タイトル:【観察】 楽園のできるまで
ファイル:楽園のできるまで.txt
作者:匿名 総投稿数:非公開 総ダウンロード数:12021 レス数:3
初投稿日時:2007/09/15-07:33:22修正日時:2007/09/15-07:33:22
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祖父から受け継いだ小さな一軒家と、小さな裏庭、それらをぐるりと囲んだコンクリートの塀。
そんな我が家の縁の下、雨宿りをしている実装石を見つけた。

実装石は痩せこけてボロボロの服を着て頭からずぶ濡れだった。
寒さと空腹の為か体をぶるぶると震わせて、いかにも住処を追われた難民の風体である。
そんな実装石がぼくの姿を認めると、肩を怒らせ毛を逆立てて、声を張り上げ威嚇をはじめる。
それは発情期の猫と食用蛙を混ぜたような濁声であった。
ぼくこそが実装石が遠ざけようとしている当人ではあるが、それを忘れてしまうくらいに、
実装石は弱々しい。
ぼくが実装石を捕食する類の生き物であるなら、舌なめずりのひとつもするところだ。

特に動じる気色を見せないぼくを見て不安を覚えたのか、実装石はもうひと鳴き、
ふた鳴きを加える。
それで鳴き声は打ち止めらしく、あとはその眼光と剥き出しの歯茎と消え入りそうな
唸り声に頼る他ないようだ。
傍から見ても、身を守る手立てとしては頼りない。
しかし、弱味を見せられるとつい構いたくなるのが人情である。
結果的に実装石のあからさまな虚勢は、その身を助けることになった。
もしも実装石の威嚇が思うままの効果を及ぼしていたなら、ぼくはこの生き物を家の敷地から
速やかに追い出してしまっていたろう。

家の中からレンジで温めたミルク皿を持ち出して与えてみることにした。
弱った動物には当然、暖めたミルクと相場が決まっている。
ミルクを用意している間に、実装石は暗がりで妙に大人しくなっていた。
どうやら、ぼくに対する威嚇で最後の力を振り絞ったものらしい。
だけども、警戒の意思を和らげるつもりはないようで、鳴き声こそたてないものの、険しい
顔つきでぼくをにらみ付ける。

そんな視線の先に、暖かなミルクで満たした皿をそっと置いてやる。
甘いミルクの匂いは空きっ腹には効くことだろう。
実装石もその例に漏れず、弛緩した口元からだらだらと唾液がこぼした。
それでも、皿とぼくとを見比べるように視線を上下させ、警戒の気持ちから素直に皿の中身に
ありつくことができないようだ。

しばらく放っておくことにした。

本をパラパラとめくって三十分、再び縁の下を覗いてみた。
そこには空になった皿と寝息を立てる実装石の姿があった。
使い古しのくたびれたタオルをその体に被せてやると、「デスゥ」と小さく呟いて胸元にたぐり寄せ、
タオルのかたまりを抱くようにして実装石は規則的な寝息をたてはじめた。

こうして、実装石は縁の下に住み着くようになった。




ぼくは一日に二度、空になった皿に食餌を盛った。

食事のおかげか顔や体つきは短期間で見違えるようになった。
萎んで皺がよった生成の紙風船のようだった表皮が、ほのかなピンクに色づいて見違えるように
張り切り、分厚いゴム鞠のよう膨らんだ。
衣服は相変わらずボロ布の体であったが、汚れを落とされ自らの体毛と体液で繕いをして、
どこか清貧な佇まいでさえある。
使い古しの藁箒のようだった髪束は、不器用そうな手でどんな手品を使ったものやら
手芸品屋の棚にあればつい手にとってしまうであろう、肌触りの滑らかそうな毛束に変わっていた。

それだけに、尻に敷かれたタオルのお粗末さが際だつ。
タオルは出会ったその日に与えたまま、ついぞ取り替えることができないままでいる。
元々くたびれていたのが、今や使い古しの雑巾同然である。
庭にある祖父の手仕事で造成された小池、そこで衣服共々洗濯しているところを窓越しに見かけるが、
体の清拭にもタオルは使われているようだ。
安手のタオルは敷物や寝布団や垢取りに酷使されて長く持つものではない。
端から解れて裂け目をきたし、いまにも千切れてしまいそうだ。
新しいタオルを与えてみても、受け取ろうとはしない。
食事の要領で縁の下に置いたまま離れてみても、そのまま打ち捨てられている。
どうやら、ぼくからは食事以外の施しは受けないつもりらしい。

