その実装石は雑踏の中に溶け込んでいた。 日中、常に多くの人が行き交う駅前の階段。 その階段を降りて大通りの脇に、一匹の実装石がダンボールの看板を立てている。 【 くつみがき 】 拙いひらがなで、黒のマジックで書かれた簡素な看板だった。 その傍らで実装石は身を小さくして蹲り、1時間ほど前に拾った新聞を眺めていた。 『 お前、靴を磨けるのか? 』 新聞から見上げると、会社員らしき中年の男性が立っていた。 「 はい、一生懸命磨くデス 」 『 なら20分で、できるか? 』 「 分かりましたデス、こちらへおかけくださいデスゥ 」 駅前に設置された時計塔の針を一瞥すると、折り畳みの椅子を男の前に立てた。 男は腰を下ろし、実装石が出した台の上に黒い革靴を履いた足を乗せる。 どこかから拾ってきたのであろう。 実装石は古ぼけた革のカバンから、幾つかの道具を広げた。 『 ほぉ…。 』 その意外な光景に、思わず男は感嘆の声を上げた。 実装石に靴磨きの腕前を、そこまで期待していたわけではなかった。 単に歩き疲れ、暫く腰を下ろせるベンチか何かを探していただけだった。 どこかで一休みできる場所を探していただけだから。 そこで偶然目に付いたのが靴磨きの実装石。 今日は大切な靴を履いてきたわけでもなかった。 最近は手入れが滞って少々汚れており、今日は客先に赴く予定も無い。 せいぜい、泥を払ってくれる程度だろう。 その間に椅子に座って一休みできれば十分と考え、声をかけたのだ。 しかし並べられたのはブラシ、布切れ、クリーム各種。 野良実装には似つかわしくない靴磨きの道具の数々だった。 「 失礼しますデス 」 実装石はブラシを持つと、革靴を擦り始めた。 革靴の継ぎ目になぞって埃を掏り取り、表面に付いた泥の破片を掃いとっていく。 『 いや、大したものだな。 』 その実装石の手馴れた動作に、二回目の感嘆の声。 実装石は手先に布を巻きつけるとクリームを塗りつけ、男の靴を磨いていく。 本職の靴磨きには到底敵うべくも無いが、実装石としては十分であろう。 無駄の無い手つきで、靴が光沢を取り戻していくのが男にも分かった。 「 どうぞデス 」 男が懐からタバコを取り出すと、何時の間にか実装石は灰皿を差し出していた。 『 あ、あぁ…。 』 手馴れているのは靴磨きだけでは無かった。 タバコに火を点け、最初に深く吸い込んだ頃には新しい布で拭き取り作業に入っていた。 磨く前の靴と磨き終えた靴……その両者の違いは明らかだった。 「 お客サン、こちらは終わったデスので、そちらをお願いしますデス 」 男は磨き終えた足の靴をどけると、もう片方の足を台の上に乗せ変えた。 時間を見ると、初めてから7〜8分経っているだろうか。 『 驚いたな…本当に時間通りに終わりそうじゃないか。 』 「 お仕事中のお客サン達に、余計な時間を取らせられないデス 」 『 あぁ、時間は大切だ…。 ということは他にも、仕事中の奴らが磨きに来るのか? 』 「 デスゥ…そんなニンゲンサン達が一番磨かせてくれるデス 同時にワタシの実装石にも磨きがかかってきたデス 」 『 フフッ……お前、実装石にしとくのが惜しいな。 』 最初は仏頂面だった男も、今では自然に表情が和らいでいた。 『 …今日だって、要するに上の尻拭いだ。 アイツ等、そんな重要な事くらい前もって教えるのが当然だろ…! 』 「 連絡が行き渡らないのは感心しないデス… けど、お客サンみたいな社員が会社やワタシの生活を支えているデスよ 」 道端にて、会社員が実装石に靴を磨かせながら愚痴をこぼしている。 