【 これまでの“ただの一般人としあき”は 】 弐羽としあきは、ある夜偶然出会った“初期実装”に因縁をつけられ、彼女の子供を 捜すため強引に異世界を旅行させられる羽目になった。 「実装石」と呼ばれる人型生命体がいる世界を巡るとしあきは、それぞれ5日間という タイムリミットの中で、“頭巾に模様のある”初期実装の子供を見つけ出さなくてはならない。 「実装産業の世界」で海藤ひろあきを失ってしまったとしあきは、大きな館で超巨乳 の美人メイド・マリアと共に暮らしていた。 としあきに明確な愛情を示すマリアだが…… 一方、としあきと別行動を取っていたミドリとぷちは、この世界が人間ではなく実装石 によって動かされている特殊な世界であることを知る。 夜の街を彷徨った末、二人は実装石達によって保護されるが、不自然なほどの高待遇 を施されるのであった。 そして、またも二人の前に示される「大ローゼン」の名前—— 【 Character 】 ・弐羽としあき:人間 「実装石のいない世界」出身の主人公。 実装石と会話が出来る不思議な携帯を持っている。 現在、マリアというメイドと共に、一人だけ豪邸住まいだが…… ・ミドリ:野良実装 「公園実装の世界」出身の同行者。 成体実装で糞蟲的性格だが、としあきやぷちとトリオを組みよくも悪くも活躍。 ・ぷち:人化(仔)実装 「人化実装の世界」からの同行者。 見た目は巨乳ネコミミメイドだが、実は人間の姿を得てしまった稀少な仔実装。 ・オルカ・ベリーヴァイオレット:人間 “偉大なる大ローゼン”という謎の組織に属する特殊工作チーム「Deceive」の女性 リーダー。 「山実装の世界」から登場し、何故かとしあき達に味方する。 ・マリア:メイド としあきに尽くす謎の巨乳美人メイド。 その正体は——? −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− じゃに☆じそ!〜実装世界あばれ旅〜 第13話 ACT-2 【 実装石の女王様 】 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 6月2日午前8時。 ミドリとぷちがこの世界にやって来て、12時間が経過した。 残りの滞在時間は、あと108時間—— 長い眠りに陥っていたミドリとぷちは、複数のメイド達の呼びかけによって目覚めさせられた。 寝起きで不機嫌だったミドリも、メイド達が準備した豪華な朝食を前にすると、あっさり 上機嫌に切り替わる。 「スゲェ! 牛丼がある! 寿司もある! コンペイトウもこんなにあるデス!」 「テチャア! こ、こんなに凄い朝ごはん、初めてテチ!」 メイドに薦められ、二人は恐る恐る食事に手をつける。 だがそのあまりの美味さに、二人はすぐに我を忘れた。 「デ、デェェェ!? 何コレ死ぬほどウメェデス!!」 「テ、テェ! こんなに美味しい御飯、生まれて初めて食べたテチ!」 一口食べるごとに感嘆の声を上げる二人は、食べ切れないくらい盛り込まれた超豪華 朝食メニューを、二十分程度の時間で全部平らげた。 「ゲップゥ〜、食った食った、もうこれ以上は食えないデス〜」 「で、でも、なんでこんなに、私達の大好物ばかりダイレクトに出てくるテチ?」 「おお、そういえばそうデス〜。 どこの世界だったデス? あのおっきな船の中に長居した時を、思い出すデス〜」 「あの時の毎日の御飯も、美味しかったテチィ」 メイド達は、朝食が済んだ後速やかに片付けを行い、退室していった。 終始笑顔かつ無言で、無駄な動きを一切しないその様子に、ぷちは感激すら覚える。 「デ? 何かあるデス。 おいぷち、何て書いてあるデス? 読んでみろデス」 「テ? お手紙テチ? ——本日午前十時、エメラルデス女王陛下への謁見をお願い致します。 三十分前にお迎えに上がりますので、お支度をよろしくお願いします。 って書いてあるテチ」 「女王陛下? アンジェにおまかせデス?」 「オネーチャ、お腹がこなれたら準備するテチ」 「この豪華な接待も、女王とやらに会うための物なんデス?」 ベッドに倒れ込んだ二人は、動く気力が回復するまで、ぼーっと天井を見つめていた。 無論、その角にある超小型のカメラから監視されている事に、気づく筈もない。 ここは、人間居住エリア。 ミドリやぷちが彷徨っていたエリアの外側に当たる。 そこは、大きな都市が広がっているものの、その造りはジオ・フロントよりいくらか時代遅れ な物となっており、もしとしあきがこの場に居たら、昭和末期頃の様相と判断したことだろう。 街の中心に聳え立つ、巨大な黒い「塔」。 それは三百メートルを超える高さで、太陽に照らされて街の大面積を影で覆っている。 一番背の高いビルの屋上に立ち、その女性は、クールな目で眼下の町並みを見下ろした。 「これが、実装石に支配された世界です」 「……」 「実装石は、自らを世界の中心であると唱え、あの黒い壁の向こう側から、人間達を意のまま に操っている。 ここは、そんな歪んだ世界です」 「……」 「お前に頼みたいことは、この世界を“壊す”ことです」 「……!」 「今から四日以内に、実装石共の中枢部を破壊し、この世界を人類の手に取り戻すのです。 