それでもなんとか、古いタオルが四散する前に新しいタオルを与えることができた。
原点回帰とも言える方法で、寝ているところにタオルを被せてやっただけのことなのだが。
寝ているうちに肌身にしていたものは実装石からしてみれば降ってわいたような代物らしく、
抵抗もなく受け入れた。
おかげで、三枚のタオルが縁の下で新たに用いられる運びとなった。
三交代で使用されるタオルは三倍以上にも長持ちした。

やがて実装石は図鑑に載っているそのまま、欠けたところのない見本といっても差し支えない姿になった。
そんな実装石が庭をはしゃぎ回って遊んでいるところを縁側から眺める。
ここに来た当初はぼくの姿を認めればすぐさま縁の下の暗がりに逃げ込んでいたものだが、ふた月も経てば
賄い主に対してそう敵愾心を維持し続けるのも難しいらしい。
ヒラヒラと庭に迷い込んだ白い小さな蝶を追い、実装石は走る。
ぼくはふた月も世話をしてきた生き物に対して、何の愛情も感じられないことに頭を傾げる。
今まで頭をひと撫でするどころか、触れたことすらないのだ。

遊び飽きた実装石が小走りに縁側の方へ駆けてくる。
ぼくの足下に来ると、口元に手をあてて頭を傾げる。
ここのところよく目にする姿勢だった。
放っておくと、うなだれて縁の下の寝床へ帰っていく。
どうやら犬が尻尾を振るように愛玩動物としてぼくにアピールしているらしいのだが、
ぼくは実装石を鑑賞動物として以上に受け入れる余地がない。
それは水槽に飼う魚のようなもので、抱いたり撫でたりはもちろん、布団に持ち込んで一緒に
眠るような類のものではない。




庭に雑草が目立つようになった。
どうやら、地面を掘り返して排泄をして再び土で蓋をする実装石の生活習慣による副産物であるらしい。
掘り返されて柔らかくなった土壌と、根本の豊富な養分で雑草は気持ちよく背丈を伸ばすことができるようだ。

軍手をはめて腰を屈めて青々とした草を抜く、抜いた草はゴミ袋にまとめて、ゴミの日に出す。
剥き出しの肥沃な土壌だが、放っておけば雑草ばかりがのさばるだろう。
そこでホームセンターの園芸コーナーで適当な種を何袋か見繕い、庭に蒔くことにした。
結局雑草に埋もれるにせよ、色が混じれば華もあろう。

一仕事を終えて家の中でくつろいでいると、庭から「チュンチュン」やら「デスデスゥ」やらと賑やかな声がする。
覗いてみると、蒔いた種に小鳥が群がり、それを実装石が追い回している。
実装石というのは見た目通りに鈍重でいて、地べたをかけるスズメに追いつくことすら覚束ない。
まして、羽ばたいたかと思えば瞬時に頭上を飛び越す小鳥の軽業の前では、言わずもがなだ。
それでも、肩にスズメをとめてやるようなカカシよりかは鳥よけになるだろう。
せいぜい、蒔いた種の一粒でも実ればいいのだが、期待はしないでおこう。

再び雑草が繁茂しだした頃、目に痛いほどの緑色をした強靱な雑草に混じって明らかに種類の異なる、
柔らかな茎と色をした蕾を見つけた。
どうやら、種を蒔いた成果が顔を出しはじめたようだ。
雑草の陰に隠れて気づかなかったが、三袋分の種の半分以下にせよ、結構な数がある。
果たして、無事に開花してくれるものだろうか。
雑草の陰にいては、それもままならなるまい。

重い腰をあげて、再度の草むしりに取り組む。
実装石はといえばペタペタと間近に寄って来て、ぼくの手元を覗き込む。
そのまましばらく、実装石の監視の下、草をむしった。
よく飽きもしないでこの単調な作業を眺めているものだと思っていると、いきなり目を見開いて空を仰ぎ、
ポンと手を打ち合わせた。
何かを合点した様子だ。
実装石はぼくの隣にかがみ込むと、同じように草を手にして、引き抜こうとしはじめた。

根深い草を引き抜くのは大人にでも結構な力仕事だ。
非力な実装石であれば、真似をしてみたところで空しく葉を千切るばかりである。
中には縁の鋭い草もあり、柔弱な実装石の皮膚はその上で滑らせて切り傷をつくった。
実装石は悲鳴をあげてへたり込み、手の先から滴る赤と緑のまだらな体液を見、傷口を
短い舌でペロペロと舐める。
体液が除かれた跡には、ほのかな赤い筋だけが残った。

