『姉と弟(前編)』 ---------------------------------------------------------------------------- 夏休み最初の日曜日。 家族で出かけたショッピングセンターのペットショップで、トシオは父親にカブトムシを買ってほしいとねだった。 「自由研究でカブトムシの観察するから、いいでしょ、父さん?」 トシオは小学三年生。夏休みの宿題の自由研究にするというのは、ただの口実だ。 カッコいいカブトムシを飼ってみたいという、それだけの理由である。 「うーん、カブトムシかあ、ちょっと贅沢だなあ……」 値札を見て渋っていた父親は、近くのショーケースで売られている仔実装たちに目を留めた。 あれなら値段は半分以下だ。 「……トシオ、実装石はどうだ? お姉ちゃんも前からペットを飼いたがってたから二人で可愛がればいい」 「えーっ、実装石ぃ?」 トシオは不満げな声を上げた。 当然である。実装石なんてカッコよくないし、公園に行けば野良がうようよいるような、ありふれたモノだ。 友達に自慢できないどころか、わざわざ実装石を飼っているなんて言えばバカにされるだろう。 だが、息子の心中を理解しない父親は、そばにいた娘を笑顔で振り返り、 「アキコも、それでいいな? 実装石を買ってやるからトシオと一緒に面倒を見ろ」 「えーっ、実装石ぃ?」 二歳上の姉のアキコもまたトシオと同じ反応をした。 「あたしが飼いたいって言ったのは犬か猫だよ、実装石なんていらないし」 「でも犬や猫は世話が大変だぞ、病気や怪我の心配もあって。実装石なら怪我をさせてもすぐ治るし、子供が飼うにはぴったりだ」 父親は自分の思いつきに、ひとりで満足している。 その暴走を止めてくれるはずの母親は、いまバーゲン会場で奮闘中だ。 「うん、そうだ。実装石にしよう、な?」 むすっとしているトシオの頭を、くしゃくしゃと撫でて、父親は店員を呼びに行ってしまった。 「すいませーん、こっちで売ってる仔実装が欲しいんですけどー……」 「なんだよ、ちきしょう。実装蟲だったら、いらないよ」 トシオはアキコの顔を怨めしげに睨み上げた。 「姉ちゃんのせいだぞ、なんで犬や猫が飼いたいなんて言ったんだよ。そんなの父さんが買ってくれるわけないじゃん」 「あんたこそ、なんでカブトムシが欲しいなんて言うの。パパがケチなの、わかってるのに」 アキコも口をとがらせる。 仔実装のショーケースは二畳分ほどの広さの大きな水槽で、深さは風呂桶ほどだが客が見ている側は天井の高さまで透明なアクリル板が足してある。 はびこる野良のおかげで実装石といえば連想されてしまう糞投げを客は警戒しないで済むし、心無い人間による「商品」へのイタズラを防ぐためでもある。 ここにいるのは「売り物」の実装石で、駆除を口実にどんな扱いも許される(と、一部の人間が考える)野良実装ではないのだ。 水槽の中には二十匹前後の仔実装がいて、ぬいぐるみや積み木、すべり台にロッキングチェア、オモチャの鍋やフライパンなどで遊んでいる。 「…テチテチ♪」「…テチュチュ♪」「…テチィ♪ テチィ♪」 豊富にオモチャを与えてあるのは、仔実装たちが遊ぶ様子を「無邪気で可愛らしい」と客に思わせて、遊び道具との「セット買い」を誘うためである。 野良の同属に評判を落とされ、すっかり不人気な実装石だ。オモチャやフードなどの関連グッズも不良在庫と化しており、実装石自身ともども売れる機会に抱き合わせて売らないと片付かない。 オモチャは他実装でも遊べるが、パッケージに実装石の絵が描いてあるせいで他実装マニアは買ってくれないのだ。 ショーケースの仔実装が遊ぶオモチャもバックヤードに山積みの在庫から出して来たものである。 それほど人気のない実装石が仔実装だけで二十匹ほども店にいるのは、実蒼石や実装紅など人気者の他実装との抱き合わせでブリーダーから入荷するからだ。 