上司や仕事の不満を洩らし、それに実装石が相槌を打っていた。 「 …申し訳ないデスがお客サン、お時間の方はよろしかったデス? 」 『 ン…?あぁ、もうこんな時間だったか。 』 実装石が会社員の話を遮った時が丁度20分。 作業は5分前に終わっていたが、時が経つのを忘れて話に耽っていたのだ。 『 そうだな、もうそろそろ戻らないとマズい…。 それで幾らなんだ? 』 「 気持ちで結構デス 」 『 気持ちだと? 』 「 お菓子とかパンとか…食べ物の残りを頂ければ嬉しいデス 」 『 生憎、今は食い物を持ってないからなぁ。 …じゃあ、これで何か適当に買っておいてくれ。 』 男は財布から500円玉硬貨を一枚取り出し、実装石に渡した。 「 こ、こんなにも頂けないデスゥ! 」 『 なに、これは色々と楽しませて貰ったサービスだ…遠慮なく受け取ってくれ。 』 「 …では、有り難く頂いておくデス その代わり、次はもっと綺麗に磨かせてもらうデス 」 『 あぁ、また靴が汚れたら来るよ。 』 男は立ち去り、実装石はその後ろ姿に深々とお辞儀をして見送った。 食べ物の持ち合わせが無い人間が、代わりにお金をくれる場合が多々ある。 しかし普段は50円か高くても100円程度であり、500円硬貨など滅多に無かった。 この実装石は確かに嬉しかったが、それはお金の問題だけでは無い。 それは自分の靴磨きの仕事を、客に認められたという証明だったからである。 「 ただいまデスゥ 」 「 おかえりデス 」 靴磨きの実装石が帰ってきたのは、駅近くの公園内に置かれたダンボールハウス。 その中には、一匹の実装石が留守番をして待っていた。 「 今日の食べ物デス 」 「 ご苦労デス、これだけあれば暫くは大丈夫デスね 」 留守番はパンの耳の入った大袋を受け取ると、部屋の隅に積み上げた。 他にも荷物は有ったが、全て規則正しく置かれていた。 「 そういえば、今日は620円も儲かったデスゥ 」 「 それは凄かったデスね 」 「 そろそろ、欲しかったブラシを買えるデス 」 「 良いことデス もっともっと、良い仕事ができるデスよ 」 靴磨きの実装石は、ある程度のお金が貯まると靴屋に足を運んでいた。 最初は拾ってきた汚れてない布切れで磨いていた。 それで10円、20円とお金をくれる人間が、時々来てくれた。 そしてある程度貯まった時、思い切って街の靴屋に入ってみた。 《 コラァ!ここは実装石が入っていい場所じゃ無ぇぞ! 》 店番をしていたのは、店を継いだばかりの青年店長だった。 《 それとも、この俺様に喧嘩売りに来たってぇのか〜!? 》 常に煙草をくわえ柄も悪く、更に口も悪かった。 野良実装が迷い込んできたと思った若い店長に、全力で睨みつけられた。 〈 お、お金はあるデス…! 〉 《 …なんだ、客か。 》 しかし慌ててお金を見せ、道具が欲しいことを伝えると今度は怪訝な顔を見せた。 《 なんで、そんな道具が欲しいんだ? 》 〈 靴を、もっと綺麗に磨けるようになりたいデスゥ 〉 自分が人間相手に靴磨きの仕事をし、これはその時に貯めたお金だと言った。 けれども今は布切れで磨いているだけで、これ以上綺麗にできない。 だから、その為の道具が欲しいと店長に告げた。 〈 これで買えないデス? 〉 実装石が出した袋の中には、1円玉と5円玉と10円玉が大量に入っていた。 けれども全部合わせても500円に満たない。 だが、この実装石が大切に貯めてきた事は、店長には容易に想像ができた。 《 あぁ、これじゃ足りねぇな。 》 〈 そうデスか… 〉 《 ちっ…まぁ、今日はサービスしといてやるか! 