勿論、私も力を貸すから、心配は無用です。」 「……ぅ」 「そうすれば、お前はこの世界で、今度こそ英雄になれるのです」 「……ぅぅ」 クールな目の女性は、コートの襟を立て、吹き付ける風を避ける。 その背後では、ずんぐりむっくりとした巨体を引き摺る、もう一人の姿があった。 その顔には、真っ白な仮面が着けられている。 仮面に開けられた細い覗き穴の向こうから、鋭い眼光が輝いている。 「この世界を、お前の望む世界にしてしまうのです」 「キ、キキ……キキキキキキ♪」 白い仮面の巨体が、突然奇声を上げて笑い出す。 クールな目の女性は、それに目もくれず、町を見下ろしている。 「私は、ここでちょっと用事があるのです。 お前は、すぐに行動を起こすのです。 ——なに、かつてあれだけの活躍をしたお前になら、簡単に出来ることです」 「キキキ」 「お前には、期待しているのです」 そう呟くと、女性はいきなりその場に座り込み、赤と緑の輝きを放つ眼を閉じた。 両脚をビルの端から垂らし、遠くを見つめるような姿勢を取り、そのままピクリとも動かなくなる。 風が、長い髪とコートの裾をなびかせていく。 「……」 白仮面は、踵を返すと、下の階への出口に向かって歩き出した。 が、十数秒後。 「…キキキ!」 「なんです?! 私の邪魔をしてはいけないのです。 ——え? カギがかかってて下りられない? なんてこった!!」 二人の間を、空しい風が吹き抜けていった。 時計が午前九時三十分を指した頃、夕べ会った初老の紳士と大勢の紳士達が、部屋を 訪れた。 『ミドリ様、ぷち様、お迎えに上がりました。 どうぞ、こちらへ』 時間ギリギリまでグダグダしていた二人は、慌てて部屋を出る準備を整える。 そんな態度に表情を崩すことなく、紳士達は笑顔で二人を待ち続けた。 結局、五分遅れで退室したミドリとぷちは、導かれるままに廊下を進んでいく。 廊下を抜けると、そこは大きなホールになっており、各所に様々な形状のオブジェが飾られ ている。 見事な装飾に彩られたホールをじっくり見る暇もなく、ミドリ達の前に大型のリムジンカーが やって来た。 『さぁ、どうぞお乗りください』 優しい笑顔の老紳士は、そう囁くと二人に搭乗を促す。 立て続けに現れる豪華な演出に絶句したまま、ミドリとぷちはリムジンに乗り込んだ。 『この車は、シティ・ザ・エメラルディア王宮中枢部へと参ります。 車が停まったら、下りて目の前の通路をまっすぐ進んでくださいませ』 「デ、デェ」 「わかりましたテチ」 強張った顔で、コクコクと頷きを返す。 ドアが閉まった瞬間、リムジンはまるで滑るように発進した。 紳士達は、リムジンが見えなくなるまで、頭を下げて見送っていた。 「デェェ、なんでこんなに緊張するデス?」 「なんだか、凄い所に来ちゃったような気がするテチ。 私達、この後どうなっちゃうテチ?」 「さぁ……デェ! 見ろデスぷち! この車、ワタシ達以外に誰も乗ってないデス!!」 「テェェ! 信じられないテチ! 超科学の世界テチ!!」 運転手のいないリムジンは、まるで意志を持つかのようにスムーズに走っていく。 スモークの強い窓からは、外の景色を見ることは難しい。 しかし、建物の中から出ないまま、十数分以上も走り続けていることだけは、何とか理解出来た。 二人が車に乗り込んでからおおよそ二十分、静かに停車したリムジンから降り立ったミドリと ぷちは、またもその景色に度肝を抜かれた。 そこは、数十メートルはあるだろう高い天井に覆われた、巨大なエントランス。 周囲の壁には、ギリシャ風建造物を思わせる丸みを帯びた柱が並び、様々な装飾を施した 壁がその間を繋いでいる。 廊下……というには余りにも幅が広すぎる「路」は、中央に赤い絨毯が敷かれ、適度な 柔らかさを誇っている。 「路」の奥は、遠すぎて良く見えない。 自分達以外に誰もいない、巨大な空間に佇む二人は、またも呆然と周囲を見回した。 「えっと……ど、どうするんだったデス?」 「確か、まっすぐ進めって……あ、アレ?」 「どうしたデス? ぷt……あ、アレレ?」 「床が、動いてるテチ! きゃあ、すごいスピードテチ!!」 二人が絨毯に足を乗せた途端、廊下が動き出した。 それは静かに、かつかなりの高速で、滑るように進んでいく。 加速力で長い髪が後方になびくが、不思議なことに、二人の身体が倒れそうになることは なかった。 まともに歩いたら何十分かかるかわからないくらいに長かった「路」は、ものの五分程度で 終点に辿り着いた。 ブレーキによる反動もなく、二人は静かに「移動絨毯」から降り立つ。 見ると、目の前には見上げるほど巨大な観音開きの扉があり、その前には大勢の「実装石」 が並んでいた。 扉を良く見ると、中央部に、実装石の顔を模したようなモニュメントが刻み込まれている。 実装石達は、一斉に深々と頭を下げると、サササッと道を開けた。 「お待ちしておりました。ミドリ様、ぷち様」 突然、何処からか声をかけられる。 お辞儀をする実装石達の中から、黒いスーツを身にまとった実装石が姿を現した。 その姿は、ウェーブのかかった黒髪にインテリ風の細い眼鏡、膝丈と思われるタイトスカート、 黒いパンプスと、所謂「デキる女」風である。 