——ああ…音がする…どこで遠い音がする… 仔実装は頭のどこかでぼんやりとそんな事を考えながら機械的に腕を振り下ろした。 もう何十発目かわからない、体重の乗った一撃。 血飛沫…は飛ばない。所詮は仔実装のパンチにそんな勢いはない。が、代わりに哀れっぽい悲鳴が飛んでいく。ただしそれは小さく、もはやか細い。 決着はほぼ着いた。これで今日も生き延びられる… //※// 歯を全て抜かれ、服も髪もない仔実装が二匹、半円状のガラスの中砂を敷いただけの小さなリングの中央でもつれあっている。 殺し合いだ。 互いが互いの全存在を賭けた殺し合い。 全身血みどろ泥だらけになりながら、全力で、一切の容赦も同情も妥協もなく、相手の存在を否定しあう。 歯のない仔実装の戦闘力は、実質皆無と言ってよい。 武器はウレタンのような四肢だけである。 それで、殺すべき相手の体も衝撃を吸収するウレタンとあっては、仔実装のか弱い筋力でどんなに殴ってもダメージなどたかが知れている。 だが、それ故に、その殺し合いとなると、凄惨を極める。 制限時間15分。 その間にどちらかが死ななければ二匹揃って殺される。 摘出された偽石が砕かれるのだ。 となれば、仔実装は必死だ。 腕の皮が剥がれ肉が裂けて骨が覗こうと、殴る。歯を食いしばって殴る。痛くても殴る。死にたくないから殴る。 同じだけ殴られる。 結果見事相手を叩き殺してその日の生存権を勝ち取った仔実装が、直後に出血多量で死んでしまうという事も珍しくない。 だが誰も気に留めない。 誰にも褒められず、何も得られず、勝ってただ生き、負けてただ死ぬ。 その様をリング脇で食事を取りながら見るともなく客が見る。 賭けにされるというような事はない。それどころか注視される事すらない。誰にも必要とされず、ただ無為に命が使い潰されていく。命の浪費。 目の前の個別の惨劇ではなく、この場所のそういった有り方そのものを客は楽しむ。 それがここ実装レストランだった。 //※// 仔実装が一匹、仔実装用の通路を歩いている。 先ほどの仔実装だ。 5分を残して余裕の勝利。勝者の凱旋である。リングの明かりがその勝利を称えるように背中を照らす。だが仔実装の足取りは重い。 疲労はある。もちろんある。だが仔実装の足取りを重くするのはそれだけではない。 良心の呵責や罪悪感に苦しんでいるのだろうか?いいやそんな事はあるはずもない。そんな不純物を抱えた出来損ないは、ここではいの一番に消えていく。 仔実装は歩く。リングの光は次第に届かなくなっていく。さっき聞こえた遠い音、人間達の食事の音も、今はもう聞こえない。薄暗い通路。ただ歩く。曲がる。歩く。曲がる。 途中で同じ境遇の仔実装とすれ違ったが、お互い挨拶もない。狭い通路でぶつからないよう肩をよじるだけだ。 歩く。歩く。歩いて…着いた。仔実装の部屋。 素っ気無く「209」とだけ書かれたナンバープレートが打ちつけられているだけの、冷たい扉を見上げて、間違いがない事を確認すると、扉を開ける。 実装石の手ではドアノブは回せないので、扉は横開きのキャットドアのような作りになっている。押すとキイと軽い音を立てて開く、それだけの簡単な取り付け。 中に入ると仔実装は鍵をかけた。公衆トイレのドアにあるようなスライド式のやつである。これなら実装石の手でも問題なく開け閉めできる。 盗られるようなものは元からない為、外出時には鍵の心配はしない。 だが自分が中にいて油断している時に突然襲われては敵わない。 基本的にその日誰と戦うのかは殺し合いがまさに始まるその瞬間まで仔実装達には知らされないから、試合前に敵を奇襲して痛めつけるというような真似はできないはずで、 だから、鍵を閉めるという行為は単に精神衛生上の「遊び」に過ぎない。 