タイトル:【哀他】 実翠石との生活Ⅱ その4 良き牧羊犬が如く
ファイル:実翠石との生活Ⅱ その4 良き牧羊犬が如く.txt
作者:匿名 総投稿数:非公開 総ダウンロード数:446 レス数:5
初投稿日時:2024/05/27-19:33:21修正日時:2024/05/27-19:34:01
←戻る↓レスへ飛ぶ

実翠石との生活Ⅱ その4 良き牧羊犬が如く
-----------------------------------------------------------------------
主人にヴェルデと名付けられた実装石は、自身の事を幸福だと信じて疑わなかった。
その幸福を与えてくれた主人には幾ら感謝しても足りず、何とか恩返しが出来ないかと常々考えていた。

ヴェルデは元々野良だった。
賢い母親の元、八匹姉妹の三女として生まれたその時から、その生活は苦難に満ちたものだった。
餌の不足から常に空腹で腹一杯に食べた事など一度として無かった。
姉妹の内次女と五女は糞蟲化して、目の前で間引かれた。
親の言いつけを破って勝手に遊びに行った四女は結局帰ってこなかった。
冬も間近になり食料の確保が困難になると、住んでいた公園内では共喰いが常態化し、
自分達もいつ喰い殺されるか日々怯えながら過ごした。
いつ我が仔が餌食になるかも分からない、そんな状況に耐えかねたヴェルデの母親は、
家族を連れて一か八か新天地を求め渡りを行い、ヴェルデ一匹を残して皆無惨な最期を遂げた。
親指の七女と蛆実装の八女は足手まといだからとダンボールハウスに残され見殺しにされた。
公園を出る直前に六女が同族に捕まり喰い殺された。
公園を出てから数百メートルも行かない内に長女が野良猫に捕まり、全身を引っ掻き回されて死んだ。
長女を助けようと果敢に猫に立ち向かったヴェルデの母親も満身創痍となった挙げ句に、
弱っていたところをカラスの群れに襲われ、ヴェルデの目の前で生きたまま喰われていった。
ヴェルデは行く宛もなく彷徨っている内に力尽きて倒れているところを運良く主人に拾われて、飼い実装となることが出来た。
母親以上に賢い個体だったヴェルデは、飼い実装になっても決して増長せず、主人の言い付けをよく守り、
主人の役に立とうと日々出来る限りのことをした。
そんなヴェルデの態度を主人は好ましく思っていた。
主人が結婚し、その妻、敏代とも同居することになった際には、敏代のことを奥様と呼び、主人と同様に敬った。
やがて主人達の間に男児の昭夫が生まれると、坊ちゃまと呼んでその成長を見守った。
避妊措置により仔を持てなかったことも手伝ってか、昭夫はヴェルデにとってもかけがえのない存在となった。

こうしたヴェルデの幸福な日々は、主人が病に倒れた事により、急速に崩れてゆくこととなる。
主人は本人も気付かない内にガンに蝕まれており、発覚したときにはすでに余命幾ばくもない状態だった。
延命措置を諦め、少しでも多くの遺産を家族に残すことを選んだ主人は、人生最期の時を自宅で過ごし、
昭夫の一歳の誕生日を祝うことなく亡くなった。
ヴェルデにも、昭夫を頼む、と言い残して。

敏代は主人を喪った悲しみをホスト遊びで癒やすようになった。
夫の死で落ち込んでいた敏代を、その友人が慰めようと誘ったのが切っ掛けだった。
敏代は推し活と称してホストに入れあげて、夜な夜な家を空けるようになった。

季節は夏真っ盛り。
ガラス戸の向こう側は夜だというのに未だにその暑さが和らぐ気配がない。
涼しい屋内にいられることをヴェルデは感謝していたが、それ以上に気に病むべきことが目の前にあった。
今晩も奥様は居ない。
坊ちゃまはお家に一人残され、今も布団の上で泣いている。
お腹を空かせているのか、それともオムツを替えてほしいのか、その両方か。
「坊ちゃま、ごめんなさいデス・・・」
スピーカー内蔵型リンガル付首輪から機械音声が流れる。
ヴェルデは自身が実装石であることが悔しかった。
人間のような指が無いこの手では、坊ちゃまにご飯をあげることもオムツを替えてあげることも出来ない。
ヴェルデに出来るのは、ただ坊ちゃまに寄り添い、頭を撫でてあやすことだけだった。

