ふと気がつけば十一月も半ばにさしかかろうとしている土曜日。 空は高く、冬が訪れるまでには今しばらくの猶予がありそうだった。 けれどもやはり吹き付ける風は強く、冷たい。 庭に出て男はそれを実感した。 「うう、寒っ」 男は肩をすくめて呟いた。タバコを吸っているわけでもないのに、吐く息は白い。 まだ早朝と言ってもいい時間である。 そんな頃合にわざわざ庭に出た男が何をしようというのか。 背を丸めた格好で、庭の隅に置かれている物置に手をかけると、中から竹箒とちりとりを引っ張り出した。 そして、枯葉で作られた茶色の絨毯を前に、 「やるか」 一際大きな呼気を漏らした。 仕事の忙しさにかまけて荒れ放題だった庭の掃除を終えたのは九時頃。 もともとたいして大きくはない庭であったためか、思いのほかあっさりと片付いてしまった。 今、男の前では一斗缶が赤い火を湛えている。 落ち葉を普通に捨てるのではかさばってしまうので焼却処分を選んだ。 しばし火に当たって悴んだ手を揉み解す。 そうして火勢が落ち着いてきたところで縁側から家の中へと引っ込んだ。 焚き火によって身体は温まったがどうにも埃っぽいと感じ、風呂へと向かう。 たっぷりの湯に浸かってうたた寝をしていた男の意識を引き戻したのは、 「デギャァァッァッァァァァァァァ!!」 けたたましい実装石の悲鳴だった。 なんだなんだと手早く衣服を身に着けた男が見たのは、倒れた一斗缶と転げまわる実装石。 デズゥデズゥと右手をしきりに気にしている。少しばかり肉が焦げたような臭い。 どうやら熱された缶に手を伸ばして火傷を負ったようだった。 実装石は一匹ではなく、仔も連れていた。 いずれも汚れに汚れ、髪などはフェルト状になっている。おそらくは野良だろう。 仔実装達は親の苦しみ悶える姿にパニックを起こし、テチィテチャァと鳴きながら庭を駆けずり回っている。 そのうち一匹は頭を缶に潰されて絶命していた。親実装に寄り添っていて、逃げ切れなかったと思われる。 首から下は無事のようだったが、膝立ち姿勢で高く掲げた尻はパンコンによってこんもりと盛り上がっている。 その身体の下には赤緑の体液が水溜りのように広がり、しかし焼けた一斗缶によってジュウジュウ音を立てて蒸発していた。 「ったく」 男は仔実装の一匹が缶から零れた落ち葉の中に突っ込んだところで、バケツに水を汲んできて、それをぶちまけた。 「デズァァァァ!?」 「テヒャァァ!?」 突然の水撃に驚く実装石だったが、それで我に返ったのだろう。焼けて表皮が剥がれた右腕に舌を這わせながら、「デスゥー」と鳴いた。 それに呼応するように仔実装達が「テチ」「テチャ」と応える。 親実装の周りに集まった仔実装は三匹。うち一匹は足取りが覚束ず、肌を真っ赤にしている。先ほどまだ熱の残る落ち葉に突っ込んだ仔だ。 「テェェェン!」 「デスゥ…デス」 火傷が痛むのか、親に訴えているようだが、実装石にはどうしたらよいか分からず困っていた。 残りの二匹はそれぞれ、親実装にしがみ付きテチテチ鳴いているのと、潰れた姉妹を助けようとでも言うのか痙攣する死体の周囲をぐるぐる回っていた。 男は長いスチール製のトングで慎重に一斗缶を引き起こすと、零れた落ち葉の焼け残りを集めて入れた。 そして、缶の中身をトングで探るとアルミホイルに包まれたラグビーボール状の代物を取り出す。 焼き芋だった。 どうせ焚き火をするならと、放り込んだのだが、その香りが実装石を引き寄せたのだろう。 己の迂闊さを呪う一方で、慎重にアルミを剥がして現れた黄金色にうっとりする。 幸い水は掛からなかったらしく、湯気を立てるそれを、一口。 「あふっ…ほっ…ふへぇ!」 熱々のサツマイモは、見た目に劣らずホクホクと、そして蕩けるように甘い。 さらに一口二口と齧ったところで、 「デー…」 「テー…」 「テッチュン!」 足元にいつの間にか群がっていた親仔三匹が涎を垂らして彼を見上げていた。 火傷を負った仔実装は置いてけぼりにされ、少し離れた地面で仰向けになって「テェェェェン! テチャァッァァア!」と手足をバタつかせている。 「デッスー!」 