》 すると店長は、一番小さな平型の靴ブラシを実装石の前に出した。 値段的には持ってきた金額の倍以上の商品である。 〈 あ、ありがとうデス! 〉 《 使いかけだがクリームも持っていけ、大サービスだ。 》 〈 クリーム……何に使うデス? 〉 《 お前、そんな事も知らねぇのか? …いや、実装石だから当然か。 》 その時は、他に客が居ないという事もあった。 青年は暇つぶしがてらに自分の靴を脱ぎ、実装石相手に靴磨きを教え始めた。 《 最初はな、表面についた泥を綺麗に拭き取るんだ。 その為に、このブラシを使うんだ…。 》 更にクリームの使い方、光沢の出し方、布切れの選び方を教えていった。 《 ほら、試しに俺の靴を磨いてみろ。 》 〈 分かったデスゥ 〉 《 違う、違う!ブラシの当て方はなぁ……! 》 その実装石の熱心な生徒ぶりに、店長の方も教え方にも熱が入っていった。 そして一通り教え終えた時、店長は奥から古くなった在庫の靴を10足程度出してきた。 《 これで練習してみろ。 》 〈 デスゥ! 〉 長い陳列の間に埃が溜まり、光沢が失われてしまった靴。 それを実装石は教えられた手順に従い、一つ一つ磨いていくのに専念した。 《 …おぅ、まぁまぁだな。 》 〈 デス… 〉 《 そういえば、捨てようと思ってたブラシが他に有ったな。 少し汚れてるが洗えば使えるし、持っていけ。 》 実装石は今まで貯めた硬貨と引き換えに、ブラシ2本と使いかけのクリーム缶を手に入れた。 更に店長に靴磨きのコツを教えられ、格段に綺麗にできるようになっていた。 それから大勢の人間の靴を磨き、その腕前は着実に上達していく。 靴磨きで得たお金でパンの耳など安い食べ物を買いつつ、少しづつ道具を揃えていった。 《 ところでお前、それは何とかならんか? 》 〈 デェ…? 〉 実装石は今まで揃えた道具を、コンビニ袋に入れて持ち歩いていた。 破れては別の袋を拾い、それを繰り返していた。 《 仕方ねぇな〜、おい、何か適当な入れ物無かったか? 》 《 そうですね…今、探してきます。 》 暫くして青年店長は、同い年の女性と結婚していた。 口が悪く青年とは対称的に、礼儀正しく温厚な女性だった。 この若き店長夫人は誰に対しても優しく、それは靴磨きの実装石に対しても同様だった。 《 これなんか、どうです? 》 《 おう、丁度良さそうなのを持ってきたな。 ……って、それはお前にプレゼントした奴じゃねぇか! 》 それは革製の四角いバッグだった。 表に物を入れるポケットが付いた女性用のショルダーバッグ。 夫人はストラップを調節し、実装石が肩掛けできる長さにした。 《 これに今までの道具を入れて……はい、とっても似合ってますよ。 》 女性用のバッグは、実装石にとって丁度良い大きさとなっていた。 一見すると幼稚園児が、児童用カバンを肩から提げているのに酷似している。 〈 こんな物まで…本当にありがとうデス 〉 深くお辞儀して礼を述べる靴磨きの実装石。 若い店長は納得のいかない顔だったが、店長夫人の笑顔に押し切られた。 それ以降、この街では革のショルダーバッグを提げた実装石の姿が見られた。 中にはブラシとクリーム、布切れといった道具が詰め込まれている。 そして人通りの多い場所に腰を降ろしては、道行く人々の靴を磨いた。 「 そして、いつかワタシもお前に借りを返してみせるデス 」 同じダンボールに住む、留守番実装は元飼い実装だった。 かなり頭の良い個体であるが、飼い主が飽きたせいか呆気なく捨てられた。 文字を読むことができ、数字に強かったが、野良実装には不要のスキルである。 