敏代が帰って来たのは翌朝になってからだった。
玄関のドアが開く音で目を覚ましたヴェルデは、敏代を出迎えようと玄関に向かったが、
当の敏代は玄関で突っ伏して寝息を立てていた。
きっと夜遅くまでお仕事をして疲れているのだろう。
そう思ったヴェルデはバスタオルを持ってくると、敏代の身体が冷えないようにとその身体に掛けてやった。

敏代が目を覚ましたのは昼近くになってからだった。
玄関で寝そべっていたせいか身体中が痛かった。
さんざん飲み明かしたせいで二日酔いで酷く気分が悪い。
何故か身体に掛かっていたバスタオルを払い除け、トイレへと足を運ぶ。
廊下の隅でヴェルデが頭を下げていたが、無視してトイレに入る。
便器に胃の中のものを全てぶち撒けると、多少は気分がマシになった。
トイレを出ると、ヴェルデがこちらを見上げてデスデスと鳴いている。
鳴き声はリンガルで翻訳され、機械音声として出力された。
「奥様、坊ちゃまにご飯をあげて下さいデス。オムツも替えてあげて下さいデス」
まるで自分が子の世話をろくにしていないかのようなヴェルデの言い振りに、敏代は苛つきを覚えた。
(実際に昭夫の世話はろくに見ていなかったし、ヴェルデの言い振り云々は被害妄想もいいところだった。)
舌打ちしつつも、泣き声をあげる昭夫のオムツを替え、ミルクを与える。
昭夫にはもう離乳食を与えても良い頃合いだったが、敏代にはそこまで気を回す余裕が無かった。
推しのホストに貢いだ結果、夫が遺してくれた保険金や預貯金といった遺産の大半が既に口座から消えていた。
現在無職の敏代は目減りしてゆく残高に焦燥を覚えていたが、推しのホストに貢ぐの止めるという選択肢は無かった。
結婚を匂わせるような推しのホストの言葉が、今の敏代の脳を占めていたからだ。
人心地ついたのか乳児らしい意味を持たない言葉を発しながら、昭夫は手を伸ばした。
その先に居るのは敏代ではなく、ヴェルデだった。
いつの間にか側に来ていたヴェルデは昭夫の手を取り、目を細める。
昭夫が自分よりもヴェルデに懐く様は敏代をさらに苛立たせた。
出会った当初は、敏代はヴェルデを嫌ってはいなかった。
よく躾けられ、自分を夫と同じくらい敬い、簡単ながらも家事を積極的に手伝おうとしてくれる点は評価していた。
人語を解し半端に人に似ているその姿に、言いようのない不気味さを感じてもいたが、我慢ならない程ではなかった。
だが、今では疎ましいという思いのほうが強まっていた。
賢いとはいえできることには限度があるからある程度は世話をしてやらねばならない。
食費も少なくない額が掛かる。
何より昭夫が母親である自分よりもヴェルデに懐いているのが気に入らなかった。
ペット風情に母親失格と暗に言われているような錯覚を覚えてさえいた。
亡き夫から託されたからこそ家に置いてはいるが、出来れば
里子にでも出してしまいたいとさえ思っていた。

敏代は昭夫の世話もそこそこに寝室へと引っ込んでしまった。
ヴェルデとしてはもう少し坊ちゃまとの時間を作って欲しかったが、遅くまで働いて疲れているであろう奥様にそこまで求めることは出来なかった。
「ご主人様、ごめんなさいデス。ワタシはお役に立ててないデス・・・・・・」
母親の姿が見えなくなったせいか愚図りだしそうになる昭夫の頭を撫でながら、ヴェルデは己の無力さを今は亡き主人に
詫びた。

