引けなくなっていた。 好奇心を抑えてさえいれば、今頃はエアコンの効いた部屋で、 欲望の赴くままフードを食い散らかしていたものを、と。                ※ 仔実装は、申し分のない生活を送っていた。 飼い実装が認められたマンションに、飼い主と暮らしていた。 いつでも好きなフードを好きなだけ食べられて、 黙っていても飼い主は、色とりどりの服を持ってきてくれる。 飼い主である若い女性は、仔実装を自律した人形、 くらいの気持ちで見ていた。 だから躾はしない。 面倒だから、適当に餌を与え、 気が向いた時に自分好みの服を着せて遊んでいただけだった。 仔実装は次第に、ショップで教えられた 「立派な飼い実装になるための心得」を忘れていった。 仔実装は、並みの飼い実装に比べれば、物的にははるかに恵まれていた。 それでも実装石にとって、贅沢は次の贅沢の呼び水となる。 退屈した日常に、刺激を求めるようになったのだ。 そんな時、ベランダに通じる窓が、少し開いているのに気づいた。 仔実装は好奇心に勝てなかった。 ベランダへ出た。 熱を帯びた大気が仔実装を包み、陽光がちりちりと皮膚を刺激する。 決して良い匂いとは言えないが、不快感より先に、 仔実装は外気の匂いに自由を感じていた。 ベランダへ出て、正面と右手には柵がある。 柵の間から顔をのぞかせてみると、はるか下に地面が見える。 目眩がしそうになって、思わず尻餅をついた。 この家で飼われてから生活能力、思考力が低下していた仔実装だが、 柵を越えて下に落ちたら危険であることはわかった。 三方の残された左側、洗濯機を通り過ぎた向こう側は、 フェンスで仕切られていたが、その下を潜り抜けることは可能だった。 「緊急時にはこの壁を破って避難してください」と書かれている。 フェンスで視界が制限されているため、 その向こうが妙に奥行きがあるように感じられる。 それがまた、仔実装の好奇心を煽った。 仔実装は奇声を上げて走り出した。 退屈な日常が、こうして破られた。                ※ 仔実装が飼われている部屋、即ち三〇一号室の隣室、三〇二号室には、 どちらかと言えば実装石が嫌いな男が住んでいた。 それまでは好きでも嫌いでもなかった実装石だが、 このマンションへ引っ越してきて嫌いになった。 三〇一号室の仔実装が、とにかくうるさいのだ。 飼い主がいる間はそうでもなかったが、いない時はとにかく騒ぐ。 物を落としたり、壁に何かをぶつける音が響く。 飼い主は、どうやら水商売をしているようだった。 つまり、仔実装が暴れる時間は夜。 真面目なサラリーマンが明日の仕事に備えて寝ている時間だった。 その男の視界の隅を、仔実装が走っていた。 いや、正確にはのそのそ歩いていた。 高カロリーの食事ばかりを口にしてきた結果、 危険なまでに太っていたのである。 高校野球をテレビ観戦しながら飲んでいたビールを吹き出しそうになった。 仔実装は自分の部屋のベランダを横断し、三〇三号室に向かっていった。 しばらくすると、三〇三号室からまた戻ってきて、三〇一号室へ帰る。 何が面白いのか、また三〇一号室のベランダから飛び出し、 三〇三号室を目指す。 気が散って、野球観戦に集中できない。 男は、夏季休暇の貴重な一日を台無しにされたと感じた。 何故こんな醜く太った仔実装が俺のベランダをうろちょろしているのだ? そこで、ちょっとした悪戯を思いつく。 ベランダに溜め込んでいた空ビール瓶を、 三〇三号室との境界にずらりと並べる。 フェンスに密着させるのではなく、仔実装の体ひとつ分の隙間を空けておく。 こうしておけば下からのぞかない限り、 隣室の住人が一列に並ぶビール瓶を不審に思われないだろう。 しかし、いずれは三〇一号室へ帰らせてやる必要がある。 それなら、その前にちょっとばかり苦労してもらおう。 二度と、俺の部屋のベランダに侵入する気が起こらなくなるくらい。 