しかし何時かは飼い主であった人間を見返そうと考えていた。 知能が高いだけプライドも高く、自分を捨てた人間が許せなかったのである。 ただ、そのプライドも捨てられた要因の一つであるのを、この個体は気付いてはなかったが。 数ヶ月前、どこへ行く宛ても無く、公園で新聞に目を通していると靴磨き実装に声をかけられた。 自分に文字の読み方や色々な知識を教えて欲しい、と。 その代わりに住む所と食べ物を用意すると、話を持ちかけた。 元飼い実装にとっては、断る理由など何も無かった。 集めた新聞を靴磨き実装に見せ、一つ一つ文字の読み方を教えていった。 なぜ、貴重な食料を割いてまで文字の読み方を学ぼうとするのか? 靴磨きさえ上手ければ、人間に靴磨きさせて貰えるわけで無いのを理解していたからである。 道具を揃えつつあった頃、靴磨き実装が次に必要と感じたのがコミュニケーション能力。 人間と顔を合わせて接する以上、円滑なコミュニケーションは不可欠である。 即ち話術であり、話題に幅を持たせるのが大切と考えていた。 幾人もの人間が、靴磨き中に新聞を広げて読み耽っていた。 つまり人間達が毎日目を通す新聞の内容を理解できれば、心理的距離も近くなると考えた。 政治、経済、芸能、科学、世界情勢。 文字の読み方を覚えていくにつれて、靴磨き実装は多くの知識を蓄えていく。 その中で、最も興味を惹かれたのは経済関係だった。 「 この欄にたくさん書かれている【 株 】とは何のことデス? 」 「 それは人間達がたくさんのお金を集める手段デス 」 元飼い実装は、公園の実装石と靴磨き実装を例に挙げて説明した。 公園の実装石10匹が、それぞれ100円を持っていたとする。 全て合わせれば1000円になる。 その1000円を靴磨き実装に投資する。 「【 投資 】…とは何のことデス? 」 「 簡単に言えば、儲けてくれそうな人にお金を貸すことデス 」 お金を預かった靴磨き実装は、稼ぎが増えるように使えば良い。 例えば、もっと靴を綺麗に磨けるブラシを買おう。 そうすれば今までよりお金を稼ぎやすくなる。 「 それで上手くいって、2000円稼げたとするデス 」 最初に1000円を出してくれた10匹の実装石に、お礼を付けて返す。 この場合、一匹あたり50円の儲けを上乗せして150円分配する。 そして手元には500円の儲けと、新しく買ったブラシが残る。 「 これでお金を出した実装石も、お前も全員儲かったことになるデス 」 「 なるほど、ニンゲン達は賢い方法を使っているデスね 」 「 しかし、良いことばかりじゃないデス 」 仮に全く稼げなかったとしたら、どうなるか? 「 お金を出した実装石達には、何も返ってこないから大損デス だから、どんな奴にお金を出すか、慎重にならなくてはならないのデス 」 「 お金儲けできるか判断するのが大切なのデスね 」 「 そういうことデス 要するに株というのも誰に、どの会社にお金を出すかという制度デス しかし、それにしても…デププ 」 説明の途中、元飼い実装は不意に笑みを零した。 「 野良実装のお前が、こんな事を勉強してどうするデス? 」 「 お客サンの話に付いていけるためデス 」 「 それは感心デスゥ…お前は他の実装石と違って、少しは見込みがあるデス いつかワタシが出世したら、お前を部下にしたいデスね… 」 口には出さなかったが、そんな元飼い実装が出世できるチャンスが有るとは思えなかった。 どんなに頭が良くても実装石であり、人間の知能には到底及ばない。 そんな自分も、本当に靴磨きの上手い人間には足元にも及ばないであろう。 