『名前』 ------------------------------------------------------------------------------------------------ 会社帰りに寄ったコンビニを出たところで、携帯に元カノ——アキから着信。 「——あ、ジュン? 頼みたいコトあるんだけど……」 アパートに置いていった荷物のうち必要なものを挙げて、彼女の実家へ送るようにとのこと。 画材、スケッチブック、ポーズ集、お気に入りのイラストレーターの画集…… 送料をどうするかなんて野暮は聞かない。 一緒に暮らしていた一年半、アキは生活費を出したことがなかった。 「いま……実家にいるの?」 僕が訊ねると、アキは「えーっ?」と笑って、 「友達のところ。心配してくれてるの? 大丈夫、元気でやってるから」 アキの二度目の浮気がわかったあと、僕たちは話し合った。 といっても彼女は事実関係を説明しただけで決断は僕に一任した。 「——で、ジュンは、どうしたい?」 ずるいやり方だった。でも、彼女はいつもそうだった。 僕は別れを選び、アキは財布だけを手に部屋を出て行った。 その前日、僕はいつも週初めにしているようにアキの財布に一万円を入れておいた。 アキは無名のイラストレーターだけど収入は決してゼロではない。 しかし稼いだ分は画材や画集で消えて、いつでも「いま、お金ないし」が口癖だった。 毎週一万円は大卒二年目のサラリーマンの僕にとって重い金額だ。 ほかにも二人分の食費や水道光熱費の負担もあるのだし。 ともかくアキが無一文で出て行ったわけではないことに僕は安堵した。 そんな僕は別れを選ぶべきではなかったのかもしれない。 なるべく早めに荷物を送ることを約束して僕は電話を切った。 ちょうど歩行者用の信号が点滅を始めたところで、僕は急いで横断歩道を渡った。 ——アパートに着くまで「託児」されたことに気づかなかった。 ------------------------------------------------------------------------------------------------ 「…レフー?」 テーブルの上で広げたコンビニの買い物袋。 その中、お惣菜のパックの上に、ちょこんと蛆実装が乗っかっていた。 少しばかり漏らした緑色の軟便がパックを覆うラップを汚している。 きょろきょろと辺りを見回している蛆実装は、どうして自分がこの場にいるのかわからない様子。 僕にだってわからない。 野良実装に託児されるような隙をどうして作ってしまったのか。 ……まあ、アキからの電話に気をとられていたからだけど。 「…レフ?」 ようやく僕の存在に気づいたらしく、蛆実装は顔を上げた。 「…レフー♪」 にっこりと親しげな笑みを浮かべると、ころりと仰向けに転がって、短い尻尾と手足をピコピコと振る。 「プニフー♪ プニフー♪ プニフー♪ プニフー♪」 「……はあっ」 僕は、ため息をついた。どうすればいいんだ託児なんて? 窓から外に放り出す? トイレに流してしまう? でも、あとから親が押しかけて来るんだよな? どうやって追い払う? 困った僕は学生時代からの友人のトシに電話をかけた。 彼は先月結婚するまでは実家暮らしで実装石を飼っていた。僕の周囲では一番、実装石に詳しい筈の人間だ。 僕も何度かトシの家に遊びに行って彼の飼い実装に会ったことがある。 行儀がよくて利口なヤツで感心したけど、躾けはトシが自分で施したという。 彼が実家を出てからも実装石は言いつけを守って行儀よく振る舞い、家族に可愛がられているのだとか。 「——はあっ? 蛆を託児された? オマエ……」 アハハハと、トシは電話の向こうで声を上げて笑った。 「そんなの、つまんで窓から投げ捨てるか便所に流しちまえ」 「でも、あとから親が押しかけて来るんだろ? 仔の匂いをたどって……」 「二、三発、蹴飛ばしてやれば逃げていくよ」 「やだよ。前に自転車で成体の野良実装にぶつかったことがあるけど、あのサイズだと感触が生々しくて」 「ま、確かにキモいわな。コロリかシビレのスプレーを吹きかけるにしても後始末がメンドいし」 「スプレー自体、用意してないよ」 「マジかよ? 都会暮らしの必需品じゃねーの? 野良実装だらけだろ、東京なんて」 「確かに地元より全然多いけど、託児されるほどのドジ踏んだのは初めてだよ」 地方の街に生まれて地元の大学を卒業した僕は、地元企業に就職してそのまま地元で生活する筈だった。 ところが研修期間が終わって配属された先は東京営業所。 思わぬかたちで都会暮らしを経験することになったのである。 はあっと僕は、ため息をついて、 「……マジで知恵を貸してくれよ頼むから、隙を作った原因からしてヘコんでるんだ」 「そうだなあ……」 クックックッと、人の悪いトシは笑って、 「親が押しかけて来る前だったら、いますぐ蛆を連れて家を出て、適当な公園に捨ててくればいいんじゃね?」 そうすれば親実装は僕のアパートではなく公園へ向かう筈だからとトシは教えてくれた。 当然といえば当然のような解決策。僕はトシに礼を言って電話を切った。 ------------------------------------------------------------------------------------------------ ゴミ袋にするつもりでとっておいた空のコンビニ袋を出してきた。 「…プニフー♪ プニフー♪ プニフー♪ プニフー♪」 お惣菜のパックの上でご機嫌に鳴き続ける蛆実装をつまみ上げようと手を伸ばす。 「プニフープニフープニフー♪ プニフープニフープニフー♪」 人間の指が近づくのを見て蛆実装が眼を輝かせ、さらに激しくピコピコピコピコと尻尾を振ってみせた。 プニプニしてもらえるとでも思っているのか。おあいにくさま。 つまんだ蛆実装を袋に放り込んだ。 