プラナリアも裸足の便利な体だ、こいつを使って蝦蟇の膏でも商えば一財産築けるだろう。
もちろん、実装石のことなど誰も知らない時代であればの話だが。
退屈な単純作業の気晴らしに、刀で滅多斬りにされた実装石が衆人環視の中で蝦蟇を
けしかけられる場面を想像した。

耳元ではしゃぐ実装石の声で、忘我から目を覚ます。
いつの間にか、手が止まって頭の中の絵造りに我を忘れていたらしい。
声の方に振り向くと、あまりに顔が近いので思わず飛び退く。
立ち上がったぼくに実装石が得意そうに掲げて見せるのは、柔毛のような根も露わな淡い緑の若芽だった。




いくらかの芽は残り、背丈を伸ばして葉を拡げ蕾を膨らませ、開花の運びとなった。

種の袋は捨ててしまったので、この花を何と呼ぶのかは知らない。

何にせよ庭に蒔いた種のうち、花を咲かせたのは三本切りだった。
この種の花は、蒔かれたことも忘れられ、庭の表土に蒔かれたまま雨ざらしにされ日ざらしにされて
放っておかれても尚、地に根を張り茎を伸ばす壮健な品種であるようだ。
壮健さの代償に見栄えこそパッとしなかったが、花は花である。
再び生え揃った雑草の絨毯にささやかな色合いを加えた。

さて、そんな庭の華やぎのおかげで実装石は当然のように妊娠をした。
実装石の生殖に関しての知識は、そうなってから聞き及んだのだが、かなりの不意打ちであった。
それを見て、最初は妊娠という考えに至らず、栄養過多による内臓肥大か便秘によるガスの破裂の兆候か
寄生虫の夥しい増殖ではないかと疑ったものだ。
元々妊婦のようにでっぷりとした腹の肉付きをしているのだ、さもありなん
花が枯れ落ちた頃、カエルのような腹を抱えた庭の妊婦は、小池の側に浅く穴を掘った。
そこへ水を注いで、水たまりとも泥沼ともつかない代物を造っていた。
小池の縁は川石で固められている。
溝を掘って池から直接水を引くことはできないらしい。
実装石は水面へ腕を差し込み、櫂のようにして水を跳ね上げ、浅い窪みに降らせた。
身重にも関わらず珍妙な水遊びをするものだと思っていたが、どうやらそれは実装石の本能からくる
必然の仕事であるようだ。
実装石の出産には、柔弱な嬰児を受け止める浅い水場か柔らかなクッションが不可欠らしい。
つまるとこ、実装石のお産はもう間近であるということだ。

実装石は三匹の子供を産んだ。
二匹は親の実装石をそのまま十分の一に縮小したような、いかにも子供の実装石、いわゆる仔実装だった。
そしてもう一匹だが、こいつは他の子供よりも一回りも小柄だったせいか、母体からポンと
飛び出した勢いで水たまりから飛び出し、小池に転がり落ちた。
そのまま沈むかと思われたが、水よりも比重が軽いようで、プカプカと浮かんだままでいた。
母親はそんなことも知らず、股座でテチテチと産声をあげる子供達の羊膜を舐め取っていた。
それが終わってはじめて、水面に浮かんでか細い声をあげる、もう一匹の我が子の存在に気がついた。

庭一杯に響く悲鳴、子供たちもその体格に合わせて、母親の悲鳴に伴奏を加える。
実装石は慌てて小池に飛び込んだ。
喫水線は実装石の口元よりも少し下、顔を空に向けて黒目を下げて、我が子を求めて水をかき分け進む。
しかし実装石自身が引き起こす波によって、仔実装は一歩進む毎に遠ざかる。
池の縁に引っかかった仔実装をやっとのことで捕まえたのは、半時も経った頃だった。
右も左もわからない子供たちは、水たまりで泥人形のようになって泣き喚いている。
まだ授乳すら済ませていないのだ。
実装石は裾をからげて乳房をあてがい、子供たちが吸うにまかせて助け出した子の羊膜を舐め取る作業にかかる。

二匹が満腹して安らかな寝息を立てはじめても、末っ子の膜は取れずにいた。
時間の経過と共に仔実装の全身を覆う羊膜は固着したようで、これがいわゆる蛆実装というものであろう。
そんな蛆実装は自らの悲運を知るよしもなく、母の舌遣いにくすぐったそうに身をよじらせる。

実装石がようやく出産の不首尾を認めて、その証を投げ出したのは、夕暮れ時のことであった。
蛆実装は白目を剥いて末尾をピクピクと痙攣させ、仰向けのまま自ら動こうとはしなかった。
生まれたての身で水遊びと長時間に渡るくすぐりによる疲労、未だ初乳を受けていない
空腹によって死にかけているらしい。

