タイトル:【躾】 蒼歪め 2(完)
ファイル:蒼歪め2.txt
作者:匿名 総投稿数:非公開 総ダウンロード数:2278 レス数:0
初投稿日時:2008/10/04-18:24:54修正日時:2008/10/04-18:24:54
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 蒼歪め   2

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 実蒼石は、現時点での研究に於いては実装石の亜種とされる小人型の生物である。
 しかし同属とは思えないほど平均知能が高く、また環境適応能力も高いため、簡単な躾ですぐに生活に適応する上、ルールを覚えて
人間に迷惑をかけず、とても従順となる。
 たまに糞蟲的性質の個体も生まれはするが、それも専門的な教育と相応しい環境を与えれば充分矯正可能で、その過程も実装石より
遥かに楽であると云われている。
 その上、成長すれば体格的にこなせる範囲の手伝いや雑用を積極的に行うようになる特徴もある。
 海外の研究例によると、専用器具さえあれば自ら火を使いハンバーグやインスタントラーメンを調理したり、ビデオゲームをルール理解の
上でプレイしたり、パソコンを利用した情報入力までこなせる個体も存在するという。
 また記憶力も良く、三年前の経験を鮮明に覚えているという実験報告例もある。
 寿命が実装石同様数年〜十数年という短命である点を除けば、まさに理想的な「人間のパートナー」として申し分のない生物である。


 ——ように一見思える、が。


 実装石が「人間との共存」を行う上で難点を多く抱えるのと同じ様に、実蒼石も違う方面で多くの問題点を内包している。

 実蒼石は自分より強い存在には従順だが、逆に弱い者に対しては傲慢になり易く、過度な攻撃性を発揮する。
 それは主に子犬や子猫、鼠、昆虫、小鳥などに良く向けられるが、特に実装石への反応が強く、視界に入るや否や過度の暴力行為を
行ってしまう。
 攻撃性発揮の理由・プロセスは今尚解明されていないが、対象が実装石であると判断した瞬間、実蒼石は無条件で殺戮のスイッチを
入れてしまうのだ。
 たとえ相手が他人の飼い実装であろうとも、敵対的でなくても、一切関係ない。
 緑の頭巾、亜麻色の髪、赤と緑の目、加えてあの独特の体格が視認されれば、実蒼石は生まれ持つ凶器でこれを斬り、抉り、突き刺そう
としてしまう。
 その悪影響は、時には「実装石の糞害」を大きく超越してしまうほどで、場合によっては実装石以外にも被害が及んでしまうこともある。

 現在の実蒼石は特定(危険)動物指定種リストにも掲載されており、飼うためには都道府県知事の許可と、15センチ以上に成長した場合
は臀部への個体識別用マイクロチップ埋込処置を施さなければならず、無許可飼育の場合は六月以下の懲役または五十万円以下の罰金
が課せられる。
 これほどまでに危険視される最大の理由が、云うまでもなく実蒼石の持つ生来の武器「鋏」なのだが、これを没収・廃棄すると、それは
それでまた別な問題を引き起こしてしまうため、話は簡単には済まないのだ。

 これら多くの問題点を踏まえ、実蒼石ブリーダーや熟練の飼い主は、実装石に「虐待同様の過度な躾」を施し人間の生活に適応させる
のと同様、実蒼石を「精神的かつ肉体的に極限まで痛めつけて」狩猟・殺戮本能を抑制していかなくてはならなくなる。