男の休日は台無しにされたどころか、充実したものになりつつあった。                ※ 仔実装は久しぶりの運動に、たっぷりと汗をかいていた。 運動することが、こんなに楽しかったとは。 そろそろ戻って、何か食べよう。 仔実装は三〇三号室と三〇二号室を隔てるフェンスをくぐる。 そして、驚いた。 茶色い瓶が、進路を遮っているのだ。 思わず「テェ」と情けない声を出し、端から端まで移動するが、 左は柵、右は壁である。 道を間違えたのだろうか。 さっきはあっちから来たから、ここで折り返してあっちへ戻る筈だ。 この方向で間違いない。 じゃあ、目の前の壁はいったい何だ? 仔実装の頭の中は、ただただ混乱するだけだった。 正面はビール瓶、左と後ろは柵。 仔実装は恐る恐る三〇三号室の窓を叩いてみたが、反応はない。 鍵がかかり、カーテンも閉じられていた。 万事休すだった。 夏の陽射しが仔実装に容赦なく降り注ぐ。 直射日光を避けるべく、太陽の動きに合わせて日陰へと移動した。 窓ガラスにくっくつと、少しひんやりすることがわかると、 肌が露出している部分を密着させて体温の上昇を抑えた。 暑さのため、意識が朦朧としていた仔実装だが、 隣のベランダで物音がしているのに気づいた。 人間がいる。 自分を助けてくれるかも知れない、いや助けるべきである。 三〇三号室の窓にもたれて寝ていた仔実装は立ち上がると、 再び三〇二号室のベランダへ向かい、ビール瓶の前で鳴く。 人間はその声に反応しなかったが、 仔実装は一番左端、外側の瓶がなくなっていることに気づいた。 その隙間から自分の部屋へ帰れる! そう思って駆け出したが、目の前に広がる光景は、さっきまでとは違った。 罠を仕掛けると言っても、相手は隣室の飼い実装だ。 まさか命に関わるような仕掛けは作れなかった。 それに時間も資材もない。 男が用意した罠は、実に単純なものだった。 まず、収集日にまとめて出そうと考えていた段ボールを用意する。 これを使ってベランダを半分の幅に仕切る。 これは仔実装の行動範囲を制限するためだ。 第一関門は、発泡スチロールの緩衝材を使った平均台だった。 少し高い位置、仔実装の手の届かない高さに平均台を設置して、 この平均台を通らない限り先へ進めないようにする。 平均台から落ちると、側壁の段ボールに空けた穴を経由して、 スタート地点に戻るしかない。 第二関門は水泳。 昔飼っていた熱帯魚の水槽をベランダに置く。 左右は側壁と鉄柵に阻まれているので、 水槽を泳ぎきらなければ先へ行けなかった。 第三関門はターザン・ロープ。 水槽を泳ぎきったところに第三関門のスタート地点がある。 ここから、物干し竿からぶら下がっている何本かのロープを伝って、 反対側まで行かなくてはならない。 スタートもゴールも、仔実装の背の届かない高さにあるので、 下に落ちたら第一関門と同じように、段ボール側壁の穴を経由して、 スタート地点に戻らなければならなかった。 第三関門のゴールに達すれば、あとは階段を下りて、 三〇一号室へ戻るだけだった。 落ちて怪我でもされたら大変と、第一関門と第三関門の下には、 古新聞を丸めて作ったクッションを置いておいた。 これなら、落ちた衝撃で脱糞されても掃除が楽だ。 罠と言うよりは、運動能力を競うテレビ番組のアトラクションのようだった。 仔実装は階段を上り、平均台の前に立つ。 もとは緩衝材なので、固定する対象の形状に合わせて形は一様でない。 幅は殆ど同じだが、ところどころに段差がある。 最初の一歩を踏み出した。 固定が甘いのか、平均台全台が少し揺れる。 両手を左右に開き、バランスを取りながら一歩一歩足を前に出す。 しかし悲しいかな、仔実装は見事なほどトップ・ヘビーな体型をしている。 わずかなバランスの狂いが体全体を不安定なものにし、 見る間に平均台が落ちてしまった。 