こうして庭には一匹の実装石と二匹の仔実装、そして何とか生きながらえた一匹の蛆実装という構成の
一家が住まうことになった。
実装石の出産劇はなかなか楽しい見せ物ではあったが、本人はといえば愛児の誕生に喜ぶ暇もなく、
疲労困憊の体だ。
ふらふらとした足取りで泥だらけのまま水たまりに残された子供達を縁の下に敷かれたタオルの上に移し、
自らも腰を折って縁側を潜って寝床に帰ろうとしていた。
その際、実装石は縁側に座って一部始終を眺めていたぼくのことを見上げた。
眼の周りの筋肉が引きつり、口元を震わせている。
その表情は、出会ったばかりの実装石を彷彿とさせた。
あの実装石も、今や三児の母である。
そう言えば、あの頃はぼくの姿を見る度に背筋を伸ばしたまま縁の下に駆け込んでいたっけ。
思えば大きく育ったものだ。
もう伸びしろもあるまい。



   ***



育ちきった実装石に対する興味は急速に薄れた。

仔実装の成長にしたところで、多少の差異はあれども親のそれの再現に過ぎない。

ぼくの関心は蛆実装一匹に絞られることとなった。

奇形個体である蛆実装は体だけでなくオツムにも異常をきたしているらしく、他の二匹の仔実装に
比べれば明らかに知能が劣っていた。
二匹が手ずから餌を食べるようになっても、蛆実装は親の口中で噛み砕いた流動食しか受付なかった。
二匹が親に倣って庭に掘った穴に排泄しだしたのに、一匹だけはいつまでも食べた先から排泄をはじめ、
自らの糞の中で転がりまわって嬉声をあげる。
親子が仲むつまじく庭で遊んでいる間、一匹だけ同じところをぐるぐると這い回ってレフレフと喘いでいる。
二匹が親の胸ほどの丈になっても、蛆実装はやっと拳大といったところだった。

そこまで育った蛆実装だが、体重の増加によって生まれ持った障害に加え、歩行に支障をきたすようになった。
這いずるだけで腹部が地べたで擦り切れ、裂けてしまうのだ。
しかも当人は一向に平気らしく、親が気づかなかったら腹の中のものをあらかた庭にぶちまけてしまったことだろう。
身体と頭だけでなく、神経までも発育が遅滞しているようだ。
それからというもの、蛆実装はタオルにくるまれ親に背負われ暮らすようになった。

こうして、ぼくは蛆実装に対する興味も失う。

変化に乏しい穏やかな日々の中で、ぼくは実装石たちのことを忘れがちになる。
タオルの代えを与えることはもちろん、空の皿を満たすこともだ。

久しぶりにガラス戸を開いて庭を臨めば、雑草だらけの庭があり、ポンプの壊れた小池は実装石の糞のような
藻の緑色に染まっていた。
そして、背の高い雑草の中で這い蹲って、もぞもぞと動いている三匹の姿。
蛋白源に虫でも探しているのだろうか。
親も子ももうほとんど背丈は変わらず、見分けはつかない。
痩せてこそいないが、皮膚は汚らしい黄土色に変色している。
衣服は汚らしい染みが無数に貼り付き、虫食い跡のようだ。
そして、草むらで揺れるどの背にも蛆実装の姿は見あたらなかった。

家の囲いの戸は押せば開くようなもので、逃げだそうと思えばいつでもこの庭から逃げ出せるであろう。
こちらとしても賄いをさぼり続けているので、文句を言えた筋ではない。
にも関わらずここに留まるということは、路上や公園というのはここ以上に暮らしにくい場所らしい。
だからこそ、外からここへ逃げ込む輩もあるのだろう。
夜露を防ぐ縁側があり、外敵を防ぐ頑丈なコンクリートの囲いもある。
それに加えて賄いつきともなれば、天国の心地であったろう。
賄いこそ無くしたものの、それでもまあ、ここは楽園くらいのつもりでいるのかも知れない。




夏期休暇で実家に帰った折、家族会議で祖父の遺した家を処分しようという話が持ち上がった。
区画整理で破格の値札をつけられたらしい。
どうして現所有者である筈のぼくでなく実家の方へ話が行ったのかは釈然としないが、きっと相続税の
出所によるものであろう。
あの家の持ち主が本当にぼくであるのかも、こうなっては怪しいものだ。

ぼくとしてはその代価の五割に労せずありつけると知るや、反対する理由はなかった。
五割と言っても見たこともないような大金である。
親のスネに齧り付いた放蕩学生の身としては、もう五割を掠められたことに異議を挟む余地はなかった。