 仔実蒼ブルーが現在受けているのも、そんな教育の一環なのだ。
 それどころか、まだスタートラインでしかない。


 翌日、男が公園に出向くと、そこではボロ雑巾のようにされたブルーの惨めな姿があった。
 相当凄絶なリンチを受けたようで、四肢は千切れはしていないもののほぼ原型を留めておらず、右目は眼球が零れ落ち、加えて実蒼服
もズダズダに引き裂かれた上に血と泥まみれにされていた。
 自慢の帽子も何処かへ行ってしまい、血まみれのカッパ禿が露出している。
 その傍らには、刃の部分がへし折れた玩具の鋏が転がっていた。
 とにかく、生きているのが不思議なほど深刻なダメージを負っている状態だ。
 男は手早くブルーを拾い上げ、軽く洗浄してケージにしまうと、急いで自宅に戻る。
 数時間かけて手厚い看護を施すと、男は付きっきりで看護を続け、ブルーが意識を取り戻すのをひたすら待つ。
 公園に放した時点で身に付けさせていたものはすべてダミーなので、ブルーは自身の装身具は一切失っていない。
 男はブルーの枕元に一通りの持ち物を用意してやると、時折苦痛に歪むその顔を不安げに、そして温かく見守り続けた。


 男の意図は、ブルーが実装石に対して無闇な殺戮行為を行わないように躾るというものだった。
 これは、実蒼石の躾としては一般的なもので、子供のうちに「身近に居る者を傷つける愚かさ」を実感・理解させる目的が含まれている。
 ただし、初めてこの躾を行う際、実蒼石から鋏を奪ってはいけない。
 凶器を持ちつつ、それを使わず自制できるようにしなければ意味がないので、最初は多少の犠牲が出る事を覚悟の上で行う必要がある。
 その上で、飼い主やブリーダーが丁寧な説明とお仕置きを加えることで、少しずつ「いけないこと」「やってはだめなこと」を認識・理解して
いく。
 男も、過去にそうして何体かの実蒼石を躾てきた経験があったため、同様のプロセスをブルーにも施そうと考えたが、結果は彼の想像を
覆す酷いものとなった。

 ブルーの中に秘められた攻撃性・偏見・残虐性は、実蒼石の中でも突出したものだったのだ。

 2回の経験、殺傷数も多くてせいぜい十体程度で、普通の実蒼石は躾の目的を理解する。
 だがブルーは、推定殺傷数3桁、しかも三回目にもなってまったく改善の余地を見せない。
 今回の公園放置は、お仕置きというよりはむしろ「制裁」に近い行為だ。
 男は、これによりブルーが“傷つけられる側の辛さ・悲しさ”を学んでくれることを、切に願っていた。

 六時間後にようやく目を覚ましたブルーは、男の顔を見るなり大きく目を剥き、小さな布団の中でじたばたし始めた。

 ポ、ポキャアァァァ!! ポエェェェェン、ポエェェェェェン、ポエェェェェェン!!!
『お願いポキュ! もう許してポキュ! 痛いことしないでポキュ! 死んじゃうポキュウッ!!』

 相当酷い目に遭ったようで、パニック状態から抜け切れていない。
 包帯まみれの傷ついた腕で、必死で顔面をガードしようとするが、男はそんなブルーに優しく声をかけ、落ち着くのを待つと、優しく頭を
撫でた。

「これでわかったか?
 無意味に殺される者の恐怖が」

『ポエェェェン、ポエェェェン!! なんでポキュを助けてくれなかったポキュ〜?!』

「お前が殺してきた実装石達も、今のお前と同じような思いだったんだぞ」

『もう死んじゃうと思ったポキュ、死んだほうがマシだと思ったポキュ!』

「だから俺は言ったんだ、実装石を殺してはいけないって」

『ポ……』

「でも、お前はまだ幸運なんだぞ。
 あの公園の実装石は理想的なコミュニティを持っていてな、問題を起こさないように慎重に賢く生きてる奴らなんだ。
 だから、お前も殺されはしなかったんだぞ。
 もし、別な公園だったら、お前はとっくに殺されて食われていただろう」

『……』

「いいな、これに懲りて、今後公園に行っても二度と——」

『そんなとんでもない奴らは、今度こそ一匹残らず成敗してやるポキュ!
 ポキュの傷が治ったら、あの公園の奴らは皆殺しポキュ!!
 それが一番良いポキュ、絶対に殺ってやるポ………!!』

