薄暗い部屋。僅かに開いたカーテンの隙間から漏れる微弱な光だけが光源の室内。 その隅に置かれた長さ一メートル、幅六十センチの水槽に肌色の塊があった。 実装石である。それも禿裸だ。 背を丸めて胸に抱え込んでいるのは仔実装。 四肢を失い、全身が二割増しに腫れあがっている。気休めでしかないが服や髪は無事だ。 呼吸は弱く、身体が冷たい。 命の火が消えかけているのだ。 『頑張るデス…頑張るんデース』 禿裸は何とか仔実装に生気を取り戻そうと、全身で包み、熱を与える。 時折水槽の床に散らばっている実装フードを口に入れては咀嚼し柔らかくなったものを仔実装の口に入れる。 『た、食べたデス!』 先ほどから何度も挑戦していたのだが、今までは全て力ない口元から零れただけだった。 それが今回はゆっくりではあるが口を動かし、少しずつ少しずつ腹に収めている。 『良かったデスゥ…良かったデス』 何とか命をつないだことに安堵した禿裸は涙した。 けれどまだ予断は許さないと仔実装を一層強く抱きしめる。 季節は晩夏から初秋へ移る頃合。 日が落ちればぐっと気温は低くなる。 『頑張るデス…・・・生きるんデスゥ』 禿裸は震える声で囁き続けた。 ● 禿裸は生粋の野良であった。 元飼いであった親の教えを完全に理解することは出来なかったが、実行することはできた。 素直に親の言うことを聞き、そのおかげか冬を越え、また猛暑の夏もなんとか耐えようとしていた。 刺すような陽射しが色濃い影を地面に縫い付ける午後の日のこと。 ペットボトルに溜めていた水が切れ、仔実装達が騒ぎ出した。 日中は暑いので遠出するのは危険。日が落ちたら汲んでくると言ってもいっこうに聞き及ぶ気配はなし。 そのころ公園内は出水制限が掛かっており、水については五百メートルほど離れた河川敷まで行く必要があったのだ。 ダンボールハウスは冬から使用しており、隙間風が入らないように工夫されていた。 それがかえって熱のこもった空気を逃がすことが出来ず、仔実装達は執拗に水を欲した理由である。 そして一匹の仔が暑さに耐え切れずに、ベンチで休んでいた人間に駆け寄ったことから悲劇は始まった。 ● 夜になり峠は越えたようで、仔実装は「テスーテスー」と穏やかな寝息を立てていた。 禿裸は強張った四肢を伸ばし、けれど仔実装を離そうとはしない。 実装フードをかき集めて美味しそうに頬張る。 何日かぶりのまともな餌だった。 餌を食べつくすと、再び仔実装を包むようにして横になり眠りに入る。 前回この段階で別に仔実装を横たえて寝たところ翌朝に冷たくなっていたために離す気にはならなかった。 禿裸はぶるりと身を震わせる。 冷たい水槽の床がゆっくりと身体から熱を奪っていく。 『…大丈夫デス。オバちゃんがついてるデス…』 その仔実装、禿裸の実の仔ではない。 ● 実の仔達は皆死に絶えた。 あの日、人間の男に水を強請り、飼ってもらおうと媚び、はては勝手に奪おうと汚れた身体で男の足をよじ登ろうとした。 禿裸は何度も叫んだ。叫んだだけであった。 力で持って教育をするということを知らなかったのである。 結果、仔達は増長し、好き勝手な振る舞いを続けた。 実に単純な破滅への布石。 男の怒りを買った仔実装達はあっという間に捕らえられ、禿裸と巣に残っていた二匹の仔と一緒に男の部屋に連れられた。 仔実装達は、飼い実装になった、セレブになれる、糞親の言うことを聞かなくて良かったと口々に言っていた。 男の手で細部に至るまでを解体され、様々な責め苦にあいながら仔実装達は一匹ずつ死んでいった。 そして死に際や死を待つ仔は口々に禿裸を責めた。 『お前のせいテチィ!! お前がちゃんとゴハンを取ってくればよかったテチィ!!』 『何でもっといい人間に拾われなかったテチャァ!! 役立たずテヂャァァァァアァァ!』 『早くこの人間をやっつけるテヂィィィィァッァアァァ! どうして助けないテチィ! このクソオヤァ!!』 『お前が死ねテチ! お前が死ぬテチ! ワタチが生き残るべきなんテヂィィィィィ!!』 『どうしてワタチはママの仔に生まれてきたんテチ?』 しかし禿裸は生き残った。 男が「仔を嬲ってるときにいい顔をする」という理由で。 ● 『デデッ!? 仔は? 仔は無事デスゥ!!?』 細い朝の光が斜めに差し込んで、その眩しさで禿裸は目覚めた。 腕の中の仔実装は、 『テスー…ママァもっとおっぱい欲しいテチ…』 寝ぼけながらも禿裸の乳にむしゃぶりついていた。 もう大丈夫だろう。禿裸はようやく大きな息を吐いた。 潰れ、折れた手足の再生にはまだ時間が掛かるだろうが、幸いなことに餌はまだ十分にある。 『良かったデース。よく頑張ったんデスゥ』 夢の中にいる仔実装の頭をなでる。洗濯をあまりしないのだろうか、頭巾はぬめるような感触がした。 昨日は仔実装を生かすために全霊を注いでいたが、落ち着くと身なりの汚さが目立つ。 この仔の親は碌に教育を施さなかったようだ。 かわいそうにと禿裸は思う。 糞や泥がこびり付いた服、垢や脂で固まった髪、パンコンによりかぶれて爛れた肌。そんなのが当たり前になっている。 おそらく下着を脱いで糞をすることすら知らないのではないか。 ニンゲンの言葉を思い出す。 「あーこいつは間引かれた糞蟲だな」 酷いとも思うし、すごいとも思う。禿裸は実の仔が糞蟲と分かっても何も出来なかったから。 そしてこの機会を運命とも捉えていた。 『オバちゃんが立派に育ててあげるデス』 ● 仔実装を全て失った禿裸は膝を抱えて水槽の隅でじっとする日々を送っていた。 男がたまに虐待をするものの、あまり声をあげることもなく、次第に飽きられてしまう。 その段階で男が禿裸を殺さなかったのも、公園に戻さなかったのも特に意味はない。強いて言えば面倒だった、くらいか。 二十日間。 男は禿裸を放置した。餌や水を補給しないだけではなく、様子を見るために顔を覗かせることもなかった。 変化のない日々に、空腹だけが自己主張をしていた。 与えられた餌は普通に初日で食べきった。四日目までは空腹で我慢したが、耐えられずに仔の死体を貪った。 それすら七日目にも尽きてあとは糞を食いつないだ。 一度などあまりに意識が朦朧として、手を齧ったこともあった。 ともあれ男が再び姿を見せた二十日目まで禿裸は生き延びる。 「ありゃ? まだ生きてたか」 明るい声で言葉を投げかけてくる男の手には、見知らぬ仔実装が乗っていた。 四肢をもがれた無残な姿だった。 男の言葉からその仔実装は直接家の中に託児されたらしいと禿裸は察する。 「ゲンカン」の「ドアポスト」に投下された、と。 『その仔をどうするんデスゥ?』 禿裸は聞いた。答えは容易に想像がつくのに。 「しばらく遊ぼうかなって」 笑顔。 なぜこの男はワタシ達を虐めるときにこんなに素敵な顔をするのだろうか。 今まで公園に来ていた人間がこの表情をするときは、自分の子や、飼い実装ないしは飼い犬などの一挙手一投足に対してだった。 愛しいものに向けるもの。人間も実装石もそれは同じだと思っていたのに。 自分の仔を嬲られているときもそうだったと思い出す。 胸の奥が痛み、身体が震える。 はっきりと仔の悲鳴が蘇る。 「お、いいねぇその顔」 涙と鼻水と悔しさでぐしゃぐしゃになった禿裸に向けて男は言い放った。やはり笑顔であった。 ● 『ウマウマ食べたいテチ』 『もうお腹すいたデス? いっぱい食べるのはいい事デスー。早く良くなるデス』 『いいからウマウマ持って来るテチ』 目が覚めた仔実装は最初こそ男に甚振られた記憶がフラッシュバックし、泣き喚いたものの、禿裸が宥めることで何とか落ち着きを取り戻した。 そして、『お腹空かないデスゥ?』『ウンチはしたくないデス?』『喉乾くデス?』と甲斐甲斐しく世話を焼いてくる禿裸を、 (こいつはドレイテチ。ワタチの世話をさせるためにニンゲンが用意したテチ。ワタチはドレイ付の飼い実装なんテチ!!) その容姿も相まって恩人どころか奴隷として認識した。 仔蟲は典型的な糞蟲だった。 親に捨てられ、暴言を吐いてニンゲンに痛めつけられたのだが、自分に非があるなどとは考えてもいない。 一方で禿裸も久しぶりに仔実装の世話をすることが出来て満足していた。 禿裸に抱かれながら、実装フードを食べさせてもらう仔実装。 その食べっぷりをうっとりと眺める禿裸。 二匹が二匹とも幸せを感じていた。 傍から見れば睦まじい親仔の姿、その実はお互いにお互いを依存しあう歪な関係。 ● 『やめてデズゥー! やめてあげてくださいデェェェズ!!』 無駄と知りながらも禿裸は水槽のガラスを叩き続ける。 何もせずにはいられない。なぜなら、 『テプッ! ペッ! ヂィッ!! テガァァァァッ! ピィッ!』 男が腕を振るうたびに仔実装の悲鳴と、ピコピコという間抜けな音が響く。 両の手足を奪われた仔実装を痛めつけているのは、叩くと音が出るプラスチックで出来たハンマー、ピコピコハンマーだ。 打撃部は仔実装に当たるたびに縮み、殆どの威力は拡散されるものの、それでも仔実装の身体には脅威である。 鈍い痛みが仔実装の身体と言わず顔と言わず打ち付けられ、腫れていく。 手足がないから逃げることも、身を守ることも出来ずに痛みにさらされる仔実装。 そしてそれを何とかしてやめさせようとする禿裸の声が重なる。 『もう死んじゃうデスゥゥゥ! お願いデース! やめてデース!!』 仔実装以上に泣き叫ぶ禿裸を見て、男は満足そうな笑みを浮かべる。 やがて全身が真っ青に膨れ上がった仔を水槽に投げ入れて男は言う。 「そいつの世話をしろ。死んだらお前も死ぬ」 仔実装を拾い上げた禿裸は、弱弱しい呼吸に『酷いデスゥ』と呟き、男を見た。 その目には強い敵意が溢れていた。 「成功報酬もやろう。仔蟲を成体まで育てられたら二匹揃って公園に逃がしてやる」 『デッ!? デェ…それは本当デスゥ?』 「嘘だろうが本当だろうが、お前はやるしかない。違うか?」 禿裸は腕の中、痙攣するように震える仔実装をじっと見て、次いで男の顔を睨みつけた。 『約束は…守ってもらうデス!』 死んでいった仔と、今まさに死に逝く仔。禿裸はその両方のためにも頑張ろうと心に決めた。 ● 三日もすると禿裸の献身的な介護の甲斐もあってか、仔実装は普通に歩いたり餌を持って食べることが出来るまでになった。 この三日間、男は餌と水を替えに来るものの、虐待は一切しなかった。 単に仔実装の回復を待っていたのだが、これにより仔実装はますます自分は飼い実装になったという思いを強くする。 そして簡単に増長した。 『テヂャァァァァ!! ドレイのくせに煩いテチィ!! さっさとウマウマ持って来るテヂィィ!』 『デ…ウンチ投げちゃダメなんデスゥ…。ゴハンはもうなくなったデス。夜まで待つんデス』 すっかり元気になった仔実装がパンツの中に溜まった糞を禿裸に投げつけていた。 餌が足りないと、そういうことらしい。 男は十分な餌を与えていたし、禿裸も自分の分を更に仔実装に分け与えていたのだが。 禿裸は仔実装を叱ることが出来ない個体である。先の実仔を失ったのも、もとはといえばそのせいだ。 が、禿裸自身は自分がきつい教育を受けなくても色々出来たこともあり、原因をそこに求めない。 少しばかり賢い個体であり、教えられた以上のことを出来ないことが禿裸の不運であった。 『いいからウマウマ持って来いテチャアァァァ!!』 『デェェェ…大人しくして欲しいデスゥ…』 既に水槽のいたるところが緑に染まり悪臭が室内に充満していた。 「ひっでぇ有り様だな」 顔をしかめて二匹を見下ろす男の声に気付いた仔実装が喚きたてる。 『ニンゲン! このドレイ使えないテチ! 口答えするテチャ!! さっさと別のドレイとウマウマとステーキ持って来るテチ!!!』 『デズァ!? ニンゲンさんにそんな口利いたらダメデース!!』 慌てて仔実装の口を塞ごうとするが、暴れる仔実装を無理矢理に押さえつけることすら出来ない。 と、出鱈目に振り回していた仔実装の手から糞が飛び、男のシャツの裾を汚した。 青ざめる禿裸。卑しく笑う仔実装。 男はふっと軽い溜息をつくと、仔実装を水槽から拾い上げた。 『ま、待って下さいデスゥ!!』 慌てふためく禿裸に男は一言、「黙って見ていろ」とだけ告げた。 『何するテチ? もしかしてウマウマのところに連れていくんテチィ? いい心がけテヂュオァァァァッァァァァァァァアァアァアアァ!!?』 男の手が仔実装の右腕を捻った。一度腕をちぎられたせいで袖がない実装服から伸びた手は雑巾のように捻れ、取れる。 『イビィィィィィ!? おててがぁ!? せっかく治ったのにぃぃぃぃぃ!! 何するテヂィィィィ!!』 手の中で糞をひりだして脚をバタつかせる仔実装を男は取れた手で殴打する。 『ヒギ! ヤメ…テヂッ!? ゲプッッ! ドレェイ!! 助けるテチィィィィ! イヂャァ!』 残った左手で何とか庇おうとするが身体を掴まれているうえに、ニンゲンの力では防ぎようがない。 たちまち仔実装の肌に青い痣が出来上がっていく。 『ヒィィィー…ヒィィィァァー……』 仔実装はぼろぼろと涙を流して丸くなろうとする。何とか痛みから逃れようと。 だが、男は原型を留めなくなった右手を仔実装の総排泄口に突き立てると、代わりとでも言うように左腕を引っこ抜く。 『ガッ……』 双眸を飛び出さんばかりに見開いた仔実装の顔を男は「仔実装の左手だったもの」で殴りつける。 最早仔実装に出来ることは早く終わることを祈るだけ。 『ヂ……ベ……ブ…』 『デェー…』 禿裸は自分の腕を噛んで耐えていた。騒ぎ立てれば命がないであろうことは予想できたからだ。 仔実装が声を漏らさなくなると、男は禿裸に手渡した。 「糞を投げる手はいらんよな」 『デ、デスー…』 顔の判別すら不可能な仔実装を抱いて、禿裸は涙する。 手の中の身体がビクンと大きく跳ねた。口と思われる場所から緑色の泡を吐きだす。 『デジャァァァァ!? 死んじゃうデスー!? ニンゲンさん! どうすればいいデス? 助けてくださいデス!!』 だが、男は冷ややかに禿裸を見下ろすだけ。 『デゥゥ…栄養がいるデスゥ…』 しかし餌は仔実装が食い尽くしてしまった。 禿裸しばし迷うような素振りを見せるが、デスと力強く鳴くと、右手の先を噛み、滴る血を仔実装の口に注ぐ。 仔実装の口はそれを受け入れず、ただ受け皿として一時プールするものの、溢れて零れるだけ。 『飲むデス! 飲んで栄養を取るデスゥゥ!!』 叫びながら無意識のうちに仔実装を抱く。糞と血に塗れた実装服は冷たい。 禿裸はまずその服を脱がすと、隙間が出来ないように仔実装を包み込む。 まだ冷たいが素肌同士を触れ合わせることですぐに体温が移っていく。 