お尻をしこたま打った仔実装。 落下の衝撃で「実」が少し出たが、大声で鳴くことはしなかった。 早く帰りたい、という気持ちが強く、それどころではなかったのである。 平均台の下をぐるぐる回り、 前も後ろも自分の背丈では届かないことがわかると、 唯一残された道、側壁の段ボールに開いた穴をくぐって側道に出た。 そこは、ビール瓶の壁で囲まれた 三〇二号室と三〇三号室の境目に通じていた。 二度、三度の挑戦もことごとく失敗に終わり、 そのたびに仔実装は尻を打ち、あるいは足を痛めた。 「もう嫌テチ」 と思わず泣きそうになり、スタート地点でうずくまる。 おいおい、それじゃ面白くないだろう、と男が思っていると、 仔実装の背後が賑やかになった。 三〇三号室の住人が部屋に戻ってきたのである。 飼い犬を連れて。 犬はベランダへ出されると、すぐに未知の臭いに警戒の色を示した。 明らかに侵入者がいる。 臭いのもとをたどっていくと、隣室との境が怪しい。 フェンスの下に、仔実装の下着が見えた。 犬は吠え、飛びかかる。 仔実装は、間一髪、尻をかじられずに済んだ。 犬の口はフェンスの下をくぐったが、口を開こうとして引っかかたのだ。 そこで犬は顔を横に倒して大きく口を開く。 仔実装はその隙に逃げ、スタート地点となる階段を駆け上った。 前門の罠、後門の犬。 仔実装の進退は窮まった。                ※ 仔実装の飼い主は慌しく準備を整えると、部屋を出て行った。 上客から食事を誘われたのだ。 その後はもちろん同伴出勤。 仔実装のことなど、思いも寄らなかった。 しかし戸締りだけは、忘れなかった。                ※ 後ろで犬が唸り声を上げている。 とにかく、前へ進むしかなかった。 仔実装はバランスを取って歩くのを諦め、四つん這いで平均台の上を這う。 タイム・アタックではないのだから、それで十分だった。 何度か落ちそうになりながらも、第一関門を制した。 次は水泳。 男は水槽を置いた時に気づいたことだが、これは簡単に突破される。 泳がなくても、水槽の縁に手をかけて少しずつ移動すれば 反対側へ行けるのだ。 まあ、溺れられても困るのではあるが。 仔実装は意を決し、服のまま飛び込み、最初は溺れかけた。 しかし男が予想した通り、 水槽の縁に手をかければ溺れずに済むことに気づくと、 両手をかけて少しずつ移動した。 これで第二関門突破である。 問題は第三関門だった。 仔実装の力は弱く、両腕の力で自重を支えるのは至難の業だ。 だが、それをしなければ先へ行けない。 両腕でロープを掴んでぶら下がってみる。 何とか支えられる。 それから片腕で自分の体重を支えつつ、 次のロープを手繰り寄せる。 服は水で重くなり、水槽を横断するのに両腕の力を使いきっていた。 仔実装は体を支えられずに落下した。 顔面を打つ。 見上げれば、前も後ろも断崖絶壁。 第一関門と同じく、ジャンプしても届かない。 仔実装はトボトボと、段ボールの側壁の穴をくぐってスタート地点に戻った。 第一、第二関門は何とか通過できても、必ず第三関門で引っかかった。 腕の力がもたないのである。 夕焼けの中、同じ場所で同じ失敗を繰り返す仔実装を見るのにも飽き、 男は夕食を食べに外出した。 帰ってくると、仔実装が第三関門の下で倒れていた。 疲れて、そのまま眠ってしまったようだった。 目が、涙で腫れていた。 男はさすがに悪いと思い、仔実装を第三関門のゴールの上に置いてやった。 それからしばらくして、仔実装は空腹で目が覚めた。 気がつくと、そこはゴールである。 自分でも知らないうちに、ここまでやったのだ。 仔実装は単純に喜んだ。 そして階段を駆け下り、フェンスの下をくぐり、懐かしの我が家へ帰る。 しかし── ベランダの窓はしっかり閉まり、びくともしない。 部屋の中は真っ暗で、物音一つ聞こえない。 どんどん窓を叩いてみたが、何も変化がなかった。 