 男は、掛け布団をブルーの顔に無理やり押し被せ、今までで一番重いため息を吐いた。


      ※      ※       ※


 ブルーが回復してから、更に一週間。
 この間、ブルーの教育は一向にはかどらなかった。
 相変わらず実装石に対する過激な殺戮願望はまったく減少の兆しを見せず、むしろ逆にどんどん増加しているようだった。
 このままでは「最終処理」を施さなければならなくなるが、男は、ここまで丁寧に育て上げて来た大切な家族であるブルーに対して、
出来ればそんな事はしたくないと考えた。


 ある日、男はブルーを連れ、公園ではない場所へ向かった。
 そこは、男と同じように実蒼石を飼っているある婦人の家。
 古くからの顔見知りのようだ。

 リビングに案内された男とブルーの前に、婦人が飼っている仔達がワイワイ言いながら飛び出してきた。
 いずれもとても元気で、おまけにとても仲が良さそうだ。
 男とブルーを見止めると、婦人に促されるより早くペコリと頭を下げ、丁寧に挨拶する。
 だが、その様子を見たブルーの顔つきが豹変した。

 婦人が紹介したのは、一匹の背の高い仔実蒼と、小柄な二匹の仔実装だった。

「さあ、よく見てごらんブルー。
 このお宅ではな、実蒼石と実装石を一緒に飼っているんだ。
 しかも、実蒼石に仔実装の世話と躾をやらせている」

 ポ、ポキャアァァ!! ポギャアァァ!!!

 ポ、ポキュ…
 テ、テチャァァァ…
 テ、テェェェン、テェェェン…

 ポキャポキャ、ボッギャオァオァァ!!

 男の膝上で、ブルーが激しく暴れ出す。
 リンガルを点けていないため何を言っているかはわからないが、婦人の実蒼達が突如怯え始めたところを見ると、だいたいの想像が付く。
 顔合わせをしてものの一分も経たないうちに、男の「よく躾けられた実蒼石を見せて見習わせよう」という目論見は、もろくも崩れ去った
ようだ。

 と、その時、男の一瞬の隙を突いてブルーが腕の中から抜け出した。
 一足飛びに仔実装へと飛び掛っていく。

 ボッギャアァァァ!!!

 テチャアッ!!

 ポキュウッ!

 ——バンっ!

 男がしまったと思った瞬間には、既に決着がついていた。
 婦人の飼い仔実蒼が、ブルーをも上回る速度で脇から飛び込み、そのまま殴り飛ばしたのだ。
 滞空中に迎撃されたブルーは、無抵抗のまま部屋の奥まですっ飛んでいく。
 そのまま気絶してしまったようで、反撃の様子はない。
 男は、ブルーを回収しながら婦人に詫びを述べたが、いつの間にか彼女の手に大きなスタンガンが握られていたことに気づく。
 表情こそ穏やかではあったが、さすがは男以上に経験豊富な実蒼石ブリーダー。
 仔実蒼が助けに入らなくても、ブルーの手が仔実装に届く心配はなかったようだ。
 使い込まれたスタンガンの様相を見て、男は少しだけ背筋がぞっとした。

「ブルーちゃんは、いつもはとても良い仔だとお伺いしていましたのに、残念ですねぇ」

「はあ、こんなに手こずっているのは初めてでして。本当に申し訳ありません」

「もし、このまま大きくなるようでしたら、失礼ですけど…ロベクトミーもやむなし、なんでしょうね」

「ええ、それも考慮に入れております。ただ、できるならそれだけはしてやりたくないんですよ」

「わかります、そのお気持ち。ですが、今後もその仔をお飼いになるのなら、考慮されていた方が」

「はい」

 婦人が述べた“ロベクトミー”というものが、「最終処理」。
 要するに、前頭葉を切除する「ロボトミー」手術を施すという意味だ。
 そうすれば、実蒼石の闘争本能は著しく減退し、とても大人しい個体になる。
 だが、代償に実蒼石は明るさや個性、優しさなど大切な感情も大きく損なってしまうので、それはまさに最終手段なのだ。
 男は、一瞬そうするしかないかと考えたが、すぐに頭を振って否定した。