つい三日前にも同じようなことをした。仔実装はそれで息を吹き返した。今度もきっと上手くいく。 そう信じて禿裸は仔実装を抱きしめる腕に力を込めた。 ● 祈りが通じたのかどうか定かではないが仔実装は一命を取り留めた。 『………テェ』 小さな鳴き声を聞いたとき、禿裸は心の底から喜んだ。 あやふやな意識の仔実装へいつの間にか用意されていたフードを噛み砕いて食わせてやる。 仔実装は時間をかけて何個か平らげた後、腫れて狭まった視界に禿裸を認めると、 『…ペッ』 唾を吐いた。それは禿裸には届かなかったが、その事実だけでも十分心を痛めた。 『なんで助けなかったテチ…』 『デェ……オバちゃん頑張ったデス』 『何もしなかったテヂィ!! 黙ってワタチがイタイイタイされてるの見てたテヂャァァァ!!』 『デッ!?』 仔実装には禿裸に抱かれていた記憶はないのだ。その頃には生死の境を彷徨っていたため、覚えているのは禿裸に手を差し伸べられる前まで。 故に禿裸のおかげで生き延びたという意識はない。 『サイテイのドレイテチ…高貴なワタチには相応しくないテチ……』 よろよろとした足取りで立ち上がると、山となった餌皿に向かい、齧り付く。 両手が無いため頭から飛び込むように餌を口にする。 禿裸はじっとそれを見ていることしか出来なかった。 やがて、満足したのかゴロリと横になる。 そこに至ってようやく禿裸がフードに手を伸ばし、 『テシャァァァッァァァァァァァァァ!! これはワタチのテヂャァァァ!!』 仔実装が思いがけぬ速さで飛び起きて威嚇をしてきた。 『でもオバちゃんもお腹ぺこぺこデスー…』 殆ど眠ることなく看病をしていた禿裸も栄養を必要としていた。 が、それを知らない仔実装は地団太を踏んで騒ぎ立てる。 『だからどうしたテヂィィィアッァァ!! ドレイはウンコでも食えテチィ!!』 『…酷いデスゥ』 正しい親実装ならばこんな態度を取ったならばすぐにでも間引くか強烈な折檻を与える。 しかし、禿裸にそれは出来ない。餌の奪取を強行することすら。 めそめそと泣き出した禿裸に満足したのか仔実装は再び横になり、ひんやりとした水槽の床に違和感を覚えた。 『ヒエヒエテチィ…テェ!? おべべがないテチ!!』 その服は禿裸の足元においてあった。昨晩脱がせたものである。 仔実装はえっちらおっちらと服の下に向かい、そして着られないことに絶望する。 『オテテないテチィ…おべべ着れないテチャ…』 足元には服があるのに、どうにも出来ない無力感。 『服着るデス?』 目元を赤くした禿裸が嬉しそうに聞いてきた。 仔実装は忌々しそうに見上げるも、服を着たいという欲求に抗うことは出来ず、 『着させてやるテチ。さっさとするテチ!!』 『分かったデスゥ〜。少しだけ大人しくするデース』 横暴な仔実装の態度にも禿裸は笑顔で応じる。 仔の世話を出来ることが楽しい。必要とされることが嬉しい。 ごわつく実装服を身に着けた仔実装だったが、その濡れた感触に顔をしかめる。 『気持ち悪くて冷たいテチィ…』 『じゃあオバちゃんが抱っこしてあげるデス』 両手を前に迎え入れる仕草を見せた禿裸に、仔実装は少し迷う。 実装石基準では禿裸はみすぼらしい侮蔑の対象だ。 それに抱かれるなどもってのほか、というわけだ。 『どうしたんデス? そのままじゃ風邪引いちゃうデスー』 『…特別にワタチを抱かせてやるテチィ……』 寒いよりはまし。仔実装はそう自分に言い聞かせて禿裸の腕の中に飛び込む。 洗っていない身体はべたつき、臭う。が、それ以上に一瞬にして全身を包む温もりが心地よく、仔実装はうっとりと目を閉じた。 (テェ…そういえばママにも抱っこして貰ったことなかったテチ…) 思いがけずはじめての抱擁に空腹も満たされていた仔実装はあっという間に眠りに落ちる。 その寝顔を禿裸は幸せそうに眺めていた。 ● 男が仔実装を手に掛ける時、必ず腕か脚を壊した。 禿裸が看病している間は手を出さず、手足の回復を待って再び四肢を奪うのだ。 『もう駄目なんデスー! させないデース!!』 水槽の上から伸びてきた男の手に禿裸は飛びつき、どうにかして仔実装を守ろうとする。 先日の仔実装からの一言が禿裸に抗う覚悟を決めさせた。 仔実装はもう男の姿を認めるだけで水槽の端や禿裸の後ろに隠れて小さく身を縮めるだけになっていた。 男は禿裸を左手で水槽の底に押さえつけ、悠々と仔実装を取り上げた。 『テヂャァァァッァァァ!! イヤテヂィ! イダイのイヤイヤテチャァァァァ!』 めちゃくちゃに手足を振りまわし、下着を膨らませていく仔実装だが、男の握力に抗うことは出来ない。 『デヂャァアアァァァアア!! 離すデス! その仔を離すデスゥゥゥゥ!!!』 「はいよ」 禿裸の訴えに珍しく素直に男は応じた。 仔実装は男の手から解放される。もちろん空中で。 約一メートルの高さから、なす術なく仔実装は落下し、 『テァァァッァァァァッァア!? あんよがぁぁぁ!! あんよがぁぁぁぁぁあぁあ!』 仔実装の全体重を受け止めた脚は折れ、所々で千切れかけていた。 パンコンがクッションになったのかそれ以外は大きな傷は見受けられない。 手を振り回して痛みを訴える仔実装を男は再び掴みあげると、ほぼ同じ高さで手を離す。 『ヒヂィィィィ!!』 『何するデース!!』 男に押さえつけられたまま、四肢をもがいて禿裸は声を張り上げる。 仔実装を拾っては落とす流れを繰り返しながら男は、 「お前が離せって言ったからな。ちゃんと離してやってるだろ?」 脚が取れ、パンコンの下着が脱げたことでバランスが変わった仔実装は頭から落ちる。 顔から落ちれば流石に致命的だが、幸か不幸か脱げた下着と糞の山に突っ込んだ。 『ンベェ!! ペヒャァァ!! ドレイ助けテチ! ドレイィィ! イダイテチィ! あんよもおまたも痛いんテチャァァ!!』 『デゥゥゥッ! ニンゲンさんお願いデス! やめてくださいデスゥ!!』 度重なる墜落に仔実装の下半身は潰れ、肉片がかろうじてつながっているような状態。 不意に背中の圧力がなくなった禿裸は転げるようにして仔実装の下へ駆け寄る。 が、もう少しというところで男によって高所へ持ち上げられてしまった。 『それ以上は死んじゃうデスゥ! ダメなんデスー!!』 短い手を伸ばして跳ねる禿裸だが無論届くはずもない。 仔実装の下半身だった部位からは糞とも血ともつかない雫が零れている。 『……テァ…イダイテヂィ…。何でワタチばっかりイタイイタイされるテチィィ…』 『デェッス! 今オバちゃんが助けるデスッ! デェッス!!』 禿裸は醜い顔を更に歪めて仔実装を掴もうと床を蹴る。仔実装もそれに応えようとしているのか男の腕の中から手を伸ばす。 それでも到底届く距離にはない。 『その仔を返してデース!! デェェェェン!』 「はいよ」 男の言葉と同時に仔実装との距離がぐっと近づき、今しかないと禿裸は手を伸ばす。 が、その手の間をすり抜けて仔実装は水槽に叩きつけられた。 『テペッ!?』 『デズアァァァァ!? なんで! なんでなんデスゥ!!?』 禿裸は男の手から離れた仔実装を掴み損ねたのだ。 慌てて底に這い蹲り、飛び散った仔実装の肉片を必死に集める。 しかし苦しげに呻く仔実装の声にそんなことをしている場合ではないと気付いたか、せっかく集めたものを打ち捨てて仔実装を抱き上げる。 