「…レピャッ!?」 悲鳴が聞こえたけど気にしないでおく。この程度で死にはしないだろう。 蛆一匹だけを入れたコンビニ袋を提げてアパートの部屋を出た。 向かう先は近所の児童公園。 砂場と滑り台があるだけの小さなところで水場もないから野良実装は住み着いていない。 蛆実装を放しても、親が捜しに来る前に同属に喰われることはないだろう。 たぶん。 途中、バス通りを渡る横断歩道に差しかかる。 歩行者用の信号は赤。青に変わるのを待つ間、袋の中を覗いてみる。 「…レェェェ…」 ちゃんと生きていた。自分で出した糞にまみれて、みじめたらしく涙ぐんでいるけど。 芋虫と変わらないサイズのくせに一丁前に喜怒哀楽の感情を備えている。 そんなイキモノを死なせてしまったのでは明日の寝覚めが悪かろう。 「…デェッ!?」 声が聞こえて、僕は顔を上げた。 通りの向こう側に野良らしい成体の実装石がいた。禿裸の仔実装を一匹、連れている。 「…デスッ! デスデスデスッ!」 こちらに向かって何やら訴えるように吠えてくる。 「キミが蛆実装を託児した親か?」 僕は呼びかけた。 「そこで待ってて。いま蛆を返してやるから」 「…デスッ! デスッ!」 だが、親実装は僕の言葉を聞いていなかった。 人間の言葉が通じなかったのか、理解できたとしても耳を貸す気がなかったのかは、わからない。 まだ赤信号なのに親実装は車道に出て来た。慌てたように禿裸の仔実装も、そのあとを追う。 「…デスデスデスゥッ!」「…テチィィィッ!」 「……危ないぞッ! 戻れッ!」 僕は叫んだけど無駄だった。 ちょうど走って来たトラックが、けたたましくクラクションを鳴らした。 「…デッ!?」「…テッ…?」 親仔が振り向いた次の瞬間——僕の眼の前をトラックが横切っていった。 そして、トラックが走り去ったあとの路上には赤と緑の入り混じったシミができていた。 トラックはスピードを緩めなかった。 僕も車の免許を持っているからわかる。急ブレーキは事故の元。 走っている車の前を実装石が横切ってもブレーキは踏むなと教習所でも教えている。 だけど—— 「…レフー?」 コンビニ袋を覗いた僕の顔を、きょとんとした様子で蛆実装が見上げている。 「…レフー、レフー、レフー」 何やら訴えるように鳴いてみせる。 いまワタシのママとオネチャの声が聞こえた気がする。ママとオネチャはどこにいるの? そう言っているのだろうか。 僕は蛆実装を入れた袋を提げたまま、いま来た道を引き返した。 ------------------------------------------------------------------------------------------------ その親実装が、どうして蛆を託児したのかは、わからない。普通は仔実装を託児するものだろう。 ところが車に轢かれたときに連れていた仔は禿裸の一匹だけだった。 ほかの仔はどうしたのだろう? 全て託児に失敗して一匹だけ禿裸で帰って来た? だから家族の最後の希望として末娘の蛆を託児したのだろうか? もちろん、そんな野良実装一家の事情なんて僕の知ったことではない。 その筈だけど—— ------------------------------------------------------------------------------------------------ 「——で、その蛆を飼ってやろうってか?」 電話の向こうでトシは笑った。すっかり僕に呆れている様子。 言いわけがましく僕は説明した。 「眼の前で親に死なれて気分が悪いし、この上、独りぼっちの蛆を放り出せないだろ……?」 「勝手に押しつけられたんだろ。だいたい赤信号で道路を渡ると危ないことも理解してないなんてアホすぎる」 「飼うといっても住む場所とエサを提供してやるだけだよ」 ますます弁解っぽく僕は言った。 「自力で生きられるくらい大きくなったら公園に放す。いや、その前に蛆だし勝手に死ぬかもしれないし……」 「マジな話、やめとけ」 トシは言った。 「オマエの性格だ。すぐに情が移って可愛がり始めるだろうけど、野良実装なんてロクなもんじゃない」 「いや、可愛がる気なんて……正直、蛆実装なんて人面イモムシみたいで気味が悪いと思ってるし……」 「実装石は親の腹の中で、ある程度の胎教を受けて生まれてくる。でも野良の胎教は最悪だ」 ニンゲンは可愛いワタシたちにメロメロの奴隷デスゥ〜♪ と、トシは、よくテレビアニメに出てくる実装石の糞蟲個体の口真似をしてみせて、 「そんなクソ親の教えを真に受けて生まれるんだ。甘い顔をすれば、つけ上がる。恩を仇で返されるだけだぜ」 「でも……蛆実装だよ」 僕は反論した。 「ゴハンとウンチとプニプニしか頭にないって前にトシも言ったろ? 増長するほどの頭もないよ……たぶん」 「そこまで言うなら飼ってやればいい。まあ、蛆がアホの仔なのはオマエの言う通りだ」 苦笑気味にトシは言う。 「一つアドバイスしておくけど、エサは糞の消臭効果のあるヤツにしろ。蛆は一日中、糞を垂れるから」 「ああ、そうしておくよ……」 僕は答えて言った。 ------------------------------------------------------------------------------------------------ トシにも説明した通り、僕は蛆実装を飼うといっても可愛がる気は全くなかった。 住む場所とエサを提供するだけ。 あと糞の始末もしてやるけど、それ以外の愛護はナシ。もちろんプニプニもしてやらない。 だいたい人面イモムシだよ? 見れば見るほど気味が悪い。 前にアキと出かけたディズニーランドで買ったチョコクランチの空き缶を一つ、押入れから引っぱり出した。 彼女はチョコクランチが大好物で、友達がディズニーランドへ行くと聞くたび土産に頼んでいた。 