眼鏡の奥の鋭い眼光が射抜き、二人はつい反射的に、身を強張らせた。 「初めまして。 私は、シティ・ジ・エメラルディア王宮にて、女王エメラルデス陛下の書記を勤めております、 エルメスと申します」 「え、えめ、エメ……エメなんとかばっかりで、覚えづらいデス!」 「テェェ、このオバサン、ニンゲンサンのコスプレしてるテチ」 ぷちの言葉に、エルメスと名乗った実装石の眼鏡がキラリ! と光る。 「コスプレではありません。 この世界の実装石は、所謂実装服など身に着けないのです」 「だからそれがコスプレってことじゃないんデス? プフッ」 わざと煽るように嘲笑するが、そんなミドリを露骨に無視するように、エルメスが語り出す。 「我が国の最高指導者であられる“エメラルデス42世陛下”が、お二人に是非ともお会いしたい と申されるため、お呼び立てさせて頂きました。 さあ、こちらへどうぞ」 「デェ? 挑発に乗って来ないデス? 思ったより腰抜けデス」 「オネーチャ、静かにするテチ!」 雰囲気に呑まれ、恐縮し始めたぷちに無理矢理押さえ込まれると、ミドリは黙ってエルメスの 後に続いた。 ゴゴゴ、と大きな音を立て、見上げるほど大きな扉が展開し始める。 そこは、王宮というよりは礼拝堂に近いデザインの、大型ホール。 素晴らしい程に凝った造形の柱や壁、天井は全て上品なホワイトに統一され、所々に金色が 施された高級感溢れる造りだ。 あまりの見事さに、ぷちはおろかミドリすらも、思わず周囲を見回してしまう程だった。 「いかがですか? お気に召して頂けましたでしょうか」 突然、何処かから美しい声が聞こえてくる。 ホールの奥にある段の上、遠くからでもはっきりわかる程大型の玉座と、それを護るように並ぶ 人間の男達。 声は、明らかにそこから響いていた。 「さぁ、どうぞ、こちらにいらしてください。 ミドリさんに、ぷちさん」 美しく、そしてとても優しい響きの声。 ぷちはハッとして向き直り、ミドリは眉間に皺を寄せて睨む。 「あっちにいるのが、ナントカデス42号デス? えらく遠くから呼んでるデス、エラそうに!」 「オネーチャ! 偉そうじゃなくて、本当に偉い方なんテチ! 行ってみるテチ」 「さあ、こちらへ。 女王陛下の御前です、くれぐれも粗相のないように願います」 エルメスの案内を受け、二人は女王の座の正面に移動する。 女王と数メートルほどの距離を開けて立つミドリとぷちは、額に青筋を浮かべたエルメスに 「頭を下げてください!」と小声でどやされた。 しかし…… 「構いませんよ、エルメス。 お二人とも、どうぞおくつろぎくださいね」 女王の声は、とても穏やかで、そして優しげだった。 エルメスは軽く頭を下げ、静かに場を去る。 残された二人は、呆然を顔を上げ、女王の姿を見つめた。 玉座の前には、年季の入ったOLのような——非常に恰幅のある、年配の実装石が立っている。 紺のビジネス風スーツに、実装雛も真っ青なほどの超クルクルカールヘア。 加えて、脂肪がのった肉厚の顔、細まった目、荒れた肌、頬肉のボリュームで原型を留めぬ ほど捻じ曲がった三つ口…… 手っ取り早くいえば、ウルトラスーパーブサイクな肥満実装石が、そこに居た。 さすがのぷちも、そのインパクト絶大の姿には吹き出してしまった。 当然、ミドリは—— 「ゲ、ゲシャシャシャシャシャシャ!! なんデスこいつ?! どヒデェブス! メガデブスデシャア!! こんな酷い顔した実装石、今まで見た事ないデス!! デシャシャシャシャ〜!!」 「お、オネーチャ! そ、そんな失礼なこt……ブフォ」 無礼極まりない二人の態度に、女王の周囲に立つガードマンも、エルメスも怒りを露わにする。 しかし、彼女達が一歩足を踏み出す前に、女王は手を翳して制した。 「お客様に対して失礼ですよ、皆さん」 「し、しかし、エメラルデス様……」 「この醜い姿が、お二人の笑顔に繋がるのであれば、私はとても光栄です」 「……」 あくまで笑顔を絶やさず、そして諫めもせずに、女王はミドリとぷちに優しく話しかけた。 「私は、この国——いえ、この世界を代表する女王・エメラルデス42世と申します。 お二人とも、本日は私の招きに応じてくださり、心より感謝いたします。 どうぞ、楽になさってください」 そう言うと、女王は深々と頭を下げた。 さすがの二人も、彼女の寛大な態度に、笑いを止めざるを得ない。 「なんて奴デス、あんなにあざ笑ってやったのに、全く怒ろうとしないデス!」 「なんか、物凄く悪いことしちゃった気になってきたテチ……」 女王は、ただ優しい言葉をかけただけで、特に何もしていない。 にも関わらず、部外者であるミドリやぷちすら萎縮させてしまう程の威厳と貫禄を漂わせている。 ミドリは本能的に、これ以上お茶目をするのはマズイと感じ、静かにその場に立ち尽くした。 「お二人とも、これまで本当にお疲れ様でした」 女王が突然ねぎらいの言葉をかけたので、ぷちはキョトンとした。 「ど、どういう意味テチ?」 「ワタシ達はむしろ、サイコーにもてなしてもらって疲れも癒えてるデス」 「あなた方がこれまで続けてきた、長い旅についてです」 優しい微笑みと共に呟かれる女王の言葉に、今度は二人とも吃驚した。 