 その後、ケージに戻したブルーが目覚めるまで適当な会話を交わすと、男は婦人達に丁寧な挨拶をして帰路に着いた。

 この婦人は、男と同様実蒼石の育成と調教に詳しく、豊富な経験と知識を持っている師匠のような存在だった。
 婦人宅に居た仔実蒼と仔実装姉妹は、実蒼石の情操教育用にと一緒に暮らさせている者達で、今でこそ仲睦まじく見えるが相当な苦難
の果てに成り立った良好関係だという。
 男はブルーにこの関係を直接見せ、婦人や仔実蒼達と直接会話させることで、暴力性・加虐性について反省を促させるつもりだった。
 言い変えれば、それがブルーに対する最後のチャンスだったのだが、それは無駄に終わってしまった。
 ブルーは、男からの期待をすべて裏切ってしまったのだ。


 家に戻り、意識を取り戻したブルーは、いつもの使い慣れた布団の中で震えていた。
 だが今回は、男の理不尽な暴力に対する恐怖が原因ではない。
 ブルーの中では、善悪の判断がだんだんずつ曖昧になり始めており、それがたまらなく怖かったのだ。
 正しくは、それまで教え込まれた価値基準が揺らいでいる状態だ。

 善い事をすると叱られる、怒られる、酷い目に遭わされる?
 悪い事をしても、ご主人様にいっぱい怒られ、お仕置きされる?

 それでは、一体どうすれば良いのか。


 実装石の子供が、ニンゲンさんの家の中に図々しく上がりこんでいるのを見つけた。
 しかもあいつらは、まるで家の人になりきっているように振舞っていた。
 自分と同じお友達は、それに全然気づいていない!
 大声で教えたのに、殺さないといけないって指示したのに、わかってくれない。
 だから、代わりに退治しようと飛び掛ったのに——どうしてこうなるの?

 どうして、良いことをしようとした筈なのに……こんな目に遭うの?


 僕は、どウすレばいいノ?


 実蒼石は、主人…言い換えれば、自分より強い者の顔色を常に伺いながら相応しい対応をするだけで、相手の意思を尊重したり意向を
汲んだりする事が出来ない。
 正しくは、それが出来るようになるためにはかなり過酷な訓練や躾けが必要になり、更に相当な素質も求められる。
 そういう点だけ見た場合、実蒼石は実装石より遥かに劣る性質を持っていると言わざるを得ない。

 ブルーは今まで、主人である男が自分に何を求めているのか、まったく考えた事がなかった。
 こう動けば男は喜ぶ、こうすれば男は満足する。
 そう考えて、その時点で最良の選択をしてきただけに過ぎないが、それに疑問を抱きはしなかったし、する必要もなかったのだ。
 それは、賢い実蒼石としては当然のあり方だ。
 自分が納得しないことは絶対に止めないのが、実蒼石の生来の気質である。
 だが飼い実蒼として生きるには、それを廃しなければならない。
 男は実装石との関わりを通じて学びの場を設けようとしたのだが、ブルーは彼の見込みに遠く及んでいなかった。
 良い子ではあったが、融通が利かない仔として確立し切ってしまっている。
 わかりやすく表現すれば、「頭の良いバカ」となっていたのだ。
 
 悩み困惑するブルーは、自分の思考が根源的に間違っている事にまったく気づいていない。
 それどころか、飼い実蒼として今後どうあるべきか、それすらも考えられなくなっていた。


      ※      ※       ※


 更に一日置いて、男はブルーの心境変化を計る目的で、ここしばらく続けていた公園レクチャーを中止した。
 というより、これ以上続けても無意味だと悟り、別な側面からのアプローチを考えたのだ。
 ブルーは、もうそろそろ「矯正不能」とされる年齢に近づいている。
 これ以上彼女の残虐性・攻撃性が弱まらなければ、最終処理もしくは処分を検討しなくてはならなくなる。
 否、婦人に指摘された通り、本当はもう手遅れなのだ。
 他者に影響を与える自主的行動が行えるほどに成長したにも関わらず、飼い主の言いつけをまったく理解できない実装動物は、もはや
ペットでも何でもない。
 それは実装石も、実蒼石も同じだ。
 だが男は、だからこそブルーに「本当の最後のチャンス」を与えたいと考えた。
 内心とても焦っていたが、その分ミスが許されないという緊張感も伴っている。
 一晩熟考した結果、男が導き出した次のレクチャーは、先代の飼い実蒼マリンに施し成功した“少し無茶な方法”だった。