もちろん僕と二人で出かけたときにも買った。支払いは僕がしたのだけど。 おかげで貯まった空き缶は十五個ほど。そのうち何かに使えるだろうとアキは押入れに突っ込んでいた。 ……これも画材と一緒に送ってやろうか? それはともかく。 蓋を開けた缶の底に適当なサイズにちぎった新聞紙を敷き詰めた。 そして閉店間際のスーパーに駆け込んで買った消臭タイプの実装フードを三粒ばかり入れてやる。 半ナマ状のそれは蛆実装に与える場合、水分補給の効果も期待できるらしい。 蛆ちゃんが水皿で溺れることもなく安心だと袋の裏の説明書きに記されていた。 「…レフ?」 蛆実装をコンビニ袋からつまみ出すと、僕の顔を見てにっこり笑い、ピコピコと尻尾を振ってみせた。 「レフー♪ レフー♪ レフー♪」 何がそんなに嬉しいのだか。ついさっき親が死んだことを知らないとはいえ。 わざわざ教えるつもりもないけど。人間の言葉が通じるかも怪しいし。 蛆を缶の中に入れてやった。 「…レフ…?」 きょとんとして周囲を見回す蛆実装。 しかし、すぐにエサを見つけて眼を輝かせた。 「レフーレフー♪ レフーレフー♪」 嬉しそうに鳴きながらエサに向かって、ひょこひょこ這っていく。はいはい、よかったね。 僕は蛆実装を入れた缶を、トイレに作りつけの棚の上に置くことにした。 消臭効果のあるエサを与えても糞の匂いは完全には消えないだろう。 愛護目的の飼い主なら我慢できるだろうけど僕はそうではない。 でも、トイレなら芳香剤も置いてあるし多少マシなんじゃないかな。 棚の上なら気味の悪い人面イモムシ姿も普段は眼に入れなくて済むし。 「…レフレフ♪ レフレフ♪」 トイレに入るたび、頭上の棚から間の抜けた鳴き声が聞こえることになるのは我慢しよう。 エサを貪ることに夢中らしい蛆実装をそのままにして、僕はトイレを出た。 ------------------------------------------------------------------------------------------------ それから三日ばかり、その状態で蛆実装を飼い続けた。 毎朝、トイレで用を足すついでに棚から缶を下ろし、糞で汚れた新聞紙を取り替えてエサを与えてやる。 新聞紙を替える間、蛆実装は洋式便器の蓋を締めた上に載せておく。 「…レフー?」 蛆実装は、きょろきょろ辺りを見回してから、ひょこひょこと適当な方向へ這い始める。 しかし歩みが遅いので、便器の蓋の端へたどり着いて床へ転落する前に新聞紙の交換は終わる。 缶へ戻すために蛆実装をつまみ上げると、ピコピコと尻尾を振りながら笑顔で鳴いてみせる。 「…プニフー♪ プニフー♪ プニフー♪ プニフー♪」 わかったわかった。でも、してやらないよプニプニなんて。 僕は無言のまま蛆実装を入れた缶を棚の上に戻す。 「プニフー♪ プニフー♪ プニフー♪ プニフー…♪」 蛆は鳴き続けているけど、そのままトイレを出て扉を閉める。 やはり蛆実装はアホなのだと実感させられる。 この飼い主さんが決してプニプニしてくれないことに、そろそろ気づくべきじゃないのか? ------------------------------------------------------------------------------------------------ アキに頼まれた荷物は電話をもらったその日のうちに用意して、コンビニから宅配便で発送した。 しかし無事に届いたという連絡やお礼はなかった。初めから期待してもいないけど。 その次の休日に、僕はすでに送った分以外の彼女の荷物を整理することにした。 チョコクランチの空き缶などのガラクタは捨てて、それ以外はいつでも実家へ送れるように準備しておく。 いや——すぐに送ってしまっても、いいのかもしれない。 いまさらアキに戻って来てほしいとは思っていないのだし。 どうしたわけか、彼女が実家へ送るように指示した荷物は画材だけで、着替えについては何も言わなかった。 普段着や下着は、そっくり僕の部屋に残していた。 もともと着るものに頓着しない性格で、手持ちの服はスーパーやユニクロで買った安物ばかりではあった。 だから、また買えばいいとか思っているのだろうか。ろくにお金もないくせに。 タンスの引き出しから下着やソックスを引っぱり出していると、その間から実装リンガルが出て来た。 箱に入ったままの新品で、アキがどこかの出版社の新年会でビンゴで当てたと言っていたことを思い出した。 「実装石なんて飼う気もないし、いらないよね。今度ヤフオクに出しちゃおっか?」 そう言ったことをアキ自身が忘れてタンスに突っ込んだままになっていたのだ。もちろん僕も忘れてた。 箱から取扱説明書を出して、ざっと眼を通す。 電池は充電式で、文字ログモードなら電源を入れたままでも四十八時間以上、使えるらしい。 さて、どうするか。 いつも僕の顔を見るたび、にこにこと笑って、決して味わわせてもらえないプニプニをせがむ蛆実装。 ゴハンの世話と糞の始末以外、僕は全く構ってやっていない。口すら利いてやらないのに。 いつも、いつでも、にこにこプニプニ。いったい頭の中はどうなってるんだ? 自分がニンゲンさんから全く相手にされていないことを理解できないほど徹底してアホなのか? 僕はリンガルを充電してみることにした。 ------------------------------------------------------------------------------------------------ 半日かけてアキの荷物を整理して、コンビニから宅配便で発送した。 東京へ出て来るときに使った引越し用のダンボール箱をいくつか畳んで残しておいたのが役に立った。 家に帰ってみるとリンガルの充電が終わっていた。 電源を入れてトイレの棚の上、蛆実装を入れた缶の隣に置く。 