まとめて持ち出すべき荷物の倉庫に過ぎない我が家に帰ってきたときには、一ヶ月が過ぎていた。
早ければ再来月にも打ち壊され、更地にされる場所だ。
それを思えば、多少の感慨は覚えるというものだ。
家を眺めようと玄関から庭に回ったところで、ここが実装石たちの住処であったことを二週間ぶりに思い出した。
実装石愛好家の友人に実装リンガルを押しつけられ、その時ふと実装石が庭にいたっけなと頭を過ぎったのが
二週間前のことだ。

庭には野性味を増した三匹の実装石がいた。
襤褸を纏い毛髪を振り乱したその姿に、軽い既視感を覚えた。
それらが足下に寄ってきて、手を振り上げデスデスデスデスと喚きはじめた。
貰い物の実装リンガルは万歩計ほどの大きさで、受け取った時のままライターやら十徳ナイフ共々カーゴパンツの
ポケットに収まっていた。
この場でそれを用いることをしない、好奇心の欠落した人間が果たしているものだろうか。

リンガル自体には表示装置もスピーカーもついていなかった。
ただ、黒いプラスチック製の筐体に商品名とマイクらしい穴、スライドスイッチ、ダイオード、側面から
飛び出した汎用端子があった。
携帯電話の拡張端子に差し込み、スイッチを入れる。
すると携帯は外付けしたリンガルを認識し、当該のアプリを自動的にダウンロードした。
その間二秒。
画面が切り替わって実装リンガルの操作メニューが表れる。
メニューには[翻訳][履歴][機能]とあり、翻訳を選んでボタンを押し込む。
すると、画面は白紙となり、下端に[通話ボタンを押すと翻訳開始!]とガイドが表れた。
ぼくはガイドに従う。

『やっと表れたデスねニンゲン!』
『どれだけ待たせるつもりデスかバカニンゲン!』
『詫びを入れるデス! 土下座するデス!』

白い画面は次々と文字で埋められていく。
小さな画面で追うのは正直しんどい。

『なにを突っ立ってるデスか、ワタシの話を聞いてるデスか!?』
『おバカなニンゲンにはワタシタチの言葉は難しすぎて解らないかもデス』
『だったら実力行使デス、体に教えてやるデス!』

足を殴られた。
痛くない。
猫の尻尾で叩かれたような、あるかないかの感触。
リンガルを介すと、それなりに知った筈の実装石のことが初対面のように思えてくる。
ぼくは実装石というものがこんなにも口汚いとは知らなかったのだ。

『デップップップ、見るデス、もう半泣きデス』
『あんまりいじめるとウンコを漏らして逃げちゃうデスよ』
『それは困るデス、まだ貢ぎ物を貰ってないんデスから』

貢ぎ物と言われても、ポケットには実装石にやって喜びそうなものはない。
家の中になら何かあるだろう。
薄汚れた餌皿を縁の下から取り出し、持ち出した実装石専用ペットフードをザラザラと注ぐ。
ホームセンターで買った、一番安い専用飼料だ。
ペットフードの袋には【実装石以外の動物には絶対に与えないで下さい】と注意書きがされていた。
緑色のペレットの成分の内、五割は実装石の体臭と排泄物の臭いを中和する消臭剤らしい。
実装石以外の動物には、確かに毒であろう。

『高貴なワタシにこんな不味いものをよこすなんて、気の利かない下僕デス』
『コンペイトウが良いデス、これはちっとも甘くないデス』
『まあ今回は許してやるデス、次もこんなに糞不味いものをよこしたら泣くまで鉄拳制裁デス』

互いに押し合いながら餌皿の中身をがっつく三匹を置いて、ぼくは庭を歩いた。
一ヶ月の間に、実装石たちの素行は悪化の一途を辿ったらしく、庭は無惨に変わっていた。
外から拾ってきたらしい生ゴミやらガラクタが散乱し、そこら中に乾いた糞がこびり付いている。
夏の暑さに腐敗は進み、生暖かな風が一吹きすれば饐えた臭いが立ちのぼる。
小池の方からは特に酷い、何があるのだろうと鼻をつまんで歩み寄る。
水の枯渇した池は緑一色のねばついた肥溜めと化していた。
そこにも実装石らしいものが三匹居た。
思わず、餌皿に突っ伏した三匹と見比べる。

肥溜めの実装石には服も髪も耳もなかった。
目は鮮度の悪い魚のように艶がなく、不衛生な環境と発酵熱のせいか、染みだらけの肌は火傷したように爛れている。
半開きの口からは「デー」と抑揚のない声と涎が漏れるているが、リンガルは無反応だった。