親実装が小首をかしげるような仕草を見せた。顎に添えるように曲げた右手は、破け剥がれた皮膚から血を溢れさせるが気にも留めない様子。 「テッチィ!」「テッチュゥン!」 仔実装も同じような素振りを見せる。 そのままのポーズで三秒ほど固まった後、 「デズゥゥァァッァァァアァ!!?」 いきなり親実装が吼えた。 地面を踏み鳴らし、梅干のように皺を寄せた顔は怒りを現しているようだ。 「ふむ」 男は半分ほど残った芋からアルミホイルと新聞を取ると、実装石達に見えるようにサツマイモを振って、庭の茂み目掛けて投げた。 「デズァァ!!」 一目散に茂みに向かって突撃する親実装と、その後を仔実装が追う。 それを尻目に男は手の中に残った芋と、まだ一斗缶から取り出してなかった二個の芋を手に家の中へと戻った。 男が投げたのはアルミホイルと新聞紙の方であったことに実装石たちが気付くのにはしばらくかかった。 先日引っ張りだしたコタツに入って緑茶と焼き芋を堪能していると、サッシ窓の外から「デスッ! デェッス!!」と音がした。 首だけを動かしそちらを見れば、銀紙を片手に窓を叩く実装石の姿。 仔実装は縁側の上まで上れないのだろう、親だけ。 男はそんな実装石に見せ付けるように大げさに芋を齧り、茶を啜ってみせる。 「デジャァァッァァッァァァア!!」 鬼のような形相で窓ガラスを叩き続ける親実装。 その右手はようやく治まった出血をぶり返し、ガラスに点々と跡をつける。 「てめぇ…」 男が立ち上がる。 初めはやっと餌にありつけるとニコニコ顔の実装石も、男の睨む視線が近づいてくると慌てて逃げ出した。 「デスッ! デスゥ!!」 必死に仔を呼ぶ親実装が向かうのは、窓ガラス正面にぽつんと置かれていた犬小屋だ。 少し前まで使っていたのだが、秋を迎える前に家主を亡くしてからは利用者不在のまま今に至る。 男がそれを放っておいているのは捨てるに忍びないから、ではなく単に捨てる際に金が掛かるのがいやだからだ。 そんな男の性分があだになった。 もちろんそれは実装石たちにとって、である。 さっさと敷地内から出て行けば男の性格からしてそれ以上は追わない確率のほうが高い。 それなのに親実装は手近なそこを逃げ場として選んでしまった。 「デスゥ……」 仔実装二匹を小屋の奥へ押し込めて、自らは最後に身を滑り込ませた。 頭から入ったので尻を男に向ける形となったのだが、実装石からは男が見えないので安心しているようだ。 「テチャァッァァァァァッァァアァ!!!」 と、小屋の外から仔実装の鳴き声が響いた。それは火傷で上手く動けなくなった仔のもの。 親実装は自分も逃げたいがあまり、その存在を失念していた。 「テッチィ…」 「デス…デスッ」 「テチャァ!」 助けてあげてと請われても親実装は首を横に振ることしかできない。 人間に対して実装石ができることなど無いに等しい。せいぜいが不快感を煽ることと、時間を浪費させることだけ。 親実装は血涙を流しながら届かない手で耳を押さえようと頑張っていた。 男に摘み上げられた仔実装はこの世の終わりとばかりに絶叫した。 それが恐怖からか、火傷による全身の痛みからかは男には分からない。 犬小屋からはみ出た親実装の尻は、死体となった仔実装と同じくパンコンで膨らんでいる。 ひとまず男は親実装は置いておくことにし、仔実装の処理に掛かった。 処理と言っても髪と服を剥いで一斗缶の中に投げ入れるだけだが。 ついでに身体だけになった仔実装だったものも放り込む。 そこは半分灰となった落ち葉がクッションとなって仔実装を受け止める。 水を被った灰がべたべたと身体に纏わりついてくるのを不快に思った仔実装が「テェ」と鳴く。 が、もとより全身は火傷の痛みで思うようには動かず、ただ落ちたときの姿勢そのままで四角く切り取られた空を見ていた。 「テチィィィィー!」 親を呼ぶ。これから何をされるか分からない恐怖が、一度捨てられたことも構わずに庇護者を求めて叫ぶ。 当の親実装は犬小屋の中でガタガタと震えるだけで仔実装の声には応えるつもりは毛頭無いようだった。 男が覗き込むと、より一層鳴き声は大きくなる。 