数日後。
その日も朝から暑かった。
気温は朝の時点で三十度を超えている。
寝苦しさから目を覚ましたヴェルデは、自身が汗だくなっている理由にすぐ気付いた。
部屋が酷く暑い。
冷たい風を出してくれる機械が動いていない。
こんな暑さでは坊ちゃまも辛いだろう。
奥様にお願いして機械を動かして貰わねば。
だが、家の中をいくら探しても肝心の敏代は家に居なかった。
玄関を見ると敏代の靴が無い。
自分達が寝ている内にお仕事に行ってしまったのだろうとヴェルデは考え、これからどうするべきか頭を捻った。
(実際のところ、敏代は推しのホストとホテルで一夜を共にしていたので昨晩から帰宅していなかった)
この暑さで目を覚ましたのだろう、昭夫の泣き声がした。
とにかく坊ちゃまを暑さから守らねば。
ヴェルデは敏代がその辺に放り投げていた団扇を拾い上げると、昭夫の元へ向かった。
「坊ちゃま、どうデス?涼しいデス?」
指の無い両手で何とか団扇を挟み込み、ヴェルデは昭夫を扇いでやる。
自身もこの暑さで汗まみれだが、構わずに昭夫を扇ぎ続けた。
だが、時間が過ぎるごとに暑さは強さを増していき、昭夫の泣き声は弱まっていった。
「すごい汗デス。お水を飲まないと危ないデス・・・」
だが、近くに飲み物は無い。
実装石の身体では蛇口にまで手が届かない。
ケージに備え付けてあるヴェルデ用の給水器は昨晩から空だった。
このままでは本当に坊ちゃまが危ない。
そう考えたヴェルデは、家の外に助けを求めることにした。
主人に飼われてからは単独で外に出たことなどなかった。
主人に一匹で外出することを固く禁じられていたからだ。
「ご主人様、ごめんなさいデス。言いつけを守れなくてごめんなさいデス」
そう今は亡き主人に詫びると、ヴェルデは家から出られそうな場所を探し始めた。
だが、見つからない。
玄関は鍵が掛かっていた。
外に面している窓も同様だった。
そして実装石の身体では鍵に手が届かず開けられない。
八方塞がりだったが、ヴェルデは決断した。
窓を割って外に助けを求めよう。
きっと奥様には凄く怒られるだろう。そのまま捨てられるかもしれない。
それでも、ヴェルデにとっては昭夫の命のほうが大事だった。
何よりご主人様はワタシに言ったのだ。坊ちゃまを頼む、と。
「坊ちゃま、すぐに助けを呼んでくるデス。それまでどうか待っていてほしいデス」
既に泣き声すら上げられず、苦しげな息遣いをしている昭夫に一言言い残すと、ヴェルデはガラス戸を割ろうと体当たりした。
しかし、実装石の身体ではガラスを揺らすだけで割るなど不可能だった。
二度三度と繰り返すが、どうにもならない。
何か硬い物はないか?ヴェルデが辺りを見回すと、筒状の硬い物が見つかった。
(敏代がその辺に転がしていた未開封のストロング系チューハイの350ml缶だった)
抱え上げて、何度もガラスに叩き付けるが割れない。
業を煮やし、助走を付けて思いきり叩き付ける。
ようやくガラスが割れたが、勢い余ってそのまま外に転がり出てしまう。
割れたガラスで身体中を切り刻まれるが、構ってなどいられなかった。
急がねば坊ちゃまが危ない。
ヴェルデはその一心で、向かいの家に駆けていった。