禿裸の実装石は縁に向かってひたすら蠕動運動をしている。
この肥溜めから逃れたいらしいが、肥面から肩を出したところで体は滑り、頭まで沈み込む。
ちらりと見えた肩の付け根にはあるべきものがなく、表皮の張った醜い傷跡が残るばかりだ。
頭を下に肥溜めの表面から浮かび上がった腰の下も同様である。
その姿は巨大な蛆虫そのもので、髪も服もないでは蛆実装ですらなかった。

いつの間にか食事を終えて足下に集まっていた実装石たちも、これに比べれば随分とマシに見える。
三匹は三匹の蛆虫を見下ろして、腹をさすりながらデププと笑う。

『慈悲深いワタシは糞虫にもお裾分けをしてやるデス』
『糞虫には高貴なワタシの糞さえ勿体ないくらいデス』
『ニンゲン、ワタシの優しさに触れて惚れるんじゃないデスよ!』

一番手前の実装石が、ビシッとぼくに向かって片腕を突き出す。
三匹はおもむろに肥溜めに向かって尻を剥き出し、排泄孔から勢いよく糞をひる。
ブリョブリョと鼻面に糞を吹きかけられた蛆虫達は、半開きの口を閉じようともせず、たまにパチクリと
まばたきをするくらいのものだった。
実装石の排泄が終わると、蛆虫は惚けた顔をして池淵への登攀を再開した。

『恩知らずな奴らデス、少しは感謝して見せるデス』

実装石の一匹が小石を蛆の一匹にぶつける。
蛆は額の痛みに頭をひねる。
辱めよりは痛みの方に敏感なようだ。

『オマエも、オマエも、馬鹿面してないでニンゲンの前でワタシの優しさと美しさを褒め称えるが良いデス!』

残りの二匹も加わって、次々と投石を加える。
雨あられと降り注ぐ小石で、蛆虫たちの顔に知覚らしいものが兆しはじめた。
恥辱にはともかく、痛みには我を取り戻すほどに敏感であるらしい。
重たげに伏せられていた目蓋を開き、頭を持ち上げ空を仰ぐ。
一匹がぼくと目が合わすと、やにわに絶叫をあげた。
驚いた実装石たちは投石の手を止める。
悲鳴をあげた一匹に呼応して、二匹もぼくに熱い視線を送りながら喉も裂けよとばかりに叫ぶ。
ここでもまた、リンガルは無反応だった。
ぼくは蛆実装が池に落ちた時のことをふと思い出した。




蛆虫が語るところによると、三匹の実装石はぼくの知らない内にここに入り込んだ野良実装で、
三匹の蛆虫こそがこの庭の先住者であったらしい。
薄々そんな気はしていた、荒廃した庭とそこで我が物顔をしている実装石達に対する違和感にも納得である。
先住の実装石たちはぼくの居ない間、ここに至るまでの経緯をぼくにのべつまくなしに語った。
実装石の絶え間ない喚き声をBGMに文章化されたそれを読むのは速読の心得でもなければ不可能事だが、
子細はともかく大体のところは解った。

ある日突然進入してきた三匹の野良実装に対して、実装石親子は主人に託された庭を守るべく戦った。
しかし草の根と草露と小虫でなんとか飢えを凌ぐ身に対し、相手は外界の乏しい食料を勝ち得て
ここまで長らえた、百戦錬磨の野生である。
勝負は肉食獣対草食獣の様相を呈し、結果は火をみるより明らかであった。
親子は、服はおろか体に生えた大小の突起という突起を引きむしられて、乾いた小池の底に放り込まれた。
そして、野良実装はこの庭を拠点として生活をはじめ、親子は糞尿処理機として生かされた。

ざっとこういったところだ。

実装石が苛烈な弾圧に遭いながらも、姿を消した主人に対して忠誠を保ち続けたのは美談の類だ。
そもそも親子揃ってぼくを主人と認めていたことさえ知らなかった。
親はともかく、その子には今まで食餌はおろか接触したことすらなかったのだ。
愚直な親の思いこみに感化された、美談の陰の被害者とも言えよう。
一将功成りて云々というやつだ。
これだから狂信者を身内に持つことは恐ろしい。
このような美談は人ごとであればともかく、我が身に起こったこととなると感動が無いものらしい。
美談というのは余計なものごとを省かれ、人づてに聞くからこそ美談であるようだ。

実装石が話している間、野良実装たちは悪びれもせずに、口をすぼめて吹けもしない口笛を真似してみたり、
こちらに向かって口に手を当て頭を傾け愛想をつくってみたり、寝ころんで排泄孔をほじってみたりしていた。