恐怖のあまり仔実装は延々と脱糞をしながら叫び続ける。けれど応える声は無い。 一度家の中へもどった男は改めてサツマイモを二個ほどアルミホイルに包んで戻ってきた。 それを無造作に一斗缶へ。 突然の巨大な物体の来襲に「テヒィ」とか「テヂャァ!」と仔実装は悲鳴をあげた。 男はそこにキャンプなどで使う濡れても平気な着火材を入れると、徐に火をつけた。 「テガァッァァァァァァァァァァァ!!! チャァァァァァ! チュワッ! ヂャァッァァッァァァ!!」 それまでの叫びが可愛く思えるほどの大音量。 今度ばかりは仔実装もただ鳴いているだけではだめと悟ったのか、のろのろと手足を動かし少しでも火から遠ざかろうとする。 初めのうちは着火材周りでだけ燃えていた炎だったが、やがてまだ濡れていない落ち葉に触れると一気にその勢力を広げていく。 「アァァァァッァァァァア!! ヂュァァァァァァァア!! テチィ! テヂィィィィィィ!」 銀色の壁を力なく叩く仔実装を見下ろす男はトングでその頭を小突いたり、手を挟んで火の方へ引っ張ったり。 やがて一斗缶内を埋め尽くすまでになった火に全身を包まれ仔実装は崩れ落ちた。 仔実装の声が聞こえなくなったことで危機が去ったと思ったのだろうか。 親実装はのそのそと犬小屋から這い出ると、目の前で煌々と焚かれている火を見て脱糞した。すっかり下着は丸みをおびている。 根源的な火への恐怖。 しかし、それと同時に原始的な欲求を掻き立てるものがある。 肉の焼ける臭い。突き動かされるのは食欲だ。 仔実装が親の脇をすり抜けて、「テッチィ!」と臭いの元、一斗缶へと駆け出した。 「デェ!?」 流石にそれは危ないと思ったのか、慌てた親実装は仔実装が銀壁に手を触れる前に抱きとめる。 近づくとより一層臭いは強くなった。さらに水に濡れた身体に火の熱は暖かく、心地よい。 うっとりと眼を閉じた親仔の前に男はトングで取り出したものを置いてやる。 程よく焼けた肉。首から上が無いことから、先に死んだ仔のようだった。 すっかり変わり果てたそれを家族とは思えない実装石たちは、食べてもいいものかとチラチラ男へ視線を投げかける。 ただ、男が一度頷くと、嬉々として飛びついた。 かつて仔だったそれの手足を親は千切って仔に与え、自分は丸々とした腹にかぶりつく。 「デッス〜ン!」 「テッチューン!」 「チュァァァァ…!」 瞬く間に肉は無くなり、調子に乗った親仔は次を要求する。 男はそれに応えて、もう一匹を取り出す。今度は全身がしっかりとしている。 「デ?」 流石にこれには親実装も首を傾げ、「デスゥ?」と男に問うた。 仔実装達はお構い無しに伸びた手足から齧りついている。 実装石の問いに男は何も答えない。 そのうち自分の取り分が減ると思ったのか半分ほど食われたそれを仔から奪い、美味そうに頬張る。 「寒いなぁ…」 芋が焼けるまでもう少し掛かるだろうと男は一度家の中へと引っ込んだ。 茶を淹れ直し、一息と思ったのだがまたまた庭が騒がしい。 見れば親実装が仔実装を担いで一斗缶の中に投げ込もうとしていた。 そんなに仔の丸焼きが気に入ったのだろうかと男は考えた。 その実はただ一斗缶の中にまだまだ美味いものがあるのではとの実装石の思い込みからの行為だ。 けれど親実装の痛む右手は、一斗缶に触れるのは危険だと告げている。ならばと思い至ったのが直接中身を取ればどうかということだ。 火は落ち着き、見上げる親実装からは隠れて見えないことも判断の理由だろう。 投げ入れた先がどうなっているかまでは思い至ってないようで、仔実装もなにやら乗り気だ。 「デスゥ! デスッ!」 「テッチュー!!」 美味しいものをいっぱい見つけて来いと言われた仔は任せろとばかりに胸を叩く。 「デェェェッス!」 親の渾身の一投は実装石にしては抜かりなく仔実装を一斗缶の中へと導いた。 「テッチ…・・・ィァァァァァァァァァッァァァァァァァァ!?」 宙を飛び上機嫌だった仔実装だが眼下に迫る火には悲鳴をあげずにはいられない。 その声にまさかと親実装は顔を青くするが時既に遅し。 