「…レフレフ♪ レフレフ♪」 缶の中からは蛆実装が独りで勝手に鳴いているのが聞こえてきた。 独りぼっちで放置され続けているのに、ずいぶん楽しそうな鳴き声ではないか。 ゴハンだけあれば幸せってことか? その本音もリンガルでわかるだろう。 リンガルは翌朝回収することにして、僕はトイレを出た。 ------------------------------------------------------------------------------------------------ そして翌朝、缶の底の新聞紙を交換してエサを補充するついでにリンガルを回収した。 朝食のトーストをかじりながら片手でリンガルを操作して、画面に表示されるログを追いかける。 「……なんだこりゃ?」 思わず口に出して僕はつぶやいた。 『おなか空いたレフ、ゴハン食べるレフ』 『おいしいレフ♪ おいしいレフ♪』 『わーいレフ♪ おなかいっぱいレフ♪ 蛆ちゃん幸せレフー♪』 『おなかいっぱいになったらウンチが出るレフ』 『うーんレフ、うーんレフ、うーん……いっぱい出たレフー♪』 『ウンチでお尻が汚れたレフ♪ キレイキレイしてほしいレフ♪』 『オネチャどこレフ? ママどこレフ?』 『……いないレフ?』 『レェェェ……ウンチのついたお尻はイヤイヤレフー……』 『でもあきらめるレフ、蛆チャは良い仔の蛆チャレフ、我がままは言わないレフ』 『食後にはプニプニがつきものレフ』 『プニフー♪ プニフー♪ プニプニしてレフー♪』 『……誰もいないレフ?』 『いつもゴハンをくれるニンゲンさんもいないレフ?』 『レェェェ……誰かプニプニしてレフー……』 『仕方ないレフ、我がままはダメなのレフ、ひとりでプニプニごっこするレフ』 『プニフー♪ プニフー♪ プニプニ気持ちいいレフー♪』 『……やっぱり気持ちよくないレフ、疲れたレフ、蛆ちゃんおネムレフ』 『おやすみなさいレフー♪』 『レフー♪ レフー♪ すやすやレフー……』 『……朝レフ? 明るいレフ♪』 『そろそろニンゲンさんがゴハン持ってきてくれるレフ♪』 『おいしいゴハンを用意してくれる優しいニンゲンさんレフ♪ ママが言ってたアイゴ派に違いないレフ♪』 『お願いしたらきっとプニプニもしてくれるレフ♪』 『きのうはしてくれなかった気がするレフ……でも、きょうはわからないレフ♪』 『良い仔の実装石はニンゲンさんに可愛がってもらえるレフ♪ ママが言ってたレフ♪』 『蛆ちゃんはプニプニしてもらえるように良い仔でお願いするレフ♪』 『プニフー♪ プニフー♪ プニフー♪』 「……はあああっ」 僕は、大きくため息をついた。 「……いい加減に理解しろよ、オマエ……」 蛆実装の底抜けの脳天気さが腹立たしかった。 毎日お願いし続ければ、いつかは人間さんがプニプニしてくれる。頑ななまでに、そう信じ込んでいる。 どこまでお人よし……いや、お蛆よしなんだ? ここまでアホなら幸せだろう。にこにこといつでも笑っていられるわけである。 僕は食べかけのパンを皿に置き、リンガルを手にしてトイレへ戻った。 棚から缶を下ろし、便器の蓋の上に置いて蛆実装を見下ろす。 蛆実装も僕に気づくと、食事を中断して顔を上げ、 「…レフー♪」 にっこり笑って嬉しそうに鳴いた。 リンガルのログを確かめると、 『ニンゲンさん、ゴハンおいしいレフ♪ ありがとうレフ♪』 僕は「……はあっ」と再び大きくため息をついて、首を振り、蛆実装に問いかけた。 「……ひとりでプニプニごっこって、どうやるの?」 「…レフ?」 きょとんとした様子の蛆実装は、すぐにまた笑顔になると、ころりと仰向けに転がった。 「プニフー♪ プニフー♪ プニフー♪」 リンガルのログを見てみると、 『プニプニされてるつもりでプニプニするレフ♪』 と、記されている。 蛆実装は腹筋のトレーニングをするみたいに小さい身体をピコピコと前屈させた。 「プニフー♪ プニフー♪ プニフー…♪」 なるほど、プニプニと腹を押されれば、身体はそのような動きになるだろう。 しかし蛆の儚い体力で腹筋運動など長続きするわけがない。すぐに、ぱたっと身体を伸ばし、 『疲れたレフー♪ ひとりプニプニしたレフー♪』 そう言って、にっこりしてみせた。 「…………」 僕は蛆実装の身体に手を伸ばした。 「…レフ?」 不思議そうな顔をする蛆実装の腹に人差し指で触れ、プニプニと軽く押してやる。 「…プニフー!?」 蛆実装は驚いたように眼を丸くして——でも、すぐにそれを受け入れて、うっとり心地よさげに鳴きだした。 「プニフー♪ プニフー♪ プニフー♪」 リンガルのログを見て、僕は苦笑する。 『わーいレフ♪ ニンゲンさんにプニプニしてもらえたレフー♪ 蛆チャ幸せレフー♪』 たったこれだけのことで大喜びできるとは、なんて安上がりな生き物なのか。 「プニフー♪ プニフー♪ プニフー…♪」 ぴゅるるっと、蛆の下腹部——総排泄口から軟便が噴き出した。 「……わっ?」 びっくりした僕は指を引っ込める。 「…レフッ?」 蛆は、きょとんとした顔をしたが、すぐにまたにっこり笑って、 『おなかにたまってたウンチすっきりレフー♪ ニンゲンさんのプニプニ効果レフー♪』 「そうか……そりゃよかった」 僕は息を止めて顔をしかめつつ苦笑いだ。 消臭タイプのエサを与えている筈なのに、野良時代からの宿便が出たのだろうか。結構ひどい匂いだ。 『プニプニ気持ちよかったレフー♪ ニンゲンさんありがとうレフー♪』 そう言うと蛆実装は、ころりとうつ伏せの体勢に戻った。 下腹が糞にまみれたままなので替えたばかりの新聞が汚れてしまう。相手は蛆だし、仕方ないけど。 蛆実装は僕の顔を見上げると、笑顔のままで言った。 『蛆チャ、ニンゲンさんにお願いがあるレフ♪』 「お願い? ……どんな?」 僕は少しばかり身構えて訊き返す。 トシの忠告を思い出していた。野良実装は甘い顔をすれば、つけ上がる。