『まあ、終わったことはもういいデス』
『こんな糞虫に関わること無いデス、ワタシだけを見つめてほしいデスゥ』
『デッスゥン、そんなことよりオナニーデスゥ』

実装石の訴えに対する、野良実装の回答。

判決を待つかのように六対の目がぼくを注視する。
引っ越しを決める以前であれば庭を汚した張本人である野良実装に対して憤りを覚えただろうが、
ここを去る身では屋内に立ち入らない限りで好きにやってくれとしか言いようがない。
実装石たちに対してはご愁傷様と悲運を悼むばかりだ。
野良実装に対する報復を唱えられても、こんな一幕もあるだろうと予想した上での放置である。
罪があるとしたならぼくにもある。
罰したいならその手でやれば良い。

ぼくは傍観者に過ぎず、判事の真似事をするつもりはない。
肩をすくめて去るばかり。
しかし、荷物をまとめに家に入ろうとすれば、実装石は泣き喚くわ、野良実装はまとわりついて
来るわでうるさくする。
もう新居の手続きも済ませて、引越の準備でここに留まるのも数日といったところではあるが、
ここで実装石に煩わされるのはご免だ。
飛ぶ鳥後を濁さずとも言うし、庭の汚染源を放っておくのは人道にもとることでもある。

庭道具の入った小さな倉庫からシャベルを持ち出し、甘い匂いを発する飴を釣り餌に野良実装を誘導する。
肥溜めの縁に着いたところで、飴玉を放り投げる。
野良達はその軌跡を目で追う、飴玉は彼らを飛び越えて肥溜め中に落ちる。
野良たちが背を向けて飴の行く先を注視している間に、無防備な首筋をシャベルの先で一息に突いた。

「デピャ」
「デピュ」
「デピョ」

骨を断ち切った感触すらない、錆の浮いたシャベルの切っ先は想像していたよりも鋭い。
野良実装達の頭は次々と胴から離れて、その視線が向かっていた先へと転がり落ちる。
何が起こったのか解せないようで、野良実装の生首はズブズブと自らの排泄物に埋もれながら
ギョロギョロとせわしなく黒目を揺らす。
その頭上へと首なしの体が崩れ落ちて、生首を糞溜めの底へ埋葬すべく重石の役割を果たした。

実装石たちは喝采をあげ、賞賛の眼差しを送る。
縁を乗り上げんばかりの勢いで身をくねらせ、ぼくの足下へと殺到してくる。
その顔をシャベルの腹を叩きつけて潰していく。
実装石は悲鳴すら上げず、潰れた肉親の肉片を浴びながら最期まで目を輝かせてぼくのことを見つめ続けた。




引越の準備は滞りなく済み、家具や荷物は運送業者のトラックで運ばれて行った。
あとはこの身ひとつを新居に移すばかりである。
そうしたら、ここへはもう二度と帰ることはない。
それを思うと、少しくらいセンチメンタルにもなる。
広くなった床、ずっと物陰にあった壁、低いままの天井、何だか妙に寂しい。
ガランとした室内が寂しいのか、別れの寂しさなのか、いまいち判然としない。

——レフ、レフレフ
庭の方から実装石のものらしい、小さな鳴き声が聞こえた。
戸を開けて見回すが、庭には動くものひとつ見えない。
庭の景色も荒涼としたものだ。
小池のあった場所は、すっかり乾いて固まった実装石の排泄物と死骸で埋め立てられている。
実装石が生前に残していった糞の悪臭も、はじめは強烈だったが、翌日には嘘のように消えていた。
実装石自身の死骸は腐敗さえせず、ミイラのように干からびたと思うと、ポロポロとした土塊のようになり、
突いてみると脆くも崩れた。
野良が持ち込んだゴミを掃除し終えると、驚くほど実装石の存在した痕跡は少なかった。

空になった部屋だけでなく、実装石が目につかないことも寂しさ一因なのかも知れない。
あの脆く小さなヒトガタを壊す恍惚を知り、少々毒されてしまったようだ。
麻薬的な幻覚のように、今に思えば夢かまぼろしの中での出来事であったかのように思える。
その味を占めて、実装石の血を見たさに足繁く公園へ通う一党に仲間入りするのも時間の問題ではあるまいか。
それなら、得物はやはりシャベルがいい。
いつか軍装品店で見かけた、折りたたみシャベルが適当であろう。
携帯性はもちろん、専用のポーチまで付いて、見た目もよろしい。
それを片手に、公園の茂みで逃げまどう実装石を追い回す……、想像するだに馬鹿らしい。
ぼくのように気弱な人間は、暗い欲望を閉所でしか果たせないのだ。