 実蒼石は、元々単独活動をする狩猟動物であるため、対する者の強弱を見抜く能力に優れ、同時にその判断力を過度に信頼する。
 人間に対して従順なのは、自分より強い事(その気になれば瞬殺されかねないこと)がわかっているからで、決して親愛や家族愛的な
感情から従うわけではない。

 いわば実蒼石は、実装石ですら持っている「愛情」という概念が欠如しているのだ。

 実装石を飼う場合、生来怠惰な彼女達が備えていない「人と共存するためのルール」を厳しく躾ける必要があるように、実蒼石には
「無駄な攻撃性・暴力衝動を捨てる」躾けを施さなければならない。
 いずれも、生まれ持った本能を捻じ曲げる行為だが、そうしなければ、躾け不充分な実装石が糞害を引き起こすように、とんでもない事故
を発生させかねない。

 二十年前、実蒼石ブームがピークだった頃、生後三ヶ月の乳児が飼い実蒼に惨殺されるという事件が発生した。
 調査の結果、殺害された乳児は“頭部を覆うフード状の衣服を身に着けていた”ことが判明した。
 つまり実蒼石は、フードを被った乳児を「実装石」と誤認し、殺害したのだ。
 大雑把なシルエット以外、すべてにおいて似ても似つかない筈の乳児を、である。
 その後、各専門研究機関で検査・調査・実験が繰り返された結果、「興奮状態の実蒼石は非常に限られた情報のみで実装石を認識・
判別している」事が指摘され、これが実蒼石ペットブームに急激な陰りを見せる流れを生んだ。
 この実装石に対する「認識能力の異常欠如」は、実蒼石各個体の賢さ・教育・冷静さ等によって若干の差が生じはするものの、基本的に
はいずれも大差ない。
 「あれは実装石だ」と認識した時点で、それが誤りであっても疑いなく狩猟(殺戮)行動に移ってしまう。
 また実装石以外でも、飼い主または自身の生活環境に悪影響を及ぼすと認知した存在が居た場合、たとえそれが誤解であったとしても
同様の行動を取ってしまうという報告例もある。
 例えば、飼い主夫婦がちょっとした口喧嘩をしている最中に乱入し、夫の喉笛を切り裂いて殺害した飼い実蒼の例などが挙げられている。

 実蒼石のブリーダーは、これらを充分理解した上で育成と躾けに取り組む姿勢が求められ、これは男も、あの婦人も同様である。
 しかし、過去何匹もの実蒼石を躾けてきた経験を持つ彼らの許に居ながら……


 ブルーは今、理想的な飼い実蒼になるために乗り越えなければならない、最大の壁にぶち当たっている。
 だがその壁は、最上辺がまったく見えないほど、果てしなく高い。


      ※      ※       ※


 男は、目覚めたブルーの眼前に彼女の鋏を晒し、強い口調で述べた。

「ブルー、よく聞きなさい。これが、最後になるかもしれない」

 ポキュ?

「これからの俺の命令に従えなかったら、問答無用でこの鋏を折る」

 ポ、ポキャァァッ?!

「拒否や言い訳は一切利かない。この鋏は、今後ずっと俺が管理する。もう二度とお前には戻さない」

 ポキャッ! ポキャポキャ、ポキュゥッ!!