『…酷いデス』 仔実装の顔右半分はつぶれていた。眼球は何とか収まるべきところにあったものの、いびつな顔面は青く、血の気が薄い。 何とかしないと。 しかし禿裸は実装石であり、頼るべき人間もいない。 『……大丈夫デスゥ…。絶対良くなるデース…』 なるべく苦しくならないように仔実装を腕の中に包むと、禿裸は自身の右腕の先端を噛み千切った。 それを咀嚼し、どろどろにした物を仔実装の口に少しずつ含ませる。 今回は身体の欠損は著しいものの、体力には余力があったようで与えられたものをすぐに飲み込んだ。 『頑張るデス…』 禿裸の言葉は仔実装に向けてのことか、はたまた自分を奮い立たせるためか。 それを見つめる男の顔はこれ以上ない笑みを湛えていた。 ● 『イヂャァァァァイ!! おてて取れるテヂィィィィ!』 傷が癒えた仔実装は今度は吊られていた。 左手に幾重にもタコ糸が巻かれ、それだけを支えに男の腰ほどの高さにいる。 縛られた手の先は鬱血して紫を通り越して黒くなっていた。 仔実装は痛む左手に無事な右手を伸ばそうとするが、仔実装の力では自分の身体を引き上げることすら出来ない。 ただ手を振っているかのようだ。 そして痛みに暴れるたびに左手には負荷がかかっていく。 『デェェェェッス!! デズゥゥァァァァァァ!!』 「ほおら頑張れ頑張れー」 男の場違いな声援を背に、仔実装の真下では禿裸が無駄な跳躍を繰り返していた。 上から降りかかる仔実装の糞と涙を真正面から受け止め、万歳するかのように両手を挙げて跳ぶ。 着地するたびに、『デギィィ!』と悲鳴をあげるのは足元が画鋲を敷き詰めたマットだからだ。 使ってないカラーボックスに棒を渡して、ほぼ真ん中の位置に仔実装は括られている。 禿裸はカラーボックスからよじ登ることも試したのだが、バランスを崩して倒れそうだったので諦めた。 今は届くかどうかの絶妙な高さに据えられた仔実装を掴もうと必死だ。 それこそ自身の怪我など省みないほどに。 『もうちょっとなんデス! ギッ! なんで届かないんデスー!!!』 『おててがぁぁぁ!! テチャァァァッァァ! なんで助けないテチィ!? ドレイイィィ!!』 『ごめん…デスゥ! オバちゃん頑張って……るんデスゥ…!!』 禿裸の足元は血と糞でぬかるんでいる。大分失血しているようで、もう殆ど跳べてすらいない。 そしてついには力尽きたのか、着地時に脚を滑らせ、糞や血を周囲に撒き散らしながら派手に転んだ。 『デ…ズァァァァァ……』 涙が出てきた。痛みからではない。目の前で泣いている仔を助けられない無力さが悔しかった。 『テチィィ…』 ずるり。仔実装の身体が僅かに沈んだかと思うと、結び目から左手が千切れて落下した。 『デッ!?』 倒れながらも手を伸ばすが、触れることなど出来るはずもなく。 けれど禿裸の転んだ位置は仔実装の真下であり、仔実装は仰向けになった禿裸の腹部に衝突。バウンドしてぬかるんだ糞の中に沈んだ。 『だ、大…丈夫デ……スゥ?』 這うようにして仔実装のもとへとにじり寄る禿裸は、糞山から仔実装が立ち上がったのを見て安堵したのか意識を失った。 ● 目の前の餌には全力で食いつく。それが実装石というものである。 仔実装も例外ではなく左腕を失った分を取り戻そうとがむしゃらに食い漁った。 食べながら、思う。 (今日はイタイイタイ少なかったテチ…。ちゃんとゴハンウマウマテチ) いつもなら腕が取れた後も男による虐待は続く。それこそ虫の息になるまで、だ。 今回早々と切り上げたのは禿裸が意識を失ったから。 男にとって仔実装のリアクションよりも、禿裸の行動の方が見ていてずっと面白かったのだ。 仔実装はチラリと水槽に転がっている禿裸へと視線を向ける。 あまり栄養が十分ではないために浮き出たあばらがゆっくりと上下している。 見えている足の裏には夥しいほどの細かい穴が開いており、目にした仔実装の背筋を振るわせた。 餌と水を置いた男は去り際にこう言った。 「そこの禿裸に感謝しろよ」 何を言いたいのか分からない。ドレイは自分に尽くすのが当然だ。仔実装は思っている。 満腹になると途端に眠気が襲ってきた。 その場でもそもそと横になる。が、 (ヒエヒエするテチ…) 初秋を迎えてぐっと気温は下がってきている。 新聞紙すら敷かれていない水槽は仔実装のささやかな体温ではあまりに頼りない。 『…仕方なくテチ』 立ち上がった仔実装は禿裸の右腋の隙間に潜り込む。 身体の半分を預けるように寄せると、無意識のなのだろうが僅かに禿裸が仔実装を抱くように腕を窄めた。 『…あったかいテチィ……』 ここに入れられてからというもの禿裸は常に仔実装を気遣い、自分の身体で包んできた。 仔実装に意識があろうとなかろうと関係なく、出来ることはこれだけだと言わんばかりに。 冷たさを感じない、というわけではないだろう。 先ほど仔実装が軽く触れた背中側に近い腋の肉はしっかりと冷えていた。 『……テチャー』 禿裸に触れている部分は熱が篭ってやがて全身を暖めていく。 それを逃すまいと、仔実装は禿裸へと更に強く抱きついた。 ● 『テェ?』 『起きたデスー?』 いつの間にか禿裸が身を起こし、左手で仔実装を抱えて右手で髪を梳くようになでていた。 髪は実装石にとって大事な財産である。それを気軽に触られることは恐怖を覚える。 仔実装は慌てて身を捩り、禿裸の腕に噛み付いた。 『デゥ…』 痛みに驚いた禿裸であったが、仔実装を取り落とすことはない。 『離すテチィ!! ワタチの高貴な髪に触るなテチ!!』 『でもお手入れはしたほうがいいデス…。オバちゃんはもう髪が無いデスけど、あるならもっと大事にした方がいいデス』 『……お手入れってなんテチ?』 『デー…ママは教えてくれなかったデス?』 ママという言葉に仔実装は一瞬泣きそうな表情を見せ、俯いた。 仔実装には母親に優しくされた記憶がない。 いつも他の姉妹が優しくされているのを遠くから眺めていた。 餌も姉妹たちの残り物ならばいいほうで、大抵は親実装の糞を食わされた。 仔実装は他の姉妹に「悪いことをしたらこうなる」「糞蟲はこういう目にあう」という見せしめとされていたのだ。 何かあると親実装に叩かれ、怒鳴られ、姉妹にすら嘲笑われた。 そして、とうとう『いらない仔はこうするデスゥ』とギャクタイハの巣に放り込まれたのだった。 だから仔実装は何も知らない。 水浴びも洗濯もトイレの概念だって。 『じゃあ、オバちゃんが色々教えるデスー』 『べ、別にワタチはやらなくてもいいんテチ! ドレイのお前がやるテチ!!』 あくまでも知らないとは言えない仔実装だったが、禿裸は目を細めて頭をなでる。 『それじゃ仔が生まれても教えてあげられないデース。ちゃんと覚えるんデス』 『テー…』 仔を産む。仔実装の頭には全然なかったことだ。生きることに精一杯だったし、 (ワタチは赤ちゃんできてもどうすればいいかわかんないテチャ…) しかし、目の前のついこの前まで見ず知らずだった禿裸のドレイはそれを教えてくれるという。 母親でもなんでもないのに。 『綺麗な服は気持ちがいいし、さらさらの髪は素敵デスゥ』 禿裸の言う状態を仔実装は想像できない。が、その語る表情からさぞ素晴らしいものだと思えた。 『じゃあ教わってやるテチ』 いつか自分の腕で仔を抱くことを考えた仔実装は頷いた。 ● テッチテッチと声をあげ、仔実装は水槽の床に広げた自分の服を擦っていた。 タイミングを見計らって禿裸がペットボトルのふたで水を掬い、汚れを洗い流す。 何度か繰り返したため水に混じる緑が薄くなってきた。 『これでいいテチ?』 『最初はそれでいいデスー。これはお水が少ないときのお洗濯の方法デス』 禿裸は床に広がる汚水を新聞紙でふき取りながら言う。 今朝方、餌を持ってきた男に禿裸は言ったのだ。 『お水を別にいただきたいデス』 狭い水槽で更に身を縮こまらせて平身低頭にお願いする。 男は普段、実装石の願いに耳を貸すことなどないのだが理由を尋ねると、 『公園に戻ったときにちゃんと暮らせるようにしたいデス』 それはつまり「ちゃんとここを出て行くぞ」との宣戦布告にも聞こえたため、面白くなっていくつか道具も貸してやった。 掃除用の水をペットボトルに入れてやり、拭き掃除用に新聞紙を一束。こびり付いた汚れ用に小さく切った台所用スポンジに石鹸の欠片。 そして禿裸はせっせと水槽内を掃除しつつ、仔実装にまずは洗濯を教えていたのだ。 水槽内を綺麗にするのは、せっかく洗濯してもすぐに汚れがつくと困るため。 さらには将来的に綺麗な環境を好むことになるだろうと見込んでいるのだ。 『もうおべべ着てもいいテチ?』 『まだデスー。ちゃんと乾かしてからにするデス。その前に身体を洗うデース』 洗った服を磨いた床に広げた。そして服を汚さないように離れた場所に仔を立たせると、頭から水をかける。 『冷たいテチィ…』 『少しだけ我慢デスゥ。あとでオバちゃんがだっこして暖めてあげるデース』 まだ左手は治っていないため、禿裸が洗ってあげることにした。 首筋や背中はもちろん腕や脚に至るまで、柔らかいスポンジで丁寧に磨いていく。 『チュッフ〜ン!』 ご機嫌な仔実装。 たちまちこびり付いていた糞や垢が落ちて血色の良い肌が露になってくる。 『テチャー! すべすべするテチ!』 『そうデスー。気持ちいいデス?』 『テッチィ!』 仔実装が笑顔で頷く。禿裸は初めてこの仔が笑うのを見た。 ずっと男に虐げられ、死と隣り合わせだったのだから無理もない。 『髪も洗うデス〜』 つられて笑顔になりながら禿裸は揉むようにして仔実装の髪をほぐし、磨くように洗ってやる。 石鹸は貴重だが最初なので使うことにした。 『テヒャァ!! アワアワテチ! ウマウ…テベェ……テ…! おめめ痛いテチィ!?』 『それは食べ物じゃないデスゥ。ほら上を向くデース』 最後にまた頭から水をかければ、 『テェェェェッェエ!!? 髪が…さらさらテチ!?』 『どうデス? キレイキレイするのは気持ちいいデスゥ?』 『テチ! すごいテチ! オバちゃん魔法使い見たいテチ!!』 オバちゃん。 今までドレイと言っていた仔実装の口から漏れた言葉に禿裸は驚いた。 『テェ? オバちゃんなんで泣いてるテチ?』 言われ、気付いた。 『な、なんでもないデース。ちょっと目にアワアワが入っただけデス』 それならいいテチと仔実装は水槽のガラスに映る姿が嬉しいらしくくるりと回ったりしている。 その仕草はいっぱしの仔実装らしく愛嬌がある。 自分の仔もちゃんと育てばこれくらいにはなっただろうか。 ありえない「もし」を思い浮かべ、頭を振ってかき消した。 『さ、服が乾くまでにお掃除するデス。お掃除終わったらご飯にするデスー』 『おべべ着るの楽しみテチィ』 見上げてくる仔実装はとても眩しいものに禿裸には感じられた。 ● 水槽内の全てを掃除し終えた頃にはすっかり室内は暗くなっていた。 途中から仔実装も見よう見真似で床を磨きだしたり、新たな糞をして再び汚したりとしたが何とか汚れは目立たない程度になった。 『良く頑張ったデスゥ』 『テチィ…すごいテチ。ぴかぴかでつるつるテチー!』 余った新聞で自分の身体を拭きながら禿裸は仔実装の頭に手をやった。 仔実装は磨かれ、より一層自身の姿を映すようになったガラス壁の前でポーズを決めたりしている。 『汗を拭くデス。すぐに寒くなるデス。その前に服を着るデスー』 服という言葉に仔実装は目を輝かせながら振り向いた。 テチュテチュと興奮を隠せぬ様子で広げておいた実装服を拾い上げ、 『テァァッ!? おべべが柔らかいテチィィィィ!?』 汗も糞も泥もない交ぜとなって幾重にもコーティングされた服しか知らない仔実装はその手触りに思わず大きな声をあげた。 『服は本当はそういうものデスゥ。さ、オバちゃんが着せてあげるから万歳するデース』 そして実際に身に纏うとその軽さや肌触りに改めて感動を表した。 裾を持ち上げてくんくんと匂いを嗅ぎ、ちょっとしゃぶってみたり、やっぱりガラスに映してみたり。 『オバちゃんすごいテチ! すんごいテチャァァァ!!』 『デース。これからはできるだけ綺麗にするデス』 はしゃぐ仔実装に食事にすると伝えて、盛られたフードから数粒を新聞紙の切れ端に乗せてやる。 『これ何テチ?』 『こうするとお部屋を汚さなくて済むデス。せっかく綺麗にしたからできるだけ綺麗にするんデスゥ』 分かったテチと元気良く応えた仔実装はいそいそと服を脱ぎだした。 どうしたのかと禿裸が問えば、 『おべべ汚さないようにするテチ!』 『デスー…今度は身体が汚れるデス? 服は洗えばいいんデェス。寒いから服は着るデス』 再び、分かったテチと万歳。 しょうがないデスーといいながらもにやける顔が治まらない禿裸は服を着せてやる。 改めて食事を再開する。 『ウマウマテチィ』 『デス。美味しいデスー』 仔実装はもう禿裸がフードを食べても気にならないらしい。 仲良く餌を囲み、その日は穏やかな時を過ごした。 ● よたよたと脚がもつれるが、仔実装は必死に走り続けた。 かれこれ三十分は走り通しだ。 靴を奪われた足は痛み、呼吸も不規則に荒くなっているが、足は止まらない。いや、止められない。 なぜなら、 「ほーらスピード落ちてるぞ。頑張んないと前髪なくなるぞー」 男が揶揄するように、仔実装は前髪を引かれているため走らざるを得なかった。 仔実装の前髪は先端をビニール紐で括られ、その紐はといえば男が絶妙な力加減で引いていた。 円を描くような動きだが、時々上方向にも力を加えることで立ち止まることは難しい。 仔実装の走った後は既にパンパンに盛り上がった下着からはみ出た糞がコースを描いている。 『イヤ…テチィ……せっかく綺麗に…なったテチィ…』 手入れを重ねた髪は今まで異常に心地よい手触りで、禿裸が褒めることもあってか仔実装の自慢となっていた。 その髪を失いかねないとあって仔実装は体力が尽きた今でも気力を振り絞って脚を動かしている。 『やめ…るデズゥ…!』 手で床を掻いて、男の足元まで辿り着いた禿裸がそのズボンの裾に手をかけた。 掴んだ部分を始点に引っ張り上げるような動き。 男はそんな禿裸を一瞥しただけで仔実装をいたぶる手を緩めようとはしない。 『デェズゥァァァァァァッ!!』 禿裸が搾り出すような悲鳴を上げ、立ち上がろうとして水っぽい音を出した。 音は禿裸の脚、黒ずんだ先端がつぶれて黄色や緑の汁が漏れたために出たもの。 腐り、ふやけた足先がグズグズになって禿裸を苛んでいた。 先日の虐待の際に画鋲の細かい傷から入り込んだ糞や汚れが化膿し、禿裸の身体を侵食している。 まともに立つこともできないため、匍匐前進のように少しずつ這いずるだけ。 