タイトル:【哀】 丸い空
ファイル:丸い空.txt
作者:匿名 総投稿数:非公開 総ダウンロード数:4763 レス数:1
初投稿日時:2007/04/29-01:06:39修正日時:2007/04/29-01:06:39
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丸い空


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仔実装は『空』を見上げていた。

それはこの真っ暗な世界の高くにある、ぽかりと空いた丸い穴。
地下深くに埋設された古い下水道、地下数mの底から見上げる蓋の外れた
マンホールの穴がこの世界にたった一つだけある『空』だ。

仔実装はこの場所が大好きだった。
何をする訳でもなく、段ボールの切れ端から作った敷物の上で仔実装はただぼんやりと
『空』を見つめ続ける。
わずかに差し込む弱々しい日差しのおかげで、黒一色に染め上げられたこの世界に
ここだけが唯一の色彩を持っているからだ。

無機質なコンクリート壁と床のグレー。
錆びた鉄格子の茶色。
自分の着ている服の薄汚れた緑。
見上げた『空』を時折横切る、流れる雲の白。
そして時間によって変化してゆく空の青から赤へのグラデーション。

ただ、それだけ。
それだけの色彩しかない薄暗い場所、その中でも特に好きな『空』の青を仔実装は
飽きもせずにずっと眺め続けている。

この暗闇の世界には娯楽と呼べるものはまったく無い。
視覚は闇に塞がれ、走り回れる広い場所もない。聞こえるのは中央の溝を常に
流れている水音であり、手や足が触れているのは冷たく固いコンクリートだ。
そんな退屈の中でソラが見つけた楽しみがここで『空』を眺める事なのだ。


「テチュー?」


ソラ、何をしてるテチュ?

自分と『空』との間を遮るように妹のクモの顔が覗き込む。
あの高くにある『空』から、母親は自分と妹に「空」と「雲」と名付けたという。
それはソラが空を好きな理由の一つでもある。


「テチュウ」


お空を見てたテチュ。

妹からのいつもの質問に、ソラはいつものように答える。
気が付けば『空』の色は明るさを失い始めている。この暗闇が常の世界では然程の
意味を持たないのだが、もうじき夜が訪れる。


「テッチィ・・・」


何にもないテチュ・・・。

十秒ほど上を見上げていた後、クモは呆れたように溜息を漏らす。
落ち着きのないクモにしてみれば一箇所に留まってじっとしている行為は苦痛以外の
何者でもない。
探検と称して下水道の中を歩き回る方がずっといいのだろう。


「テッチュ、テッチ」


今日はここまでにするテチュ。

ソラは立ち上がると下に敷いた段ボールの切れ端を丸め始める。
クモが自分の所へ来たという事は食事の時間が近いという事なのだ。


「テチー?」


『カミサマ』は来たテチュ?

クモの質問にソラは黙って首を振る。
もう何日も『空』の下で持っているが、ママのしてくれたお話のように『カミサマ』が
糸を垂らしてくれる様子はない。

『カミサマ』は姉妹の母親が二人に語ってくれた短い物語に出てくる存在だ。
高い所にいるとても偉くて何でも出来る『カミサマ』は、時折に困っている者の所に糸を
垂らし、掴まったものをそこから助けだしてくれるのだという。
その内容は母親が虫食いに覚えていた童話を繋ぎ合わせ、自分なりに解釈したものだ。
本来の正しい形になってはいまい。

だが、その話は外の世界に憧れるソラとクモの心に小さな希望の火を点したのは
確かだった。


「テチ、テッチュウ」


暗くて狭いのはもう嫌テチュ、早くお外へ出たいテチュ。

呟いたクモの口から溜息が一つ毀れる。
母親から伝え聞いた光溢れる外の世界に憧れる姉妹は、この暗闇の世界からの出口を
求め、共に下水道の内部を探検した事も一度や二度ではない。
母親や数匹いる他の住人達と違い、まだ暗闇に慣れぬ姉妹は手探りでじりじりとでしか
進む事は出来なかったが、その小さな身体は大人達には入り込めない鉄格子の隙間を
抜けて更に奥へと進む事も出来た。

だが、その逆にその小さな身体ゆえに登れぬ高さや渡れぬ流れに阻まれる事もあり、
成長せぬうちは外へは出られぬと半ば諦めていた姉妹ではあったが、母親からその話を
聞かされて以来、ソラは一日の大半を『空』を眺めて過ごしている。

いつ『カミサマ』がそこから糸を垂らしてくれてもいいように。


「テッチュ」


大丈夫、きっと明日は来てくれるテチュ。

ソラは胸を張り、大きく頷いた。
それは妹にではなく、まるで自分に言い聞かせるかのように。
じわじわと心を侵食してくる諦めから逃れるかのように。


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翌日。
とある廃病院の裏手。

医療ミスを起因とする倒産でここが閉鎖されてから既に十年あまり。
御多分に漏れず敷地内は頭のネジが緩んだ連中に荒らされ、建物の壁や塀には下品な
英単語や当人達にしか分からない意味不明の漢字の羅列が派手な色彩のスプレーで
埋め尽くしている。

その片隅に下水道の仔実装姉妹が『空』と呼んでいる開いたマンホールがある。

これも頭のネジの緩んだ連中の仕業かどうかはわからないが、そこを塞いでいた鉄製の
分厚く重い蓋はどこかへ失われている。
真っ当な管理がされている場所ならば、気づき次第に塞がれる事だろう。
不注意からここへ転落する者、特に予想外の行動を取る子供達がどんな理由からここへ
転落するか分からないからだ。

だが、忘れてはならいのはそれが安全の為の配慮ではないという事だ。
立ち入りを禁止している場所に勝手に入り込んだ者に対して責任を取らされるという
彼らにとっての理不尽を避けるべくなのだ。


「タケシくん、こんなトコに魚なんていないよ〜」
「うるさいな、そんな事は分かってるよ」


そのマンホールのそばには小学生と思わしき男の子が二人。
気弱そうな男の子は友達がリールを組み立てて釣りの準備をしている様子に異論を
発するが、もう一方の坊主頭はまったく意に介す様子はない。