ではなぜブリーダーは実装石の生産を続けるかというと、低確率で出現する特別賢い個体に芸を仕込めばマニア向けにそれなりの値段がつくからである。売れないのは「普通」の実装石で「特別」な個体にはニッチな需要があるのだ。 「…テッチ♪ テッチ♪」「…テテチィ♪」「…テチャチャ♪」 そんなニンゲン社会の事情は知らず、「普通」に生まれた仔実装たちは脳天気に遊び呆けている。オモチャとして一番手頃なはずのボールだけは「ある理由」から与えられていないのだが。 水槽の奥には舞台演劇の書き割りをミニチュアにしたような、ニンゲンの家の中を描いたボードが立ててある。ときどきその後ろに出入りする仔実装がいるのは、そこにトイレがあるからだ。 決められた場所でトイレをするのは販売用実装石の最低ラインで、それができない個体は店頭に並ばない。もちろん蛆実装は例外で彼らは垂れ流しが当たり前である。 水皿もボードの後ろに隠して置いてあるが、これは頭でっかちの仔実装がときどきずっこけて、水皿に顔を突っ込んだまま溺れるからだ。 面白がる客もいるだろうが、趣味のいい見世物ではない。 父親は若い男性の店員を連れて戻って来た。選ばれた仔実装を運ぶため、店員は洗面器を手にしている。 「芸ができるほどの躾け済とまでは言わないんで、子供でも可愛がってやれる利口な仔がいいんですが……」 父親は上機嫌で仔実装のショーケースを覗き込み、あの仔はどうか、この仔はどうかと店員に問いかけた。 少し離れて見ている子供たちの不機嫌そうな様子に気づき、店員は苦笑したものの、売ってしまえば勝ちだという考えか、父親に問われるまま仔実装たちの性格を説明する。 もっとも、店員もショーケースに何匹も同居させている仔実装の一匹ごとの見分けがついているわけではない。 互いに喧嘩しない程度に糞蟲性は薄いものの、所詮はカブトムシの半額以下で売っている安物だ。ほとんどテンプレ通りの性格に決まっている。 だから父親が指差した個体について、見た目の印象から社外秘のマニュアルに従って答えているだけである。 「積み木で遊んでいる仔は創造性豊かです。自分で工夫して何かを作ろうという積極性があります。 お鍋やフライパンで遊ぶ仔は社会性が高いです。ニンゲンさんの行動を真似したがっているので、きちんと躾ければお手伝いもできる良い仔に育ちます。 蛆ちゃんのぬいぐるみをプニプニしているのは家族思いで面倒見がよい仔です。蛆ちゃんや親指ちゃんとの多頭飼いをお考えのときはお勧めです。 ……あのイゴイゴと体を揺すっている仔ですか? あれは仔実装ダンスの練習ですよ、トイレを我慢しているのではなく。とても元気な仔ですねえ、あはは……」 積み木と呼ばれているモノは軽量ウレタン製で脆弱な仔実装でも持ち上げられるし、積み上げたものが崩れて当たっても怪我をすることは、そんなには、ない。 たまに怪我をする不運な個体がいれば売り場から除くだけである。怪我の治りが早いといっても安価な仔実装に治療の手間などかけはしない。 父親は子供たちを手招きした。 「トシオとアキコも、こっちに来てよく見ろ。おまえたちが飼うんだ、ちゃんと選びなさい」 「……実装蟲なんて、どれも同じじゃん。媚びるか漏らすかエサを寄越せとゴネるかじゃん」 「……トシオあんたが言い出したことなんだから、あんたが選びなさいよ。でも糞蟲だったりしたら怒るからね」 子供たちは父親に聞こえないよう小声で言い合いながら、渋々とショーケースの前に来た。 ショーケースを覗き込むニンゲンが増えたことに仔実装たちが気づき、「…テチテチ♪」「…テチィッ♪」と騒ぎ出す。 人気の凋落した実装石がニンゲンさんの注目を浴びる機会は多くない。 気まぐれにショーケースに目を向ける者がいたとしても、売られているのが仔実装だと知ると苦笑いで立ち去るのが常なのだ。 でも、このニンゲンさんたちは違う。