「ヂギィィィィィィイィィィィッ!!」 碌に身体も服も洗っていない野良の全身は脂に塗れ、容易く引火する。 あっという間に炎に巻かれた仔実装はなまじ叫んだせいで気管が焼け、喉を潰す。 仔の声がピタリとやみ、親実装が一斗缶に駆け寄った。 「デズゥゥゥゥゥ!」 涙を流して訴えるが返事は返ってこない。 「テチィ……」 一匹残った仔が不安そうに親の傍で鳴いた。 しばらく呼びかけていた親実装だったが漂ってきた匂いに眼を見開く。 それはまさしく先ほど食べた御馳走のもの。 「デッス!? デスゥゥー!」 何とかして手に入れたい。最早仔のことなどどこへやら。 そこにやってきた男がレア状態の仔をトングで掴み取った。 服や髪はなくなっているが、肌についた焦げ目は薄い。 落ち窪んだ眼窩や開いた兎唇から最期の表情まで読み取れる程度に仔実装は原型を留めていた。 「デ…デ…デ…」 「テチィ?」 親実装はそれを仔実装だと察したようだが、同時に鼻腔に届くにおいに困惑していた。 なぜなら仔だと分かっているのに、美味しいとも思えたからだ。 両手を伸ばす形で息絶えている仔を抱き上げる。 まだ熱いが、構わない。考えすぎて感覚が麻痺しているのかもしれない。 「デス」 呼びかけてみる。もちろん返事は無い。 においを嗅いでみる。美味しそう。だがかすかに自分の仔である残り香もする。 「…デスゥ?」 親実装は問いかけてみたが、既に男はガラスの向こうだった。 「デッデロゲー。デッデロゲー」 「テッテロチェ〜テッテロチェ〜」 親実装は結局その仔を食わなかった。 捨てることもせず、犬小屋にもぐりこんで調子はずれのリズムで鳴いていた。 胎教の歌と俗に言われるもの。 実装石が何の根拠も無いのに腹の中にいるわが仔に楽しい一生を教え込んでいるのだと。 それが実現する実装石は鳥取砂丘に混じった一粒の砂金程度しか存在しないというのに。 今、親実装は妊娠をしているわけではない。 焼けた仔実装が眼を覚ますようにと歌っているだけ。 残った仔は親実装の真似をして暢気に口ずさんでいるが、時折涎を啜る仕草を見せていた。 もう少し煩ければ男も黙らせようと思ったかもしれない。 親実装は半ば放心していたのだろう、囁くような声だった。そのうえ犬小屋の中だったことで男からは見逃された。 夜。 就寝前に窓の外に眼を向ければ、家のから漏れる明かりに反応したのか仔実装がテチテチと寄ってきた。 しかし親実装は姿を見せず、例の胎教の歌だけがかすかに男の耳に届いた。 翌朝。薄曇の空だった。 男が庭先に立つと、やはり仔実装だけが出てきた。 「テチィ」 その腹はパンパンに膨らんで口の周りや前掛けもベタベタに汚れていた。 食ったな。 男の考えを肯定したのは、犬小屋から飛び出してきた親実装だった。 その手には右半身を食われて失った仔を抱えている。 「デスァァァァァッ!?」 「テチ? テッチューン」 何故食ったのかという親の責めに、あっけらかんとそれはご飯だからと応える仔実装。 「……デジャァァァァァァッァア!!」 糞蟲が。 親実装の振るった右手はあっさりと仔実装を吹き飛ばし、まだ出しっぱなしだった一斗缶へ叩き付けた。 「…ヒッ! ヒィ…」 既に虫の息の仔実装だったが、親実装の怒りは治まらないらしく、手持ちの仔実装で強かに打ち据える。 「デスッ! デスッ! デスゥゥゥ!!」 「テヒッ! ヒギッ! チュアアァァアッァアァ!」 仔実装は懸命に手を翳して身を守ろうとするがそもそもの体格差からしてどうすることもできない。 やがて仔実装が鳴くこともできないほどに全身を腫らし、小刻みに震えるだけになると流石に親実装もその手を止めた。 「デスゥ?」 反省したかと声をかけるが、仔実装は何一つ反応を寄越さない。 「デス! デス!! …デ……スゥ?」 そして親実装はわが仔を手に掛けてしまったことにやっとのことで気がついた。 一部始終を見届けた男は、ゴミ袋を持って来ると一斗缶の中の灰を入れ、それから仔実装の死体を二つとも突っ込んだ。 僅かに親実装が抵抗の素振りを見せたが、迷うように両手を上げ下げし、 「デズゥゥゥゥゥ」 がっくりと項垂れた。