今日は「釣りにゆく」と誘われた筈だったのに、自分の事などおかまいなしに自転車を
飛ばすタケシを追いかけ、リョウがようやく辿り着いたのは先生やPTAからは近づいては
いけないと散々言われている廃病院だった。

その庭にある池ででも魚を取るんだろうと前向きな思考で一応の納得をしてはみたものの、
タケシが「ここだ」と座り込んだのは蓋の無いマンホールの前。
これでは文句の一つも出たところでおかしくも無い話だ。


「いいかリョウ、お前は『隠者実装』ってのを知ってるか?」
「インジャジッソウ?」


タケシが口にした聞きなれぬ単語に、リョウはそのまま鸚鵡返しで答える。

『隠者実装』とは他者との接触を嫌い、下水道などの奥底に隠れ住むという実装の事である。
共通して高い知能を持ち、その知能ゆえか他者依存しようとする実装石の本能ともいえる
性質を抑え込んで孤独でいられる強固な自己抑制を有する稀有な存在だ。
一説によれば実装石という存在に自分を含めて絶望し、引き篭もって全ての繋がりを
絶とうとしている姿だとも言われている。


「・・・それがな、あんちゃんの話じゃここの奥に居るらしいんだよ」


一週間ほど前、中学生のタケシの兄が落としてしまった財布を拾う為にここを下りた際、
奥の方から実装石の鳴き声らしきものを聞いたのだと言う。


「・・・まさかタケシくん、それを捕まえるつもりなの?」
「そう、そのまさかだよ。
 俺んちの親戚に、大学で学者やってる人がいるんだよ。その人が・・・隠者実装に
 ついて教えてくれた人なんだけどな、隠者実装はすごく珍しいから一匹十万円で買っても
 いいって言うんだ」


隠者実装の捕獲例はその存在が確認されてから今まで十匹程度でしかない。
その半数は道路工事や補修点検の際の偶然から捕獲されたものであり、残りは研究者達の
地道な調査と捕獲作戦によってようやく捕獲できたものだ。


「あいつらは用心深くて臆病だから、下に潜って探そうとしたらすぐにどっかに
 隠れちまう・・・そこで俺が考えた作戦がこれだ!」


タケシは組み上がったリール竿を誇らしげに掲げる。
餌でおびき寄せ、釣り上げるという単純明快な作戦である。

竿は父親の部屋から黙って拝借してきた海釣り用のものであり、それは以前に15キロ
という大物を釣り上げた事のあるものだ。リールも小学生の手には余る大きなものであり、
これまた太く丈夫なラインの先端には重りと太く大きな釣り針が結びつけてある。

成体が掛かったとしても十分すぎる強度は持ち合わせている事は既に公園の野良実装
相手に実験済みだ。


「・・・でもタケシくん、相手は魚じゃないからたぶん釣れないよ〜」
「いちいちウルサイ奴だな、ちゃんとあいつら用に餌を用意してるから平気なんだよ」


タケシが取り出したケースの中には幾つかの半球状のものが収められている。
ビー玉程の大きさで薄いピンク色をしており、摘み上げるとぐにぐにとした弾力がある。


「・・・グミ・・・?」
「喰うか?」


うん、と頷くとリョウはそれを一つ、口に放り込む。
噛み締めると簡単に崩れて甘いだけのストロベリー味が広がる。合成甘味料のチープな味だ。
正直言ってあまりおいしいものではない。


「・・・実装用だけどな」


後から言葉が継ぎ足された途端、リョウは盛大にそれを吹き出した。
何度も唾を吐いて涙目になってこちらを見る様子を笑って「ゴメンゴメン」と繰り返し、
さしたる様子も無く流した後、タケシはその一つを釣り針に刺してマンホールの中に
投じる。

するするとラインが伸びて行き、2秒と掛からずに重りがコンクリートに落ちた、かつん
という音が下から響く。
地面に打ち込まれた竿立てにリールを置いて軽くラインを巻き上げ、ぴんと張るとその
先端にクリップ式の鈴を取り付ける。

ラインが引かれれば鈴が鳴るという仕組みだ。


「これでオッケーっと・・・気づかれると困るから離れてゲームでもしてようぜ」


タケシは荷物の中から携帯ゲーム機を取り出すと、リョウも自分のウェストポーチの中から
ゲーム機を出してマンホールから少し離れた場所にある平らな石に並んで座り込む。


「ところでタケシくん」


二人がゲーム機に電源を入れ、音を小さく絞った辺りでリョウが聞いた。


「なんだ?」
「ボク、今日はなんの為にここに連れてこられたの?」
「話相手」


一人じゃ寂しいからな、と付け加えると何か言いたそうなリョウを無視してタケシは
タッチペンを動かし始めた。


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ソラには最初、それが何なのか分からなかった。

いつものように敷物の上に座り込み、壁にもたれ掛かって『空』を見上げる。
昨日と違うのは横にクモがいる事だ。
何の気まぐれか、今日は一緒にここで『空』を見上げるのだという。
最初は続いていた姉妹のお喋りも次第に途切れ途切れとなり、返らぬ答えが幾度が続いた
後に気が付けば、それは静かな寝息に変わっていた。

やがて触れ合った肩から伝わってくる妹のぬくもりに、ついうとうとと船を漕ぎ始めて
からどの位が経ったのか。
近くで響いた固い音に目を覚ましたソラの目の前にそれはあったのだ。

自分の目の前に上下に引かれた一本の線。
『空』からの薄明かりの中でも鈍く光り、時折に揺れてきらりきらりと自己主張をする。


「・・・テ、テチュ・・・」


・・・いと、テチュ・・・。

その単語が頭をよぎり、擦れた声となるまでソラは呆然とそこに立ち尽くしていた。
触れたら消えてしまう幻のようなそれに手を伸ばし、恐る恐る触れると糸は確かな感触と
ぴんと張られた故の反発を返してくる。


「テッチューン♪ テッチューン♪ テッチューン♪」


カミサマテチュ! カミサマが来たテチュ! やっとお迎えが来たテチュ!