ワタチを見てくれている。 「…テッチテッチ♪ テッチテッチ♪」「…テチャテチャ♪ テチャッ♪」「…テチィッ♪ テチィッ♪」 積み木遊びやお料理ごっこを中断して、仔実装たちはニンゲンさんの前に集まった。 どの個体も目を輝かせて、ぴょんぴょん飛び跳ねたり、イゴイゴと踊り出したりする。 あるいは両腕を差し伸ばし、抱っこ抱っことせがむような仕草。 ワタチを見テチ♪ 構っテチ♪ 可愛いがっテチ♪ 抱っこしテチ♪ ニンゲンさんのおウチに連れて帰っテチ♪ 飼い実装にしテチ♪ 厳しく戒められているので「おあいそ」のポーズだけはしないものの、行動としてはニンゲンに媚びているのと変わらない。 安物の仔実装である。飼い実装になりたいという本能的な「被保護欲」を抑えられるほどの躾けはされていないのだ。 「ほら、みんな甘えに来てるぞ、可愛いじゃないか。薄汚れた野良と違って清潔というだけでも、ずいぶん違うなあ」 父親がのん気に言ったが、トシオはふくれ面だ。 「やってることは野良蟲と同じじゃん」 「どうすんのトシオ? 少しでもマシなの選んでよ」 アキコもまた仏頂面で言う。 トシオは蛆のぬいぐるみを掲げてみせている仔実装を指差した。公園で託児を試みる野良蟲に仕草が似ていたけど構わなかった。 何でもよかったのだ。どうせ、どいつも糞蟲だ。 「……そいつにする、蛆蟲を抱いてるヤツ」 「…テチャッ!?」 自分のことだと理解して、選ばれた仔実装は蛆のぬいぐるみを片手で振り回し、ぴょんぴょん飛び跳ねて歓喜の声を上げた。 「…テッチュゥゥゥ♪ テッチュゥゥゥ♪」 「…テェェェ…」「…テチィィィ…」「…テチュン…」 ほかの仔実装たちは落胆するが、まだあきらめない。 選ばれた仔が、はしゃぎ過ぎて粗相するかもしれない。 最初からニンゲンさんの気の迷いで「やっぱり、もっと可愛い仔を選ぼう」と考え直すかもしれない。 だから、まだニンゲンさんの前で待ち続ける。自分が「選び直される」ことを。 「…テチィ…」「…テェ…」「…テチュ…」 店員がショーケースの後ろに回り、選ばれた仔実装をつかみ上げて洗面器に移した。蛆のぬいぐるみはショーケースに戻した。 「…テチュワワワ♪ テチュワワワ♪」 自分が選ばれた歓びで、体に比べて不釣り合いに大きなアタマに収まるちっぽけな脳味噌がいっぱいの仔実装は、ぬいぐるみを取り上げられても逆らわなかった。 飼い実装になれば、みんなで遊んだ使い古しではなく自分専用の新しいオモチャが与えられるはずだから。 そもそも蛆のぬいぐるみで遊んでいたのは、以前にニンゲンさんにお買い上げされた同属が同じぬいぐるみで遊んでいたからマネをしただけだ。 蛆チャンをプニプニして可愛がりたいなどと殊勝なことは、この仔実装は考えていない。自分が一番可愛いし可愛がられるべきという糞蟲寸前の利己的なアタマしかない。 同属を買って行ったニンゲンが店員に向かって、 「ボクが仕事で留守の間、蛆ちゃんをプニプニしてくれるドレイが欲しいんですよ。普通に飼うつもりはないんでプニプニさえ得意ならハゲたり汚れたキズモノでもオッケーです。どうせハゲハダカに剥いてやりますし。ボクは蛆ちゃんしか愛せない愛誤派なんで」 と言っていたことは仔実装にも聞こえたはずだが理解していない。 実装石にとってニンゲンに買われることはニンゲンに飼われることの同義語という認識しかない。ニンゲンが実装石を購入する目的には「飼い実装として可愛がる」以外にもあることが実装石のご都合主義の脳味噌にはどうしても理解できないのである。 洗面器に収まり、はしゃぎ続ける仔実装を、ほかの「選ばれなかった」同属たちが羨望の眼差しで見上げる。 「…テ…」「…テチ…」「…チィ…」 やがてニンゲンさんはショーケースの前から立ち去った。 仔実装たちは肩を落とし、住み慣れたショーケースの中のそれぞれお気に入りの場所へと散った。 積み木のところ。すべり台のところ。