「どうぞです、お姉さま」
実翠石の常磐が差し出してくれたのはアイスティーだった。
礼を言って口に含む。
少しばかり強めの甘さが、仕事で疲弊した脳に染み渡るのを感じた。
外は三十五度を越えたまさに酷暑だったが、だからといって仕事を休みにしてくれるほど我が社は人道的ではなかった。
まあ、テレワークで快適な我が家から出る必要がないだけでも御の字なんだけれど。
時刻はそろそろ昼食時。今日は何を作ろうかな、などと考えていると、
「助けて下さいデスゥゥゥゥゥッッ!!」
という機械音声が玄関先から聞こえてきた。
常磐と顔を見合わせる。
一体何事だろうか?
カメラ付きドアホンで外を確認すると、画面の下端に実装石と思しきものが映っていた。
この暑さで参って託児でもしに来たのだろうか?
「お願いデスゥゥゥゥゥッッ!!坊ちゃまを助けて下さいデスゥゥゥゥゥゥッッ!!」
・・・坊ちゃま?
実装石は基本的に単為生殖でメスしかいないはず。
それが坊ちゃまというのが解せなかった。
それに、機械音声を出していることからおそらくは飼い実装だろう。
とりあえず様子を見てみようと思い、玄関のドアを開ける。
ドアを開けた途端、湿度をたっぷり含んだ熱風が顔に当たる。
当の実装石は私を目にすると、ペコペコと頭を下げる。
スピーカー付の首輪を着けていることから、やはり飼い実装のようだ。
その割には全身至る所に切り傷があり、ところどころ出血している。
「ニンゲンさんお願いデス!坊ちゃまを助けてデス!このままじゃ死んじゃうデス!」
あまり穏やかではない言葉をスピーカーから吐き出す実装石。
何とか話を聞き出して整理する。
男の赤ん坊がこの暑さで弱っている。
家の人は出掛けていて他にはいない。
自分は窓を割って助けを求めに来た。(身体中の傷はこれが原因らしい)
家は我が家の向かいである。
どうか早く助けて欲しい。
向かいの家を見てみると、確かにガラスが割られた形跡があった。
破片の散らばり具合からして、おそらくは中から外にむけて割られたものだろう。
飼い実装を連れて敷地内にお邪魔し、割れたガラス戸から中を覗き込むと、ぐったりとした赤ん坊らしきものが見えた。
この実装石が言っていることは本当のことである可能性が高い。
一旦実装石を連れて我が家の玄関先に戻った。
暑さのせいだけではない汗が吹き出る。
どうやって助ければいい?
私自身の手で助け出すのは色々と問題がある。勝手に家の外に出したとなれば下手すると誘拐犯扱いされかねない。
そうなると警察か救急への通報となるが、どうやって伝える?
まさか馬鹿正直に実装石が助けを求めてきたからと話すか?
私のほうが頭の病院送りになりかねない。
少し悩んで、事実ではないが追求されても何とか言い逃れ出来そうな内容をでっち上げてから警察に連絡することにする。
110番に掛け、向かいの家からガラスの割れる音がしたこと。赤ん坊らしき泣き声がしていたが聞こえなくなったこと。
よく分からないが叫び声らしきものが聞こえた事を伝えると、すぐに人を寄越すと言ってきた。
まもなくパトカーと共に警察官が我が家の前に現れた。
詳しい話を聞かせて欲しいというので、向かいの家の飼い実装が助けを求めてきた事を正直に伝える。
警察官には怪訝な顔をされたが、とりあえず状況だけでも確認して欲しいとお願いして、向かいの家に連れてゆく。
呼び鈴を押しても誰も出てこないこと、割れた窓の奥にぐったりとした赤ん坊の姿が見えたことから、事は緊急を要すると判断されたようだ。
警察官は救急車を要請し、割れたガラス戸を開けて赤ん坊を助け出した。
脱水症状と熱中症で危険な状態かもしれないとのことで、赤ん坊は救急車で病院へと運ばれていった。

救急車を見送ると、玄関の影から常磐と実装石が姿を見せた。
赤ん坊に駆け寄ろうとする実装石を、救助の邪魔になるからと常磐が抑えてくれていたとのことだった。
とりあえず実装石に、赤ん坊は無事病院に連れて行かれた事を伝える。
「ニンゲンさん、ありがとうございましたデス」
頭を下げて何処かへ行こうとする実装石。
「何処に行くの?」
「奥様と坊ちゃまが帰って来るまでお留守番してるデス」
私の問に、実装石は淡々と応えた。
かなり賢い個体のようだ。
飼い主への愛情も深いらしい。そうでなければあのように助けを求めるなどしないだろう。
実装石はあまり好きになれないが、このまま放置しておくのは気が引けた。
常磐が何か言いたそうな表情を浮かべていたというのもあるが。
「飼い主さんが帰って来るまでしばらくかかるでしょう?
 手当してあげる」
常磐に救急箱と何か飲み物を持ってくるように伝えると、常磐は嬉しげに返事をして家の中に引っ込んだ。
私も実装石を連れて我が家の中に戻る。
冷房の効いた屋内に入り、早速実装石の治療に移る。
まずはところどころ刺さったままのガラス片をピンセットで抜き、傷口を消毒する。
沁みるだろうにこの実装石は顔を歪めるだけで叫んだりはしなかった。
傷口にガーゼを当てて包帯を巻いてやり、とりあえずは手当の完了とした。
常磐が用意してくれた水を飲むよう促すと、実装石は礼を言ってから口をつけた。
よほど喉が渇いていたのだろう。あっという間に飲み干してしまう。
常磐に頼んでおかわりを持ってきてもらい、満足するまで飲ませてやった。
「何から何までありがとうございますデス」
改めてペコペコと頭を下げる実装石。
留守番に戻りたいというので、未だに家主が戻らない家に返すこととする。
さすがに屋外に放置するわけにはいかないので、赤ん坊を救助した後開いたままのガラス戸から屋内に戻してやった。
水を入れた500ml大のペットボトルも二本ばかり差し入れてやる。
正直なところ、エアコンの効いていない屋内に戻すのも気が引けるのだが、
実装石を飼育できる環境が整っていない我が家にはいつまでも置いておけないし、
何より他所様のペットを断りなく留め置く事は出来なかった。
何かあったらまた訪ねてくるようにだけ言い伝え、私は我が家に戻った。