ソラの口から歓喜が飛び出した。
支えがなくなり、床に倒れてもまだ寝息を立てている妹を揺すり起こしながら、ソラは
我を忘れてはしゃぎ、生まれて初めて大声を上げた。
願っていた夢が現実となった歓喜はどうにも抑える事が出来なかったのだ。

音がよく響くここの排水溝の中では大声を出す事は禁じられている。
喧騒と他人の干渉を嫌うここの住人達にとって不快である事も理由の一つだが、何よりも
彼女達は人間に見つかる事を恐れてここへ隠れた実装石達なのだ。
その声を外に聞かれる事を何よりも恐れているからだった。


「テッチュー、テッチュー、テッチュー」
「・・・テ、テテ?」


起きるテチュ! カミサマテチュ! 起きるテチュ!

頭をがくがくと揺られる程のいつにない乱暴な目覚めを迎えたクモを、まだ焦点の
合わぬうちに糸の前に連れて行く。
何度かの瞬きの後、もやの掛かった視界が鮮明となるとクモも姉と同じ様に目の前を
伸びる糸に触れ、それがなんであるかを理解する。


「「テッチューン♪」」


カミサマテチュ!

二つの声が重なった。
姉妹は共に喜びの声を上げて抱き合い、『空』を見上げて「カミサマが来た」と
繰り返す。
これでやっとここから出られる、明るくて広い外の世界へ行けるのだ。


「テッチュー?」
「・・テチッ! テッチュウッ!」


どうしたらお外に連れて行ってもらえるテチ?
・・・これテチュ、きっとこれに掴まってればいいテチュ!

見れば糸の根元に分銅型をした重りがあり、そこからやや離れてグミが落ちている。
糸と繋がり、弾力のあるくにゃくにゃした感触は拾い上げたソラにとっては初めての
物であり、それから漂ってくる匂いも初めてのものだった。
顔を近づけて匂いを嗅いでいるとなんだか頭の奥がむずむずする。

ちょっと、ちょっと齧ってみるだけ・・・。

ソラが甘い匂いに誘われるように口を開く。
一口齧るだけのつもりが我慢できずにそれ全てを口に押し込み、噛み締める。

ぶつり、と音がした。


「・・・テチュ?」


お姉ちゃん?

背を向けたままの姉の身体がびくりと震えた事に、クモは声を掛けた。
まるで機械仕掛けのようにぎこちない動きで口元を押さえたまま振り返ったソラは
蒼白の表情で何かを小さく呟いていた。

足元には割れたグミが転がっている。



「・・・テチュウ?」


ソラお姉ちゃん?

クモがもう一度、姉の名を呼ぶ。
その途端、ソラの両目から涙が溢れ出した。
口元を押さえた手が弛緩したようにだらりと下がると、隠していた口元には上顎を
貫通した釣り針の先端が顔を覗かせていた。


「テッ、テヂャアアアアア!!」


悲鳴が迸った。


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・・・りりり。

かすかに鳴る鈴の音に最初に気づいたのはリョウであった。
ゲームの効果音とはズレた音に顔を上げ、リールの方を見ると風も無いのにその先端が
ゆらゆらと揺れている。


りりり・・・りりり・・・。
・・・ッチュー・・・。


耳を澄ませばマンホールの方から鈴の音と重なって実装石の声も聞こえてくる。


りりり・・・りりり・・・。
「タケシくん」
「・・・わかってる」


リョウが声を掛けるよりも早く、タケシはゲーム機を畳むと足音を忍ばせてリール竿の
前で膝をつく。


りり・・・りり・・・。
・・・テッチューン・・・。


二人の視線は竿の先端に集中する。
マンホールから聞こえる実装石の声は一層大きくなった所をみると、餌のグミを見つけて
喜んでいるのだろうか?
実装が餌に食いつくのも近いと感じたタケシはそっと竿を握り、リールのハンドルに手を
掛けてその時を待つ。

しかしその後、りん、と一つ鈴を鳴らしただけで竿の動きは止まってしまった。


「・・・止まっちゃったね」
「・・・気づかれちゃったか」


二人は小声で会話を交わして首を傾げる。
鳴き声も聞こえなくなった所を見ると、罠だというのに気づかれて逃げていってしまったの
かもしれない。
今日の所はもう諦めたほうがいいのだろうか。


「今日は」
テッ、テヂャアアアア!!
りりりりりりりりりりりりりり!!


その瞬間だった。
諦めるか、と続く言葉を断ち切るようにマンホールから上がる悲鳴と連続する鈴の音。


「うわわっ!?」


反射的にタケシが竿を上げ、その引き込みに合わせる。
糸と竿を伝わってくる震えの感触は、確かにその先に獲物がいる事を示していた。


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「テヂャアァァァァ!!」


痛いテチュウウウ!

食い込んだ釣り針の痛みをソラにはどうする事も出来なかった。
単なる棘のように真っ直ぐに刺さっているものなら噛んで抜く事も出来ただろうが、
湾曲した釣り針ではそうはいかない。
実装石の手はそんな細かく力強い動きには向いていないのだ。

柔らかい手の先では飛び出した針の先端を押し戻して外す事など到底無理だ。
触れただけでも手を傷つけ、釣り針を動かして傷の痛みを倍加させる。我慢して無理に
押す事が出来ても返しのついた先端が食い込み、手と口元を縫いとめる事にもなり
かねない。

そして痛みに悶え、逃げだそうとすれば糸の長さで針が引かれ、更なる苦痛をソラに
もたらすのだ。


「テチィィ、テチャアア!!」


ソラ、しっかりするテチ! しっかりするテチ!

こういう時はどうすればいいのか? どんな事をしたらいいのか?
生まれて数週間の仔実装には荷が重すぎた。この事態を解決する為の手段や方法を導き
出す為の経験も判断力も足りなかったのだ。
痛みに床を転がる姉をどうする事も出来ず、クモはただおろおろと周囲を巡るばかりだ。


「ヒヒャアアア!」


突然にソラの上げる悲鳴が変わった。
ただ足をばたつかせているだけなのにその身体がずりずりと背後に進み、やがて直立
させられたソラの足は床を離れた。


「テチィィィ! テチャアア!」


待って! カミサマ待って!
お姉ちゃん痛がってるテチ! 苦しがってるテチ!