飼い主は自分を放っておいて、どこかへ行ってしまったのだろうか。 自分がいなくなったことに気づかなかったのだろうか。 窓を叩きながら、うつ伏せに倒れた。 仔実装はよろよろと立ち上がり、仕方なくフェンスをくぐった。 三〇三号室には危険な動物がいるから近寄れない。 ならば三〇二号室の住人に頼るしかない。 喜びながら下りてきた階段を、今度は悲痛な面持ちで上り、 明かりがこぼれる三〇二号室の窓に向かってアピールする。 「お腹が空いたテチ。何か食わせろテチ」と。 男は初めて仔実装の前に姿を現した。 隣を見ると、明かりが消えている。 外出したのだろうか? だとしたら、この仔実装は締め出されたことになる。 それに責任を感じないわけにはいかなかった。 とは言え、仔実装に変に懐かれるのは本末転倒だ。 ゴール近くの側壁を折り曲げ、 自分の部屋の近くまで来られるようにしてやった。 仔実装は階段を下り、テチテチと寄ってくる。 近くで見ると、昼間見た時より、少しすっきりした感じだった。 こんな短時間の運動で効果が上がるものなのだろうか? 仔実装は部屋に上がろうとしたが、それは阻止する。 そして自分は部屋の中にいながら、仔実装の前で腕立て伏せをしてみせる。 仔実装はぽかんとした顔でそれを見ている。 二十回ほどした後で、男は腕立て伏せを切り上げ、 仔実装を見ながらテーブルにあった飴を口に含んだ。 仔実装は男の意図を理解した。 腕立て伏せをすれば、食べ物を貰えるのだ。 「いいから食べ物を寄越すテチ」 そんなわがままを言える状況ではなかった。 男が、仔実装を睨みつけていたからだ。 ベランダのコンクリートの上に四つん這いになり、 両腕を突っ張って顔を反らし、腕立て伏せを始める。 二回が限界だった。 立ち上がり、手を差し出す仔実装に男は首を振る。 もう一度挑戦する。 今度は三回。 これも駄目。 次は七回できた。 それでも男は腕を組んだまま。 仔実装は汗だくになりながら、ついに腕立て伏せを十回やり、 そのまま倒れ込んだ。 顔を上げると、目の前に、蜂蜜を塗った食パンと牛乳が置かれていた。 いつもより量は少なく、質素ではあったが、 仔実装は半日ぶりの食事を味わって食べた。 こんなに食事が美味しいと思ったのは、初めてのことだった。 その夜は男のベランダで眠った。 熱帯夜ではあったが、昼間の運動疲れのためか、 寝苦しさに睡眠を妨害されることはなかった。 翌朝、仔実装は夜明けとともに目が覚めた。 自分の部屋に戻ってみるが、やっぱり飼い主は帰っていない。 男は目を覚ますと、ベランダの窓を開けて新鮮な空気を吸い込んだ。 仔実装がいた。 仔実装は男と目を合わせると、自ら腕立て伏せを始めた。 「朝飯の準備をするか」そう言って男はキッチンへ向かった。 仔実装はこれまでの飼い実装生活の中で、欠けていたことに気づいた。 それは、人間との関わりであり、与え、与えられるだけではない関係だった。 犬が人間に遊んでもらうことを楽しみとしているように、 実装石も人間に構ってもらうことを好む。 飼い主は確かに好きなだけフードを与えてくれるし、服も買ってくれる。 しかしそれ以上の関わりを持とうとはしなかった。 この男は、自分に課題を与え、それが達成された時は何かをしてくれる。 そのゲーム感覚に、仔実装は楽しみを見出し始めていたのだ。 そしてそれは、 ショップで叩き込まれた買い実装の在り方を同時に思い出させた。 朝食の後、仔実装は男が用意した罠 ──その実態はフィールド・アスレチックだが──に進んで挑戦した。 第一関門を、今度は四つん這いでなく、何とか歩いて渡ろうとした。 何度も失敗して下に落ちたが、ついに成功した。 それを見ていた男は、小さく拍手をして仔実装を褒めてやった。 テレビでスポーツを観戦している気分になっていた。                ※ 仔実装が新しい遊びに夢中になっているうちに、 同伴出勤した上客の部屋に泊まった飼い主が帰宅した。 部屋のどこにも仔実装がいないことにようやく気づき、 あの時、少し窓が開いていたから、そこから逃げ出したのだ、 という結論に達した。 まだベランダにいるかしら、と思って窓を開けようとしたところ、 またあの上客から電話があった。 飼い主は再び部屋を出た。                ※ 仔実装はその日の夜も男のベランダで過ごした。 腕立て伏せをして食事を貰う。 日中の疲労を、食パンに塗られた蜂蜜が回復させてくれた。 ボール遊びもした。 とは言え、男が持っていたのは軟式野球用のボールだ。 生半可な気持ちで受け止めようとすると、そのまま潰されてしまう。 仔実装がうまくキャッチすると、男は仔実装の頭を撫でて褒めた。 翌朝も仔実装はベランダにいた。 男は次第に不安になってきた。 隣室に人が戻ってきた気配はない。 仔実装は捨てられたのだろうか? ともあれ、いつでも飼い主のもとへ帰れるようにしておかないと。 男は腕立て伏せを終えた仔実装に朝食を与えた。 丸二日間のトレーニング、食前の運動もあって、 仔実装は見る間にシェイプアップされていった。 しかし、考えてみれば風呂に入れていないので汚れが目立つし、臭う。 そこで第二関門で使った水槽を使い、仔実装を洗ってやることにした。 服は、洗濯機にかけて洗う。 しかしあちこちがほつれており、洗濯機にかけたことで痛みがひどくなった。 そして男は裁縫ができない。 悩んだ挙句、軍手の指の部分を短く切り、 ジャージ風に加工して仔実装に着せてやった。 サイズはぴったりだった。 これまできれいな服しか着たことがなかった仔実装は不満だったが、 体の動きに合わせて伸縮してくれるので、 思ったより着心地が悪くないことに気づいた。 運動するのであれば、むしろこのほうがやりやすい。 仔実装は「軍手ジャージ」に妥協することにした。 仔実装は体が軽くなったのを感じた。 動きに張りが出る。 それと同時に精神の健全さも取り戻していた。 今までは、ただ与えられるだけの生活だったが、 今はきちんと自制できるようになった。 この日の仔実装は大いなる進歩を見せた。 昨日成功した第一関門は、バランスを崩す前に走り抜けることに成功した。 第二関門では、背泳ぎに挑戦した。 男は段ボールの側壁を取り払い、つきっきりでコーチをする。 背中を少し反らし、手を上にまっすぐ伸ばし、バタ足で前に進む。 頭がこつんと水槽の壁に当たると、第二関門突破だ。 そして第三関門。 これまで第二関門で腕の力を使い果たしていたが、 今回は背泳ぎなので、体力を温存している。 そして連日の腕立て伏せが、仔実装の腕力を向上させていた。 大胆にも片手でロープを握る。 少し弾みをつけて、体を前に出す。 左手を前に出し、次のロープを握る。 振り子のように、一度後ろに下がってから、 前へ出たところで右手でロープを掴む。 そして最後のロープを掴み、両手で掴み直して、 前後に何度か揺らしてから、弾みをつけてゴールへ向かってジャンプした。 バランスを崩しそうになるのを必死で食い止め、着地に成功した。 男は仔実装に、厚紙で作った王冠を頭に載せてやった。 金のペイント・マーカーで塗っただけの粗末なものだったが、 仔実装にとっては、この達成感を形で表現してくれる、 価値のあるものだった。 男は、当初の目的を思い出して苦笑した。 そればかりか、こんな仔実装だったら飼ってみるのも悪くない、 と思い始めていた。 その日も、飼い主は戻ってこなかった。 仔実装は男のベランダで眠った。 仔実装は男が作ってくれた王冠を両手で持ち、空に掲げてみた。 月が、その輪の中に収まった。 仔実装は自分の中での成長を実感し、月をも手に入れた気分だった。                ※ 翌朝、隣室から聞こえる物音で男は目を覚ました。 明らかに隣人が部屋に戻ってきた兆候である。 