さらには腹や腕もフローリングの境目に引っかかるとこで無数の切り傷がついていた。 それでも禿裸は立った。 足の裏からは断続的な痛みが続いているが、歯を食いしばって耐える。 『やめるデス! 髪はなくなったら戻らないんデスゥ!!!』 力なく叩きつけられる両の手を感じることもなく、澄ました顔で男は仔実装を導き続けた。 やがて体力が尽きたのかバランスを崩したのか、男に凭れかかるようにして禿裸は崩れおちた。 「…まぁ十秒ってとこか」 呟くと、男は仔実装を翻弄していた紐を引く。上へ。 『テヒィ!? そっちは無理テ…ェェェエェッェエェ!?』 仔実装の身体が浮き、支えているのは頼りない前髪だけとなる。 突っ張るような前頭部の痛みと、髪を失うかもしれない恐怖に仔実装はただ糞を漏らして涙した。 『やめ…髪が取れるテチィー! 大事な髪なんテチ! とっちゃイヤテチ! イヤテ…アーッ!? アッアーッ!』 前髪の端のほうから一本二本、プチプチと音をさせながら抜けていく。 それにより暴れだす仔実装。しかし、もがけばもがくほど髪が抜けるのを促進させる。 『アァァァァーッ!! オバちゃーん! 助けテチィ!! ワタチの髪が、アッ…ヂャァァァァア!?』 半分ほどがまとめて抜けたため仔実装の感じる痛みが増す。 もう駄目だと思ったその瞬間、男は仔実装を地面に降ろした。 痛みと恐怖から解放され、テヒィテヒィと地面に顔をつけて息をする。 男がビニール紐の結び目を解くと、はらりと抜けた前髪が舞い落ちた。 『テ・・・ヂィィィィィィィィィィィィ!! テェェェェェェェエェッェェン!! テェェェェェン!』 仔実装は泣きながらそれを拾い、頭に付け直そうとするが上手くいくはずもない。 『大丈夫デス…まだ残ってるデスゥ……』 禿裸が仔実装の背をあやすように叩き、自らも仔実装の髪を集める。 小高い山を作る髪の毛に二匹は呆然とし、深い溜息をついた。 仔実装にとっては初めて手に入れたとても綺麗な宝物。 禿裸にとっては仔実装との思い出や絆に近いもの。 半分はまだ残っているとはいえ、額の広さは目立つし、抜けた跡は痛々しい。 『テェェェェェェェエン!! テェェェェェェン!』 『デズゥ…』 泣きじゃくる仔実装を宥める術を思いつかず、二匹はそれぞれの悔しさを胸に涙を流し続けた。 ● 男が髪や服など取り返しのつかないものに手を出したのは後にも先にもこの時だけだった。 以後は仔実装の身体に怪我がなければ水槽から取り出し、手足を引きちぎって瀕死に追い込む。 それを禿裸が寝ずに看病し、再生するまでは仮初の幸せに浸る。 延々それの繰り返し。 『テェ…そろそろまたイタイイタイされるテチィ…』 『…頑張るデス。おっきくなればここから出られるデス』 禿裸は仔実装に男との約束を話していた。 仔実装にとっては酷なことではあるが、希望があるだけでも生き残る確率は高くなる。 『大丈夫テチ。ちゃんとおっきくなっていっぱい元気な仔を産むんテチ!!』 『そうデス。お前ならきっといい仔を育てられるデスゥ…』 最近は「外に出たら」の話が多くなってきた。実際仔実装は栄養十分の餌を食べているので成長は早い。 間もなく語尾がテチからテスに変わるだろうし、そこからデスになるのはもっと早いだろう。 『オバちゃん…今日もだっこしてもらっていいテチ?』 『遠慮すること無いデスー。オバちゃん、服がないからお前がいるとあったかで嬉しいんデース』 『ワタチもオバちゃんあったかで気持ちいいテチー!』 両腕を広げた禿裸の胸に仔実装が飛び込む。 肌と肌が触れ合うと、二匹は胸の奥が熱くなるのを感じていた。 仔実装は得られなかった母の温もりを、禿裸は注ぐことのできない愛情の行き場を、それぞれ求め、得ていたからだ。 だから時々仔実装が寝言で『ママァ…』と呟く度、禿裸の心は悲鳴をあげた。 『ママはここデスゥ』 そう言えたらどんなに良いか。しかし禿で裸は奴隷の証であることは重々承知している。 いくら仔実装がそんな目で見ていないとは言え、公園の野良たちはそうはいかないだろう。 禿裸の仔ともなれば仔実装がどんな目にあうか想像しても足りない。 いずれ外へ出る。それは強い決意として胸にある。 が、そうなった場合禿裸はこの仔実装と分かれなくてはならない。 分かっているからこそ、もどかしい。 そうして禿裸の眠れぬ夜が過ぎていく。 ● 腐臭が漂っていた。 仔実装の看病でうとうととしていた禿裸が目を覚ますには十分な程の刺激が鼻腔に突き刺さる。 『デェェ!? なんデスゥ?』 見れば水槽の隅、餌用の皿に腐った生ゴミが置かれていた。 魚の骨や卵の殻に黒く溶けかかった野菜の葉らしきもの。水皿には決して透明とは言えない液体が注がれていた。 『クチャイテヒィ〜』 仔実装が服の裾を捲り上げて鼻に当てている。 「お前らここを出て行くんだよな?」 マスクをつけた男のくぐもった声に禿裸は頷いてみせる。 「だったらそろそろ外の飯にも慣れないとな」 『お外の…ゴハンテチィ?』 『…そう……だったデス!!?』 そこで禿裸は今まで重要なことを見落としていたことに気付いた。 野良として生きていく。 すなわちそれはニンゲンから直接餌を得られないことである。 愛護派は毎日来るわけでもないし、そもそもその餌は厳しい競争が必要になる。 大半の実装石はゴミ捨て場から人間の残飯を漁り、虫や木の実を主食とせざるを得ない。 今日用意された餌は公園に生きるものだったならば大喜びするくらいの御馳走である。 しかし、禿裸も仔実装も最早それを餌としては認識できなかった。 実装フードに慣れすぎたのだ。 味は殆どないが栄養満点のフードは酸味や苦味、刺激臭などがある生ゴミと比較するまでもなく上等な餌だ。 これを一粒食べたばっかりに崩壊した親仔もいるほど、一度食べれば野良の食事がみすぼらしいと感じてしまう。 それを二匹は当たり前のように食べてきた。 少ないだの固いだの毎日同じ味だのと文句までつけて。 いつの間にか味覚の要求水準は跳ね上がっていたのだった。 『…オバちゃん、今日はゴハンないテチ?』 『……ある…デス』 『テ! どこテチ!? ワタチもうおなかぺこぺこテッチューン!』 お腹を押さえてキョロキョロ辺りを見回す。しかしそれらしいものは見当たらない。 と、禿裸が生ゴミの山を掘り返し、くいどころが多そうなものを手にとっては臭いを嗅いでいく。 『デェズゥ…』 『テァッ!? な、何やってるテチオバちゃん!』 問いかけには答えず、黙々とゴミを選別していく。 そして三つの山が出来上がった。 そのうちの一つを指し示し、禿裸は言う。 『これがゴハンデス』 『テ? …違うテチ、これはクチャイクチャイテチ。ゴハンはもっとウマウマな感じテチ』 『違わないデス…。お外ではこれが普通デス。…普通だった筈デス』 禿裸は残った二つの山のうち一方に手を伸ばす。 これは「そこそこ食べれそうなもの」だ。 仔実装に渡したのが「十分食べれるもの」、残った山は「食べるのは厳しいもの」。 いきなり何でも食えとは難しいだろうと考えた禿裸はまず食べやすいものからなれるようにと思い、いいものを仔実装に渡したのだ。 『…イヤテチ』 『じゃあゴハンはなしデス』 男は禿裸の言葉に頷く。マスクに隠れた口元が笑みにゆがんでいるのがいやでも分かった。 