とまれ、鍵を閉めて、やっと仔実装は息をつく。狭く薄暗くこの時期は寒く、何もない部屋だが、それでも仔実装に与えられた唯一自由な空間である。 ごろりと横になる。泥のような息を吐く。 「テチ…テチ…テチ…」 仔実装は疲れていた。心の底から疲れていた。それは砂のような実装フードを食べて一晩眠れば回復するような肉体的な疲労などではない。魂の疲労だった。精神が参っていた。 殺しあうのはいい。生まれた公園でも殺し合いは日常だった。だが…ここには、未来がない。今日しかない。 公園でも明日を考えれるほどゆとりある生活なんかではなかったけれど…辛かったけれど…それでも、母がいて、姉妹がいて、私たちは成長していて、いつか大きくなって家を持ち、子供を生むのだと、幸せになれるハズだと、そう信じる事だけはできた。 けどここにはそれもない。今日は、また、生き延びられた。それはいい。だが明日は…?明日生き延びられてもその次の日は…?その次は…?その次は…?その次は…? 考えるほどにムカムカと、胸の中に瘧が現れはじめる。それは仔実装の小さな心臓を圧迫し、全身にチリチリとした痺れをもたらす。鳥肌が立つ。涙が止まらない。次第に耐えがたい苦しさになり胸をかきむしるが、腫瘍は胸の奥の奥、体のどんな臓器よりも奥まった場所にある。取り出そうにも手の届くはずもない。 希望が欲しい。希望が欲しい。 うつ伏せに小さく縮こまって、なお体を圧縮するかのように両腕で体をかき抱きながら、とめどなく涙を流しながら、渇望する。 痛くてもいい。苦しくてもいい。餓えにさいなまれようと耐えられる。どんなに侮辱されたって平気だ。いいや、死んだって、構わない。 ただ希望が欲しい。今日生きる自分の命が、明日に繋がっていくという確信が。何かを残しているという喜びが、欲しい!欲しい!欲しい! こんな所でこんな風に何もないまま死ぬのは嫌だ… 考える程に苦しむ程に胸の瘧は重く大きくなっていく。思考するのは駄目だ。考えを止めないといけない。それはわかっている。だが止まらない。自分自身に知らんぷりなんてできない。 そうして仔実装は際限なく心のぬかるみに嵌っていく。喘ぎ疲れて体が勝手に電源を落とす朝方まで、仔実装の慟哭は止むことはない。 せめて偽石がその体の内にあれば、無念ではあっても苦しみの極致ではあってもそれで終わりにはできただろうに。 それともあともう少し心が磨耗すれば…苦しむ事もなくなるのだろうか? //※// 少し周りを見ていけば、同じような仔実装がいくらも見つかる。 208号室の仔実装は同じように部屋の真ん中でのたうっている。207号室の仔実装は部屋の隅でうずくまってただただ涙を流している。210号室では無駄な脱走計画を精神の支えとして壁の一角を殴り続けているし、211号室では…ああ、ここは先ほど仔実装がすれ違った仔実装の部屋だ。まだ空っぽなのを見ると、どうやら住人はここから出て行くことができたらしい。 その隣を見ても隣を見ても隣の隣の隣を見ても同じような仔実装がどこどこまでも並んでいる。際限なくいる。膨大にいる。 それら仔実装達の怨嗟の声、運命への呪いが、尽きせぬ血涙が、 人間を喜ばせる。 //※// 愛しい愛しいお前たち、お前たちの絶望こそが極上の肴となって、面白くもない泥酒を天上の美酒にも変えるのだ。 造作もなく死んでいく 何も残せず死んでいく 無意味な一生を無意味なままで終えていく。 その無意味さこそが、お前たちの生きる意味。存在理由。 さあ今日も死んでおくれ意味もなく。生きておくれ意味のないまま。 それでこそお前たちは光り、輝くのだから。