もう、仔はこの世にはいないと悟ってしまったのだろう。 それでも男がゴミ捨て場に行くときはずっと後ろをついていき、男が去った後でも捨てられたゴミ袋の前でじっと立ち尽くしていた。 親実装が再び男の庭に姿を現したのはごみ収集車が去ってから程なくしてだった。 どうやらゴミを荒らすでもなく、かといって死んでいるわけではない実装石は処分されなかったようだ。 「デー…」 ガラス越しに一声鳴いた実装石は、再びもぞもぞと犬小屋へ潜り込み、時折歌う。 その歌も見るとはなしに点けられていたテレビの音声によってかき消された。 それからの実装石は、男の出勤と同時に一緒にゴミ捨て場まで着いていき、男が帰宅する頃には犬小屋に篭っていた。 男は決して実装石に餌など与えなかったし、実装石も偶に「デー…」と鳴くだけで特に何かを要求することは無かった。 ただ、無駄に糞を振りまかれては困ると犬小屋の横に穴を掘り、そこに糞をするようにだけ言い聞かせる。 果たして理解したかどうかは怪しかったが、きちんとその穴をトイレとして利用しているようではあった。 そして再び土曜日。 男が庭に出ると、糞穴に実装石が顔を突っ込んでいた。 何かを啜るような音もする。 なかなか穴がいっぱいにならないと思ったらどうやら糞食をしていたようである。 男の気配に気付いたのか顔中に糞をつけた実装石は嬉しそうに近寄った。 「デスゥ」 その眼は両方とも緑に染まっていた。 男の家とゴミ捨て場の間には椿の花の生垣があった。 おそらくそれの影響だろうかと男はふんでいた。 どうするか、とは考えない。 間もなく冬である。放っておいても大抵の仔実装は死んでしまう。 今のままでは親実装も生き延びることは難しいだろう。 折りしもこの週末は天気が悪く、氷雨と呼べるほどの冷たい雨が日がな一日降り続いていた。 それはもう少し季節が進めば雪になるだろうが、今はまだ少しだけ早い。 折角の休みだが男はじっとコタツに陣取っていた。 実装石も犬小屋でブルブルと震えていた。 ぐずぐずと降ったり降らなかったりを繰り返すうちに気温はどんどんと下がっていく。 その実装石が男の庭に居ついて三度目の土曜日、男は週の半ばに入った急な出張から帰宅した。 「ただいまー」 誰もいなくともとりあえずは挨拶をするのが男の習慣だった。 が、直ぐに異臭が鼻につき、身構える。 恐る恐る居間に向かえばそこは無残に散らかっていた。庭先に面した窓は割られている。 泥棒か。 警察に連絡しようとしてあることに気付く。 一定の高さ、男の膝丈よりも上は殆ど荒されていない。 割れたガラスもよく見れば穴はそれ程大きくなく、また鍵からは遠い位置にあった。鍵は掛かったまま。 そして床や家具に所々に付着した緑の染み。 男は一度玄関から外に出て庭に回る。足音を忍ばせて犬小屋を覗き込むがもぬけの殻だった。 何枚かのコンビニ袋だけが残っていた。 「…まったく」 深々とついた溜息は男の顔に靄をかけ、消える。 再び居間に戻った男は一番手酷く荒らされていたコタツの掛け布団をめくった。 すると、やはり中には実装石が丸まっていた。眠っているようだ。 電源は入っていないが外と比べればずっと快適だろう。その顔は安堵で緩みきっていた。 「テチィ?」 鳴き声がし、もぞもぞと実装石の服が動いたかと思うと、スカートの裾から仔実装が出てきた。 どうやら既に産んでいたようである。 もっとも最初に見かけた仔よりも一回りほど小さい。親指実装とまではいかないまでも早産に近いものだったと思われた。 仔は一匹だけではなかったようで、 「テチ」 「テチャァ」 「テッチィ」 後から三匹、合計で四匹だ。 仔実装達は男を、人間を見ても驚くことをせず、テチテチと歩み寄ってくる。 生まれてからまだそれ程経っていないと思われるのに、既に服は汚れ、下着は緑に染まっていた。 下着を降ろして糞をすることを教わっていないのか、膨らんだ下着からは歩くたびに糞が零れる。四匹が四匹ともだ。 仔実装達の鳴き声に反応したのか、それともカイロ代わりがなくなって寒さを覚えたのか、実装石がうっすらと眼を開ける。 