酸味とえぐみに何度か戻しそうになりながら禿裸は自分に割り当てた餌を食いきった。 その様を見て、もしやと仔実装も手を伸ばすが、手に取る前に臭いに中てられて引いてしまう。 『そんなんじゃあ外に出ても何も食べられないデスー』 顔を青くして言う禿裸だが、相当きついらしくすぐに横になってしまった。 においは未だ酷いものがあるが、おきているのが辛いのだろう。 『テェ……ゴハン…』 仔実装は恨めしそうにゴミの山と男の顔を交互に見て、がっくりと項垂れた。 ● 一度高まった要求のステージを下げることは容易ではない。 特に欲望の塊の実装石は常に上を求めるためなおさらだ。 仔実装は見る間に痩せていった。 過去に食糞までしたことがあろうと、仔実装の中ではゴハンは実装フード以外にありえなくなっていた。 禿裸のほうは何とか勘を取り戻してきたようで、大体のものは食べられるようになった。 『テェェ…』 『それもダメデスゥ?』 傷んだ部分を取り除いたレタスの葉を前に仔実装は涙を浮かべて座り込んでいた。 公園の実装石に渡せば奪い合いが起きそうなほどまともな餌だ。 それすら仔実装は受け入れようとしない。 味覚はすっかり実装フード以外は拒絶するようになってしまっていた。 『オバちゃん…ワタチウマウマゴハンがいいテチ』 『デー…お外にはウマウマは無いデス。お外ではこれがゴハンなんデス』 しおれたレタスをちぎって手渡す。 けれど仔実装は力なく首を振るだけ。 『ニンゲンさん…』虚ろな目で仔実装は男を見上げた。男は最近は肉体的な虐待をしない。『いつものウマウマが欲しいテチ…お外なんて出たくないテチ』 仔実装が傷つけられないのは、既にこの光景が虐待として成り立っているからだ。 いかに努力し、仔実装に食事を取らせようとする禿裸の苦悩と、それが今まさに水泡に帰そうとしていると知った表情。 ぽっかりと口を開け、禿裸は『な、なんてことを言うデス…』と目を見開いた。 全てはこの仔実装と外へ出るため。公園に帰るためと思い、身を削る思いで世話をし、生きる知恵も授けたのに。 それを必要ないと、仔実装は言ったも同然なのだ。 「ふーん、だってさ。どう思う?」 いやらしい笑みを浮かべて男は問うて来る。 ここで男が有無を言わさずに決めればしょうがないと禿裸も諦める覚悟がつく。 しかしあくまで男は禿裸に決定権を委ねてきた。 『お前があんなこと言うからテチィ!!』 未来の仔実装の言葉がまざまざと脳裏に浮かぶ。 ここに残ることも、外に出ることもどちらも辛いのは分かっている。けれどやはり現状が辛いと「あっちのほうが」と思うに決まっているのだ。 何を言っても、選んでも禿裸には仔実装に罵られる道しか示されていない。 『ここでは』仔実装に向き直り、問いかける。『怪我が治るたびに痛い思いをするデス』 『テチ』 『仔を産むことも多分出来ないデス』 『テェ…』 『思いつきで殺されるかもしれないデス…』 『……』 『それでもいいんデス? 美味しいご飯にはやがて飽きが来るデス。あとで仔が欲しいとか言えないんデス』 『…オバちゃんはお外出たいテチ?』 問い返され、禿裸は僅かにひるんだ。 『お外は怖いお仲間が一杯テチ』 『デー…』 『ごはんも食べられないかも知れないテチ』 『デス』 『オバちゃんも赤ちゃんいたテチ? でも今はいないテチ…お外では赤ちゃんできてもすぐイナイイナイテチ』 『……デズゥ…』 自身のことを引き合いに出されてしまっては禿裸にはこれ以上言葉が見つからない。 相手の選択の短所を言い合うだけの堂々巡りとなってしまうと悟り、 『分かったデス』 仔実装の潤んだ瞳から男へと視線を移す。 『ニンゲンさん、この仔にゴハンをくださいデス』 ○ 薄暗い部屋。僅かに開いたカーテンの隙間から漏れる微弱な光だけが光源の室内。 そこには血と糞の入り混じった悪臭が充満していた。 いや、もし目に見えることならもっとも一番濃いものは人間の悪意なのかも知れない。 『レッ…! ペッ! ヂブッ!!』 『やめるデスゥ! オバちゃんやめてデース! ワタシの仔が死んじゃうデスー!!』 禿裸の成体が親指実装を殴りつけている。 対格差は歴然。その気になれば簡単に潰れてしまうだけに、まだ原型を保っているだけ奇跡かもしれない。 赤と緑でステンドグラスのようになった水槽のガラスの向こうで騒ぐのはかつて仔実装としてここに来た個体。 すでに十分な栄養を得て、成体になっていた。 『煩いデスァァァ!!』親指実装を殴っていた手を止め、禿裸が叫ぶ。『こうしないとワタシの仔が死ぬんデス! お前の仔は知ったこっちゃ無いデス!!』 仔実装が成体となった記念に、男は禿裸も含めて「仔でも産め」と言った。 相変わらず虐待が続き、既に右足はまともに再生しなくなった仔実装はもちろん、禿裸も大いに喜んだ。 いつか産んだ仔も虐待されることは覚悟の上。 生を受ければ少なくとも親仔の触れ合いは出来るし、ありえないことかもしれないが、 (賢い仔が生まれればニンゲンがちゃんと飼ってくれるかもしれないデスゥ) 淡いシャボン玉のような期待さえ生まれていた。 『デッデロゲー』『デッデロゲー』 二匹揃って膨らんだ腹を撫でながら胎教の歌を歌う。 虐待もなく、餌の質も上がったこの頃は本当に男が飼ってくれる様になるのではと思ったものだ。 『オバちゃんの仔はワタシの妹みたいなもんデスゥ。きっといい仔なんデスー』 『お前はワタシの自慢の仔みたいなもんデスゥ。ワタシにも孫ができたんデスー』 しかしいざ仔が生まれると、男はそれぞれの仔を別の水槽に隔離した。 元仔実装の仔は四匹、うち一匹が親指。禿裸の仔は五匹だった。 「ふむ、こっちが一匹多いか…おい」 男は禿裸に向かっていった。その手には仔実装が握られていた。 『な、なんデスゥ?』 禿裸の視線は男の手の内にいる仔実装だ。当の本石は男に選ばれたことを純粋に喜び、テチテチ言っている。 「こいつを死なせたくないなら、隣の糞蟲から髪を毟れ。全部だ」 『デ?』 『…デェェェエ!!?』 禿裸と元仔実装は一瞬見つめあい、男に向かって揃って抗議を始めた。 『何言うデス! そんなことできないデス!!』 『そうデス! この髪はオバちゃんとワタシのキズナなんデスゥ!!』 水槽の中、両手を振りかざしてデスデス言う二匹の言葉に男は頷き、 「あっそ」 仔実装の前髪を引き抜いて、さらには後ろ髪、服と丁寧に剥いていく。 あっという間に完成した禿裸を、元仔実装の仔がいるケージに投げ捨てた。 『ワタチの髪がぁぁ!? おべべがぁ!! ママァ!! マベブッ!』 突然振って湧いた禿裸の仔実装に興味津々な仔実装達へ男はにこやかに告げる。 「そいつは禿裸つって奴隷だから。たくさん虐めて食っちゃいな」 『デヂャァァッァァァァァァッァァッァァッァァァ!!!!!?』 禿裸がこれまで出したことのないような大声で叫ぶ。 だが、仔実装達はそれには一切気に留めず、高所から叩きつけられたことで動けない禿裸の仔蟲に群がって、徐に一匹が蹴りつけた。 『テプププ、惨めテチ』 『こいつはいい玩具テチ! せいぜい楽しませるテチ』 『テェ…これ、ママのお友達の赤ちゃんテチ? いいんテチ?』 『レチューン! このドレイ、おみみがウマウマレチー!!』 そして一度箍が外れれば後は一気に堕ちるところまで堕ちるだけ。 胎教で散々教えたことも結局は本能に勝つには至らなかった。 