 ブルーは必死で抗議するが、交渉する気がないのでリンガルを点けようともしない。
 男は、ブルーの鋏を両手に持ち、力を込める。
 ミシッ、と鈍い音がして、同時にブルーがズデンとその場でひっくり返った。
 口から少し泡を吹き、四肢が弱く痙攣している。
 鋏を開放すると、男はブルーが起き上がる前に、小さなガラス瓶を置いた。
 中には、親指実装と蛆実装が一匹ずつ入っている。
 瓶は安定感のある四角い牛乳瓶で、仔実蒼のパワーでは破壊できないほど分厚い。
 蓋はされていないが、身を寄せ合い静かに寝息を立てている親指達のところに、ブルーの手が届くこともない。

「これをお前に預ける。
 これから、この仔達の面倒を見るんだ。
 お前がこの仔達と仲良くなることを期待しているよ」

 ポ…?

「でも、もし怖がらせたり殺したりしたら、俺はお前を処分する。
 隠し事をしても、この仔達からリンガルで直接話を聞くからな、ごまかしは利かないぞ」

 ポ、ポポ……

「わからないことがあったらいつでも俺に聞け。あと、この仔達の餌や糞の処理は俺がするから、お前はただこの——」

 ポギャアァァァ———っ!!!

 男が話し終えるよりも早く、ブルーは牙を剥いて牛乳瓶へ突進した。
 顔面からタックルし、親指達を威嚇する。
 瓶の振動で目覚めた親指と蛆は、突然目の前に出現した実蒼石の奇顔を見て、驚愕した。

 レチャアァァ!!
 レピャアッ!!

 ポキュボギュ〜、ボギャボギャボギャヒヒヒ!!!

「待てブルー! 俺の話を聞け!」

 ポギャ、ボギャ、ボギャ、ボゲヒヒヒヒヒ!!!

 レチャアッ!! レェェェン、レェェェン!!!
 レ、レヒ…レヒ…レヒ……

「やめなさい! その仔達はとても臆病なんだぞ! そんなことしたら…」

 男の制止は、まったく耳に届いていない。
 ブルーは、男を完全に無視して、牛乳瓶を揺さぶり親指達を脅かし続ける。
 まるで狂ったように、執拗に威嚇を続ける姿は、もはや尋常ではない。
 どうやら、瓶を強く揺すって壁面に叩きつけようとしているらしい。

 ボゲエェェェ! ボゲエェェェッッ!!

 レ…レチャ……レレ……
 …レピャ……

 もはや、言葉だけで止める事は不可能と判断した男は、再びブルーの鋏を手に取った。

「ブルーっ!!」

 ミシッ!

 ボギャギャ……ギャバッ?!

 鋏を折り曲げようとすると、ようやくブルーの猛攻が止まる。
 ビクンと身体を硬直させ、よだれを撒き散らしながら極端にのけぞった。

 だが、のけぞる直前の強い振動と、ブルーが最後に発した耳障りな悲鳴が、儚い親指達の惰弱な精神に致命傷を与えていた。

 レヒ…!!
 ピ……!

 パキン
 パキン

 体格に似合わぬ大量の糞を瓶底に滴らせ、親指と蛆はその両目を灰色に染めた。
 ほんの数分間の出会いだった。

「ブルー……もうダメだ」

 何もかも諦めた男は、そのまま鋏を真っ二つに折ろうとする。
 だが、両手にグッと力を込めた瞬間、ブルーが突然、今までにないような奇怪な動きで立ち上がった。
 まるで、倒れていたマリオネット人形を引き起こすように……。
 それを見た男が、短く舌打ちする。
 一番やっかいな事態になってしまった。


 ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!


 ブルーが、突然凄まじい叫び声を上げる。
 それは、とても仔実装とは思えないほど大きく、低く、そしておぞましい。
 両目からは黒く濁った血涙を流し、裾からはみ出た肌には青黒い血管が無数に浮き出ている。
 次の瞬間、ブルーは自らの髪を引き抜き、実蒼服を引き千切り、両腕を噛み破り始める。
 周囲に飛び散る髪、布、そして血痕、細かな肉片——
 意味不明な自虐行為の始まりは、その個体が“実蒼石”であることを放棄したことを意味する。
 男はぐっと息を呑み、本格的に覚悟を決めた。


 グギャアァァァァァァアアアアアァァァ!!! 