そして男を認めると、 「デスー」 嬉しそうに鳴いた。 「デズゥゥゥゥゥゥゥ!! デヂャァァァァァァァァアッァア!!!」 親実装の声が響くのは風呂場だ。 水の張っていない浴槽に親仔五匹を放り込んだ男は、シャワーを固定して青の蛇口をひねった。 当然出てくるのは水。それも冬の冷たいものだ。 突然の冷たさに騒ぎ立てる親実装、泣き喚く仔実装。 親実装は冷たい雨から仔を守るようにシャワーに背を向け、自分の懐へ仔を抱きかかえる。 けれど水流の勢いは強く、あっという間に親実装の全身がずぶ濡れになる。 さらには浴槽には栓をしてあるため、徐々に水が溜まっていくのだ。 仔実装達は足元か来る冷たさに大合唱で親に助けを求める。 「デスゥッ!」 降りかかる冷水を省みることなく親実装は背後を振り仰いだ。 これが人間の手によるものとわかっていたため、助けを請おうとしたのだが、 「…デ!?」 そこに男はいなかった。 男は現在部屋の大雑把な片付けと、業者に連絡してガラス交換の段取りをつけていたからだ。 「デスゥゥゥ! デェェェェェェッスゥゥ!!」 声の限り、親実装は男を呼ぶ。が、叩きつけるシャワーの音がそれを打ち消していく。 水が仔実装の首元まで到達したところで、親実装は慌てふためいた。 何とか逃げ道を探そうと浴槽内を動き回り、幸運にも栓の鎖に足を引っ掛けた。 途端に水位が下がっていき安堵する親仔。 けれど未だに雨は止まず、五匹の身体に打ち注がれていた。 こびり付いた糞や、食い散らかされた野菜等を全て片付けた男が浴室にやって来た時には、二匹の仔実装が寒さで息絶えていた。 生き残った二匹はなんとか親が服の下に潜り込ませ、直接体温を分け与えていたおかげで助かった。 その親実装も男の姿を見ても言葉を発することができず、ガチガチと歯を噛み鳴らして震えるだけだった。 まだ生きていたことに男は驚いたが、寒さですっかり動きの鈍った実装石を捕まえ、バケツに詰める。 男はこの実装石を放っておいたことを悔やんだ。 もっとはっきりとした態度を取るべきであったと。 そうすれば実装石は庭から出て行くとまではいかないまでも、男の影に怯え、犬小屋に閉じこもっていたかもしれない。 一度虐待派から足を洗った身なれど、ここまでされてはいそうですかと開放してやる気は毛頭無かった。 庭に出ると仔実装の一匹を取り上げて、かつて使っていたハトメパンチで耳に穴をあけた。 「テギィ!」 痛みに嘆き、寒さに泣く。 もう一匹も同じように処理すると、犬小屋脇に刺さっていた杭に細いチェーンで繋ぎ止める。 狭いバケツ内から解き放たれた親実装は、仔実装の姿に「デェェェ…」と呻くような声を漏らした。 そして男はスコップを手に取ると、トイレ代わりの糞穴に突き立てた。 何時間経っただろうか。 穴を掘り続けた男の額には汗が浮き、身体からも湯気が立ち昇っている。 三十センチほどの深さだった糞穴は一メートルほどに達しようとしていた。 その間、親仔実装は濡れた身体を外気に晒し、急速に体温を奪われ凍えていた。 三匹は仔が殆ど動けないため、犬小屋に避難して寄り集まり、何とか耐えている状況だった。 「こんくらいか」 男の腰ほどの深さになった頃合で手を止め、犬小屋から親仔を引きずり出す。 「デヂャァァァッァアッァァァ!! デスゥァァァッァア!」 仔を背後へ匿いながら親実装が吼える。 「おい糞蟲、お前はやっちゃいけないことをした。分かるか?」 しゃがみこみ、男は説く。 「デシャァァァァァ!! ジャァァァァァアアァァァッ!!」 けれど親実装は仔を守ることに必死なのか、ただただ威嚇するだけ。 やれやれと男は親実装の頭巾を掴むと、 「死ぬまで反省してろ」 穴の中へ投げ入れた。 仔実装が忙しなく走り回っていた。 犬小屋の前に置かれた皿に盛られている餌を一粒掴んでは穴へ、親実装の元へ運んでいる。 餌は骨の形をしたドッグフード。仔実装のサイズと相まって一度に一粒を運ぶの精一杯だった。 男は親を見失い、泣きながら駆け回っていた仔実装に告げた。 「親が生きてる間は面倒見てやる。ただし、俺は親の世話はしないから、お前たちで頑張って親を長生きさせろ」 「テチィ〜?」 