「テェ? 私達の世界移動のことを、知ってるテチ?」 「ど、どういう事デス? また大ローゼンのナントカが絡んでるデス?」 ミドリの言葉に、女王は静かに頷く。 「その通りです。 あなた方の事は、総て理解しています。 お二人が、それぞれ別々の世界から来られたことも。 ぷちさんが、かつて人間の男性に飼われていた仔実装だったことも。 そして、ミドリさんのご家族——」 「わ、わかったデス! もういいデス!」 女王の言葉を、慌てて遮る。 ミドリは、今まで見た事もないような複雑な表情を浮かべ、ぷちを見つめて来た。 「こりゃあきっと、お前のケツの穴のシワの数まで知られてるデス〜!」 「そんなの、誰にも数えられたことない筈テチ! イヤ〜ン!!」 「とにかく、逆らったらなんか怖そうデス! こーいう時は、素直に大人しくするデス」 「私はとっくに大人しくしてるテチ」 少しずつ青ざめ始めたミドリは、ゴクリと唾を飲み込んで女王を見据える。 相変わらず優しそうな表情を浮かべている女王は、再び静かに騙りかけてきた。 「本題に入りましょう。 あなた方をここにお招きしたのは、提案があるからなのです」 「提案? 何テチ?」 耳をピクピク動かし、ぷちが即反応する。 「このまま、この世界に残りませんか?」 「デ?!」 呻く様に、ミドリの声が漏れる。 ぷちも、意味が理解できないのか、口を開けてポカーンとしている。 「つまり、実装世界を巡る旅を、この世界で終わりにしないかということです。 勿論、あなた方のご主人、弐羽としあきさんも一緒に」 いつの間にか眠り込んでいたとしあきは、寝ぼけ眼をこすりながら立ち上がった。 柔らかなベッドから身を起こし、周囲を見渡すと、そこは白い壁紙の張られた寝室だった。 大きな窓には白いカーテンがかけられ、朝の柔らかな陽射しが室内に差し込んでいる。 フローリングに足を着くと、としあきはスリッパを履き、軽く背伸びをした。 外は良い天気のようで、気分もすごく爽快だ。 カーテンと窓を開け、バルコニーに出ると、爽やかで新鮮な風が優しく吹き込んできた。 「おはようございます、ご主人様」 不意に、背後から声をかけられる。 としあきは振り返り、少し照れくさそうに微笑んだ。 「やぁ、おはよう。 今日もいい天気みたいだね」 「はい、とっても素敵なお天気です。 今日も、きっと良い日になりますよ」 そう呟きながら、マリアは、パジャマ姿のとしあきにそっと寄り添った。 温かな肌のぬくもりが、衣服を通して伝わってくる。 大きな乳房の感触が肘に当たり、としあきは思わず口元を緩めた。 「なぁ、マリア?」 「はい、なんでしょう?」 「なんか俺な、このやりとりを、もう何度も繰り返してるような気がするんだ」 「えっ?」 「デジャヴ、って言うんだっけ? 俺、疲れてるのかな?」 「そうかもしれませんね、本日は、ゆっくりお休みになられてはいかがでしょう?」 「そうだね、そうしようか」 「それでは、ご一緒に——」 「ああ、いいよ。俺一人で行けるから」 「はい。 それでは、何かありましたらいつでもお呼びください」 「わかったよ、マリア。ありがとう」 としあきは、そう呟いて寝室に戻っていく。 その姿を、マリアは不安げな表情で見送った。 「——ご主人様」 溜息をついたマリアは、突然、ビクリと身体を震わせた。 踵を返し、何もない空中で手を動かすと、そこに突如半透明のモニターのようなものが出現した。 その中に次々に表示されるレーダーのような画面や、複雑な文字の流れを読み、マリアは 先ほどまでとは異なる、厳しい表情を浮かべる。 「——もう、ここまで浸入して来たのか」 『第一級警戒警報! 第一級警戒警報! 最重要警戒態の反応を、ジオフロント中枢部で感知!! 大至急、大ローゼン最重要警戒態対策班を向かわせなさい!』 マリアの声が、ありえないくらい大きく、空間内に響き渡る。 と同時に、寝室の窓やカーテン、バルコニー、青空が、激しくブレる。 一瞬ブラックアウトした寝室では、何もない空間で、としあきの身体だけが浮かんでいた。 (ご主人様と、最重要警戒態を、決して接触させてはならない) マリアは、眉間に深い皺を寄せて、恨み言を吐き出すかのように、呟いた。 「実装世界を巡る旅を、この世界で終わりにしないかということです。 勿論、あなた方のご主人、弐羽としあきさんもご一緒に」 女王・エメラルデス42世の言葉に、ミドリとぷちは激しく狼狽した。 「そ、それって! もう元の世界には戻るなって事デス?!」 「その通りです。その方が、あなた方にとっても良いと思われますが」 「わ、私! 元の世界にはご主人様が……」 「お前、まだあの変態ホモ落ち野郎のことを想ってたんデス?」 「ぷちさん、あなたのご出身の“人化実装の世界”ですが」 そう言うと、エメラルデス42世は、静かに右手を掲げる。 それを見たエルメスが、手の中の小さな機械のスイッチを押した。 途端に周囲の明かりが若干明度を落とし、ミドリ達の眼前に半透明のスクリーンのようなもの が浮かび上がった。 「わっ! 空中に、液晶テレビの画面だけが出てきたテチ!!」 「待つデス、なんか浮かんできたデス」 空中に投影された画面には、何か街の景色のようなものが映っている。 