 それは、実蒼石特有の『 暴 走 』と呼ばれる症状だった。

 精神が極限まで追い詰められた事により、自己防衛本能と潜在的な自己破壊願望が入り混じってしまい、見境なく攻撃本能を振るって
しまう。
 この状態に陥ったが最後、もはや人間との共存はおろか、生かしておくことすら出来ない。
 ブルーはもはやただの血に飢えた猛獣そのもので、このまま放置していたら成人でも危険なのだ。
 事実、躾の失敗からこの状態に陥った実蒼石による殺傷事件も、多数報告されている。


 ボググギョワアァァァッッ!!


 発狂したブルーの視線が、男に向けられる。
 と次の瞬間、目にも止まらぬスピードで飛び掛ってきた。

 ボッギャアアァァァァァァッッ!!!


 剥き出しになったブルーの牙が鼻っ面に届く直前、男は、実に冷静な態度で鋏をへし折った。

 ボキッ、という、まるで乾いた骨を砕くような音を立て、濁った真鍮色の鋏は割れ散る。
 と同時に、ブルーの全身から突如力が抜けた。

 ——……——ギャ……!

 ぼてっ


 ゲ、ゲゲエェェ〜〜……

 ゲ……

 ……

 大量の吐瀉物を吹き出し、激しい憎悪のこもった視線を向けながら、ブルーはようやく息絶えた。
 鼻を突く異臭が室内に漂い、ゴボゴボと不気味な音と共に謎の液体が目や鼻、耳穴から溢れ始める。
 床に落下したブルーは、かつての愛らしさなど微塵も感じさせないほどの醜悪な顔つきで凍り付いていた。

 男は死体をゆっくり拾い上げると、無言で頬を擦り付ける。
 仕方なかったとはいえ、やはり一抹の悲しみは拭えなかった。



 実装石の体内器官「偽石」の配置部位が統一されていないように。
 実蒼石の中には、生まれつき偽石が体外に配置されている個体が存在する。
 その行き先が「鋏」であり、これが、危険な性質を持つ実蒼石でも鋏を遠ざけられない最大の理由だ。
 鋏に偽石がある場合、なぜか必ずカシメ(二枚のブレードを止めている部分。ネジとも云う)に配置される特徴があるが、このような場合、
鋏は実蒼石にとって「生命維持的にも」なくてはならない物となり、全体が偽石そのものとなる。
 たとえカシメ自体が無傷でも、ブレードが折れたり、全体にヒビが入ったりすると、本体に致命傷が及んでしまう。
 かといって、物が大きすぎるために体内に偽石を入れ戻す事も不可能だ。
 実蒼石ブリーダーは、このような個体の場合は保水性の高い専用の布で作ったケースに鋏を収納保管し、「偽石を薬剤保管されている
実装石」と同様に扱う。


 へし折られたブルーの鋏は、既に断面部が赤黒く変色を始めている。
 実蒼石にとっての偽石・鋏を破壊されたのだから、もう生きてはいられない。
 しばらく別れを惜しんだ後、男はフゥと息を吐き、ブルーの死体と鋏の破片を手近なコンビニ袋に放り込んだ。
 そしてしばらく考えた後、活性剤成分を染み込ませたフェルト状の鋏ケースをも、その袋内に捨てた。

 袋の口を強く縛り、それをベランダの端に放り投げると、男は早速ブルーが利用していた道具類を処分し始めた。
 次の仔を受け入れるために、ブルーが居た痕跡を少しでも消す必要があるからだ。

 あらかた掃除を終え一息ついた男は、本棚の上に置かれている、まだ家に来たばかりの頃のブルーの写真を取り上げる。


 これから始まる楽しい生活に、心躍らせていたのだろうか。
 男の手の中で、爪楊枝ほどの大きさしかない鋏を抱きしめながら、生まれて間もない仔実装は、とても幸福そうに微笑んでいた。



  蒼歪め 終


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※この物語はフィクションです
 実在の人物・団体・主義主張とは一切何の関係もありません

 でも冒頭のハンバーグ云々ってくだりは、現実にやれる動物が居るから怖い

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