男は胸を撫で下ろした。 ようやく仔実装が元の生活に戻れるため、 そしてこれで安心して帰省できるためであった。 ベランダの窓を開けると、仔実装も目を覚ましていた。 男に頭を下げ、両脇に破れた服と手製の王冠を抱えると、 フェンスをくぐっていった。 男はその姿を見届け、手早く荷物をまとめて、 戸締りをして部屋を出た。 仔実装は誇らしかった。 飼い主と会えなかった数日の間にシェイプアップし、 本来のスタイルを取り戻していた。 何かを得るためには努力をしなければならない、ということも学んだ。 これまではただ与えられるだけだったが、 これからは飼い主にとって何か役に立つことをしてみよう、と思った。 またそうするだけの自信もついた。 それはショップで学んだことでもあった。 そうすればあの男のように、飼い主は自分と遊んでくれる筈だ。 ベランダの窓をとんとんと叩く。 反応がない。 もう一度、どんどんと叩く。 部屋の奥から姿を現したのは、自分の服を着た、見慣れぬ仔実装だった。 仔実装の顔を見て、首を傾げ、おかしな服──軍手ジャージを見て 「テププ」と笑う。 その後から、飼い主が姿を現した。 仔実装は必死にアピールする。 「その仔実装は誰テチ? ワタチは帰ってきたテチ。 これまでよりずっと賢い仔になって戻ってきたテチ」 しかし飼い主は眉間に皺を寄せると、 「何、この薄汚い実装石。キモい」 と言い放ち、ベランダへ出ると、 フェンスの下から隣室のベランダへ押し込んだ。 そして束になっていた雑誌で、フェンスの隙間を埋めた。 彼女は飼っていた実装石が逃げ出したものだと思っていた。 その話を上客にすると、彼女の気を惹くため、 可愛い仔実装をプレゼントしたのである。 飼い主は自分の仔実装の顔をしげしげと見たこともない。 ただ着ているのが軍手だったために、 隣の独身男性の飼い実装に違いないと判断してしまったのである。 仔実装は雑誌を押し戻そうとした。 鍛えられた腕力をもってしても、雑誌の束はぴくりともしなかった。 仔実装は、男に助けを求めることにした。 しかし、いくら窓を叩いても男は出てこない。 どうしてこんな目に遭うのかと仔実装は悲嘆に暮れた。 しかし、本来の賢さを取り戻したことが、悲劇を招く。 「そうだ、ワタチの努力が足りないから、人間さんが姿を現さないテチ」 仔実装はベランダで腕立て伏せを始めた。 それまで十五回が最高だった記録を二十五回まで伸ばした。 それでも男は現れなかった。 アスレチックにも挑戦した。 タイムを計っていれば、何度もコース・レコードが塗り替えられた筈だ。 それでも男は現れなかった。 そして、仔実装はそれでも挑戦を続けた。 自分の努力が、まだ足りないと思い込んで。 男が帰省先からマンションへ戻ったのは、それから三日後のことだった。 帰ったら、実装石を飼おうと考えていた。 賢くて、遊び甲斐のある奴がいいな。 そうすれば退屈を紛らわせてくれるだろう、と。 部屋に入り、空気を入れ替えるためにベランダの窓を開けて驚いた。 あの仔実装が、水槽に沈んでいたのである。 水分が蒸発し、十分な水量が保てなくなったことで、 水槽に入った仔実装は水槽の縁に手が届かず、 水から上がることができなかった。 そしてついに力尽きた。 背泳ぎの状態で水に浮かび続けた仔実装が最後に見たのは、月だった。 隣室からは女の声と、仔実装の嬌声が聞こえてきた。 男が実装石を飼うことは、なかった。 【終】

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1 Re: Name:匿名石 2024/02/25-14:22:44 No:00008784[申告]
体力温存してたら生存の目もあったよな
哀れ…
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