ミドリは、その光景に覚えがあった。 「ここ、覚えてるデス! オタク共に散々バカにされたアキバババという所デス!」 「オネーチャ! 秋葉原テチ」 「日本語ではそういうらしいデース」 「そうです。ここはぷちさんのおられた世界の映像記録です。 ぷちさんが、この世界から旅立たれた数年後の様子です」 女王の説明に、二人は目を見開く。 「テェェ、私の世界が映ってるんテチ? なんかスゴイテチ!」 「でも、人化実装が全然居ないデス?」 ミドリが首を傾げると、画面が更に切り替る。 次に映し出されたのは、ゴーストタウンのようになっている都市と、それを取り囲む大きな バリケード。 良く見ると、バリケードの周辺には何人か倒れている。 それが、大量に血を流して死んでいる人化実装だと気付くのに、さほどの時間はかからなかった。 「テェッ?! どどど、ど、どうしたんテチ!? これ、まさか……」 「エルメス、説明をお願いします」 「畏まりました、陛下。 ディメンションコード2287……“人化実装の世界”は、その後、人化実装に人権を求める派閥 が発生しました。 その者達と、人権付与反対派の対立が激化し、各地で大規模なデモや暴動が発生。 また、人間の協力により武力を得た一部の人化実装がクーデターを起こした影響で、一部 都市機能が麻痺。 結果、日本をはじめとした各国主要都市の各所が閉鎖・隔離され、無法地帯と化す惨状を 呈しています」 「つ、つつつ、つまり? どういうことだってばよデス?」 「テェ……私の世界が、メチャクチャになっちゃったって事テチ……」 「デェ?!」 「少なくとも、ぷちさんは、ご自身の世界に戻られない方が賢明です」 「じゃ、じゃあ、ワタシの世界はどうなったデス?!」 ミドリの言葉に、女王とエルメスは顔を見合わせる。 その態度に、ぷちは些か疑問を覚えた。 「ミドリさんの世界は、現状、特に変化はないようです。 しかし、ミドリさんがお戻りになられると、その後に——」 「ど、どういう事デス?! なんかワタシが真似……カレー…られ…猿? え〜っと、なんだっけ?」 「招かれざる客、テチ」 「ああそう、それそれデス! 豆枯れ脚みたいじゃないかデス?!」 「オネーチャはわざとやってるテチ?」 「そそそ、そんなことはないぞぉデス」 「ミドリさんの事につきましては、非常に難しい説明を要します。 ただ今はとにかく、皆様に、この世界でのご永住を、是非ともご検討頂きたいのです」 「この世界に残ると、どんないい事があるデス? そこんとこ重要デス」 ミドリが尋ねると、女王はエルメスに向かって軽く頷く。 すると、エルメスの操作により、ミドリ達の眼前に半透明の映像が浮かび上がった。 「これはおうちテチ! すっごく豪華なおうちテチ!!」 「ご、豪邸デス! も、もしかして、これをくれるデス?」 「オネーチャ! そんなわけないテチ! 図々しいと失礼なんテチ!」 ヨダレダラダラなミドリと、それを戒めるぷちに向かって、女王はにっこり微笑みながら—— 頷いた。 「デェッ?! ま、マジデス?!」 「テチャ?! き、きっとプラモデルテチ! おうちのプラモデルなんテチ!」 「敷地800坪、三階建て地下二階、駐車場付きです。 勿論、ご不満でしたら更に大きな物件もご提示可能ですよ」 「女王様! おお、麗しの女王様! ワタシは貴方様の永遠の下僕でございますデスゥゥゥゥ!!」 「テェェ?! 僅か0.5秒で魂を売り払ったテチィ?!」 「ぷちさん、ご希望でしたら、もう一軒、貴方専用の物件もご用意いたしますよ?」 「女王様、素敵テチ! でも、どうしてそんなに、太っ腹にも程があるテチ?」 「はい、それは——」 ぷちの言葉に女王が返答しようとしたその時、ホール内が突如騒がしくなった。 「何事です! お静かになさい!」 エルメスが厳しい声で叫ぶも、騒ぎは一向に治まらない。 やがて、ホールの入り口付近に居た実装石達が、慌てながら走り寄って来た。 「も、申し上げます! 謁見ホール内に、侵入者です!!」 「そんな程度なら、お前達で対処しなさい!」 「し、しかし、それが」 「?!」 トトトトトト…… 警備担当の実装石と、その前に立つエルメスの間を、何かが駆け抜ける。 それは、とても小さな実装石だった。 その頭巾には、くっきりと「6」の模様が浮かび上がっている。 「んな?!」 「デ?」 「テチャ?!」 「これは——!」 トトトト…… 呆然とする一同の合間を、我がもの顔で走る小さな影。 それは——初期実装! しかし、初期実装にしては、かなり小型である。 数秒の後、ぷちが奇声を上げた。 「初期実装の子供ちゃんテチぃ!!」 「なにぃ?! ぷち、捕まえるデスッ!!」 「こら〜、子供ちゃん、今度こそ大人しくするテチィ!」 慌てて後を追い始めるぷちとミドリを一瞥すると、エルメスは舌打ちをして、女王の方を向く。 女王は、無言で頷きを返した。 「拘束を!」 さっと右腕を上げ、警備担当の実装石達に命じる。 と同時に、無数の実装石達がわぁわぁと駆け出し——ぷちとミドリを拘束した! 「デ、デェッ?! な、なんでワタシを捕まえるデス?!」 「捕まえるのは、子供ちゃんの方なんテチィ! テェェェン!!」 