優しいニンゲンさんのおかげで助かった。
ヴェルデは坊ちゃまを助けてくれた上に手当までしてくれた向かいに住むニンゲンさんに感謝していた。
後は坊ちゃまと奥様が帰って来るのを待つだけだ。
特にすることもないので、割れた窓から吹き込む風に当たって少しでも涼むことにする。
割れた窓の先には向かいの家が見えた。
あの家にはニンゲンさんの他に実翠石も住んでいた。
着ている服や髪の手入れ具合、そして明るく楽しげな表情から、いかにニンゲンさんに愛されているかがよく分かる。
ヴェルデは不思議なことに実翠石に敵意を覚えなかった。
ただ、その姿がひどく羨ましく思えた。
実翠石のように指がある手ならば、坊ちゃまのオムツだって替えてあげられるのに。
身体が大きければ、蛇口にも手が届いて坊ちゃまにお水を飲ませてあげられたのに。
重い物を持てる力があれば、坊ちゃまを抱っこできるのに。
もっと坊ちゃまや奥様のために色んな事がしたいのに。
ガラスにうっすらと映る自身の姿が、酷く情けなく思えた。



敏代が家に帰り着いたのは、その日の深夜になってからだった。
一度夕方頃に帰宅したのだが、自宅の前で張っていた警官に任意同行を求められ警察署に連れて行かれたのだ。
そこで昭夫が近所の人間の通報で保護されたこと、今は脱水症状と熱中症で入院していること、
昭夫の栄養状態や発育具合等が悪いことから児童虐待(ネグレクト)が疑われていることなどを警官から聞かされた。
敏代は顔を青くしながら言い訳しようとしたが、来ている服装が明らかにデート用であることやアルコール臭がすることを指摘されると、
沈黙せざるを得なくなる。
それに、と警官は告げた。
今の時点まで、貴方はお子さんがどこに入院しているのか、お子さんの具合がどうなのかを一度も聞こうとしなかった。
それだけで貴方がどんな人間なのかある程度は分かりますよ。
敏代にとって幸いなことに、今回は厳重注意と児童相談所職員の定期的な訪問で済ませて貰えた。
とはいえ、それで敏代が感謝するはずもなかった。
むしろ鬱屈とした思いをいや増すだけだった。
昭夫が入院している病院には寄らずに敏代は帰宅した。
玄関を開けて家の中に入っても、暑さは外と大して変わらなかった。
エアコンの室外機がこの酷暑で故障し、冷房が効かなくなったのがそもそもの原因だったからだ。
ドアが開く音を聞きつけたのか、ヴェルデが玄関に現れた。
「奥様、おかえりなさいデス」
敏代はただいま、ではなく舌打ちを返した。
そのままヴェルデを無視して、キッチンに直行する。
冷蔵庫を開けてストロング系チューハイを取り出し、喉と精神の双方を潤した。
後を付いてきたヴェルデが遠慮がちに聞いてくる。
「奥様、坊ちゃまは一緒じゃないデス?坊ちゃまはまだ元気にならないデス?」
何故誰も彼もが私を責めるのか?
何故誰も彼もが私よりも昭夫の事ばかり心配するのか?
何故誰も私のことを考えてくれないのか?
ペットですら私よりも昭夫の事ばかり心配して、私を蔑ろにしている。
敏代の鬱屈とした思いが吹き出した。
「うるさいわね!」
まだ半分以上中身が残っている缶をヴェルデに投げつけた。
手元が狂って直撃はしなかったものの、ヴェルデを萎縮させるには充分だった。
「・・・ご、ごめんなさいデス」
ペコペコと頭を下げて詫びるヴェルデの様子すらも気に障った敏代は、シャワーすら浴びずに寝室に引っ込んでしまった。
残されたヴェルデは床に飛び散った酒を雑巾で拭き取り、転がった缶を部屋の隅に立てておいた。
(中身を捨てたくても台所には手が届かないからだ)
片付けを終えるとケージに戻り、横になる。
自然と涙が出た。
ご主人様が生きていればきっとこんなことにはなっていなかったはずだ。
ご主人様と坊ちゃまと奥様、そして自分。
三人と一匹でいつまでも幸せが続くと思っていたのに、どうしてこうなってしまったのだろう?
もっと自分が力になれれば、こんなことにはならなかったのに。
「ご主人様、ごめんなさいデス・・・」
ヴェルデは自分の不甲斐なさを、今は亡き主人に侘び続けた。