しかももっとも強く言いつけてきたのが、 『ニンゲンさんは〜怖いです〜言うことちゃんとーまっもるです〜』 従っていくら禿裸が凄もうが、元仔実装が泣きながら叱り付けようが、聞く耳を持つはずがなかった。 禿裸の禿裸仔実装は全身に青あざを作り、骨という骨が形を失ったのち、生きたまま食われた。 最後まで『助けテチ…ママ……ママー…』と呟いていた声を禿裸は今でも夢で思い出す。 ○ そして、それから男はどちらかの仔を殺されたくなければ相手を甚振ることを要求してきた。 元仔実装は禿裸の仔を救うために髪も服も差し出した。 禿裸は元仔実装の仔を傷つけないために右腕を焼くことを承知し、左目を捧げた。 二匹の仲はそれほどまで深まっていた。しかし、 「お前らどっちかが相手の仔を虐待しろ。虫の息までだ。ただし殺したら自分の仔も死ぬ」 男は両手に一匹ずつ仔をぶら下げてたずねた。 右手の元仔実装の仔は 『ニンゲン、そこのうまそうなドレイを寄越すテチ! あのまずい飯は飽きたテチャ!!』 左手の禿裸の仔は、 『ママー、イモチャたち寒い寒いって言ってるテチ…。だっこしてあげてほしいテチー』 親二匹は固まった。相手の可愛い子を手に掛けろという。 そんなことできるはずがない。禿裸は目だけで元仔実装の様子を探ると、なんと妙にそわそわとしているではないか。 「どうしたー? どっちもやらないのか?」 さもないとガキ二匹とも死ぬぞと付け加えた。 すると、 『デェッス!! ワタシがやるデスー!!』 元仔実装が名乗りを上げた。 『デデッ!!? お、お前、なんと言う…』 『落ち着くデス。オバちゃんの仔を殺してしまったらワタシの仔も死ぬんデスゥ。それに上手くやればどっちも生きるんデス!!』 『…分かったデス。お前を信じるデス』 それが無駄だと何故気付けなかったのか。 脆い仔実装に手加減できるのは虐待し慣れたニンゲン、例えば男のような存在だけだ。 それ以外、たとえ実装石といえど成体が仔実装を瀕死に追い込むなど出来ようはずもなく。 なるべく痛い想いをしないうちに瀕死にしようとした元仔実装は加減を間違え、三発で仔の頭を飛ばしてしまった。 『デ、デ、デ…何するデスこの糞蟲がぁぁぁぁぁぁ!!』 『ち、違うんデス!! これは間違いデス! 間違いなんデスゥ!!』 そして元仔実装の仔は禿裸に剥かれて禿裸の仔達の餌となった。 こうした応酬を経て、一週間もしないうちに残る仔は互いに一匹ずつ。 そして元仔実装の最後の仔である親指実装は今まさに死線を彷徨っていた。 まるで生ゴミのように血と糞で彩られたそれを、禿裸は男に差し出した。 『どうデス?』 「んーまぁいいだろ、お前のガキは生かしてやるよ」 『ありがとうございますデス!!』 「じゃ、このガキは…殺すなよ。最後の一匹だろう」 死に掛けの親指を元仔実装に渡して男は禿裸も水槽に戻す。 その水槽はもう成体二匹では横になることもできないほど手狭だったが、男は頑としてそこ二匹の場所としていた。 『あ、ああ…ワタシの仔が……』 『生きてるんデス…ありがたく思うデス…』 元仔実装が手がけた禿裸の仔は生き残ることはできなかった。 『デゥー…デェェェェェン! デェェェェン!!』 『泣くのは後デス!! 早くその仔を抱きしめてやるんデス! 寒いと死んでしまうんデス!!』 そう、かつて自分が隣の仔実装にやったようにすれば助かる。 何度もそれで生き延びてきたのだ。 泣きながらも元仔実装は死に掛けの親指をその腕の中に包む。 (こういう時しか抱けないなんて…非情デスゥ…) 禿裸はさらに元仔実装を包むように手を伸ばし、身体を寄せる。 少しでも、体温が、命の強さが伝わればいいと。 翌朝、親指は冷たく物言わぬ死体となっていた。 『デズァァァァァァァア!? 何でデスゥ!! オバちゃん大丈夫って言ったデスゥ!!』 『デ…そんな、そんなぁぁあぁ! おかしいデスゥ!!』 「おかしくないって」 男が親指の死体を取り上げ、禿裸の仔の水槽に投げ入れる。 『ごはんテチ!』 むしゃむしゃと食べだすその姿を見ながら男は小さな筒を取り出した。 それは透明な、いまでは珍しいフィルムケースで、中に液体ときらきらと光るものが入っている。 『…それはなんデス?』 元仔実装が息を飲む音を聞きながら、禿裸は尋ねた。 いや、本当は何か分かっているのだ。 ただそれを否定して欲しいだけ。 もちろん男がそれを叶えてやるわけもない。 「これか? そいつの偽石だよ。まだ綺麗だろ? 結構いい薬使ってやったからさ」 『ワタシの…お石……デス?』 元仔実装が胸に手をあてる。 「そ、お前が今まで酷い怪我をして生き残ったのはこの石を俺が預かってて、たっぷり薬を使ってやったから」 男はにんまりと、禿裸に笑顔を向ける。 見るものが見たら悪魔と形容したかもしれないそれに、言葉を乗せる。 「こいつが助かったのはお前の努力とか関係ないんだよ。無駄な献身ご苦労さん」 しん、と耳鳴りのような空気の張り詰めを感じた。 元仔実装は恐る恐る隣の、自分の母親代わりとも言うべき実装石を見る。 『アァァァァァァァァァァァァッァアアアアァッァァッァァァアッァ!!! 嘘デース!! 嘘って言うデズァァァァ!!』 禿裸は半狂乱になって水槽の壁に頭を打ち付けだした。 『この仔はワタシが助けたんデス! ワタシの…ワタシがぁぁ!!』 『オバちゃん…』 無意識のうちに禿裸の身体を押さえるように抱く元仔実装。そして囁く。 『ワタシ分かってるデス。生きてるのちゃんとオバちゃんのおかげデス。無駄なんかじゃないデス…』 『お前…デェェェェェエン!! ごめんデスゥ! 仔を殺してごめんデスゥー!』 しっかりと抱き合い、慰めあう。 直に触れる肌から伝わる体温は確かにお互いが重ねてきたものであり、確かにそこにあるものであった。 男は自分の言葉が否定されたにもかかわらず、なぜか満足げに頷いていた。 ひとしきり泣いたあと、禿裸は男に向かって吼えた。 『確かに…そのお石のおかげかもしれないデス! でもワタシ達のキズナは本物デェス!!』 「ふむ、じゃあ聞くけどさ」 男は親指を食べ続けている仔実装、禿裸の仔を摘み上げて問う。 「このガキ助けたければ、この石を壊せって言ったら、どうする?」 ちゃぷんとフィルムケースを振ると中の緑色の石が揺れた。 『オバちゃん…』 元仔実装が禿裸の目を見ようとするが、禿裸は決して唯一残った赤い瞳を合わせようとは、しなかった。
1 Re: Name:匿名石 2019/07/10-19:22:31 No:00006064[申告] |
面白い |
2 Re: Name:匿名石 2023/06/11-18:07:27 No:00007279[申告] |
糞虫すら愛情を与えられれば心変わり出来るのにこの男はさあ… |
3 Re: Name:匿名石 2023/06/11-19:32:05 No:00007280[申告] |
実装の愛情なんて何処までいっても基本欺瞞、場当たり的に縋るもの変えてるだけ
手間暇掛けて構築させて引っ剥がす。この虐待に行き着いた過程は気になる |
4 Re: Name:匿名石 2023/06/17-07:51:38 No:00007306[申告] |
禿裸と元仔の間に生まれた真の絆を親子の情で踏みにじる…外道すぎて最高です |