十数体の実装石に押さえつけられ、二人は完全に身動きが取れなくなる。 さすがは警備担当、取り押さえ方のコツをわかっているようで、体格差のあるぷちでも逃れ られない。 肝心の初期実装の子供は、背後で起きている出来事をしばらく眺めていたが、やがて忽然と 姿を消してしまった。 「やいララァ専用のナントカ! これは一体どういうつもりデス?!」 「テェェン、テェェン、せっかく元の世界に帰れるチャンスだったのに……アレ?」 冷たい眼差しで二人を一瞥すると、エルメスは警備の実装石達に指示を行い、強制的に 謁見の間を退室させてしまった。 「コラァァァ! なんでいきなりこうなるデシャアァァァ?!」 ミドリの怒号が、ホール内に木霊する。 数分後、静寂を取り戻した謁見の間に、女王の声が響いた。 「少々手荒ではありませんか? エルメス。 あの方々は、あくまで丁寧に対応なさいという、MOTHERからの命令ですよ」 「はい、先ほどは、最重要警戒態との接触を拒む為、やむを得ず」 「この後の処置は、あなたに委ねます。 くれぐれも、問題の起こらないよう、細心の注意を払ってください」 「御意」 女王はそっと右手を挙げ、それを合図に、大勢の実装石達が退席していく。 エルメスも、頭を下げると無言で退室した。 警備の実装石達に強制退室させられたミドリとぷちは、最初に宿泊した部屋よりもやや狭い、 真っ白な壁の何もない部屋に入れられた。 乱暴な扱いはされなかったものの、何の説明もフォローもなく閉じ込められたため、ミドリは 怒り心頭状態だ。 「おーい! なんだこの対応の落差はデス?! ワタシ達は女王の客デス!! こんな事していいと思ってるんデス?!」 「テェェ、外から鍵がかかってるテチ。 窓もないから、逃げられないテチ!」 「何考えてるデスあいつらは?! これからどうすれば良いデス、ぷち?」 「テェ……」 さらっと室内を眺めてみるが、ここは出口がないだけで、決して劣悪な環境というわけではない ようだ。 空調もしっかり効いており、決して安物ではなさそうな飲料や食料が詰め込まれた冷蔵庫も あり、なんと着替えやタオル、アメニティ各種を揃えた浴室まである。 その上、スプリングの利いた清潔なベッドまである。 ちょっとした高級ビジネスホテル並の設備で、どうやら不快な思いはしなくて済みそうではある。 ——が、ならば何故、こんな所に隔離されてしまうのか、益々わからない。 「オネーチャ、どうするテチ? 別に悪い扱いではないみたいテチ……でも」 「ここの世界の連中は、もしかしたらワタシ達と価値感が違うのかもしれんデス。 こういう客のもてなし方が正しいと思い込んでる可能性もあるデス」 「そ、それは……」 『あいつらは、だた焦ってるだけデスゥ』 突然、室温が急激に低下したような感覚に捉われる。 と同時に、床から何かがゆっくりと浮かび上がって来た。 とんがった耳、緑色の頭巾、6の模様…… 「初期実装デス?!」 「テェ!?」 『お前ら、しばらくぶりデスゥ〜♪』 「しばらくって、感覚的にはついこの前逢ったばっかりテチ!」 「この野郎! この前はよくも酷い目に遭わせてくれたデス! クソドレイ2号も死んじまったデス! どうするデス! 責任取れデス!!」 「そうそう! さっき子供ちゃんに逢ったテチ! この近くにいるテチ!」 『あ〜、それはどうでもいいデスゥ』 「テ?」 「どうでもいい事あるかデス! 今度という今度は、お前を——」 まくし立てる二人を興味なさげに制して、初期実装は少し早口で話し出した。 こころなしか、初期実装の身体が若干透けているように思えたが、ぷちはあえて口に出さず にいた。 『それより、このエリアは特殊なシールドが張られてて、ワタシもまともに侵入できなくなってるデスゥ』 「特殊なシールドテチ?」 『この世界の連中が“イセリアルフィールド”とか呼んでる、一種のエーテルバリアデスゥ。 さすがのワタシも、あれを潜り抜けるのは、容易じゃなかったデスゥ〜』 「エーテ……ええっと、よくわからないテチィ」 『まあ、ワタシ一人ならなんとかなるデスゥ。 でも今回は、荷物があったから……』 「お前らしくもない弱音を吐くデス」 「なんだか、ちょっとお疲れ様みたいに見えるテチ」 『おっ、わかるデスゥ? わかってくれるデスゥ?』 まるで立体映像のように、物理法則無視で床から出現した初期実装は、ミドリ達をしばし ジロジロ見回すと、手招きをした。 『追出、おいでおいで〜デスゥ』 「うっわ、Gメン75より更に古いネタで攻めて来たデス!」 「オネーチャは、それがわかるんテチ?」 『アイフル大作戦デスゥ、とても懐かしいデスゥ♪』 「まさかの答えが来たテチ!」 「……それで初期実装、ワタシ達にいったい何の用デス?!」 『あっ、今ちょっとダメージ受けたデスゥ?』 「う、うるさいデス! とっとと用件を言えデス!」 初期実装はふわりとベッドの上に座ると、コホンと咳払いをして、語り出した。 『手短に言うデスゥ。 お前達は、あの女王達に捕らわれているクソドレイを救い出すデスゥ』 「捕らわれてるデス? クソドレイが?」 「それって、どういう意味テチ?」 『聞いたまんまの意味デスゥ。 