お鍋やフライパンのところ。親指チャンのぬいぐるみのところ── 「…ヂッ!」 一匹の仔実装が蛆のぬいぐるみを蹴飛ばしたが、ニンゲンたちは見ておらず咎められることはなかった。 ---------------------------------------------------------------------------- 夢見た飼い実装生活とは様子が違った。 入れられたのは小さなプラスチックの水槽で、エサ皿と水皿、トイレはあるけど、仔実装自身には身体を丸めてようやく寝られるスペースしか残っていない。 そのエサ皿と水皿は陶器だが縁が欠けたりヒビが入っている。元はニンゲンが使っていた醤油皿とは知らないまでも誰かの「お古」であることは仔実装にもわかる。 トイレはインスタントコーヒーの空き瓶の蓋を流用し、ひっくり返してペット用のトイレ砂を敷いたものだ。そこまでは仔実装の想像の及ぶところではないが、あり合わせであろうことは理解できた。 ペットショップにいたときのトイレは、もっと使いやすい仔実装用の「おまる」だったのに。 水槽自体も古くて擦り傷だらけだった。蓋をしていないのは壊れたからだ。 中にいる仔実装からすれば、蓋のない真上を除けば常に擦り傷越しに外の世界を見ているわけである。 「…テェェェ…」 水槽が置かれている場所も不本意だった。 コドモニンゲンさんの部屋の勉強机の脇で、ゴミ箱と並べられている。 消しゴムのカスとか、噛み終えたガムを包装紙で包んだものだとかが、ぞんざいに投げ入れられるので、水槽の隣に置かれたプラスチック製の円筒型の容器が「いらないモノ」を捨てる場所だと仔実装も理解した。 ならばどうして可愛い飼い実装であるはずの自分の水槽が、その横に置かれているのだろう。 「…テチィィィ…」 捨てられたガムの甘い匂いが仔実装の空腹を誘う。 しかし水槽の中に用意されたエサを食べるわけにいかなかった。 これは食べたらダメなゴハンテチ…… オトモダチのニオイがするテチ…… 飼い実装にとって同属喰いは御主人様への反抗と並ぶ禁忌だった。 ブリーダーが厳しく戒める「おあいそ」も、一度までは「折檻」で赦される。所詮は安物の「普通」の仔実装、その程度で潰していてはキリがない。 しかし同属喰いを待つのは「捨て実装」への一本道だった。同属の味を覚えた実装石は何度も共喰いを繰り返すからだ。 それほど甘美であるはずの「同属の肉」を原料にしながら、実装石の食欲を全くそそらないのが徳用実装フードであった。 ブリーダーのもとで選別されて「抱き合わせ」の出荷にも不向きとされた「普通」未満のクズ石──糞蟲やアホの仔を業者が回収し、糞抜きもしないまま加工した粗悪品だ。 ウンチのニオイも混じってるテチ…… 食べたらクソムシになるテチ…… しかし徳用実装フードにも需要はある。 たとえばヘビやトカゲなど肉食爬虫類の生き餌にする目的で蛆実装を多頭飼いする場合。 野良実装を駆除する罠の撒き餌とする場合。 あるいは縁日で売られるカラー仔実装に露天商がエサとして与える場合などである。 平気で糞食する蛆や、常に腹を空かせている野良には徳用フードでもゴチソウだ。 糞蟲の選別もされない格安のカラー仔実装は売る側も買う側もマトモに飼い実装にすることなど考えていない。ロケット花火の標的にするなど悪ガキがオモチャにして遊ぶのが主な購入目的で、エサはもらえるだけで充分な贅沢。 だから愛護派の飼い主なら敬遠する徳用フードもペットショップは扱っており、それがこの仔実装に与えられたのである。 この家の父親がケチだからだ。そうでなければペットを欲しがる子供たちに安物の仔実装を買い与えたりもしなかったろうけど。 「…テチュン…」 コドモニンゲンさんは先ほどからしばらく机に向かっている。 シュクダイのエニッキを書くと、もう一人のコドモニンゲンさんと話していたけど、それが終われば遊んでもらえるだろうか。 