ちいさなギャングと実装石 「しまった…またやられた…」 とある蒸し暑いアパートの一室で、一人の青年が己の不注意を嘆いていた。 ついうっかり、菓子袋の口を開けたまま窓際のテーブルに放置してしまったのである。 その菓子が、ほんの少し目を離した隙に台無しにされていた。 犯人は、網戸を開けて侵入した実装石ではない。菓子には数え切れないほどの蟻が群がり、 あたかも黒い波のごとくざわめいていた。 この夏、F市中央部に位置する二児宇楽町は、外来種の蟻の大発生という事態に見舞われていた。 原因は、定かではない。確かなのは、既に彼らは町の全域に巣を張り巡らせているということと、 人家に侵入して食料をあさる、ということである。彼らは食料のあるところなら、たとえどこであろうと 姿を現すことを厭わない。町民たちは皆、この神出鬼没な存在に頭を悩ませていた。 そしてこの夏、ちいさなギャングの猛威に頭を悩ませるのは、もはや人間のみにはとどまらなかった。 「デェ…またやられたデス…」 臭気漂うゴミ捨て場の一角で、数匹の実装石たちが己の無力さを嘆いていた。 目の前には、タベモノのイッパイつまったゴミ袋。 しかしその内部では、すでに黒い波がうねりをあげていた。 ——いくら強力な顎を持つ蟻といえど、厚手のビニールでできたゴミ袋を食い破ることは容易ではないだろう。 では、どうやって彼らはゴミ袋へと侵入し、その中身を欲しいままにしたのであろうか。答えは簡単だ。 早朝のゴミ捨て場には、野良犬、野良猫、カラス、そして一部の働き者の実装石が集まってくる。 それぞれ欲する物は同じの彼らだが、お互いの事には干渉しあったりはしない。 めいめい良さそうなゴミ袋に目星をつけて、穴を開け、必要な物を取り出し、そして去っていくのである。 あとは、蟻たちが彼らの開けた穴からしめたとばかりに飛び込んで、残りをかっさらっていく、というわけだ。 当然後からデスデスとやかましく遅れてきた者たちは、何も手にすることが出来ない。 この夏、ゴミ捨て場は変わってしまった。ゴミ捨て場は、もはや万人の台所足りえない代物になってしまったのである。 ここで、ひとつの疑問が浮かび上がる。なぜ実装石たちは早起きしないのだろうか、ではない。 あの食い意地の張った実装石たちが、どうして蟻がたかったくらいで食べ物をあきらめてしまうのか、である。 この疑問を解決するため、少々彼女たちの様子を観察してみることにしよう。 ———蹂躙されゆくゴミ袋を前に、実装石たちはただ成り行きを見守ることしか出来ないでいた。 時は、刻一刻と過ぎてゆく。やわらかい朝の光が、乱暴な真夏の日差しへと変わる気配をひしひしと感じる。 ゴミ収集車がくるまで、あとどれくらい残されているだろうか。実装石たちは浮き足立った。 するとどうだろう、ぐずぐずとダンゴになった群れの中から、一匹の実装石が歩を進めたではないか。 目指すは、もちろんゴミ袋。その足取りは重いが、それゆえに力強くもみえる。 黒くうねるゴミ袋を眼前に見据えて、彼女は叫んだ。 「オウチで、コドモタチがまってるんデス…!ミンナ、とってもカシコクてイイコなんデス…! ゼッタイ…ゼッタイとってかえるんデシャァァアァアアア!!」 言うが早いか、彼女は袋の裂け目に両の手を突っ込んだ。穴を広げて、中身をかき出そうと必死にもがく。 無論、袋のあるじである蟻たちがこのような暴挙を黙って見過ごすはずもない。 蟻たちは彼女の腕伝いに進軍し、その全身を覆うように展開を始めていた。 「デッッジャアアァァアアアア!!!」 気合一閃、引き抜かれた彼女の手には、林檎のかけらが握られていた。 幸運か実力か、さらにスイカの皮とアイスの棒がこぼれ落ちる。 ただ、喜んでばかりはいられない。すでに彼女の体の大部分は蟻に覆われ、黒く染まっている。 むろん、彼らとてグンタイではない。黒い波が引いたら、あとに残るは骨ばかり——などということはさすがにないが、 全身を数百匹の蟻に覆われ、噛みつかれ、まさぐられる気分はいかばかりであろう。 「デギィィィィイ!デッ、デヒッ、デギャアァア!!」 彼女は死に物狂いで腕を振り回し、跳びはね、地面に体をこすりつけ、何度も自分を殴りつけた。 その様子は、端から見ればまさに狂い実装であるとしかいえない、鬼気迫るものであった。 しだいに薄れてゆく彼女の意識。それでも右手につかまえた林檎のかけらだけは離さなかったのは、 欲ゆえか、それとも愛ゆえであろうか。 ———彼女が全身を駆け巡る痛みに目を覚ましたとき、既に周りには誰もおらず、ゴミ袋の中身もあらかた消えかかっていた。 辺りを見回す。スイカの皮も、アイスの棒も、どこにも残されてはいなかった。 彼女は、じっと自分の右手を見つめた。 何度も何度も打ちつけたせいであろう。林檎のかけらはさらに小さくなり、いまや彼女の手の中にすっぽりと収まるほどだ。 彼女は、ゆっくりと立ち上がった。その姿は死闘後のそれである。 服は全身場所を問わず擦り切れ、覗いた肌からは血が滲んでいる。自慢の髪はほつれ、たわしのようである。 土ぼこりに汚れ緑と茶色にまみれたその色彩は、いやおうなしに「汚らしい野良」の立場をさらに強く誇示した。 「…かえるデスゥ。きょうはリンゴがとれたデスゥ。ホンのスコシしかないデスけど、ミンナでわけるデスゥ。 だってワタシタチはシアワセカゾクだからデスゥ。シアワセカゾクは、そういうモノデスゥ。」 彼女はそう呟くと、ふらふらとおぼつかない足取りで公園へと戻っていった。 こんもりとしたパンツが、地面に緑の大蛇を描く。 彼女とその家族がこの夏を越えることが出来るかどうかは、知れたことである。 ———・———・———・———・———・———・———・———・———・——— ティッシュ箱に蟻が住み着いた記念に。