あいつらの言う事を、鵜呑みにしてはいかんデスゥ。 お前達も、自分達の故郷に帰りたいデスゥ? その為には、あいつらの申し出を受けたら絶対駄目なんデスゥ』 「あ、いや、ワタシは……」 「テェ?! 私達、もしかして騙されてるんテチ?」 動揺するミドリとぷちに、初期実装は何かを語ろうとしたが、急に身を強張らせた。 『うぐ、もうこれ以上、無理っぽいデスゥ……』 「初期実装さん? どうしたんテチ? 具合悪そうテチ!」 『こ、これだけは覚えておくデスゥ……。 この世界は、もう崩壊し始めているんデスゥ。 その有様を、お前達の目で、直接見るがいいnデスゥ……アヒン』 最後に変な声を出して、初期実装の映像は、掠れるように消滅した。 取り残されたミドリとぷちは、不安げに顔も見合わせる。 「テェ……オネーチャ……どうするテチ?」 「そんな事言われても、ワタシには何がなんだかわからんデス!」 「私もテチ! でも、クソドレイサンが捕まってるって、一体?」 「あのスカポンタン、いったい何をしでかしたデス? しょうがない、この質実剛健電光石火、猪突猛進焼肉定食なこのミドリ様が、デデン! とあのクソドレイを救い出してやるデス!」 「焼肉定食?」 「よーし、そうと決まったら話は早いデス!」 そう言うと、ミドリはベッドにボフッと飛び乗った。 「何か考えがあるテチ? オネーチャ? 「何とかしてここを抜け出して、外の様子を見に行くデス。 初期実装が言ってた事も気になるデス」 「この世界は、もう崩壊し始めているっていうお話テチ?」 ぷちの呟きに、ミドリは頷いた。 「その話が本当なら、そんな世界に住めなんて薦めてきたあのエメナントカ女王は、とんだ 食わせ物ってことになるデス!」 ブヒー!! と鼻息を噴出し、ミドリは拳……否、腕を挙げて力説した。 「それより、私は別な事が気になるテチ」 「デェ? 何のことデス?」 不思議そうに尋ねるミドリに、ぷちは頬に指を当てながら答える。 「初期実装さん、あの話し方だと、まるでさっきの女王様のお話の場に居たみたいテチ?」 「あいつのことだから、どこかに隠れていたんじゃないデス?」 「でも、あの時、初期実装の子供ちゃんが出てきたテチ?」 「そうデス。それがどうしたデス?」 「じゃあなんで、初期実装さんは、あの時子供を自分で捕まえなかったんテチ?」 「アリャ? そういえばそうデス?」 「あんまり沢山の実装石が居たから、それどころじゃなかったんテチ?」 「あいつが何を考えてるのかは、もう全然わからんデス。気にしたらきりがないデス」 「テェ……それもそうテチ」 そう呟いて、ぷちも、ミドリの真似をしてベッドにぼふっとダイブした。 「陛下、ご覧になりましたでしょう? あれが、弐羽としあき殿に寄生している、“ミドリ”という実装石です。 あのような下品極まりない個体は、この世界に相応しくないと思われますが——」 ここは、先ほどミドリとぷちが通された、謁見の間。 現在は人払いが行われており、エメラルデス女王とエルメスの二人しか居ない。 玉座から無言で見下ろす女王に向かい、エルメスは更に続ける。 「あのミドリという個体は、既にジオ・フロント内に於いて、暴行事件を起こしています。 被害者は、全治一週間の大怪我を負っています。 私はむしろ、あの個体の追——」 エルメスがそこまで口にした途端、女王は突如立ち上がり、声を荒げた。 「エルメス! 言葉を慎みなさい」 額に青筋を浮かべ、女王は鋭い眼差しでエルメスを睨みつける。 「これは全て、MOTHERのご意志によるものです。 貴方は勿論のこと、私であろうとも。 この件については、口を差し挟む事は許されません」 「し、しかし! 女王陛下!!」 食い下がるエルメスに、女王は今度は表情と声を和らげ、まるで子供を諭すように語り掛ける。 「この世界は、MOTHERにより構築された、高度かつ万全な統治システムが成立しています。 それは、判りますね?」 「は、はい」 「それは、私や貴方の理解が及ぶような物ではありません。 まさに神が構築した、森羅万象あらゆる物事を総て統治する程の“大いなる力”なのです」 両手を大きく広げ、まるでオペラでも演じているかのような大仰な仕草で、女王は熱く語り 続ける。 エルメスの吐き出した、小さな溜息にも気付かずに。 「ですが陛下、あの者達は、最重要警戒態にマークされています。 このままこの世界に、あの者達を滞在させるという事は、最重要警戒態をも滞在させる事に なるのですよ?」 「……」 「それは、MOTHERのご意志にも反する事になる筈です! 陛下、どうか、MOTHERにご提言を!」 「——同じ事を、二度言わせるのではありません。エルメス」 女王はそう呟くと、静かに玉座に座り、エルメスに下がるように示す。 それを受け、エルメスは……眉間に皺を寄せつつ、頭を下げて後退した。 (話にならん……! 所詮は、ただの傀儡か!) 謁見の間を後にしたエルメスは、早足で回廊を進みながら、携帯端末を取り出した。 「もしもし。——ああ、私だ。 大至急、第二十九か三十番会議室をリザーブ。そして、オルカを呼びなさい。 ——ああそう、Desieveのオルカだ。 