傲慢な糞蟲になる。 ところが、この蛆実装の「お願い」は拍子抜けするようなことだった。 『ニンゲンさんはいつも蛆チャにおいしいゴハンをくれるレフ♪ 優しいレフ♪』 『いまプニプニもしてくれたレフ♪ ママが言ってたアイゴ派のニンゲンさんに違いないと思ったレフ♪』 『だからお願いしたいレフ♪ 怒らないで聞いてくださいレフ♪』 『蛆チャをニンゲンさんの飼い蛆チャにしてほしいレフ♪ 蛆チャを飼ってくださいレフ♪』 僕はリンガルのログに並ぶ蛆実装の台詞を眺めて、ぽかんと口を開け—— それから蛆実装の、にこにこ笑顔を見た。 ……ぷっ、と、吹き出した。 「レフー…?」 笑顔で僕の返事を待つ蛆実装の頭に人差し指を伸ばして、撫でてやる。 「蛆ちゃんは、もう僕の飼い蛆ちゃんだよ」 「…レフッ?」 蛆実装は、とろけそうな笑顔になると、ピコピコピコピコと大きく尻尾を振って喜んだ。 『わーいレフ♪ 蛆チャは飼い蛆チャレフー♪ ご主人サンこれからよろしくお願いしますレフー♪』 「ああ、よろしく……」 僕は苦笑いで頷いた。 ------------------------------------------------------------------------------------------------ 蛆実装の居場所をリビングの出窓の前に替えた。 レースのカーテンをしてあるので陽が当たりすぎることはない。 『明るい場所にお引越レフー♪ 嬉しいレフー♪』 いままでの扱いが悪すぎただけなのに、蛆実装が素直に喜ぶことに苦笑させられる。 さらに、会社帰りにガラスの金魚鉢を買ってきてチョコクランチの缶から移した。 相変わらず底に敷くのが千切った新聞紙になるのは予算の都合で仕方がない。 ペットのトイレ用の砂を敷くほうが見栄えはいいけど、糞を垂れ流しの蛆が相手では毎日、砂を総入れ替え。 そこまでの経費はかけられない。 食事面の待遇も改善した。 といっても、いままでのフードはそのままで、別途おやつに金平糖を毎日一粒ずつ与えることにした。 さほど高価なものでもないし、飼い実装として許される範囲の贅沢だろう。 『アマアマのコンペイトウおいしいレフ♪ 蛆チャとっても幸せレフ♪ ご主人サン本当にありがとうレフ♪』 レロレロと一生懸命に金平糖を舐めながら、レフレフと僕への感謝を口にする蛆実装。 本当に安上がりな生き物だなあと、僕は苦笑いするほかない。 トシからメールで蛆実装の様子を訊ねてきた。 迂闊にも僕は「元気だよ。いま金平糖をむさぼるように舐めてる」と返信してしまった。 すぐにトシから電話がかかってきた。 「——おまえ、金平糖までくれてやって……やっぱり情が移ったのか?」 「情というか……その、アホみたいに素直なヤツなんだよ、この蛆は」 自分でも言いわけじみていると思いながら答える僕に、トシは呆れたように、 「アホだから素直ともいえるんだろうけどな、余計な知恵をつけないだけ」 「にこにこしながらご主人サンありがとうとか言ってくるんだぜ、あまり酷い扱いはできないよ」 「ご主人サンありがとう……って、リンガルまで買っちまったのか??」 呆れ返った様子のトシに、慌てて僕は弁解がましく、 「前に彼女——アキがもらって来たヤツだよ、出版社のパーティーの景品とかで」 「ま、いいけどな。いちおう訊くけど愛護専用モデルじゃねーだろ?」 「違うよ、普通のだよ。取説には愛護モードにもできると書いてあったけど胡散臭いから設定してない」 「それが懸命だ。愛護モードなんて実装石を甘やかすだけで躾けにもならないし……」 もっとも蛆に躾けは関係ないけどなアホすぎるから、と、トシは言い添えて、 「……ま、彼女と別れた心の隙間を埋めるには、ペットを飼うのもいいことだろ、世間一般的には」 「べつに……そういうつもりはなかったけど」 僕が気まずい気分になって言うと、トシは笑って、 「蛆実装ごときで埋まる心の隙間じゃ、彼女が気の毒だけどな、そんな程度の存在なのかって」 「勘弁してくれよ……」 元カノの話でからかうのは本当にご勘弁である。結構な痛手だったのだから。 アハハハと、非道なトシは声を上げて笑い、 「じゃあな、愛する蛆ちゃんによろしく♪」 皮肉たっぷりに言った。そして電話が切れた。 ------------------------------------------------------------------------------------------------ アキの服を発送した二日後、彼女の母親から電話がかかってきた。荷物が届いたという報告とお礼だった。 以前に一度、僕はアキの実家を訪ねたことがあって母親とは面識があった。 「——わざわざすみません、アキったら、あんな子だから」 母親の口ぶりからすると僕たちが別れたことは知っているらしい。 しかし、その原因が娘の二度目の浮気にあることまでは知らないようだ。 「いままで本当によくしてもらって、あんな子でも大事にしてくれて」 たぶん——ただの喧嘩としか思っていないのだろう。 やり直しが可能なレベルの。 「アキにも言って、お礼の電話をさせます。そうさせてください、あの……お節介かも知れませんが」 「いえ、気になさらないでください。アキさんとは、ときどき電話で話してますし……」 別れても友達としての関係は続いているものと、彼女の母親には思わせておくことにした。 実際にはアキから電話がかかってきたのは画材を送るように頼まれた一度きりだけど。 繰り返して礼を言う母親に、失礼にならない程度に適当に相槌を打つ。 ようやく電話を終わらせて僕は、深くため息をついた。 恋人の親になんて会わないほうがいいと、しみじみと思った。 迂闊に面識を作ると恋人と別れたあとが心苦しい。相手が「いい人」だったりしたときは、なおのこと。 ------------------------------------------------------------------------------------------------ 朝—— 金魚鉢の中の蛆実装の様子がおかしかった。 いつもなら僕の姿が眼に入るなり、ピコピコと尻尾を振って、 「レフー♪ レフー♪(ご主人サンおはようレフー♪)」 元気よく挨拶してくるのだ。 ところが、その日は金魚鉢の隅で、うずくまるような格好のまま顔も伏せ気味に、 「…レフー…」 力なく、うめくような声を上げるばかりだった。 僕は驚き、リンガルのスイッチを入れて訊ねた。 「どうしたんだい、蛆ちゃん?」 『……蛆チャ、おムネがチクチクするレフ、前のあんよとあんよの間はムネって言うレフ……?』 ますます僕は驚いた。怪我? 病気? 金魚鉢から蛆実装を出して、テーブルの上に仰向けに寝かせてやる。 「…プニフー…?」 ぐったりと力が抜けている蛆実装。リンガルの表示は、 『プニプニレフ? でもおムネがチクチクで気持ちよくなれないと思うレフ……』 プニプニを求める気力さえ失っているのか。 だが、見たところ身体に何か刺さっていたり、怪我をしている様子はない。ならば内臓の病気か? 僕はトシに電話した。 出勤前である。迷惑になるのはわかっている。 でも僕にとっては必要な電話で、トシはそれを拒むほど薄情なヤツでもない筈だ。 彼だって実装石を飼っていたことがあるのだから。 電話に出たトシに、いまの蛆実装の様子を伝えると、彼は「うーむ……」と深く唸った。 「託児で飼い始めた蛆だもんな。そいつが生まれて何ヶ月で、どんな環境で育ってきたか、わからんよな……」 「……どういうこと?」 訊き返す僕に、トシは低く抑えた声で、 「寿命かもしれないってこと」 「……はあっ?」 僕は声を上ずらせた。 「寿命って、だって蛆実装だろ!?」 「蛆だからだよ。おまえ、姿かたちで勘違いしてるだろうけど、蛆実装は実装石の赤ん坊ってわけじゃない」 トシは言う。 「繭を作って親指や仔実装に変化することもあるけど、基本的には生まれてから死ぬまで蛆の姿だ」 「でも……だってさ」 「そもそも蛆実装は未熟児……というより一種の畸形なんだ。胎児の姿のまま親の腹から生まれ出た」 「いや……」 「寿命が短いのも生まれつきだ。体質が虚弱で、偽石も脆い。たまに幸せ回路が高性能で頑丈なヤツもいるが」 「そんな……そんなこと訊いてるんじゃないんだよっ!!」 僕は声を荒らげた。 すぐに我に返って、トシに謝った。 「……ごめん、怒鳴ったり……」 「いや」 トシは声の調子を変えず、 「俺も経験あるし。実装石じゃなくて犬だったけど。小学生の頃に初めて飼ったヤツが実は生まれつき病弱で」 「そっか……」 僕は頷く。トシにもペットとの別れの経験はあるということだ。 でも……僕が飼っている蛆実装は、まだ生きている。 トシが言った。 「おまえの蛆だけど、獣医に連れて行く手はある。でも正直、実装石は嫌われてるし、蛆は余計に敬遠される」 「医者が実装石に冷淡な話は前に聞いたよ。蛆や親指は儚すぎるし、成体や仔実装は平気で仮病を使う」 僕が言うと、トシは電話の向こうで苦笑したようだ。 「本当に悪いのは飼い主だけど。野良は生まれつき糞蟲もいるけど、飼い実装が糞蟲になるのは飼い主が悪い」 「医者に連れて行くよ」 僕は言った。 「会社は休ませてもらって、タウンページで近所の獣医に片っ端から電話して、蛆を診てくれるか訊いてみる」 「一つ言わせてもらうけど……期待はするな」 「ああ……そうしておく」 「それと、もう一つ。おまえ……ホント、たいしたお人よしだ」 「悪かったな」 僕が少しばかり本気で怒って言うと、トシは笑って、 「悪くねーよ。少なくとも俺は嫌いじゃねーわ」 ------------------------------------------------------------------------------------------------ 蛆実装を診察してくれる獣医は五軒目で見つかった。 その前に電話した獣医院は、はっきり断られたところが一軒。 あとの三軒も患者が蛆実装と伝えたときの反応が悪すぎて、こちらから遠慮させてもらった。 チョコクランチの缶の底に脱脂綿を敷き詰めて、蛆実装を金魚鉢から移し替える。 脱脂綿はアキの実家に送り忘れていた化粧道具の中から拝借した。 「蛆ちゃん……大丈夫かい? いまお医者さんに連れて行くからね」 「…レフー…」 蛆は、ぐったりとうずくまったままだ。 缶の蓋代わりにラップを張って、何ヶ所か空気穴を開けてやる。 それを肩掛けカバンに(横倒しにしないよう)慎重に入れて、運ぶことにする。 獣医院は自転車でも行ける場所だが、蛆実装への負担を考えてバスと電車を乗り継いで出かけた。 ときどきカバンの蓋を開け、中の蛆の様子を見るが、ぐったりしたまま変化はない。 悪化もしていないのだと自分を納得させる。 獣医院に着いて受付を済ます。朝イチだったので、すぐに診察してもらえた。 若い獣医は蛆実装を診察台に寝かせて偽石サーチャーをかざした。 パソコンに連動しており、スキャンされた偽石の様子がディスプレイに表示された。 とはいえ映像はレントゲン写真に似ており、素人には患者の偽石がどういう状態なのか判断がつかない。 「偽石の破断が進行しています。正直なところ……きょう明日が山場でしょう」 先にトシと話していなければ、獣医の言葉に僕は冷静でいられなかったろう。 「でも……きのうまでは元気だったんですが……」 僕が言うと、獣医は首を振り、 「実装石ですからね。病気や怪我への自覚症状は鈍いんです、彼らは」 「寿命……ということですか、うちの蛆の場合は?」 「それは判断が難しいところです。精神的や身体的なストレスの蓄積からも偽石の損傷は起こりますから」 その全てが飼い主の責任とは限らない、特に生まれつき脆弱な蛆実装の場合は—— 獣医はそう言い添えたが、あまり慰めにならなかった。 