数日後、昭夫が退院して家に帰ってきた。
喜ぶヴェルデとは対象的に、敏代の表情は酷く暗かった。
昭夫を引き取りに行った際に病院の医師や看護師から向けられた、犯罪者を見るかのような冷たい視線。
これからは定期的に児童相談所の職員が訪問に来ること。
エアコンの修理と昭夫の入院、そしてガラス戸の修理に掛かった費用の大きさ。
底をついた口座残高。
そして何より、推しのホストが何気なく漏らした、子供はうるさいから嫌い、という一言。
敏代には、自身の不幸の原因が全て目の前の昭夫によっても
たらされたのではないかと思えてならなかった。



さらに数日後。
推しのホストが勤める店から渡された請求書、そこに記載されている金額を目の前にして、
敏代は目の前が真っ暗になるような錯覚を覚えた。
請求書には、日本人の平均所得、その五、六年分はありそうな金額が記載されていた。
生半な手段で返せる金額ではない。
ホスト店から持ちかけられた返済方法は海外での売春だった。
子供はどうすればいい、という問いには、海外に逃げてしまえば警察も手が出せない、
いっそ強盗にでもやられたように見せかければいい、と返された。
貴方の推しも貴方と一緒になりたがっているらしい、あれこれ問題が解決すればそれも叶うのではないか、
というホスト店側の一言が、推しのホストへの執着と多額の借金で視野狭窄に陥っていた敏代に、
最後の一線を越えさせることとなった。

すっかり日が落ちた頃。
敏代はキッチンで包丁を握りしめていた。
渡航の準備は既に済ませてある。
後は昭夫を片付ければ終わりだった。
敏代の目には、昭夫は最愛の息子ではなく推しのホストと結ばれる上での障害にしか映らなくなっていた。
汗に濡れる手で再度包丁を握り、昭夫の元に向かう。
呼吸が荒くなる。
昭夫のそばにはヴェルデが寄り添っていた。頭を撫でて子守の真似事に興じている様が不愉快だった。
ヴェルデが敏代に気付く。
異様な雰囲気を漂わせた敏代に危険なものを感じ取ったのだろう。
ヴェルデは敏代と昭夫の間に割って入るような位置に両手を広げて立ち塞がった。
「奥様、その手に持ってるものは何デス?そんな怖い物を持ってどうするつもりデス?」
敏代は構わず包丁を逆手に持ち直し、昭夫に振り下ろした。
「やめるデスゥゥゥゥゥゥッッ!!」
ヴェルデは渾身の力を込めて、敏代の足に体当たりした。
ヴェルデの質量では押し倒す事は叶わなかったが、それでも敏代の体勢を崩すことは出来た。
「邪魔するな!」
敏代が振り回した包丁がヴェルデの頭部を襲い、片耳を切り飛ばす。血が飛び散り、激痛が走るがヴェルデは怯まなかった。
ここで自分が諦めたら坊ちゃまの命は無い。
その一心でヴェルデは敏代の足元に纏わり続けた。
蹴飛ばされて内臓に損傷を負い、左腕を肩から切り落とされ、刃先が義眼をはじき飛ばしてもなお、
昭夫を守るために立ち塞がり続けた。



「お姉さま、お姉さま!」
キッチンで夕食の準備をしている最中に、常磐が切羽詰まった声を上げた。
何事かと思い常磐が指差す方向を窓から見やると、向かいの家の中で女性らしき人影が包丁らしき物を振り回して暴れていた。
その足元には実装石と思しき影が纏わりついている。
何やら叫んでもいるようだ。これは不味いかもしれない。
私はスマホで110番通報した。