——レフ、レフレフ
またしても実装石の声、連中の幽霊でもいるのだろうか。
それとも本格的に中毒になってしまったのだろうか。
再び庭を見回せば、池の跡の埋め立てられた地面の一部が盛り上がり、もぞもぞと動いていた。
近づいてみると、落とし穴が崩れる瞬間のように、地面に小さな穴が開いて、そこから実装石が顔を出した。

「レッレフー」

一鳴きをして這い出てきたそれは、日差しの下に全身を晒す。
手足が退化して這うことしかできない、出来損ないの蛆実装だった。
灰が積もったような柔らかな地べたの上で、這った後には轍のような跡が残る。
ここでは柔な蛆実装の腹も傷つかないらしい。
しばらくぐるぐる回っているうちに蛆実装が描く円は広がり、ぼくのつま先にぶつかる。
この障害物をよじ登ろうとしたとき、このウスノロは初めてぼくに気づいた。

「レフレフ、レフレフ」

鳴き声に実装リンガルをかざす。

『……ニンゲンさんがいるレフ、ニンゲンさんはゴシュジンさまレフか?』

ぼくはそのようなものだと答える。

『レフー、それならここは楽園レフ、ママはいってたレフ
 ゴシュジンさまといっしょならそこは楽園なのレフ
 ゴシュジンさまはいつでも蛆チャンたちをみまもってるレフ』

ぼくは蛆実装にどこからやってきたのかたずねる。

『蛆チャンはママとオネエチャンたちと楽園にいたレフ。
 ごはんがなくなってから蛆チャンずっとママのなかにいたレフ。
 はじめはウンチをたべたりウンチしてたりしたけど、ねむたくなっちゃったレフ
 おきたらおなかぺこぺこレフ、まっくらレフ、ママもオネエチャンもいないレフ。
 蛆チャンいやいやしたレフ、いやいやしてたらあかるくなったレフ
 そしたらそこは楽園だったレフ、でもママもオネエチャンもいないレフ』

蛆実装はそのようなことを言った。
蛆実装の姿が見えなくなったのは、母体回帰だか冬眠だかであったらしい。
育児放棄か共喰いをして亡き者にされたと思いこんでいたが、有袋類じみた器用な真似をするものである。
あるいは、蛆実装が寝ぼけて親の腹に侵入しただけの話なのかも知れない。
おかげで、野良の襲撃からも無傷でやり過ごし、土塊となった母の死骸から生きて脱出できた。
生まれが不幸である分、生きているというだけの運には恵まれたらしい。

『レフレフー、おなかぺこぺこレフ、ぺこぺこすぎてウンチもでないレフ、ごはんほしいレフ
 ママはどこいったレフか?
 ごはんたべさせてほしいレフ、おなかぽんぽんしてウンチいっぱいしたいレフ』

ぼくは再びたずねた、親の元へ行きたいか、それとも楽園に居たいかを。

『レフー、ママはママがいなくなっても楽園にいればいつまでもしあわせだっていってたレフ
 しあわせっていうのはゴシュジンさまといっしょにいられることだっていってたレフ
 でも蛆チャンはちっちゃいからよくわかんないレフ、おおきくなったらわかるってママいってたレフ
 ママのいうこときいてイイコしてたらおおきくなれるレフ
 蛆チャンはイイコだからママのいうとおりにするレフ
 蛆チャンはゴシュジンさまといっしょにいるレフ』

こうして、ぼくは新居で蛆実装と暮らすことになった。



賃貸マンションの六階、三部屋のうち一部屋は窓がなく、昼なお暗い閉所。
蛆実装の母が唱えた楽園の定義に照らせば、そこは依然楽園である。
ぼくはそこで蛆実装から実装石というものの抗し難い魅力を習い、その深淵に落ち込んだ。
蛆実装に花粉をあてがい、産めよ増やせよと促した。
新しい血の必要も認め、公園から選定した健常な実装石もここに招いた。
彼らが楽園へ一歩踏み入った時の表情は見ものであった。
一匹の実装石が放浪の果てについに見出した楽園、その血族は末代までここに在り続けるだろう。


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1 Re: Name:匿名石 2019/02/04-21:25:12 No:00005730[申告]
素晴らしいの一言
2 Re: Name:匿名石 2019/02/05-21:05:47 No:00005731[申告]
楽園は維持されてこそ楽園だったのだ
3 Re: Name:匿名石 2020/01/28-20:30:47 No:00006178[申告]
距離感がたまらないな
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