現在の業務は、中断させて構いません」 早口でそう告げると、携帯を切ろうとして、再度こめかみに寄せ直す。 「そう、ミドリ様とぷち様も、ご開放して差し上げなさい。 ——ええそう、もう、警戒態勢は解除で、とお伝えの上で。 くれぐれも、粗相のないよう、慎重に対応を——」 「ねぇ、マリア?」 突然としあきに呼びかけられ、マリアはびくっと肩を震わせる。 「はい、なんでしょう?」 「そういえば俺、いつからここで、こんな風にしているんだっけ?」 不思議そうな表情で尋ねてくるとしあきに、マリアは満面の笑みを返す。 「もう、ずっと、ですよ」 「ずっと? それって、どのくらい?」 「えっと、それは——」 「っていうのもさ。なんか俺、何かをしなきゃならなかったような気がするんだ。 それも、出来るだけすぐに——それって、何だったかな?」 尚も首を傾げるとしあきに、マリアは笑顔で近づき、肩にそっと手を置く。 「それは、もうずっと以前に、終わられたことです」 「もう、終わった?」 「はい、そうです。 ご主人様は、これまでとても長い間、大変なお仕事をされて来ました。 でも、今はもうそれも終えられて、このようにゆっくり過ごされているのですよ」 「そうだったかな」 「ええ」 笑顔を返しながらも、マリアの胸中は不安が渦巻いていた。 としあきは、明らかに納得していない顔付きだ。 まだ……まだ足りないのか。 「あ、そうだ! 俺、五日間——」 「ご主人様!」 マリアは短く叫び、突然、としあきに抱きついた。 大きなバストが、容赦なくとしあきの顔に押し付けられる。 不自然なほど大きく歪む乳房の弾力に、としあきは言葉を失った。 「ま、マリ……まさかこ、これ、ノーb」 「——抱いて、ください」 「へ?」 「ご主人様、どうか私を、抱いてください」 「え……えっと」 エプロンの紐が解かれ、はらりと床に舞い落ちる。 ジッパーの下がる微かな音、衣擦れの音、少しだけ乱れた二人の呼吸音。 やがてそれは、大きなシーツの掠れる音へと、変化していく—— 完璧なまでの美しさを誇る、マリアの白い肢体。 それを真正面から見つめるとしあきの顔からは、もう困惑の色は抜け落ちていた。 「ご主人様、来て……」 「ああ、マリア……あ、じゃなくて、ぷち?」 「?!」 「え? あ、あれ? ぷちじゃない? えっと、君、誰? ここ、何処なんだ?」 「そんな! また……まだ、駄目なんですか?!」 「え?!」 急に我に返ったように周囲を見回すとしあきに、マリアは、今にも泣き出しそうなせつない 顔を向ける。 裸体にシーツを手繰り寄せ、少し恨めしそうに、としあきを睨む。 (こんなにも、ご主人様の心の中に——) 次の瞬間、周囲が凄まじい閃光に包まれた。 余りの光量に、としあきは無意識に腕で顔を覆ってしまう。 「ぐぁ?! な、なんd……」 (なんとしても、ご主人様の心の中から、あの二人の記憶を抹消しなくては! そう、たとえ……ご主人様の記憶を改竄しても! そうしなければ、ご主人様を——救えない!!) 白い壁のベッドルームが消滅し、何もない暗黒の空間が現れる。 その中に浮かんで横たわっているとしあきを一瞥すると、マリアは、重い溜息を吐き出した。 やがて、マリアの姿も宙にかき消えていく。 暗黒の空間に、重苦しい機械の重低音が響き始めた。 “MOTHER……MOTHE、私の声が、届いているでしょうか?” 暗黒空間に、突然、実装石の肉声が響き出す。 『何事ですか、エメラルデス?』 “はい、私の部下より、提言がありました。 弐羽としあき様とミドリ様、そしてぷち様の御三名。 この方々を、本世界外へ追放すべきでは、と——” 『何を愚かな。 それでは、私の思惑が総て無に帰すではありませんか。 却下します』 無感情な返答に、実装石……エメラルデス女王の声が、尚も食い下がる。 “しかし、あの三名は、最重要警戒態にマークされております。 事実、最重要警戒態は、既にジオ・フロントの中枢エリアまで侵入しました。 このままでは、本世界への影響が無視出来なくなると考えられます” エメラルデス女王の少し焦りの色を含んだ声が、闇に木霊する。 しばらくの間を置き、マリアの——否、何者かの声が、静かに応えた。 『エメラルデス、お聞きなさい。 この世界はそもそも、あのお方……達を受け容れるために、私が三百年もの月日を費やして 構築した物です。 それは、貴方も、貴方の祖先達も、皆が理解している事の筈ですね?』 “は、はい。それは、確かに” 『私がこの世界を構築した目的が、三百年もの長き刻(とき)を経て、今ようやく果たされようと しているのです』 “はい……おっしゃる通りです” 『いわば、貴方をはじめ、大ローゼンの者達全員にとっても、念願が叶う瞬間を向かえるのです。 その大儀を、たった一体の曲者のためだけに、むざむざ破棄することは出来ません』 “……はい” 『何としても、最重要警戒態の干渉と妨害を防ぎなさい』 これ以上は何も言うな、といわんがばかりの迫力で、何者かの声は、女王を突き離す。 そして、女王の声がこれ以上響くことはなかった。 (そう……三百年、あまりにも永かった。 ——ご主人様、もうすぐですよ。 私と貴方の“永遠の楽園”は、もうすぐそこに——) →NEXT