「テェェェェェェン! テェェェェェン!!」 さっぱり理解されず、穴の底で何とか逃げ出せないものかと飛び跳ねていた親実装にその内容を伝えると、 「デッス! デェェェェッス! デス、デスゥ!!」 「テチ!」 「テッチャァ!!」 親の言葉で何とか仔はやるべきことを理解したようだった。 そして男はまず、餌を与えることにする。 物置からかつての犬小屋の主が主食としていた余ったドッグフードをたっぷりと盛り付けた。 初めは仔実装二匹が喜んで齧り付き、その硬さに難儀しながらも静かに食事としていた。 そこに親から声が掛かって、自分たちの使命を思い出したのか、「テッチテッチ」と餌を運んでいるのである。 しかしながらそこは仔実装の体力とスピード。 二匹とも十往復もしないうちに疲れを見せ始め、やがてのろのろと歩くようにして運び出す。 そして半分も運びきらないうちに仔実装達は諦めたのか、犬小屋へと入っていった。 当然親実装は十分な量の食事にありついていないのだが騒いでも余計に腹を空かすだけだと気付いたのかごろんと横になった。 「デスン…デスン……」 空腹、仔に会えない寂しさ、男からの拒絶。色々なものが入り混じりって実装石の眼から涙を押し出す。 穴の中には風が吹き込むことは殆どないが冷たい空気は降りてくる。 一時、男がいない間に潜り込んだあのコタツが懐かしい。 「デスゥ……デスゥ…」 頑張るんだと言い聞かせる。自分が生きなければ仔は殺されるのだから。 男の見立てでは親よりも先に仔が死ぬだろうと思っていた。 風の無い穴の底で何もすることなくじっと生きることだけを目的とする親実装と違い仔実装達の日々はハードだ。 冷たい風にさらされながら親のために餌を運び、それが終われば眠りたいのだが寒くてなかなか寝付けない。 一応、男から掃除の際に使った雑巾を二枚与えられているのだがそれに包まったとしても身体の小さい仔実装の体温が奪われる方が速いだろう。 二日目にして殆ど餌の運搬を諦めていることからも早速限界が来ていることが伺える。 仔実装達は穴に四・五粒のドッグフードを投げ入れた後、自分達の食べる分を抱えて犬小屋に戻っていた。 二匹寄り添ってガタガタ震えながら硬い餌を懸命に食べる。その食べるという行為ですら仔実装達には辛かった。 「デスゥゥゥゥゥ!! デェェェェェエェェェェズ!!!」 穴からはひっきりなしに親の声が聞こえる。 それは唸りをあげる風の音にもどこか似ていた。 「テヂャァァァッァァアッァァァッァァァァァ!!」 「テヒッ! ヒッ! ヒヂュゥゥゥゥゥッァァァァァァア!!」 二匹の仔実装は悶え苦しんでいた。 原因はその右手に突き刺さる爪楊枝。二匹共に手の先から肩を貫くようにして、腕の中心を爪楊枝が通っていた。 地面にへたり込んで痛む右手を押さえて泣く仔実装。 痛みの衝撃からか漏れた糞でパンツは膨れ、なおも出続ける糞が隙間から零れて地面に広がっていく。 「だから、糞はそこでしろって言ってるだろう」 男が指差すのは親実装のいる穴。 「テェェァァァァァア!! テヂィィィィィィッ!」 「テェェェエン…テェェェェェン…テェェェェン」 腕の怪我に気がいってる仔実装達は聞く耳を持たない。 「おい、黙らないともっと刺すぞ」 ピタリ、とまではいかないが二匹はぐずつく程度にまで声を押さえた。 痛いのはいやだということだろう。 仔実装の涙を湛えた瞳が自分を捉えたことを男は確認してからもう一度、排便は穴の中にするように諭す。 が、一匹は「テチィ?」と首を傾げ、もう一匹は「テェェエェェ…」と俯きがちに首を横に振るのだった。 どうも片方はトイレの概念を理解できないだけなのだが、もう一方は親のいるところに糞をするのがいやなのだと思われた。 しかし男にそんなことは関係ない。 別の穴を掘ってやる義理も無い。第一仔実装が殆ど餌を運ばなくなっているため、仔の糞でも親にとっては生きる糧になりえるのだ。 「今度漏らしたり、別なところで糞してたら眼を貰うぞ」 腕から引き抜き、血で染まった爪楊枝の先端を仔実装の眼前に突きつけて言う。 