ストレスというならば、蛆実装が託児された当初、独りぼっちで放置したこともストレスになったろう。 もちろん、そもそも託児で押しつけられた蛆だ。僕がどのように扱おうが責任はない。 でも、そうして割り切れないのが僕というお人よしなのだ。 獣医は薬剤のシロップを処方してくれたが、その効果は蛆実装の肉体的な苦痛を軽減するのみ。 回復は期待しないでほしいと獣医は言った。彼の真摯な態度に僕は感謝した。 ------------------------------------------------------------------------------------------------ 家に帰り着き、蛆実装をテーブルの上に寝かせて、獣医院でもらったスポイトを使い、シロップを飲ませる。 「…レフー…♪」 蛆実装が、きょう初めての笑顔を見せた。弱々しかったけど。 リンガルのログに眼をやる。 『アマアマレフ……、おいしいレフ……♪』 僕は蛆実装に訊ねた。 「蛆ちゃん……プニプニするかい?」 患者が要求するならプニプニしてやってもいいと獣医は言った。 この蛆実装は胸部に偽石がある個体のため、本来ならプニプニは破断の進行している偽石への負担になる。 しかしプニプニを受けることで幸せ回路が刺激され、精神面と肉体面の苦痛は差引きで軽減されるという。 『せっかくレフけど遠慮しますレフ、ご主人サンのお気持ちだけ頂きますレフ……』 蛆実装は答えて、弱々しく笑う。 僕は蛆を窓際の金魚鉢の中へ戻した。日当たりのいいそこが蛆実装のお気に入りになっていた。 『お日サマあたたかレフ……蛆チャ日なたぼっこは好きレフ……ゴハンとプニプニの次に好きレフ……』 「公園ではママやお姉ちゃんと一緒に日なたぼっこしてたのかい?」 僕が訊ねると、のろのろと蛆実装は首を振り、 『公園ではおウチの外に出してもらえなかったレフ、公園はコワイコワイがいっぱいレフ……』 「そっか……」 同属喰いの野良実装、カラス、野良猫、虐待派、悪意のないまま実装石をオモチャ扱いする子供たち…… 公園で暮らす実装石には——特に非力な仔実装や親指、蛆には、毎日の生活が危険で満ちている。 そのことに僕は気づくべきだったろう。不用意な質問だった。 『ご主人サンのおウチで暮らせて幸せレフ……コワイコワイがいないレフ……ゴハンは毎日あるレフ……』 「……蛆ちゃん」 僕は言った。 「蛆ちゃんは僕の飼い実装だ。だから、飼い実装らしい名前をつけてあげるよ」 「…レフ…?」 蛆実装は、のろのろと顔を上げると、にっこりとして、 『蛆チャは蛆チャレフ、ちゃんとご主人サンの飼い蛆チャレフ……』 「でも蛆ちゃんというのは、蛆ちゃんみんなの呼び名だろう? そうじゃなくてキミだけの名前だ」 『でも蛆チャは蛆チャレフ……ご主人サンの飼い蛆チャレフ……蛆チャはご主人サンに飼われて幸せレフ……』 「……わかったよ」 僕は苦笑した。 「カバンに押し込まれて僕が歩くたびに揺れて、疲れたろう? 少し眠って休んだらいい」 『はいレフ……アマアマを飲んだら眠くなったレフ……おやすみなさいレフ……』 蛆実装は眠りに落ちた。寝息が穏やかなことに僕は安堵する。 後回しにしていた朝食を済ませ、洗濯や掃除など家事を済ませる。 そのあとは窓辺に椅子を引っぱってきて、読書をしながら蛆実装の様子を見守ることにした。 蛆実装は夕方まで眼を覚ましたり再び眠ったりの繰り返しで、状態は良くも悪くもならない様子だった。 夜になって、蛆実装にもう一度、獣医で処方されたシロップを飲ませる。 眠り込んだ蛆実装の入った金魚鉢を、僕のベッドの脇の床の上に移動させた。 ベッドのそばで金魚鉢を置ける場所が床の上しかなかった。 電気を消して僕も眠ることにする。夜中にトイレに起きるとき、金魚鉢を蹴飛ばさないように気をつけよう。 ------------------------------------------------------------------------------------------------ 「——ご主人サン」 僕の前に立っている女の子が言った。 小柄で——というより、そもそも子供だった。顔立ちにもあどけなさが残り、せいぜい十四、五歳。 その割に随分と部分的な発育は良好だった。 白いワンピースを纏った身体つきは華奢なのに、本当に一部分だけ眼を惹きつけるほど育っている。 僕が知っている誰かに似ていたけど、でも、その筈はなかった。 彼女は黒髪で、いま僕の前にいる女の子の髪は明るい茶色——亜麻色というところだった。 彼女の瞳は茶色で、前にいる女の子は赤と緑の左右色違いの瞳。 彼女は動き回るのに楽だからという理由でスカートは滅多に穿かないけど、前にいる女の子はワンピース姿。 前にいる女の子は見ての通りの子供だけど、僕の知っている彼女は中身は子供だとしても外見は年齢相応だ。 僕より二つ上の二十六、いや——見た目はもっと若い印象かな、かえって化粧っ気がないおかげで。 「ご主人サンに飼ってもらえたおかげで蛆チャ、繭を作って成長できたレフ」 女の子は言った。 ああ……と、僕は頷く。この女の子は僕の飼い蛆実装だったのか。 「ご主人サンのおかげレフ、飼い蛆チャにしてもらえて蛆チャは幸せだったレフ」 「これからも幸せな飼い実装だよ……」 僕が言うと、女の子は微笑みながら首を振る。 「蛆チャは、もう行かなくちゃレフ、本当に感謝してますレフ、でも、どうお礼していいかわからないレフ」 女の子は、すっと僕に近づいて来た。 見下ろすようだった相手の顔が、いつの間にか僕の眼の前にあった。 ヒールに高さのあるパンプスを履いたときの、僕の知っている彼女と同じくらい。 実際、女の子はパンプスを履いていた。だとすれば、いまの背丈は彼女——アキと同じくらい。 そんな筈はないのに、でもそうだった。 女の子の左右の手が僕の左右の肘にかかる。 