飼い実装はゴシュジンサマと一緒に遊んで仲良くなるテチ…… そうチテたくさん可愛がってもらうんテチ…… もう一人のコドモニンゲンさんは、この部屋を半分に仕切るカーテンの向こう側にいる。 カーテンは天井付近に差し渡した突っ張り棒から吊り下げてある。 部屋は六畳だが半分に仕切って机と本棚とベッドを一つずつ置いてあるから、残りの生活スペースは一人分がそれぞれ着替えができて精一杯という窮屈さだ。 それが仔実装視点では、 水槽のお外は広いテチ…… コドモニンゲンさんと追いかけっこできるテチ…… と見えている。 仔実装一匹なら存分に駆け回れるだろうが、ニンゲンと一緒となれば自分が踏み潰されてオシマイということまでは想像力が働かない。 カーテンの向こうからはオトコのニンゲンさんたちのお歌が聴こえて来る。 ペットショップでもときどきビージーエムで流れていたノリのいい曲で、ダンスが得意なニンゲンさんのアイドルグループが踊り歌っているらしい。映像では観たことがないから、どんなダンスかは知らないけど。 おミセでは、ほかのニンゲンさんのお歌も聴こえて来テチ…… でも、ここでは同じニンゲンさんがずっと歌っテチ…… コドモニンゲンさんの好きなカシュさんテチ? お歌に合わせて踊ったらコドモニンゲンさんは褒めてくれるテチ? でもコドモニンゲンさんはマジメなお顔でエニッキを書いてるテチ…… お邪魔になったらダメテチ…… 仔実装は自重して正解だった。 コドモニンゲンさん──トシオが、カーテンの向こう側にいる姉に向かって叫んだ。 「姉ちゃん、その曲うるさいよ! いま宿題やってんだから!」 「宿題って、ただの絵日記でしょ?」 アキコの返事があって、トシオはまた叫ぶ。 「それはもう終わった! いまドリルやってんだよ!」 「三年坊主のドリルなんて超簡単なヤツじゃん。国語? 算数? どっち?」 アキコがカーテンを開けてこちら側に来て、トシオの後ろからドリルを覗き込んだ。 「あんた相変わらず汚い字ね。宿題代わりにやってあげてもいいけど、その字をマネするのは無理だわ」 「うるせーな、最初からやってくれるつもりなんかないクセに」 「そんなことないわよ。国語と算数、一科目それぞれ二百円、両方なら五百円で引き受ける」 「両方だと高くなってんじゃん」 「当然でしょ。宿題全部やらせようなんて考え甘いのよ」 「頼んでねーし頼まねーし。ふざけて邪魔するなら向こう行ってろよ」 「はいはい。あんた漢字の書き取りよりもまず字を綺麗に書く練習するべきだわ」 意地悪く笑うアキコは、きゅみきゅみと白いゴムボールを握っている。 もともとやる気のない漢字ドリルへの集中が切れてしまったトシオは、そのボールが気になった。 「姉ちゃん、それ何してんの? 握力鍛えてんの?」 「そんなワケないでしょ。腕が太くなったらカッコ悪いじゃん」 ぽんっと、床にボールを弾ませるが、空気が抜けかけたボールは思ったよりもバウンドせず、アキコはキャッチし損ねた。 「あっ、ちきしょう。ソフトテニスの古くなったボール、まだ使えるのとダメなの分けてたのよ」 「…テチッ!?」 水槽の前に転がって来たボールに、仔実装は目を輝かせた。 「…テチィッ♪ テチィッ♪ テチュゥゥゥン…♪」 「はあっ? なにボール見て騒ぎ出してんの、このキモ蟲」 アキコが呆れて、トシオは冷ややかに、 「知らねーけど、姉ちゃんと遊びたがってんじゃねーの?」 「ぜってーヤダ、キモ蟲なんかと。キモいキモい、見るのもキモい。トシオあんた、そのボール捨てといて。キモ蟲の水槽に近づきたくないから」 「…テ…!?」 仔実装が一瞬、硬直する。自分が何を言われたのか、ちっぽけな脳の理解が追いつかない。 だから、また元のように甘えて鳴き始めた。 「…テチュゥゥゥン♪ テチュゥゥゥン…♪」 ゴシュジンサマとのボール転がしは仔実装の憧れだった。