クモは精一杯の声で頭上の『空』の向こうにいるものを呼んだ。
何かおかしい、こんなのはおかしい・・・心に渦巻いた違和感はついに明確な疑問となり、
クモは引き上げられてゆく姉の身体にしがみついた。
止めなくちゃ・・・お姉ちゃんがどこかへ行ってしまうのを止めなくちゃ。


「ピィィィィィィ!!!」


だが、当のソラにしてみればそれはたまったものではない。
釣り上げられた部分に二匹分の体重が掛かり、傷口はみりみりと音を立てた。
脳天から爪先までを貫く痛みは、ばたつく事で多少なりと気を紛らわせていた手足を
びりびりと硬直させ、甲高い悲鳴を更に裏返らせて縦笛のような高音に変えた。

驚いたクモから思わず力が抜けると、その手をすり抜けたソラの身体はみるみる高みへ、
『空』へと引き上げられてゆく。


「テヒィィィ、テヒィィィ!」


上へ上へと引き上げられながら、ソラは泣いた。
身体を動かす毎に揺れが釣り針の痛みを引き出してまた身を揺するという悪循環の中、
苦悶に溢れた意識の中でママ、ママと何度も繰り返して。
その名を呼ぶ行為ですら自分の傷口を揺すり広げ、苦しめるというのに。


「テッ、テッチュウ!! 」


わかったテチュ、ママを呼んでくるテチ!

ようやく気づいた解決策にクモは一声叫ぶと奥へ向かって走り出す。
普段は手探りでゆっくりと進むのだが、今はそんな事をやっている余裕はない。

待っててテチ、すぐにママを呼んでくるテチュ!
走りゆくクモの背後で、ソラの悲鳴は『空』の向こうへと消えていった。


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竿に掛かる手ごたえはやけに軽かった。

さしたる抵抗もなくリールが軽く巻き上がり、薄暗がりの中から仕掛けの先にぶら
下ってくるものが仔実装だと気づいたタケシの落胆は大きかった。
もっとすごい引きを期待してたのに・・・せっかく成体を釣り上げても平気な道具を
用意したのにこれじゃ意味が無いじゃないか。


「テヒィィィ、テヂィィィ!!」


釣り針の痛みに手足を振り回して甲高い声を上げていたソラだったが、マンホールの
外に出された途端に今度は顔を隠して悲鳴を上げる。

暗闇に暮らしていたソラにとって昼間の外界は明るすぎた。
午後となり、やや日が落ち始めたとはいえ降り注ぐ日の光は針で刺すような刺激を
もってソラの視神経を焼くのだ。


「テェェェェン、ティエェェェェン!」
「タケシくん、これが『いんじゃじっそう』?」
「・・・わかんね・・・」


地面に転がされ、手足を縮めて亀のようになって伏せて泣き続けるソラを二人は眺める。

見た目はただの仔実装にしか見えない。
暗闇の中で陽にろくに当たらずに育ってきたせいか幾分か服も髪も色が褪せたように
なっているが、薄汚れている為に公園の野良と大差はない。

これが隠者実装なのかと聞かれても、それを捕まえると言い出した当のタケシにもこれが
隠者実装だと明言できる確証は無かった。
ただ漠然と『マンホールの中に住んでいる実装石』としか理解していないのだ。


「とりあえず捕まえとくな」
「痛がってるから早く針外してあげようよ」


タケシが伏せたソラを掴み上げる。
食い込んだ釣り針を外すために裏返しにされると両目に飛び込む陽光にソラはたまらず
悲鳴を上げて手で両目を覆う。


「チビャアアア、ピィヤァァァ!!」
「ああもう、外してやるってんだから邪魔するなよ・・・リョウ、押さえて」
「うん」


釣り針を外そうとするタケシの指を拒むように首を振り、足をばたつかせて激しく抵抗する
ソラの両手をリョウが左右に広げるように両目から引き剥がした。


「テヒィィィィ、テヒィィィィィ!!」


一段と大きな悲鳴が上がった。

ソラの手をリョウは人差し指と中指の間に挟んで固定し、残る指でその首が動かないように
しっかりと上を向けて固定する。

覆い隠す事の出来なくなった両目の視界は容赦なく飛び込んでくる陽光により、激しい痛みを
伴って白く焼け付いてしまっている。
何も見えなかった。真っ白で何も見えない。
これでは状況違えど、真っ暗で何も見えない下水道の中と同じであった。


「タケシくん、なんだか眩しがってるみたいだよ」
「真っ暗なとこに住んでるから光に弱いんだろ・・・よっ、と」


針の根元を摘んだタケシの指がぐりぐりと動き、傷口を広げると力を込めて一息に引き抜く。
ぶつりと音がして、先端の返しが肉を裂いた。
痛みのキャパティシーが限界を越えると泣き叫んで体力を消耗していたソラはわずかに
悲鳴を上げただけでたちまちに失神する。


「・・・あれ、死んじゃった?」
「たぶん違うよ、びくびく動いてるから・・・これがいいか、フタすりゃ暗くなるし」


タケシは自分の荷物の中から食べ終えたポテトチップスの紙筒を取り出し、中のゴミを
逆さにして払うとそこへソラを放り込んだ。


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「テチュウウウッ、テチュウウウッッ!」


カミサマー、お願いテチ! お姉ちゃんに会いたいテチー!

『空』の下、クモは何度も上に呼びかける。
カミサマに自分の言葉を聞いてもらう為に。


「テチィィィ、テチャアアアア!」


もう一度糸を下ろして欲しいテチ! お姉ちゃん返して欲しいテチ!