抱きつくのではなく、でも確実に身体を近づけるため——アキがよくしていたのと同じように。 豊かに育った部分——スレンダーなくせして豊満なアキとそっくりな胸が、僕の胸に触れた。 女の子の髪からほのかに漂うシャンプーの香りもアキが使っていたものと同じだった。 「……アキ」 ぎりぎりまで顔が近づいたところで、思わず口に出すと、女の子は少し身体を離して微笑んだ。 「その名前は蛆チャの名前じゃないレフ」 「もちろん、僕だってキミにそんな名前をつけるつもりはなかった」 僕は苦笑して言う。 「僕がつけようとしたのは……」 「蛆チャは蛆チャレフ」 女の子は笑顔のまま、きっぱりと言った。 「でも、もう決めたお名前があるなら、頂いておきますレフ」 「ああ……僕がつけようとした、キミの名前は——」 ------------------------------------------------------------------------------------------------ 眼が覚めた。カーテンの隙間から差し込む外の日差しが明るい。 身体を起こし、ベッドを降りた。金魚鉢の中の蛆実装は、まだ眠っているように動かない。 しゃがみ込んで金魚鉢を覗き込む。蛆実装のわずかに開いた眼は白濁していた。 逝ったのか—— 僕は指先で蛆実装の顔を撫で、眼を閉じてやった。 蛆実装は本当に幸せだったのだろうか。夢の中で女の子が言っていたように……? ------------------------------------------------------------------------------------------------ 蛆実装の亡骸はティッシュに包んで、アパートの敷地の隅に埋めた。 それなりに深く埋めたので、敷地に入り込んだ野良実装が掘り返すことはないだろう。 眼が覚めた時間が早かったので、蛆実装を埋葬してからでも会社には充分に間に合った。 仕事を終えて帰宅すると、アパートの部屋の前でアキが膝を抱えて座り込んでいた。 「……どうしたの?」 ぎこちなく僕が訊ねると、アキは顔を上げて僕を見た。 「荷物……あたしの服が実家に届いたのを見て、ここにはもう居場所がないんだって悲しくなった」 「アキがそうさせたんだろう?」 「……そうだけど……」 アキは、じっと僕を見つめている。しかし何も言わない。 いったい何のつもりだ? くそっ、彼女はいつもそうだ。僕に選ばせる。 「で……きょうは何か用?」 「鍵」 アキは立ち上がり、ジーンズのポケットからアパートの合い鍵を引っぱり出した。 「返してなかったから」 「ああ……」 彼女は鍵を突き出しながら、また僕の顔を見つめている。くそっ。 僕はそれを受けとらないままで訊ねた。 「……ほかには?」 「何も……それだけ」 「わかった」 僕は鍵を受けとった。 「化粧道具を送るの忘れてた。持っていく?」 「必要なのは、また買った。でも、返してもらえるなら……」 そう言ったアキに、僕は頷いて、 「待ってて」 彼女に背を向け、ドアに鍵を差し込んで回そうとする。 「……あたし」 アキは言った。 「あたし、虹浦さんとはエッチしてない」 「…………」 僕はアキに向き直り、うつむいている彼女に訊き返す。 「……いまさら何を言ってるの?」 「ホテルまでは行った、それは本当、だって虹浦さんは次期編集長に決まって、あたしは仕事が欲しかった」 「それは聞いた」 「でもエッチはしてない、いろいろ怖くなって逃げ出した、でもホテルは行った、だからジュンからも逃げた」 「いまさら……」 僕は笑う。笑うしかない。 「いまさら、そんなこと言われてどうしろと?」 「虹浦さんの出版社の仕事がパーになって、ジュンと別れて、そしたらあたし、何も残ってなくて」 「だから?」 「だから実家に届いた荷物を見て、頼んだ仕事道具以外に頼んでない服とかあるのを見て、だから本当に……」 「本当に……何?」 「……あたしの居場所が、ここにはもうないのか確かめに来た」 アキはそう言って顔を上げた。潤んだ眼で僕をまっすぐに見た。 実装石でいうなら透明な涙かもしれない。 彼女のやることは全て行き当たりばったりで、その場しのぎの嘘を平気で口にする。 ふざけるな! そう怒鳴りつけてやりたい。 でも——その代わりに僕は、合い鍵をアキに差し出した。 「……これはアキが持っていていい」 そう、僕はどうしようもなくお人よしだ。 「入れよ」 僕は言って、アキのために部屋のドアを大きく開けてやった。 ------------------------------------------------------------------------------------------------ 【終わり】
1 Re: Name:匿名石 2018/08/14-21:30:22 No:00005555[申告] |
もし、実際に実装石がいる世界なら
人間は社会や人間関係を実装石に投影するだろうし これは社会SFとしてとってもよく作られた作品だと思う |
2 Re: Name:匿名石 2019/03/20-00:25:19 No:00005803[申告] |
アキは糞虫 |
3 Re: Name:匿名石 2024/02/07-23:56:42 No:00008692[申告] |
蛆実装はやはり仔実装で生まれてこれなかった未熟児設定のがいいな
この話にマッチする というかいまの出産直後に粘膜とると急成長する設定おかしすぎる なんでこうなったんだか |
4 Re: Name:管理人 ◆Q8ffyaYxEg 2024/02/09-05:04:42 No:00008694[申告] |
>res8692
感想に自身の好みや希望を混ぜることは問題ありませんが 他作品の設定の批判は設定の押し付けに他なりません あくまで自身の好みや希望の範囲で書くようにお願いします |