道端で気紛れに靴を磨かせて貰い、僅かばかりのお駄賃を頂くのが関の山だ。 けれども自分はそれで満足している。 自分なりに一生懸命磨き、綺麗になった靴を見るのが大好きだったからだ。 それで食べていける程度に稼げるから文句は無かった。 『 こりゃ凄いな……最近の野良実装は、経済にも詳しいのか。 』 靴磨きの客との雑談中、経済に関する知識を披露すると人間は誰もが驚いた。 「 落ちてる新聞を読んで覚えただけデスゥ 」 『 それでも大したものだ。 そういえばお前、日経平均って意味は分かるか? 』 会社員ともなれば、当然経済に精通している人は多かった。 そして腰が低く勉強家の靴磨き実装を悪く思わず、遊び半分でレクチャーを施していく。 「 それで俺が予想する上がりそうな銘柄はな…。 その選び方の基準だが…。 」 靴磨きを終えても、話を終えない人間は少なくなかった。 この靴磨き実装は聞き上手だったのであろう。 会話が弾み、更に調子に乗って社の裏事情を洩らす者さえいた。 逆に相手が実装石である以上、人間より警戒心が少なくなったこともあろう。 しかし靴磨き実装は、そんな言葉の一つ一つを聞き逃さず、自分の知識として蓄積していった。 「 お前も随分、靴磨きらしくなってきたじゃねぇか! 」 ある日の靴磨きの後、立ち寄った靴屋で青年店長に肩を叩かれた。 商売道具の入ったバッグを肩から提げた実装石。 更に店長自身から靴の磨き方を度々教えて貰っている。 以前の破れかかったコンビニ袋に道具を入れていた頃とは雲泥の差であろう。 『 店長さんと奥さんのおかげさまデスゥ 』 「 へへ……そのバッグ、大事なモノだから粗末にすんじゃねぇぞ。 」 最初に入店した頃とは異なり、靴磨き実装にも商品の価格が理解できていた。 そんな律儀にお金を稼いで商品を購入する実装石を、悪く思うはずが無かった。 「 今日はコレか、毎度ありだ。 ついでにコイツも持っていけ…そろそろクリームも切れる頃だったろ? 」 『 こんな物まで良かったデス? 』 「 はは、実装石が余計な心配すんじゃねーよ! 」 特に流行っているわけでもない、街の靴屋だった。 その事情に疎い実装石でさえ、金銭的に潤ってはいないのが予想できた。 『 奥サンは留守デス? 』 「 あぁ……アイツは今、病院に行ってる。 」 『 どこか身体が悪いのデスか? 』 「 今朝から体調が少しな……何事も無けりゃ良いんだが…。 」 靴磨き実装には、この青年の優しさに気付いていた。 最初の来店時は怒鳴られこそしたものの、色々と商品をサービスしてくれた。 更に、その道具の使い方や磨き方まで教えてくれたからだ。 根っからの世話好きなのが最近になって理解できた。 くわえ煙草で口が悪いものの、夫人のことを心から気遣い、愛していることも。 夫人と形は異なるが、やはり周囲に対して心優しい人間なのだろう。 「 そうだ、そういや忘れてた! アイツがな、お前に何かプレゼントがあるとか言ってたぞ。 」 『 デェ…奥サンがワタシにデス? 』 「 そうなんだが……何なのか、俺が聞いても教えてくれねぇんだな。 まぁ、また近いうちに来てくれ。 そん時には、アイツも元気でいるからな! 」 そして帰り際に菓子パンを一つ持たせてくれると、店長は笑顔で見送ってくれた。 靴磨き実装は店を見上げた。 お世辞にも新しいとは言えない店舗だが、綺麗に整頓されている。 店先のガラスは常に磨かれ、中の商品に埃が溜まっていることは無い。 普段はあの店長と夫人が、二人で切り盛りしているのだろう。 そんな二人に、自分も力になってあげたいと思う時がある。 