暗闇の中を何度も転がり、あちこち傷だらけになりながら母親の手を引いてここに戻って
きたクモは姉を『空』の向こうへ連れて行ったカミサマに懇願する。

だが、上にタケシとリョウの姿は既に無い。
釣り上げたソラの声で隠者実装が用心して隠れてしまい、今日はもう無理だと判断して
荷物をまとめて引き上げてしまっているのだ。

そんな事も知らず、クモは喉を嗄らしてただひたすらに叫び続ける。
ただ姉に会いたいという一心であった。


「デッスゥ・・・」


止めるデス・・・。

暗がりの向こうから姉妹の親実装が呟いた。
親実装の両目は暗闇に適応してしまっている為に明かりの元へは出られない。
『空』からの薄明かりでも刺激を受けて苦痛を感じてしまうからだ。


「デッス、デッスゥ」


止めるデス、もうお姉ちゃんは帰ってこないデス。

疲れたような様子で親実装が繰り返す。
その言葉には隠しようの無い諦めが滲んでいた。

ひどく動揺したクモの言葉からは要領を得ないが、なんらかの手段でソラはニンゲンに
連れ去られてしまったという事は間違いないだろう。
ニンゲンに捕まってしまった子供が戻ってこられる筈が無い。


「テッチュ、テッチィ!」


大丈夫テチュ、いい子だからお姉ちゃんは返してもらえるテチュ!

それでも呼びかけを諦めようとしないクモを、光の苦痛に耐えて歩み寄った親実装は
後ろから抱え上げる。

親実装のその身体は白く色素が抜け落ちていた。
長い期間を暗闇で過ごしたためにその髪も服も色彩を失っている。その両目のみが
赤と緑を宿してはいるものの、表面に薄い膜が張っているかのように白濁している。

この白い姿が地下に適応した隠者実装の姿なのだ。


「デッス・・・デッスゥ」


お家に帰って休むデスゥ、カミサマなんていないんデスゥ。

繰り返すカミサマという単語から、自分が聞かせたあのニンゲンの物語をクモが信じ
込んでいたのは理解できる。
それはソラも同じだったのだろう。
でなければ毎日毎日この場所に来て、上を眺め続けている筈が無い。


「テチャアアア! テヂャチャアアアア!!」


カミサマはまた糸を降ろしてくれるテチュ! ソラは帰ってくるテチュ!

音と匂いを頼りにものを捉える隠者実装の敏感な耳にはヒステリックに鳴く仔実装の声は
文字通りに突き刺さる。


「デデッス、デッスゥ」


カミサマなんていないデス、お姉ちゃんはもう帰ってこないデス。

ちくちくと刺すような光の痛みに涙を流しながら、親実装は手から逃れようと暴れるクモに
繰り返し繰り返し事実を言い聞かす。
あの物語は自分が作り上げたデタラメなものなのだ。

こんな薄暗くてドブ臭い場所に、救いの糸なんて降りてきやしないのに。
ごめんデスゥ、ママがあんな話をしたばっかりに・・・。

連れ去られたソラへの謝罪の言葉を、親実装は心の中で繰り返す。
その頬を流れる涙は痛みばかりが原因ではなかった。


「・・・テチュ・・・」


しばらくして。
ようやく諦めがついたのかクモは暴れるのを止め、親実装の腕の中でぽろりと涙を零した。
ほんの小さく、姉であった仔実装の名前を呼んで。


「デスゥ」


さ、おうちに帰るデス。

ぐすぐすと鼻をすすって小さく嗚咽を漏らす我が子を床に下ろし、もう一度抱きしめると
親実装はその手を引いて我が家への道を歩き始める。

片方だけでも無事にいてくれたのがせめてもの幸いなのだ。
一晩眠って落ち着いたら、この子には真実を・・・この厳しい世界とニンゲンの恐ろしさに
ついてちゃんと教えなくてはならない。

こんな悲しい事は二度とごめんだ。


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夕闇が迫る中、二人は川辺の土手に座り込んだままで黙り込む。

二人の間に置かれた紙筒からは仔実装のしゃくりあげる泣き声が聞こえてくる。
気を失ったソラが再び意識を取り戻した直後は内壁を叩き、暴れながらあらん限りの
声で泣いていたのだが、さすがに泣き疲れたのか大人しくなったものだ。


「くやしいな、チクショウ」
「・・・残念だったね」


二人は疲れた様子で重い溜息を吐く。

10分程前に捕らえた隠者実装の子供を持ち、二人はタケシの親戚の家を訪ねた。
そこに住む従兄が大学で実装石を研究する研究員であり、タケシに隠者実装の話を
教えた人間であった。


『これは隠者実装じゃないよ』


紙筒の中の仔実装を取り出して青年に見せるなり、返って来たのは否定の言葉であった。
一言の元に断ぜられた結論に尚も食い下がるタケシに、言葉による説得では理解が薄いと
考えた青年は積まれたバインダーの中から一枚の写真を抜き取って二人に示した。

それは研究所で撮影された隠者実装の写真をプリントアウトしたものだった。
逃げぬように拘束されて前後から撮影された隠者実装の白い姿は、見慣れた野良実装とは
まったく違う印象を二人に与えたのに違いない。


『ごめんね、俺があの時ちゃんと説明しておけばよかったのに』


肩を落とすタケシを慰め、青年はあえて多くを語らずに外へ送り出した。
これ以上の難解な言葉や説明は混乱を呼ぶだろうし、どこか煙に巻かれてはぐらかされた
気持ちになるかもしれない。
そう考えた上で青年は一番わかりやすい理由と説明のみを伝えるのみに止めたのだ。

それは研究者が隠者実装を求めている一番の理由はその白い身体ではないという事だ。
孤独では生きられぬ実装石が実装石である事を否定するかのように他者との接触を
絶って下水道に籠もるという、その精神の在り様なのだ。

だから隠者実装の子供では意味がない。

隠者実装に子供がいたという記録はない点では貴重かもしれないが、彼女ら自体はただの
実装石と大差ないのでそうであったとしても価値は無いだろう。
下水道で生まれただけの仔実装ではその精神に価値がないのだ。


「・・・じ・・・じゃあ僕もう帰るね」


遠くから、五時を知らせる「夕焼けこやけ」のメロディが聞こえてくる。
しばらく続いた沈黙とピリピリした空気に耐え切れず、リョウはそれをきっかけにして
立ち上がるとそそくさと自分のマウンテンバイクに跨る。