「テ…テェ……」 渋々ながらも承諾したと男は判断し、 「よかったな餌が増えるぞ」 語りかけられた親実装は「デェ…」と僅かに鳴いただけだった。 それから二日ほど、親仔は生きながらえた。 少しずつ作業になれた仔実装が運ぶ餌も増え、食糞とあわせて親実装は食いつなぐことができた。 仔実装達も身体を動かしていれば暖かいことを覚え、その熱が冷える前に雑巾の布団に包まって寒さを凌いだ。 運が良ければもうしばらくはこの営みが続いたかもしれない。 が、もっとも実装石に対して厳しいのはやはり自然だった。 通勤途中。満員電車の窓ガラスに叩きつけられる雨粒を男はじっと見ていた。 停滞前線はまるで狙ったかのようにやってきた。 降り注ぐ氷雨は街中の音を吸い込み、雨音だけで満たしていく。 「デェェェェェエェエエェェェエエェエエエ!!?」 親実装はやせ細った身体で何とか穴から抜け出そうと試みていた。 屋根が無いため、雨は際限なく親実装の身体を打つ。そればかりか底の方にどんどん溜まっていくのだ。 それはかつて男から受けた風呂場での仕打ちのように、けれど水位を下げる手段は無い。 「デェッス! デェッス!!」 水飛沫をあげ、親実装は跳ねる。だが、ぬかるんだ地面では踏ん張りがきかず、また実装石の脚力では半分にも届かない。 「テチィィィィ!! テチィィィィィィィ!」 仔実装の一匹が濡れるのにも構わず穴の縁で必死に親に呼びかけていた。 「テチャァァァアッァア! テチ! テッチィィ!!」 もう一匹は誰もいない居間に向けて助けを呼ぶ。 三匹の声は、けれど降りしきる雨に包まれ誰に届くことは無かった。 男が帰宅する頃になってもしとしとと雨は降り続いていた。 夜中。帰宅した男は真っ先に庭へと足を向ける。 仔実装が一匹、犬小屋と家の丁度中間ほどの位置でうつ伏せに倒れていた。 既に身体は冷たく、息もしていない。開いたままの口からはだらしなく舌が飛び出ている。 次いで穴を覗き込むと半分ほどまで水が溜まっており、親実装が沈んでいた。 よほど一生懸命に足掻いたのだろう、手前の壁はいくらか削れて齧りついてでも昇ろうとした痕跡があった。 ゆらゆらと揺れる水面の向こうで大きく見開いた眼をこちらに向けている。 その水はうっすらと緑に色付き、夜闇の中でなお一層親実装の顔色を暗くしていた。 そして、最後に犬小屋を見る。 中では仔実装が雑巾を重ねて掻き抱きながら、荒い呼吸を繰り返していた。 明らかに具合が良くない。 大分雨に打たれたのだろう、未だにぐっしょりと濡れた衣服は発熱した仔実装の体温を受けてもなお冷たい。 「……テェ」 うっすらと明けた瞳で男を見ると、鳴いた。 その顔は僅かに笑みを作るように動くが、途中で力を失い呼吸も止めた。 男は二匹の仔実装の死体を親が眠る穴に投げ捨てた。 そうして、雨でふやけたドッグフードも流し込むとスコップを取って穴を埋めていく。 雨を受けつつ身体を動かしながら男は思う。 なぜ、最後に仔実装は笑おうとしたのだろうか。 助けが来たとでも思ったのか、それとも親実装と見間違いでもしたのか。 その答えを知る術は無い。 赤と緑の二つの小さな月が、地の底、水の底でゆらりと瞬いたような、そんな気がした。 —————————————————————————————————————————— 毎度ありがとうございます 拙作 【哀】 実生ブランコ 【虐】 愚者の体温 【虐】 101号室 【観察】 アンダー・ユア・ポスト 【虐】 飼育する実装 【虐】 仔犬のように、君を飼う 【虐】 ルビコンの向こう岸

| 1 Re: Name:匿名石 2021/11/27-19:23:28 No:00006431[申告] |
| 久しぶりに読んだけど…やっぱりこの作者さんの書くスクは良い 哀・虐・希望・絶望etc…の各要素が丁度よいバランスで挿入されていて、それが余韻ある読後感への絶妙なスパイスになっている ありがたい… |
| 2 Re: Name:匿名石 2021/11/28-00:52:36 No:00006432[申告] |
| いやあ面白かったあ! |