商品の靴を全部磨けば二人の為にならないか、と。 それで少しでも売り上げが伸びて、生活が豊かになってくれれば…と。 あの夫婦と自分、2人と1匹が一緒に働くことができれば、どんなに幸せかと。 だが、それは全て絵空事なのも分かっていた。 だから、せめて稼いだお金を、この店で使おうと…靴磨き実装は改めて誓った。 しかし、その誓いは数日後に実現不可能となる。 『 おう、そっちは片付いたか!? 』 『 あと少しで終わる! 』 その日、街中で一斉に野良実装の駆除が開始された。 住んでいる公園は真っ先に駆除対象となり、多くの清掃員がやってきた。 野良実装達は次々と連れ去られ、トラックに詰め込まれていく。 靴磨き実装もまた、住んでいたダンボールハウスを追われた。 拾い集めた生活用品は全てゴミとして処理され、帰る場所を奪われた。 辛うじてバッグだけは持ち出したものの、清掃員の一人に捕まってしまった。 「 デェ… 」 ビニールで包まれたトラックの荷台に、詰め込まれた数十匹の野良実装達。 その隅に、靴磨き実装と一緒に住んでいた元飼い実装が蹲っていた。 「 降ろすデスゥゥゥ!!! 」 「 ワタシはまだ死にたくないデシャアアア!! 」 野良実装をしていれば、駆除されたらどうなるか皆知っている。 保健所に連れていかれて殺処分しかない。 仔連れの親実装達が涙を流し、最後まで抵抗しようと暴れる実装石。 「 こんな事で死ねないデス… ワタシには、まだやる事があるデス…! 」 各々が死の予感を高まらせる中、隣の元飼い実装は逃げ出そうと機を伺っていた。 この実装石は頭が良いだけでなく、意思の強い個体だったかもしれない。 決して最期まで諦めようとせず、全力で考えを張り巡らせていた。 けれども靴磨き実装には分かっていた。 こうなった以上、人間達の手から逃げ出すのは無理であろう。 おそらく自分は近いうちに殺される。 心残りといえば、もっと靴を磨きたかった。 多くの人間達の靴を磨き、綺麗にして、喜んでくれる顔を見たかった。 死の間際になり、それが自分の生き甲斐だったと初めて気付いた。 仔が居ないのは幸いだった…余計に悲しまず済む。 そして更に幸いだったのは手元にバッグが有った事だ。 この中には、何にも代えがたい大切な道具が入っている。 あの心優しい店長と夫人の好意が詰まった大切な、自分の唯一の宝物だ。 この宝物と一緒に死ねるのなら、まだ幸せかもしれない。 そうだ…そういえば、あの夫人が何かプレゼントを用意してくれていたのを思い出した。 一体、どんな物を用意してくれていたのだろう。 おそらく、もっと使い勝手の良いブラシか何かであろう。 もしくは他の、靴を綺麗に磨くことのできる道具に違いない。 何にしろ、あの優しい夫人のプレゼントならば、とても良いものであったろう。 それを目にすることができないのも非常に心残りだ。 そしてもう一つ気掛かりといえば、あの夫人の体調だった。 病院に行ったとのことだが、身体の具合は大丈夫であろうか? おそらく大したことは無いと思うが夫婦共々、これからもずっと元気でいて欲しい。 あの夫妻には本当にお世話になってしまった。 最後に一言だけでもお礼を言いたかったが、今となっては成す術もない。 トラックの運転が止まった。 荷台の野良実装達の悲壮感が一層強まり、泣き叫ぶ者達が増えてきた。 『 全員、外に出ろ! 』 後部ドアが開くと木の板が掛けられ、観念した実装石達が自らの足で降りていく。 死を恐れた野良実装達、仔連れの親実装達は動こうとせず、荷台にしがみついていた。 「 デギャアアアアア!離せデスゥゥ!! 