こういう時は同じ場所にいない方がいいのは経験上わかっている。
単純なので明日になれば忘れているだろうから、今は早めに逃げ出すのに限る。


「あっ・・・おい、こいつ忘れてるぞ!」
「ボクんちマイケルいるから〜! タケシくん、じゃあね〜!」


跳ね起きたタケシがソラの入った紙筒の始末を押し付けようとするが、飼い猫の名前を
楯にしたリョウは力いっぱいペダルを漕いで土手の脇道を下ってゆく。


「チクショウ、逃げやがったか・・・いいや、俺もこんなの知らね」


この仔実装を元の場所に帰そうか、ともタケシは思ったが、ここからあの廃病院までは
少し距離がある。あの場所は暗くなるとこの辺りのイカレた連中が集まってくるという
事もあり、正直近づきたくはない。

土手の上に紙筒を置くと、タケシも振り返りもせずに立ち去った。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


「デッスゥ・・・」


待つデス。

巣への帰り道、親子の前を遮る者達がいた。
ここが明るい場所ならば親実装と同じく、その白い姿を目にしたであろう。
それが四匹・・・ここに住む隠者実装全員だ。

珍しい事もあるものだ。
他人と口を聞く事すら厭うここの住人たちが揃って出てくるなんて。


「デス、デェッス?」


我々が何故ここにいるか、分かっているな?

先頭にいる一番年寄り、長老と呼ばれる隠者実装が問うた。
他人には関わらぬ隠者実装達がお互いを不干渉とする為に形成した、行動と存在意義が
矛盾する奇妙なコミュニティを作った隠者実装であり、それを維持する為に幾つかの
ルールを制定したのもこの長老だ。

理由は分かっている。
先程の子供達の騒ぎについて問いただしたいのだ。


「・・・デッスゥ・・・」


・・・ニンゲンに子供を一匹連れていかれたデスゥ・・・。


親実装はクモを背後に隠し、口を開くと、その言葉で一同に動揺が走る。

なんてことをしてくれたんデスゥ。
やはりあの時に無理にでも間引きしておけば・・・。
やはり子供がいるとろくな事にならないデス。

呻きのようなどよめきの後、ざわりとした空気が流れる。


「・・・デッスゥ」


・・・仕方ない、今晩のうちにここを捨てて移動するデスゥ。

長老が即座に決断を下す。
この場所に隠れ住む者が一番恐れるものはやはり人間だ。
様々な煩わしいものを避けて隠者実装となった住人達だが、人間に狙われた事は一度や
二度ではない。人間が作った下水道を、人間よりも熟知した彼女らだったからこそ
その追跡や罠をかわし、今ここにいられるのだ。

どんな些細な原因から、人間が自分達の事を知り当ててここに来るやもしれぬ。
この決断は彼らにとっては決して突拍子なものではないのだ。


「・・・テチュウ・・・」


小声と共に親実装の服が引かれた。
話の見えぬクモがこれからどうなるかを聞きたいのだろう。


「デッスゥ」


これから皆で新しいお家に引っ越すデス。お前も頑張ってついて来るデスゥ。

長老はいざという時の為に何箇所も新しい住処となる候補を見つけてあると聞いた。
親実装もその場所の一つを聞かされた事があるが、ここからそれ程遠い場所ではない。
当ても無く下水道の中を彷徨うのではないのだ。


「・・・デェッスゥ」


・・・お前ら親子は来なくてもよい。

親実装の言葉を継ぐように、長老から無情な宣告が下る。
やはり・・・、と親実装は奥歯を強く噛み締める。安住の場所から逃げ出すような原因を
作った子供の家族なのだ。
その位の事がある事は予想はしていた。


「デッスゥ・・・テスゥ」


お前はもう二度目デス。しかも今度ばかりは許すわけにはいかないデスゥ。

彼女達隠者実装が下水道に生活の場を移した理由は人間や同族を嫌って避けるばかり
ではない。
関わる事全てに神経をすり減らす子供そのものを不要と考えた為でもある。

実装石の妊娠・出産は、その兆候である両目の変化を光を介して脳が知る事で起きる。
だから視覚を失った実装石は生殖能力を失うため、長く地下に生きた隠者実装には妊娠も
出産もない。
加えて地下深くまでは意図せずに子を孕ませる草木の花粉も届かないからだ。

その中で親実装が姉妹を妊娠したのは不注意からであった。
住人の中でも一番若い親実装は隠者実装となりながらも完全には外界への憧憬を捨て
きれず、わずかに残った視力で度々『空』を眺めていた。
その際に上から吹き込んだ花粉によってソラとクモを妊娠してしまったのである。


「デスゥ・・・」


あの時、無理矢理にでも子供を始末させておくべきだったデスゥ・・・。

長老は親実装に力押しによる強制をしなかった。
ここにいる住人が嫌っている地上の仲間達とは違うという事を証明するためでもあった。
その代わりに厳しい躾によって大人しく、ここの穏やかな空気を乱さぬ子に育てる事を
条件として一同を納得させたが、結局それも無意味となってしまった。

やはり子供はここの住人にはふさわしくない。
経験も思慮も足りず、我々の神経をすり減らして危険に晒すきっかけとなるものだ。
何よりニンゲンへの絶対的な恐怖を知らない。


「デッスゥ」


生まれさせるべきではなかった。

ゆらりと近づいた長老の手が横に薙ぎ、親実装の頬を殴り抜く。
予想していなかった長老からの一撃に親実装はそれをまともにくらって床へと倒れこむ。
その背後で小さな水音と悲鳴が上がったのはそれにクモが巻き込まれ、飛ばされた為だ。

合図などせずともすぐさま他の三匹が一斉に親実装に襲い掛かる。
仰向けに倒れた親実装の手足を体重をかけて動きを封ずる。


「デスゥ」


これは制裁デスゥ。

やはり必要なのは厳しいルールだ。
例外を許さない断固たる処分の徹底こそが我々と地上の仲間達とを区別する為に必要
だったのだ。
それに我々がここを立ち去った後、こいつの口から話が漏れたら困る。
残虐なニンゲンはどんな手を使っても・・・子供を利用してでも住処の場所を聞き
出そうとするだろう。
それをさせないためにもこの親子は処分しなくてはならない。