ヴェルデは既に満身創痍だった。
出血多量で力が入らない。
既に視界もぼやけていた。
それでもなお、敏代と昭夫の間に立ち塞がる。
「奥様、もう止めて下さいデス・・・」
ヴェルデの背後からは昭夫の泣き声がしている。
対する敏代も息が上がっていた。
だが、ここで止めるわけにはいかなかった。
包丁を持つ手に力を込め、振りかぶったところで、
「動くな!警察だ!」
鍵を掛けていなかったガラス戸が開けられ、警官が何人も踏み込んで来る。
敏代は抵抗虚しくあっさりと拘束された。



家の中から常磐と共に恐る恐る向こうの家を覗いていると、さほどの時間をおかずに警察が駆けつけ、
包丁を振り回していた女を取り押さえた。
そのまま女はパトカーへと押し込まれ、何処かへと連れられて行った。
赤ん坊とペットの実装石は無事だろうか?
私は常磐を連れて表に出た。
ちょうど警官が赤ん坊を抱いてパトカーに乗り込むところだった。
パッと見たところ、赤ん坊に怪我らしいものは見当たらない。
赤ん坊を抱いた警官の後を追うように、全身血塗れ傷だらけの実装石がよたよたと歩いてきて、
道路にまで出たところで力尽きて倒れた。
「こいつが赤ん坊を守ってたんですかね?」
「逃げ傷無し、か。こいつならうちの機動隊でもやっていけるかもしれんぞ」
そうした感嘆とも冗談とも取れる会話を交わす警官達に断りを入れて、実装石を保護する。
「大丈夫です?しっかりするです!」
常磐が呼び掛けるが、この傷と出血ではおそらく助からないだろう。
「坊ちゃまは・・・坊ちゃまは無事デス?」
虚ろな瞳でこちらを見上げる実装石に、私は応えた。
「ええ、無事よ。安心して」
「本当デス・・・?嘘じゃないデス・・・?」
「本当よ。男の子はちゃんと保護された。あなたが守ったおかげで傷ひとつない。あなたは飼い実装としての務めを果たしたわ」
「ぼ、坊ちゃま・・・ご主人様・・・」
そう呟いたきり、実装石は動かなくなった。
良き牧羊犬は羊のために死す、か。
ふと脳裏にそんな一節が過ぎった。
確か父が愛読していた小説にそんな一文があったなと思い出す。
手を合わせて、安らかに眠れるよう祈る。
常磐も私に倣って手を合わせていた。
現場に残っていた警官の内何人かが実装石に向かって敬礼しているのも見えた。
「常磐、花壇からいくらか花を分けてもらってもいいかな?この実装石に添えてあげたいの」
「はいです!とびっきり綺麗なお花をご用意するです!」
他所様のペットを勝手に処分するのはどうかとも思ったが、だからといって朽ちるに任せることも許し難かった。
私は実装石を抱き上げると、常磐を連れて自宅に戻った。
せめてものこと、丁重に弔ってやりたかった。

--
高速メモ帳から送信

■感想(またはスクの続き)を投稿する
名前:
コメント:
画像ファイル:
削除キー:スクの続きを追加
スパムチェック:スパム防止のため2542を入力してください
1 Re: Name:匿名石 2024/05/27-20:33:29 No:00009139[申告]
クソニンゲンやべーデス!
ヴェルデは稀有な良個体で感動しちゃったデス
2 Re: Name:匿名石 2024/05/27-22:52:26 No:00009140[申告]
ヴェルデが並の実装石達とは一線を画するのは実翠石への羨望が家人へ奉仕する為の器用さに向くのところだな。どこか高潔な精神が垣間見れる
それだけに他の良個体同様に悪意に潰されてしまうのが残念ではある
それでも結果として彼女自身が思う程無力では無かった事が救いなのかな
3 Re: Name:匿名石 2024/05/27-23:58:45 No:00009141[申告]
向かいの家に助け読んだ時に発狂するかと思ったけどヴェルデマジで良い奴じゃないか…
4 Re: Name:匿名石 2024/05/28-22:34:15 No:00009142[申告]
やはり醜悪さだけが実装石じゃない!
5 Re: Name:匿名石 2024/06/04-18:21:21 No:00009163[申告]
感動巨編じゃないですか…ヴェルデに敬礼!

こう言うクソ親もリアルにいるんだろーなー
戻る