」 そんな実装石達も清掃員に無理やり引き剥がされ、外に連れていかれる。 「 この仔だけは、助けてくださいデスゥゥ!! 」 迫る死の絶望に耐え切れず、仔の命乞いに土下座する親実装達。 全ての実装石達を降ろすと、清掃業者のトラックは再び街へ舞い戻っていった。 そこは保健所の駐車場だった。 自分達以外にも大勢の野良実装達が、様々な場所より連れてこられているのが分かった。 裕に千匹以上は集められているだろう。 そして同じ保健所の敷地内には、ソレと分かる巨大な処理施設。 一度に入りきらない以上、少しづつあの場所へ送り出されるのが予想できた。 しかし、ここにて予想外の光景を目の当たりにする。 「 全員、注目するデス!! 」 声の主は、高い台の上に立っていた実装石だった。 ただ一見して野良実装と異なると分かるのは、その服装である。 普通の実装石の服装とは異なり、ズボンとポケットの多い薄い緑の作業着であった。 「 時間が無いため、簡潔に説明するデス! ここで死にたくなければ、ワタシの言葉に従うデス! 」 野良実装達は、顔を合わせた。 「 今、ワタシ達は実装石の国を造っているのデス! だから働き手が欲しいのデス! 最初に断っておくデスが、楽な仕事では無いデス! けれども働いた分だけ、良い生活ができるのは約束するデス…… 」 集められた野良実装全員が台上を見上げる中、靴磨き実装は服の袖を引っ張られた。 「 ついてくるデス… 」 まだ作業服実装の説明は続いており、皆が説明に聞き入っている。 だが、その中で元飼い実装は可能な限り目立たぬよう、野良実装達の間を抜けていった。 「 どうしたデス…? 」 「 いいから、ついて来いデス…! 」 声を押し殺して、2匹は野良実装の集団を抜け出す手前の端まで来た。 周りは清掃員が取り囲んでおり、それ以上の移動は不可能。 「 なぜ、ここに来たデス…? 」 「 …… 」 靴磨き実装の問いに、元飼い実装は無言のままだった。 つい先まで、2匹は集められた野良実装達の中心付近にいた。 しかし今、集団の端近くに……取り囲む清掃員の直ぐ近くにまで来ていた。 そして作業服の実装石は、清掃業者とは別のトラックを指差した。 「 …説明は以上デス! 働きたくない奴は、ここで勝手に死ねデス! しかし一生懸命働いてでも生き残りたいなら、あれに乗るデス!! 」 「 急ぐデス…! 」 いち早く群集から飛び出したのは元飼い実装だった。 次いで隣にいた靴磨き実装もまた、一瞬遅れて走り出す。 2匹が移動してきた場所は、指定されたトラックから最も近い位置にあった。 「 デ……デェェ!? 」 走り始めた2匹に釣られ、野良実装達もまた一匹、一匹と走り始めた。 事態を把握した者達の中で、焦燥感が急激に膨らんでいく。 「 お前達、早く!早くするデス…! 」 只ならぬ気配を察した親実装達もまた、仔の手を引いて急かしていた。 走り出した者達の9割以上は周りに釣られて動き始めたに過ぎない。 その中で、元飼い実装だけは周囲を念入りに観察していた。 これだけの野良実装達を運ぶとすれば、その移動手段はどうするか? 1000匹の実装石にはトラックが何台必要であろうか? しかし現実に、視界内のトラックは1台しか無い。 しかも、そのトラックは荷台の後部ドアが開かれ、地面から木の板が掛けられている。 間違いなく実装石に昇らせる為の物であろう。 1台のトラックに乗り込める実装石の数など、高が知れていたのだ。 「 ェッ…! 」 荷台へ5メートル程手前で、靴磨き実装のバッグから何かが落ちた。 隙間から零れたブラシとクリーム缶が、アスファルト上を転がっていく。 