・・・なんともっともらしい言葉だろう。

心の中で幾つもの言葉を重ねながら、長老にはそれが自分への言い訳だという事を
自覚していた。
自分が作り出した箱庭を放棄せざるを得ない原因を作った親子へ害意を向ける。
それは単に「うさばらし」と言い換えてもなんら代わりはない。


「デッ、デスゥゥゥゥ!!」


逃げて、と親実装は悲鳴を上げた。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


「テエッ!? テエエッ!?」


クモは何度もごろごろと転がり、冷たい水の中に落ちた。
幸い僅かな水量しかなく流される事はなかったが、母親の転倒に巻き込まれたクモは
完全に方向を見失っていた。

母親や他の住人達と違ってクモには暗闇の中でものを捉える手段がない。
臭いや音でものを見る、と言われていても何の事だかさっぱり分からないのだ。
まだ見える目に依存し、違う感覚で目の代わりとする事はまだ出来そうにない。


「デッ、デスゥゥゥゥ!!」


と、暗闇の向こうから悲鳴が上がった。
・・・こればかりは間違える事はない、母親のものだ。


「テチィッ!」


ママをいじめるな!

クモは勇気を振り絞って声を上げる。
狭い下水道内では音が反響し、うわんうわんという残響を伴って音が聞こえるが、声が
したのはすぐ近くだ。
暗闇の中を手探りで進んだクモは暗闇の中で母親と思わしき服の裾に触れ、それを背に
して庇うように両手を広げる。


「テチュウッ!」


ママはワタシが守るテチ!

クモは力強く宣言する。
お姉ちゃんがいなくなった以上、ママを守れるのは自分しかいないのだ。

成体実装四匹の前に仔実装一匹が立ちはだかる・・・それは単純な数であっても体格差で
あっても暴挙以外の何者でもない。ましてや暗闇に目を塞がれた仔実装が、そこで何の
不自由も無く行動できる大人達を相手に、だ。

だが、外敵のおらぬこの場所で、己が如何にか弱く脆弱な存在かという事を知る機会が
なかったのはクモにとっては幸福だったのかもしれない。
『母親を守る』という決意に迷いのないまま、絶望的な戦いに挑む事が出来るのだから。


「・・・テッ!?」


後ろから伸びた両手が左右からクモの小さな身体を挟み、持ち上げる。

大丈夫テチュ、ママ。
今ワタシがママをいじめるコイツラをゴチゴチしてあげるテチュ。
だから降ろして欲しいテチュ。

勇ましく身構えたまま、クモは言った。
そうだ、すぐさまにも全員ごちんごちんと殴って「いじめてごめんなさい」と謝らせるのだ。


「・・・デスゥ」
「デスゥゥー!!」


そして、違うよ、と背後からクモを掴んだものは言った・・・母親とは違う声で。
同じく、逃げて、と正面から叫びが上がる・・・母親の声で。

後ろに居るのはママじゃない!?
そう気づいたクモが悲鳴を上げる前に、長老は高く持ち上げたクモを勢いよくコンクリートの
床に叩き付ける。

ぐちゃりと音がした。


「デスゥーーーッ!!」


その粘つく音と飛び散った飛沫を浴びた親実装が叫び声を上げた。
押さえつけられた親実装の腹の上に半身がひしゃげたクモが放り投げられる。


「テヂ・・・ヂ・・・チヂャ・・・」
「デデエエーッ、デエエエッ!」


ママ・・・守る・・・ママ・・・。
動いちゃ駄目デス、動いたら駄目デスゥ!

生暖かい血と体液を滴らせながら、クモは力の入らぬ手足で立ち上がろうと試みる。
叩きつけられた衝撃でクモの意識はほとんど喪失していたが、顔面と共に半壊した脳は
そこに残る記憶の断片に従ってその小さな身体に指令を送っている。

クモは死にかけて尚も母親を守るべく、隠者実装達の前に立とうとしているのだった。


「デェッスゥ」


そいつで黙らせるデスゥ。

腹の上で徐々に死にゆく我が子の体温と断末魔の痙攣を感じ、半狂乱となる親実装の
叫びに、その頭を押さえつけた長老は不快を露にした様子で吐き捨てた。

両足を押さえた隠者実装が身体にまたがるようにし、クモの体を頭から親実装の口に
無理矢理に押し込む。到底収まらぬ大きさの仔実装の身体はあちこちが潰れながらも
胴体までがねじ込まれ、親実装の口腔を満たす。


「デスゥ」


食え。

長老が発した言葉はどちらに向けられたものだったのか。
その言葉を合図に、三匹の隠者実装は親実装の手足に齧りつく。


「ウウウウウウウ!!!」


喉の奥で声ならぬ絶叫を上げ、親実装の肉体が大きく跳ね上がる。
四肢が食われゆく痛みに食いしばった歯が外にはみ出ていた仔実装の下半身をぶつりと
両断すると、酸欠と圧迫の苦しみを味わいながら死ねずにいたクモはようやく絶命する。

親実装の口腔に、我が子の血と肉の味が溢れた。


「デッスゥッ!」


欠片も残すな! 我等がここにいた痕跡を残してはならん!