自分でやったことはもちろん、よその仔がやるのを見たこともないけど、愛された飼い実装であっただろう遠い先祖の体験が偽石に刻まれていた。 ボール転がしは実装石にとって全身運動で、それゆえに実装石視点では「ゴシュジンサマと一緒に遊んだ」という達成感を最高に満足させられるのだ。 おミセではツミキもヌイグルミもスベリダイもあったのにボールでは遊ばせてもらえなかっテチ…… オトモダチと一緒にボール遊びができればゴシュジンサマと遊ぶ練習にもなっテチ…… ペットショップでは売り物の仔実装たちに「売れ残り」のオモチャを豊富に与えていたが、ボールでだけは遊ばせていなかった。 仔実装同士でボール転がしをさせると確実に何匹かはコントロールの悪い個体がいて、これまた確実にいるはずの周りで「よそ見」をしてる不運な個体にボールをぶつけて怪我をさせてしまうからだ。 もともと抱き合わせでブリーダーから押しつけられて、それ自体も「売れ残り」と化すのが確実な仔実装たちとはいえ、仔実装同士の不注意で売り物にならなくなるのは店として腹立たしいのである。 そんなニンゲン側の事情を仔実装は知らない。理解しているのは「おミセのウリモノだった間はボールで遊ばせてもらえなかった」という事実だけだ。 しかしいま、渇望していたボール遊びのチャンスが文字通り目の前に転がって来た。 仔実装のちっぽけな脳は、それだけでいっぱいになってしまった。 ワタチは飼い実装テチ♪ だからゴシュジンサマとボール転がしするテチ♪ だってワタチは飼い実装テチ♪ 「…テッチテッチィ♪ テッチテッチィ♪ テチュゥゥゥン…♪」 「トシオ、あんたのその糞蟲うるさい! 黙らせなさい!」 アキコは吐き捨て、自分のエリアに戻ってカーテンを閉めた。 「…テッ…!?」 再び硬直した仔実装の水槽を、バシン! と、トシオがひっぱたく。 「オレが怒られたじゃねーか、糞蟲」 「…テヂャッ!?」 水槽が激しく揺れて、仔実装は尻餅をついた。エサを食べたあとだったら漏らしていたかもしれない。 水皿の水はこぼれ、エサも皿からこぼれて水に濡れた。 トイレ砂も水槽じゅうに撒き散らされた。糞をしていなかったのは幸いだった。 「…テェェェ…」 仔実装は、じわっと涙ぐみ、それから両目に手をやって泣き出した。 「…テェェェン、テェェェン…!」 どうチテ、ワタチが怒られるテチ? コドモニンゲンさんとボール遊びがしたいだけテチ…… 一緒に遊んで仲良くなりたいんテチ…… ワタチは飼い実装テチ…… もっと可愛がっテチ…… 「うるせーっての糞蟲!」 トシオが、また水槽をひっぱたく。アキコもカーテンをめくって顔を出し、 「トシオうるさいってば! 糞蟲どうにかしてよ!」 「わかってるよ! ベランダに放り出してやる!」 トシオはベランダのガラス戸を開けて、水槽を抱え上げた。 ちょうどそのとき、一階の玄関のチャイムが鳴った。 ──ピンポーン♪ トシオとアキコは顔を見合わせた。 「……ババア蟲だ」 「……シッ! 聞こえるよ地獄耳なんだから」 そして一階から父親が姉弟を呼ぶ。 「トシオ、アキコ! おばあちゃん来たぞ!」 「……はーい!」 トシオは渋々ながら答えて、仔実装の水槽を自分の机の脇に戻し、ベランダの戸を閉めた。 アキコが眉をしかめて、 「ベランダに追い出すんじゃないの?」 「そしたら糞蟲が騒いでるの、ババア……ばあちゃんの部屋まで聞こえちゃうじゃん」 「まったく迷惑な糞蟲。うるさく騒いで躾けもできてない。さすが安物」 不愉快そうに言いながら、アキコは部屋を出て行き、トシオも後を追う。 バタン、と音を立ててドアが閉まり、 「…テェェェン、テェェェン…!」 ひとり残された仔実装は、みじめに泣き続けた。 ---------------------------------------------------------------------------- 【中編に続く】