「 何をしているデス!急げデス!! 」 「 置いていけないデス! 」 靴磨き実装は、慌ててブラシを取りに向きを変えた。 その間、他の野良実装達が荷台へ乗り始めていく。 「 仕方ないデスね…!! 」 逆方向に転がっていったクリーム缶を取りに、元飼い実装も向きを変えた。 「 早く!早くするデス! 」 2匹が取って返し、トラックの荷台へ着いた頃には多くの野良実装達が群がっていた。 その群れの中に入っていき、少しでも前に出ようと押し進んでいく。 「 ギャアッ! 」 荷台への木の板の端にいた野良実装が、押し出されて落ちて悲鳴を上げた。 一度列から外れてしまえば、もう二度と中に入れないであろう。 「 どけデス!さっさと道を開けろデシャアア!! 」 力づくで入り込もうと、強引に前へ突き進んでいく実装石もいる。 「 あと少し……あと少しデス…! 」 「 絶対に落ちるなデス! 」 靴磨き実装と元飼い実装は、あと少しで板から登りきる位置に有った。 けれども既にトラックの荷台は満杯に近く、殆ど列が前に進むことも無かった。 『 そこまでだ! 』 保健所の職員が合図をし、トラックにエンジンがかかると前に進んだ。 「「「 デデェッ!! 」」」 荷台への梯子であった木の板が地面に落ち、途中まで昇っていた実装石達も落とされていく。 「 踏ん張れデスゥ!! 」 靴磨き実装は荷台へギリギリの場所で上がり、最後尾で踏み止まっていた。 その腕は元飼い実装に掴まれ、辛うじて荷台から落ちないでいた。 「 ギャアッ…!! 」 同じく最後尾にいた1匹の実装石が、荷台から踏み外した。 踏み外した実装石は、尚も荷台へ上がろうとする野良実装の群集の頭上に落ちていく。 『 …こんなところだな。 』 群集の野良実装を掻き分け、職員が荷台の後部ドアを上げて閉めた。 「 これで一安心…デスね 」 「 おかげで助かったデスゥ… 」 お互いの無事を確かめ合うと、2匹は大きく安堵の息をはいた。 「 乗せろデスゥゥ!! 」 「 ワタシがまだ乗ってないデシャアアア!! 」 対して、トラックに乗れなかった野良実装達の悲痛な叫びが続いた。 中には仔実装を大きくかざし、その命乞いに声を張り上げる親実装もいる。 荷台は野良実装で一杯となって窮屈だが、乗れなかった者達を見て不満を言う者は居なかった。 『 お前達は全員、こっちだ。 』 すると保健所の職員達が残った野良実装達を掴み、処理施設へ運んでいく。 その動作は手馴れたものであり、どんなに泣き叫ぼうが淡々と処理されていった。 2台目のトラックは来なかった。 作業服実装は説明しなかったが、このトラックに乗り損なった者は殺処分される運命だったのだ。 乗り損なった実装石達の悲鳴を背にしながら、トラックは保健所を後にした。 「 なぜ、ワタシに構わず乗り込まなかったデス? 」 荷台の上で揺られながら、靴磨き実装は尋ねた。 道具を落とした自分などに構わず、元飼い実装は直ぐに乗り込むべきだった。 そうすれば、もっと余裕をもってトラックに乗り込めたであろう。 あと少し遅れていたら、2匹とも乗り損なったかもしれない。 「 借りは返すと、前に言ったはずデス…! 」 計算高く賢いのは分かっていたが、義理堅い面があるのは意外だった。 「 しかし…もう二度と、あんな目には遭いたくないデスね 」 「 全くデス…ププ 」 殆ど身動きも取れない程詰め込まれた荷台の上で、2匹の実装石が笑った。 トラックは住み慣れた土地を離れて見知らぬ場所へ 野心を秘めた元飼い実装と靴磨きを生き甲斐とする実装石 2匹を乗せたトラックが大きく揺れた