手足が食われ、親実装が抵抗する手段がなくなると長老も親実装の身体に齧りつく。
普段は住宅街のディスポーサーから垂れ流される生ゴミ、下水に流れ着くものを拾って
食料としている彼女らにとっては同族の肉は最高の食料だ。

この時ばかりは隠者実装と言えどただの実装石に戻る。
いかに高い知能を持ち、その稀な克己心で孤高であろうとしようとも、血飛沫を上げる
同族の身体にむしゃぶりつき、口元を血で染めながら肉を噛み千切る様子のどこに野良
実装との差異があろうか。
隠者実装が全てを捨て、地下に潜ってまで嫌っているものは同族でも人間でもなく、
実は他ならぬ実装石という自分自身なのやもしれない。

やがて。

親実装の身体を全て喰らい尽くし、残った残骸を下水の流れに放り込むと隠者実装達は
新たな住処に移住するべくこの場所を立ち去ってゆく。

去り際に一番後ろに続いたものが始末を忘れて残っていたクモの下半身に気づいた。
拾い上げたそれを一齧りし、口内に収まらなかった部分を下水の流れに放り投げると
そいつは少し距離の開いた一行の後を追った。

暗闇の中でぽちゃんと小さな音がした。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


「テエエエ・・・テエエエ・・・」


ソラはただひたすらに泣いた。
望んでいたとはいえ、外の世界に来た事を後悔していた。

カミサマが外へ連れ出してくれた糸はとても痛くて。
外に溢れる光はとても目が痛くて。
口に刺さったものは外されるときもとても苦しくて。
閉じ込められた場所は暗いけれどとても狭くて。

外へ関わる行為全てに苦痛が伴った。
それがまるであの薄暗い世界以外にお前の居場所はないと言われているようだった。


「テエエエーン、テエエエーン」


ママに会いたい。クモに会いたい。
不意に浮かんだ家族の顔に、その小さな心を望郷の念が満たす。

でも、どうやったら家族の下へ帰れるのかがソラには分からなかった。
カミサマは垂らした糸でここから出たいと願っていた自分を引き上げてくれたが、また
お願いすればそこへ戻してくれるのだろうか?


「テエッ・・・テッ・・・テエエッ・・・」


紙筒の中は狭く、しゃがむ事も出来なかった。
泣き疲れた身体を脱力したままに内壁へ預けると、紙筒はそのまま頼りなく傾いた。


「・・・テッ!?」


傾き、倒れた先は土手の傾斜であった。
紙筒はそのまま緩やかな傾斜を転がり、途中にある二段三段の段差を加速をもって飛び
跳ね、勢いよく下って行く。


「テチャャャアァァァァ!!」


径の小さな横回転は中の仔実装に天地の方向を消失させるのに数秒を要しなかった。
平衡感の喪失にたちまちに吐瀉物を撒き散らし、周囲が見えぬままに転がり続ける
恐怖感は全身を弛緩させて様々な体液や排泄物を垂れ流させる。

やがて紙筒は土手を下りきり、その先で石に乗り上げると勢いよく宙を舞った。


「ヂェェーッ!!」


跳ねた際の衝撃でソラの身体は紙筒の外に放り出され、宙を舞った。
しばしの浮遊感の後、ソラの身体は河原の砂利の上に落ちて何度かバウンドする。
その度にぶつけた身体のあちこちが嫌な音を立てて壊れてゆく。

それからしばらくソラは動く事も出来なかった。
潰れた左手や折れた右足の痛みばかりではない。紙筒の回転から解放されても世界はまだ
ぐるぐると回転を続け、それに合わせて耐え難い不快感が下腹から胃を押し上げるのだ。
我慢できずに動けぬまま身を震わせて嘔吐しても、それまでに吐き続けた胃袋からは
胃液さえも出るものはなかった。


「・・・テッ?」


眩暈と吐き気に歪んだ視覚が元に戻る頃、倒れたままのソラはふと気が付いた。

周囲は完全な闇ではなかった。
首だけ動かして見回せば下水道の内とは比べ物にならない程に広い世界は青白い光に
うっすらと染まっている。
何よりもこの世界の天井が広くて遠いのだ、どの位のものなのか分からない程に。


「・・・テエエエ・・・」


天井の一番高くを見てみようとソラは首を動かしてゆき・・・そして気づいた。
外の世界にも『空』があったのだ。高い高い天井に、丸くて綺麗な『空』が。
そこからこの透明な光はやってくるのだ。
下水道から見る『空』とは違う美しさに痛みも忘れ、呆けた様に声が漏れた。


「・・・テッ・・・テッ・・・テチュウゥゥゥ・・・」


だが、不意にソラの頬を涙が流れた。
『空』を眺めているとソラはまた家族の事を思い出し、不安と寂しさに胸が痛んだ。


「・・・テチィィィィ!」


カミサマー!

少し考えた後、ソラは痛む身体を頑張って引き起こし、救い主の名を呼んだ。
せっかく来られた外の世界だけれど、カミサマにお願いしてまたあの場所へ戻してもらおう。
自分を下水道から引き上げて貰ったときのようにもう一度、あそこから糸を下ろして助けて
貰うのだ。

外の世界は広い。
ここならば夢見ていたように思いっきり走り回ったり、遊んだりする事が出来るだろう。
いつだってあの暗闇に押し潰されそうな下水道での生活では考えられない状況だ。

・・・だが、ここには家族がいない。
こんな広い世界なのにママも、クモもいないのだ。
もう会えないのかと考えると、それだけが無性に悲しく耐えがたかった。

あの痛いものにも我慢しよう。
もう一度ママやクモに会う為ならきっと我慢できる。
早くおうちに帰ってママにぎゅっと抱きしめて貰うのだ。


「テチィィィィ! テチャアァァァァァ!」


助けて下さいカミサマ!
ワタシをまたあの世界に戻して欲しいテチュ!

ソラは『空』に向かって叫んだ。カミサマに向かって何度も何度も。

だが、ソラは知らなかったのだ。
温もりを欲して下水道にある我が家へ戻ろうとも、既にあの場所に家族の姿は無い事を。
家族を食い尽くした仲間の隠者実装達も新たな住処へと移動してしまった事を。

家族や仲間はもう誰もいない。
ソラは本当に独りぼっちになってしまっているのだ。


「テチャアアン! テチャアアアアン!」


カミサマ、糸を下ろして欲しいテチュ!
ママに会いたいテチュ! クモに会いたいテチュ!

それでもソラは『空』・・・中天に昇った満月に向かって叫び続ける。
カミサマの糸が、自分をあの場所へ戻してくれる事を信じて。

誰も居ない河原で仔実装は救いを求め、ただ懸命に鳴き続けた。


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1 Re: Name:匿名石 2019/03/31-01:20:33 No:00005838[申告]
もちろん死んだよねこの糞仔蟲ちゃん
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